シンフォニックレジェンズ
          
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ライファンは夢を見た。
風そよぐ広い草原を走っている夢を。
前をゆくのはクシュルカ王女とレアリーの二人。
二人とも小さな少女だった。
ライファンは、可愛らしく笑いながら楽しそうに走る二人の後を追いかけている。
空は青く、緑の草が風に揺れる。
静かな、平和な世界。

追いつこうと一生懸命走るライファンだが、どんなに走ってもいっこうに二人に近づくことができない。
「待って。待って」と叫びながら追いかけても、王女とレアリーは笑いながらこちらを振り返るだけだ。
やがて前をゆく二人が両側に少し離れた。
王女は右に。
レアリーは左に。
二人は「こっちへいらっしゃい」というように互いにライファンに手を振った。
ライファンはどっちへ行けばいいのか分からない。
もうすぐ日が暮れる。早くしなくては。
少しづつ、二人の姿が遠くなる。
王女の輝くプラチナの髪と、レアリーの黒髪が風に揺れ、左右に遠ざかってゆく。
二人に追いつけない。どっちにもゆけない。
ライファンはとうとう歩をゆるめた。
やがて二人は見えなくなり、長い影だけが草原に伸びていた。
夕日は急激に沈んでゆく。
辺りはあっと言う間に暗くなってゆく。
もう帰らなくてはならないのに。

風は冷たく吹きつけ、草原を覆う闇がライファンを包み込んでゆく。
焦りと悲しさがいっぱいに溢れてくる。
もう何も見えない。王女もレアリーも。
闇のなかで。一人残されたライファンは泣いた。
草原には誰も戻ってこなかった。
王女様もレアリーも、誰もいなくなった。
 
ライファンは一人でただ泣くだけだった。
  

彼は目を開いた。
太陽の日差しが室内に差し込んでいる。
頭のなかにゆっくりと現実の意識が戻ってくる。
飛び起きて、ライファンは愕然とした。
いつの間にか朝になっていた。
眠ってしまった。
椅子に座ったまま、彼は眠ってしまったのだ。
そして、
なんということだろう。
辺りの様子が一変していた。
豪華な部屋の装飾は跡形もなかった。
壁は崩れ、葦がこびりついた崩れかけた窓から、朝の光が室内を照らしている。
これは夢か。
ベッドを見る。
王女の姿はない。
それどころか、ベッドなどはない。それは単なる腐って崩れ落ちた木の残骸でしかなかった。
見ると、そこにあったテーブルも、部屋の扉も、ライファンが座っていた椅子すらも、ただの朽ちかけた木片になっていた。
「これはいったい、何が……」
まるで廃墟だった。
床には石の間から雑草が生え、燃えていたはずの暖炉には古びた炭の破片が転がるのみだった。
「……!クシュルカ様」
しばらくの間変わり果てた室内の様子に呆然としていたが、ライファンは我に返ると、剣を握りしめて部屋の外へ飛び出していた。

城内はどこもひどい有り様だった。
廊下もところどころ壁が崩れ、ひびの入った石造りの床には苔がこびりついている。
まさか一夜にして豪勢で手入れの行き届いた城の様子が、まるで百年前の廃墟のように変わってしまうとは。
「王女様。……クシュルカ様!」
叫んでみても誰も答える者はいない。
静まり返った城のなかで、響くのは彼の声のみだった。
もはや人の気配などはまったく感じられない。
壊れかけた扉を開け、隣の部屋を覗き込んだライファンは身を固くして立ちすくんだ。
「な……」
暗がりのベッドの上に転がっていたのは……
「なんだ……これは」
それは人の形をした石の固まりだった。
まるで精巧に作られた騎士の石像だ。
恐る恐る近寄ってその顔を覗き込むと、それはライファンと共に王女の護衛としてやってきた騎士の一人だった。
「ああ……」
騎士は目を閉じたまま眠っている間にそのまま石像にされたとでもいうかのように、両手を投げ出した仰向けの姿勢で固まっていた。
「こんな……ことが……」
ためらいがちにライファンは石像に触れ、揺り動かそうとした。
しかしそこには人の暖かみはなく、重くひんやりとした石そのものでしかなかった。
ライファンは部屋を出た。
そして片端から他の部屋を確かめはじめた。
そして同じようにベッドの上で石像と化している、他の五人の騎士をそれぞれの部屋で発見した。
どれもぴくりとも動かず、目を閉じた冷たい石の像だった。
騎士たちが一夜にして石像になってしまった。
「いったい……なにがあったんだ……」
ライファンは混乱する気持ちを抑え、城内を走り、王女の姿を探した。
自分の部屋に一緒にいたはずのクシュルカ王女はどこへ行ってしまったのか。
まさか王女様までがあの騎士たちのように石像になってしまっているのか。
(そんなはずはない……)
ライファンは廊下を走り、階段を駆け降りながら何度も首を振った。
(なんて僕はまぬけなんだ!)
