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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


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 草原を東西に横断するロサリイト街道は、リクライア大陸の東の西の架け橋ともいうべき交易路である。常時であれば、この道はトレミリアからの隊商や、逆にウェルドスラーブ方面からの隊商、あるいは旅人などが、ひっきりなしに行き交う、まさに大動脈のような街道である。
 だが今は、その街道上に人通りはまったくない。ジャリア軍がバーネイを占領し、ロサリイト街道の東側を封鎖したためだ。いまでは行商人も荷物を積んだ馬車も姿を消し、街道は静まり返っている。土の上に残る馬車の轍だけが、どこかむなしく見える。
 二人は街道に立つと、東西へ続くその道の先に目を凝らした。
「街道をこのまままっすぐ西へゆけば、トレミリアの南端、ヨーラ湖畔のサルマに着きます」
「ああ、フェスーンから出発したオレたちは、そこで分かれ、オレは船に乗り、あんたはこの街道からスタンディノーブルへと旅立ったんだったな」
「ええ、あれからまだほんのふた月ですが、もうずいぶんと昔に思えますな」
 うなずくブロテの顔には、何度となくいくさの中をくぐり抜けて、またこの街道まで戻って来られたのだという、安堵にも似たものが、その歴戦の傷とともに見えた。
「ここを反対に東に進めば、ウェルドスラーブの北端、バーネイまでゆけます。途中、森林へ入るアラムラ街道への別れ道がありますが、おそらくいまとなっては、そこもジャリア軍に占拠されているでしょう」
「ああ。しかし、ジャリア軍のやつらは、そのアラムラ街道を使わずに、わざわざあんな小部隊で、無謀にも森林のど真ん中を縦断しようしたわけだ」
「おそらく、誰も考えつかないでしょう。だからこそ、奇襲に効果的なんでしょうが」
「ああ、なんとかそのことを味方に伝えないとな。で、どうするか……見たところ、ジャリアの部隊はまだ森を抜けてきていないようだな。あのじいさんのおかげで、うまいことやつらを追い抜けたわけだ」
「ともかく、西へ向かいましょう。おそらく、近くにトレミリア軍が陣を張っているはずです」
 そう決めると、二人はアヴァリスの沈む方角へと街道を歩きだした。
 森を歩き通した疲れはあったものの、いまは不思議と、まだ残った体力が湧いてくるような感じであった。あるいは、老人にふるまわれたイモを食べたおかげかもしれないと、レークは考えた。
(あの老人……マーゴスの娘が恋人だったって……いや、あの水晶そのものがその恋人……ばあさんか、と言っていた)
 それは考えるほどに奇妙な話であった。
(もし、それが本当なら、いったいあのじいさんは、どうしてこんな森の、それも地下に隠れるように暮らしているんだ。それに……)
(エルセイナのことも知っていた。もともとは同じ立場であっただと……それはどういうことなんだ?)
 もしアレンであれば、これらの事をよく考えて、様々な要素を符合させた答えを導き出せるかもしれない。そう思うと、早くアレンに会って、いろいろ話をしたかった。この旅で起きた様々な出来事……その奇妙で不思議な冒険のことを。
「もう、半刻もすれば日が沈みますな」
「あ、ああ」
 横を歩くブロテはいかにも武人らしく、その顔にあまり疲れも見せず、筋肉質の大きな背中を揺らして歩いてゆく。考えにひたっていたレークがやや遅れていたのを、気づかってだろう、その歩を少しゆるめた。
「思えば、なかなか大変な遠征でしたな。思いもかけないような、そんな出来事がいくつもあって」
「ああ、そうだな」
 二人は、トレミリアを出発してから、それぞれにたどった別々の冒険と、その感慨を思い浮かべるように黙り込み、今は同じ夕日を見つめながら、黄昏の街道を歩いていった。
 いよいよアヴァリスが西の地平線に消えかかろうと、その巨大な円盤を最後の血の色に真っ赤に染め上げ、草原の空が、残照の名残とともに複雑に色を変えてゆく。城壁に囲まれた町の中では決して見られない、その雄大な美しさは、地上のものたちを絶対なる神への畏敬で包みこむかのようである。
 だが、二人の帰還者には、その感動を味わいつくすいとまはなかった。
「レークどの」
「ああ」
 背後から聞こえてきた馬蹄の響きに、レークはもう気付いていた。
 二人は急いで街道のわきの草地に身をかがめた。幸いにして、ロサリイト草原は多くが丈の高い草地なので、比較的身を隠しやすい。
(街道を東側からくるってことは、ジャリア兵かな?)
(しかし、まだこのあたりまでは、敵の軍勢も進攻してはいないはずですが)
 やがて、道の向こうから土埃が見えてきた。
 草むらから、二人はじっと目を凝らした。
(五騎、いや六騎……か。騎士なのは間違いないな、どうだ?)
