シンフォニック レジェンズ I
Symphonic Legends I
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少年はぴくりとも動かずに横たわっていた。
その顔は死んだように白く、眉を寄せた苦悶の表情のまま凍りついたようだ。
かろうじて、ときおりかすかな吐息がその唇からもれるのが、彼が生きているという証であった。
せまい檻だった。
後ろ手に両腕を木製の枷にはめられたまま、少年はその檻のなかで身を折るようにして横たわっている。
薄暗い檻に、覆いかけられたボロ布を通してうっすらと光が差し込んできた。
朝の訪れ。
彼はいったい何度こうして檻のなかでの朝を迎えたのだろう。
ゆっくりと、少年が寝返りを打った。
といっても、人一人がかろうじて入れるくらいの狭い檻だ。
かちんと鉄製の柵に膝をぶつけながら。
「う……ん」
その口から声がもれた。
しかしまだ瞼は閉じられたままだ。
上を向いた少年の顔が、差し込む光に照らされる。
亜麻色の髪がきらきらと光った。
歳はまだ十六、七、というところか。
なめらかな白い肌に、まっすぐ肩の上までかかる髪。
着ているものは粗末なグレーの胴着とズボンだけ。靴ははいていない。
その顔は歳相応に少年めいた可愛らしさをもってはいたが、右頬から左の頬にかけて長い傷があった。
いや、顔だけではない、胴着から出た手や、足にも無数のあざや傷痕がある。
中にはまだ生々しく血のにじんだ新しい傷もあった。
「うう……んん」
少年の顔が再び苦悶に歪んだ。
ぴくりと両手が動く。
夢を見ているのだろうか。
「いつまで寝ていやがるんだ。起きろ!ガキ」
パッと檻にかけられた布がはずされ、頭上から男の怒声が降り注いだ。
日光が直接あたり、少年はまぶしそうに手のひらを顔にかざした。
「起きろってんだよ。さっさとしねえかこの馬鹿!」
再び怒鳴り声とともにがつんと檻が蹴られた。
少年は目を開いた。
空色の瞳を何度かまたたいて、彼はのろのろと上体を起こした。
「そろそろ市が始まる。いいか。今日中に売れなかったら、てめえはきざまれてガウの餌だ。分かったか」
まだぼんやりとした目つきで、少年は檻の外を見た。
さっきからしきりに怒鳴っているのはそういえば見覚えのある男だ。
あまり好きではない。
いつもこうやって乱暴に起こされるのだ。
少年はあくびをしながら、今や見慣れてしまった景色に目をやった。
アダラーマ国の朝市だ。
通りの両側にはすでに組みおえられた露店が立ち並び、がやがやと人々の往来が始まっている。
少年のいる檻もそんな露店の一つだ。
食べ物や、服や、あやしげな宝石などを売る店に混じって、同じように檻に入れられた少年少女の姿もそこかしこで見られる。
少年は再び眠たそうにあくびをした。
「なんだ、ガキ。その態度は。ほらとっとと髪をとかせ。にっこり笑うんだぞ。いいか。てめえは大事な商品なんだからな。高く、高ーく、売れればそれだけてめえもいい金持ちの家に行けるってことだ。そしてこの俺も儲かって万々歳。いいか、にっこりと、可愛らしく笑うんだぞ。お客が通りかかる度にだ。こんな風に」
にいいっ、と不気味に笑った髭面の男は、いつものようにそういって少年の檻にくしを放り込んだ。
彼はそれを拾うと仕方なさそうに髪をとかすのだった。
そうしておけば食事はもらえるのだから。
男は満足げにうなずくと、どっかと檻の前に腰掛け、手を叩いて威勢のいい声で呼び込みを始めた。
じりじりと太陽の光が広場を照りつける。
檻のなかは大変な暑さだ。まだ昼前だというのに。
「あの……水下さい」
おずおずと少年が男の背中に声をかけた。
「なんだと?」
男はカッと見開いた目で、振り向いて彼をにらみ据えた。
「今なんていった?」
「は?……いえ、ですから水を……」
少年はにこにこと可愛らしい笑顔で、悪びれた様子もなく繰り返した。
「ふざけるな」
男は声を荒らげた。
通行人たちが何人か首をかしげてこちらを見たので、男はあわてて顔に筋肉の笑みをつくり
「いかがです?若く綺麗な少年奴隷。只今格安五千ルナでお買い得!」
と、お決まりの台詞を述べたが、人々は近づく様子もなく通りすぎてゆくので、再びぶすっとしかめ面に戻り、少年をにらんだ。
「あの……水」
「うるせえ。この馬鹿。あのなあ、てめえちゃんと売れる気があるのか?いったい何人が立ち止まってお前を見た?」
