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 水晶剣伝説 [ ロサリート草原戦(前編)


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 サルマの城で馬車を借りて湖のほとりに戻ると、その騎士はまだそこに横たわっていた。
 連れてきた城の騎士に手伝わせて馬車に乗せると、騎士は意識はあるようで、ときおり目を開けてクリミナに礼を言った。
 クリミナは手当てのために騎士を城に入れるつもりだったが、話を聞きつけたセルディ伯はそれにいい顔をしなかった。いくらトレミリアの騎士といえ、素性のはっきりとせぬものを、要人の滞在する同じ城内には置けないというのである。
 結局、城の中ではなく、城門付近にある建物の一室で彼を休ませることになった。ここは一般の駐在騎士たちの寝泊まりするところであるから、食事を作る炊婦や医者もいるので、休養にはちょうどよい。幸いにして体に大きな怪我はなく、疲労と栄養不足だろうという診断で、付き添っていたクリミナはずいぶんほっとした。
「申し訳ない。あなたが、名高いあのクリミナ・マルシイどのだったとは」
 食事をとって少し休むと、騎士はずいぶん元気そうになった。寝台で半身を起こして、クリミナとセルディ伯に礼を言う。
「私はロッドと申します。じつは、正騎士ではなく、傭兵上がりの兵士として、ウェルドスラーブで戦いましたが、人員の不足により、騎士扱いとして鎧をいただきました」
「ふむ。たしかに、あのとき首都では兵員が足りなかったから、傭兵も騎士同様に働いてもらったものだが。そなたは、本当にあのレイスラーブから、そしてスタンディノーブルから脱出してきたというのだな」
「ええ。あのときは無我夢中でした」
 いくぶん疑わしそうなセルディ伯のまなざしに、正面から答える。
「レイスラーブ陥落の際に捕虜として捕らえられ、黒竜王子のいるスタンディノーブル城へ連れてゆかれました。そこで自分は処刑されるものと覚悟はしましたが、王子は私の剣の腕を知ると、ジャリアの傭兵になれと言ってきました。どのみち傭兵であるならばトレミリアになどさほどの愛着はないだろうと」
「なんと。そのようなことが」
「はい。ですが、いくら傭兵といえども、簡単に敵に鞍替えするような志は私にはありません。もともとは、私は自由国境の村の出ですが、傭兵となってからはトレミリアのために、仲間とともに戦ってきた身です。たとえウェルドスラーブが敵の手に落ちたとしても、最後まで戦い、死のうと、そう思っていたのです」
 ロッドは話しながら、クリミナの顔をじっと見た。
「そして私はある晩、城を脱出しました。もちろん追手をかけられましたが、傭兵として身につけた馬術と剣には自信があります、なんとか敵を振り切り、アラムラ森林ぞいに草原を走り、ようやく今朝、ヨーラ湖畔に辿り着いたのです。馬はもう走れず、私も心身ともに疲れ果てていました。そこを、こちらのクリミナどのに助けられたのです」
「そうだったの。よく、頑張ったわ」
「ありがとう。こうして、美しい女騎士どのにめぐり合えて、ただジュスティニアに感謝するばかりです」
「まあ」
 クリミナは思わず頬を染めた。
「失礼しました。なにぶん傭兵上がりなもので。本来なら口をきくのすらも高貴な御方であるのでしょうが」
「かまいません。同じトレミリアの騎士、兵士として、戦う身。身分などは……」
(身分などは関係ない……ああ、そうだわ)
(レークにもそう言いたいのだ。私は、)
 己の思いを心の中で告げるように、クリミナは手を組み合わせた。
(次に会ったらきっと……)
「まあ、事情は分かった。それでは、しばらくはここで休むといい、ロッドとやら」
 セルディ伯は、いくぶん面白くなさそうに言うと、
「さあ、クリミナどの。我々の方は、明日、明後日にもフェスーンへ向けて出発せねばならない。そろそろ打ち合わせなどもいたしませんと」
「わかりました。ではロッド、ゆっくり休んでくださいね」
「はい。ありがとうございます」
 最後に彼と目を見交わすと、クリミナはセルディ伯にうながされ部屋を出た。
