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これまでのあらすじ

大国ジャリアによる進攻は、ついにトレミリアの友国ウェルドスラーブを飲み込み、黒竜王子の軍勢はロサリート草原へと進軍を開始した。
トレミリアの騎士となったレークは、ウェルドスラーブのトレヴィザン提督からの使命を受け、クリミナとともにアルディに渡り、革命の貴公子ウィルラースと面会を果たす。森の王国セルムラードでは、女王フィリアンに謁見、援軍の要請をとりつける一方、神秘的な宰相、エルセイナからは、水晶剣の秘密について聞かされる。コス島にて仲間と合流すると、レークはブロテとともに草原へ、クリミナはウェルドスラーブから逃げ落ちたコルヴィーノ王を警護してトリミリアへの帰還の途に着く。
ついにロサリート草原の戦いが始まる。ジャリア軍との激しい戦いのなか、レークは自らの小隊を指揮して戦うが、独断による失態で小隊は後方へ回される。一方のクリミナは、サルマの湖でロッドという騎士と出会い、彼を護衛としてフェスーンへと連れてゆく。
セルムラードからの援軍部隊がトレミリア軍と合流し出発したとの報を受け、レークの小隊はそれを出迎えるべく出発する。だが、霧に包まれた草原は視界が悪く、援軍部隊はどこにも見えない。
霧の向こうに突如現れたのはジャリア軍だった。混戦の中、敵の壁をなんとか突破した小隊は……




 水晶剣伝説 \ ロサリート草原戦(後編)


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 切り裂くような声が響いた。
「レーク、レーク・ドップ!」
「誰だ?オレの名を呼ぶのは」
 霧の中から現れたその人影に、レーク馬上から目を凝らした。
「わたしだ、レーク」
 オルファンの剣を油断なく構えながら、じっと前方を見やると、近づいてきたのは鎧姿の騎士であった。兜からは、こぼれるような銀色の髪が見えている。
「あんたは……」
 レークは剣を引いた。すでにその声から、それが誰なのか見当がついたのだ。
「隊長!」
 背後から付いてきていたアランが、馬を横に寄せてきた。
「おお、みんな無事だったか?」
「たぶん……しかし、数人はやられたかもしれません」
 かろうじて付いてきていた部下たちの馬が、霧の中から次々に現れる。
「カシールに、ラシムもいるな。よし、どうやら敵陣を突破したようだ。もう少し敵から離れて、人数を確認するぞ」
 銀色の髪の騎士が手招きする。
「レーク、こっちへ」
「ああ」
 騎士に先導されて、一隊は霧の奥へと進んだ。
 辺りにはしだいに、馬に乗った騎士や兵士たちの姿が増えてきた。そこには、よく見慣れたトレミリア騎士の鎧姿もある。
「隊長……これは」
「ああ、どうやら、オレたちが探していた援軍部隊はこれだな」
 トレミリアの鎧とは明らかに異なる、緑柱石をはめ込んだ鎧兜の騎士たちが、前方に隊列を組んでいた。そちらに近づいてゆくと、騎士の列がさっとふたつに割れ、そこから部隊の大将とおぼしき騎士が現れた。
「おお。これは、レークどのか。まさか、ここでお会いできるとはな」
「ああ、あんたは……」
 歩み寄ってきた騎士が誰なのかを知り、レークは馬を降りた。
「セルムラードでお会いして以来ですな」
 見事な銀細工に、やはり緑柱石を使った模様の兜を脱ぐと、そこからダークブラウンのあごひげを生やした、三十半ばくらいの男の顔が現れた。
「バルカス伯、だったな」
「いかにも」
 にこりと笑ったその騎士こそ、セルムラード軍を率いる大将であり、フィリアン女王からの信頼も厚い、バルカス伯爵であった。
「とにかく無事でなによりだ。あんたらをさ、霧の中でずいぶんと探したんだぜ」
「我らも、まさか草原に出てすぐに、このような状況に陥るとは思ってもみなかった」
 二人は再会の握手を交わした。
「こちらはビュレス騎士伯、我が側近にして部隊長の一人だ」
