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 水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


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「こっちへきて」
 銀髪の美女は、なにやら伏目がちに囁くと、レークの手の引いた。
「なんだ?どうした」
「ねえ、レーク」
 ひと気のない天幕の裏手に来ると、彼女はそっと身体を寄せてきた。
「お、おい」 
 彼女が自分に気があるのはなんとなく感じていたし、レークにしても。この美しく気の強い女戦士が好きであったので、いくぶん困りながらもつい口元がゆるんでしまう。
「もう、あたしを置いて行かないでよ」
 息がかかるくらいの耳元で、彼女が言う。
「なに、どういうこった?」
 なんとなく、どきどきとしながらレークは答えた。潤んだようなリジェの目に、じっと見つめられていると、おかしな気持ちになってくる。
「あたし、もう、置いていかれたくない。そう思ったのさ。だって……あんたは、いつも一人でいっちまうだろう」
「……」
「分かるんだよ。きっとまた、あんたは行ってしまう。そうだろう?そうじゃないの?」
「そいつは、どうか分からねえが」
「ほらそれだ」
 リジェは睨むようにレークを見た。そうすると、素晴らしく整った美人だけに、おそろしく冷たい顔つきになる。どことなく、彼の相棒のアレンにも似て見えた。
「あんたはそうやって、いつも適当なことを言っては、一人でさっさと行動してしまう。周りの人間のことなどおかまいなしに。だからいつも、周りをやきもきさせるんだ」
「あのな、オレがどこへ行くって言うんだ?だってここは草原だぜ。あんたもここにいる。オレたちはこれから草原で戦う仲間なんだ。そうじゃねえのか?」
「そうさ。でもね、あたしには分かるんだ。あんたはいっちまうって。それが今日なのか明日なのかはわからないけど。そんな気がするんだよ」
 リジェの目が熱っぽくレークを見つめている。白すぎるほどに白いその肌が、火照ったようにいくぶん紅潮しているようだ。
「あたしを置いていかないでよ。なんでもするから」
 吐息まじりの囁き。彼女がこの場で抱かれたいと思っているのは、レークにも分かった。
「あたし、あんたのためなら、なんでもするよ。この体だって投げ出してもいい。だから行かないでよ。ねえ、あたしを置いていかないでよ」
 いったいどんな予感にとらわれたというのだろう。彼女の顔は、まるで親に捨てられる子供のようでもあり、恋人を失おうとする情熱的な女のそれでもあった。
「ああ、わかったよ。行かねえよ」
 レークは、やや照れながら答えた。己の欲望を抑えるように、ややぶっきらぼうに言う。
「行かねえ」
「本当に?」
「ああ。本当はさ……本当だったら、オレが考えている作戦ってのは、アランとオレの二人でやるつもりだったんだが、そのつもりだったんだが、」
 レークは不思議な気分にとらわれていた。彼女をまるで、予言者でも見るような目で見つめる。
「おかしいな。あんたにそう言われて、なんだか、そうしない方がいいような気になってきた」
「ほらご覧。あたしを置いて出てゆくつもりだったんじゃないか」
 リジェが唇をとがらせる。
「違うって、ただこれは作戦でな……」
「そんな作戦やめちまえ」
 ふわりと、彼女の体が、覆いかぶさるようにレークを抱きしめた。
「お、おい」
「あたしを置いていったら、許さない」
「わかった、わかったよ」
 レークは降参した。考えていた作戦の中身が変わってしまうことが、しかし、いまはなんだかそれでいいのだというような、奇妙な気持ちになった。
「いかねえよ。あんたを置いて、どこにも」
「本当?本当だね?」
 そのソキアのように冷たく、冴えたまなざしの前では、どんなに遊び慣れた宮廷の貴族でも、取り繕った下手な嘘など見抜かれてしまうに違いない。
「そうだ、あたしね、彼女に会ったよ」
「彼女?」
「クリミナさん」
 まるで勝ち誇ったような顔で、リジェはレークを見た。