「なんだか、無礼なやつですな。やはり貴族でない傭兵であったか」
「ええ。でも……」
「でも、なんですか?」
「いいえ、なんでも」
 慌てて首を振るクリミナに、セルディ伯が首を傾げる。
 城へ向かう上り坂を歩きながら、彼女は奇妙なときめきのようなものを覚える自分を、不思議に思った。
(これは、なにかしら……)
 今までも、宮廷においては、貴族たちから崇拝を受けたり、女官たちなどからちやほやされることなどはよくあった。だが、それらは距離をおいての一方的なものであったり、女ながらに騎士をやっているという、いわば好奇の視線でもあったりした。
 ただの一人の人間として、正面から言葉を投げかけてくれることが、彼女には新鮮であったし、また自分が女であることを強く感じるのは、恥ずかしさとともに、なにやら嬉しいような気持ちがした。レークといるときにも、少しずつそれは感じてきていた。あのとき、別れ際に、自分が彼を愛しているということを知ったのは、クリミナにとっては大変な驚きであったと同時に、幸せや喜びの感情や、また同時に寂しさ、悲しみをも運んできたのであった。
(知らなかった……私の中に、こんなにも女……がいたなんて)
 もちろん、それがすぐにロッドへのときめきだなどとは思わない。きっと、今朝見た夢の続きのように、自分の中ではレークへの思いが込み上げ続けているのだろう。
(おかしな、わたし)
 思わず笑いが込み上げる。前をゆくセルディ伯が振り返った。
「どうしましたか?クリミナどの」
「あ、いいえ……ゆきましょう、伯」
 なにやら、浮き立つような気分のまま、クリミナは城へ続く道を上っていった。

「それでは、出発は明後日の早朝ということで、よろしいでしょうか」
 領主のカーウッド伯らとともに食事をとりながら、城の広間に集まった面々……コルヴィーノ王とティーナ王妃、サーシャ提督夫人は、セルディ伯の言葉に無言の同意を伝えた。
 クリミナや騎士たちも含めた話し合いで、ここからフェスーンまでは馬車で丸二日以上はかかるので、今日と明日は、国王一行が体力を取り戻すための休養と、旅の準備とにあてることになった。
 席についた国王夫妻は、その顔にいくぶん旅の疲れを覗かせてはいたが、体調は悪くないようであった。ただ、海に囲まれたウェルドスラーブとは違い、内陸のトレミリアへやってきたことが、コルヴィーノ王にはどうにも落ち着かないようではあったが、それは慣れてもらうより他に仕方がなかった。
「では、よしなに」
 それだけ言い残すと、国王夫妻は、あとはなにもかもを任せるというように食事を済ませ、ほどなくして席を立った。騎士たちに警護されて広間を出てゆく表情は、いくぶん窮屈そうな様子であった。なにしろウェルドスラーブ王の入国は、まだ極秘事項であったので、城の外には決して出ないようにとセルディ伯などから固く懇願されてもいたのである。
「さて、では我々はもう少し、フェスーンへの経路についての確認をしておきますか。食料や上等の馬車の手配、それに護衛を務めさせる騎士の増員など、することは山ほどありますぞ」
 そのセルディ伯においては、フェスーンまでの旅を無事に遂げることが、己に課せられた最大の責務とばかりに、大いに張り切っているようであった。長い戦いのすえに、ようやく自国へ戻って来られたことが嬉しくもあったのだろう。その声には疲れを感じさせず、きびきびとしてむしろ弾んでいた。

 午後になると、クリミナはふらりと城を出た。ロッドがどうしているかとふと気になったのだが、宿舎へゆくまでもなかった。
 高台を下りた芝生の庭園には、騎士たちが剣を合わせる音が響いていた。その稽古の騎士たちの中に彼の姿を見つけると、クリミナはそちらに近づいていった。
「まあ、ロッド。もう動いても平気なの?」
「おお、クリミナどの」
 剣を手にして振り返ったロッドは、額の汗をぬぐうと、髭の下に笑みを浮かべた。
「ええ、この通り。ひと休みしたら、すっかり元気になりました」
「おい、ロッド。お前、なかなかやるじゃないか。もうひと勝負だ」
「よし」