同じ部屋にいながら、しかも王女を守るため寝ずの番をしていた自分が、うっかり眠ってしまうとは。
そして朝になったら皆が石になっていましたなどと、誰が信じよう。
こんな馬鹿なことがあるはずがない。
ライファンはこれも夢で、本当は自分はまだ目覚めてはいないのではないかと考えた。
これはうっかり眠ってしまった自分への罰で、もう一度目を開けたら目の前に王女様がいて、にっこりと微笑みかけてくれるのではないか、と。
しかし、そうではない。
剣を握り、必死に城内を走っている自分も、崩れたまどの外に見える青空も。湿りけを含んだ冷たい朝の空気も、すべてが現実だった。
ライファンはそれを知っていた。これは夢などではないと。
(なんてことだ……)
ようやく現実的な思考に立ち返り、ライファンは一度立ち止まり、深く息を吸った。
(とにかく……)
とにかく王女様を探さなくてはならない。
ライファンは再び慎重に歩きだすと、一階降り、昨夜の晩餐に使われた広間に入った。
室内は薄暗かった。
壮麗に飾られていた広間は、今は他の部屋同様壁が崩れ、シャンデリアは床に落ちて錆びついていた。
テーブルの上には昨夜の晩餐のままに並べられた食器が残っていた。その上に乗っていたのは見るもおぞましい腐ってうじの沸いた得体の知れない食物で、ワイングラスには濁りきったドロドロの汚汁がひどに匂いをはなっていた。
こんな際であったが、昨日はつくづくこれを食べないでよかったものだとライファンは考えた。
(あの領主は……)
ライファンはあの怪しい領主こそが、この怪事の張本人だということを疑わなかった。
窓のない広間は暗く、じめじめとしていて、ひどく不快なかびくささがあった。
テーブルのいちばん奥、向こう側を向いた椅子に何かが見えた。
そこは昨夜領主とその夫人が座っていたはずの席だ。
ライファンは剣の柄に手を掛け、慎重に近づいた。
椅子に座っている「それ」はまったく動く気配はない。
意を決してライファンはパッと進み出た。そして「あっ」と思わず声を上げた。
そこに座っていたのは確かに昨日見た領主の夫人だった。着ている服も同じものに違いない。
しかし、その綺麗に結われた黒髪の下の顔には、黒く落ちくぼんだ二つの空洞があるだけだった。
「これは……」
それはドレスを着た骸骨だった。
昨夜の晩餐で見た夫人そのままの髪形に服装、しかも手にはナイフとフォークが握られている。
ぎくしゃくとひどくのろまに肉を切りつづけていた昨夜の姿そのままに。
ライファンは息を呑んだ。
今はぴくりとも動かない骸骨を探るように見つめる。
隣の席は空だった。
夫人の隣にいたあの領主の姿はない。
(この夫人はもとからすでに死人の骸骨で、テーブルの上の料理同様、すべてはまやかしだったというのか……)
ライファンは唇を噛んだ。
昨日の段階で怪しいことには気づいていながら、何もできなかった自分の不甲斐なさが悔やまれた。
しかしとにかくもうここには用はない。
彼の目的は王女を探すこと、そしておそらくはそれがあの領主を見つけることにもなるはずだった。
部屋を出ようとすると、椅子の上の夫人の骸骨ががしゃんと崩れ落ちたが、ライファンは振り向きもしなかった。
こうなると、これ以上この廃墟と化した城の中を探していても無意味なようだった。
すべてがあの領主のたくらみなら、そして狙いがもとから王女であったのなら、もはやここに留まっているはずもない。おそらく別館で休んでいるという従者や侍女たちも、石像にされた騎士たちと同様だろう。
そうして護衛を排除し、王女をさらうのが奴らの狙いだったのだ。
(だとしたら……)
ライファンは考えた。

城の外に出た。
すでに太陽はすっかり昇り、晴れ渡った青空が彼を出迎えた。
外から見ても城は廃墟そのものだった。
バルサゴ王国の国旗がなびいていた高い尖塔もすべて崩れ落ちた石くずだった。
庭園にはぼうぼうと雑草が生え、城の石垣はすべて葦に埋もれている。
朝の光の前ではそれは無残な城の残骸だった。
ライファンは走った。
町の大通りに出てからも、立ち止まることはなかった。
昨日あれだけ集まって王女一行を歓迎した人々も、今はまったく存在しない。
 ークトの町は静まり返り、そこにあるのは崩れた廃屋の連なりだけだった。
