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  水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


Y

 しばらく馬を走らせると、あたりに敵の姿は見えなくなった。
 トレミリア王国の全土よりも、何倍も広大なロサリート草原である。馬で縦断するのも、丸一日以上は優にかかる。歩兵であれば三日でも足りないだろう。この大草原では、たとえ数万の兵に追われたとしても、簡単には見つけられない。
「後方に敵影なし。追っ手はないようです」
「よし、いったん停止だ。小休止」
 アルトリウスの指示を聞き、ずっと緊張し続けていた騎士たちは、ほっとしたように兜の面頬を上げた。それぞれに馬を降り、体を伸ばしたり、草の上に腰を下ろすものもいた。
「アルトリウス隊長!」
「おお、ケインか。無事であったか」
 走り寄ってきた一騎に、アルトリウスは破顔した。直属の部下であり、中隊長を務めるケインは、アルトリウスの気に入りの側近だった。
「フレインはどうだ?」
「それが、見たところ、どこにもおりません。敵の壁を突破したのは、およそ二千というところですから。残りはおそらく……」
「そうか」
 今頃は、敵との戦いのさなかであるに違いない。大切な部下たちを置いてきたことに、心を痛めるように、アルトリウスは口元を引き結んだ。
「ですが、作戦が始まった以上は、我々の目的を果たすのが第一です。それが彼らのためにもなります」
「そうだな、うむ」
「では、私はもう一度、部隊の全体を見回ってきます。またのちほど」
 頼りになる部下を見送ると、アルトリウスも馬を降りた。従者から差し出された水筒を口にして、ひと息つく。
 しばらくして、ケインの馬が戻ってきた。
「やはり、ここに付いてきているのは二千か、それに少し足りないほどです。部隊の後方にいたものは、おそらく閉じた敵の壁とぶつかる感じで、そのまま戦闘に入ったものと思われます」
「そうか」
 報告を聞いて、アルトリウスは腕を組んでうなずいた。
「ふむ、フレインの隊が無事であればよいが」
「そうですね」
 馬を下りたケインが兜を脱いで歩み寄ってきた。
「ケイン。こちらは、レークどのの部下のアランだ」
「おお、レークどのの。存じあげています」
 アルトリウスが横にいるアランを紹介すると、ケインはにこりと微笑んで手を差し出した。
「まだ若いが、なかなか勇敢な騎士である。お前のようにな」
「これは、めったに褒めないアルトリウス隊長がそうおっしゃるなら、それは相当のものでしょう」
「よろしくお願いします」
 二人は握手を交わした。ケインは二十五歳ということで、アランよりいくつか年上であったが、その爽やかな笑顔には、なんとなく親しみを感じる。
「レークどのの剣の腕前は、私もよく知っている。あの大剣技会では、私も客席から見ていたからな。あれは本当に見事なものだった」
「そうでしたか」
 自分の隊長であるレークが褒められることは、アランにとっても自分のことのように嬉しいものであった。
「今回の戦いでも、少人数を率いて勇敢に戦っていたことは、左翼にいた我々はよく知っているよ。彼のせいで隊列が乱されたと思うものもいるようだが、反対に、そのおかげで敵の虚をついて、我々は助けられたという部分もある」
「はい、はい」
 アランは目を輝かせてうなずいた。
「私も、ときには隊長の突撃についてゆきながら、不安を感じることもありましたが、それでも仲間とともに、トレミリアのためと、命を懸けて戦いました。私は親友を失いましたが、それでも後悔はありません……」
 自分の思いを理解してくれる人間の存在が、アランには嬉しかったのだ。思わず涙を浮かべた彼の肩を、ケインはぽんと叩いた。
「ああ、君はまだ生きている。それは、これからもできることがまだあるということだ。私も仲間をたくさん失ったが、それでも、まだ戦わなくてはならない。死んでいった彼らのためにも。そして、生きているもののためにも」
「はい。そう思います」
 すっかり意気投合したような二人を、少し離れたところからガウリンが冷めたまなざしで見ていた。根っからの武人である彼にとっては、そのような感情などは戦時中には持つべきものではないと、そのように思ってでもいるのだろう。