(ええ。鎧の色からしても、どうやら、ジャリア兵ではないようです)
 アヴァリスの最後の残照に照らされ、街道を走る馬影がしだいに大きくなる。
 騎上に銀色の鎧が判別できると、二人はほっとしたように目を見交わした。それは間違いなく、トレミリアの騎士であった。
「これでもう歩かずに済むぜ」
 草むらから立ち上がったレークは、やってきた一隊に向かって手を振った。
「おおい、おおい」
 向こうもこちらに気付いたように、二列の隊列を組み、駆け寄ってくる。
 二人の前まで来ると騎馬隊が停止した。
「なにものだ、きさまたち」
 馬上から鋭い声が発せられた。
 それが、どうやら隊長格の騎士らしい。兜の下に覗く顔はまだ若く、こちらを見下ろす表情はやや緊張ぎみに見える。
「よう、いいところに。あんたらトレミリアの騎士だな」
 気軽に声をかけるレークを、騎士は馬上から不審そうに睨んだ。
「質問に答えろ。なにものだと訊いている。この街道近辺をうろつく盗賊か?」
「はっ、なんだって?冗談じゃない」
 笑いながらレークは首を振った。
「オレたちは仲間だぞ。オレはレーク、レーク・ドップだ。そしてこっちにいるのは、ブロテだぞ。あんたらにとっちゃ名高い騎士さまだろ」
「なに……レーク、ブロテ、だと?」
 騎士はじろりと二人を見比べると、馬鹿にしたように言い放った。
「なにをたわごとを。そんな名前を出せば、だませるとでも思っているのか」
「おいおい、本当だって。オレはトレミリア騎士のレーク・ドップで……」
「あのお二人はな、ふた月前にウェルドスラーブ遠征へ旅立ったのだ。このようなところにいるわけがない。それに、その薄汚い格好で、名高い騎士などどよく言えたものだな」
「な……」
 レークは思わず、自分とブロテの姿を見比べた。
 森の中の行軍や、ジャア軍に追われて穴に落ちたりと、散々な冒険の末に、二人の胴着はすり切れて泥に汚れ、マントはもうボロボロという、じつにひどいありさまであった。そうでなくとも、もともと質素な服装を選んで浪剣士になりすましていたのであるから、たしかにこれでは、よくて盗賊にしか見えない。
「これはつまり……旅の剣士になって、ジャリア軍をあざむくための格好で」
 いかにも言い訳じみた言葉を、騎士たちが信じるはずもない。
「怪しいやつらめ。ともかく連行するぞ。その背負った武器をよこせ」
「なんだと、てめえら……」
 声を荒らげたレークを、横からブロテがとどめた。
「ここは、ともかくこらえましょう。味方と戦っても仕方ない」
「ちっ、くそったれ」
 三人の騎士が馬から降り、二人から剣を取り上げる。
「いいか、その剣は丁寧に扱えよ」
 オルファンとカリッフィの剣を奪われて、ひどく腹立たしい気持ちであったが、レークはそれをぐっとこらえた。
「ちくしょうめ。いいか、てめえら……あとで覚えていろよ」
 両手を縄で後ろ手に縛られると、レークは恨みを込めて騎士を睨んだ。その形相に、隊長騎士はいくぶんたじろいだ風で、あるいは、この二人が本物であるのではという、かすかな疑念に、一瞬とらわれたようでもあった。
「つ、連れてゆけ」
 レークとブロテはそれぞれ別の馬に乗せられ、連行されることになった。体の大きなブロテは、三人がかりで馬上に押し上げられた。こんな形ではあったが、ともかくも、馬に乗ってトレミリア軍に合流できるということで、二人はもう抵抗はしなかった。
「なあ、トレミリアの軍勢はこの近くに陣を張っているのか?」
 縛られたレークは揺れる馬上に体ごとしがみつきながら、手綱をとる騎士の背中に向かって訊いた。
「すぐに分かる。しかし、お前たち山賊にしても、我が軍の動向が気になるか」
「だから……山賊じゃねえ、ってのに」
 レークとブロテを乗せた騎士隊は、沈みゆく夕日の方角へ街道を進んでゆく。
 しばらくゆくと、さらに開けた草原地帯が眼前に広がってきた。
「おお、ここが……」
 残照に照らされた広大な草原……その一面に、無数の天幕が並び立っている。そこにはかなりの数の騎馬の群れや、数百人単位の騎士たち、兵士たちの隊列が行き交っている。まさに巨大な陣営地であった。
「こいつは千や二千じゃ、きかねえな……いったい何人くらいいるんだい?」
「黙っていろ。これからお前たちを留置用の天幕へ連れてゆく」
「ちぇっ、もしオレの部下になることがあったら、こき使ってやるからな」
 レークは口の中でつぶやくと、馬上からトレミリア軍の陣営を見渡した。
 こことて仮の陣営なのだろうが、兵士たちが寝起きするための天幕は軽く数百はあるだろう。食料となるだろうブタや、乳をとるヤギなどが、仕切られた柵の中で動くのが見える。いまはちょうど夕げの時刻なのだろう、何カ所かで煙が立ち上り、そこに配給を受け取る兵士たちの列ができている。
 レークらを乗せた騎馬隊は、広大な陣地をぐるりと回って、陣の西側へと入っていった。途中、多くの騎士や兵士たちとすれ違ったが、彼らはみなしっかりと武装を固め、すぐにでも戦闘にかかれる状態であった。そこに市民兵や傭兵らしき姿はなく、みな整えられた鎧姿で、その動きには訓練された規律が窺える。これはおそらくトレミリアの正規騎士団を中心とした部隊なのだろう。
「報告」