「トレミリアのフェスーンでさ」
「そうか」
「あんたになにか伝えたいことはある?ってさ、彼女に訊いたんだけど」
「……」
「ないってさ」
「そうかい」
 いくぶんがっかりしながらレークは苦笑した。だがリジェの目は笑っていなかった。
「ねえ、彼女に会いたい?クリミナさんにさ」
「まあ、無事にフェスーンに着いたんなら、それでいいさ」
「無理しちゃって」
 リジェはくすりと笑った。
「あのな……」
 やわらかな唇の感触が、レークの言葉を消した。
 女戦士の体が、まるでレークを守る楯のように密着し、包み込んだ。
「ふふ、二度めだね。キスしたの」
 ゆっくりと体を離すと、後悔のない強い意志のまなざしで、彼女は微笑んだ。
「彼女とはしたの?」
「いいや」
「じゃあ、あたしの勝ちだ」
 そう言ってリジェはぺろりと舌を出した。可愛らしい少女のように。
「さっき、霧の中で会えたのは、きっと運命だね」
「かもな」
 レークはおかしな気分で彼女を見た。強引に迫られることが、そう嫌でもなかった。だが、一方ではこれが恋とは違うことも分かっていた。
(抱きたいってのは、正直なところなんだけどな)
 その気持ちをこらえるように、レークは目をそらした。
「じゃあ、これで、もういいや」
 リジェがつぶやいた。
「なにがだ」
「うん、もう……これで、このいくさで死んでも悔いはないよ」
「なにバカ言ってる」
「そういうもんなんだよ。女ってさ」
 どこか妖しく、それでいてきっぱりとした笑みを浮かべ、女戦士は銀色の髪をかきあげた。くるくると表情が変わる、まるでネコのようだと、レークは密かに思った。
(やっぱり、好みなんだけどな……)
「リジェどの、そこにおられたか」
 天幕の入り口の方から、ビュレス騎士伯が歩いてきた。
「そろそろ軍議が始まるようです」
「分かった。行きましょう、レーク」
「ああ」
 いったい、そこにいつからいたのか。ビュレス騎士伯はリジェにうなずきかけ、すれ違いざまにレークをじろりと睨んだ。
(そうか、コイツはリジェのことが……)
 いかな人の恋心に疎いレークでも分かった。彼がリジェを追いかける目つきは、ただならぬ情熱に溢れているのだ。
(ま、こんだけ綺麗なら、崇拝者の二人や三人はいるだろうしな)
 銀色の滝のような髪を揺らせる背中を見つめながら、レークはふと、栗色の髪の女騎士のことを考えた。
(きっとあいつにしたって、)
(国に帰りゃ、貴族や貴公子連中から引く手ああまたなんだろうよ。もう、オレのことなどはとっくに忘れちまっているかもな)
 そんなことを考えていると、リジェがくるりと振り返った。
「……」
 レークの気持ちを察してなのか、彼女はにこりと微笑み、かすかに、うなずくでもなくうなずいた。
 天幕に戻ると、バルカス伯、スレイン伯をはじめ、ヒルギス伯、それに何人かの隊長クラスの騎士たちが、卓を囲んで彼らを待ち構えていた。レークとリジェ、それにビュレス騎士伯が揃うと、バルカス伯が口を開いた。
「やはり、まだ前線での動きはないようです。敵の時間稼ぎはこれで明白ですな」
「そうだろうな」
 レークはちらりとヒルギスを見た。さきほどの一件はまったく意に返していないように、彼は澄まし顔でうなずいた。
「レークどのは、さきほど夜まで待機するのが最善と申されたが、なにか、お考えでもあるのでしょうな?」
「ああ、あるとも」
 レークは卓の中央に歩み寄り、ヒルギスとバルカス伯の間に割って入った。その堂々たるずうずうしさに、レークのことをよく知らない騎士たちは顔を見合わせる。
「湿原地帯だ」
 卓の地図を指さし、レークはきっぱりと言った。
「といいますと、まさか……」
「ああ、そのまさかだ」
 にやりと笑い、人々を見回すと、レークは計画を話しだした。
「なんとも……それは」
 説明を聞き終えると、卓を囲む人々はざわめきたった。
「無茶ですな。というよりも無謀だ」
 あきれたように言うヒルギス伯に、レークは言い返した。
「無茶なものか。夜になれば、湿原地帯はかちかちに凍るんだ。じつはさっき、ちょっとばかし試してみたんだがな、足場を選んでゆけば通れないことはない」
