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これまでのあらすじ

大国ジャリアによる進攻に揺れるリクライア大陸。トレミリアから援軍部隊としてを出発したレーク、クリミナらは、ウェルドスラーブの首都レイスラーブに到着、国境の城がジャリア軍に包囲されているとの報を受けるや、レークは志願して単身でスタンディノーブル城へ向かう。
ジャリア軍との激しい攻防戦のすえ、レークは辛くも城から脱出。クリミナと再会をはたすも、トレヴィザン提督より新たな使命を受け、二人はアルディへ。都市国家トロスにて、革命の貴公子ウィルラースと面会を果たす。続いて女王フィリアンへの書状を手に、森の王国セルムラードに辿り着いた二人は、女王と謁見。レークは地下の神殿で宰相エルセイナと言葉を交わし、水晶剣の秘密やその力についてを聞かされる。
セルムラードを出発したレークとクリミナはコス島にて、セルディ伯やブロテらトレミリアの仲間たちとの再会を果たした。クリミナと別れたレークは、ブロテとともに草原を目指し、ジャリア軍の部隊に潜入、アラムラの森をさまようこととなる。不思議な老人の導きもあり、ついに森を抜けた二人はロサリート草原に出ると、騎士ローリング率いるトレミリア軍と合流し、いよいよジャリアとの決戦のときを迎えようとしていた。




 水晶剣伝説 [ ロサリート草原戦(前編)


T

 夜明けの近いロサリート街道を、一騎の騎馬が疾走していた。
 ひたすらに街道を西へ、西へと、走り続けている。まるで、何者かに追われるかのように。
 星々はそろそろ暗い天空へと姿を消し、夜明けを待つ一瞬の、もっとも暗い空がその騎士の姿を追手から隠すようだ。
 ここはもう、街道の果ても近い、草原の西の端……このまま進めば、もうじきにヨーラ湖に通じるというあたりである。騎士はおそらく、湖畔の町、サルマを目指しているのだろう。
 それにしても、騎士を乗せた馬は、もはや泡を吹かんばかりに、乗り手の命令に耐えるようにして走り続けている。これだけ急ぐに、いったいどんな理由が、この騎士にはあるというのだろう。
 しだいに東の空が白みだしてゆく。夜明けを告げるアヴァリスの前触れが、一条の光となってきらめいた。
 とみるや、騎士はさらにそれに急かされるように、馬腹に拍車をかける。
 ゆるやかに空が明るくなり始め、馬蹄の響きとともに、街道を駆けるその姿があらわになる。それを恐れてでもいるかのように、騎士は兜の面頬を落とし、その顔を隠した。
 騎士の着ている鎧は、あきらかにトレミリア騎士のそれであった。ところどころが土に汚れ、傷や痛みが目立つのがやや異様であったが、実戦を戦ったのだろうと思えば、それも不思議ではない。
 兜に隠れて顔は見えないが、馬上で背筋を伸ばし騎馬を操る姿は、なにか熟練されたものを感じさせる。おそらくは、剣にせよ馬術にせよ、己に自信を持つくらいの腕前はあるのだろう。でなくては、部隊を離れ、たった一騎で行動をするなど、この戦時下では考えにくい。そしてまた、なんらかの使命を持った単独行であるに違いないことも。
 東の地平からアヴァリスの大輪がその顔を覗かせると、ちょうど騎士は背後からその光を受けて、街道の先に長い影が伸びてゆく。
 その己の影を追うようにして、騎士はまた馬を疾走させる。
 すでに、眼前には草原の終わりが見えている。ロサリート草原の西の果てに、騎士は辿り着こうとしていた。そこはもう、トレミリア王国の領土である。
 だが、騎士は己の国に戻るという安堵よりは、さらなる緊張をみなぎらせるように、その背筋を伸ばし、馬上から先を見つめていた。
 開戦の朝となるはずの今日が、この騎士にとっては、それとはまた別の、ある重要な意味をもつのだとばかりに。



(ここは……ウェルドスラーブではない)
 寝台で目覚めたクリミナは、しばらく、ここがどこであるのか分からず、ぼんやりと天井を見つめていた。
(それに、あの、都市国家トロスでもないわ)
(では……セルムラードかしら、それとも……)
 長い長い旅と、各国を渡り歩いてきた記憶の断片が、ぐるぐると頭の中に現れては消える。
(……そうだわ、コス島のあの宿で、)
 トレミリアの仲間と再会した、あのつかのまの安息の時間が思い起こされる。