 伯の横にいた若い騎士が、レークに向かっていくぶん形式的に胸に手をおいた。
「それから、こちらは……もうご存じであるな」
「ああ、もちろん」 
「霧の中からいきなり現れて、びっくりしたわ」
 彼らを案内した騎士が兜を脱ぐと、長い銀色の髪が、滝のようにこぼれ落ちた。
「でも、また会えて嬉しいわ、レーク」
「ああ。あんたも元気そうだ」
 レークがうなずきかけると、彼女はにっこりと笑った。それはむろん、セルムラードの女王を守る遊撃隊の女隊長、リジェであった。
 彼女の顔を見ていると、セルムラードの首都ドレーヴェに赴いたときのことが、にわかに思い出される。女だけの騎士部隊、遊撃隊を率いて、女だてらに曲刀を振りかざす勇ましき剣士……そして、その男勝りで積極的な性格もまた、レークは嫌いではなかった。いまは正騎士の鎧を着込んで、きりりとした中性的な美女といった様子で、その雪のような肌はまた、霧の中ではいっそう白く見える。 
「まさか、あんたも援軍部隊に参加しているとは思わなかったぜ」
「あら、私は、あなたに会いにきたんだけど?」
 耳元でリジェに囁かれると、ふっと暖かい吐息がかかる。
「……なんてね」
 くすりと笑うと、彼女はあらためて、アランやカシールら、レークの隊の部下たちを見回した。
「まあ、なんだか、可愛らしいぼうやたちね。私たちのお迎えに来てくれたのかしら」
「ぼうや……」
 アランはむっとした顔をしたが、この勇ましき美女剣士にとっては、自分などはただの若造にすぎぬのだろうと、なにも言えなかった。
「ともかく、いったん奥の陣内にゆきましょう。詳しいことはそこで」
「ああ、そうしよう。だが、見たところ周囲は完全に敵に半包囲されているようだな」
 レークの言葉に、バルカス伯がうなずく。
「さよう。現在スレイン伯の前線部隊が敵と交戦中だ。だが、ジャリア軍の方も深く攻めこんでくるという様子ではなく、むしろ、ただ我々を足止めさせることが目的のように思える」
「なるほどな、それは大いにあり得るこった。おい、アラン、みんな付いてきているかどうか、すぐに人数を確認しろ」
「はい」
「負傷者がいたら手当てさせてくれ、いいかな?バルカス伯」
「むろん」 
 結局、レークの小隊のうち、六人が行方不明となっていた。これであと残るのは十八名である。敵に包囲された状況では、不明者の捜索に出たりもできない。ここにいないものは、もう亡き者として扱わざるをえなかった。
 レークは口を引き結んで部下たちを見回した。不明者を見捨てるというのは、隊長としてのつらい決断であったが仕方がない。
「よし、アランは俺と一緒にこい。他のものはここで待機だ。休んでいていいが、いつでも動けるようにしておけよ」
「はっ」
 レークとアランは部下たちに馬を預けると、バルカス伯、ビュレス騎士伯、それにリジェとともに、陣地の北側へと向かった。陣地内には、簡易の天幕があちこちに立てられ、兵士たちが落ち着かなげに立ち回っている。敵に包囲された中では、いつなんどき襲撃があるかと恐れながら過ごさなくてはならないのだろう。辺りにはざわついた緊張感が漂っていた。
「そうか、そういや、このすぐ向こうは、もう湿原地帯なんだな」
 ここはロサリート草原の最北部。北の湿原からは常に冷たい風が吹きつけてくるので、空気はとてもひんやりとしている。これでは朝夕に霧が出やすいのも当然だろう。
「まさに背水の陣……いや、背湿の陣ってやつか」
 冗談ともいえない冗談をいいながら、レークは、くすんだグレーと緑色のまだら模様が広がる、凍てついた湿原地帯を見つめた。
「地面は凍ってるようだな」
「はい。しかし、太陽が顔を出す日中には、湿原はどろどろになって、馬は足を取られてとても進めません」
 横を歩くビュレス騎士伯が答えた。
「なるほど。敵がここにに追い込んだのも、これを見越してのことか」
 その湿原をすぐ背後にひかえる場所に、部隊の司令部である天幕が立てられていた。
