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水晶剣伝説 [ロサリート草原戦(前編)


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「セルムラードとトレミリアの援軍が、明日にも到着するってこった」
 天幕に集まった己の部下たちを見回して、レークは言った。
「では、次は援軍の護衛任務ですか」
「まあ、護衛っつうか、ようするに案内だな。レード公の言葉によれば、今後の戦闘次第では、少しずつ戦場が移動してゆくことも考えられる。その時々の適切な場所に援軍を招き入れたい、ってことらしいぜ」
「なるほど。それで援軍部隊は南のサルマからのルートではなく、北側のノスディング、ホルンを通って、草原の北部に出てくるというルートをとるのですね」
 燭台の火に照らされた地図を見ながら、アランがうなずいた。
 その横から、カシールが真剣な顔つきで地図を覗き込んでいる。巨漢のラシムは他の騎士たちの邪魔にならぬよう、後ろに仁王立ちしている。怪我人を除く二十余名の部下たちは、誰もが次の任務へ向けて、士気を高めているようだった。
 とくに、カシールは、仲のよかったトビーの死を経験して以来、美少年めいていたその顔に強い決意の表情を浮かべるようになり、騎士としてひとつ成長したようだと、レークはひそかに思っていた。それはもちろん、アランや他の若い騎士たちも同様だった。
 激しいいくさを戦い、仲間が傷を負ったり死んだりするのを目の前で体験したことで、彼らは精神的にも肉体的にも逞しくならざるをえなかった。補給物資が滞れば食事はごく粗末なものとなり、明日の飲み水さえおぼつかなくなる。敵の夜襲や、早朝からの戦闘に備えるため、つねに剣を手にして飛び出せる準備をしておかなくてはならない。傷だらけの楯と、返り血のついた鎧をまとい馬に乗り、敵の隊列に向かって突撃してゆく。それは、大変な疲労であったし、神経の高ぶりを持続させていなくては、心の恐怖が勝ってしまいそうにもなる。だが高ぶりは安らぎを遠ざけて、夜になってもなかなか眠れない。そうした不安と神経の消耗は、日を追うごとに大きくなってゆく。そして、それがいくさというものなのだった。
 若き騎士たちは、身をもってそれを経験していった。その時々の状況に合わせて自分を存在させること。この過酷な場所では、精神的により強くなり、たくましくなることが、不可欠なのだった。ただ一方で、レークの小隊においては、いったん前線の任務から離れ、補給物資の護衛や、陣内における雑用などの仕事を任せられたことで、気分転換になっていたことも確かだった。おかげで彼らは、冷静を保ちながらまた戦場で戦う決意を強くし、希望する力を蓄えることができた。援軍の護衛任務という次の役目を聞いても、誰も不平を言うことはない。その重要性をすぐに念頭に置くことができたのである。
 翌朝、集合した小隊はさっそく出発の準備にかかった。
「援軍部隊の進軍の状況によっては、迎えの時間が変わりそうだからな。いつでも出発できるよう準備しておけよ」
「了解しました」
 集合した小隊の騎士たちは、命令を受けててきぱきと動きだした。
 ジャリア軍の攻撃は、いっときに比べると激しさを弱めているようだった。トレミリア軍も、これまでの戦いで千人以上の損害を出しながらも、大きく崩れることもなく持ちこたえている。いくさは小康状態に入ったように思えた。
「おそらく、敵の方も増援部隊を待ってから、本格的な進軍を再開するのではないでしょうか」
 司令部であるレード公の天幕には、ローリング、ブロテをはじめ、ハイロン、ガウリン、クーマンらの隊長騎士たちが集められ、定例の報告のあと、このいくさの大きな見通しについての会議がなされていた。
「ではやはり、こちらもなるべく早く援軍を受け入れることですな。少なくとも敵よりも早く」
 ブロテの言葉に腕を組んだローリングがうなずく。
「うむ。そうすれば敵への牽制にもなろうし、今後の作戦も立てやすくなる」
