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 水晶剣伝説 [ロサリート草原戦(前編)


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 その夜もジャリアの襲撃はなく、戦いはやがて三日めの朝を迎えた。
 レークの小隊は戦闘部隊から外され後方任務となった。武器や鎧の整備、壊れた天幕の修繕などの雑務が主な仕事である。
 戦いの喧騒を遠くに感じながら、レークをはじめ若い騎士たちは、黙々とそれらの作業をこなした。
 実際、彼らがすることは山のようにあった。柵や天幕の補強などはもちろん、武器類の整備と分別、それを各部隊に届ける仕事、さらには芋の皮むきなどの調理の手伝いから、井戸堀りに便所用の穴堀り、各種物資の伝達、その他、伝令や従者がこなすような仕事までもやらなくてはならなかった。ようするに、ここでは兵員以外の人材は、すべてが人手不足であったのだ。
「まったく、くそったれだぜ!」
 便所用の穴を堀りながら、レークは悪態をついた。
「なんでこのオレが、アホな騎士どものクソ穴を掘らなきゃならねえんだ、くそったれ」
「隊長。あとは自分がやりますんで」
「ああ、頼む。俺は疲れた」
 鍬をラシムに渡すと、レークは穴から這い上がり、そこに座り込んだ。
「腹は減ったし、足も痛えしで、最悪だ。こんなことなら草原になんざ来るんじゃなかったぜ。あのままクリミナと一緒に、フェスーンに行った方がずっと良かったってもんだ」
 空を見上げ、流れゆく雲の先に、その面影を見るように、レークはつぶやいた。
「もしかしたら、あいつも……本当はオレと一緒に来たかったんじゃないのかな」
 ふとそんなことも考える。別れ際の彼女の姿が、どうしても忘れられないのだ。
「今頃はもう、フェスーンに向かっているころだろうな……」
 レークのもとに、新しい指令がきたのはその日の夕刻であった。
 それは、明日の早朝にサルマを出発してくる補給部隊の護衛という役目であった。今日一日を慣れぬ雑務に費やした小隊の騎士たちにとっては、それは願ってもない仕事であった。
「助かった。もう天幕の修繕にはうんざりしていたところです」
「こっちは芋の皮を剥き続けて、二度と剣は握れないと思っていましたよ」 
 彼らは口々に言いながら、今度は一応は騎士として、護衛という任務につけることを喜んだ。
「じゃあ、これから日の沈む前に出発だ」
 レークも声を弾ませた。一番退屈していたのは、他でもない彼であったのだ。
「サルマの郊外で夜を明かしたら、日の出とともに補給部隊と合流。途中で山賊やなんかにも襲われるかもしれないからな。しっかり用心しとけ」
「はいっ」
 怪我のものを除いた二十人ほどの騎士たちは、久しぶりに気合の入った顔つきで準備にかかった。
 ここからサルマまでは、馬で走ればばさほどの時間はかからないが、補給物質を積んだ馬車を護衛品しながらとなると、帰りは半日はかかるだろう。食料や医療、武器などの物資が、いかに大切であるのかは誰もが分かっている。それを安全に届けるということは、なかなかに重要な役回りであるのだった。
 今日一日も、激しい戦いで多くの兵が負傷し、トレミリア軍の陣地内では薬も包帯もまったく足りていなかった。それだけに補給物資を迅速に届けることは最大の急務であり、レークは出発前に、ローリングからじきじきに言葉をかけられてもいた。
「頼んだぞ、レーク。食料はもちろん、剣も矢ももう足りなくなった。できれば鍛冶屋もあと四、五人は欲しいので、それを町のものに伝えてくれ。くれぐれも頼むぞ」
「ああ、任せな。さっと行って帰ってくるよ」
 本当ならばローリングと共に並んで戦いたかったが、いまは仕方ないとばかりに、二人は互いの肩を叩き合った。
 西の空にアヴァリスが沈み始めるころ、レークを先頭に、アラン、カシール、ラシムら、小隊がトレミリア陣地を出発した。