 城の騎士ともすっかり打ち解けた様子で、彼は剣をかまえると、また模擬試合に挑んでゆく。打ち合わされる剣の響きがまた上がり始める。
 そばで見ていても、ロッドの剣術はなかなか巧みなものであった。日頃から訓練を積んでいる正騎士を相手に、軽々とその攻撃を受け止めては返す。
(なんだか、少しレークに似ているわ)
 しなやかな剣さばきと、そのスピード、型にはまらない柔軟さは天性のものだろうか。彼が正騎士たちを相手にしても、まだ六分程度の力しか出していないのが分かる。
「ま、まいった」
 相手をしていた騎士がたまらず音を上げた。ロッドの方は、その顔にまったく疲れを見せていない。それからすぐにまた一人、二人を相手にしても、彼は同じよう軽々と相手の剣を受け流し、まったく隙のない剣さばきを見せつけた。
「すごい。本当にあなたはただの傭兵なの?ロッド」
 そばでクリミナが感嘆の声を上げる。剣を収めたロッドは照れたように笑った。
「ええ。いくらか実戦で経験は積みましたが、でも、ただの我流ですよ」
「でも、攻撃も的確だし、防御も見事だわ。きっと大きな剣技大会に出ても、勝ち上がれると思います」
「まさか。私の剣などは粗削りで、とても粗暴なものですよ」
 謙遜するロッドだったが、クリミナは内心で、もしあのフェスーンの剣技会で彼がレークと戦っていたなら、どうだっただろうか、などと想像するのだった。
(もちろん、あの人が負けるわけはないけれど……でも、けっこう苦戦したのではないかしら)
 ロッドはいくぶん真面目な顔つきになると、クリミナに向かって騎士の礼をした。
「そういうわけで、このようにすっかりよくなりました。あのときに助けていただいたことをあらためて感謝します」
「いえ、いいのです。あのとき、ちょうど私が通り掛かって、良かったわ」
「ええ。それはもう、ジュスティニアに感謝しています」
 ロッドの強いまなざしに、クリミナは思わず頬を染めた。
「ええと……、私は、明後日にはここを発つのだけれど……」
「それは、フェスーンへ戻るためですか」
「ええ、そう……じつは。さる貴族さまを連れてゆくことになるのですが、セルディ伯爵が護衛の騎士が足りないと言っていました」
 ウェルドスラーブ王を護衛してゆくとはさすがに言えない。
「あ、あなたは、もちろん……体力が戻るまで、ここで静養していていいのですが、でも……もし」
 自分が何を言おうとしているのか、クリミナ自身にもよく分からなかった。
 ロッドの目が、まっすぐに彼女を見つめていた。 
「だから、私はもうすぐここを発つけれど、あなたは……あの」
「私は、どこにも身寄りがおりません」
 静かな声が、クリミナの言葉をさえぎった。
「もとより、傭兵になってからは各地を回るような生活でしたから。むろん、このサルマにも、フェスーンにも知人もおりません。もし、お許しいただけるのなら、私を護衛として連れてっていただきたく存じます」
「そ、そう」
 それは自分が望んでいた返事だったのか。にわかに胸がどきついた。
「で、では、セルディ伯に話しておきます。そのときにもまた剣の実力を見せてもらうことになるかもしれないけれど」
「了解しました。いつなりとも」 
 にこりと笑ったロッドの顔には、大人の男としての意志の強さが感じられた。
「そ、それじゃ」
 他の騎士たちにも適当に声をかけてから、クリミナはまた城への坂道を歩きだした。
「……」
 ふと振り返ると、ロッドは騎士たちと仲良さそうに笑い合っている。
(べつに、全然似ていないのに)
 レークの面影をそこに見たわけではなかったが、彼と一緒にゆけるということに心踊るような自分がいる。
(なんだろう……こんな、変な気持ち)
 いくぶんの胸の高鳴りと、かすかな恥ずかしさとともに、彼女はそれを感じていた。

 一方、トレミリアの首都、フェスーンにおいても、ジャリア軍がロサリート草原へ進軍を開始したという情報は数日前に届いていた。
 フェスーンの市民たちは、それまではずっと、ジャリアとウェルドスラーブの間の戦いを、対岸の火事とばかりに見ていたのだが、ウェルドスラーブの首都が陥落し、いよいよジャリア軍は草原を超えて大陸の西側に押し寄せてくるのだと、ようやく危機感をつのらせ始めていた。