「昨夜届いた情報では、フェスーンに到着したセルムラード軍一万余りが、トレミリアの増援部隊と合流し、いよいよ出発したということですから、早ければ今日の昼か、遅くとも夕刻にはロサリート草原に到着することになります」
「だが南側……つまりサルマからではなく、逆の北側から来るとなると、本陣に合流するにはさらに半日はかかるな」
「このルートには、トレミリアの北側からの敵の侵入を防ぐという意味もありますからな。それにサルマの町の物資は我々への補給で手一杯。ノスディングやホルンなど北部の都市からの補給を利用するという点でも、最善の策と思われます」
 ローリングとハイロン、クーマンらがうなずき合う。
「しかし、ひとつ懸念があるとすると、」
「なにかな、ガウリン卿」
「あの浪剣士上がりの隊に、また護衛役を任せるというのは、どうなのでしょう?」
 ガウリンが不平そうに言う。以前にレークに殴り掛かったことからも、彼が元浪剣士であるレークを重要な任務につけることを、良く思っていないのは明らかだった。
「またしても、つまらぬ失敗を繰り返すのではないかと」
「戦場で一度の失策があったとはいえ、レークどのは勇敢な剣士でおられる。先日の補給部隊の護衛もこなしたことであるし、そう問題はないでしょう」
 この場にいないレークを擁護するようにブロテが言う。もっともだというように、ローリングもうなずいた。
「確かに、彼はまだ戦場での集団戦には不慣れかもしれないが、それは我らとて同じこと。なにより、これほどの大規模のいくさは、私がトレミリアに生を受けて以来、初めてなのだからな。それはガウリン卿とてそうであろう」
「それはそうだが」
「なにより、彼は先にセルムラードに赴き、フィリアン女王や宰相エルセイナどの、それに今回セルムラード軍を率いるバルカス伯とも面識があるのだ。その援軍を迎えるに彼ほどに適任はおらぬと思うが」
 ローリングの言葉に、血気盛んなガウリンも黙り込んだ。
「それについては、心配することもなかろう」
 総司令官の声を聞き、天幕の騎士たちは顔を上げた。連日の戦いにいくぶんその顔に疲れを覗かせてはいたが、もともと頑健なる剣士としても名高いレード公爵は、その目に依然として鋭い光を宿らせ、トレミリアの命運を握るであろう隊長たちを、ゆっくりと見回した。
「いらぬ不安は考えぬことだ。それよりもいまはむしろ、一万の援軍を迎え入れたあとの陣形をある程度決めておくのがよかろう。戦いが小競り合い程度で済んでいる今のうちに。地図上における敵の進攻の予想も含めてな」
「まさしく、その通りですな」
 ローリングが応えると、他の騎士たちもそれに賛同した。
 ジャリア軍の勢いの前に劣勢に立たされた日も何日もあったが、まだ決定的な痛手は負っていない。戦死者、負傷者は日増しに増え、食料、物資の補給も滞ることもあった。だが、それでもトレミリアの騎士たちは、誰一人としてこのいくさの勝利を疑ってはいなかった。総司令官であるレード公爵の指揮のもと、ローリングをはじめとした王国の名だたる騎士たちの存在が、末端の兵士たちまでの、その士気高めさせているかぎりは。
「では、まずは私の考えから……」
 ローリングが地図を指さす。ずいぶん傷の増えた銀の鎧に身を包む、その姿は、まだ充分に力に満ちあふれ、王国の誇りを背負うように頼もしかった。

 いよいよ、レークの小隊に出発の命令が下った。
「よおし、いいかお前ら、護衛任務とはいえ気を抜くなよ。なにせ食料物資以上に大切な援軍さまのお迎えなんだからな」
「はいっ」
 隊列を組む若き騎士たちは、それぞれに馬上で顔を引き締めた。たとえ直接の戦闘任務ではなくとも、戦いになることも想定して、鎧に身を包み、帯剣して弓を背負った。
「では出発だ!」
 レークを先頭に小隊は動きだした。副隊長のアラン、カシールがそれぞれ左右を警戒する役をにない、巨大な楯を背負ったラシムが最後尾につく。