 ときおり隊列を確認しながら、夕日の方角へと馬を走らせる。
「サルマの郊外に着いたら、朝までは休めるからな」
「はい、隊長。ところで、足のほうは大丈夫なのですか?」
 馬を並べるアランが心配そうに訊く。
「ああ、まだちっと痛むがな。しかし、こうした任務なら全然平気だ。むしろ、この間に怪我を治して、また戦いに備えられるってもんだ」
「そうですか。自分も、また早く戦いたいです。トビーのためにも」
「ああ、そうだな」
 草原の街道に乗り、しばらく西へむけて馬を走らせると、あたりには徐々に木々が増えてゆき、やがて、草原の終わりを告げるように周囲は林に包まれた。
 日はもうすっかり沈み、ずいぶんと暗くなった。ヨーラ湖の広がりを左手に見ながら、さらに進むと、前方にマクスタート川の流れが現れてきた。橋の手前には、そこが国境であることを示す、トレミリアの三日月紋の旗をなびかせた物見の塔がそびえている。その先はもうトレミリアの国内、つまりサルマの町である。
 いまは戦時中であるから、夜半であっても物見の塔には、赤々と松明が炊かれ、川を渡ろうとするものを厳しくチェックしている。小隊はいったん橋の前で止まると、見張りに立つ騎士に、正規の通行証と軍の命令書を見せた。
「よし、通れ。川を渡って、町の外のバラックで寝泊まりすること。都市内への兵士の無断の進入は原則的に許していない」
「へーい、わっかり」
 見張り騎士のそっけなさに、自分は名高い剣の達人にして小隊長である、レーク・ドップだ、などと言いたくなったが、つまらぬ面倒はもうごめんだったので、素直に従った。
 マクスタート川にかかる石橋を渡り、サルマの町のすぐ外側まで来ると、彼らは馬を降りた。町を囲む城壁を見上げると、トレミリアを出発して、この町から始まった遠征の最初が思い返される。
「またここに戻ってきたんだな」
 森と湖と川に囲まれたサルマの町。ここから船に乗って、コス島へと渡った。思えばあれが旅の始まりだった。
(あれがもう何ヶ月も前か。いや、まだ数ヶ月……って感じかな)
 はじめは軽い遠足気分で出発したものが、コス島から、ウェルドスラーブへ、それからアルディ、セルムラードと、思えばずいぶんと長い旅となったものだ。
(いろんなことがあったぜ……)
 そうしてまた、このサルマに戻ってきた。まるで、リクライア大陸をぐるりと回ってきたような感覚であった。
「隊長、こちらです」
 城壁を前に思いにふけるレークの背中に、アランが声をかけた。
「あ、ああ」
「あのバラックのようです。見たところ馬屋もあるようですし、中はけっこう広そうですよ」
 そこは、町の市壁にへばりつくようにして建てられた小屋で、木の柱に漆喰の壁でできた簡素な造りであったが、一晩を過ごすにはここで充分だった。小屋は市壁にそって並ぶように建てられていて、おそらく町には入らない行商人や、旅人などの仮の宿としても使われているのだろう。
 馬屋に馬をつなぐと騎士たちは小屋へ入った。地面の上に板をしいただけの部屋で、簡素な寝台と、乾燥した藁が積まれていた。それに川沿いの町であるから水には事欠かない。なみなみと入った水おけがいくつも置いてあった。
「じゃあ、みんな、あとは適当に寝とけ。寝台は足りないが、毛布はあるようだからな、藁の上でも充分だろう」
「隊長は、まだ寝ないのですか?」
「ああ、オレはちょっと散歩してくる。夜明け前にはみんなを起こすんだぞ、アラン」
「了解しました。お気をつけて」
 あとのことは副隊長である彼に任せておけば大丈夫だろう。レークはひとり外に出た。
 そのまま右手にサルマの市壁を見ながらずっと歩いてゆくと、涼やかな夜風とともに水の匂いが感じられた。林の向こうにヨーラ湖が見えた。
「ああ、またこの湖に戻ってきたな」
 木々の間を抜け、湖に近づき、そのほとりに立つ。黒々としたヨーラ湖の湖面が、夜空のもとに広がった。