「よし、小休止は終わりだ。全員騎乗しろ」
「騎乗。全員騎乗!」
 アルトリウスの命令で、騎士たちは再び兜をかぶり直し、それぞの馬に騎乗した。
「隊列を整えろ。しんがりはケインに任せる。いいな」
「了解しました」
 信頼の厚いケインが、二千の騎馬隊を後方から指揮する副官の役をになう。先頭に立って戦うことを信条とするガウリンあたりには、間違っても任せられない任務だ。
 後方に回ったケインからの合図を待って、再び部隊は動きだした。傾きゆくアヴァリスを背に、銀色の鎧を光らせながら。
「いったん東へ、それから北を目指す」
このあたりはもう、ロサリート草原のずいぶんと東寄りのあたりだろう。 西日に照らされたバルテード山脈の山あいが、草原の彼方を赤く彩っている。
 二千の騎馬隊は、よく統制された隊列で、山脈を見ながら東へ向かって駆けていった。ジャリア軍の索敵圏外へ出てから、北の湿原地帯を目指すつもりであった。
 広大な草原であるから、ところによっては小さな丘や林があり、平地ばかりではなく丘陵になっているようなところもある。先が見えにくい勾配では、部隊は慎重に馬を歩ませ、その先に泉を見つけると、いったん小休止をして水筒にたっぷりと水を汲んだ。
 ロサリート草原は、このリクライア大陸において、東側のジャリア、アルディ、ウェルドスラーブと、西側のトレミリア、セルムラードとを隔てるように、その中央に広がっている。西側と東側をつなぐためのロサリート街道を除いては、広大な草原は、そのほとんどが人跡未踏の地であった。草原をねぐらにするという山賊団などの噂は、ときおり聞かれるものの、それが実際にいるのはおそらく草原南端のアラムラ森林のとば口あたりで、街道をゆく隊商などを狙う連中くらいのものであった。しかし、ジャリア軍がウェルドスラーブを制圧してからは、ロサリート街道の東側は封鎖され、物資を運ぶ隊商の姿はまったくなくなったこともあるので、それらの連中も、ほとんどは食いぶちを失い、どこかの町か自由都市にでも紛れ込んでいた違いない。あるはい、鹿やウサギなどを狩って、遊牧民のように暮らすものも中にはいたかもしれないが。それとても、トレミリアとジャリアの大軍が、激しいいくさを始めたいまとなっては、戦いに巻き込まれぬようひっそりとどこかに身を隠していたことだろう。
 銀色の鎧兜の騎士たちの隊列が、沈みゆくアヴァリスを背にして悠々と進んでゆく。いくさに無関係な人間が目にしたならば、それはきっと、じつにドラマティックな光景に見えたことだろう。
「全軍停止」
 アヴァリスの残照が辺りを赤く照らしだす。その燃えるような草原に部隊は停止した。
「そろそろ頃合いか」
 これから北へ進路を変えれば、ちょうど日が沈む薄闇の中で、湿原地帯の味方と合流できるというのが、アルトリウスの予測であった。
 だが、こちらの思惑をまるで見越していたかのように、夕日に照らされる草原の向こうから、新たな軍勢が姿を現した。
「ジャリア軍の騎馬部隊です!」
「距離は、約三エルドーン。数は不明です」
 報告を聞きながら、アルトリウスは馬上から前方を睨み据えた。
 方向からすると、あちらはロサリート草原の東南の果てである。その先には、ウェルドスラーブの北端の都市、バーネイがある。
「とすると、あれはジャリア軍の新手の援軍だということか?」
「その可能性もあります。先発の騎馬部隊なのでしょう」
 赤く染まった草原の彼方に、舞い上がる土埃とともに、うっすらと軍勢の影が見えていた。まだ距離はずいぶんある。
「いかがいたしますか?」
「うむ」
 アルトリウスは迷うように、砂塵の上る方向を見つめる。
「戦いましょう!」
 さっそく近づいてきたガウリンが進言した。
「どうせ、いずれはジャリアどもと戦うことになる。あれが敵の援軍ならば、いま叩いておくことには意味があるはず」
 たしかに、ガウリンの言うことにも一理あった。あの軍勢がさらに加われば、ジャリア軍の勢いはますます強くなるだろう。だが、それをいうのなら、北に包囲されたこちらの援軍を一刻も早く救出することもまた、同様に大きな意味を持つのである。
「このまま、北へ向かって駆ければ、追いつかれまい」
 アルトリウスは決断した。
「逃げるのではない。我々も急ぎ、湿地帯の援軍と合流するのだ。それこそが、この部隊の第一の目的である」
「自分もそう思います」
