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水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


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 その夜、不穏な空気に包まれていたのは、フェスーンだけではなかった。
 トレミリアから、北東へざっと二百エルドーン、広大なロサリィト大草原の彼方に連なるバルテード山脈を東に越えた先にある、ジャリアの首都、ラハイン。
 北海へと続くフィレシュタット川を水源とするその都市は、冬を迎えていっそう寒々しく、雪に包まれたオルヨムン連山を背後に、うっそりとたたずんでいる。いわずと知れた、黒竜王子の母国であり、こたびのいくさを起こすに至った、その大元である北の大国である。
 だが、ラハインの都市自体は、物々しいいくさの気配に包まれているわけではなく、通年の冬と同じように、寒さの中でただじっと耐えるように静かであった。おそらくは、都市に住まう市民たちにとっては、草原で繰り広げられる戦いのことなどは、遠く離れた出来事にすぎず、自分たちがいくさをしているのだという実感など、彼らは誰ももってはいなかったろう。
 もちろん、ロサリート草原やウェルドスラーブへ向けて派遣される援軍部隊が、隊列をなして都市の通りをゆくときには、人々は王国の勝利を願って喝采を送ったし、一般の徴兵募集に参加するような血気盛んな若者も中にはいただろう。ただ、実際に血を流したり、兵士たちが死ぬような場面を直接見ることもなく、ついにウェルドスラーブを占領したというニュースや、草原での大きな戦いが始まったという噂話を耳にするだけでは、遠い戦地での出来事を現実的に想像することはできない。兵士たちの隊列が通りすぎてゆけば、人々はまた、普段通りに秋に収穫したイモの残りを数え、糸をつむぎ、布を織り、パンを焼くという、そんな日常に戻るだけだった。
 そのラハインの町を見下ろす高台にそびえる王城……
 フォルスカット城は、いかにも冬が似合う黒々とした重厚な様相とともに、厚い壁に覆われた巨大な砦のようにして、どっしりとそこにあった。
「あら、シリアンさま、まだお眠りではありませんでしたか」
 深夜の王宮の塔の一室、ノックをした侍女が扉を開けると、暖炉の火に照らされて、床に座り込んでいる少女の姿があった。
「眠れないのよ。ピーム」
 そう言った少女は、この夜中にも占い遊びをしていたらしい。床の上にはカードが散らばっている。
 寝台から起き出してきたのだろう、夜着の上にローブを羽織った姿で、長い黒髪を手で弄びながら、彼女は思い詰めたような目付きで、床の上のカードを眺めていた。
「いいところに来てくれたわ。ちょっとこっちに来て」
「でも、シリアンさまを夜中にお起こししたと、私が怒られてしまいますから」
「平気よ。ね、ちょっとだけだから、こっちに来てったら」
 王女の我が儘はいつものことであるのだろう。侍女は困った顔をしながら、仕方なく部屋に入ると扉を閉めた。
「シリアンさま、お風邪を召しますから」
「大丈夫よ。私寒いのは好きだし、風邪なんかひいたことないもの」
「でも、去年の冬には熱を出されて……」
「いいから。さあ、そこに座って」
 侍女は燭台を置くと、やれやれというように王女の向かいに腰を下ろした。
「じゃあ、もう一回やるわよ。さっきから、ろくなのが出ないのよ」
 王女はいかにも真剣な顔つきで、集めたカードを裏返して並べ始めた。
 近頃はやっているという占いカードというのは、アヴァリス、ソキア、ゲオルグ、アルヴィーゼ、グレーテ、マージェリー、ルベ、カリッサ、フェーダー、フロール、ベルトラム、ジュスティニアという、十二の月を示すリクライアの神々と、七年に一度だけ訪れる十三月を表す、死の神アナデマ、それぞれを模して前と後ろ姿の描かれた、合計二十六枚からなるものであった。
 王女は丁寧にカードを二列にして並べると、そのうちの一枚を選び出し、それを自分の前に置いた。
「さあ、ピームも選んで」
「はいはい」
 侍女が適当にカードを選ぶ。いかにも占いなどは信じていないというふうである。王女の気に入りの侍女であるが、王女にとってはきっと姉のようなものでもあったのだろう。
「さあ、開いて」
 向かい合った二人がカードをめくる。
「ああっ、まただわ!」
 カードの絵柄を見るや、王女が声を上げた。