「しかし、いったい誰がそんな危険なことを」
「へっ、俺の部下には乗馬の名人がいるんだよ」
「ですが、レークどの、万が一それが失敗に終わったら」
 バルカス伯が心配そうに言う。セルムラード軍を預かる司令官としては、一か八かの賭にはなかなか乗れないのだろう。
「でもよ、このまま、敵の思惑通りにこの場所に閉じ込められていたら、それこそ最悪の状況ってやつになるんだぜ。可能性のあることはやってみる。それが生き残るための最善の策じゃねえのか?」
「それは、まことにもっともですな」
 前線を指揮してきたスレイン伯が、レークに賛同した。
「正面から戦って敵の包囲を突破するには、犠牲が大きすぎる。かといってこのまま、湿原を背にしたまま動かないのでは敵の思うつぼ。レークどののいうように、誰かが動かなければ、なにも始まらない。そして、その可能性があるのなら、やるべきです」
「さすが前線で戦う戦士は話が分かるぜ」
 レークは親しみを込めてスレイン伯にうなずきかけた。
「わたしも、」
 次に声を上げたのは、女戦士リジェであった。
「その作戦しかないと思います。そして、彼ならきっと、上手くゆかせるでしょう」
「ふむ」
 腕を組んだバルカス伯は、卓を囲む人々を見回した。
「トレミリアの指揮官としては、どう思われますかな?」
「そうですな」
 ヒルギス伯は、軍議などには興味もなさそうな涼しい顔つきで首を傾けながら、ちらりとレークを見た。
「私も、じつのところは、彼の作戦にどうしても反対するというわけではない。ただ、そう……本軍の司令官は私であり、この場にいるからには、彼もまた私の配下にあるということになる」
 レークはむっつりと口を引き結んだ。
「彼が忠誠を誓って、トレミリアのため、そして我々のために働くというのであれば、私もそれを信じられるというものだ」
「なにが言いたいんだい?ヒルギスさんよ」
「言葉通りだよ。レークどの。小隊長である君の度量、そして忠誠心、それが私の心を動かすというのだ」
「つまり、カシールのことか?」
 レークは苦々しくそれを口にした。
「それもひとつ。司令官たる私を護衛する、優秀な剣士を一人、借りたいというのは、そう傲慢なことではあるまい?」
「ち……」
 レークは唇を噛んだ。
 ヒルギスは明らかに、その希望を叶えないかぎりは、レークの作戦は認めないと言っているのだ。だが、カシールには、お前は自分の部下だと、そう言ってやったばかりだ。彼の気持ちを裏切りたくはない。
(くそ……どうすりゃいい)
 レークにとって、ヒルギスは直接の主でもなければ、命令に従う義理もない。だが一方では、確かに彼の言うように、ここにいるかぎりは全軍の行動を決めるのは司令官たるヒルギス伯であり、ただの小隊長にすぎないレークの提案を蹴るのも、また受け入れるのも彼次第なのだ。
「なにを考えることがあるのかな?」
 ヒルギスはやわらかな口調で言った。
「君の考える最善の策をもって、我が軍を、ひいてはトレミリアを助けようというのだろう。私も、君が忠誠心を見せるのならば、それを全面的に支持すると言っているんだ。他にどんなことが必要だというのだ?」
「……」
 卓を囲む人々、バルカス伯、スレイン伯、リジェ、そして他の騎士たちが、レークに注目する。
「わかった」
 そう言うしかなかった。レークは拳をにぎりしめた。
「オレの作戦を認めて欲しい。あんたの希望は了解した」
「よかろう」
 ヒルギスはひとつ手を叩くと、人々を見回した。
「トレミリア軍指揮官として、小隊長レーク・ドップの提案する作戦を認める。セルムラードの方々に異存がなければ、彼に協力し、その遂行に尽力していただきたい」
「むろん」
 バルカス伯をはじめとして、その場の人々がうなずき合う。
「では、さっそく細かな打ち合わせをしましょう。陽動のために必要な前線部隊の編成と、その動き方を確認して、あとは日が沈むまでは警戒を怠らずに待機ですな」
「もちろん、前線にはオレも参加するぜ」
 レークは一番に手を挙げた。
「それは心強い」
 スレイン伯がうなずく。戦士の気質をもった同士、気心が合いそうだと、互いに感じているのだろう。