 騎士たちは、司令部らしい一段と大きな天幕の前で馬を降りると、そこにいた伝達役とおぼしき見張り騎士に声をかけた。
「定時の偵察から帰還、街道の東二十エルドーンまで、ジャリア軍の影なし」
「ご苦労。明日、日の出前の偵察までは休息につかれよ」
「了解した。それから、もうひとつ。帰還の途中、街道上で、この二人……山賊らしき身なりの男を捕らえた。剣を所持していたので没収し、ここまで連行した」
 まだ馬上に縛られたレークを振り返ると、騎士はややためらいがちに続けた。
「どのような怪しいものも見逃すなという、閣下からの仰せだったので、一応報告した方がいいかと思うが。こやつら、レークとブロテという名前を口にして、我々ををたばかろうとした。あのお二人は、ウェルドスラーブへ遠征に出ているので、これはきっと、名高い二人の騎士を語る悪党に違いないと……」
「ばっか野郎。オレはな、本物だ!本物のレーク・ドップさまだよ。くそったれ。早く縄をほどけ、お前らの大将とやらに会わせろよ。オレたちはな、ジャリア軍の秘密の行軍を突き止めたんだ。早くしねえと、やつらが森から襲ってくるぞ。いいのか、ええ?」
 馬上で体をばたつかせ、大声で叫ぶレークを指さす。
「このようなわけで、いかにも嘘と分かるようなたわごとをまくしたてるのだ。念のため閣下にご報告した方がよいかと思ったのだが。それとも、すぐに留置用の天幕へ放り込んでおくべきだろうか」
「なるほど、ちょっと待っていろ。閣下に報告にゆく」
 伝達役の騎士が、そう言って天幕の中へ消えてゆく。
 ほどなくして、天幕の奥から出てきた姿を見るや、そこにいた騎士たちは仰天した。
「おお、閣下……」
「なんと、閣下自らがお越しとは、」
 流麗な模様細工の施された銀色の鎧に、赤ビロードのマントを垂らした一人の騎士……その騎士は、部下たちになど目もくれず、馬上のレークに目を止めると、すぐさま歩み寄った。
「おお、レーク、……レーク・ドップ!」
 目の前に来た相手を見て、レークも目を丸くした。
「ありゃ、大将ってのは」
 そこにいたのは、黒髪を総髪に束ね、意志の強そうな眼光で相手を見つめる、がっしりとした体格の騎士……そして彼こそ、トレミリア最強と謳われる名騎士であった。
「あんたか、ローリング」
「おお、レーク。こんなところで会えるとは」
 騎士ローリングは、その顔に満面の笑みを作った。
 かつて、フェスーンの剣技大会で、山賊のデュカスとして出会い、そののち騎士伯ローリングとして手を握り合った、そのなつかしい友人とのしばらくぶりの再会であった。
「こりゃあ、なんとも、間抜けな格好での再会になっちまったな」
「まったく驚いた。それに、そちらにいるのはブロテか。これは、なんということだ。おい、なにをしている。早く縄をほどけ。ここれにるのは、トレミリアの栄えある騎士、レークどの、それにブロテ卿その人であるぞ」
 大将であるローリングの言葉に、その場にいた騎士たちは目を白黒させた。中でも、偵察隊を率いていたその若い騎士は、まさからこの二人が本物のレークとブロテであるとはと、その顔を真っ赤に紅潮させた。
「し、失礼いたしました!ま、まさか、ご本人とは思わず……」
 騎士は慌てて駆け寄ると、あたふたとレークの縄をほどいた。
「おい、お前。名前はなんてんだ?」
「は、はっ、アランであります。レークどののことは、あの剣技会でのご活躍から、尊敬いたしておりました!」
「そいつはどうも」
 レークはにやりとして、その若い騎士に囁いた。
「じゃああとで、この礼をさせてもらうとするか」
「は……も、申し訳……ありませぬ。いかようなことでも、いたします」
 額の汗を拭きながら騎士は頭を下げた。
「ローリング。久しぶりだな」
 馬を降りたレークは、あらためてローリングと握手を交わした
「ああ、まったくだ。ブロテどの方も、大丈夫かな?」
「ええ、ローリング卿……いや、いまは閣下ですか。お久しぶりです」
 トレミリアに名高い三人の騎士が立ち並ぶ。周りの騎士たちは、その姿に感銘を受けたように静まり返った。
「ともかく、天幕へ入ってくれ。二人とも、とても疲れているようだな。腰を落ち着けてゆっくり話そう」
「ああ、そうさせてくれ。なにしろ、話したいことがいろいろある」
 この天幕は、指揮官であるローリング専用のものであるらしい。入ってみると、中はずいぶんと広く、カーテンによっていくつかの部屋に区切られていた。外側の部屋に控える従者に飲み物を命じると、ローリングは奥の部屋に二人を招き入れた。
 寝台にテーブル、それに長椅子もある、天幕の中にしては広い部屋である。テーブルには大きな地図や、書類などが重ねられ、絨毯の敷かれた床にはいかにもローリングらしく、手入れ中の自分の剣や鎧兜が大切そうに置かれている。
「まあ、くつろいでくれ。フェスーン宮廷の屋敷のようにはいかないがな」
「なんの。森の中で寝泊まりしてきたオレたちにとっちゃあ、まるで天国みたいなもんよ。なあ、ブロテ」
「たしかに、そうですな」
 レークとブロテが長椅子に座ると、ローリングはあらためて二人を見た。
「見たところ二人とも、手足に擦り傷がたくさんあるようだが、ちゃんと手当てをさせるか?ブロテの方は、肩にもやや血がにじんでいるようだが」