 周囲を森に囲まれたヨーラ湖は、夜の中で見ると、またとても神秘的に思える。ここからクリミナとともに船に乗り、南の海へと出て行った。あれも、そういえば夜だった。
(あれから、ずいぶんとまた、いろんなことがあって、そして……またここへ戻ってきた。なんだか不思議な気分だせ)
 ひっそりとした夜の湖面を見つめながら、ときの流れと変転に思いを馳せる。
 あのときの自分と今の自分では、気持ちも違えば置かれる立場も違っている。まさか、かつてここを出発したときには、あのような冒険に次ぐ冒険が行き先先で待っているなどとはまるで思いもしなかった。そして自分が、ウィルラース、フィリアン王女、エルセイナなど、それぞれの国を動かしてゆくような人々と出会うなどとは考えもしなかった。
(そうだ、それに……あの、土の中の迷路、マーゴスの弟子だとかいう老人ともな)
 それらは、思えばなんという大変な冒険であり、不思議な邂逅であったことだろう。とても一介の剣士が味わうような運命ではない。
(ま、それもこれも、このオレが、やっぱりただものではないってことなんだろうがな)
 そして、コス島では最高の剣を得て、ジャリア軍にまぎれてアラムラ森林を超え……いよいよ戦い渦巻くロサリート草原にやってきた。部下を与えられ、小隊長となって、その任務としてこのサルマへ戻って、こうしていま、ヨーラ湖を見つめているのだ。
(なんてえ、変わりようだろう。オレも、この世界も……)
 レークは思わず、ほっとため息をついた。あのときと同じように、夜の湖を眺めている自分……しかし、それが、かつてとはまったく違う立場で、そしてまったく異なる気分でいるというのは。
(とても、変な感じだせ……)
 クリミナとの関係もそうだった。あのころはまだ、たでの宮廷騎士長と、元浪剣士でしかなかった二人が、この遠征の間に、いくつもの危険な冒険を共にしたことで、ずいぶんと身近に感じられるようになった。もっといえば、男と女としての互いの存在を意識するようにも。
(まだ、それは、はっきりとは分からねえがよ……けど、そんな気がする)
 それが、恋とか、愛とか、であるだろうというのは、彼には口にするのも気恥ずかしかったが。
(でも、あいつも、ずいぶんと変わったよな)
 もともと美しい女騎士だった。男勝りで、誇り高い宮廷騎士……はじめはただ、それだけだったのだが。この旅を通じて、彼女が見せるようになった美しさとは、もちろんその気高さとともに、ときに女らしい弱さであったり、可愛らしさであったりもした。
(最初はただの、気の強い女騎士さんだとしか思わなかったけどな……)
 だが今では、彼女を守ることこそが、自分の正しい使命のようにも思えるようになっていた。いや、自分の手で守りたいという、それは願望であったのかもしれない。こうして離れてみて、あらためてその思いを強く感じる。
(そりゃ、好きだけどさ……)
(それが恋ってんなら、オレは、あいつに惚れているんだろうな)
 またしても思い浮かぶのは、コス島の港での別れ際のクリミナの姿……
(もしかして、俺と別れたくなかったのかな)
(いつか、確かめたい……)
 レークはそう思った。
 もし、素直な自分の気持ちが、彼女を抱きしめることを望んでいるのなら……
(オレは、クリミナを手に入れたいのかな。もしかしたら、水晶剣とかよりも)
(そういえば、この前見たあの夢の中で……)
 あれはアストラル体なのか、それとも単なる夢でしかなかったのだろうか……だが、自分は確かにこの湖まで飛んできた。
(あれは、もっと向こう岸の方だったかな……)
 まるで空をただようようにして、空中からこの湖のほとりにいるクリミナを、あるいは彼女の気配を「見つけた」のであった。
「あっちまで、行ってみるか……」
 そこに彼女がいるはずはないのだが、それでも、そこに行けばもしかしたら、あれが夢であったのかどうか、はっきり分かるのではないか。そんな気がした。
 レークはいったんバラック小屋まで戻ることにした。そっと小屋のなかを覗き込むと、もうみな寝静まったらしく、かすかに寝息が聴こえている。