 それはいかにも早急に立てられたらしく、いっさい装飾のない簡素なものであったが、中に入ると、食料の入った木箱があちこちに詰まれ、鎧や楯などの武器類が並べ置かれ、司令部とは思えない雑多な様子であった。
 積まれた木箱の間を抜けて、天幕の奥の間へ入ると、そこは狭いが一応は司令部らしく、テーブルには地図が広げられて、何人かの騎士たちが軍議をしていた。バルカス伯が入ってゆくと、騎士たちはさっと胸に手を当てた。
「トレミリア軍の本営より、我らの案内役として遣わされたレークどのの小隊が、ついさきほど敵陣を突破して合流した。噂どおり、まことに勇敢な御方だ」
「ああ、どもども」
 敵のさなかを突破し、返り血に濡れた凄絶な姿であったが、レークは騎士たちに陽気に手を振ってみせた。
「おお、そなたは、」
 奥にいたひとりの騎士が立ち上がった。
 優雅な足どり歩み寄ってきたのは、白銀の鎧兜に身を包み 鷲をあしらった紋章入りのサリットを手にした、なんとも美しい騎士だった。
「我が宿命の剣士よ」
「ありゃ」
 貴公子めいた端正な顔だちで、にこりと笑うその相手を前にして、レークはやや尻込みをした。どうも、なんとなく、ではあったが、自分がこの雅びな騎士様を、いくぶん苦手であることが、この再会ですぐにレークには分かってしまった。
「久しぶりだな。あの試合で戦って以来かな」
「ええ、ま。そうですかね」
 きらきらと輝く青い瞳と、くるくると整えられたブラウンの巻き毛、いかにも貴族的な優雅さをもったその騎士は、かつて大剣技会で戦った、トレミリアを代表する貴族騎士……ヒルギス伯であった。
「どうも、ごぶさたを」
「うむ。貴公も元気そうだな。またいずれ、互いの剣を正々堂々と交えようぞ」
 タードラン伯爵ヒルギスは、白い歯を見せ、爽やかに微笑んだ。つまりは、そういう様子をひとつをとっても、レークにはまったくもって辟易するような感じなのであった。
「それにしても、我が指揮のもと、セルムラードとの連合軍は、こうしてジャリアの部隊に包囲されることとなってしまった。まさかの事態であるが、こうして貴公が敵を突破してきたということで、にわかに勇気がわいてきたぞ」
「はあ、そうですかい」
(ていうか、あんたのような貴族のぼっちゃんが、へろへろと指揮をとっていたせいで、こんな場所で足止めを食うことになっちまったんじゃないのか?)
 レークは内心ではそう思いつつ、いっこうに難儀そうに見えない、爽やかきわまりないこの貴族騎士を、ため息をこらえながら見つめた。
(セルディのダンナも、いかにも貴族のぼっちゃん的だったがな、なんつうか、まだ救いがあったな。コイツはようするに……女にきゃあきゃあ言われて育ってきた、白馬の王子様のようなやつだな。きっと、じっさいの戦いじゃあ、ものの役にはたたんぞ)
 そんなレークの思いを知らぬように、ヒルギスは従者にお茶の支度を命じて、気に入りのナッツの焼き菓子がここでは食べられないと嘆くのだった。
「さあ、ヒルギスどのも、こちらに。レークどのも加わったことだし、これからの我々の動き方についての方針を、早急に定めましょう」
 バルカス伯は、人々を集めて地図の前に立った。少なくとも、セルムラード軍の大将が実際的な人間で良かったことだと、レークはほっとした。
「……というような状態で、ほとんど半刻ほどの間に、我々はこの湿原地帯へ追いやられる形になったのです」
 地図を指さしながら、事態の推移を説明すると、バルカス伯は、無念そうに首を振った。
「まるで、そう……敵は最初から、我々を北側に追い込むことを予定したように」
「じゃあ敵は、まるでこの援軍が北のホルンから出てくることを、はなから知っていたとでもいうのかい」
「分かりません。が、そうとしか思えません。ずいぶん霧が出てきたと思ったら、いきなり、待ち伏せていたかのようにジャリア軍が現れたのです」
「霧の中から突然、黒い兵士たちがたくさん出てきて、びっくりしたわ」
 レークの横に来たリジェが地図を指さす。