(いいえ、でもそうではない。ここはもうコス島ではないのだわ)
 そして、己の中に湧いてくる、ある感情……
 それが、彼女の心に痛みを甦らせる。
(私は……)
 コス島の港での別れ……それを思い出す度に。
(あれが、夢であればよかったのに)
 心からそう願ってみるが、しだいに頭の中がはっきりとしてくるにつれ、その淡い希望は水に溶けるようにしてなくなった。
(ああ……そうなのだわ)
(私は、レークと別れ……ここはサルマの町)
 あのとき気付いてしまった自分の思い……あの浪剣士への激しい感情が、己の中にまた広がってゆく。彼女は、込み上げるものに耐えるように、寝台の上で息を殺した。
(レーク……ああ)
(ここにはいない。あの人はもう、私のそばにはいないのだ)
 ずっと二人で旅してきた。それがいつのまにか終わってしまった。ずっと互いを近くに感じてきた、あの言い知れぬような安心感は消え失せた。
(なんだろう。この気持ちは……)
 なにかが失われたような、もう二度と戻らないという、なにかが。たとえ、そう……たとえまたレークに会えたとしても、もう元には戻らないような、そんな気がするのだ。
(それは、なんなのかしら)
 彼女にはまだ、自分自身のその、絡まりあった糸のようなものを完全に理解することはできなかった。
(ああ、でも……さっき)
(私は夢に見た。あの人を)
 あれは本当に夢だったのだろうか。
(私が湖畔にたたずんでいて……)
(そうしたら、湖の方から、あの人の気配がした)
 はっきりと姿を見たわけではなかった。だが、彼女にはそれがレークであることがすぐに分かった。
(気配……それとも意識、というのかしら)
(あの人の声が聴こえた……私を呼ぶ声が)
「ああ……」
 クリミナはぎゅっと自分の体を抱きしめた。
(嬉しかった。あのまま……湖に入ってしまいたいくらいに)
 だが、それきり、レークの気配はふっと消え、もう二度と戻っては来なかった。
(本当に、あれは夢だったのだろうか)
 寝台で上体を起こすと、クリミナは自分の額に手をやった。うっすらと汗ばんでいる顔をなぞるように撫でる。
(夢だとしても、どうせなら、ちゃんと顔まで出てきてもいいのに)
(それとも……本当に私たちの意識が引き合って)
 そして、物語の言い伝えのように、眠っている二人をひとつに結びつけたのだろうか。たしかに、体はふわふわとしていたが、自分の意識ははっきりとあったような、そんな気がするのだ。だが、夢でないとしたら、なんなのだろう。
(そうだわ。湖のほとりに行ってみようかしら)
 あの場所は、間違いなくヨーラ湖のほとりだった。そして、以前にレークと一緒に湖を眺めた場所だ。
 クリミナは部屋の木窓を開けた。肌寒い朝の空気が流れ込んでくる。ここは、ヨーラ湖を見下ろせる高台にある、サルマの領主の城であった。
 丘の下に見える町には、起き出してきた人々の姿がちらほらと見えている。もう少しすれば通りの店店が開き、湖の方面からは、今日最初の貿易船からの積み荷が、荷車で町に運ばれてくるだろう。城壁の向こうには、緑の木々に包まれた湖が、アヴァリスの光に照らされて、青い宝石のように美しく輝いている。
(ここで、こうしていると……いくさのことなど忘れてしまいそうだわ)
 穏やかに澄み渡る湖面を眺めていると、とても大きないくさが迫っているなどとは思えない。だが実際には、このサルマの町を東にゆけば、そこはすぐにロサリート草原であり、草原の東ではジャリアの大軍が集結し、こちらに向けて進軍を始めようとしているはずなのだ。
(レークは、無事に草原へ出られたのかしら)
 そうであるなら、トレミリア軍からなにか知らせのひとつも届いてくるだろうに。
(やはり外に出て、少し町を歩いてみよう)
 思い立つと、クリミナは簡単に身支度を整えた。フードのついた厚手のローブを羽織り、その中に剣を忍ばせると、彼女はそっと部屋を出た。
 この向かいの部屋にはセルディ伯がいるはずだか、まだ起きてくるような気配はしない。コス島から共に逃れてきたトレミリアの騎士たちにも、それぞれに客室が与えられ、彼らにはみな、ようやく己の国に帰って来たのだという安堵があったのだろう、昨夜は歓迎の晩餐のあと、皆すぐに寝入ってしまったようだった。