 たった二十数名の小部隊であるが、この十日ほどを共に過ごしたことで、彼らの中には仲間としての一体感のようなものが生まれていた。トビーをはじめ何人かの仲間が犠牲になったという経験も大きかったろうし、もちろん幾度も突撃をくぐり抜けたり、いくさの中で己の任務をこなしてきたという、一人一人の自負もあったろう。
 先頭をゆくレークは、ときおり振り返り隊全体に目を配る。彼にとっては、いまやこの小さな部隊が、可愛くてしかたないのであった。
(オレは、けっこう隊長ってやつに向いてなくもないのかもな)
 今日はアヴァリスの見えない鈍色の空と、彼方まで続いてゆく草原……その溶けるような地平を馬上で見つめながら、レークはふと思うのだった。
(これまでは、ずっと一匹狼だった……)
(アレンは別として、オレは他の誰ともつるんだりしたことはない。一人で気ままにでかけ、一人で馬を走らせる、それが当たり前だったし、一番気楽だったんだがな)
(だが……いまは)
 いまでは、自分を信じる部下たちがいる。どこまでも自分についてくる若き騎士たちが。彼らはきっと、たとえ命懸けの任務であっても、間違いなく自分の命令に従うだろう。
(なんてえか、変な気分だが……そう悪くねえ)
(俺の部隊……つまり、俺の軍隊ってのか)
 たった二十数名でしかないが、己の手足となり、命を賭して戦う兵士たち。そんなものを自分が持つことになるとは、これまで夢にも思いはしなかった。
(こいつらと一緒に戦うのは、なかなかいい感じだ)
 戦場において一人ではないということ、力を合わせるということが、恐怖を上回る勇敢さを生む。成功の暁には、喜びを共に分かち合える。そんな存在を、いままではアレンの他には知らなかったのだ。
(できれば、これ以上はもう、こいつらを一人も死なせたくないもんだ)
 レークは心からそう思った。そして部下であり仲間である、彼らのためには、きっと自分も命を賭けるのではないか……そんな気がしている。
(おかしいぜ。そんなのは、これまでだったら、ただ面倒だって思ったろうにな)
 手綱を取りながら自嘲ぎみににやりとする。ただ、次に振り返ったときには、もう彼は隊長の顔をしていた。
「霧が出てきましたね、隊長」
「ああ、そうだな」
 今日は朝から一度もアヴァリスが顔を見せていない。灰色の寒々しい冬空が、どこまでもずっと広がっている。アランの言うように、あたりには霧が立ち込めだしていた。
「こりゃあ、もしかしたら雨になるかな。このまま霧が濃くなるよりはいいが」
 馬上から空を見上げる。肌寒さにぶるりと震えると、なんとなく、いやな予感がした。

 霧の向こうにガーマン山地の丘陵を確認しながら、小隊は北へ向かって駆け続けた。
 太陽が見えないので確かな時間は分からなかったが、午後を過ぎる頃には、彼らはトレミリア北東の国境都市ホルンの城壁を、ゆるやかな草原の丘の向こうにとらえた。
「ようし、ここまでくりゃあ、もう目と鼻の先だな。いったん小休止するか。アラン、周りに異常はないか確認しろ」
「はい」
 アランの馬が周囲の偵察へと向かう。
「霧が少し濃くなってきたからな。はぐれるなよ。もし迷ったらホルンの城門を目指せ」
「了解です」
 レークと他の騎士たちは馬を降り、それぞれに休憩をとった。半日近く草原を馬で走るのは、なかなかに体力がいる。馬に草をはませてやり、自分も水筒の水に口をつけると、レークは霧の向こうに見えているホルンの城壁へ目をやった。
「なんだろうな……」
 まるで白い闇の向こうに、うっすらとぼやける城壁は、現実感のない幻のようだ。
「妙な胸騒ぎがするぜ……」
「どうしました?隊長」
 そばに来たカシールが、一緒に北の方を見つめる。
「いや、なんでもねえが……あれは、ホルンの城壁に違いないよな」
「ええ。トレミリアの北の城塞都市、ホルンの城門です。あそこは北側の国境都市として、とても強固な城壁をもっていますから。ちょっとやそっとでは、敵からの攻撃で落とされることはないですよ」