「アナデマの後ろ姿よ。さっきから何回かやったけど、アナデマが二度も出たの」
「それは、不吉なのですかね。こちらのはグレーテの前姿ですけど」
「不吉に決まっているわ。だって、アナデマよ!」
 王女はぶるっと身体を震わせた。少女らしいあどけなさの残る顔を、恐ろしそうに歪める。それとて、いくぶん怖がるのを楽しむふうでもなくもないと、侍女の方は思っただろう。
「不吉よ。とても不吉だわ」
「シリアンさま、あまりそういうことを口にされるのはよくありません」
「だって、ピーム。お兄様だって、あれからずっと帰っていらっしゃらないし」
「それは、いくさに出ているのですから。そう簡単には戻られませんよ。そのうち勝利の報告とともに凱旋なさるでしょう」
 いたって気楽そうに言った侍女が気に食わなかったのか、シリアンは頬を膨らませた。
「それに、メリアンも言っていたのよ。この冬にはなにか嫌なことが起こるのではないかしらって」
「冬というのは、なにかと気が滅入るものですからね。メリアンさまも、お天気がいい日などはたまに外に出て遊ばれるのがよいのですけど」
「あらダメよ。あの子は私と違って寒いのは大嫌いなんだから。部屋で本ばかり読んでいるわ。私とは大違い。むしろ、私はあの子とこそ、血のつながっていない姉妹である気がするわ」
「そんなことを、おっしゃるものではありませんよ」
 いくぶん疲れたように、侍女は言った。
「メリアンさまはお勉強がお好きなのですよ。シリアンさまも、妹君を見習って、少しはご本でも読まれるといいのですけど」
「面倒くさいわ。それに、いくら勉強したって、どうせいつかは、どこかの国の知らない王子かなにかに、お嫁にゆかされるのだわ」
 また手元にカードを集めながら、王女はため息をついた。
「私、お兄様と結婚したいのにな」
「……」
 王女の気持ちをよく知る侍女は、黙ったままで優しく微笑んだ。
 ジャリアの第一王女シリアンは、ジャリア王サディームと王妃エレノアの長女であり、兄であるフェルスとは、腹違いの兄妹ということが半ば公然と知られている。おそらく、王女自身もそのような噂があることはよく知っているのだろう。
「どうせなら、私がお父様の子でなければよかったのに」
「でも、もしそうでしたら、シリアンさまは王女ではなくなってしまいますよ」
「そうか。そうしたらお城にも住めなくなるわね。お兄様と結婚できるかもしれなくても、会うこともできなくなるのでは意味がないわ。ああ、難しい問題だわ」
 夢見る年頃の少女らしく、物憂げにため息をつく様子が、とても可愛らしい。
「でもやっぱり、アナデマは不吉だわ。十三月になるのは、いつだったかしら?来年?再来年?」
「再来年でございます。アナデマの年は」
「なら、来年までは大丈夫ね」
「なにがでございますか?」
「いろいろよ」
 王女はまた、ゆるゆるとカードを床に並べ始めた。
「シリアンさま、もうおしまいになさいまし」
「そうしたいけれど、まだ眠れないのよ、ピーム」
「ねえ、そういえば。お城に変な騎士団が来ているのよね」
 カードを並べながら、シリアンは思い出したように話題を変えた。
「変な、ではありません。アナトリア騎士団の方々です」
「どうして、そんな人たちが来ているの?」
「シリアンさま、サディーム陛下の昼間のお話を聞いておりませんでしたね」
「聞いていたわ。聞いていたけど、忘れちゃったわ」
「そうですか」
 またカードを一枚選ばされ、侍女はため息をつきながら、簡単に説明をした。
「フェルス王子殿下率いるジャリア軍が、ウェルドスラーブの戦いに勝利し、かの国を支配下に置いたことはご存じですよね」
「ええ。行ったことはないけれど、支配下になったってことは、簡単に行ってもいいってことよね」
「まあ、そうですけど」
「私、クオビーンというのが飲んでみたいのよ。蜂蜜とミルクをたっぷり入れるのがすごく美味しいんだって、聞いたことがあるわ」
「それでですね、国を治めるというのは、それはとても大変なわけで、兵員がたくさん必要になるのですよ。それで、次には草原のいくさも控えているから、またたくさんの兵員が必要になる。そうなると、ここラハインの騎士や兵士が少なくなってしまうのです」
「別にいいのじゃない。誰もこんなところまで攻めてくるはずないわ」
「まあ、そうですけれどね。カードいいですか、それ」
 侍女が選んだのは、ゲオルグのカードだった。
「あら、いいじゃない。どれ、わたしのは……なんだ、ルベの後ろだわ。つまらない」