(まあ、すぐ戻ってくるしな。起こすこともなかろう)
 馬小屋につないであった自分の馬を連れ出すと、レークはひらりと馬に飛び乗った。機嫌が悪そうにブルルと体を揺らせる馬を撫でてやる。
「どうどう、すまねえな。寝ているところを。ちっと夜の散歩に付き合ってくれよ」
 レークを乗せた馬はヨーラ湖畔の森を走り出した。月明かりの中を、かすかに輝く水面を見ながら森を走るのは、なかなか幻想的な気分であった。
「このあたりだったかな……」
 湖畔をぐるりと西側へ回って、しばらく行ったところでレークは馬を降りた。近くの木に馬をつなぐ。
 あたりが暗いので、はっきりどのあたりだとは分からないのだが、あの夢で見た感じを頼りに湖畔を歩いてゆく。
 高台にあるサルマ領主の城には明かりが灯り、ここからでもはっきりと分かった。かつてクリミナとともに眺めた湖の景色は、やはりこの辺である気がする。
「そうそう、あのときも左の方に、サルマの城が見えていたからな……この辺だったような気がする」
 あの夢の中で、空中から彼女を見つけた場所……
「ぼんやりとしていて、顔までは見えなかったけどな」
 はからずも、このあたりはちょうど、数日前にクリミナがロッドを助けた場所だったが、そんなことをレークが知るよしもない。彼はただ、そこに誰かの気配を感じ取るようにして目を閉じた。
 そうすると、不思議と気分が落ち着いてくるようだった。たしかに、彼女がここにいたのだという、そんな確信が強くなる。レークはゆっくりとあたりを歩き回った。
「あいつはもう、きっとフェスーンに向けて出発したんだろうな」
 あるいはもうとっくに到着して、すでに宮廷に入っているのかもしれない。どのみち、彼女に会うことは、もうしばらくはないだろう。そう思うと、少し寂しくはあったが、同時に、彼女がもう危険な目に会うことはないのだと、安心もする。
「次に会うときは……きっと」
 レークはにやりと笑った。
 もっと大きな手柄を立てているか、あるいは、またどこかの旅へ赴いているか。どちらにしろ、またいまの自分とは違っているかもしれない。
(なにがどう変わろうが、かまいはしない)
(あんたを手に入れられるなら……)
 レークはしばらく、ここからの眺めを記憶するように、夜の湖を見つめ続けた。
(あばよ、思い出の湖)
 歩きだしたときは、いくぶんすっきりとした気分であった。つないであった馬を見つけてまたがる。夜明けまではもう、そう時間はなかった。
 最後までヨーラ湖の香りを楽しむように、レークはゆるやかに馬を走らせた。

「隊長、隊長、起きてください」
 聞き覚えのある部下の声に目を開ける。
「ああ、アランか……」
「そろそろ日の出です」
「うう……もうそんな時間か」
 レークは眠たそうに寝台から起き上がった。
 見ると、部下たちはもうすっかり身支度を整えて、レークが起きるのを待っていた。
「さすが傭兵どもとは違って、しっかりしているな。うう……なんだか、ほとんど寝てない気もするが、まあ仕方ねえ」
 結局、小屋に戻ったのは夜半も過ぎてからだったので、寝足りないのも無理はなかった。
「大丈夫ですか?なんだか昨夜は散歩にしてはずいぶん遅かったようですが」
「ああ、まあ……ちっと、森で迷ってな」
 そう言ってレークはぼりぼりと頭を掻いた。クリミナとの思い出の場所を歩いていた、などとは口が裂けても言えない。
「隊長、どうぞ」
 カシールが持ってきた水おけから、水を飲むと、いくらかすっきりとした。
「おし、じゃあそろそろ行くか」
 まだ夜明けを迎える前の薄暗い時分であったが、すでにサルマの市門は開かれていた。同じくバラックに泊まっていた商人や旅人などが、門の前で見張りの騎士の確認を受けて、町の中へ入り始めている。
 ただ、やはり常時に比べれば市門前の人の数は少なかった。とくに、ジャリアの進軍によってロサイリト街道が封鎖されてからは、東側からの隊商はほとんどなく、今はごくわずかな数の旅人や商人が通るくらいであった。