それはすでに死に絶えた町、すべてが廃墟と化した町の姿だった。
ライファンはそんなことなどすでに予期していたのか、もはや眉一つひそめることもなく通りを走り抜けた。
ときおり石畳の道に転がった骸骨を見つけたが、それらを飛び越して彼はただ走りつづけた。
一夜にして人々は骸骨となり、騎士たちは石像となり果てた。いや市民たちはすでにずっと前からそうだったのかもしれないが。そんなことは今や問題ではなかった。
彼だけが、ライファンだけがこうしてここにいる。
いったいどうしてだろう。
何故自分だけは無事なのだろう。
だがそれすらも彼にはもうどうでもよかった。
王女様を、クシュルカ様を見つける。
ただそれだけだった。
(お助けするんだ。約束したんだから)
(絶対に……)
お守りしますと。
(約束したのだ)
ライファンは走った。
クシュルカ様を取り戻す。
こうしてここにいる自分の役目はただそれだけに思えた。

町の城壁を出て昨日通った道を走り、渓谷の手前まで来てライファンは立ち止まった。
橋がなかった。
確かに来るときはここにあった吊り橋を渡ってきたはずだった。
しかし今、目の前には深い谷が青々と広がっているのみで、かつてここに橋が架かっていた様子はない。  ロープ一本も、橋桁の残骸すろも残ってはいなかった。
(やはりこれはなにかの魔術なのか……)
これでは国へ王女失踪の事態を伝える術はない。
(僕が……僕一人でやるしかない)
しかし、どうやって。
(考えろ。……そうだ)
たとえあの領主が騎士を石像に変えたり、もとは廃墟だった城を豪奢に見せ掛け、骸骨を動かす力があっても……、
(生身の王女様をどこかに連れ去るのなら、じっさいの馬なり馬車なりが必要なはずだ)
あの城の周りを調べれば、馬車の轍か蹄のあとが見つかるに違いない。
ライファンがそう考えて引き返そうとしたとき、バフッという生き物の鳴き声が聞こえた。
橋のあった近くの茂みの木に、ラダックが一頭つながれていた。
ライファンは目を輝かせた。
「お前、無事だったのか」
昨日町へ入る前にライファンが念のためにと一頭だけ橋を渡らせ連れてきた、小型のラダックだった。
ライファンが頭を撫でると、ラダックは嬉しそうに鼻をすりよせてきた。
徒歩のまま連れ去られた王女の後を追うのは、時間がかかりすぎると思っていたところだった。
ラダックならば馬並の速さとはいかないが、丘陵を苦もなく上れるし、少々の距離なら走り続けられる。
「よし。頼むぞ」
ライファンは愛剣を自分の背中にくくり付けるとラダックに飛び乗った。
「まずは城へ」
そしてその後はおそらく……
バルサゴ王国の首都ザラセンへ。
ライファンには何故だかそう、確信めいたものがあった。


一方そのころ
アダラーマ王国の城壁の物見の塔では大騒ぎが起こっていた。
「数は?いったいどこの国の兵だ?」
「わ、分かりません。旗印も見えません。数は……とにかくたくさんです。あっという間に現れて……」
「何故気づかなかったのだ。奴らは突然城壁のそばに現れ出たとでもいうのか」
隊長格の騎士が一人の見張りをつかまえて尋ねている間にも、他の騎士たちは慌てふためき、右往左往しながら大声で「敵襲」を叫び合っている。
騎士たちのなかには狭い城壁の上を走り回って互いにぶつかったり、自分の剣を忘れてきて慌てて取りにゆくものもいる始末だった。
「とにかく宮廷に報告を……」
「あああっ!」
恐怖の声を上げたのは、さっきから城壁の外の敵を見張っていた騎士だった。
「どうした」
「あああ……なんてこった……なんてこった……神よ!」
「だからなんだと聞いている?」
いらいらした隊長騎士は自ら胸間から顔を出し、目陰をさして外を見た。
「な……」
そのとたん思わず言葉を失って、隊長騎士は我が目を疑うように目を擦った。
「あれは……なんだ?」
その口から驚愕の声がもれる。
敵はしだいに朝の陽光のもとその姿を現しつつあった。
城壁に近づいてくるにつれ、その兵士の一人一人の様子が判然となっていった。
数百、いや数千もいたろうか。城壁をぐるりと取り囲むようにずらりと並んだ敵兵士は……
「が……骸骨
骸骨だった。
手に剣を持ち、その骨だけの不気味な体に甲冑をまとった騎士の顔は、剥き出しの頭蓋骨だった。