「シリアンさま、やっぱり、アナデマが出ることを楽しんでらっしゃるのでは?」
 くすりと笑った侍女に、王女はむっとなった。
「あら、そんなことないわ。あんな不吉なもの。出ないなら出ないで、やっぱり不吉なのよ。それで、兵員が少ないから、どうしたというの?」
「ああ、ですからね。前々からジャリアと縁のある、アナトリア騎士団にいくさの間の、ラハインの警護をしてもらえることになったのですわ」
「ああ、そうだったわね。思い出したわ」
 カード占いに飽きたように、シリアンは髪をいじっていたが、おもむろに立ち上がった。
「シリアンさま、どちらへ?」
「ちょっと塔の上まで歩いてくるわ」
「そ、そんな。こんな夜中にいけませんよ」
「でも、眠れないのだから仕方ないわ」
「お願いですから、ともかく寝台へ入ってくださいまし」
「分かったわよ。ピームがそんなに言うのなら」
 王女がしぶしぶ寝台に横になると、侍女は心底ほっとしたようだった。
「ねえ、そういえば、あの騎士はなんと言ったかしら。昼間、お父様がみなに紹介していたでしょう」
「ああ、アナトリア騎士団のヨハン・クロスフォードさまですか。素敵な方ですよね。ハンサムですし」
「あら、お兄様の方がずっとハンサムだわ。まあ……でも、嫌いな感じではないけれど」
「ええ、あの方が、王宮を守ってくださるというのだから、ありがたいことです」
 侍女が燭台の火を吹き消すと、部屋は漆黒の闇となった。
「アナデマの悪夢を見そうだわ」
「では、おやすみなさいまし」
 侍女が出てゆき扉が閉まると、室内は静寂に包まれた。
 消えかかった暖炉の火が、パチパチとかすかな音を立てる以外は、なんの物音もしない。
 寝台に横になっても、彼女はなかなか寝つけなかった。
(やっぱり、アナデマが三度も出たのは、やっぱり気になるわ)
 もともと寝付きがいい方ではない。寝かかっても、ちょっとした物音ですぐ目が覚めてしまうときがあるし、そういうときにはよけいに神経質になって、再び眠りにつくのが大変なのだ。そういう日の翌日は、たいてい一日中眠くて、よく家庭教師にしかられる。
(明日は、たしか、なにもなかったと思うから、まあいいのだわ)
 このまま存分に物思いにふけることができると思うと、かえってそれが退屈になり眠ってしまうというのが、彼女の性質であったのだが、今日はどうも本当に眠くならない。
(まるでアナデマの呪いにでもかかったようだわ)
 そう思うと、少しだけ楽しい気分になった。いや、楽しいというよりは、不安を抱えることで安心するという、いささかよろしくない癖でもあるのだが。
(私はこのまま、永遠に眠りにつくことはなく、夜は明けることなく続いてゆき、世界は深い闇に包まれたまま、ただソキアのはかない光だけを頼りに続いてゆくのかしら)
 そのような、ロマンティックで破滅的な想像というものは、いつの時代においても夢見がちな少女たちを、うっとりとさせるものであるらしい。そこに悲劇の香りが含まれることで、カルヴァの花の美しさと刺の痛みの同居するような、嘆きの美学に浸るのだろう。
(ああ、でも……夜闇の中で私が息絶えてしまう前に、お兄様に抱きしめて欲しいわ)
 彼女はうっとりと目を閉じると、たくましい兄の腕に抱かれる自分を想像した。
(お兄様になら、なにをされたってかまわない……たとえ、殺されたって、いい)
 王城の多くのものが、フェルス王子を恐れ、彼が帰ってくるたびに、その怒りに触れることに恐々としている。妹のメリアンも、フェルスとはほとんど話もしない。またフェルス自身も、表向きは家族である国王や王妃、妹とたち一緒に食事をしたり、同じ部屋で過ごすようなことはまったくなかった。
 誰もが彼を恐れ、ときにその存在を忌むことすらあった。だが、シリアンだけは違った。
(私は知っているもの。お兄様が本当は、お優しいことを)
 じかに優しい言葉をかけてもらったり、実際に抱きしめてもらったことなどは一度もない。だが、彼女にはあの孤独な兄が、自分にだけは少しだけ、心を開いてくれていると思っていたし、そう信じていた。
(一緒に遊んでくださったこともあったわ。それに、一度だけ、そっと頭を撫ででくださったことがあった)
 そのときの兄の手の大きさ、暖かな感触はいまでも忘れていない。見上げる彼女の前で、兄は照れくさそうに、一瞬だけはにかんだようにも見えたのだ。
(私のわがままを、すぐには怒らずに最後まで話を聞いてくれるし、それに、約束もしてくれるのだもの。一緒に食べる約束、占い遊びの約束、お散歩の約束、それから……)