「このあたりね。いきなりの敵の出現に、我々はずいぶんと混乱してしまった。態勢を整える間もなく敵に囲まれ、混戦になってしまったのだわ。そして、気付かぬうちに、私たちはじりじりと北へ、北へと追い込まれてしまった」
「ふむ、なるほどな」
 レークは腕を組んだ。リジェはその肩をぴったりと寄せてきた。
「私も戦ったわ。こんな大きな戦闘は初めてだった。目の前で味方が次々に敵の槍に倒れてゆく……必死だったわ」
「ああ、あんたも、よく頑張ったな」
「ええ」
 リジェの体のぬくもりを感じながら、思わず抱き寄せそうになるのをレークはこらえた。ふと見ると、正面のビュレス騎士伯が、いくぶん面白くなさそうにこちらを見ていた。
「私も、バルカス伯や、リジェどのをお守りするべく必死でした」
 ビュレス騎士伯は、ちらりとリジェの方を見ながら言葉をついだ。
「ただ、奇妙なのは、敵はどうも、こちらを壊滅させようというのではなく、あくまで湿地帯の方へ追い詰め、包囲しようというような動きであったことです。敵の攻撃自体はさほど苛烈ではなく、もちろん多くの死傷者は出しましたが、突撃してくるというよりは、明らかにこちらを囲い込んで追い込もうというような動きでした」
「なるほど。見たところ敵の数自体も、そこまで多くはないようだしな」
「ええ、おそらくは五千ほどかと思います。数の上ではむしろ我らが有利でしたが、なにせこの霧で……視界がさえぎられ、連絡系統も行き届かずに、我らはただ混乱し、戦いながら後退を余儀なくされました」
 バルカス伯は、草原の地図を指でなぞるように示した。
「現在、我々はこのあたりで、ほぼ完全に敵に半包囲されているわけです。何度か突破を試みようとはしましたが、槍兵で壁を作る敵に遮られ、おまけにこの霧ですから、連携をしようにも、近くの小隊の姿すら見えず、方向すら分からず、兵達は不安の中で右往左往するばかり。そうして現在はいくぶん膠着状態となっています。こちらが出て行かないかぎりは、敵が攻撃してくる様子はないのです」
「ふむ。とすると、やはり敵の狙いは、この援軍部隊を足止めさせることにあるようだな。 おおかた、その間にレード公の率いる本陣を叩くための戦力を整えようってんだろう」
 レークの言葉に、バルカス伯がうなずく。
「なるほど。つまりこういうことですかな。いまは敵側も、本国からの援軍を待っていると。そのための時間稼ぎとして、我らを足止めさせていると」
「たぶんな。そう思って間違えねえだろう。それにしても、この部隊が北のホルンから出てくると、ジャリア側はどうやって知ったんだろうな。つまり情報が漏れていたってことだろう」
 バルカス伯をはじめ、そこにいた騎士たちは黙り込んだ。それはおそらく、誰もが思っていたことなのだろう。
「トレミリアの内部に敵の間者がいるなどとは、思いたくないですが。しかし、ありえないことではない。敵がいつのまにか間者を送り込んでいたということもあるかと……」
「まあな。しかし、いまはそれを探るよりも、この状況をどうするかが先だな。本陣では、ローリングをはじめトレミリアの騎士たちが、この援軍の到着を、それこそ首を長くして待っているだろうからな」
「でしたら、やはりなんとかして、敵を突破しましょう。私も先頭に立ちますから、ここは思い切って突撃するしかないでしょう」
 勇ましくそう進言するビュレス騎士伯は、またちらりとリジェの顔を見た。
「だが、そうなると、相当の犠牲は覚悟しなきゃならねえな。たとえば、本陣と合流できたとしても、この援軍部隊の数が半分になっちまってたら、それこそ敵の目論見通りじゃねえか」
「しかし、いつまでも、ここでじっと時間を浪費するばかりでは……」
 レークの言葉に、ビュレス騎士伯が不満そうに言うと、それまで黙って聞いていたヒルギス伯も口を開いた。。
「私も、いつまでもここでじりじりとしているというは、トレミリアの栄えある騎士としての誇りにかけて、耐えられないな」