骸骨の兵士がアダラーマに攻めてきたのだ。
「なんてことだ……いったい……これは」
今や城壁にいた騎士たちの誰もが、その不気味な軍団を目にしていた。
信じられぬものを見ているかのように、しばらく呆然としていた騎士たちだったが、一人がいきなり悲鳴を上げた。それを合図に他の騎士たちも恐ろしさに口々に声を上げ、剣を取り落とし、持っていた弓をぶるぶると震わせた。
「なんだあいつらは……」
「化け物だ……化け物が攻めてきたあ!」
「うわあああっ化け物だあっ!」
「待て。持ち場を離れるな」
ほとんど恐慌にも似た様子で、怯え騒ぐ騎士たちに叱咤する隊長も、いったいこれは夢なのかどうか分からぬといったように目を見開き、もう一度城壁の外を見た。
骸骨の軍団は、総勢数千人はいたろうか。まったく同じ動作、同じ速度で、隊列をなし城壁に近づいてくる。
その不気味な様子は、まるで地獄からやってきた死の軍団だった。
「矢を撃て!とにかく戦うのだ。相手が誰だろうと……このアダラーマ王国を脅かすものは敵だ。ひるむな!矢を撃て!」
騎士隊長はうわずった声でそう叫ぶしかなかった。

レアリー・マスカールはいつものように近衛騎士隊の朝稽古に向かっていた。
さきほどから少し城門の方が騒がしいのが気にはなっていた。
また折しも彼女は歩きながら昨日見送ったライファンのことをなんとなく考えていたところでもあった。
稽古場への道すがら、庭園をこえたあたりで前方から走ってくる姿があった。
近衛騎士隊長のラガルドである。息を切らして駆けてきた彼は、彼女の姿を見つけると走り寄ってきた。
「レアリーか。ちょうど良い。騎士たちを集めてくれ。自分は国王陛下に報告に上がる」
ラガルドは彼には似つかわしくもない慌てた口調でそう言った。なにかただ事ならぬ様子だった。
「なにがあったんです?」
レアリーが怪訝そうな顔で聞き返すと、隊長は自らを落ちつかせるように息を整えながら、絞り出すような声で言った。
「敵だ」
「敵?どこの国のです?」
「分からん。突然西大門の城壁付近に現れたそうだ」
「数は?」
レアリーもさすがに厳しい顔つきになった。
隊長の様子からも事態が相当切迫していることが分かる。
「おそらく数千。もう城壁の守備兵と戦いになっているらしい。それとな……」
青ざめた顔の隊長を見てレアリーはひどくいやな予感がした。
普段冷静で物事に動じることのない隊長が、こんな顔をしたことはかつてない。
「本当かどうかまだわからんが……守備隊からの報告だと、敵は……化け物、いや骸骨らしい」
「なんです?骸骨……って、あの……骨のことですか?」
思わず馬鹿げた質問をしたレアリーだが、隊長は笑うどころではなかった。
「そうだ。それもすべて。数千人の敵兵士全てが骸骨の兵だというのだ」
「そんな……馬鹿なことが」
「俺も信じられん。が、城壁守備隊の隊長ルデスは俺の友人だ。そのような虚言を吐くはずはない。おそらく……事実なのだ」
「……」
レアリーは言葉を失った。
「とにかく。事は一刻を争う。俺は陛下にお会いして事の報告と全兵士の出動を要請するつもりだ。お前は近衛騎士隊を集めてすぐに城門の援護にまわってくれ」
「わ、分かりました」
女といえど幼きころより騎士の訓練を積み、強い精神力を身につけていた。
レアリーは剣の柄を引き、騎士の礼をするとすぐさま走り出した。
(西大門といえば……砂漠の方角。あちらにあるのはバルサゴ王国しかない)
レアリーは走りながら考えた。
(骸骨の騎士……、そんなものが本当に……)
こんな時であったが何故か頭に浮かぶのはライファンの顔だった。
(あんたは無事でいるの?……ライファン)
いやな予感を振り払うように、女騎士はひとつ首を振り、唇をかみしめた。


「実に面白い。さすがはサコース殿下だ」
浮かび上がった映像を見ながら手を叩いたのは、例の怪しげな国境の町の領主だった。
「骸骨兵に襲わせるなんて大胆ですなぁ」
バルサゴ王国の首都ザラセン。その王城である。
暗く、じめじめとした空気がたちこめ、不自然なほど静まり返った城内の一室で、領主は誰かに向かってひざまずいていた。
部屋の上方の何もない空間に、横長の楕円形をした映像が浮かんでいる。