 横にいるアランもうなずく。
「よし、では北へ!」
「北へ!全軍、北へ!」
 隊列を整え直した騎馬部隊は、北へと向きを変え走り出した。
 新たに出現した敵の騎馬部隊は、西日に邪魔をされこちらを発見できていないのか、あるいは単に、この程度の数の部隊などは意に返さないということなのか、追跡してくるような様子はなかった。
 やがて背後を振り返っても、敵の影も土埃も見えなくなった。ゆるやかに色を返る黄昏の空のもと、アルトリウスを先頭にした騎馬隊はそのまま北を目指した。
 右手に見えるバルデード山脈のつらなりにそうように、北へ、北へと。周囲に敵の姿はどこにもない。どうやらうまい具合に、ジャリア軍のいる裏をとれたようだ。
(ああ……なんだか、不思議な感じがする)
 赤く燃えるようなアヴァリスの残照と、群青から紫へと、にわかにその色を変えてゆく空を見やり、手綱をとるアランは、ふと考えた。
(つい、今朝までは、北の湿原から草原を南へ馬を走らせていたのに。いまは再び、北を目指して手綱をとっている)
 違うのは、いまはトレミリアの騎馬隊とともにあり、昨夜のように凍りついた湿原の上をゆく、絶望的な脱出行ではないということだ。方向も分からずに凍えながら、何度となく、もうここまでかと思ったものだが、ジュスティニアの加護のおかげか、そこにどんな力が働いたのかは知らないが、奇跡的に湿原を抜け出すことができた。無我夢中で使命を果たそうとしていたあのときと比べれば、いまはずっと希望がある。
(待っていてください、レーク隊長。カシール、それにみんな……)
 置いてきた仲間たちとの再会を思い、その無事を信じながら、アランは馬を走らせた。

 草原に夕闇が降りてゆく。時間とともに周囲は暗さを増し、山脈から吹きつける肌寒い風が鎧を冷たくする。むろん、あの凍てつく湿原を思えば、どうということもなかったが、夜の行軍をしたことのないものにとっては、方向も定かではなくなる闇の中を馬を走らせるというのは、なかなか不安なことであった。
 完全に日が落ちて闇夜となる前に、湿原の近くまで辿り着きたいというのがアルトリウスの思惑であったが、それにしてもロサリート草原はおそろしく広かった。ときおり地面にゆるやかな勾配はあるものの、行けども行けども、基本的に景色はまったく変わらない。当たり前であるが、灌木と草地ばかりである。右手に見えるバルデード山脈が、しだいに暗い影のように気配を変えてゆくくらいで、他にはなんの目印はない。あとはただ、星を頼りに北を目指すしかないのだ。
 やがて、アヴァリスの慈悲というべき黄昏の最後の時間がすぎると、草原には冬の長い夜が訪れる。アヴァリスの陽光の代わりに、うっすらと白く輝くソキアだけが、唯一の希望を夜に生きるものたちにさずけてくれる。
「このあたりでいったん小休止をとろう」
 暗がりの草原を進むことは不安なものである。アルトリウスは部隊に停止を命じた。
「進むべき方向が本当にこれでいいのか、確認しなくてはな」
「方向はたぶん大丈夫です」
 アランは不満そうに進言した。
「それより、先を急ぎましょう」
「焦るな。夜は長い」
「ええ、でも」
「こう暗くなってしまっては、敵が近くに接近していてもなかなか分からない。急ぎたいのは分かるが、慎重に動かなくてはな」
 確かに、ここまで暗くなると、いかに方向感覚に自信のあるアランでも、ときおり自分がどちらへ向かっているのか分からなくなるときがある。昨夜は敵から離れるために、だいたいの方向を目指して進むのでもさして問題はなかったが、いまは反対に敵のいる場所に近づこうとしているのだ。アルトリウスの言うように、慎重に方角を見定めるべきなのは確かであった。
「では、その場で小休止。ただし灯はともすなよ。周囲に敵の気配を感じたらすぐに報告しろ」
 騎士たちはそれぞれに馬を降りて、休憩をとった。敵に見つからぬよう、なるたけ会話も控え、馬と自分の体をじっと休ませる。
 アランも馬を降り、いったん地面に腰を下ろしたが、落ち着かなげにすぐに立ち上がる。
「……」
 昨夜もそうだったが、ずっと馬に乗り続けて、足腰の疲労はかなりたまっているのだが、どうにも気分が急いて仕方がないのだ。なにも見えぬと分かっても、暗がりを見渡して、その向こうになにかの気配か、あるいは目印はないかと探してしまう。むろん、夜闇の中にはなにも見えはしない。ただ、そうしてじっと声をひそめていると、草原はどこまでもしんとして静まり返り、自分が大きな大地の上にただ独りでいるというような感覚に包まれて、にわかにここが戦場であるとは信じがたいような気持ちになるのであった。