「あの黒竜王子が率いる大軍が、ついにロサリート草原に進軍をはじめたってよ」
「ああ、レイスラーブが陥落したときから、まずいことになったと思ったが、今度はついにトレミリアに襲ってくるつもりなんだな」
「なあに、こちらだってレード公率いる大軍が迎え撃つさ。ローリング騎士伯の先鋒部隊もいるしな、負けるはずはない」
「だが、なにせ相手はあの黒竜王子だぞ。それにジャリアの精鋭部隊は全員が長槍の使い手で、陸戦では圧倒的な強さだっていうじゃねえか。現に、ウェルドスラーブだってよ、ほんのひと月くらいで、落とされちまったワケだろう」
「それは、アルディの船団とかがジャリアに協力したからだろう。トレミリアはそう簡単にはやられんさ。それに、セルムラードからの援軍ももうじきやってくるっていうしな」
「俺もそう思うが……でもよ、なんかこう、この何日かで、フェスーンの町の雰囲気がぴりぴりしてるっていうか、そんな不安な感じががするんだよ。これがいくさの空気ってやつなのかな」
「ああ、うちのかかあも、昨日あたりから、ねえあんた、大丈夫なの?ここにいてあたしらもいくさの巻き添えにならないの?って何度も訊いてくるんだよ。いくら大丈夫だっつってもよ、不安げな顔をしてさ、そばにいるガキまで泣きだす始末さ」
「ああ、うちも息子がもうじき十六になるからな。いずれは兵員に駆り出されるんじゃないかって心配だよ」
「いや、そうなったら、トレミリアのため、子供も大人も一緒になって戦うさ。そうだろう。ジャリアなんぞに好きにさせてたまるものか」
「それはもちろん。あんな王子に支配されちまったら、きっととんでもないことになる。敵がフェスーンに攻めてきたら、俺だって戦ってやるともさ」
 町のあちこちでは、そんな会話が頻繁に交わされるようになり、人々はやがて訪れるいくさへの緊張と高ぶりに、熱を帯びたようにして情勢を論じ合った。彼らは常に、今日は新たな情報はないかと、伝え聞いた噂などに敏感になっていた。
 それは、フェスーンの宮廷においても同様であった。
 普段であれば、宮廷の貴族たちは、午後のひとときには雅びやかにお茶を楽しんだり、庭園を散歩するような時間であろうが、緑豊かな庭園には人影はなく、大通りである石畳にはごくたまに馬車が通りかかるくらいで、ずいぶん閑散としていた。
 宮廷内の東側、王城のある高台へ続く通り沿いは、主に大貴族や王族たちが住まう区域で、このあたりにはフェスーンの王城を囲むようにして名だたる貴族たちの城館が点在している。これまでであれば、毎日のように催されていたサロンでのお茶会や、舞踏会などへ赴くため、色とりどりの着飾った婦人たちが、馬車を囲んで談笑する姿があちこちで見られたのだが、今は華やいだ婦人や姫君たちの姿はなく、その代わりに宮廷内を見回る騎士の巡回が無言で通りすぎるくらいであった。いくさ近しの噂を聞いて、屋敷に閉じこもっているのか、それとも舞踏会の禁止令でも出されたのか、フェスーンの貴族たちは息をひそめてでもいるように、その姿を隠していた。
 宮廷の北東に位置する、とくに位の高い貴族に与えられた一角……
 広大な庭園に囲まれ、いくつもの高い尖塔をそなえた、ほとんど城といってもよい建物が、王国第二の地位を持つ大貴族、マルダーナ公爵の邸である。
 マルダーナ公爵は、トレミリア現国王であるマルダーナ四世の妹、ファーリアを妻にもち、国の軍事、経済などにも大きな発言力を有する、まさしく国の重鎮である。その「マルダーナ」という名称は、トレミリア伝説の賢王であるマルダーナ一世にちなんで設けられた公爵位で、代々のマルダーナ公爵は、王国全域に広大な土地を有し、サーモンド公、ロイベルト公とともにトレミリアの三大公爵と称され、敬われてきた。
 マルダーナ公爵には現在三人の娘がいる。長女のティーナは、友国であるウェルドスラーブの国王、コルヴィーノ一世に嫁ぎ、王妃となった。次女のカーステンは今年十六歳になる、宮廷でも評判の美姫であり、やはり将来は名のある貴族のもとへ嫁ぐのだろうと噂されている。十二歳になる三女のミリアは、これまでずっと病気がちであったが、このところ健康が回復してきており、王家の姫君としての慣例通りに修道所へ入ることとなった。