それは実に不思議なものだった。
浮かび上がった映像のなかで、骸骨兵と騎士たちが戦っている。
それはアダラーマ王国の城門付近を空から映し出したような映像だった。
「殿下の空の目はまこと確かですな。じつに綺麗なビジュアル。臨場感も抜群」
感心したように手を叩く領主。
そして、その向かいの一段高くなったところに豪奢な椅子が置かれ、黒ビロードに金色で飾りをされた大きな玉座があった。
今そこに一人の若者が座っていた。
歳のころは見た目には二十歳そこそこであろう。細くつり上がってすっきりとした眉目と、青白い肌、薄い金色の髪をもった、非常に秀麗な面持ちの若者だった。
バルサゴ王国第一王子サコースである。
王子の口から低い唸り声が上がった。領主ははっとして押し黙った。
「サリエル様?……」
「……ぐぐぐ……ぐう……ば……馬鹿もの……が」
「ひ、ひっ」
飛び上がるようにして領主はあとずさった。
閉じられていた王子の目がカッと開いた。それとともに空中の映像が消えた。
「その名を呼ぶなと……言っているだろうが」
低く、怪物染みた唸りのようだった王子の声は、やがて若者らしい澄んだ少し高い響きに変わった。
薄紫の王子の目が何度かぎょろぎょろと動き、やがて安定したようにそこに人の目の光が宿った。
「で、殿下……お目覚めで」
おそるおそる領主が尋ねた。
「ずっと起きている。ただこの殻にいるのはエネルギーがいるのだ。余計なことを言うなばかめ」
「はっ。申し訳ありません」
王子は玉座から立ち上がりボキボキと腕や足を動かした。
「ふむ。慣れればこの体も悪くはないのだがな」
赤い裏打ちのマントをバサッとなびかせる。
「事は順調ですな。骸骨兵でアダラーマを滅ぼし、太陽神のかけらはすでに我が王国内にあり……」
ぎろりと王子に睨まれ、領主は慌てて頭を下げた。
「それより……例の王女は?」
「は。ただいまここに」
領主はぼそぼそと呪文のようなものを唱えた。
扉が開いて入ってきたのは、二人の甲冑の騎士に両側から支えられた王女クシュルカだった。
王女は目を閉じたままぐったりとしている。
領主がさらに何かをつぶやくと、甲冑の騎士は機械仕掛けのようにのろのろと王女を連れて前に進み出た。
王子が床に向けて手を差し出した。するとそこに豪華な装飾のついた椅子が現れた。
「ここへ」
王子の命令通り、甲冑の騎士は王女を椅子に座らせると、静かに引き下がった。
「これがアダラーマ王国の王女か。なるほど。近くで見れば確かに美しい」
椅子の背にもたれた王女のプラチナの髪を手ですくい、王子は言った。
「太陽神のせがれが惚れるのも分かりますかな」
「黙れ。ダイモン。きさまはおしゃべりが過ぎるな」
「これは失礼をば」
領主は頭を下げたが、依然その顔にはいやらしい笑いが浮かび、王女をなめるように見つめていた。
「しかし、王子殿下。太陽神の小せがれをおびき寄せるのに、わざわざこのような手を使うとは、いかにも慎重でありますな。殿下らしくもないというか……あ、これは、失礼な言いようでしたか」
「ふん。貴様程度の魔には分かるまい。人を石像に変え、骸骨を操る程度の力では彼の者に通用しなかったではないか?なんなら貴様が直接あの少年を捕らえてここに連れてきても良かったのだぞ」
王子の言葉に領主は「めっそうもない」という顔をした。
「確かに、それは無理でしたな。なにしろあのガキに近づいただけで息苦しくなるというか、卒倒しそうになるほどのいまいましい波動を感じました。陽光の力ですか。じっさいあのガキが眠らないことには同じ部屋にいた王女を連れ出すことも容易ではなかったでしょうな。そう考えると、確かに王女を使ってあのガキをこの城におびき寄せる方が確実ですな。まったく驚きました。太陽神のかけらの力があれほどだとは。石化の魔力はおろか幻惑の秘術で毒入りの食事を食べさせることもダメでしたよ。あれは全てあのガキの力なんですか?それともすべてはスカイソードの威力でしょうか?」
「分からん」
王子はぶっきらぼうに言った。
「確かなのはまだあれは真に覚醒はしておらん。だからこそ今がチャンスなのだ。スカイソードも輝いてはいない。今なら、あの少年の体ごと呑み込める」
「そうなれば、殿下はまずはこのシンフォニアで最大の力を得るわけですな」