「ええと……二人くらい……ですかね」
「そうだ!たった二人だ。本来ならなあおまえくらいの歳で、そこそこツラがよけりゃあ奴隷の買い手なんてすぐに付くんだよ。ったく、今日で何日目なんだ。俺はな、とっととてめえを売った金でラダックを買って、砂漠を越え、花とオアシスの町セードルでゆったりと女に囲まれて暮らしたいんだ。その計画だった。しかし、お前は、……売れない」
口をゆがめて男は嘆いた。
少年は頭をかいた。
「はあ……すいませんねえ」
「それだ」
男はいまいましげに座ったままひざをばちんと叩いた。
「てめえはそこそこツラが良くて、どっかの女主人なら喜んで奴隷か下働きかに買っていくはずなんだ。だが、なぜか……そうだ。そのてめえの奇妙に落ちつきはらったふにゃけた態度、顔、声が気に食わないんだ。そうにきまってやがる。可愛げがねえ、というのか小憎らしいというのか」
「ははあ……」
少年は檻のなかで首をかしげた。
「あああ。ちくしょう。今日もまた売れねえのか。今日もまた下町の安酒屋で水で薄めたワインをしなびたカビつきチーズをちぎりながら飲まなきゃならねえのか。あああ」
「まあそう気を落とさずに。まだお昼前ですし。きっと売れますよ」
のんびりとそう言う少年に、男はわなわなと震える指をつきつけた。
「なんなんだ!それが売りに出された奴隷の言葉か。なんで俺は貴様からなぐさめられなきゃならねえんだ。奴隷のガキなんかに!あああ」
男は頭を抱えて何度も首を振った。
そうしているうちにだんだんとまた腹がたってきたのか、男が再び檻を蹴りつけようかと立ち上がりかけたときだ。
「もし」
女性の声がした。
男が振り返ると、露店の前に女が一人立っていた。
「もし。そこの少年はおいくらですか?」
男の目が輝いた。
見ると女性はまだ若いが、たいそう綺麗な身なりの美人だった。
男は身を乗り出した。
女性は男の勢いに一歩後ろに下がったが、表情には気品のあるやわらかな笑みが浮かんでいる。
男は「これはいける」と思いさっそく売り込みを始めた。
「お客さん。お目が高い。この少年。歳の頃は十七歳。見てください、白い肌に亜麻色の髪、すらっとした手足は掃除洗濯お茶汲み、その他なんでもオーケー。性格は従順かつ素直、小鳥のような美しい声は毎夜貴女のために愛の歌を歌い、軽い身のこなしでよろける貴女を支え、しなやかに馬車を御し、芋の皮さえむくのです。もちろんその他、どんな言いつけでも守ります」
ふああ、と少年はあくびをした。
ギロと男が睨む。
少年はあわてて檻のなかで正座し、にこにこと微笑んだ。
「どうです?可愛らしいでしょう?お買い得ですぜ。奥さん」
「いいえ。奥さんではありませんわ、私は。ただのお付きの女官です」
「ほう……」
男はあごに手を当てた。
女官、だって?ってえことは、だ。この女のご主人様はたいそうな大金持ち。そうにちげえねえ。
と思ったように、にやりと密かに笑みを作り。
「よろしい。特別に一万ルナでお売りしましょう」
「一万……」
女はさほど驚いた様子もなく、檻の中の少年を値踏みするようにじっと見た。
一万ルナといえば奴隷一人の代金としては法外だ。
それなら馬もラダックも最高のものが買えてしまう。
「ちょっとお待ちを。姫さま……いえ、私の女主人様にうかがってまいります」
そういって女はすっと往来の方へ戻っていった。
見ると人々でにぎわう通りの、向かいの狭い路地のあたりに天蓋付きの立派な馬車がとめられていた。
女はそれに近づくと、美しいビロードの窓布がかけられた車の中に顔を入れ、誰かと話をしている様子だった。
「へっへ。こりゃそうとうな富豪の女主人かなにかだぜ。一万ルナって言っても眉ひとすじ動かしやしねえ。こいつはとんだ大ラッキー、ってなもんよ」
男は舌なめずりしながら、女が戻るのを待った。
しばらくして、店に再び女がやってきた。
その後ろにもう一人、顔をヴェールで隠した女性を連れて。
「お待たせしました。ただいま私の主とお話をいたしまして、直接少年を見たいと申されましたのでお連れいたしました。……さ、姫」
ヴェールの女性が少年の檻の前に立った。
男はしげしげとその女性を見た。
女性の服装は連れの女官などよりもずっと手の込んだ高価そうなもので、白いサテンのドレスには数えきれないほどの真珠が縫い込まれている。
肩に掛かった薄紅のショールには金糸のししゅうが細密にほどこされており、付けている手袋は薄い絹地で、その細い可憐な手が透けて見えるほどのものだった。