 ホルンはトレミリアの三日月形の国土の、ちょうど右上の端に位置する。南部のサルマが交易の拠点であるなら、北部のホルンはいわば王国にとっての物見の塔のように、外部からの襲来を監視する役目をもつ強固な城塞都市であった。広大なロサリート草原はもちろん、さらに北部の湿原地帯や北コローデの森にも常に目を光らせ、有事の際にはただちに数千の守備隊が出動できる準備がある。建国から長い間、トレミリア王国が安泰であったのも、東側の草原から見れば、ほぼ全土をガーマン山地に守られた地形のおかげであったし、王国へ侵入しようと思えば、北側のホルンか、南側のサルマからしかない。つまり王国全土が、いわば堅固な砦のようなものであるからなのだ。
「ホルンは有史以来、何度か蛮族の襲来を受けたらしいですが、そのたびに城壁は強固にされ、今のような高々とそびえる城塞となったのですよ」
 誇らしげにそう言うカシールが、もともとは北部のハスティング領の爵位の家系の生れだというのを、以前に聞かされたことをレークは思い出した。
 ほどなくしてアランの馬が戻ってきた。
「一エルドーン周囲にはとくに異常は見当たりません。ただ……」
「どうした」
「はい、霧がどんどん濃くなっています。視界はもう五十ドーンもないくらいで。それにどうも、なんというか……」
「なんだ?はっきり言え」
 煮え切らないアランの報告に、レークは少しいらいらとした。
「はい。どうもその、妙に静かなんです」
「それはどういうことだ?」
「いえ、どうということもないんですが……なんとなく、周りがしんとしていて、どうも不気味な感じがします」
「それは霧のせいかもしれないがな」
 レークは立ち上がり、部下たちに告げた。
「よし、ともかくホルンの城壁まで行ってみるぞ。時間的にはもう援軍が集っていてもいい頃だろう」
 再び馬に乗って前方を見やると、確かにさっきよりもいくぶん霧が濃くなった気がする。
「視界が悪い。馬がおびえないよう、少し速度を落とすぞ」
 動きだした小隊は、はぐれぬようにそれぞれの間隔を狭めた。
「どうも、おかしいですね」
「ああ……」
 もうずいぶんとホルンの城壁に近づいているのだが、辺りに援軍が集っている気配はまったくない。かなり霧が濃くなってきたとはいえ、大軍がいる気配なら分かるはずだ。
「もしかしたら、まだホルンの都市内にいるんじゃないのか?」
「かもしれません。自分が城門まで行って確認してきましょう」
「頼む。一応気をつけろよ」
「はい」
 アランの馬が先行して速度を上げる。単独行においては、彼より馬術に長けたものは誰もいない。
「くそ。ほとんど風もねえな。こう静かだと、霧の中で息が詰まるようだぜ」
 岩山のようにそびえるホルンの城壁を見上げ、レークはつぶやいた。己の中の胸騒ぎが、いっこうにおさまらないことにいらだちながら。
 アランが戻るまでずいぶん長くも感じたが、実際にはさほどの時間でもなかった。彼の乗る馬が霧の中から現れると、待ちかねたようにレークは声をかけた。
「どうだった?」
 アランは渋い顔つきで首を振った。
「それが……セルムラードとトレミリアの援軍部隊一万五千は、すでに……数刻前にはもうホルンの城門を出て草原へ入ったというのです」
「なんだとう?」
「城門の警備兵に確かめましたので、間違いはありません」
「そんなバカな」
 レークは馬上から周囲を見回した。
「じゃあ、いま、その援軍はどこにいるってんだ?どこにも……影も形も見当たらねえじゃねえか、ええ?」
「分かりません……念のため、援軍部隊が通過する際の通行サインも確かめてきました。そこにはヒルギス騎士伯と、セルムラードのバルカス伯のサインがたしかに残っておりました」
「どういうこった。まさか一万五千の軍が霧の中に消えちまったとでもいうのかい」
「わかりません……」
 アランはただそう繰り返した。小隊の他の騎士たちも、不安そうに周囲を見回している。
「それとも……そうだ」
 思いついたようにレークが声を上げた。
「あのヒルギスのダンナが部隊の指揮をしてるってんなら、きっと草原に不慣れで、その上にこの霧だからな、どっかあさっての方角へ動いちまったってこともあるな。いや、きっとそうに違いない」
「ええ。そうかもしれません」
「よし」