 一方、現国王のマルダーナ四世は、王妃エルメートとの間にいまだに子が授からず、跡継ぎとなる王位継承者については、市民たちの誰しもが密かに気を揉むところであった。血筋としては王の妹であるファーリア、その夫のマルダーナ公爵が、いまのところの第一、第二の王位継承者であったが、それに続く継承権者は、二人の間にいる三人の娘ということになる。王族に男子が生まれないということが、十六歳となったばかりのカーステン姫を第三王位継承者にせざるを得ないという、フェスーン宮廷の目下の大きな悩みであり、この見目麗しい少女を、もはや容易には嫁に出すことをできなくもしていた。つまり、このまま国王に男児が生まれなければ、トレミリアは歴史上で初めて女王を戴冠させるか、あるいは血筋を外れた外様を王に迎えるかという、難しい選択をいずれは迫られることになるのである。
 だが、そんな将来の女王候補である十六歳の少女にとって、もっとはるかに重大かつ緊迫した問題がここに発生していた。

「先生……アレイエン先生」
 午後の陽光がやわらかく室内を照らし、壁にかけられたタペストリや絵画たちを美しく浮かび上がらせる。豪華なシャンデリアが見下ろす広間のテーブルに、向かい合った男女が顔を見合わせている。
「本当なのですか、あの噂は」
 さっきまで羽ペンを走らせていた手をとめると、彼女はもう我慢ができないといったふうに訊いた。
「だとしたら、私……」
「姫、まだ勉強中ですよ」
「分かっています」
 うっすらと憂いの色をその顔に覗かせ、カーステンはうつむいた。
「でも……どうしても、気になってしまって」
 このふた月ほどの間に、彼女はずいぶんと大人っぽくなった。もともと、金髪碧眼の美少女であったのだが、十六歳となったいまでは、それまでの少女めいた可愛らしさから、しっとりとした女としての魅力をまとっていた。それは、体つきや顔つきも含めての性徴からくるものでもあったろうが、同時に、恋をして物思う年頃の、心の成長によるところが大きかったろう。
「本当なのですか、あの噂……アレイエン先生が、トレミリアから出てゆくというのは」
 口にするとまるで、それが本当になってしまうかもしれないというように、彼女はおそるおそる尋ねた。
「まさか、本当ではありませんね?そうだと言ってください」
「……」
 アレンは仕方なさそうに微笑むと、静かに本を閉じた。
「今日はここまでにしましょう」
「先生……」
「カーステン姫、」
 不安げな様子の少女を見つめ、アレンは口を開いた。
「あなたには、もう少し黙っているつもりでしたが」
「じゃあ、じゃあ、本当なのですか?」
「いえ……」
 アレンは首を振った。
「トレミリアから出てゆくなど。それはデマというか、誇張ですよ」
「そう、ですか……ああよかった」
 泣きそうな顔だったカーステンは、ほっとしたように胸に手を当てた。
「ただ、私も剣士のはしくれ……そしてトレミリアの人間である以上、ジャリアとのこの大きないくさに際して、ただぬくぬくと宮廷にいて過ごすわけにはいかない」
「せ、先生……」
 アレンの次の言葉に、彼女はその顔を蒼白にした。
「だから、次の派兵のときに、私は騎士団の一員として参加するつもりです」
「な、なんと、おっしゃいますの」
「ロサリート草原の戦い……もうすぐ始まるだろう、いえ、もう始まっているかもしれない、その大陸最大の戦いに、トレミリアの騎士として参戦するつもりです」
「そ、そんな……」
 カーステンは口に手をやり、そのまま声を失ったようにしてアレンを見つめた。
「どうして……どうして、そんな」
「それは、私もトレミリアにいる一人の騎士ですから。この国の危機であるからには、剣をとり戦うのが道理でしょう。どうやら、宮廷騎士の若者たちも、出兵の準備をしているようですし。私ばかりが、それを見ぬふりをしているわけにもいかない」
「ですが、ですが……先生は、私の先生ではないですか!」
 思わず立ち上がると、カーステンは叫ぶように言った。