「なあに、オレの方はどうってことないさ。こんなもん。それより、いろいろ話したいことがある」
「自分も大丈夫です。肩のほうは、ちょっと傷が開いただけですので、少し休めば治りましょう」
「ならばよいが」
 従者がワインの入った水差しをテーブルに置いて、うやうやしく礼をして部屋から出てゆくと、ローリングはそれを三つの杯に注いだ。
「ともかく、まずは乾杯といこう。再会を祝して」
「ああ。ありがてえ」
「乾杯」
 ワインを飲み干すと、人心地がついたとばかりに、レークとブロテはほっと息をついた。
「さて、まずはどちらから話をしたものか。互いに現状を報告することが、ありすぎるくらいにあるだろうからな。なんにしても、ここで会えたのはジュスティニアの導きかもしれんな」
「それについちゃあ、ジュスティニアというよりも、森の神様ルベみたいなじいさんのおかげかもしれねえがな」
 そう言ってレークはにやりと笑った。
「しかしまあ、あんたが司令官閣下だとはな。ちょっとばかし驚いたぜ」
「とはいっても、あくまで先発部隊をまかされただけさ。実際にはレード公閣下が全軍の大将ということになるが、まずは私が先鋒に立つことを志願したということだ」
「なるほど。この部隊はどれくらいの数なんだい?」
「レード公騎士団、サーモンド公騎士団、ロイベルト公騎士団からの人員を中心にした、合計五千ほどの部隊だ。明日になれば、トレミリアからレード公がじきじきに一万五千の兵を引きつれて来られて、合流することになっている」
「ひゅう、そりゃあまた、たいそうな規模のいくさになりそうだな」
「うむ」
 うなずいたローリングは、その顔つきを厳しくした。
「このロサリイト草原でジャリア軍を迎え撃ち、なんとしても打ち倒さなくてはならない。でなければ、トレミリアはもちろん、リクライア大陸全土が戦場となり、より多くの人々が犠牲になる。この草原が決戦の舞台だと、兵士たちもみな分かっている」
 ローリングは、現在までにおけるロサリイト草原でのジャリア軍の動きと、それに対してのトレミリア軍の対応などを二人に簡潔に話した。
「じゃあ、もう明日か明後日のうちには、草原での大きないくさが始まるってワケなんだな。すると、オレたちは本当に間一髪で間に合ったというわけだ」
「まったくな。正直、おぬしら二人については、ウェルドスラーブへ行かれてからは、ほとんど詳しい情報が伝わってこなかったので、ここで共に戦えるなどとは夢にも思わなかった。だが二人がいてくれれば、千人の兵にも匹敵するほどの心強さだよ」
「なあに、それほどでも」
「おお、それから、ついさきほど夕刻になって入ってきた情報がある。これも大変な機密事項なのだが、二人には話してもかまうまい」
 そう前置きすると、ローリングはその機密情報を二人に告げた。
「セルディ伯とクリミナ騎士長をはじめとする、レイスラーブから脱出してきた騎士たちの一行が、コルヴィーノ王と夫人らをともなって、サルマに到着されたらしい」
「おお、そうか」
 レークとブロテは思わず顔を見合わせた。
「ローリング。じつはな、オレたちはコス島でやつらと一緒だったんだよ。なにせウェルドスラーブの王様を助け出したのは、このブロテだからな」
「おお、そうだったのか」
「詳しく話すと長すぎて、丸一日あっても話しきれないから、かいつまんで話すけどな。オレとブロテはそこで再会して、王様の護衛はセルディのだんなに任せることにして、二人して草原へ急ぐことにしたんだ。その途中、ジャリア軍の別動隊を見つけてな、オレはそこにもぐり込んだ」
「な、なんと……」
 今度はローリングが目を丸くした。
「ジャリアの別動隊とは……それは詳しく聞かせてもらいたい」
「詳しく話したら、あんたにはきっと、信じられないような冒険だろうよ。ともかく、ミレイのバコサートで、オレたちはジャリア兵を見つけた。探りを入れて近づくことにしたんだが、やつらは千人ほどの部隊で、アラムラの森を縦断しようとしていた」
「なんと、そんなことが……」
「オレは旅の剣士を装ってジャリアの部隊にもぐり込み、一緒にアラムラ森林へと足を踏み入れた。それはまあ、大変な行軍だったよ。途中、深い谷を下り、川を渡り、それから、そう……とてつもない化け物に遭遇したりしてな」
 ローリングは身を乗り出して、真剣な面持ちでレークの話を聴いていた。
「いったい、どうしてこんなにまでして、こいつらは森を越えなくてはならないのかと思い、オレはなんとかやつらの目的を探ろうとした。だか、ついに怪しまれて、やつらに捕らわれかけたんだ。オレたちはなんとか逃げ伸びて……まあ、穴に落ちたり、奇妙なじいさんに会ったり、いろいろあったがな、なんとか森を抜け出した。そこをさっきの偵察の騎士に発見されたってワケよ」
「そうだったのか……」
 ローリングは「ううむ」と唸るように腕を組んだ。
「しかし、アラムラの森林を縦断とは。とても考えられん」
「ああ、だが、ジャリア軍の方もそれが狙いなんだろう。おそらく、やつらは森を抜けて草原に出たら、トレミリア軍に奇襲でもかける気でいるんだぜ。まさか森の方から敵が出てくるとは、こっちは誰も考えないだろうからな」