 気を取り直すとレークは、部下たちを見回した。
「なにせ一万以上の大軍だからな、まだそう遠くへは行っていないはずだ。もっと東へ行ってみよう。きっと南へ行くはずが、霧の中で徐々に方向が分からなくなっちまったのかもしれない」
 小隊は再び動きだした。視界の悪い霧の草原を、今度は東へ向けて。
「気をつけろよ。いったんはぐれると、見失っちまうからな」
 いよいよ霧は深まり、先が見えるのはもう前方二十ドーンがやっとである。馬の速度をゆるめて、小隊は身を寄せ合うようにして慎重に進んでゆく。
「隊長、本当に援軍は草原にいるのでしょうか?」
「ああ、いるだろうさ。なにせ指揮をとるのがあのヒルギスさんってこった。あの貴族騎士様が、こんな霧の深い草原に出てきて、迷うなって方がかわいそうだぜ」
「そう、かもしれませんが……」
 横に並ぶアランは、不安そうに周囲を見回した。
 草原の北側のこのあたりは、本隊が陣を張る南部に比べ土地の起伏がけっこうあるので、ゆるやかな上り下りを繰り返すうちに、よけいに方向が分からなくなってしまう。地面の低いところだと、たとえ霧がなくても視界はよくはない。今日のように朝から太陽が顔を見せないうえ、深い霧に覆われていては、方向感覚はほとんど失われたも同じである。一万五千の大軍が、霧の草原で迷ったとしてもなんら不思議ではない。
「ですが、隊長。このまま東へゆくと、北の湿原地帯へ近づくことになります。もし間違って湿原に踏み入れてしまったら、馬が足を取られて動けなくなります」
「ああ。分かっているさ」
 心配そうなアランにうなずいてみせる。
「オレも、旅をしていたころ、この草原を渡る途中に、噂に聞いた大湿原を見に行ったことがあるが、あれはなかなか大変なところだな。ただの泥の海だと思っていると、けっこう深くなっている。しかも、この霧だ。それはもちろん気をつけねえとな」
 レークは後ろに続く騎士たちが離れていないか、ときおり振り返って確かめながら、東へ向かって、いや、向かっていると信ずる方角へ馬を進ませる。もはや、引き返すにもその方向が分からない。ただ進むしかないのだ。
「隊長、このままでは、我々も迷ってしまいます」
「視界が……悪すぎます」
 騎士たちから不安な声が上がりだした。
 もう馬上から見えるのは隊列の二、三騎までで、その向こうは白い霧に包まれている。すぐ前をゆくものを頼りに、かろうじて馬を歩ませている状態である。不安になるのも無理ではなかった。
「いいか、みんな、しっかり付いて来いよ。この霧もいずれは晴れるはずだ。それまではなるべく距離を詰めろ。前のものを見失わないように」
 いまはそう言うくらいしかできない。むしろ先頭をゆくレークこそが、白い霧に覆われた闇の中を手さぐりで進む、おぼつかなさと不安にさいなまれていた。すぐ横をゆくアランも、前方に目を凝らしながら、慎重に馬を歩ませている。いかに馬術に長けた彼も、こんな深い霧の中での任務というのは、経験の外であったろう。
 やがて、地面はまたゆったりとした下りの傾斜になってきた。草を踏みしめる馬が、まるでこの先へ進むのを恐れるように不安げにいななく。
「隊長、いまなにかが……」
 アランが囁くように言った。
「どうした?」
「はい。かすかに、なにか聞こえた気がします」
「なんだと?」
 レークは小隊にいったん停止を命じた。
 馬上で耳をすませる。
「なにも、聞こえねえが……風の音くらいか。いや、」
 霧の向こうに目を凝らして、かすかな風の動きに集中する。
「おお、聞こえる」
「やや左手の方からです。なにか……声か、ざわめきのような」
「ああ、もっと北の方角だな」
 これ以上進めば、さらに湿原地帯へ近づくことになる。それは、この霧の中ではなかなかに危険がともなうことであったが。
「よし、いくぞ。みんな慎重にな。なにがあっても決して慌てるな」
「はいっ」
 小隊の騎士たちは、緊張を含んだ声で返事をした。最後尾のラシムなどはここからでは姿が見えなかったが、霧の向こうからその低い声がしっかり届き、レークはにやりとした。