 こんなときに誇りもくそもないだろうにと、レークは内心では思いつつ、ともかくヒルギスはトレミリアの援軍部隊五千の指揮官であるので、無礼に扱うのも利口ではないことを、彼はちゃんとわきまえていた。
「確かにね。ヒルギスさんの言うように、いつまでもここにはおられない。かといって、性急に霧の中を出てゆくというのも、危険が大きすぎるぜ」
「ではどうしたら……」
「そうだな。ともかく霧の晴れるのを待つことだろうな」
 レークは気楽そうに言った。どんなときでも、力まず慌てずが己の信条である。
「そうすれば敵の隊形の様子も知れてくるし、なにか打つ手が見えてくるかもしれない」
「ですな。いまはそれしかないか」
 誰も他に考えはないようで、人々は曖昧にうなずき合った。
 結局、それ以外に結論というものは出ず、会議というにはあまりに内容の薄い話し合いはいったん打ち切られた。
「やれやれ。有能な人材ってやつが欲しいねえ」
 まるで司令官の嘆きのようにつぶやき、レークは天幕を出た。
 あらためて、しばらくの待機を告げるようにアランを部下たちの元へやると、自分は一人、天幕の裏手へと歩きだした。
 霧はずいぶんと薄れてきていた。天幕の北側には、荒涼とした湿原地帯が、うっすらとした霧の向こうへと、どこまでも続いている。凍りついた地面には、ところどころに水が染みだしているのが見える。
「溶け始めているのか。これがもしずっと凍っているんなら、この湿原を抜けていくこともできそうなんだがな」
 レークは思い切って湿原へと足を踏み入れた。サクリとした感触で足が少し沈むが、それでも、なんとか歩いてゆけそうだった。
「おっと」
 固く凍った場所と、そうでないやわらかい場所があるようだ。たとえ表面が凍っていても、その氷を突き破ると、下の粘土質に足が埋まってしまいそうになる。
「こりゃあ、なかなか難しいな」
 だが、固い場所を見分けながら歩いてゆけば、まったく無理というほどでもなさそうだ。
「うう、なんだか水っけが増えてきたな」
 空がずいぶん明るくなり始めている。アヴァリスの陽光が顔を出すにつれて、気温が上がってきているのだろう。夜間凍っていた湿原は、日中は泥の海に戻るのだ。
「こいつはいかん」
 レークは、もと来た足場を戻り始めた。
 凍っていた地面は、さっきよりもぬるりとしてすべりやすくなり、足場を間違えるとずぼりと足首が埋まってしまう。粘土質の泥であるから、もしはまってしまったら、なかなか抜け出せなくないだろう。
「底無し沼みたいなもんだからな、気をつけねえと」
 足元を泥だらけにしながら、なんとか固い地面に戻ると、レークはほっと息をついた。
「だが、こいつは……面白いな」
 少しずつ、霧が薄らいでゆき、それとともに鈍色の湿原の広がりが、しだいにあらわになる。その光景をじっと見つめながら、なにを思ったかレークはにやりとした。
 再び天幕に戻ると、そこにはバルカス伯ともう一人の騎士が、地図を眺めながら話し合っていた。リジェやヒルギスの姿はなかった。
「レークどの、霧が晴れてきました」
「そのようだな」
「こちらは、スレイン伯。我が軍の前線部隊の隊長です」
 うっすらと血のにじんだマントと、傷のついた鎧をまとった騎士が胸に手を当てた。
「名高き剣豪たるレークどの。お初にお目にかかる」
 おそらく歳は三十になるならずというところだろう。セルムラード人には珍しい浅黒い肌をした、なかなか果断そうな顔つきの騎士である。
「セルムラードの騎士にしては、日に焼けて、まるで船乗りみたいだな」
「私はもとはアングランドの港町出身でした。ゆえあってフィリアン女王のもとに騎士として仕える身となりました」
「なるほど。見るところ、あんたはなかなか根性がありそうだ。いっそ、ヒルギスさんと指揮官を代わって欲しいくらいだな」
「ははは。それはまた恐れ多いことで」
 そう笑いながらも隙のない顔つきである。レークは、この年上の騎士がなかなか気に入った。