 長い回廊をぐるりとめぐらせた、非常に時代的な造りのこの城であるが、代々のサルマの領主にとっては、この城はひとつの歴史ある地位を示すものであった。領主であるカーウッド伯は、上階にあるこの城でもっとも大きな広間を、コルヴィーノ王とティーナ王妃のための寝所にしつらえ、厳重な騎士たちの警護をつけた。王と王妃を守りながら、ようやくここまでやってきた彼らにとっては、やっと息をつける一夜だったのである。
「おはよう」
 早朝のこの時間であったが、回廊のあちこちには見張りの騎士たちが立っていた。クリミナが声をかけると、彼らは直立して胸に手を当て、トレミリアに名高い女騎士に敬意の礼を示した。
「ご苦労さま。ちょっと散歩に出かけますと、セルディ伯さまが起きられたら、そう伝えてもらえるかしら」
「は、了解いたしました」
 クリミナは騎士にうなずきかけると、回廊を抜け、塔の螺旋階段を降りた。
 いかにも実戦的で古い形をしたこの城は、古く建国の王、ロハスードの時代より使われてきた。四隅に備わった物見の塔のてっぺんでは、見張りの騎士が立ち、東の草原やヨーラ湖での動きに異変がないかと、常に目を光らせている。
 螺旋階段を降りるクリミナは、矢狭間から覗く、都市とその周辺の様子を眺めた。
(あの東の城壁の向こうへゆけば、ロサリート草原が広がっているんだわ)
 このサルマという都市は、三日月の形をしたトレミリア国の、ちょうど下側の先細った先端に位置する。首都のフェスーンから下るマクスタート川の流れがこのヨーラ湖にそそぎ、ここからさらに大きな流れとなってまた南へ伸びてゆく。東へはロサリート草原へ至る街道が、ウェルドスラーブのバーネイ……いまはジャリアの支配に屈した町へと、東西をつなぐ架け橋のように続いている。
 この二つの大きな動脈の存在……それはつまり、この都市がトレミリア南部の貿易の拠点であると同時に、南と東、両方からの侵略にそなえる国境の砦としての意味をも持っているということであった。それだけ重要な都市であるから、当然ながら常時から騎士団は駐在しているのだが、ジャリア軍がロサリート草原に布陣した現在においては、さらにフェスーンからの兵たちが増員され、都市の周囲には数多くの天幕が立てられている。
(レーク……)
 クリミナは、海のようなヨーラ湖の広がりと、マクスタート川のきらめく流れの向こうにある、東へ続く街道と、その先に大きく広がる草原の地平を、まぶしそうに見つめた。あの草原のどこかに、彼がいるのだと思うと、いますぐにでも馬を駆って、飛び出してゆきたい衝動にかられる。
(そうできたら、どんなにいいかしら)
 自分が、トレミリアの騎士でも、宰相オライア公爵の娘でもなく、ただの一人の女であったならば。彼女はきっとためらうことなく、そうしたかもしれない。
 だが、一方ではまた、王国に使える騎士であることに誇りを持ち続ける自分がいる。そして、それは決して捨てられない、幼いころから己の存在意義として、常に強く心の中にあったものだ。
(私は、いつも騎士として行動し、女としての喜びなどよりも、トレミリアのためにと、そう思ってこれまで生きてきた)
 それは簡単に変えられるものではないし、また、クリミナ・マルシィという女騎士に、多くの人々……つまり、フェスーンの市民たちや王国の人々などが期待するものを、裏切るようなことはできない。
 あのコス島での別れでも、心の中で一緒にゆきたいと叫びながら、それをこらえてレークを見送った。その自分は間違っていない。クリミナは、ずっとそう思いながら、セルディ伯らとともにコルヴィーノ王と王妃を守りながら、このサルマまで来たのだ。
(それが、いまさら……)
 唇をかみしめる。ただ夢の中でのかすかな逢瀬によって、己の心がぐらつくのが、彼女には悔しかった。
(でも、それでも……)
 ただ嬉しかった。レークの姿がはっきり分かったわけでもなく、ただその存在の気配を感じただけで……自分の心がざわめき、体が震える。
(あのまま、湖に飛び込んでいたら……)
 どうなっただろう。
 夢の中とはいえ、なにかが、奇跡のようなことが起きたのではないか……などと、そんなたわいもないことを思ってしまう。
(なんてバカなのかしら、私は)
 自嘲ぎみに首を振ってみても、しかし、いったん沸き起こってきた素直な感情に嘘はつけない。