 レークの小隊が門の外で待ち構えていると、やがて市門からそれと分かる、馬車と荷車がぞろぞろと現れた。
「おお、きたな。どれ、馬車が五台に、荷車が十台はありそうだな。こりゃ、けっこうな数だ」
 なにしろ一万人以上の食料、装備、必要品となるのだから、それは大変な物量であった。それでも、これはたった数日分でしかないという。いくさというものが、いかに大量の物資を消費するものなのか、あらためて知る思いであった。
 馬車の先頭で指示を出していた騎士が、こちらに近づいてきた。
「補給部隊を監督するダーレンと申します」
「総司令官のレード公爵から護衛を任された。レーク・ドップだ」
「存じあげております。フェスーンの剣技大会で優勝された。今では、隊長騎士におなりになったのですな。立派なことです」
 白い髭を生やした壮年の騎士は、にこやかにうなずき手を差し出した。
「ああ、どうも。よろしくたのむ」
 自分の親くらいの歳の騎士から褒められて、いくぶん照れながら、レークはその手を握った。
「ご確認を。食料……小麦二千エルゴ、干し肉千エルゴ、乾果物千五百エルゴ、ワイン二十樽、その他野菜、豆などが各千五百エルゴ、剣と槍が五百本ずつ、鎧三百、兜が五百、矢が二千本、それから補修用の長布が五十巻き、その他木材に、包帯、薬などです」
「あ、ああ……」
 物資の名前と数がずらりと記載された納品書を見せられて、レークは目を白黒させながらうなずいた。
「こりゃ、大変なもんだ。ちゃんと揃っているんなら、それでいい」
「では、ここに認め印を」
「こ、これでいいのか」
 差し出されたインクに親指をつけて書類に当てる。こんなことは、これまでにした事がなかったので、いくぶんとまどいながら。
「ありがとうございます。それでは、予定通り、日の出を待ちまして出発といたしましょう」
「そうだ、ところで、ローリングから言われてたんだが、鍛冶屋が何人か欲しいってことなんだが」
「はい。そう思いまして、四名ほど連れてきております」
「おお、そうなのか」
 さすがは年季のあるベテランの騎士だけある。いくさへにおいての気配りや先見が、しっかりとあるということなのだろう。
「おい、フレド」
 鎧などの武具を運ぶ荷車が通り掛かると、ダーレンはそこに付いていた男を呼び止めた。
「こちらが、鍛冶職人のフレドです。おそらく、サルマの町では随一の鍛冶屋でしょう」
「どうも、騎士さま」
 名を呼ばれた職人は、レークの前まで来てうやうやしく胸に手を当てた。
「よろしくな。戦場で鎧兜を修理するってのは大変だろうが」
「いいえ。これもトレミリアのため。光栄なことでごさいます。それに、私は先日までは、サルマ領主さまの城にて、滞在する騎士さま方の、剣や鎧の手入れをいたしておりました。これからはそれが草原になるというだけのこと」
「なるほど。そりゃあ頼もしいな」
 中年の職人は頬のこけた痩せ型で、一見して陰気そうではあったが、言葉や物腰にはいかにもプロの職人らしい落ち着きがあった。
「なあ、あんたは、サルマの城にいたってんのなら、そこにセルディ伯や、その……クリミナ、騎士長がいたのかは分かるかな?」
「はい。存じております。セルディ伯さまご一行がご到着されたときにも、その場におりましたし、一行の騎士さまの鎧や剣も、私が修理いたしました」
「おお、そうか。じゃあ、あんたはクリミナ……いや、つまり騎士長さまとも会ったんだろうな?」
「お言葉は交わしておりませんが、お見かけはいたしております」
 いったいこの騎士はなにを訊きたいのだろうかと、鍛冶屋はかすかに首を傾げた。
「そうか……それで、その一行は無事に出発したんだな?」
「はい。三日ほど前に。おそらくは、そろそろフェスーンに到着されることでしょう。そういえば、なにやら身分の高き方をお連れのようでしたが、それがどなたかなのかまでは私は存じません」
「なるほど」
