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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


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「こ、ここは……いったい」
 その光に満ちた部屋に、一人の老人が立っていた。
「このような土の中にまでよく来たものだ。歓迎はせんが、まあ入るがいい」
「……」
 二人は顔を見合わせると、ためらいがちに部屋に足を踏み入れた。
 さっきまでの穴に比べるとずいぶんと広い、そして、一見すると、ごく普通の家の中のようであった。
 床は板張りになっていて、部屋の真ん中にはテーブルと椅子が置かれている。奥の方には寝台らしいものもある。ずいぶんと明るく感じられたのは、たくさんの燭台が四方に置かれているためで、ずっと森を歩いてきたものにとっては、久しぶりにみる灯であった。
「なにを突っ立っておる。椅子はふたつしかないがな、そら座るとよかろう。わしは足腰はまだ丈夫なのでな。かまわぬ」
 真っ白な髪に、白い髭の老人は、いくぶん迷惑そうな顔つきで二人を手招いた。
「あ、ああ……どうも」
 面食らいながらも、レークとブロテは言われた通りに椅子に腰掛けた。
 あらためて部屋の中を見回しても、ここが土の中で、しかも森の真ん中にある地下の部屋だとは、とても思えなかった。
 当然ながら、部屋には窓などはなく、土を固めて石灰を塗ったような壁は丸くなって天井に続いている。壁際にはたくさんのハーブが吊るされ、どこでとってきたのか果物や野菜のようなものが吊るされた籠に入れられていた。
 白髪に白い髭の老人は、ぎろりと二人を見た。
 麻色の僧服のような長ローブに身を包んだ姿は、年老いた祭司か、あるいは魔法使いのようでもあった。こけたあごに、とがった鷲鼻、そしてぎょろりとした目つきは、少しばかり異常な感じでもあった。
「まったくもって、けしからん」
 老人は、いくぶんしわがれてはいるが、意志の強そうな口調で言った。
「平穏なるこの森を、にわかにさわがしくしおって。兵士どもはとっとと出てゆくがいいのだ。ここは森に生きるものたちが、静かに悠久を感じながら滅ぶ場所。その幸せを、べつのときの流れでせわしく踏みにじるなどというのは、まったくけしからん」
 老人の目には、狂気じみた芸術家のような頑固さと、同時にまた学者のような知性の光が宿っているようにも思えた。
「なあ、じいさん。ここはいったい、どういうところなんだ?あんたは、ここに一人でいるのかい?」
「ここはどういうところかって?はん」
 老人はじろりとレークを睨んだ。
「わしをじじい呼ばわりするとは、そういうお前はなんなのだ」
「ああ、オレはレークってんだ。こっちのデカいのはブロテ」
「ほう、そうか。それで?」
「それでって?」
「おぬしはいまここにいる。ここに来たには理由がある。森のことわりともいうべき、大いなる定めとはなにか?」
「理由……理由っつってもな。ただ単に、穴に落ちたからなんだが」
「穴に落ちただと。おお、それすらも、むろんここを目指すゆえなくしてはかなわぬ。やすやすと結界を突破したわけであるのは明白、つまり……」
 老人は、ぎょろりとした目でレークとブロテを見比べた。
「そなたらは、もはや我が客だ。まったくもって面倒だが、それはそれで仕方ない」
「な、なあ……じいさん、オレたちはさ、あまり時間がないんだよ」
「時間など」
 老人はふんと鼻で笑った。
「そんなものは、もとから人の須臾の生は、まことはかなきもの。あるようでなき、ないようであるものよ」
「……はあ」
 老人の言葉にレークは首をひねり、横にいるブロテに囁いた。
(なあ、このじいさん、ちょっとおかしくねえか?)