(でも、夢でもいい……)
(また会いたい)
 螺旋階段の途中で立ち止まり、窓から見える湖に目をやりながら、彼女は祈るように手を組み合わせた。

 城のある高台を下りてゆくと、芝生の庭園には多くの騎士たちが集まっていた。
 草原からの派兵の要請がいつ届いてもよいように、剣の訓練や体力づくりに励んでいるのだろう。いかにもお忍びという様子で、フードのついたローブ姿のクリミナがそこを通りすぎても、彼らは剣を振る手を止めることもなく、威勢のいい掛け声とともに己の稽古に専念している。
 中には、こちらに気付いて騎士の礼をしてくるものもいたが、それ以上の干渉は決してしてこない。トレミリア騎士たちの礼儀正しさと、ひとつ距離をとるようなその冷静さが、彼女は好きであったし、またそうであるから、女騎士などという、王国においていわば特異な存在であっても、これまで余計なことで心乱されることなくやってこれたのである。
(でもレークは、あの人は違った……)
 ずけずけと遠慮もなく、懐に飛び込んできて、礼儀も作法もない口ぶりで言いたいことを言う。無礼きわまりないその態度には、何度いらいらとし、頭にきたことだろう。
(でも、それは私たち貴族の、宮廷で過ごす狭い世界の中だけで、相手を見ていたから)
 自分を取り巻く他の貴族や騎士たちとはまったく違い、言いたいことを言い、好き勝手に行動する。その自由奔放さに面食らい、ときに憎らしいと思いながらも、いつからか惹かれ始めていた。
(あの人は、いつも自然で、誰に対しても同じようで、決して権力にも地位にも屈しない)
旅の間も、そばで見ていて、いつもハラハラとしながら、ときにそれが爽快ですらあった。コルヴィーノ王やトレヴィザン提督とも対等に口をきき、そして一人の剣士として認められ、大きな任務を授かった。アルディでの冒険のはてにウィルラースと面会したときも、あの優雅で品格の高い貴公子からも一目置かれ、さらなる使命を受けたのだ。
(あの人は、きっとそうして、いつも人を引き込むのだわ)
それは天性の魅力というのだろうか。おそらく本人はなにも、そのようなことを考えてはいないのだろうが。
(人を怒らせたり、笑わせたり。あの人といると、いつもなにかが起きる)
 相手の懐に飛び込んで、己をさらけ出すことは、ときに相手を不安にさせたり、非礼と思わせたりすることでもあるのだが、自然体の自分、裸の自分を見せることで、ときに嘘のない信頼を作り上げることもできる。
(私にはいつもそれが不思議で、ときどき腹だたしくもあり、ときどき不安でもあった)
 レーク・ドップという、一人の自由な魂が、まぶしいばかりに輝いたり、炎のように熱くも感じられたり……これまで、そんな気持ちを他の誰かに持ったことなど、彼女にはなかった。
(不自由のない宮廷の中で育ち、周囲から女騎士としてちやほやされ、枠にはめられながら生きてきた、私にとっては……)
 彼はなんと強烈で、驚くべき存在に映ったことか。
(まるでアヴァリスのように明るく、ゲオルグのように強くて、それでいて、ときどき子供のように可愛らしくて)
 クリミナは思わずくすりと笑った。
(そうね。なんだか、やんちゃな子供のようなときがあるんだわ。いつもは私が守られているのに、ときどきなんだか、まるでわたしの方が姉のような気分にもなる)
 レークの剣の強さや、決断する勇気や行動力、そのすべてに、彼女はいつしか強い憧れを抱いたのだが、一方ではその陽気な人間性……きかんぼうのような微笑ましさや、裏表のない素直さにこそ、一番の魅力を見つけていたのかもしれない。
(なんて、人なんだろう。こんな思いははじめてだわ)
(いままでわたしの知らなかった人。こんな人がいるなんて……思いもしなかった)
 こうして離れてみて、一人になった今だからこそ、彼という存在の不思議さ、その特別さを、あらためて強く感じる。それが、恋であり……あるいは愛情でもあったのだと、そう気付いても、今はもう決していやな気はしなかった。
 ただ、甘酸っぱいような、ふわふわとした気持ちと、体が熱くなるような恥ずかしさ、そしてなんとはない寂しさが一緒になって、ときどきとても切なくなるのだ。
(なんてことだろう……)
(クリミナ・マルシイが……トレミリアの女騎士が!)