「ちょっといいか」
 アランは、そばに来た人影にはっとなった。
 ケインかと思ったがそうではなかった。意外にも、話しかけてきたのはガウリンであった。
「え、ええ。どうも」
 ガウリンは、アランの横に立つと、暗がりの向こうを獣のような目で見渡し、それから口を開いた。
「その、剣は……」
「えっ?」
「お前の持っている、その剣は、あいつの……レーク・ドップのものだろう?」
 ガウリンは、アランの腰に吊るされたカリッフィの剣を指さした。アランがいつも大切そうにしているこの剣に、興味があるのだろうか。
「ちょっと見せてくれないか」
「ええ……」
 あまり気が進まなかったが、アランは腰の剣を抜くと、それを差し出した。
「ほう、これは軽いな!」
 ガウリンは剣を持つと、驚いたように声を上げた。
「鋼鉄……本物の鋼鉄なんだろう」
「そのようですね」
 正直なところ、アランはこのガウリンがあまり好きではなかった。そのいかにも戦士のようなぎらついた感じもそうであったが、以前にレークからガウリンに殴られたことを聞かされていたので、敬愛する隊長の敵であるというだけで、彼にとっても憎むに値する相手であったのだ。
「ふうむ。さすがにいい剣だな。メルカートリクスの腕のいい女職人のことは、俺も知っている。いつか、俺もこんな剣を作ってもらいたいものだ」
 にやりと笑って、ガウリンは剣をアランに返した。
「お前は、その剣をやつに届けるのか?」
「はい、そうですが」
 ガウリンがなにを言いたいのか分からず、アランはむっつりとうなずいた。
「命をかけてか。ただその剣を、レーク・ドップに届けるために」
「そうです」
 さも当たり前だというような返事に、ガウリンは奇妙な顔をした。
「そうか。自分のために命をかけてくれるものが、はたしてどれくらいいるだろうな」
 つぶやいたガウリンは、ふっと笑った。
「あいつはいい部下も持っているのだな。というよりも……それほど部下に心酔される、その隊長さんと、一度酒でも飲みながら、腹を割って話をしてみたいものだ」
「……」
 アランはいくぶん驚きながらガウリンを見つめた。つり上がった太い眉に、ずっしりとした鷲鼻の、いかつい顔つきの中に、人間らしい温かみがあるのをアランは初めて見た気がした。
「だが、それよりも、まずはこの戦いを、戦い抜くことだな」
 己自信にも言い聞かせるように、ガウリンは言った。
「いずれ平和が戻ったら、酒を飲み交わそう。レーク・ドップと。お前も一緒にな」
「はい、そうですね」
 同じくトレミリアの騎士として、二人は目を見交わし、うなずいた。その約束が果たされるしろ、果たされないにしろ、まずは今日を、今夜を生き延びることが、何にも増して先決であることを、二人ともよく知っていた。
「アラン、ガウリン、こっちにきてくれ」
 ほどなくして、アルトリウスがじきじきに二人を呼びに来た。暗闇でその表情は分からないが、声がいくぶん緊張している。
「ケインが、向こうに光が見えるというのだが」
「光、ですか……」
 アルトリウスについて、アランとガウリンがそちらへゆくと、じっと立ったままのケインが、ある一点を見つめていた。 
「私にはよく分からないのだが。ケインは人並みはずれて目がいいのでな」
 アルトリウスは、ケインの横で同じ方向に目を凝らしたが、なにも見えないように首を振った。 
「どこです」
「向こうだ」
 ケインが指さす方向を見ようと、アランは彼のすぐ後ろに立った。
 暗闇にじっと目を凝らして、しばらく探すと、やがて目が慣れてきたのか、かすかな、ごくかすかな、小さな光の点が見えた。
「おお、本当だ」
「見えるのか?アラン」
「ええ」
「自分にも見えます」
 ガウリンもそれを見つけたようだった。ケインは、目を離してそれの光を見失わぬよう、地面に剣で方角の印をつけると、アランに尋ねた。
「あれは、ジャリア軍……例の湿原の援軍を包囲する敵軍の灯だと思うか?」
「方向的には、おそらく……間違いないでしょう」
 アランはうなずいた。幸い、空には星が見えていた。星空のだいたいの位置から、灯の見えるそちらが北西の方角であることが分かる。