「私は、どうなるのです。ああ、そうだわ……お父様にお話しして、いくさになど行かないで済むようにしていただきます」
「姫、これは私の意志なのです。私が望んで戦いに行くのです」
「どうして……」
 カーステンは首を振った。
「いくさなどという、野蛮な……先生がそんな」
「本来は、今の授業が一段落してからと思っていましたが、ジャリア軍の進軍の早さは予想以上でした。おそらく、今日、明日のうちには戦端が開かれているでしょう。いや、もう草原では戦いが始まっているかもしれない。さあ、姫、落ち着いて。どうか座ってください」
 優しくうなずきかけると、カーステンは黙って腰を下ろした。だがその顔は青ざめたままで、相当なショックであったのだろう、可愛らしい唇は小刻みに震えている。
「情報によると、数日のうちにはセルムラードからの援軍が、トレミリアに到着するとのことです。おそらく、そこにトレミリア軍を合流させてから出発となると思われます。私はそこに加わるつもりです」
「先生……」
 カーステンの目から涙がこぼれた。
「行かないで。お願いです……い、行かないでください」
 震える声は、ほとんど嗚咽のようだった。
「黙っていてすみませんでした」
 アレンは立ち上がって、彼女の隣へゆくと、そっと肩に手を触れた。
「言えばきっと、あなたが悲しむと思って。ですが、私はやはり行かねばならない。私の大切な友人も、きっと草原へ向かっているのです」
「それは、レークさまのこと?」
「ええ。彼のことです。彼もトレミリアの騎士として、クリミナさまやブロテどのらとともに、ウェルドスラーブへ赴き、戦い、そしてまた、次の使命を果たそうとしている。だから、私も行かなくては」
 相棒のレークがロサリート草原にいることを、アレンはほぼ確信していた。あのとき、意識体であるレークと言葉を交わし、彼がセルムラードにいることを聞いた。それからもう数日が過ぎている。セルムラードからフェスーンへ帰ろうと思えば、遅くとも二日もあれば充分である。だが、おそらくレークはその後になにかをつかんだのだ。そしてフェスーンへ戻ることをしなかった。とすると、相棒は次の戦場となるロサリート草原へ向かうはずだと、そうアレンは考えた。
 そして、水晶の短剣がまた別にもあり、レークがそれを手にしたこと。それが意味するのは……
(あのとき……確かに聞いたぞ。水晶剣は、王子の手にあると)
 王子というのは、ジャリアの黒竜王子のことに間違いはない。だとすれば、水晶剣の魔力に反応し、剣同士は互いに引き合うことになる。
(現に、俺の短剣も日に日に、魔力が強くなっているようだ)
 強力な魔力を持つ水晶剣を手に、黒竜王子が西側に向けて迫ってきているのだとすれば、すべての説明がつく。
(いよいよか……いよいよ、そのときがくる)
 待ち望んでいたとき、そして、恐れてもいたときが、
 あの大剣技会で勝ち上がり、苦労の末に陰謀を暴き、宮廷人となった。それから数ヶ月……貴族たちの間に入り込み、情報を集めながら、人脈を広げ、己の地位を固めつつ、常に用心しながら準備をしていたことが……それがついに実を結ぶのだと。
(この地位についたことは、やはり間違いではなかった)
 宮廷貴族たち、とりわけモスレイ侍従長からの信頼も得た。それはつまりは、レード公爵、オライア公爵ともつながりを持つことだ。ただの剣士として参戦するのであれば、ただの一兵卒の扱いで前線に追いやられるだろうが、この立場であれば、上級の騎士として、従者や部下ももらえるだろう。戦場においても個人の天幕を与えてもらえるに違いない。それは、あらゆる意味で、今後の行動における自由度の高さになる。
(まずは草原へ……それから、)
「先生……」
 自分を見上げている少女に気づくと、アレンは優しくうなずいた。
「心配なさいますな。私は必ず帰ってまいりますよ。カーステン姫のもとに」
「本当ですか?私を置いて、どこか遠くへ行ってしまわない?」
「行きませんよ。帰って来たら、また勉強の続きをいたしましょう」
 アレンの言葉にうなずきながらも、恋する少女にとっては、まだその心の悲しみから逃れられないようだった。