(恋をしている、なんて)
 笑いだしたいような気分は、そのまま、レークに会いたい……会えないという寂しさに変わった。
(ああ……)
(レーク)
 稽古に熱を上げる騎士たちの横を通りすぎながら、クリミナは草原に向かって走り出したい気持ちを抑えようと、ただ必死にあふれる熱情に耐えた。

「おはようございます。どちらへゆかれますか」
 城門の前までゆくと、鎧姿の見張り騎士がクリミナを見て騎士の礼をしてきた。
「ちょっと、湖の方まで散歩しようかと」
「今はいくさをひかえて、町の中も緊迫しております。護衛をお付けになった方がよろしいかと」
「平気よ。私も騎士ですから。剣も持っているし、それにこうしてフードで顔を隠せば誰にも分からない」
「そうですか。しかし、お出かけになるのなら、セルディ伯さまにご報告しませんと」
 クリミナは少し窮屈な気持ちで眉を寄せたが、それも仕方はない。自分は宮廷騎士長の身分であり、宰相の娘なのだからと、言い聞かせた。
「報告は、できればしないでください。伯によけいな心配をおかけしますから」
「ですが……」
 見張りの騎士は困ったような顔をしたが、クリミナが重ねて「すぐに戻ってくるので」と言うと、渋々というようにうなずいた。
「まったく、きぶっせいだわ。気軽に散歩にも出られないなんて」
 そうつぶやいてみるが、これまでの自分であったら、こんなことも思わなかったかもしれない。彼女はくすりと笑った。
「これもレークの影響かしら」
 城門を抜けると、そこはもうサルマの町の大通りである。クリミナは深くフードをかぶり直すと、人々が行き交う通りを歩きだした。
 早朝の大通りは、普段よりも賑わいを見せていた。
 すでに戦時下ともいってよい現在においては、フェスーンより派遣された騎士たちが町に多く駐在している。当然、それだけ食料や物資なども必要になり、買い出しに来た下男や従者、使用人などが、忙しそうに店を出入りしている。
 ヨーラ湖ではマクスタート川を上ってくる最初の貿易船が、積み荷を下ろした頃なのだろう。船着場へと続く道には荷馬車が何台も行き交っている。
 もともとトレミリアにおいて、貿易相手である南方の海洋国家、アングランド、オルレーネ、イルメーネ、コス島、それにミレイなどから、海産物資や職人による加工品などが最初に運ばれてくるのがこのサルマの町であり、それらの品々が、ここからさらにフェスーンへと輸送され、王都の人々の生活を潤しているのだ。いわば、このサルマの町は南方貿易の玄関口であり、マクスタート川という南海へつながる流通経路の存在は、内陸の国家であるトレミリアにおいて、とても大きな役割をになってるのである。
 日頃は貿易と商人の町であるこのサルマであるが、今は町全体が、どこかぴりぴりとした空気に包まれている。それは、ここに住む人々にも日増しに強く感じられていただろう。通りを行き交う鎧姿の兵士たちの多さであったり、馬に乗った騎士の市中見回りであったりと、目に見える形での変化だけでなく、どこか浮足立つような人々のせわしなさ、いくさの気配を敏感に感じ取り始めている市民たちの緊張や不安も、そうした空気を生み出していたに違いない。
 フードで顔を隠したクリミナが、通りを下ってゆくと、隣り合った店の主人らしき二人が、話しているのが耳に入ってきた。
「なんだか、また数日で、ずいぶん兵士、騎士さんたちが増えたみたいだねえ」