「では、あの光を目指して近づけばよいのだな」
「そうですね。ただ、絶対に気配を悟られぬよう、慎重に接近しなくては」
「うむ。では、馬に布をはませよう」
「それから、ある程度の距離まで近づいたら、敵に見つからぬよう、一度そこに止まりましょう」
 アランが提案した。
「そしてなんとか、北の援軍部隊に我らが来たことを告げにゆき、こちらと連動して動くのです。そうすれば、援軍部隊は敵の包囲を突破できます」
「だが、どうやってやる」
「私が、行きます」
 もとより、アランはそのつもりだった。たとえ一人でも、残してきた仲間のもとへゆき、そしてレークに剣を届けるのだと決めていた。
「行かせてください。必ずレーク隊長に……いえ、トレミリアとセルムラードの援軍部隊に合流してみせます」
「だが……」
「上手く援軍に合流できたら、火矢で合図を送ります。もし、途中で敵に気付かれたら、私は一人で突撃します。そのときは、私にかまわず動いてください。どちらにしてもやる価値はあります」
 すでに覚悟を決めたようなアランの顔つきに、アルトリウスも、ケインも、ガウリンも、異論をさしはさむことはできなかった。

 準備が整うと、部隊は再び動きだした。かすかに見えている、光の方向へと。
 なるたけ行軍の気配を悟られぬよう速度をおとし、馬がいななかぬよう口に布をはませる。敵の所在が分かったことで、騎士たちはいっそう緊張を強くし、いつでも戦いに入れる心構えをしていた。もう誰も口を開かない。先に敵陣を見つけたという、その唯一の有利を手放してはならなかった。まるで死者の霊を弔う葬列のように、粛々と、部隊は闇夜を進んでいった。
 闇夜の中を進むにつれて、前方にほのかに見え隠れしていた、小さな点のような光は、やがてはっきりと見えだした。そして、それはひとつふたつではなく、いくつもの光となって、敵陣の広がりを示し始めた。
 部隊はさらに速度を落とした。敵に見つからぬ、できるだけの距離まで近づいておきたかった。騎士たちはみな、息をひそめるようにして、しだいに増えてゆく前方の光を見つめながら、一歩ずつ馬を歩ませた。
 さらに半刻ほどをかけて、部隊はゆっくりと慎重に接近を続けた。
 いまや、はじめはひとつだった光は数十にもなり、かなりの範囲に広がっている。それは包囲する敵陣の壁を意味していた。そして、北から吹きつけてくる冷たい風が、その先にあるだろう湿原地帯の存在を知らせていた。
 もうこれ以上は危険だというところで、部隊は停止した。
 敵陣との距離はおよそ百ドーンというところだろうか。馬を走らせればすぐに到達できる距離だろう。さすがに敵兵の姿までは見えないが、あの闇の中には数千ものの黒い鎧たちが溶け込んでいるのに違いない。
「……」
 アランは、アルトリウスの横に馬を並べ、前方を指さした。アルトリウスは大きくうなずいた。
「ゆきます」
 囁くように告げ、馬上で軽く手を振ると、アランは一人馬を進ませた。
(ゆくぞ……)
 恐れも不安もすでになかった。単独で部隊を離れることの心もとなさはあるが、必ずレークのもとに辿り着くという、その強い決意が全てに勝っていたのだ。それに、昨夜の凍てついた湿原で死にかけたことを思えば、彼には恐れることなどはもうなにもなかった。
(そうだ。一度死んだ命だと思えば……なにも怖くはない)
 手綱を握りしめ、前方に広がる敵陣の灯を見つめ、アランは馬を歩ませた。腰に吊るした大切な剣が、勇気と力を与えてくれる気がした。
 冷たい風が、兜の面頬から入り込んでくる。それは昨夜の湿原での匂いと同じ、湿りけを含んだ風であった。
(間違いない、あの先に湿原が……レーク隊長たち、味方の部隊がいる)
 これが自分にとっての、もっとも大きな使命になるだろうことを、アランは感じていた。
(たとえ、ここで死んでも……)
(俺は使命を果たす)
 己の心にそうつぶやきかける。
 敵に包囲された仲間たちのもとへと、アランは一歩ずつ馬を進ませていった。
 そして……
(おお……)
 思わず、声を出しそうになるのを彼はこらえた。
 闇夜に浮かび上がる無数の松明……それが、まるで星のように、一帯に広がっていた。

 暗がりの中、距離感が分からぬままに歩を進め、ずいぶんと接近していたらしい。いまでははっきりと、そこに敵兵たちがいる気配が……その姿は闇の中に溶け込んでいたが、物々しい気配が、確かに近くに感じられた。