「ああ、でも、やっぱり行って欲しくない。行かないで欲しいんです。私の……ずっと私のそばにいて欲しいのです」
「姫……」
 そっとその頬に口づけると、カーステンは「もっと」というように目を閉じた。
 そのあごを持ち上げ、
「ん……」
 唇が合わさると、彼女の頬にさっと血の色がさした。 
 これが別れの口づけだとは夢にも思わないだろう。目を開けた姫君は、うっとりと相手を見つめた。
「アレイエン先生……好き」
 だが、すでに遠く草原を見ている深い湖のような色の目は、もう二度と少女のまなざしに応えることはなかった。



 それより少し前、
 大陸の東と西を分かつロサリート大草原の、その東側に陣取るジャリア軍……
 いよいよ戦いのときを迎えたその本営では、いくさへの準備に追われた黒い騎士たちが、鎧のぶつかる響きと、命令の声とに包まれて、忙しく動き回っていた。
「先鋒の長槍部隊五千、本陣より三エルドーン西へ進軍いたしました」
 黒竜の旗印がなびく天幕では、軍の幹部となる隊長クラスの騎士たちが集まり、草原の地形が描かれた地図を囲んで、王子の口から伝えられる作戦を確認していた。
「では大弓隊を出発させ、その後方につかせろ。数は三千」
「了解しました」
 命令を受けた騎士が、慌ただしく天幕を出てゆく。
 黒い鎧兜に赤ビロードのマント姿の王子の横には、レイスラーブより戻ってきた市民軍師のマクルーノ・ラトビエが地図を指さし、さまざまな情報を王子の耳元で伝えている。
「次は陣営の南と北に騎馬隊を配置。森側に二千、北に千だ」
「了解です」
 次の命令を受けた騎士が天幕を出てゆく。と、その入れ代わりに一人の騎士が天幕に駆け込んできた。
「殿下。ノーマス・ハインさまが帰還されました!」
「そうか。すぐに通せ」
 王子は待っていたとばかりにうなずいた。
「では他のものはいったん下がれ。ノーマスの報告を受けたのちに軍議を再開する」
「かしこまりました」
 一礼した部下たちが天幕を出てゆく。
 ほどなくして、王子のみになった天幕に、四十五人隊副隊長、ノーマス・ハインが入ってきた。泥に汚れた鎧と、すり切れたマント姿で、いかにも難儀な行軍をしてきたというその様子にも、王子は眉ひとつ動かさない。
「ノーマス・ハイン、只今帰参いたしました」
「ご苦労。無用な挨拶はいい」
 ひざまずこうとする部下に、王子はただちに報告をうながした。
「は。では……」
 ハインはいくぶん疲れを見せた表情で切り出した。
「森を抜けての奇襲については、残念ながら失敗いたました。いくつかの誤算があったためで、森林での行軍の結果、約五百名の犠牲を出しました。これについての詳しい報告はまたのちほどとしますが」
「そうか」
「第一の作戦は予定通りに果たしました。おそらく、今頃はもうすでに、トレミリア領内に潜入している頃でしょう」
「選んだのはサウロだったか。腕は確かだろうな」
「それはもちろん。剣においては自分と同格、また、乗馬、格闘はもとより、決断力、勇敢さも含めて、四十五人隊の中でも筆頭格であります。やつならばきっと、目的を果たすことでしょう」
 王子は満足げにうなずいた。
「では、サウロに代わって一人を次の隊員に格上げしておけ」
「し、しかし、王子殿下」
「決死の任務に出た者は死と同じ扱いとなる。四十五人隊は常に四十五人でなくてはな」
「わ、わかりました。では若手で見込みのあるものがおります。まだ十八ですが、剣においては大変に優秀で」
「任せる」
「ですが、もしも、サウロが戻ってきましたら……」
「そのときは、サウロとその新人を戦わせ、生き残ったものを正規隊員とすればよい」
 冷然と言った王子に、ハインは戦慄を覚えたように息を飲んだ。だが、すぐに胸に手をおいた。
「御意のままに」
「その他の詳しい報告はあとでもよい。任務ご苦労だった。天幕にて休むがよい」
「は。ありがたきお言葉。ただ、その前にひとつだけ」
 そう言って、ハインは王子の傍にゆくと、小声で話しだした。そのけっこうな長い報告を黙って聞いていた王子は、ときおり興味をもったようにうなずいた。
「ほう。トレミリアの騎士か……スタンディノーブルで戦った、ブロテに間違いないというのだな。そのもう一人というのは?」