「またフェスーンからの派兵だろうさ。そろそろ本当にいくさが始まるってこったろ」
「じゃあ、こっからすぐの東の草原ではさ、もうジャリアどもと戦っているのかね」
「かもしれんな。まだ知らせは届かねえが。そら、向かいのパン屋の息子も、傭兵に志願して、連隊組んで昨日草原へ向かったっていう話さ」
「おお、じゃあそのうち、うちの子にも徴兵が来るのかな」
「お前んとこはまだ十五だろう。ウチのは十七だからな。きてもおかしくねえ。ま、そうなってもお国のためだ。しっかりやってこいと言うだけだかよ」
「いくさになると、物は売れていいんだかな。だが、もしジャリアどもがこの町に攻めてきたらと思うと……」
「ばーか、負けっこねえだろ。先鋒部隊はあのローリング伯の精鋭だぞ。それにレード公閣下の本隊も、もう今日にも合流するって話だ。そう簡単にやられるものか」
「だがよう、敵はあの黒竜王子なんだろう。えらく残酷で勇猛だっていうじゃねえか。そんなのがもし、もしもこの町を占領するなんてことになったらさ」
「そんときはおめえ、こちとらも剣持って戦うさ。俺だって昔はちょいと剣大会にも出場しようとしたこともあんだからな。簡単にはやられはしねえ」
「そりゃ、いつのことだよ。もう三十年も前だろう。そのへっぴり腰じゃ、あの王子に睨まれただけで腰を抜かすんじゃねえのか」
「なんだと。ばっかやろう……こう見えてな、毎日の水汲みをカカアにやらされてるおかげで鍛えられてるんだよ」
「馬鹿。そいつは、尻に敷かれてるってんだよ!」
 げらげらという笑い声を聞きながら、クリミナはその横を通りすぎた。
 彼女にとって、このように近くで町の人々の声を聞くというのは、なかなかないことであったので、その会話の内容がどうあれ、とても新鮮なことあった。普通に町に暮らす人々がどのように考え、どのように日々を暮らしているのかなどということは、宮廷の中にいてはとても知ることはできない。そしてまた、知りたいと思うことも、これまではあまりなかったのである。だが、レークとともにいろいろな国をめぐり、いろいろな空のもとで生きている人々がいることを知ってからは、自分とは違うそうした人々が、どんな立場にいて、どういう思いをもって生きているのかということに、彼女はこれまでよりもずっと興味と関心を持つようになっていた。
(お店をやっている人は、ああして毎日、店を開ける準備をして、隣近所の人たちと話をしたり、交流をしながら仕事をしているのだわ。船乗りには船乗りの、農民には農民の生活があって、誰もがいろいろな疑問や不安をもちながら、それを誰かと話すことで分かち合ったり、ときには安心したりして、また生きてゆく)
(ただ剣の稽古をしていればいいだけの私たちとは全然違う。私たちは、食事や家事や身の回りのことなどを、侍女や従者にやってもらわなければ、本当はなにもできない人間なのかもしれない)
 ただ、一方では、いくさにおいては国を守るために剣をとり、彼ら市民たちの代わりに戦うことが、騎士というものの使命であるという思いも彼女にはあった。騎士や貴族と、町人や商人、職人たちというのは、同じ国に住みながらも、まるで別の世界の人間のように思えていたのだが、あのコス島での女職人たちの姿や、それぞれの国の人々を近くに見てからは、彼らもまったく同じように意志と希望をもった人々で、当たり前なのだが、誇りもあれば自分の国への愛もある。それは、戦うか、ものを作るか、売るか、畑を耕すか、という違いだけで、すべては同じ人間であるのだ、ということを彼女は気付いたのだった。