 アランは馬を止めると、敵陣の動きをじっと窺った。
「……」
 よく見ると、松明の灯は一定間隔をおいて広がっていて、ところどころに天幕らしきものが立てられているのが分かる。もう少し近づけば、敵兵の動きそのものが見えるのだろうが、そうすると、逆に向こうから発見される危険が増すことになる。
 少し迷ってから、アランは今度は敵陣の広がりに沿うように、一定の距離をとったまま馬を歩ませた。北の湿地帯にいるトレミリアの援軍を半包囲して、東西に広がるジャリア軍の、その東側へと向かっていることになる。
 どこかに手薄になっている場所があれば、そこを突破してゆこうと決めた。だが、松明の灯はずっと等間隔に続いていて、おそらく兵士たちも、均等に壁を作るように配置されているのに違いない。
(どこをゆくのも同じか……)
 残してきたアルトリウスの部隊から離れすぎるのもまずいだろう。アランは覚悟を決めた。あとは自分の馬術を信じるだけだ。
(ジュスティニアよ、ゲオルグよ、それに月の神ソキアよ、)
 アランは手綱をぎゅっと握りしめた。
(どうか、この私に勇気とご加護を)
 心の中で祈りを捧げると、今度は大胆にも敵陣に向かって前進を始めた。
 心臓が高鳴る。ただ一人で、敵軍の只中へ向かってゆくという恐ろしさと緊張、そして、それを上回る使命感とが心の中で混ざり合う。
(なんとか、できるはずだ……)
 冷静に考えれば、無謀とも思える行動であったが、たとえ無謀であっても、躊躇するよりは迷いなく突き進むことが、成功を呼び込むのだと、アランは学んでいた。それは、レークのもとで戦い、彼の勇敢さと行動力を目の当たりにして実感したことでもあった。
(隊長……レーク隊長)
 レークならどうするか。レークだったら、きつとにやりと微笑んで、事も無げに大胆な作戦をやってみせるだろうか。
(自分も、やりますよ)
 迷いなく。命を懸けて。
 アランは馬を歩ませた。
 敵陣の松明の灯が、しだいにはっきりとなり、その周りにいる敵兵の姿がうっすらと見えてきた。
(まだだ。もう、少し……)
 一歩、そしてもう一歩と、身を切るような思いで、歩を進めてゆく。敵陣まではもう、ほんの五十ドーンというところだろう。敵兵一人一人の動きも、もう充分に分かるくらいの距離である。
 さらに何歩か進むと、敵陣の中に慌ただしい動きが起こるのが分かった。
(来たか……)
 こちらを見つけたようだ。小さな松明がいくつも動き出し、何人かのジャリア兵士が騎乗するのが見える。
「なにものだ、そこの者!」
 敵陣から、アランに向けられた誰何の声が響いた。敵はまだ、こちらがトレミリアの騎士であるとは思わぬのだろう。
 アランはなにも答えなかった。馬の歩を止めて、怪しく様子をうかがうようなそぶりで、馬上からそちらを見やる。
「なにものだ。盗賊か?」
 ジャリア兵の声には、まだ切迫したものはなかった。包囲の外側から、敵の兵が、しかも単身で近づいてくるはずなどはないと、そう思っているのだろう。
(盗賊か。なるほど。むしろ、そういう格好をしていた方がよかったかな)
 自分でも驚くほど、アランは落ち着いていた。敵に発見されたからには、あとはもうなるようにしかならぬと、すっかり腹を決めたのだ。
「それ以上近づくと、たとえ自由民でも拘束するぞ」
 アランは敵兵の言葉を鼻で笑うと、いきなり思い切り馬腹を蹴った。そのまま敵陣に向かって馬を突進させる。
「敵だ。あれはトレミリア騎士だぞ!」
「そんな馬鹿な」
「敵襲、敵襲!」
 ジャリア兵士たちが慌ただしく動きだした。あちこちで「敵襲」の叫びが上がり、警報の笛が鳴らされる。
(よし、いいぞ)
 敵兵に突進すると見せかけつつ、アランの馬は、さっと方向を変えた。
「逃げるぞ」
「追え!とらえろ」
 ジャリア兵の声とともに、敵の騎馬兵がこちらに向かって走り出す。
 アランはそのまま、敵陣に沿うように馬を走らせた。
(もっと混乱しろ。どこかに隙ができるはずだ)
 敵兵の慌てぶりを左手に見ながら、アランはむしろ冷静に馬を走らせた。馬術では誰にも負けることはない。それに、この闇夜の中では、弓の的になることもないだろう。
 いつのまにか、追ってくる敵の騎馬隊は、もう後方の闇の中に見えなかった。
(仕方ない。ちょっと待ってやるとするか)