 レークはうなずいた。おそらく、ウェルドスラーブ国王夫妻の存在は極秘事項として、一部のもの以外には知られぬようにしているのだろう。
「わかった。ありがとうよ」
 その手に銀貨を握らせてやると、鍛冶屋はうやうやしく礼を言った。
「これは恐れ入ります。もし、鎧や剣の手入れが必要でしたら、私にお申しつけください。精根込めていたしますので」
「よろしくな。よーし、じゃあそろそろ出発準備だ」
 レークは部下たちに馬車と荷車を守るように配置につかせ、自分も馬に乗った。
 東の地平から一条の光が差し込み、アヴァリスがその顔を覗かせると、補給部隊はゆるゆると動きだした。
 レークはアランとともに先頭の馬車の横につき、最後尾はラシムに任せた。万一の襲撃に備えて、二名の騎士をやや離れたところから見張りをさせる。大切な補給物資を護衛する任務に、小隊の若き騎士たちは、みな久しぶりの充実した緊張をその顔に見せている。
「隊長、この任務のあとは、きっとまた戦いに戻れますよね?」
「ああ……そうだな」
 アランの言葉に、レークはいくぶん上の空で答えた。
 彼が考えていたのは別のことだった。
(クリミナ……)
 彼女が無事にフェスーンへ出発したということを確認できただけでも、ずいぶんとほっとした気分だった。
(あんたは、いまごろはもう……あの雅びなフェスーンにいるのかな)
(そして、この同じ朝日を、いまどんな気分で見ているんだろう)
 東の空に昇りゆくアヴァリスに目をそばめ、
 レークは心の中でそっと、その名を繰り返した。
(クリミナ……)



「おお、フェスーンの市門が見えてきましたぞ!」
 先頭をゆくセルディ伯の声を聞いて、クリミナは馬上でほっと胸をなで下ろした。
 そして、街道の向こうに、朝日を受けて輝くような市壁と、フェスーン城の尖塔が見え始めると、
(ああ、やっと……やっと、帰って来たのだわ)
 彼女は、その胸に沸き上がる喜びを押さえきれなかった。
 コルヴィーノ王とティーナ王妃、サーシャ提督夫人を乗せた馬車を守りながら、一行はサルマを出発した。フェスーンまでは馬であれば一日ほどで到着できる距離ではあるが、高貴な要人を乗せた馬車は、なにより安全を重視して街道を進んだ。途中、コルヴィーノ王の体調がすぐれぬこともあって、何度かの休息をとり、最後にはフェスーンまでは目と鼻の先にある小都市、ムセアにて一泊した。
 馬車に合わせてゆるゆると馬を歩ませる道程に、クリミナは内心ではいくぶんのじれったさを感じていた。一刻も早くなつかしいフェスーンへと戻りたかったからだが、途中からは、このゆったりとした街道の旅を、愛するトレミリアの風景とともに、楽しむことができるようになった。
「疲れてはおりませんか?」
「ええ、大丈夫よ。ロッド」
 もしかしたら、それは横にいるこの騎士のおかげだったかもしれない。馬を寄せてきた相手をちらりと見て、彼女はふと思った。
 ロッドはまだそう歳はいっていないのに、どっしりとしたような落ち着きがあり、常に冷静でいて余裕がある。そして、たまに見せる笑顔には、包み込むような大人の男の優しさが見え隠れする。
 自分の心がいつになく浮き立っているのは、久しぶりにフェスーンに戻ってきたということはもちろんだが、それだけではないかもしれない。クリミナはかすかに頬を染めた。
(でも……)
 それが別に恋であるなどとは思わない。ただ、なんとなく、彼が近くにいるという安心感であり……それはレークと離れてみてから、その隙間を埋めてくれるような存在として、彼女が勝手に位置づけていただけなのかもしれないが。
 声すらも浮き立つのを隠せずに、クリミナは訊いた。
「ロッドは、フェスーンに来るのは初めてなのかしら?」
「ええ。自分は田舎の、ロースワンドの生まれですから。サルマまでは何度かゆきましたが、フェスーンは一度も」
「そうなの。ではきっと驚くわね。とてもにぎやかだし、人も多いし、宮廷もそれは美しいのよ」
「それは楽しみです」