男は思わず息を呑んだ。
(こりゃ……とんでもねえ金持ちか……もしかすると)
女性がゆっくりとヴェールをはずした。
銀色の髪が陽光のもとでまぶしく輝いた。
「姫様……よろしいのですか」
女官にうなずきかけると、女性はその顔を檻のなかの少年にまっすぐ向けた。
「あ……」
横で見ていた男は凍りついた。
「あ……あんた……」
「しっ」
「お、おい……この、この御方は……まさか」
驚き顔の男の口を、女官があわててふさぐ。
「お黙りなさい。往来の人々に聞こえてしまうでしょう」
「ああ……ああ、でも……あんた……いやあなた様は……」
「さあ、姫様。もうよろしいでしょう」
「もうちょっと待ってセナ」
可愛らしい声で少女は女官を制した。
ヴェールの下のその顔は、まだ少女といってもよい年齢に見えるが……、
つんとあごを上げ、正面から相手を見るその表情には類まれな気高さがあった。
少女はこの年齢にしてすでに、美しさと高貴さをもち合わせた、特別な光をまとっていた。
男は口をぽかんと開けたまま、震える手で少女を指さしてつぶやいた。
「し、知ってるぞ。いくらよそものの俺だって。……あんた……本物のおうじょ……」
「お黙りなさいというのに。これだから下司な男は……。姫様、騒ぎが大きくなりますのでお早く」
往来から、こちらを見ている通行人を横目で見ながら、女官が言った。
こう見るとこの女官の方は、連れの少女よりもいくつか年上のようだった。
確かに品もよく、長い黒髪もつややかな相当の美人であるが、その主のもつ美貌とは根本的に質の違うものであった。
ヴェールをとった少女は、檻のなかでちょこんと座っている少年をじっと見た。
少年の方も、突然現れたこの銀色の髪の少女を、不思議そうに見つめていた。
じっさいなんと美しい少女だったろう。
歳は少年と同じくらい、十六、七というところだろう。
陽光にきらきらと輝く髪は、そのものがまるで銀糸のようだ。
白い肌はなめらかな絹のよう。水の様に透き通った瞳は、まだ少女と女性の境目にあるように無垢な好奇心に輝き、しかも高貴さ、たおやかさを併せ持つかのように深い。
可愛らしいサンゴ色の唇は、これから数年すれば、たった一回の祝福の口づけのために、命をかける数百人の騎士が集まるのだろう。
美しく、気高く、そして優しさに満ちたまなざしをもった少女。
そんな少女が、陽光のように微笑んだ。
うすく頬を染めて。
「決めたわ。セナ」
少女は女官にそう告げると、はじめて横の男を振り向いた。
「一万ルナでよろしいのですね」
直接声をかけられて、男は一瞬緊張したようにぴんと直立した。
「は……は」
「じゃあセナ」
「はい。姫様」
女官が懐から中身の詰まった金貨入れをとりだすと、男は目を丸くした。
じゃらじゃらと音をたてて金貨が机の上に広がる。
こんな大金は見たことがない。
「では金貨で百枚。一万ルナを……」
男は平素な表情を保ちながら、金貨と女官の持つ金袋とを見比べた。そしてなにやら考えついたのか、ひとつ咳払いをして女官をさえぎった。
「あ……ああ、お待ちを」
「なにか?」
女官が不審そうに男を見た。男はいやらしい顔でにやにやしている。
「いえね……へへへ。その……この少年には実は持ち物がありまして」
「持ち物……ですって?」
「ええ。そうでさ。ほれ、そこの大きな剣」
男が指さした。
露店に商品として出しているあやしげな首飾りや彫刻などと一緒に、汚れた鞘に入った大きな剣があった。
「あれは、このガキ……いいえ子供と一緒にあったものでして。一万ルナというのはその少年のみの値段。この剣の方はですね……」
「いくらなの?」
「へえ。五千ルナでさ」
「それはひどいわ。姫様。だまされてはいけませんよ。このサギ師に。あんなボロ剣をついでに押しつけて儲けようっていう悪巧みに違いないわ」
「いいえ。そんなことはございません。あの剣はこの少年にとって命のようなもの。親の形見も同然。引き離してはいけません。この剣と離れたらきっと少年は悲嘆のあまり飯ものどを通らず痩せ細り、やがては死んでしまうでしょう。ああなんということだ」
男はわざとらしく両手で頭を抱えてみせた。
「セナ。じゃあその剣も一緒に……」
「いけませんよ。姫。こんな山師の手に乗っては。こちらにお金があるのを見てとっさに作った嘘に決まってます」
「いいええ。そんなことは決して。俺……いえ私は善良な奴隷売り。嘘をついたことなどはシンフォニアの神デッラ・ルーナに誓ってございません」