(それはまあ……なにせ、こんな土の穴の中にいるくらいですし)
「さて、ではこうしよう。イモでも食べるかね。腹は減っておるか?」
「そりゃあ、まあ……ここまでろくなモン食べてないからな」
「よろしい。野菜と果物ならにいくらでもある。肉はあいにく食わないのでな」
 そう言って老人はすたすたと部屋のすみにゆき、籠の中からジャガイモを取り出し、それをごろごろと鍋に放り込んだ。
「お、おい……どうやって料理するんだ?こんな地面の中で」 
「茹でるのじゃ。水ならいくらでもある」
 老人が壁にある取っ手をひねると、魔法のように穴から水が湧きだした。
「おお、すげえ……」
 いったいどこにこんなに水がたくわえられていたのかと、二人は目を丸くした。
「なに、滝の落ちる川から、水道を引っ張ってきただけのことよ」
「滝って……そんなもん近くにあったかな」
「ええ……」
 二人は不思議そうに首をひねった。
 いっぱいに水を入れると、老人は鍋を手に、奥にあるらしい別の部屋へ入っていった。
 老人の姿はもとより、その言動も不思議で、水や野菜もそうだったが、だいたいが、この地中深くにこのような住居を造ること自体が、一番の不思議という他はない。
 まるで、おとぎの国の話に出てくる家にでも迷いこんでしまったような気分で、レークとブロテが待っていると、
「さて、これでよし」
 老人は戻ってきた。いくぶん機嫌のよくなった様子でひげをもぐもぐとさせると、
「つまり森の中に畑があるのだよ。わしはそこで野菜を作っておる。なに、この歳になると、少々の野菜や豆、果物さえあれば生きてゆけるのさ」
 彼らの疑問をそばで聴いていたかのようにそう答えた。
「ところでさっき、わしがここに一人でいるかと、おぬしはそう尋ねたな。それについては、さよう、そうであるともいえるし、そうでないともいえる」
「なんだそりゃあ?」
 レークは呆れたような顔で、またブロテに囁いた。
(なあ、やっぱりこのじいさん、頭がおかしいんじゃないのか?)
 老人がまたひげをもぐもぐとさせる。今度のは不機嫌な様子であった。
「わしは一人であり、一人ではない。ただそれだけのことじゃ」
「では、ご老人はここに来て長いのですか?」
 今度はブロテが尋ねてみた。
「ここに長くいるかだと。それについては、さよう、そうだともいえるし、そうでないともいえる。つまり、時間の概念など、人により、時代により、国により、場所により、すべて異なるというしだいじゃ」
「なるほど、では、たとえば十年より長いか短いかと言いますと?」
「一年などという、人の定めし概念などは、わしは持ち合わせていない。なにしろ、そら見よ」
 老人は、その骨ばった手を広げて、撫でるように室内を指した。
「この地中の家において、一年だとか一日だとか、そんな時間の期日は、はたして必要であるかな?眠りたくなれば眠り、起きたくなれば起きる。アヴァリスの輝きすら届かぬこの土の中では、つまりはわしの意志こそが時間を作り出す。流れを作り出す。したがって、わしが十年だと思えば、それは十年であるし、一年であると思えば一年にすぎん」
「はあ……」
 なにもかもを悟りきったような老人の答えに、ブロテも黙り込んだ。その横で、レークは呆れたようにぽかんと口を開ける。
「なあ、じいさん。ところで、オレたちはさ、谷でおっそろしいモンに出会ったんだがよ。森の巨人のことは知っているかい?」
「森の巨人、ああミクロプスのことかな」
「ミクロプス……」
「さよう」
 老人は今度は穏やかにうなずいた。
「彼らは普段は温厚でなにも悪いことはせんよ。いやむしろ、狼に襲われたわしを助けてくれたこともあった。お礼に果物をやったら嬉しそうにして頬張っておった。ときおり、谷から上がってきて鹿をとることもあるがの。それ以外はいつも谷にいて、静かに暮らしておるよ」
「へえ、そうなのか。あの巨人のおかげで、ジャリア軍はたいそうな損害をくったようなんだが、ようするに自業自得ってやつかな」
「まったくもって!」
 老人がいきなり強い声を出したので、レークとブロテはびくりと顔を上げた。
「おろかなり。人の子の兵士たちよ。森のことわりをかえりみず、鉄の鎧と剣を持って、大いなる自然に飛び込み、傲慢にも勝利できると思っているのか。まったくもっておろかなり。ジャリアなどという野蛮な新興国は、わしが調整者として降り立ったときには、このリクライアでは赤ん坊のようにただ無力なものだったが」
「なんだ?新興国……赤ん坊、それに調整者ってのは」
「べつに。おぬしには知らずともよい。ただし、その……」
 言いかけた老人は、ふと宙に目を泳がせた。
「どうしたい、じいさん?]