 アランはくるりと馬の向きを変えると、闇の向こうから現れた敵兵を見つめた。もうずいぶんと闇夜に目が慣れている。敵がこちらを見つけるよりも早く、アランには敵の姿が見えていた。
「いたぞ。捕らえろ!」
 こちらを見つけたジャリアの騎馬兵が散開した。陣地の外側に広がって、こちらを取り囲むようにして迫ってくる。
 敵に囲まれたアランの馬は、観念したかのように動かなかったが、次の瞬間、ジャリア兵たちの予期しない方向へと走り出した。
「なに、血迷ったか!」
 背後にジャリア兵の声を聴きながら、アランは、ジャリア軍の陣地へ向かって突入していた。
(隊長……気付いてくださいよ)
 あとはただ、己の勘と馬術のみが頼りである。
 慌ただしく動きだすジャリア兵たちの姿が、松明に照らされ浮かび上がる。それを見ながら、アランは配備の薄そうなあたりを狙って馬を突っ込ませた。
「敵だ!敵兵が突っ込んできたぞ」
「捕らえろ!通すな」
 虚を衝かれたジャリア兵たちは、声を上げながら右往左往する。夜になり、仮眠をとっていたものも多かったのだろう。突然の喧騒にたたき起こされた兵たちは、何が起こったのかも分からずに、慌てふためいている。
 アランはこの混乱に乗じて、陣地を突破するつもりだった。しかしまだ剣は抜かない。戦うよりも、まずはここを突破することが第一の目的であった。
「どけっ!」
 馬上から威嚇の声を上げ、ひるんだ敵兵の前をすり抜ける。
 目の前にジャリア兵の隊列が現れると、巧みに方向を変え、まるで曲芸のように敵陣の中の密集を突き進んだ。なるべく松明と松明の間の、暗がりをぬうようにして。
「捕らえろ!」
「馬から引き倒せ!」
 ジャリア兵の腕が両側から伸びてきて、鐙を踏む足をつかもうとする。アランは馬を二足立ちさせ、それを振りほどくと、また方向を変えて陣内を走り出した。
「逃がすな!」
「足を狙え」
 ジャリア軍の兵たちは、いっときの驚きと混乱から回復すると、突然乱入してきた無謀な一騎を討ち取ろうとばかりに、こぞって集まってきた。
 だが、味方同士がひしめく陣内であるから、弓矢はもちろん長槍も使えない。あとは接近してきたところを剣で狙うか、馬上から騎士を引きずり下ろすかだったが、そう簡単にもゆかない。なにせ、乗っているのはトレミリアでも指おりの馬術の名人であったのだ。
 アランは巧みに馬を操り、ときに敵を振り切り、ときにくるりと回転しながら、方向を見定めつつ、ジャリア兵たちの間を軽妙にすり抜けて行った。 
 敵兵の向こうに空間が見えた。
「あそこか」
 アランは迷わずそちらを目指し、馬を走らせた。
「それっ!」
 並べられた楯の壁を飛び越える。
 冷たい風が吹きつけた。前方には暗がりがどこまでも広がっていた。
「やった、やったぞ……」
 ついに、ジャリア軍の陣地を抜けたのだ。
 だが、喜びも束の間であった。唐突に馬が走るのをやめた。
 馬はよろよろとなって数歩歩くと、アランを乗せたまま崩れるように、どうと倒れた。
「うわっ」
 慌てて馬から飛び下りたアランも、地面に倒れ込んだ。
「う、いてて」 
 起き上がって見ると、横たわる馬の後ろ足からは血が流れていた。
「やられていたのか……」
 それは剣による傷であった。これでよく、楯の壁を飛び越せたものだ。
 アランは、苦しげに泡を吐く馬の身体を撫でてやった。
「よく一緒に戦ってくれた。ありがとう。すまないが……置いてゆくぞ」
 馬を見捨てるのはしのびないが、一刻の猶予もなかった。アランは兜を脱いで放り出し、大切なカリッフィの剣が腰にあることを確かめると、すぐに走り出した。
 この暗闇の先に、目指す仲間の部隊がいるはずだ。
(なんとか、辿り着くんだ)
 北から吹きつけてくる湿原の匂いの風に向かって、アランは走った。
 だが、少しもたたないうちに、左手から馬蹄の音が響いてきた。
 一瞬、味方の援軍かとも思ったが、そうではなかった。
「見つけたぞ。逃がすな!」
 すぐ近くでジャリア兵の声が上った。逃げる間もない。暗闇から現れた騎馬隊が、あっと言う間にアランを取り囲んでいた。
(くそっ)
 せっかく陣地を突破したというのに、こんなところで捕まるとは。
(あと、もうちょっとだ。ここさえ切り抜ければ……)
 アランは剣を抜いた。レークに渡すカリッフィの剣ではなく、自分の剣である。