「たしかに。そんな想定はまったくしていなかった。そのジャリア軍の部隊の規模は千人といったか?」
「ああ、だが森を踏破するのに、たいそうな犠牲が出たからな。今はもう、よくて半分てところだろうぜ」
「よし、夜の見張りを二倍に増やすよう、すぐに指示を出そう。それから、奇襲にそなえて五百名の兵を交代で待機させる」
 ローリングは従者を呼ぶと、隊長クラスの騎士をすぐに集めるようにと命じた。
「少しここで待っていてくれ。騎士たちに指示を出してくる。戻ったらともに食事をとろう。二人のこれまでの活躍をじっくり聞かせてくれ」
 ローリングが天幕から出て行くと、レークはあらためて安堵感にほっと息をついた。これまでは、ずっと冒険から冒険の連続であったので、こうして味方の軍の中にいられるという安心感はひさかたぶりであった。それはブロテにしても同じであったろう。ジャリア軍に包囲されたレイスラーブでの戦いは、とてつもないストレスと不安の中での攻防だったに違いない。これから大きな戦いが待っているとはいえ、広々とした草原で、仲間たちとともにあるというのは、包囲された都市での言い知れぬ圧迫感に比べれば、ずいぶん楽な気分であるはずだった。
「たとえ敵の奇襲があるにせよ、少なくとも森の中や、敵の近くで休むよりも、今夜はずっとくつろげそうだな」
「そうですな」
「それに、セルディ伯や、クリミナたちも、無事にサルマに着いたということだしな」
「ええ。きっと明日か明後日にはフェスーンに到着するでしょう。サルマはここから街道を馬で走れば、ほんの数刻の距離です。今から一緒に行って、また護衛をしてゆきたい気持ちもありますが、草原の戦いも明日にも始まろうということですしな」
「ほんの数刻、か……」
 レークは、また、別れ際のクリミナの顔を思い出した。なにかをこらえるような、悲しげなあの顔が、どうにも忘れられないのだ。
(行ってみて、確かめたいな……)
 ふと、そんな気持ちが沸き起こった。だが、いったいなにを確かめるというのだろう。
(わからねえ。あいつが……まさか、な)
 考えると頬が熱くなる。こんなおかしな気分は初めてだった。
「と、ところでよ」
 横にいるブロテに、内心を気取られなかったかと、いくぶん照れたように、レークは話題を変えた。
「あの、奇妙なじいさんのこととかは、ローリングにも全部話すべきかな?」
「は?じいさん……といいますと?」
 ブロテが首をかしげる。
「なに言ってんだ。あの土の中の穴を通って、部屋に出ただろう。そこに住んでいた、魔術師みたいなじいさんだよ」
「はて。分かりません。そういえば、さっきも何度かじいさんと言ってましたが、いったいなんのことなんですか?」
「な……」
 レークはあっけにとられて、ブロテを見つめた。武骨で気のいいこの騎士が、自分をかついでいるようにはとても見えない。
「本当に覚えていないのか?あの穴に落ちたことも」
「ええ、穴には落ちましたね。その地下道を進んで、しばらくしたら森から出られたという、じつに不思議なことでした」
 ブロテの言葉に、ますますレークは眉をひそめた。
「じゃあ、あの谷でのことは?巨人に遭遇したことは?」
「もちろん覚えてますよ。雨の中、ジャリアの部隊が洞穴に入るのを自分は見守っていました。そこに巨人が現れ、洞穴へ入っていった。洞穴から飛び出してきたレークどのを追って、川のほとりで合流しましたね」
「ああ、その通りだ。しかし……老人のことは覚えてないんだな?」
「その老人、というのが分かりません。いったい、いつのことなんでしょう。自分はその場にいたのですか?」
「……」
 他の記憶はそのままに、ブロテの頭からはあの老人のことだけが、まるで抜き取られたように消えているらしい。
(そんなことが、あるもんだろうか……)
(いや、まて)
 考えられることは……もし、あの老人が、故意にブロテの記憶を消したのだとしたら。
(つまり、魔術か魔法か、なにかしらないが……知られていてはまずいようなことを)
(マーゴスの娘とか、その他……水晶剣との関わりめいたことを)
 魔術師であるのなら、そのようなことも可能なのかもしれないが。あの扉で、森の出口に出たときに、なんらかの作用があったのだろうか。
(しかし、オレの方の記憶は消されていない……)
 それがなにを意味するのか。それを深く考えるには、アレンの力が必要である気がした。
「レークどの?」
「あ、ああ……いや、なんでもねえ」
 不思議そうなブロテに向かって、レークは首を振った。
「忘れてくれ。たぶん、オレの思い違いだったんだ」
 やがてローリングが天幕に戻ってきた。続いて数人の従者が部屋に食事を運んでくる。
「フェスーン宮廷の晩餐に比べたら粗末なものだが、それでもたぶん、他国の軍に比べれば美味いはずだぞ」
 テーブルに並べられたのは、パンとチーズに塩漬け肉のロースト、それに豆のスープにワインが少々というものであったが、どれもがしっかりと作られたもので、充分に味わうに足りた。