 まだ果たされていない約束が、たっぷりとたまっていた。次こそは、そのうちのひとつでも叶えて欲しいと、彼女はいつも思っていた。
(お兄様は、いつになったら帰ってきてくださるのかしら)
 大きないくさであるから、簡単には帰って来られないだろうことは、彼女にも分かる。いつも会いたい寂しさを我慢しながら、一人で想像をめぐらせてきた。
(お兄様は、私のことを少しは可愛いと、思ってくださっているのかしら)
(それとも、ただ妹だから、仕方なく私にかまってくれているのかしら)
(私の方は、こんなにも……お兄様のことが好きなのに)
 そんなことを考えると、いつも寝台の上で身をよじって悶えてしまう。
(ああ……お兄様)
(はやく……はやく、お会いしたい)
 だが、彼女の果てしもない妄想は、慌ただしいノックの音に遮られた。
「姫様……シリアンさま」
 ついさっき出ていったはずのピームの声であった。
「なあに、ピーム。占いの続きでもしたくなったのかしら?」
「開けますよ。よろしいですね」
 切迫した感じの声から、どうやらただごとではないことが察せられた。
「シリアンさま」
 扉が開かれ、侍女が慌てた様子で入ってきた。シリアンはようやく寝台から起き上がろうとしたところであった。
「いったいどうしたというの、ピーム。もうちょっとで眠れそうな感じだったのに」
「申し訳ありません。でも、火急のことなのでございます。とにかく、すぐにお支度をなさいませ」
「なんなの。なにかあったの?」
「はい、それが、シャネイの反乱らしいのでございます」
「なんですって?」
 よく意味が飲み込めずに、彼女は聞きかえした。
「それは、いったいどういうことなの?」
「私もじつは、よくは分かっていないのですが……」
 そう言って、侍女は扉の外へ顔を向けた。シリアンは、ようやくそこに他の誰かがいることに気付いた。
「お入りしてもよろしいでしょうか」 
 男の声がした。そこにいた人影が、王女の部屋に足を踏み入れた。
「ご無礼をお許しください。シリアン王女殿下」
 兄のフェルス以外には、男性が入ったことのない王女の部屋である。シリアンは、あっけにとられたように、侵入者を見つめ、そして怒った。
「無礼な。入ってもよいと、誰が言ったの」
「申し訳ありません、シリアン王女。ただ、なにぶん火急の事態ですので、どうかご無礼を」
 そう言って貴婦人への礼をする、その男の顔には見覚えがあった。
「お、お前は……」
「アナトリア騎士団、副団長のヨハン・クロスフォードでございます」
 男は、王女を前にして堂々と答えた。背はすらりと高く、短く刈り込まれた黒髪はいかにも男らしい。歳は二十五、六というところだろう。鍛えられた体は、優秀な船乗りとしても名高い、アナトリアの騎士のものである。
 アナトリア騎士団は、どの国家にも属さない、いわば騎士たちによる都市国家のようなものである。その活動は、主に海峡の監視や、病院活動などであるが、訓練された騎士たちによる兵力は、ときに各国にとっての脅威ともなり、ときに国家間の仲裁という名目で金を請求する彼らは、いまや大陸においては無視できない組織になりつつあった。彼らは、構成員の全員が厳しい訓練をほどこされた有能な騎士であるという点で、東の大国アスカの庇護を受けると噂される都市国家トロスとともに、大国に匹敵する発言力を持っているのである。
「王女殿下、お休み中の無礼をどうかお許しください」
 ヨハン・クロスフォードは、あらためてうやうやしく礼をすると、言葉をついだ。
「さきほど、数万にもおよぶシャネイ族の群れが、ラハインに向けて動きだしたという知らせがありました」
「それは、いったい……なんなの」
 王女は眉をひそめた。
「まだ事態がどのようになるのかまでは予想できません。ですが、あるいは奴らが、兵力の手薄なこのラハインを狙って反乱を起こしたとも考えられます」
 そのようなことは想像もしたことがなかったので、王女には、いったいそれをどう考えてよいものか分からなかった。
「我々、アナトリア騎士団が、ラハインの護衛を受けたのも、このような場合が起こりうるという前提でしたので、その点ではどうかご安心ください。私はとくに王女殿下のおられる区域を守るようにと、サディーム陛下よりじきじきに仰せつかっております。この命に代えましても、王女殿下はは私がお守りいたします」
「そ、そうなの……」