 小隊は北へ向けて動きだした。もう十ドーン先がどうなっているかもよく分からない。まるで霧の海を、馬に乗って泳ぐような気分である。
「このまま湿原に滑り落ちちまうなんてことがないように、大地の神サマ、グレーテにでもお祈りしておくか」
 つぶやいたレークは唇をぺろりと舐めた。敵の隊列に突入するときとは、まったく別の静かな緊張が、手綱をとる手をじっとりと汗ばませる。
 さらに進んでゆくと、勾配はまたゆるやかに下っていた。それとともに、いくぶん風がひんやりとしてきたようだった。
「隊長……」
「ああ、聞こえるな。ざわめきのような……いや、」
 レークには感じられた。それは、たくさんの声や物音、それらが混ざり合って響く、空気の振動であると。
「いるぞ」
「は、はい」
 そのときだった。
 前方のけっこうな近くで、ひとつの絶叫がはっきりと聞こえた。
「おお。こいつは……いくさだ」
「た、隊長っ!」
 続いて、甲高い響きが……ひとの声と、怒声、そして剣の合わさる響きとが、霧の向こうから、次々に上がった。
「みんな、剣をとれ!」
 すかさずレークは命じた。
「戦いだ!」
 騎士たちに、にわかに緊張が走る、
「くさび形隊列!陣形が整ったら、突入するぞ」
「無茶です。隊長、この視界の悪さでは……」
「無茶もへったくれもねえ。きっと味方が敵と戦っているんだ、黙って見過ごせるか!」
 いまやもうはっきりと、この霧の向こうで、激しい戦闘が繰り広げられている、その気配が伝わってくる。剣と剣が合わさり、あちこちで叫び声が上がる。ただ、その姿は、霧にまぎれて見えないのだ。
「いいか。合図とともに突入だ。目の前に敵が現れても慌てるな。間違えて味方をやるんじゃねえぞ」
「は、はいっ」
 馬上で剣を振りかざし、
「突入!」
 叫ぶと同時に馬を走らせる。
 あたりの喧騒が大きくなり、
 いきなり、目の前にジャリアの敵兵が現れた。
「くそったれ!」
 瞬時に剣を振り下ろす。手応えとともに悲鳴が上がった。
「離れるな!付いて来い」
 背後の部下に向けて叫んで、前方へ突進する。
 霧の中から、次々に敵兵が現れる。
「どんだけいやがるんだ」
 目の前の敵に剣を振り下ろし、あるいは慌ててよけながら、レークは馬を走らせた。
 かろうじてアランの馬が付いて来ているのが分かったが、他の部下たちは分からない。もはや、馬上で後ろ振り返る余裕もない。
「くそったれ!」
 あたりには相当の数の敵兵がいた。どうやらジャリア軍の隊列の中に突入したらしい。
 右からも左からも、霧の中から黒い鎧姿が次々に現れる。
 片手で手綱を操りながら、レークは剣を振り下ろし続けた。視界の悪い中、いきなり出てくる敵の姿に驚かされつつも、目の前の敵をただやみくもに倒してゆくしかない。
「うわっ」
 突然、正面に黒い鎧の壁が現れた。驚いた馬が前足を上げていななく。
「くっ、どうっ!」
 かろうじて手綱を引き絞って、進む方向を変える。
「こっちだ。付いて来い!」
 背後にいるはずの部下たちに叫ぶと、あとはただ前を向いて突き進むだけだった。
 敵の壁をかいくぐって霧の迷路を抜け出す。
(……こっちだ)
 いったい、どちらの方角へ走っているのかも分からない。
 ただ己を信じる。己の勘を、そして運命を。 
 あたりに黒い鎧は見えない。だが安心はできない。霧の向こうから、次になにが現れるか分からないのだ。
「……」
 周囲に目を凝らしながら、じっと気配を読む。
 前方からかすかに風の流れを感じる。
 レークは迷わず、そちらへ進んだ。
 ひんやりとした空気……やがて視界が、かすかにひらけた。
 うっすらとした霧の中で、
 人の気配があった。
 そして、
「ああっ、レーク。レーク・ドップ!」
 切り裂くような声が、響いた。




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あとがき

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