(そんなこと、分かっていたはずなのに……本当にはちっとも分かっていなかった)
 こうして間近で声を聞き、顔を見て話さなくては、分からないことはたくさんあるのだと、彼女は強く思ったのであった。
「あら、奥さん。おはよう。いい天気ね」
「おはよう。本当にいい天気。洗濯物がよく乾くこと」
 水汲みの女たちとすれ違うと、そこにまた彼女たちの生活の匂いが感じられる。
「うちの人はさ、今日の午後の船で戻るのよ。三日ぶりだわ」
「まあよかったわね。じゃあ今日はごちそうにしないとね。うちのハーブ分けてあげるわ。あとでとりにきて」
「助かるわ。あとで肉を買いにいかなくちゃ。ではごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
 おそらく、そうした何気ない会話、朝の挨拶などが町中のいたるところで交わされ、人々は毎日の大切な、変わらぬ日々を営んでいるのだろう。通りをゆく人々、町人や商人、女たち、農民、行き交う馬車や荷車を見ながら、クリミナはそこにいる一人一人にあるはずの生活を想像しながら、そして自分もまた、いまこの町の中の一人であるということに、不思議な新鮮さを感じていた。
 長ローブとフードにすっぽりと身を包み、見た目にはいかにも旅人然としたクリミナは、そのまま通りを抜けて、市門を出た。
 町の外はすぐに林が広がり、ところどころに畑が見える。朝の作業へ向かう農民たちとすれ違いながら、湖への道を歩いてゆく。
 もうすぐ冬を迎える朝の空気はひんやりと冷たく、おそらく農民たちにはこの冬を越すための最後の収穫の時期なのだろう、イモやなにかの野菜を積んだ荷車が通りすぎる。
 最初にトレミリアを出発して、このサルマに着いたときにも、きっとこの道を通ったはずだった。あのときはまだ初秋の爽やかな季候で、湖の周囲に青々と繁っていた木々は、今はもうずいぶんと枯れ葉が落ちて、枝を広げる木々たちも心なしか寂しそうだ。
(あれから、もう数ヶ月……いえ、まだたった数ヶ月なのかしら)
 その割には、もうずいぶんと前のことのように思える。
(いろんなことがあって、いろんな冒険をしたわ)
(そしてまた、トレミリアに戻ってきた……)
 木々の間から湖が見えてくると、クリミナは道を外れ、林の中へと入っていった。
「ああ、ヨーラ湖だわ」
 木々を抜けると、目の前に大きな湖が広がっていた。
 どこまでも続くヨーラ湖の水面はとても穏やかで、深いその青色をアヴァリスに照らされて、きらきらと光っている。何ヶ月か前に、ここから船で旅立ち、さまざまな冒険と旅をへて、彼女はまたここへ戻ってきたのだ。
(あのときは、たしか夕方の黄昏だった……)
 レークと二人で湖を眺めた、あのときの場所を思い出すように、彼女は湖のほとりの草地を歩いていった。
(たしか、このあたりだったかしら)
 立ち止まって湖面に目をやると、朝一番の貿易船だろうか、マクスタート川へと続く方向へ、帆船がゆったりと進んでゆく。
(夢で見たのも、きっとこのあたりだったかな)
(私がこうして、ほとりに立っていて、ちょうど向こうのほうから……)
 ふと空中にレークの気配……というか存在のようなものを感じたのだ。それはたしかにレークであったと、そのとき彼女には何故だかはっきりと分かった。
(ああ、やっぱり……あちらは草原の方だわ!)