王子はそれにうなずくでもなく、椅子にもたれたクシュルカ王女を見下ろた。
それが「起きろ」という命令ででもあったかのように王女のまぶたがかすかに揺れる。
「惜しいな。少年を取り込んだら、もはや用はなくその場で引き裂くつもりだったが……気が変わった」
「どういたしますので?」
王女の目がゆっくとひらく。その唇から小さな呻きが聞こえた。
「こうする」
そう言って王子は王女の唇に唇をつけた。
王女はなにが起きているのか分からぬように、開けたばかりの目を何度かまたたいた。そしてはっとしたように身を固くした。
反射的にばしんと王子の頬を叩く。
「な、なにをするのです。無礼な」
王女は口に手をやり相手を睨み付けた。
「目が覚めましたかな」
王子はにやりと笑った。
「私はアダラーマ王国第一王女クシュルカ。そうと知っての不埒な行いですか」
「これはご無礼を」
王子は殴られた顔をそむけたまま、横目で王女を見た。口元が笑っている。
そのくせ目には一片の感情も現れていない。王女はその冷徹な表情に顔をこわばらせた。
「あなたはいったい……。ここは……」
ようやく自分がどこか見知らぬ一室にいることに気づいて、王女は周りを見回した。
「私はバルサゴ王国第一王子、サコース・デル・バルサゴス。あなたの見合いの相手だ」
「な……」
王女は自分がいったいどうしてここにいるのかが分からないようだった。
「ここは我がバルサゴの首都ザラセンの王城。あなたは我が城の客となった」
「ザラセン……。では……では私の侍女や従者たち、騎士たちはどこに……ライファン、ライファンは……」
立ち上がろうとした王女を、サコース王子は押し止めた。
「静かに。そなたの侍女たちは知らず。しかしあの少年……ライファン。彼のものはもうすぐここへ来る」
「……」
王女は口を閉じた。
聡明にして勇気も持ったこの王女は、目の前にいる王子の顔から少なからず現状を把握した。
彼女にはこれが敵であるのか味方であるのかすぐに分かったし、またその相手に自分が取り乱して弱みを見せることは好まなかった。
王女は慎重に部屋の中を見渡した。
壁も床もすべてが黒ビロード張りの部屋は、天井が高く、明かり取り窓からかすかに差し込む光だけが照らす、豪奢だが薄暗い印象だった。
王女は王子の側にいるもう一人の男の顔を見て「あっ」というように一瞬眉をひそめたが、驚いた素振りもみせず落ちついた声で尋ねた。
「そこにおられるのは、たしかに国境の町ノークトでお世話になった領主殿であられますな」
王女に声を掛けられ、領主は困ったように横の王子に目をやった。
王子がうなずくのを見て領主はそれを認めた。
「いかにも。王女殿下にはご気分はいかがでおられましょう?」
白々としたその言葉に動じた様子も見せず、王女は聞き返した。
「私の連れである騎士たち、従者たちはどこにあります。何故私はここにいるのです。これらはすべてそなたのしたことですか。だとしたら……」
「どうするおつもりです?」
意地悪そうにあごひげをひっぱりながら領主が言った。
「帰ります。このような無礼、勝手なる行いは我がアダラーマ王家への侮辱です。先の王子殿下の行為や今のあなたの言葉は、客人であるはずのこちらの尊厳を傷つけるもの。たとえ国同志の取り決めであろうと、これでは見合いもなにもありますまい。ただちに馬車のご用意を。騎士たち、従者たちともどもに帰参いたします」
王女は立ち上がり、毅然とした表情を浮かべ、目の前の王子に貴婦人の礼をするとその場を去ろうとした。
「はははははは」
王子が突然笑い声を上げた。
「ははははは」
 王女はその様子をじっと睨むように見つめた。
「いや失礼。じつに愉快。そなた……クシュルカ姫か。じつに勇敢であられる」
王子は感服したように笑顔を浮かべた。冷たい、ぞっとするようなその笑顔に王女は眉をよせた。
「それに美しい。怒った顔もまた」
笑い顔のまま王子は言った。
「私を……どうするつもりですか」
「それに頭もよい」
王子は椅子をすすめた。王女は逆らわなかった。
「馬車などはない。それにそなたの従者たちもすでにない」
「殺したのですか」
「ふむ。まあそういってもいいのだろうな。やったのは私ではなくこのダイモン……いやノークト領主なのだが」