「おう、そろそろイモが茹で上がった頃だ」
 そう言うと、すたすたと奥の部屋へ入っていった。
 レークとブロテは、不思議な老人の言動に圧倒されたように顔を見合わせた。
「なあ、オレらは、こんなところでイモを食っていていいのかよ?」
「そうですねえ。ですが、食わずに出てゆくというのも、それも失敬な気がしますし……それに、あのご老人もなにやらただものではないような」
「ううむ……たしかにな」
 部屋の中を見回して、レークは壁際の棚に目を止めた。
 そこには、古びた本や羊皮紙の束などが乱雑に積まれていたが、その他に変わった石や宝石の原石のようなものが置かれていた。セルムラードのドレーヴェでも見た、緑柱石の原石や、つやつやとした青金石の塊、それに透明な石や、紫がかった大きな結晶などが、棚の上に無造作に並んでいる。
「ありゃあ、水晶かな……」
 エルセイナのいた神殿の地下にあった、壁一面の水晶……あの神秘的な光景が思い出させる。レークは懐にある短剣に手をやってみた。なにかあるときには熱を帯びたようになるのは、何度か経験して分かっていた。今はとくに熱くはないようだ。
「さあ、イモができたぞ。食うがいい」
 湯気のたつイモがたっぷりと入った籠をかかえて、老人が現れた。
「塩は貴重だが、ひとつまみなら使ってもよいぞ」
「ああ、どうも」
 二人は熱々のイモを手にとって、それを頬張った。
「あち……あちいが、美味い」
「そうだろう。わしが育てたイモだからな。ここには肉もなければワインもない、ニンニクもなければ、チーズとてないが、そのイモといくばくかの野菜、果物がありさえすれば、この森も住むに難儀せぬ。トレミリアのフェスーンのような、雅びやかなおなごはおらぬがな」
 老人はそう言ってかっかと笑った。
「……」
 トレミリアという名前に、レークとブロテはまた目を見交わしたが、なにも言うことはしなかった。二人はただ黙々とイモを味わった。
「さて、じいさん」
 三つほどイモをたいらげると、レークは切り出した。
「オレたちはそろそろ行きたいんだがよ。早くしないと、ジャリアの隊列が森を越えちまう」
「ふむ、焦らずとも、この土の中の部屋にいる方が、かえって時間の流れに関わらずに、冷静かつ冷徹に世界を俯瞰できるというものだがな、」
 いくぶん真剣なまなざしになると、老人はぎろりとレークを見た。
「しかし、そなたは行かねばならんというのだな。ここに来たように、また偶然という必然によって、そなたはまたどこかへ行かねばならんのだな」
「偶然という必然か、面白いことをいうな、じいさん」
「ものごとすべてには理由がある。たとえ偶然に思われることでも、そこには大なり少なりなんらかの要因、要素が細やかに関与し、あるいは関与しないことで、ものごとの進みかたや人の運命が決まってゆく。ときにささいな意志ですらも、必然の偶然をおよぼす。つまりはすべては、微細な関わりの集積によって、ときに小石がひとつ落ちることもあれば、大岩が転がるほどの変転にもなりえるわけじゃ。ただしな、」
 老人の目がきらりと光ったように見えた。
「おぬしにかぎっては、その小さな要素の関連性は、必ず大きなものを引きつけ、決定的な変転の引き金になる。それだけの要因を、おぬしはすでに手にしているのだよ」
「よく、分からねえが」
 レークは、壁際の棚を指さした。
「ああいう、石や……たとえば、水晶、なんかの魔力のせいだっていうのか?」