(この、剣だけは守るんだ……なんとしても)
 敵の数は五、六騎。一人を追跡するには充分ということだろう。
「歯向かうか。武器を捨てれば命は助けるぞ」
「……」
 アランは無言で剣を構えた。どうせ投降したところで、拷問の果てに無様に殺されるのは目に見えている。ならば、ここで戦い、死ぬ方がまだいい。
(いや、ダメだ。まだ死んでは……隊長に会うまでは)
 手にした剣をぐっと握りしめる。
「ほう、戦う気か。いいだろう。ならば相手をしてやる」
 ジャリア騎士の一人が馬を降りた。
「両腕を切り落とし、引きずって帰って、なぶるように拷問にかけてやる」
 怯えるようなアランの様子に、ジャリア騎士が口元を歪める。むろん、それはアランの演技であったが。
 ジャリア騎士が剣を抜き、構えようとする瞬間を狙い、アランは素早く飛び込んだ。
「なにっ」
 レークから教わった素早い剣の突きで、相手の剣をはじき、そのまま喉元へすべらせる。
「ぐあっ!」
 鎧の間を突かれ、ジャリア騎士が首から血を吹き出した。
 倒れ込む相手を横目に、アランは剣を放り出すと、すかさず敵の馬に飛び乗った。逃げきるにはこれしかなかった。
 無我夢中で馬腹を蹴る。
「この野郎が!」
 走り出した馬に、両側からジャリア騎士が迫った。
「うっ、ぐ」
 鋭い痛みが体に走った。
 それをこらえて手綱を握り、なんとか馬を走らせるが、体に力が入らない。
 脇腹に手を当てると、べっとりと血がついていた。
「く……」
 体がしびれるように熱い。
(このまま、俺は死ぬのか……)
 追いついてきたジャリアの騎馬兵たちが、アランの馬の両側に並んだ。そのうちの一騎が前方に出て行く手をふさぐと、アランの馬は驚いたように足を止めた。
「うう……」
 もう、もう馬腹を蹴る力も、降りて戦う気力も残っていなかった。
(これまで、か……)
 アランは転がるようにして馬から落ちた。
(レーク隊長……)
 起き上がろうとするが、体はもう動かなかった。
 ジャリア騎士の馬がアランを取り囲んだ。
「死んだのか?」
「わからん。この際、もう面倒だ。このままとどめを刺して帰るとするか……」
 うっすらと目を開けると、馬を降りた一人が剣を抜くのが見えた。
 アランは死を覚悟した。
(ナルニア、さま……)
 意識が薄らいでゆく。いっそのこと、ひと思いに殺されるのが、唯一の救いであった。
 だが、いつまでたっても、ジャリア兵は剣を振り下ろさない。
「おい……あれは」
「ああ」
 ジャリア兵たちの声が聞こえる。
「まずいぞ」
 慌てたようにジャリア兵は馬にまたがり、アランを残して走り去った。
 なにが起こったのか、アランにはよく分からなかった。
 それからすぐに、別の馬蹄の音が聴こえてきた。ひとつではない。たくさんの、たくさんの馬蹄の音が。 
 失いかけている意識を、あと少しだけ保たせるように、アランは待った。
「そこか」
 声がした。聞き覚えのある声だ。
「アランか。おい、アラン!」
 自分を呼ぶなつかしい声……その気配がすぐそばにあった。
「隊長……」
 アランは薄く目を開いた。自分を覗き込むその顔に、アランは微笑んだ。
「アランか。一人なのか。なんてこった。おいしっかりしろ。やられたのか……」
「た、隊長……剣です」
 最後の力を振り絞って、腰に吊るした剣を差し出す。
「剣です……」
「ああ、ありがとうよ。お前……このために、命懸けで」
 レークが剣を受け取ったとき、アランは己の仕事が終わったことを知った。
「よかった……」
「アラン、おい、アラン!しっかりしろ」
 力強い腕が、自分を抱え起こすのがわかった。だが、体にはもうほとんど感覚はない。
「火矢……を」
「なに?」
「合図の火矢を……空に向けて」
「ああ、わかった。おい、火矢だ。空に火矢を放て!」
 薄れゆく意識の暗がりに、うっすらと、闇夜に向けて放たれた火矢の残像が見えた。
「よかった。これで、これで、自分は……」
 アランは目を閉じた。その口元から、無意識のつぶやきがもれる。
「隊長……、ああ、ナルニアさま……、俺は、もう、一度……」」
「アラン、おいっ、アランっ!」
 レークの声が響く。それがやがて小さくなった。
「アラン、しっかりしろ。アラン!」


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