 いくぶんドギマギしながら、シリアンは目の前の騎士を見つめた。普段はほとんど男性と接することはないし、兄以外の男性と近しく言葉を交わすこともあまりない。フェルスの副官であるジルト・ステイクなどは、あからさまに近づいてきて無礼なことをすることもあったが。
(あいつはただ無礼で、汚らわしいだけだったわ。でも……)
 このヨハンという騎士は、よほど礼儀を重んじる性質なのか、立ち姿といい言葉づかいといい、そう嫌な感じはしなかった。
「シリアン殿下、そのようなわけで、危険が去るまでは少しでも安全なところへ移動していただきたいのです」
「いったい、どこへゆけというの?」
「この塔の上の階を、ただいま侍女たちに整えさせていますわ」
 侍女のピームが説明した。彼女も、ヨハン・クロスフォードのことは嫌いではないらしく、いや、もっと言えば、好もしい男性とすら思っているような、そんな頼もしげな目付きで見つめている。
「とりあえず、そちらに移動していただきたいのです。我々の警備の騎士たちを厳重に部屋の外に配備いたしますので、王女殿下にはご安心してお休みいただけると思います」
「そうなの」
 シリアンは、なんとなく納得しかねる気分で、また騎士を見た。
「サディーム陛下にも、すでに了解は得ております。万が一に備えてです。数万のシャネイが集結し、移動を始めるというのはただごとではありません。奴らの脚力であれば、ラハインまではほんの数刻で到達するでしょう。シャネイを甘く見てはなりません」
「そうですよ。シリアンさま。ともかく安全なお場所に」
「分かりました」
 王女はうなずいた。
「では、いったん出ていってちょうだい。着替えるのよ。この格好では、部屋の外は歩けないわ。私は第一王女であるのだから」
「分かりました。それでは外におりますので」
 ヨハンは一歩下がって礼をすると、部屋を出ていった。 
 扉が閉まると、シリアンはもうすっかり目が覚めたというように、てきぱきとと服を脱ぎ始めた。
「ピーム、着替えを手伝って」
「はい、シリアンさま」
 なにやら、わくわくとした気分だった。眠れない夜の退屈しのぎができるからだろうか。
「ヨハンさまはステキな方でございましょう?」
「そうかしら」
 厚手の長スカートをはいて、上に着るローブをを選びながら、シリアンは姿見に向かって体をそらした。
「きっと、どんなことがあっても、シリアンさまを守ってくださいますわ」
「そうかしらね」
「そうですとも」
 いくぶん浮き立つようなふわふわとした感じ。シャネイの反乱などよりも、もっと面白いことが起こるのではないかという。久しく感じたことのなかった気分であった。
「ピーム、そっちのやつがいいわ。白い毛皮のやつよ」
「はいはい、かしこまりました」
 着替えを終えて扉を開けると、ヨハン・クロスフォードがかしこまって立っていた。
「待たせました」
「とてもおきれいでございます。王女殿下」
 さきほどよりも敬愛の込もったまなざしで、騎士が膝をつくと、王女はつんと顎をそらした。
「そう。では案内してちょうだい」
「かしこまりました」
 この塔のほとんどは、第一王女シリアンのためのもので、彼女の勉強部屋や寝所、その他にもいくつか部屋があり、下の階には王女付きの侍女たちが住んでいる。父である国王、や王妃に会うのは、定例の晩餐のときか、なにかの行事や集まりのときだけで、基本的に普段はこの塔から出ることなく過ごすことが多い。
 見慣れた塔の廊下であるが、このような深夜に、それも知らない騎士に連れられて歩いてゆくのは、なかなか新鮮な気分であった。
(ああ、私はこれから、いったいどこへ連れてゆかれるのかしら)
 塔の上の階であるとは分かっていたが、そのような想像をしてしまうのは、やはり夢見がちな年頃の少女である。たくましい騎士の腕にさらわれてみたいという、そんなたわいもない妄想をしては胸をどきどきとさせる。
「シリアンさま、お気をつけて。階段で転びませんように」
 後ろからのピームの声に、いくぶん興ざめの気分で振り返る。
「分かってるわ。燭台でちゃんと照らしてちょうだい」
「もちろんですとも」
 先をゆくヨハンが、コツコツと力強く足音を響かせる。普段は女ばかりのこの塔であるから、それもなんとも頼もしげに思える。
(ああ、どきどきするわ。いったいなにが起こるのだろう……)
 騎士の背中を追いかけるように階段を上りながら、自分が物語のような夜にまぎれこんだ姫君ででもあるように、彼女はまた、うっとりと想像の翼を広げるのだった。