 パンに肉をはさんで頬張りながら、レークは自分の経てきた冒険譚を、身振りをまじえてローリングに語った。もちろん、こまごまとしたことを語るには、あまりに時間がかかりすぎるので、スタンディノーブルでの激しい戦いの場面や、船に乗ってアルディへ向かい、監獄に入れられたときの脱出の様子や、山賊との戦い、都市国家トロスとウィルラースとの会談のこと、セルムラードへの道中と、丘の上の都市ドレーヴェのこと、フィリアン女王のことなどを抜き出して、さもドラマティックに話して聞かせた。
 その変転につぐ変転と、信じがたいような冒険の連続に、ローリングはときに驚きに口をぽかんと開け、ときにあまりの大仰なレークの言いぐさに、笑いをこらえたりしながら聞き入った。とりわけ、アラムラの森での行軍、神秘的な谷での巨人との遭遇については、さすがに半信半疑な様子であったが、ともにいたブロテが真顔でうなずくのを見て、そんなこともあるのだろうかとばかりに、大いに驚嘆するのだった。
 もちろん、レークは、水晶剣に関すること……セルムラードでのエルセイナとの会見や、アストラル体となって空中を飛んだこと、そして、森での不思議な老人とのことについては、いっさい触れなかった。話したところで信じてはもらえないだろうし、それを話すには、水晶剣や自分とアレンのことについて、さらに長い物語を語らねばならなかったからだ。そしておそらく、アレンはそれを許さない。友といえるこの二人……ローリングとブロテを前にして、すべてを語れぬという、そのいくぶんの後ろめたさを、レークはワインとともに流し込んだ。
「さて、少し長く話し込んでしまったな」
 食事を終え立ち上がると、ローリングは従者を呼んだ。
「二人には騎士用の天幕を使ってもらおう。今夜はゆっくりと休むといい。長い旅の疲れをとってくれ。敵の奇襲に関しては、我々に任せてもらっていいのでな」
「ああ、じゃあまた明日」
 部屋から去り際に振り向くと、ローリングは卓上に大きな地図を広げ、それを覗き込んでいた。部隊を任された司令官として、今後の動き方を念入りに考えているのだろう。
(なかなか大変なこった……ローリング大将か)
 できれば、アレンに会いにすぐにでもフェスーンに戻りたかったが、このローリングやブロテを置いて、一人戦場を離れることは、どうも己の矜持に反するような気が、今のレークにはするのだった。
 レークとブロテは従者に案内されて、ローリングの天幕からほど近い、騎士用の天幕へ入った。さすがに司令官のものよりはいくぶん小さいものの、中はやはりカーテンで仕切られていて、それぞれの部屋には寝台があり、卓の上には水おけが置かれている。休息には充分なものだった。
「休めると思うと、どっと疲れが出てきやがるな」
 寝台の横に剣を立てかけ、汚れた旅装を脱ぎ捨てる。置いてあった替えの麻のチュニックに着替えると、よほどさっぱりした気分になった。
「おい、ブロテよ。とりあえず休もうぜ。敵の奇襲があったら、そのとき起きりゃあいいんだし」
 カーテンの向こうに声をかけても返事はない。代わりに大きな寝息が聞こえてきた。
「へっ、さすがにブロテのだんなもお疲れだったとみえる」
 こちらも寝台に横になると、すぐにでも眠れそうだった。枕元に大切な水晶の短剣を置くと、燭台の火を吹き消し、レークは目を閉じた。
「いろいろあったが、やっぱり草原に戻ってきたな」
 浪剣士時代も、よくアレンとともに草原を馬で駆け抜け、そして草のしとねで夜を過ごしたものだった。それが今は、トレミリア騎士として、大軍のいる天幕で休んでいる。
「いろいろあったぜ。本当に……いろいろ」
 時の流れと、その変転、人々との関わり、冒険の数々……それらを思うと、なんとも不思議な気分であった。いつの日か、そのすべての出来事を思い返して、なつかしむ日が来るのだろうか。
 ゆるやかな埋没の心地よさに包まれる。
 眠りに落ちる直前、頭にあったのは、栗色の髪の女騎士のことだった。

 はたして、それが夢であったのかどうか。
 その後になっても、レークにはよくは分からなかった。
 ただ、ふわりと、浮き上がるような感覚があり、それは、確かに以前にも感じたことのある経験であった。
(オレは……どこにいるんだ?)
 目を開けてみると、星の輝く夜空に包まれていた。少しして、自分がふわふわと空中を飛んでいるらしいことが分かった。
(これは、やっぱ、アストラル……ってやつなのか?)
 エルセイナの神殿で、このように意識体となって空を飛んだ。だが、そのときに「飛んだ」感触とは、微妙になにかが違う気がする。
(ああ、なんだか、あの時はすごく自由に飛べたんだが……)
 今はふわふわと浮いてはいるが、ひどくもどかしいような感じで、思うように進まない。しかも、おかしなことに、浮いている自分の存在がとてもあやふやで、このまま風にとなって溶けてしまうような、そんな気がするのだ。
(なんだか、よく分からねえ。ここは草原なのか、それとも……)
 あたりは暗く、下を見てもそこになにがあるのか分からない。泳ぐように手を動かしてみると、かろうじて空中を進むのだが、とてつもなく遅い。
(くそ。降りたい……ともかく、下ろしてくれ)
 そう念じてみると、その意志が通じたのか、レークの体はふわりふわりと降下をはじめた。
(ここは、どこなんだ……)
 降りてゆくと、そこは草原ではなく、また町の中でもなかった。暗がりの中に、うっすらと、なにか大きなものが広がっている。
(なんだ……海か?)