なんの感慨もない様子で王子は言った。
「なんてこと……」
多少は予期していたとはいえ、それを聞いて王女は口に手を当て嗚咽した。
「人間とは分からぬな。あれほど勇敢に見えたものが、この通り家来が死んだだけで涙を流すとは。しかしクシュルカ姫……この程度で絶望するのはまだ早いですぞ」
王子が目を閉じ、低い唸り声を上げ始めると王女は驚いて顔を上げた。
まるで魔法のようにパッと空中に映像が浮かび上がった。
「これは……」
映像はアダラーマ王国を映したものであることがすぐに王女にも分かった。
それはすさまじい戦いの様子だった。
アダラーマの騎士たちと戦っているのは、なんとも奇妙な骸骨の軍勢だった。
すでに城壁にはいくつもの穴が開き、骸骨兵たちが城内になだれ込もうとしている。それを必死にくい止めようとする騎士たち、矢を放ち、火を居かける騎士たちの戦いが上空から映し出されていた。とても現実のものとは思えない。
「これは……なに」
目を見開く王女に領主が説明した。
「夢ではありませんさね。じっさい今行われている戦いですよ。うちの王子の空の目で映したものをここに投影しているんですな。おお……骸骨諸君ついに城門を突破したぞ」
領主の言うとおり、映し出された映像では骸骨兵たちが城門へ殺到するところだった。
画面のなかで彼らは、切られても矢を射られてもまったく臆することもなく、ついに門をくずして城壁内部へなだれ込もうとしていた。
「こんな……ことが」
王女は信じられぬように、食い入るようにその映像を見つめた。
音声は聞こえてこないが、その戦いの激しさは崩れた城壁や燃え上がる塔、負傷して血を流す騎士たちからも見て取れた。
画面の中に見覚えのある貴族騎士や近衛騎士たちの顔を見つけると、思わず王女は声を上げた。
「なんということ。いったいどこの国がアダラーマに攻めて……、それに……いいえ……あの骸骨の兵士はいったい……」
半ば愕然として両手をもみしぼる王女に、領主は無慈悲に言い放った。
「もうお分かりでしょう。あれはうちの軍ですよ。といっても王子が作った骸骨たちの軍ですがね。もうすぐアダラーマは全滅するでしょうな。そう命令されていますから」
「そんな……」
そのときふっと映像が消えた。
しばらくして、じっと動かなかった王子の目が開いた。
王子はぐるるるとひとつ唸り声を上げると、またもとの様子で話しだした。
「失礼。空の目を使っている間はこっちの体は動かせないもので。……さて、どうですかな?今見てもらった通り、アダラーマは我がバルサゴの骸骨軍と戦っている。いずれ王宮も落ちるでしょう。ですから……」
グググ、とぞっとするような響きの笑いが王子ののどで聞こえた。
「今さらお国に帰られるのは危険というもの。どうですかな。ここに残って私の妻となり私と二人でこの世界を手に入れるというのは?」
「あなたは……何者ですか?」
王女は目の前にいる得体の知れない怪物をじっと見た。
「私はバルサゴ王国第一王子サコース・デル・バルサゴ……」
「いいえ。違います。姿形は人間ですが、あなたはそうではない」
きっぱりと言い放つ王女に、王子は面白そうに腕を組んだ。
「ほほう。なんとも気丈な女よ。私が人でないと知ってもそうして言葉をかけられるとは……」
王子の言葉は途中からくぐもった低い響きに変わっていった。
それはやがて部屋を揺るがすような唸りとなった。
その唸りが笑い声だと知れるまでに、王女には時間がかかった。
目の前にいるのは、もはや「人」ではなかった。
王子であった「もの」の目は燃えるような赤い光りを放ち、その体はがたがたと激しく震えだしていた。なにか体の中から揺り動かされてでもいるかのように。
「ぐぐぐ……ぐぐぐぐ」という低い唸りが大きくなる。
王女は思わずあとずさった。
そして恐ろしい叫びとともに、ぼこっと王子の背中から黒いものが生えた。
それは二つの黒い翼だった。
王女は失神しそうになりながらも、王子の姿から目が離せないでいた。
見入られたかのように動くことも、逃げ出すことももうできない。
「ぐぐぐぐ」という唸りがやがて小さくなる。
再び王子の目がぎょろりと動いた。
「……ふう。こうしておれば多少は楽になる。この王子の体の中に我を全て収めるのは窮屈なのでな」