 夜明けまではおそらくまだ数刻はあるだろう、闇夜の街道を南へ向けて駆け続ける一騎があった。
 馬の背には、いくつもの革袋や水筒、それに寝袋に使うと思われる丸めた毛布などがくくりつけられている。いかにもこれからの長旅を考えたような装備であった。
 手綱をとるのは一見して騎士ではなく、厚手の胴着にローブのついたグレーのマントをはおった若者で、極力目立たぬよう仕立てたというような服装ではあるが、月明かりのもとであっても、その優美な様子は一目で、それがただの旅人などではないことが分かってしまう。
 夜空のソキアにも似たさえざえとした白い横顔……夜風に金髪をなびかせ、軽やかに手綱をとるその騎手とは、もちろんアレイエン・ディナースであった。
 コルヴィーノ王の暗殺を果たして逃げたロッドを追い、フェスーンを出発した彼であったが、すでに前々から旅装の支度をを整え、いわばこの機会を待っていたのであった。
 暗闇の中、ただ一人で馬を走らせる。それはアレンにとって、これまでにない解放感であった。
 レークとともに、フェスーンの大剣技会に出場するため、トレミリアへとやってきたのが五月であったから、実際にはまだ、半年あまりしかたっていないのであるが、もうずいぶんと長い年月を過ごしたように感じられる。
 その間、さまざまな人間に近づき、情報を得ながら、水晶剣に近づくための布石を打ち続けてきた。オライア公爵やモスレイ侍従長ら、宮廷における重要人物からの信頼を得、カーステン王女の家庭教師という地位も得て、宮廷内の出入りも自由にできるようになった。相棒のレークが宮廷騎士となり、さらにはウェルドスラーブへと出征をしてからは、いくさの推移と各国の情勢をなるべく多くつかめるように、騎士団をもつ公爵や伯爵夫人たちが催す晩餐会などにも多く顔を出し、人々の噂や情報に耳を傾けた。
 そしてあるとき、相棒のレークからの不思議な交信により、水晶剣がジャリアの黒竜王子の手にあることを知った。実際のところ、あれは、水晶の力を使ったアストラル体による交信だと、あとになってアレンは気付いた。それにおそらくは、セルムラードの宰相、エルセイナ・クリスティンも大きな鍵を握る人物であるということに。
 その後アレンは、すぐにでも草原へゆき、ジャリア軍と接触したいと考えた。オライア公に、援軍部隊への同行を求めたのも、とにかく草原にゆき、水晶剣の存在を肌で感じたかったからだ。だが、ロッドという怪しい騎士の存在をクリミナから聞かされ、なにかが気になった。直接彼に会ってみると、アレンにはすぐに分かった。この男がただものではないこと、なんらかの目的をもって、このフェスーンに忍び込んだということが。草原行きを延ばしてまで、アレンは男を見張ることに決めた。
 そして昨夜、それは行われた。
 ウェルドスラーブ王の暗殺。それがなにを意味するかは明らかだ。
 現在、ジャリアによって占領、統治されているウェルドスラーブだが、逃げ延びた国王の血を消し去ることで、実質的にも国を滅ぼしたことになる。名実共にジャリアの支配する国となるのである。
 このような大胆な計画をたて、それを実行することができるということ、それを命じたであろうフェルス・ヴァーレイという人間に、アレンは少なからず感心と、強い興味とを覚えていた。いくらかは、アレン自身が、その計画に加担したことになったかもしれないが。
(すべては、水晶剣の力なのか、あるいは、その黒竜王子の強き野望のためなのか)
 水晶剣と、それを持つ、ジャリアの王子に相対してみたいと、アレンは思った。あえてロッドに目的を遂げさせ、逃げるのを許したのも、彼を追ってゆき、ジャリア軍の居場所を突き止めるという狙いもあった。
 おそらく、ロッド……いや、サウロと名乗った彼は、名高いジャリアの四十五人隊、その中でも腕の立つ幹部クラスであろう。であるなら、コルヴィーノ王暗殺の遂行を報告に、直接王子のもとへ戻るに違いない。そして、トレミリア国内には不慣れなはずのロッドは、フェスーンへ来るのに通ってきた道……すなわち、サルマへと至る街道をまた使うはずだとアレンは考えていた。
 深夜の街道には人影はなく、このどれくらい先に彼がいるのかも分からなかった。それでも、アレンはいずれは追いつけると考えていた。正規の通行証を持つアレンとは違い、彼はサルマの城門を通り抜けることはできない。草原に出るには、どこかで迂回して、林道を探し、ヨーラ湖をぐるりと回るか、湖を渡らなくてはならないのだ。