 海のように広がる水面……なんとなくだが、この景色には見覚えがあるような気もする。水面の向こうには、ぼんやりと灯が見えている。町の灯なのか、それとも船か。
(船……ああ、そうだ)
 確かに自分は、そこを船で渡ったことがある。そう思いながら、レークは水面の上をふわふわと浮いていた。
(ここは、湖……) 
 なんという湖であったかが、夢の中のように、その名前が出て来ない。
 ふわりふわりと、湖のほとりに近づいてゆくと、
(ああ、やっぱり、ここにいたか)
 そこに人影を見つけた。まるで確信があったというように、気持ちがほっとする。
 それが誰なのか、レークには分かっていた。
 あれは何月前のことだったろうか。二人して、そこで湖面を眺めたこともあった。
 ふわふわと、レークはそちらに近づいた。
 空中から彼女の姿……というにははっきりとしない、気配の形のような「彼女」を見つめながら。
(夢でも、なんでもいい……)
 それは奇妙な心地だった。
 すべてを受容するような、そんな安らぎに満ちたものが、自分を包み込む。
 地面にはとても降り立てそうもない。そして、これ以上は近づけない気がする。
 ただ、それでもよかった。
(お前に、会えたんだから)
 その顔までははっきりと分からない。ただそれが、彼女であることは間違いがない。確かにそう思えるのだ。
 そのとき、ふと、彼女がこちらを見た。
 空中を漂うレークのことを見ているわけではないはずだ。それとも見えているのか。
(オレは……ここから見守っている)
(きっと無事でな……)
 ゆるやかに、自分の体が溶けてゆくような気がした。
 これがアストラル体としての不安定な飛行なのか、あるいは夢の回廊というものなのか、それは分からなかった。
 ただ、水晶の力が足りていない……レークにはそれが分かった。
 暗転する。
 ゆっくりと景色が、溶けてゆく……
(クリミナ……)
 レークは最後に、名を呼んだ。
 彼女の緑色の瞳が、確かに自分の方を見た気がした。
(溶ける……)
 体が、その意識もろとも、溶けてゆく……不快な墜落感、
 そしてまた、空中高くに持ち上げられ、どこかに吹き飛ばされるような感覚が襲い、
 次になにもかもが消えた。

 ……
(う……)
 ここは現実なのか、それともまだ、夢の続きなのか……
 頭がずきりと痛んだ。
 目を開けると、
 そこは天幕の寝台であった。
 背中にびっしょりと汗をかいている。
 カーテンの向こうからは、ブロテの寝息が聞こえている。
「夢だったのか……いや」
 体を起こし、枕元にある短剣に手をやると、その柄にはめられた水晶が熱を帯びていた。
「こいつの力か……」
 エルセイナの神殿で体験したのと同じで、あれは、アストラル体になっての飛行だったのだろうか。そうであったなら、意識体となった自分がヨーラ湖まで飛んでいって、クリミナの姿を見たのだとしても、それはたぶん夢ではない。
(あれは……確かに、クリミナだった)
 はっきりとその顔を確認したわけではないが、それでも、はっきりと感じられたのだ。彼女の存在の色……あるいはそれは、精神の色であり、形であったかもしれない。確かにそれが。
(あのとき……向こうは、オレに気付いたんだろうか)
 そんな気もしないではない。なんとなくだが、ふわりと視線が触れ合ったような、そんな感覚ともいえぬ微妙なものが、確かに感じられたのだ。
 だが、それについて深く考えている暇はなかった。
 にわかに、天幕の外で慌ただしい気配が起こった。
「ジャリア軍だ。敵の夜襲だ!」
 兵たちの声が聞こえ、レークは飛び起きた。
 剣をひっつかんでそのまま天幕を飛び出すと、辺りはすでに騎士たちが慌ただしく行き交い、ものものしい喧騒の響きに包まれている。
「おい、敵はどっちから来た?」
 レークは近くを通った騎士をつかまえると、大声で尋ねた。
「も、森の方角から、突然現れたとのことです。現在、陣営の南側で交戦中です!」
「やっぱり、来やがったか!」
 レークは走り出した。
 夜闇の中に、いくつもの松明の灯がうごめいている。その灯が向かう方向へと。
 陣営の南側までくると、辺りはさらに緊迫した空気に包まれていた。
 赤々とした松明の灯に照らされて、数百人の騎士たちが陣を守るようにしてずらりと立ち並び、それぞれが弓や剣を手に、すぐにも応戦の構えをとれるよう命令を待っている。
「おお、レークか」
「ローリング、状況は?」
 司令官であるローリングが、騎士たちからの報告を聞いているところへ、レークが走り寄った。
「うむ。どうやら戦闘はほんの一瞬だったようだ。私が来たときにはもう、すでにジャリア軍の姿は消えていた。森の方から現れた敵軍は、そう、ほんの数百という程度だったようだ。敵はこちらに接近して攻撃を仕掛けようとしたが、待機させていた騎士たちがすぐに防備の構えを見せたので、そのまま退却していったということらしい」
「やつらは、なにもせずに逃げたのか?」
「弓での攻撃はあったようだが、こちらにほとんど損害はない。おそらく、夜襲をかけたつもりが、思いがけずこちらの守りがしっかりしていたので、そのまま退却したのだろう。これもレークとブロテのもたらしてくれた情報のおかげだな」
「だといいんだがな」
 レークは気に食わないというように唇を尖らせた。
「どうかしたのか?」
「いや。それで、敵に追っ手はかけたのかい?」
「うむ。偵察隊をいまさっきやらせたところだ。ただし深追いはするなと」
「そうか。馬を借りるぜ。ちょいとオレも行ってみる」
 そう言うと、ローリングが止める間もなく、レークは近くにあった馬に飛び乗った。