 ヨーラ湖のほとりでこの騎士を見つけて以来、クリミナはいまではすっかりこの騎士といるのが心地よく思えていた。それはあるいは、男性というよりは、まるで兄とでもいるような安心感というべきなのかもしれないが。
(もし、私に兄がいたら、きっとこんな感じだったのかもしれないわね)
 真新しい騎士の鎧とマントを与えられたロッドの姿は、いかにもトレミリアの中堅騎士というような貫祿が充分であった。髭を生やしたその精悍な顔つきも、どこか前よりも誇り高いように見える。
(そういえば、歳たしか二十六と言っていたかしら。やっぱり、ちょうど兄みたいな歳なんだわ)
 クリミナはくすりと笑った。なにか、くすぐったいような、嬉しいような、そんな気持ち……それが、浮き立つような帰還の喜びとまじって、また心を浮き立たせる。
 少し前をゆくセルディ伯が、ときおりちらちらとこちらを振り返る。セルディ伯はあまりロッドをよくは思っていないようだ。
 伯にしてみれば、どこの馬の骨とも分からぬ傭兵上がりを、このような身分高い要人の護衛につけるというのには、あまり乗り気ではなかったのだろう。ただ、レークもブロテも離れてゆき、草原の方により多くの兵力を割かねばならぬ現状において、一行にとって腕の立つ騎士というのはぜひとも必要であった。もちろん、それはクリミナの推薦があったからの決定ではあったが、本当は責任者であるセルディ伯にとっても、ロッドの随行の申し出は、決してありがたくなくもなかったのである。
 そんなわけで、一行は山賊や夜盗などに襲われることもなく……もちろん、サルマからフェスーンの間は比較的安全な街道であるのは確かであったが……こうして、ついに目的地であるフェスーンの市壁を目前にとらえたのである。
(ああ、帰ってきた……帰って来たんだわ)
 街道の先にフェスーンの市門が大きくなるにつれ、クリミナはその胸に込み上げてくるものを抑えきれないように、馬上で息を吸い込んだ。
 思えば、これほど長い間フェスーンを離れていたことは、これまでもなかったかもしれない。遠征の間は、旅から旅へ、冒険から冒険へという、激しい流れの中にいるようなもので、望郷の念をいだく暇さえもなかったのだが、サルマを出発して、このゆるやかな道程で三日を過ごす間、彼女の中には、あふれだす蜜のようにトレミリア王国と生まれ育ったフェスーンへの愛着が生まれてきていたのだった。
(たった数ヶ月……それが、もう何年にも感じる)
 出発したときには、まさかあれほどの冒険が待っていようとは思わなかった。いろいろな人との出会いや、信じられないような危険とも遭遇した。
(そうして、私はまた戻ってきたのだ。戻って来られたんだわ)
(このフェスーンに)
 いまや城壁の向こうには、フェスーン城の尖塔の青屋根がはっきりと見えている。昇りゆくアヴァリスに照らされて、それはまるで輝くようだった。あの、セルムラードの緑柱石の城もたいそう美しいものだったが、彼女にとってはなによりも、このフェスーン城こそが、己自身の魂の故郷のようにも思える、そんな城であるのだった。
「開門、開門!」
 すでに、ムセアの町に到着したときから先触れを出してあったので、一行がフェスーンに入ることはとっくに知られていた。城壁の前でセルディ伯が手を上げると、まるで自動扉でもあるように、市門がゆっくりと内側に開かれた。
(ああ、フェスーンに入るのだわ……)
 フェスーンの都市には七つの門があるのだが、一行はあえて西の大門まで回ってきたのであった。そこはいうなれば凱旋の門であり、フェスーン市内を東西に横断するカルデリート通りから、王城のある宮廷の城門までをまっすぐにつなげる、フェスーンでもっとも大きな門なのであった。
 セルディ伯を先頭に、一行は市門をくぐって都市内へと入った。
 クリミナは、すぐにでも馬で駆けだしたいような衝動をこらえつつ、ウェルドスラーブ王の乗る馬車を守り、その横について粛々と進んだ。
(カルデリート通りだわ!)