「ところで、いまバルカス伯に報告したところですが、ジャリア軍はやはり、こちらを包囲するのみで、無用な突撃は仕掛けて来ないようです」
「みたいだな」
「敵の隊列は、長槍隊を前面に出しながら、歩兵と騎馬隊を距離をとって、ゆるやかに配置しています。つまり、こちらをなるべく外に漏らさないというような隊形です」
「ならやはり時間稼ぎだな。たとえ、長槍隊の壁を突破しても、そこに歩兵と騎馬隊が穴を防ぐように集まってくるということだろう」
 スレイン伯がうなずいた。
「レークどのの言うように、敵軍の包囲をすべて突破しようと思うなら、こちらにも相当の被害を覚悟しなくてはならない。だがそれこそ、敵の思惑通りでしょうからな」
「だとすると、打つ手はなしということか」
 バルカス伯が腕を組んだ。だが、レークはあっさりと言った。
「いや、あるぜ」
「それは、いったいどのような……」。
「簡単さ、待つんだよ」
「待つ……しかし、それではあまりに策のない」
 バルカス伯が言いかけるのを、スレイン伯が手で制した。
「どうやら、レークどのには、なにか考えがあるようだ」
「まあ、考えっていうほどでもないがな。ともかく、ただ……夜を待つのさ」
「夜を」
 顔を見合わせる二人にうなずくと、レークは、テーブルに広げられた地図を指さした。
「レークどの、そこは……」
「そうさ」
 そのとき、アランが慌ただしく駆け込んできた。
「隊長。レーク隊長!」
「どうした。なんかあったのか?」
「は、はい。すぐに来てください」
 腕を引っ張らんばかりのアランの様子は、ただならぬふうであった。
「なんだ、おい……」
「とにかく、すぐに」
「じゃあ、ま……とにかく、いまは待機ってことでよろしく」
 バルカス伯、スレイン伯に言い置くと、レークはアランとともに慌ただしく天幕を出た。
「おい、どうしたってんだアラン」
「ええ。申し訳ありません、じつは……」
 小走りで前をゆくアランが、肩ごしに振り返る。どう説明していいものかと口ごもる様子だ。
「ともかく、来てください」
 さほど広くない陣内であるから、天幕の間をぬって騎士たちとすれ違い、目の前を横切る食料配給の荷車を避けながらしばらくゆくと、部下たちのいるはずの辺りまで来た。
「ありゃあ、ヒルギスのダンナか?」
 行儀よく整列した部下たちの姿と一緒に、白銀の鎧に臙脂色のマント姿がそこに見えた。
「はい、じつは……」
「おお、ちょうどよかった。レークどの」
 こちらに気付いたヒルギスが、鷹揚にレークを手招きした。
 いくぶんいやな予感とともに近づいてゆくと、ほとんど泣きそうな顔をしたカシールがこちらを振り返った。その様子は、どうにもただ事ではなさそうだ。
「隊長!」
「おお、どうした」
「なあに、そう騒ぐほどのことでもないのだが」
 ふわりと巻き毛をかき上げたヒルギスが、ふっと笑みをもらす。
「なに、この少年騎士をね、僕の小姓……というか、部下にもらいたいと、こう思ったんだよ」
「なんだって?」
「見たところ、とてもかわいらしい顔をしていて、僕の好みだ。それに剣の方も強いらしいじゃないか。ならば、いっそのこと、この僕の側近として仕えてもらった方が、彼にとってもいいのではないかとね」
「そりゃあ、また……」
 ヒルギスの唐突な申し出に、レークはいくぶん言葉を失った。
「だがね、なかなかこの少年がうんと言わぬのだよ」
「私は嫌です」
 カシールはきっぱりと言った。
「私はレーク隊長の部下です。この小隊にいて戦うことが私の誇りです。そのお話はどうぞお断りいたします」
「おやおや、嫌われたものだ」
 ヒルギスは肩をすくめた。
「しかしね、この部隊に加わっているからには、司令官たる僕の命令というのは、ほぼ絶対なんだよ。分かるかね。ただ、もちろん無理に命じるというのも可哀そうだから、こうして要請というカタチで君に話をしているのだけどね」
「ははあ……そういうことか」
 ようやく状況を飲み込んだレークは、二人を見比べ、どうしたものかと腕を組んだ。アランが耳打ちをする。