「は、とても……そう、とても気になる男で。ただものとは思えませぬ」
「お前がそう言うのであるなら、そうなのだろうな」
「剣の腕はもとより、素早い逃げ足、機転の利く勇敢さ、そして巧みな弁舌と、ただの騎士とも思えませんが……」
「そやつが、傭兵を名乗り、部隊に入り込んで混乱させたということか」
「恥ずかしながら、自分もまんまとだまされました。おそらく、やつが申していたウェルドスラーブ王に関する情報も、我々を欺くためのものかと」
「なるほど。心にとめておこう。そやつらが森を抜け、トレミリア軍に合流したことで、おそらく敵は奇襲の情報に備えたのだろう」
 王子は腰の剣に手をやった。柄に埋め込まれた宝石に触れると、そこからまた新たな力が体に流れ込むような心地がする。
「もしかしたら……あのときの」
 兜の中にうっすらと笑みを浮かべ、王子は低くつぶやいた。
「どうかなさいましたか?」
「いや、なんでもない。下がっていい。次の作戦まで休むがいい」
「は、では失礼いたします」
 うやうやしく礼をしてハインが天幕を出てゆく。
「……」
 一人になると、王子はゆっくりと天幕の中を歩きだした。
 それから、なにを思ったか、すらりと剣を抜くと、その刃身を目の前にかざす。
「剣が、力を引き寄せる……」
 じっと剣を見つめていると、柄頭の宝石がうっすらと光をはなちだした。
「そうだ。もっと、輝くがいい。血を吸い、魂を飲み込み、もっと強く……」
 王子の黒い瞳に宝石の妖しい光が合わさる。
「怒りも憎しみも、お前とともに……この命を捧げよう」
 誓約のような言葉がつぶやかれると、かっと見開いた王子の目に、宝石からの光が流れ込んでゆく。
「我が野望を見届けよ。水晶の魔力……伝説の魔術師の力を我に」
 まるで光そのものが生きているかのように、青紫の光は剣全体を包み込み、それは王子の体へと伝わってゆく。そして、王子の体の輪郭が、薄暗い天幕の中でぼうっと光りだした。
「王子殿下……さきほどの騎馬隊の配置についてですが、」
 そのとき天幕に入ってきた誰かが、はっとしたように立ちすくんだ。
「マクルーノか……」
「は、はい……殿下」
 妖しい光に包まれた王子の姿に、普段は冷静沈着なジャリアの軍師は、がくがくと震えだした。
「ただの兵士なら殺しているぞ」
「も、申し訳……ありません」
 王子が剣を鞘に収めると、ふっとその光が消えた。天幕はすでにもとの薄暗さを取り戻していた。
「で、殿下……いまのは、いったい」
「気にするな。この魔剣と戯れていたにすぎぬ」
「ま、魔剣……」
「頭のよいお前なら分かるな。このことを誰かに話したら……」
「わ、分かっております。決して他言は……ジュスティニアに誓いまして」
 若き軍師は何度もうなずき、うやうやしくひざまずいて誓いの言葉をのべた。
「それで。兵の配置についてなにがあった?」
「はっ、北側の騎馬隊の後ろに、長槍兵を五百ほど付けてはいかがかと。さすれば敵の出方によって臨機応変な対応ができます」
「いいだろう。その程度の変更なら、今後はお前に任せるので、事後報告でもよい」
「は、お任せいただきありがたく存じます」
 そのまま下がろうとするマクルートへ、王子は尋ねた。
「どうだ?俺は勝てるだろうな?」
「もちろんであります。我が方に負ける要素はひとつもありません」
 市民兵から抜擢された、一見して素朴な風貌の軍師は、すべての作戦はすでに決まっているというように、自信に満ちた顔を見せてうなずいた。
「よし。では、半刻ののちに軍議で、我が軍の陣形を確認。その後、全軍の進軍を開始する。お前は俺とともに親衛隊の中にいろ。前線からくる報告に対してお前の意見を聞きたいからな」
「了解いたしました!」
 頬を紅潮させたマクルーノが一礼して下がってゆくと、王子は卓上の地図へ目をやった。そこにあるロサリート草原の地形を注意深く確かめながら、その冷徹な目はすでに、その先にあるトレミリアへと向けられているようだった。


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