「じゃあ、私も」
「リジェどの、それは危険です!」
 ビュレス騎士伯が声を上げる。
「美しいあなたが、危険な前線で戦うなど、しかも敵はジャリアの長槍隊、命がいくらあっても足りませんぞ」
「ビュレスどの、お気遣いは嬉しいが、私は飾り物としてこの軍に参加しているわけではありません。れっきとした戦士として、ジャリア軍と戦うためにここにいる」
「で、ですが」
 きっぱりとしたリジェの言葉に、ビュレス騎士伯はややひるんだように声を落とした。
「それに、私の剣の腕はご存じでありましょう。かつてビュレスどのとも試合をして、勝ったこともあったはず」
「それは、そうですが」
「私はレークの横で戦いたい。彼の横で共に……」
 リジェの熱い視線を受けて、レークはさきほどの口づけを思い出した。気の強さという点ではクリミナといい勝負であろうし、剣の腕では、レークをも唸らせる使い手である。それに女性としての魅力も。
(やっぱ、いい女だぜ)
 その瞳を見ていると、彼女の燃えるような内なる思いが伝わってくるような気がした。
 前線部隊の動き方を確認し、その編成はバルカス伯とスレイン伯に任せることとなった。あとは湿原が凍る夜になるまで、敵にこちらの動きを悟られぬよう待機するのである。
(さてと、困ったぞ)
 レークは簡易の天幕を与えられ……といっても寒さをしのぐ程度にすぎない、ごくごく狭いものであったが、そこにまずアランを呼んだ。
(どうしたものか)
 アランが来るまでの間、カシールのことをあれこれ考えてみたが、こういうことはどうにも苦手であったし、いっそのことアランに任せてしまおうかという結論に達した。無責任といえば、無責任であったが、さきほどのカシールの顔を見たあとでは、どんな風に彼に命令を伝えたらいいのか見当もつかない。
「隊長、お呼びでしょうか」
 ほどなくしてアランがやってきた。向かい合って座ると、天幕はずいぶんと狭苦しいくらいであった。なにしろ、敷物を敷いて寝ころがるのがやっとの広さである。
「作戦が決まったぞ」
「そうですか」
 アランは、にわかにその顔を引き締めた。
「お前には重要な、とても重要に任務についてもらう。それも単独でだ」
「単独……私、一人ですか」
「そうだ。お前だけができる。いや、お前にしかできない仕事だ」
 いくぶん顔つきを厳しくしつつ、アランはうなずいた。
「分かりました。トレミリアのために、自分のできることはなんでもします」
「よし。じゃあこれから説明するぞ、よく聞けよ」
 卓に広げた地図を指さしながら話しだすと、とたんにアランが目を白黒させた。
「そんな……大変な任務を、私が」
「ああそうだ。お前にすべてがかかっている。俺たちが生きるも死ぬも、すべてはお前次第ってわけだ」
 二十歳そこそこの若者が、それほどの責任を背負うというのは、大変なことであろう。だが、レークはあえて気楽そうに言った。
「まあお前ならできるさ。上手いこと馬を操ってさ、あとはただ、ひた走るだけだ」
「はい。はい……そうですね」
 緊張に顔を引きつらせながら、アランは何度もうなずいた。自分自身に言い聞かせるように。
「はい、やってみます。いえ、やります」
「よし。それでこそ、俺の自慢の部下だ。頼んだぜ。オレたちも、お前を上手く逃がすために、できるだけのことはやる」
「はい」
 うなずくアランには、さきほどまでのかすかな怯えはもう見られなかった。勇敢な騎士の顔つきで、彼は自分の隊長に言った。
「光栄です。私のようなものが、それほどに大きな任務を果たすことができるのは」
「そうさ。上手くいったら、お前はトレミリアの英雄だ」
 レークは片目をつぶって見せた。それから、さきほど急いでバルカス伯とヒルギス伯が連名でしたためた書簡をアランに差し出した。
「こいつを公爵に渡して、お前の口からも現状を報告するんだぞ。それから、ローリングとブロテへもことづてを頼む」
「分かりました」
 レークの告げる言葉を覚え込むように繰り返す。
「よし、じゃあ日が沈むまでは休んでいていいぞ。作戦の開始はそれからだ」
「了解です。それでは」
「ああ、ちょっと待て」