「ヒルギスどのは、たまたま近くを通り掛かり、我が小隊の面々が並んで騎士の礼をしているところを、カシールに目を止めて、気に入られたようです」
「ま、分からんでもないがな。いかにも美少年ってやつだからな。しっかし、この緊迫したときに、どうでもいいことで……」
 苦笑するレークであったが、当の本人にとっては深刻な大問題であるのだろう。
「隊長、お願いします!」
 涙をためたカシールが叫ぶように言った。
「私は……この小隊で仲間たちとともに戦い、そして、そして死ぬ覚悟です。どうか、隊長の口からお言葉添えを。お願いします」
「ふむう」
 すがるようなカシールのまなざしに、レークはさすがに哀れを感じた。この小隊の仲間こそが、共に命を賭けるに足るかけがえのない存在なのだと、彼の目がそう物語っている。
「なあ、ヒルギスさんよ、あんたの申し出はありがたいんだが……いまはさ、そういうつまらんことでもめている時じゃねえし」
「もちろん分かっているよ。レークどの」
 ヒルギスはごくおだやかな調子で、レークの言葉をさえぎった。その切れ長の目に見つめられると、さすがに秀麗な美青年らしい、貴族としての妖しい魅力が感じられる。
「そして、これは君も分かっているとは思うが、この部隊における指揮の決定権というのは、ほかならぬこの私にあるんだよ。たとえば、そう……君がなにかの戦略のアイデアをもっているとして、それをこの軍全体の決定とできるのは、私とバルカス伯なのだ」
「そりゃあ、まあ、そうだろうさ。あんたが大将、ってやつだな」
「分かっているならばいいさ」
 ひとつうなずくと、ヒルギスはマントを大仰にひるがえした。
「では、ひとまずはこれで失礼するよ。それではな、カシールくん」
 従者の手を借りてひらりと馬に乗ると、馬上から軽く手を振る。
 いくぶんあっけにとられた体で、隊の部下たち、それにレークも、去ってゆくヒルギスを見送った。
「隊長……」
 カシールがレークの前に来て頭を下げた。
「ありがとうございました。そして、すみませんでした」
「なにをあやまる」
「いえ、このようなつまらぬことで、ご迷惑をおかけしまして」
 いまにも泣きだしそうな顔を見て、レークはその背を軽く叩いてやった。
「なあに。お前は有能なオレの部下だからな。奴の小姓にするのはもったいないや」
「はいっ。ありがとうございます!」
 彼が嬉しそうにうなずくと、アランや他の仲間たちもほっとしたようで、カシールに笑いかける。
「しっかし、さっきのヒルギスさんの言い方は……なんか、面倒なことにならなきゃいいが」
「どうしました?隊長」
 つぶやいたレークに、アランが振り返る。
「いいや、なんでもねえ。ただ……そう、いろいろ大変だってこった。敵に囲まれて、背後は湿地帯、大将は能天気な貴族サマと……ここを脱出するにはな、いろいろと」 
「はあ、なるほど」
 アランはうなずいて首をかしげるだけだった。実のところ、レークが考えている彼の大きな役割について、アランはまだなにも知らぬようであった。
「さって、ともかく天幕へ戻るとするか」
 さっきは慌ただしく、バルカス伯、スレイン伯との話し合いもそこそこに出てきてしまった。本来のレークの直感的で奔放な行動原理からすると、自分の考えている作戦を彼らに伝えた上で、会議によって軍の行動が決定されるというのは、じつに面倒な手順であったが、それも仕方がない。部下を預かる隊長としての責任もあれば、このいくさ自体が、トレミリア国やセルムラード、ひいては大陸全体の命運にも関わってくるのであるから、今回ばかりは独断で動いて失敗するようなことは許されないのだ。
(しちめんどくせえことだが、しょうがねえな)
 足早に天幕に戻ってきたレークは、入口の前でいきなり腕をつかまれた。
「レーク」
 そこに待っていたのはリジェであった。


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