「はいっ」
 掛け声とともに馬腹を蹴り、陣営から飛び出す。
「閣下、よろしいのですか?」
「ああ……あれが、レーク・ドップだよ」
 ローリングは愉快そうにつぶやくと、すでに夜闇の中へ消えて行った馬影のあとを、じっと見つめるのだった。

 草の香りを含んだ涼やかな風が顔を吹きつけ、見上げると、夜空には星々がどこまでも広がっている。
 夜の草原を馬で疾走するのは、なかなか気持ちがよかった。
(こうやって、思い切り馬を走らせるのは、いつ以来だろう)
 たぶん、レイスラーブの会議の席で、ジャリア軍に包囲されたと報を受けて、単身スタンディノーブルへ向かった、あのとき以来か。
(もう、ずいぶんと前のことに思えるな)
(そういや、アルーズ……あいつは無事でいるのかな)
 共に馬で旅をし、スタンディノーブルの防城戦を戦った、勇敢な戦士……
 トレヴィザン提督とともに、ウェルドスラーブ近海で海戦を続けているとまでは知っていたが。その後はどうなったのか。
(まだ、海で戦っているのかな)
(いつか、平和になったら……トレヴィザンのだんなや、ブロテも一緒に、一杯飲み交わしたいもんだな)
 街道ぞいを東へ馬を走らせると、前方にいくつかの馬影が見えてきた。
 暗い森林の中を長いこと歩き続けたレークには、星空の下の夜の草原などは、充分に見通しのよい場所であった。
 街道に足を止めているのは、六騎ほどの偵察隊であった。レークが追いついてゆくと、騎士たちは馬上でこちらを振り返った。
「オレはレーク・ドップだ。ローリングから偵察隊を見に行くよう言われて来たんだが、敵はどこだ?」
「は、それが……さっきまでは、確かに敵の姿を確認していたのですが、街道の途中で見えなくなり、見失いました」
「なるほど。なにぶん夜だしな。おそらく、街道をそれて草むらにでも隠れながら逃げたんだろう」
 だが、ここから草原を見渡してみても、それらしき姿は見当たらない。丈の高い草に身をひそめながら逃げたとしたら、それを見つけるのはこの夜闇の中ではまず不可能であった。
「ううむ、さてどうしたもんか」
 レークは考えながら、そこにいた騎士の一人に目をとめた。
「おっ、お前は確か……アランだったな」
「はっ、覚えていただき、光栄に存じます」
 この偵察隊を率いているのは、レークとブロテを盗賊として連行した、あの若い騎士であった。
「お前は乗馬が得意なようだな。よし、付いて来い。他のやつらは戻ってもいいぞ」
「は……しかし、ローリング閣下より、深追いはするなとのご命令が」
「へっ、ローリングにはあとで言っとくから大丈夫だ。オレはやつとはマブダチなんだ」
「は?マブ……」
 騎士は一瞬だけ躊躇するような顔をしたが、
「わ、分かりました!」
 すぐにうなずいた。なかなか胆が座っているようだ。
「よし。じゃあ、いくぜ。道からそれるぞ。草の中をゆくから気をつけろ」
「はっ」
 二人の馬は街道をはずれ、草の上を走り出した。
「ひゅう。やっぱ道じゃなく、草原の土の上を走るってのはいいもんだ」
 風にそよぐ草の上はまるで海原のようだ。地平線は夜空と溶け合い、終わりのない暗闇の彼方へと疾走してゆくような恐ろしさと、奇妙な心地よさが同居する気分であった。
「吸い込まれそうだぜ」
 レークの馬は速度を増していた。乗馬に自信のあるというアランでなければ、あっと言う間に置いていかれてしまったろう。
 そうして、半刻ほども走ったろうか、
 かすかに東の空が白みはじめている。
 山々の輪郭……東西を二分するバルテード山脈の輪郭が、永遠に続くとも思われるこの草原のはるか彼方に、うっすらとそのシルエットを見せ始めている。
「レ、レークどの!」
 背後からアランが声を上げた。
 だが、その声を聞くまでもなく、レークはもうそれを見ていた。
 二人の馬は草の上に足をとめた。
 広大なロサリイト草原の、ここはおそらくは中間地点に近いあたりだろうか。
 その、夜明けを待つ地平線の手前に平行するような、奇妙な黒い線があった。夜闇の暗さよりもさらに黒い、どこまでも続く線が……
「レークどの、あれは……」
「ああ、」
 二人ともそれきり言葉を失ったように、馬上からただ「それ」を見つめていた。
 うっすらと空が白みだす。
 ちょうどその東の空を背景にして、その黒い線は、かすかに……まるで蜃気楼がぼうっと揺らぐように、かすかに波うって見えるようであった。
 やがて、アヴァリスの到来とともに空が明るさを増し、その地平線が分かるくらいになると、
 その黒い線は、ひとつひとつの膨大な数の人間の集まりであり、草の上に見え隠れしている鎧兜の列が、まるで黒い線が波うつように見えるのだと知れた。
 そして、その長大な黒い列は、間違いなく、こちらを向き、前進していた。
「ついに、か」
 夜明けを待つ草原の地平線に、
 黒い鎧たちが、少しずつ、少しずつ、その輪郭をはっきりとさせてゆく。
 草を踏みしめて押し寄せる、その足音が、もうここまでも聞こえてくるかのように。
「ついに、始まるぜ……」
 言い知れぬ高揚感にか、それとも恐れにか、
「草原の戦いが」
 レークはぶるりとその体をふるわせた。
 黒い、不吉な地平線が、草原を包み込むようにして、またじわりと広がる。
 大陸全土を巻き込むだろう最大の戦いが、これからまさに始まろうとしていた。






                     水晶剣伝説 Z 大森林の行軍 




あとがき

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