 そしておそらく、サルマに着けるのは、どう早くとも日が昇る頃だ。夜闇にまぎれれば探すのは難しいが、日中であれば見つけることはそう難しくはないだろう。
 あるいは、たとえ彼を見つけられなくとも、それはそれでよかった。アレンはもう、トレミリアに戻るつもりはなかったのだ。
 水晶剣のありかが分かり、各国の情勢も頭に入れたいまとなっては、フェスーンの宮廷にとどまる意味はもうなかった。融通のきく通行証と、オライア公じきじきの命令書があれば、どこなりと行くのも自由であったし、草原のレークと合流して、黒竜王子と直接対決する機会を得るのでもいいだろう。
 目的に達するための手段には、常に柔軟性を持たせることがアレンの信条だった。レークのように行き当たりばったりすぎず、かといって慎重すぎることなく、時と場合をみて行動に移す。まさに、いまがそのときであった。
 トレミリアにはそれなりに知己もでき、気に入りの食べ物や上質のワインなど、好きなものもできたが、アレンにはそれらを捨て去るのに、感傷的なためらいは微塵もなかった。
 もともとがトレミリアにきたのも、水晶剣という目的のためである。そのためにこそ地道に人脈を広げ、己の地位をつかむ努力をしてきたのである。そしていま、それらは用を終えたのだ。友人と呼べるような、心からの交流などはつとめて避けてきたし、大切な持ち物などもありはしない。このようなときに、いつなりとも捨て去ることができるようにと、身軽な状態でいることを常に考えてきたのだ。
 戦いに必要な武器と食料、そして水晶の短剣さえあれば、どこへなりと旅立つことができる。己を受け入れてくれたモスレイ侍従長や、オライア公、それにカーステン姫には、申し訳ないことになったと思わぬではないが、それよりもはるかに強い、目的へと向かう行動原理が、アレンの心を強く、そして冷徹にしていた。
(そういえば、あのとき……)
 いまになってふと思い返すのは、レークとのあの交信のことだ。アストラル体となったレークは、おそらくセルムラードから意識体を飛ばして、アレンのもとにきたのだ。ジャリアの黒竜王子が、水晶剣を手にしているということを、レークはいったいどこで知ったのだろうか。水晶剣をフェルス王子が持っているのだとするなら、このジャリアが仕掛けてきた大陸侵攻というべきいくさについても、おおよそ納得がゆく。
(より大きな野望、それをパワーにして水晶剣はより輝く……そして、その力がまた、人の野望の実現に強く作用してゆく)
 かつて、父であるサムソンから聞かされてきた言葉を、アレンは忘れたことがない。
(エルセイナ・クリスティンか……)
 レークはきっと、あの謎めいた宰相とも会い、なにかの情報を得たのかもしれない。あるいは、全部で四本あるはずの水晶の短剣を、そのうちの一本をレークが手にしているのではないかと、そんな気もするのだ。
(草原へ、草原へゆけば)
 きっとそれが分かるはずだ。水晶の剣同士が、互いに感応し合い、引き寄せられるのだから。 
 ロッドを追うことは目的のひとつにすぎない。むしろ早く相棒と合流し、互いの情報を共有したいとアレンはそう思った。レークが経験してきたであろう、驚くべき冒険や出会いの数々を、自分がまだ知らないことが、ひどくもどかしい。
 夜空から見下ろすソキアを追いかけるように、アレンは南へ、南へと馬を駆った。

 街道の先にサルマの城壁が見えてきたのは、東の空が白み始める頃だった。
 早起きの鳥たちの鳴き声があちらこちらで聞こえ、黒々と恐ろしげであった街道ぞいの木々たちが、森の神ルベの生命を吹き込まれるように、緑の美しさに包まれてゆく。
 依然としてロッドの気配はどこにも見えなかったが、アレンはむしろ確信を強めていた。クリミナが彼と出会ったという場所、そこがヨーラ湖畔であるのなら、きっとロッドはそこへと戻るはずだと。
 街道の先に見えてきたサルマの市門は、アヴァリスの到来とともに開門を始めていた。これからフェスーンへと向かう商隊だろうか、荷台を引く何台もの馬車が城門を出てくるのが見える。
 サルマという町は、いわばトレミリアの南部の玄関口であり、ヨーラ湖からマクスタート川を通って南海へ至るルートにより、アングランドやミレイ、それにコス島などからの物資が集められ、毎日たくさんの品々が取引される。それらの品々がまたここからフェスーンへと運ばれてゆくことで、首都に住まう貴族たちの豊かな生活を支えることになるのだ。それだけに重要な都市であるから、市壁の防備は厳重で、都市に出入りするには正規の通行証がなくてはかなわない。