 立ち上がったアランを呼び止める。
「あのな……」
「はい」
「もうひとつ、頼まれてくれ」
「はい、なにをですか?」
「うう、あのな、つまりだな……」
 レークは非常に言いづらそうに説明をした。
「ええっ、それはちょっと」
 アランは、さきほどの任務を聞かされたときよりも、困惑の顔つきをした。
「きっとカシールは泣きますよ。あれほど嫌がってましたからねえ」
「しかたねえだろう。それに、これは一時的なものだ。なにもずっと、あのヒルギスさんの付き人でいろってワケじゃないんだから。それにこれは作戦のため、つまりはトレミリアのためなんだ。そう言えばきっと、あいつだって分かるだろう」
「では、それは隊長からじきじきに」
「いや、オレはほら……前線での隊列の確認とかさ、いろいろやることがあるもんで。それに、お前から伝えた方が、なんだ、ショックも少ないだろう」
 不服そうな顔をしたが、アランはしぶしぶうなずいた。
「よし、じゃあ頼むぜ。時間になったら呼びにいく。それまでは休みながらでいいから、地図でよくルートをチェックしておいてくれ」
「はい」

 面倒ごとをアランに押しつけたことで、ようやくほっとしたレークは、あとは戦うのみだと己の剣と鎧を点検しながら、天幕で静かな時間を過ごした。
 やはり敵軍の狙いはこちらを足止めさせることなのだろう、ジャリア軍に目立った動きはないようで、小姓が天幕に食事を配りにきた以外にはなんの報告も入らなかった。
 そして日が沈んだ。
 レークの思っていた通り、夜になっても事態はなにも変わらなかった。
 トレミリアとセルムラードの一万五千の連合軍は、ジャリア軍の静かな、それでいて圧倒的な包囲に甘んじるのみであった。むろんそれは、あえて戦いに出て、いたずらに兵員を削ることを避けた、こちら側の思惑でもあったが、それは皮肉にも敵の狙いとも合致していることは明白であった。ジャリア軍はいっこうに、向こうから仕掛けてくる様子は見せず、こちらがおとなしくしているかぎりにおいては戦端を開く意思はないとばかりに、百ドーンほどの距離をとって圧力をかけながら、いつまででも飼い殺しのように、包囲と監視を続ける構えのようだった。
「敵に動きはないようですな」
 蝋燭の火が揺れる暗い天幕には、バルカス伯、スレイン伯、ヒルギス伯、レークにリジェ、それに主要な隊長騎士たちが集まっていた。それにもうひとり、アランも呼ばれていた。
「やはり、このままでは、何日もこうして同じ状態が続くことになるな」
「そして、しだいに食料も減り、疲弊してから、仕方なく戦いに出たところで、多くの犠牲が出てしまうだろう。本陣に合流する前に」
「ここはやはり、レークどのの作戦に賭けるしかないですな」
 望むものを手に入れた満足からか、ヒルギスはぬけぬけとそう言った。
「よし、では手筈通りに作戦を始めよう。部隊の方はよいかな、スレイン伯」
「準備はできています。合図とともに、前線の五千の兵が動きだします。敵の目を引きつけるよう、なるべく目立つようにして」
 スレイン伯は、地図を指さして、各隊長騎士たちと前線部隊の動き方を確認する。
「肝心なのはタイミングですな。敵の注意をいかに引きつけるかが重要になる」
「それに、あまり中途半端な突撃では、さして敵は焦らないだろうからな。半ば本気の夜襲を仕掛けるつもりでいかねえと」
「ですな。それで、レークどの」
 バルカス伯が、レークの後ろにいる騎士に目を向ける。
「その重要な任務を任せるのが、その若者なのですかな」
「ああ、おいアラン」
「は、はい」
 進み出た若者を、レークはあらためて人々に紹介した。
「このアランはオレの部下だが、その馬術においてはトレミリア一、いやリクライア一なんだ。こいつならやってくれるさ。誰もできねえようなことをな」
「そ、そんな……隊長」
 アランは緊張に顔をこわばらせた。一介の下級騎士が、名のある伯爵たちの前に出ることなどはそうそうあることではない。
「頼むぞアランどの。我々の命運はすべて貴殿の働きにかかっている」
「はい」
「勇敢な騎士に、ジュスティニアとゲオルグの武運と祝福を」