男は両手を組み合わせ殊勝な面持ちで頭をたれた。
「今なら少年と剣をセットで、今ならきっかり一万二千ルナ。いかがです」
「なんてやつなの。姫様、帰りましょう。こんな店よりももっとましな奴隷はいくらもいるでしょう。さ」
女官はあきれたように金袋の紐をしめると、少女の手を取り店を出ようとした。
「待って。セナ」
少女はそれ引き止めた。
一瞬檻のなかの少年と目があった。
そのままかがみこんで、覗き込むように少年の顔を見た。
「ねえ……あなた」
「はい」
少年にやさしく問いかける。
「本当なの?あの剣が一緒じゃないといやかしら?」
少年は剣の方を見た。
少し迷ったのか、ぽりぽりと頭をかいた。そばで男が密かに熱い視線を送っているのが分かる。
「はい」
しばらくして、少年はこくりとうなずいた。
「あの剣がないと、僕は少し困ります」
かあーっ、そんな言い方じゃ押しが弱いんだよっ。といわんばかりに男が唇をかみしめる。
少女はすっと立って、女官を振り返った。
男、はらはらしながらそれを見守る。
「私のおこずかい。一月ぶん消えてしまうわね」
くすっと笑って、少女はそう言った。
男は飛び上がった。
こうして少年はアダラーマ王国第一王女、クシュルカ姫に買われたのである。
「さあ、いいわよ」
きつくはめられていた木製の枷が取り除かれると、少年はおずおずと自分の手首をなでつけた。
「痛かったでしょう?ずっと枷をはめられて……ひどいことを」
そばでやさしく声をかけるのは、王女クシュルカ。
銀色の髪の美しい少女である。
露店を後にし、少女と共に馬車に乗って、彼は高台にそびえる王城の門をくぐったのだった。
ぶどう畑の緑に囲まれた、いくつもの尖塔がのびるアダラーマ王の城へ。
何十人もの侍女や女官に出迎えられ、巨大な円柱そびえる回廊や、広大な緑に包まれた庭園を見て仰天しながら、少年は王女と一緒に離れの別塔の一室に入った。
そして見事な調度品や、ふかふかの絨毯に目をまるくしながら、彼は集められた下男や女官たちによって固い枷を外されたのである。
ヒリヒリと痛む手首を、それでも嬉しそうに少年は動かした。
首を回すとぼきぼきと音がした。いったいどれくらい檻に入れられていたのか、彼はもう忘れていた。
「あんなせまい檻のなかに閉じ込められて、さぞのどが渇いていたでしょう。お腹もへっているかしらね。今何かもって来させます」
「あの……その……」
少年は何度も両手を伸ばしたり首を回したりしてから、今はじめて気づいたように自分を助けてくれた銀色の髪の少女を見た。
「ありがとう……ございます」
少年は照れたようにおずおずと礼を言った。
顔を赤くして視線をはずす彼の様子に、王女はやさしく微笑んだ。
こうして立っていると彼はすらりとしていて、思ったよりずっと背が高かった。
「それにずいぶんと痩せているわ。私よりずっと背が高いのに」
王女はなんのてらいもなく汚れた服を着た少年の横に並び、自分の目の高さにある彼のあごを見、その顔を見上げた。
「そのお鼻の傷はどうしたのかしら?」
「あの……」
「ああ、言いたくなければいいのよ。あなた……あ」
言いかけて、何かを思いついたように突然くすくすと笑いはじめた。
「そうだわ。まだお互い名前も知らないのでしたね。私は……」
少女は両手を自分の胸の前に重ね、ゆっくりと言った。
「私はこのアダラーマ王国第一王女、クシュルカです」
微笑みを残しつつもその顔は、気高さを秘めた王女の顔つきになった。
少年はなにか感銘を受けたように少し目を見開いた。
「……僕は、ライファン……です」
「ライファン……。素敵なお名前ね」
少年はもじもじとうつむいて頭をかいた。
やがて室内に皿や盆を持った侍女たちが、どやどやと入ってきた。
大きな盆には巨大な肉やスープの壺、果物や飲み物が乗せられている。
またたくまに、用意されたテーブルの上はごちそうでいっぱいになった。
少年は口許をぬぐった。腹がぐぐうと鳴る。
王女は笑った。
「さあ、どうぞ」
「信じられぬ」といった顔で少年は王女を見た。
「すきなだけお食べなさい。それが終わったら入浴をどうぞ。女官に用意させますから」
少年はおそるおそるテーブルにつき、そのあとは……。
ただ食べるだけだった。
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