王子は、その背中に生えた身長の二倍はあろうかという巨大な翼をばさばさと動かした。
「どうかな?この姿は。これでもまだ我の本来の体とは程遠いのだが」
王女は身じろぎ一つしない。
気丈にもその瞳を見開き、翼の生えた人ならぬその姿を見つめている。
「ほう。たいした度胸であるな。さすがは一国の王女だけある」
見ると側にいた領主の方も今は奇怪な姿に変貌をとげていた。
それは形は人のものだったが、全身真っ黒で額に小さな角の生えた不気味な生物だった。背中には王子同様黒い翼が生えている。
「こいつは我が配下のダイモン。すでに晩餐の席を共にしたそうであるから、紹介の必要はないか」
王子はクックッと笑った。
見かけ上はその顔はまだ秀麗なサコース王子のものだけに、口をゆがめて低いしわがれ声で笑うその様子はいっそう恐ろしかった。
王女は震えながら口に手を当て、二人を……いやふたつの怪物を交互に見た。
「あなたたちがこのバルサゴの国を滅ぼしたのですか。その王子の体を使って……」
「さすがに察しがよろしいな。そうさ。こんな古びた辺境の国でも多少は役に立つ。人々を皆殺しにし、骸骨兵として使い、この王子殿下の体をいただいて、今はこうして貴女とのお見合いをしている」
とても愉快そうに王子はまた笑った。
「いったいなんのために……」
「すべてはそう……太陽神のかけらを手に入れるため。貴女の愛する少年……ライファンと申したな……あの者を我が体に取り込むためにな」
「ライファン……ライファンは無事なのですか」
王女にとって、その名前は今は光り輝く護符のように不思議に力を与えてくれる気がした。
「もちろん。きっと今にあなたを追ってここに来ますよ。我が結界の中へ」
「ライファン……ああ……」
王女は両手を組み合わせた。
「本来なら、あなたは太陽神の小せがれをおびき寄せたところですぐに殺すつもりだったが……」
王子の赤い目が面白そうにぎらぎらと光り、うつむく王女をとらえた。
「それは惜しいな。そなたのその美しさ、気高さを我のものに。……いかがかな。この私に従属を誓えば我と共に生きるための永遠の命を授けよう。我と二人、人間どもを支配しようではないか」
「……」
「どうした。答えろ。身も心も我のものになると誓え。そうすればお前は時をも支配するのだぞ。我の力を授けよう。その若さも美しさも永遠のまま、損なわれることなく……」
「いやです」
王女は蒼白になりながらもきっぱりと言った。
「この国を滅ぼしただけでなく、そのようにサコース王子の体を乗っ取り今度はアダラーマをも滅ぼそうとする。そんな、人を冒涜し、国をもてあそぶ悪魔になど従いません」
「ならばそなたの王国が滅びても良いというのか。我に従うと誓うならすぐにでも骸骨兵どもを引き上げさせても良いのだぞ。そなたのアダラーマ王国は救われる」
「……」
王女は唇を噛みしめた。
そしてゆっくりと首を振った。その目には涙が流れていた。
「それでも……私が悪魔に下って生き長らえるよりは……。私の運命も王国の運命も、誰かの手で歪められるべきではない。お父様……お許しください」
「ならば」
王子の赤い目が残酷に光った。
「今ここで死んでもかまわぬのだな」
「かまいません。私の誇りは私のもの。生きることも死ぬべきときもすべては定めのままに……」
今にも気を失いそうな様子ではあったが、王女はあごを引きまっすぐ王子を見た。
「……そうか。ならば死ぬがいい」
バサッと翼を広げ、王子は宣告した。
今までまったく動かなかった甲冑の騎士二人が、ぎくしゃくと動きだす。
騎士は両側から剣を振り抜いて王女に迫った。
「どうだ?いまなら間に合うぞ。我のものになると誓え」
王女は無言で首を振り続けた。
甲冑騎士の剣が、王女の頭上に振り下ろされる。
王女は目を閉じた。
その瞬間。
ぴたりと騎士がその動きを止めた。
剣先は王女の頭のすぐ上にあった。
王子はバサッと翼をたたんだ。そして目をきつく閉じたまま動かない王女に近づいた。
「なんと強情な女よ……」
がくりと崩れる王女の体をその片腕で受けとめる。
王女は気を失っていた。



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