 大いなる使命感とともに、アランは、これこそ騎士としての誉れと、胸に手を当て騎士の礼をした。
「では、これよりすぐに準備にかかろう。スレイン伯は前線の指揮を頼む」
「了解した」
「アランの馬はもう外に用意してある。すぐいけるか?」
「はいっ」
 密やかに作戦が始まった。
 アランに用意されたのは、普通は小姓か女を乗せるような、小さな馬だった。さらに軽量にするため、鞍も鐙もごく簡素なものに取り替えられ、蹄鉄も外されていた。
「どうだ、乗ってみて。いけそうか?」
「はい。たぶん、大丈夫です」
 アラン自身も、鉄製の鎧は脱ぎ、簡素な革の胸当てのみで、腰に下げた武器は短剣だけである。敵陣を突破するにしては、いかにも軽装すぎる格好であったが、この作戦において肝心なのは、まず湿原地帯を抜けることだった。
「いいか、万が一、敵に行く手をふさがれたら戦わずに逃げろ。その装備じゃ勝ち目はないからな」
「は、はい」
「そうだな、それから、これを渡しておく」
 レークは自分の手から銀の指輪を外すと、それをアランに差し出した。
「隊長、これは?」
「まあ、お守りみたいなもんだ」
 それはもちろん、水晶の魔力が込められた指輪であった。アラムラの森林を抜けるときも、ブロテに渡しておいたおかげで、後で合流できたのだ。アランに万一のことがあればなにか役に立つかもしれない。
「しっかり指にはめておけ」
「分かりました」
「よし。ではいこうか」
 馬上のアランにうなずきかける。奇襲の準備を整える兵士たちの間を抜けて、レークとアランを乗せた馬は、天幕の北側へと向かった。
「待ってろ、まずオレが確かめてみる」
 湿原地帯に足を踏み出し、凍り具合を確かめる。
「どれ、おお、かちかちに凍っているな。いいぞ」
 レークはにやりとした。昼間はぬかるんで、とても歩けるところではないが、とくに冬も近いこの時期には、夜になれば固く凍りつく。この湿原から馬で包囲を抜け出そうとは、敵も考えつかないだろう。
「いけそうか?アラン」
「やってみます」
 ゆっくりとアランが馬を歩ませる。だが、馬の方は、恐れるように湿原の手前で止まってしまった。
「おい、進め……」
 この先の地面が凍りついていることを知っているのだろう、馬は行きたくないと言うように、ぶるるといなないた。
「凍っているけどな、普通に歩けるんだよ。ほら、歩け」
 レークが後ろから尻を押したり叩いたりするが、それでも、馬はなかなか動こうとしない。
「仕方ねえな。アラン、いったん馬を降りろ」
「はい」
 馬から降りたアランは、手綱を持って馬を引っ張ろうとした。
「そうじゃねえ。無理に行かせるんじゃなく、隣に立ってやって、一緒に少しずつ歩いてみるんだ」
「分かりました」
 アランは馬の横に並んで、なだめるように首筋に手をやった。
「いい子だ。一緒に歩こう。ゆっくりでいい」
 優しく声をかけて歩を踏み出すと、それに合わせるように馬も一歩を踏み出した。
「よし、いいぞ」
 アランの足が湿原に入った。地面は固く、しっかり凍りついているようだ。
 馬はためらうようにして、またいなないたが、続けてアランが一歩進めると、それについてきた。馬の足が凍った地面に乗ると、ザクリと地面に足が沈み込んだ。
「大丈夫だ。大丈夫」
 落ち着かせるように声をかけ、馬の体を撫でてやる。
「なんとかいけそうだな」
 見守るレークの前で、彼らは一歩ずつ、湿原へ入っていった。
「無理はするなよ。とにかく、湿原を抜けるまでは慎重にだ。暗がりの中で、ぬかるみにはまらないようにな」
「わかりました」
 振り返ったアランがこちらに手を振る。
「お前の姿が見えなくなったら、俺は前線へゆく。夜襲の開始は気配で分かるだろう。ともかく……無事を祈るぜ」
「はい。隊長も」
 その間にも、アランと馬は、一歩ずつ、夜闇の向こうへと離れてゆく。あとはもう、ただ祈るしかなかった。
(頼むぜ……)
 アランの姿が闇の中へ消えてゆくのを見守ってから、レークは急ぎ自分の天幕に戻った。
 戦いに向けての装備を整えて、自分を待つ部下たちのもとへゆくと、小隊の騎士たちはすでに揃って待っていた。
「レーク隊長、アランは……」