 アレンは市門を前にして、あえて迂回して湖へ向う林道へ入った。おそらくは、ロッドもそうしたに違いない。
 木々の向こうに青々としたヨーラ湖が見えてくると、あまり感慨にはひたらない性分のアレンも、馬上からその輝く湖面を眺めずにはいられなかった。
 思えば、フェスーンでの大剣技会の噂を聞きつけて、レークとともにトレミリアに最初に足を踏み入れたのが、ここサルマであったのだ。あれから八ヶ月あまり、ずいぶんと情勢の変転をへてまた戻ってきたのである。
 林を抜け、湖に近づくと、冬の朝のひんやりとした空気に湖面からの風が加わって、冷たく頬を撫でつける。どこまでも続くような青い湖面は、いままさに昇り始めたアヴァリスの光を受けて、きらきらと美しく光っている。湖を行き交う船の数は、これから増えてゆくのだろう。いまはまだ、白い帆を立てた貿易船が、ぽつりぽつりと見えているくらいである。
 アレンは馬を降りて辺りを見回した。クリミナから聞いた、ロッドと出会った場所というのは、きっとこのあたりのはずだった。
 ヨーラ湖の周囲は森林に包まれており、誰かが身を隠していたとしても簡単には見つけられないだろう。しかし、ここから草原まで出ようとすると、町に戻って厳重に警備された市門をくぐり抜けるか、あるいは湖を船で渡るかのどちらかしかない。ヨーラ湖の南側をぐるりと迂回しようとしても、湖から伸びるマクスタート川が行く手を阻む。湖の下流側には橋はなく、とても流れが早いので、馬で渡ることはまず不可能であった。
 湖畔沿いを歩きながら、周囲に鋭く目を光らせていると、木々の向こうから馬を引いた男が歩いてきた。見すぼらしい身なりのしょぼしょぼとした小柄な男であったが、アレンはすぐになにかを悟ったように男に近づいた。
 男は、やってきたアレンに驚いた顔をした。見事な騎士のマントを羽織り、輝くような金髪をした美貌の剣士が、いきなり現れたのだから無理はない。
「そこの男、訊きたいことがある」
「は、はい。なんでございましょうか」
 男はかしこまったように慇懃に答えた。
「その馬はどうした」
「は、これでございますか……」
 アレンは懐から金貨を取り出すと、素早く男の手に握らせた。とたんに男はにこやかになった。
「この馬は、さきほど、船と交換しましたのです」
「船と。なるほど、お前はヨーラ湖の渡し守なのか」
「そうでございます。ほんのついさっきです。夜明けくらいに、騎士のような方が私のところへ来て、馬をやるから、その船をくれと言うのです。私の船などは三人乗るのがやっとのオンボロの小舟ですので、はじめは冗談かと思いましたが、そうではないようで」
「ふむ。そういうことか」
 アレンは湖の方に目をやった。だが、見渡すかぎり、湖面にはもうその小舟らしきものなかった。
「その男の船は向こうへ、つまり東へ行ったのだな」
「はい。アヴァリスの昇る方角でございます」
「わかった。礼を言うぞ」
 もう用は済んだとばかりに、アレンは馬に飛び乗った。
 足どりはつかんだ。あとは追うだけだ。
 サルマの市門に戻って通行証を見せると、見張りは最敬礼でアレンの馬を通してくれた。町では水と食料を新たに調達し、馬を新しくすると、アレンはすぐに出発した。
 サルマの東側の市門は、トレミリアの兵士たちで厳重に警備されていたが、オライア公じきじきの命令書を見せると、補給部隊の隊長騎士が、かしこまってトレミリア軍のいる位置を丁寧に教えてくれた。
 サルマの市門を出て橋を渡り、アヴァリスの方角へ進めば、そこはもうロサリート草原である。
(ロサリート草原……きたぞ、ついに)
 アレンといえども、心の昂りを抑えられない。
 この草原のどこかに水晶剣があるのだ。
 その気配を感じるように、馬上で目を閉じ、大きく息をはく。
 たとえ、どのような危険や、困難な戦いが待っていようとも。
(俺はそこへ向かうだろう)
 これから始まる一日が、リクライア大陸の命運を決める一日となることを、アレンは知っていたろうか。
 アヴァリスのまばゆい輝きを前方に見ながら、彼はいま、広大な草原へと足を踏み入れようとしていた。



                     水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編) 




あとがき

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