 広々とした道幅の両側にずらりと店が並び立つ、このカルデリート通りは、トレミリアではもちろん、リクライア大陸中でも、もっとも栄えている商業通りであり、同時にこの国の文化的な水準の高さを示す、整えられた近代的な町並みであった。ここには貴重な香辛料から、高価な絹、木綿などの衣料、パンや菓子の店、金銀細工、それに他の町では見られない絵画や調度品の専門店など、あらゆる種類の店が並び、やってきた旅人たちを待ち構え、彼らを驚かせるのである。
(なつかしい……私は、本当にフェスーンに戻ってきたのだわ)
 出発したときとなにも変わらない、平和でにぎやいだ町の景色に、彼女は思わず涙ぐんだ。普段は宮廷で暮らす身であるから、町の細々とした通りにはさほど詳しくはないのだが、このカルデリート通りは幼いころから馬車で行き来し、その風景は心の中にずっと焼きついている。
(ああ、あのパン屋も、あそこのお菓子やも、前と同じ。今日も同じパンが並んでいる)
 自分の町に戻ってきたという安堵感が、しみじみと心の中に広がってゆく。
 通りには銀色の鎧姿の騎士たちがあちこちにあり、道の中央部を開けるようにして、増えてきた人々の往来を整理している。セルディ伯と馬車を守るクリミナらが通りすぎると、通りの両側からは人々の歓声と拍手が沸き起こった。
「セルディ伯さまのご帰還だ!」
「クリミナさまもご帰還だぞ!」
 朝早くから通りを警備する騎士たちの様子に、おそらく高貴なる帰還者が到着するのだろうと、もう市民たちは予想していたのである。それが、宮廷騎士長にして女騎士、クリミナ・マルシイであるということを知ると、人々は口々に声を上げた。それを聞きつけて、通りには続々と人が増えていった。
 もちろんセルディ伯とて、トレミリアでは名の知られた貴族であり、遠征軍を率いてウェルドスラーブへ出発した際には、同じように人々の歓声を受けたものだったが、やはりフェスーンにおいてのクリミナの人気というのは、それは大変なものだった。
「クリミナさま!」
「お帰りなさいまし、クリミナさまぁ!」
 老若男女問わず、彼女への歓声は通りのいたるところで上がった。それは、セルディ伯へのものに比べて、控えめに判断しても二、三倍は多かったろう。
「クリミナ・マルシィさまが戻って来られたぞ」
「おお、よくも無事で……」
「セルディ伯さま、クリミナさまあ!」
 続々と増えてゆく見物人で、通りはさらに混雑しつつあった。ついには、一行を先導する騎士隊が配備された。両側から手を振る人々を見ながら、一行はまるで凱旋パレードのように通りを進んでゆく。
 クリミナはいくぶん驚きながらも、町の人々の歓声に馬上から手を振り、笑顔でそれに応えた。
「これは、大変なものですな」
 横にいるロッドは、カルデリート通りを埋めつくす人々の姿に、さすがに面食らった様子であった。
「そうでしょう。ここは王都フェスーンですから。市民たちの愛国的な情熱は、トレミリアの他の町よりもまた、さらに強いのだと思うわ」
 誇らしげに言うクリミナは、ふと以前とは違うことがあるのに気付いた。それは自分の横に、このロッドがいることだった。
(やっぱり、あれからずいぶんと時間はたったのだわ)
(たった数ヶ月であるけれど、その間に私にはいろいろなことが起こり、経験もした。フェスーンを出発したときと、こうして戻ってきた今では、やっぱりなにかが……違う)
 実際にいくさを経験したということも含めての、それは自分の気持ちの変化であったかもしれないが、また同時に、この町の人々が作り出す空気そのものも、やはり変わってきているということなのだ。
(戦いが、もうロサリート草原にまで及んできたこと、そのいくさの気配を、人々は感じているのかもしれないわ)
 熱狂する市民たちの、そのやまない歓声と拍手とを耳にしながら、クリミナは、平和なこの国にも、いくさへの緊張と昂りが、その迫り来る炎の影が、ついに届きつつあるのだということを知った。



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