「ああ」
 レークは、部下たちにうなずきかけた。
 トビーを失い、アランも、それにカシールもここにはいない。大柄のラシムだけは目立っていたが、出発したときよりも人数が減り、今では二十名ほどになった小隊は、どうにも寂しい感じであった。
「大丈夫だ。オレたちはオレたちで、できることをやる」
 残っている部下たちを見回し、レークは言った。鎧に身を包んだ若き騎士たちは、みな、以前よりもたくましくなり、修羅場をくぐり抜けてきた男の顔になっていた。
「こんなところで命を落とすなよ。いいか」
 己自身にも言い聞かせるように、レークは静かに告げた。
「戦いは、まだまだこれからだ」
「はいっ」
 狭い陣内で、張りつめた緊張の空気は、しだいに強くなってゆくようだった。
 一万を超える数の騎士たち、兵士たちが肩を並べて息を殺している。敵に気取られぬように、極力音を立てず、いななかぬよう馬には布をはませ、静かに戦闘の準備を整えた。
 今回の作戦は、アランの脱出を助けるための陽動であるから、全面攻撃ではなく、目的はあくまでも、敵の意識をこちらに向けることにある。ただ、あまりに小規模の奇襲では敵に驚きは与えられない。そこで、一万の兵士を一斉に動かして総攻撃の構えをとり、激しく突撃するふりをしつつ、願わくば前線での小競り合い程度で済ませたいというのが、こちらの思惑であった。
(はたして、上手くゆけばいいんだが)
 部下たちを乗馬させると、レークの小隊は前線へ移動を始めた。
「おお、きたか、レークどの」
 左翼では、トレミリア兵をたばねるヒルギス伯が指揮をとっていた。その横にはほっそりとした騎士が、馬上からこちらを睨み付けるようにしている。カシールだった。
 レークは軽くうなずきかけたが、カシールはすぐに横を向いてしまった。
(まあ、すまねえことをしたがよ、そのおかげで、こうして作戦が実行できるんだ。いずれやつだって、分かってくれるだろう)
「アランくんの方は上手くいきそうかな?」
「ああ、やつなら大丈夫だろう。なんとか、やつが湿原を抜けるまでは、敵の目をこっちに引きつけておかないとな」
「ふむ。しかし、こんな陽動作戦などで死ぬのは僕はまっぴらだからな。なるべく突撃は君たちに任せるよ」
「それは、ありがたいこって」
 にやりとしながら、レークはこのいくさが終わったら、いつか殴ってやろうとひそかに考えた。
「それで、敵の様子はどうですね?」
「あまり変わらない。敵陣に変わった動きは見られない」
 前方、闇の向こうを見やると、うっすらと、敵陣の松明の灯が間隔を置いて広がっている。距離をとったまま、敵はこちらを監視し続けているだけのようだ。
「では、予定通りで」
「準備はいい。スレイン伯の方も準備が整ったと、いましがた伝令がきた。だが……もうそろそろ、こちらの気配が敵に気付かれる頃だろうな」
 馬上からじっと前方を見つめ、ヒルギス伯はつぶやいた。案外に勘が鋭いのかもしれない。ほどなくして、偵察に出ていたらしい騎士が報告に戻ってきた。
「報告。敵陣に動きがあります。敵兵が集結を始めているようです」
「やはり。よし、ではこちらも動くぞ。いいな、レークどの」
「ああ!」
「合図の火矢を」
 前列の弓兵が、油脂を塗った矢先を構え、小姓が次々にそれに火をつけてゆく。
「撃て!」
 ピシュン、と音を立てて、炎をまとった矢が闇夜に打ち出される。
 それと同時に、
「突撃!」
 それまで静寂を守っていた兵士たちが、敵陣へ向けて突撃を開始した。
「遅れるな、先頭に立つぞ!」
 馬上で剣を抜いたレークは、部下たちに叫んだ。
「声を上げろ。叫んで敵の気を引きつけるんだ!」
「おおおっ」
 すさまじい怒声が闇夜を切り裂いた。
「おおおおっ!」
 トレミリアとセルムラードの騎士たちが、なだれ込むように敵に向かって疾走してゆく。
 虚を衝かれた格好となったジャリア軍の中には、慌ただしい動きが見えた。
「いくぜ!」
 レークを先頭に、小隊の騎士たちが、夜の闇のなかへ突撃した。


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