 夢で見たその方向は、実際にも草原の方角に違いなかった。ロサリート草原にいるレークが、夢の回廊を通って空中をやってきたのだと、彼女は思った。
「……」
 かぶっていたフードを後ろにやると、クリミナはアヴァリスの輝く東の空を、じっと見つめた。もしかしたら、あの夢の通りに、どこからかふっと、レークが現れるのではないかと、かすかに胸をどきつかせて。
(ばかね……そんなこと、あるわけない)
 自嘲気味にくすりと笑う。それでも、まだ湖から目を離さない。
(あの空の向こうに……)
 いますぐ飛んで行けたらと、クリミナは願った。
 しばらくの間、湖と空を眺めていた彼女であったが、やがてアヴァリスが昇りきり、湖畔にたちこめていた朝もやが晴れてくると、幻想的な魔法の時間はもう過ぎたのだと知った。
「そろそろ戻ろうか」
 自らに言い聞かせ、歩きだそうとしたときだった。
 木々の向こうから、ふとなにかが現れた。
「……!」
 思わず腰の剣に手をやる。
 だが、よく見ると、それは鎧姿の騎士であった。
「なにものか?」
 そう声をかけてみるが、いらえはない。騎士はそのまま、ふらふらとよろめくように、こちらに歩いてくる。
「……」
 クリミナは一瞬迷ったが、剣を抜くことはしなかった。それは、どうやらトレミリアの騎士らしい。その鎧はずいぶんと汚れてはいるが、たしかに見覚えのある、正騎士の鎧姿である。
「どうした。ここでなにをしている。怪我をしているのか?」
 話しかけても応えはない。
 どう見ても、サルマに駐在する騎士には見えない。稽古で怪我をしたにしては、そのおぼつかない足どりは、どうも尋常ではないような気がした。
 騎士はこちらに向かって歩いてくる。兜はかぶっておらず、近づいてくると、その顔がはっきりと見えた。
「……う」
 その口からうめきが上がる。やはりどこか怪我をしているのだろうか。
 だが、クリミナはまだ警戒していた。騎士の顔には見覚えはなく、少なくとも、コス島から共にやってきた仲間ではない。
「お前は、どこからきた?」
「ウ、ウェルド、スラーブ……」
 かすれた返事があった。
「ウェルドスラーブだと?まさか……」
 ウェルドスラーブの首都、レイスラーブはジャリア軍の手に落ち、生き残っていたトレミリアの兵たちは捕虜になるか、あるいは処刑されたはずである。この騎士はそこから、単独で逃げてきたというのだろうか。
「おい、お前……」
「う、うう……」
 騎士はぐらりとよろめくと、その場にひざをついた。
 目の前で倒れた騎士を見下ろす。クリミナは少し迷ってから、水辺にゆきローブの先をしめらせると、騎士のもとに歩み寄った。
「……」
 濡らしたローブを絞って、騎士の顔に水をたらしてやる。すると、騎士はまた呻き、その目をうすく開けた。
「す、すまない……」
 歳は二十五から三十歳くらいだろうか。黒髪に、無精髭の伸びた顎、骨ばった頬をした精悍な顔つきである。
「しっかりしろ。お前は、本当にウェルドスラーブから逃げてきたのか」
「ああ、首都の城壁守備隊にいたが……ジャリア軍に捕虜にされ、それからスタンディノーブル城へ……」
 騎士の目がクリミナを見た。はっとするような、澄んだ目をしている。
「そこから、なんとか逃げ出した……飲まず食わずで、二日間馬をとばし、やっと……」
 そこまで言うと、騎士はぐったりとなってまた目を閉じた。
「おい、しっかりしろ」
 クリミナは騎士の体に触れ、軽く揺さぶった。鎧の胸当てを外してやると、その首から鎖骨、胸板にかけての、細身だが筋肉質の体つきに、思わずどきりとする。少しレークを思い出させるような気がした。
「……」
 ウェルドスラーブで戦った騎士が、生き残って戻ってきたということも驚きであったが、それ以上に、自分が他の誰かを男として見ていることに、彼女は驚いていた。
(これまではそんなことは、一度もなかったのに)
 男の騎士たちと一緒に稽古をし、剣を合わせても、その相手を一人の男として意識したことなどありはしなかった。やはり、レークと出会ってから、共に時間を過ごし、自分が彼を愛していると知って、自分が女であるということに改めて気付いたからなのだろうか。
「……」
 クリミナはまた少しためらってから、おそるおそる、目を閉じて横たわる騎士に触れると、その傷だらけの鎧を脱がせてやった。
 なんだか、気分がふわふわとしているようだ。おかしな感じであった。
(きっと、レークのことを考えていたせいだわ)
「馬車を……借りてこなくては」
 立ち上がろうとしたクリミナの手を、騎士がそっとつかんだ。
「あり、がとう」
 かすれた声がその口からもれる。
「待っていて。すぐ戻ってくるから」
 かすかに目を開いた騎士に向かって、クリミナは優しく言った。


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