「ほほ、ほ。そうはっきり言ってくれると、むしろ答えやすい。その通り。おぬしの手にしている魔力の短剣……それは、おそるべき力を秘めた、より大きなものと常に引き合うからな。たぶん、この穴におぬしらが来た時に、なんとなく、こっちに行きたいと思ったことだろう。それこそが、先に申した必然の偶然そのものよ。そうでなくては、わしのこの部屋を訪れることはかなわぬでな。たとえ穴を見つけて降りたとしても、延々と狭い穴の中をさまよい、決して扉は見つけられぬ」
「やはり、オレの水晶の短剣のことは、もうお見通しなんだな」
 驚きに包まれながら、レークは老人を見た。
「それはそうだとも。その強き力は、この土中におってもすぐに察知できる。そう、おぬしが谷を越えてきたあたりから、はっきりとな」
「じいさん……あんなは、なにものなんだい?」
「なにもの、とは……また地上のしがらみをあてがわれたような、無用な地位を示す言いぐさよの」
 そう言って、またかっかと笑う老人。すでに、この白い髭の老人が、森に住むただの世捨て人などではないことは明白であった。
「まあ、よいさ。なにやら久しぶりに愉快な気分になってきたわ。あの馬鹿皇子を見限って、東から抜け出し、この森に辿り着いてから、何人かの人間に会うには会ったが、誰もかれも欲に目のくらんだ俗物ばかり。中には途方もない金を積んできたどこかの王もいたがな。だが我はもう、すべての国と関わりを持つのはやめた。いくさやら協定やら、金やら権力やら、そんなものにはもう飽き飽きだ。そう、おぬしらが思っているように、その意味ではわしはすでに世捨て人であるし、森の隠居人であると言ってよかろう。ああ、しかしな、」
 次の老人の言葉に、レークはまた驚くのだった。
「水晶の力には興味はある。というか、魔力に興味がない魔術師などはおらんだろうさ。あのセルムラードの氷の宰相にしろ、な」
「あんたは、エルセイナのことも知っているのか。それに、魔術師って……」
「ふむ。それは知っておるさ。やつも、もともとはそう、同じ立場であったもの同士よ。もともとは志も同じく、強い使命感に満ちあふれておったこともな。ただし、我は東の大国へ、やつは西の王国へと使わされた。それがあるいは、互いの定めを狂わせたのかもしれぬがな」
 老人は自重気味に口元を歪めた。そうすると、おそらく以前には強い野望や志があったのだろうという人物の表情を覗かせる。
「ほっ……が、それもまあ、昔の話よ。今はただ、ときおり世相を占い、世界を思索しながら、こうして土の中に暮らしイモを食うだけの、ただのおいぼれにすぎぬ」
「なんだか……わからねえが。じいさんはけっこう、えらい人だったんだなあ」
「ほっ、ほ、まったくもって当たらぬ。しょせん、人に飼われているのならば、たとえ本物の正義や意志があったところで、力の方向性は上からの影響を受けざるを得ぬ。つまりは、誰しもが操り人形であり、その人形を操るものもまた、なにかに操られているということだ。それに気付いたものは、こうして隠居をして自由を得るか、あるいは、すべてを操る立場へ上りつめることを目指すかしかない。実際のところ、そんな立場に上ることなど、神ならぬ人間には不可能なのじゃがな。しかし、人は愚かしい夢を見てしまう。だからこそ、またいとおしくもあるのだが」
 老人はまた、ぱくりとイモを食べると、棚の方へ近づいた。そこから大きめの玉を手にとって持ってくる。それは、透明な水晶玉であった。
 老人はその水晶玉を大切そうにかかえて、レークの前に見せた。
「これはな、わしのばあさんだ。いやつまり、わしの妻……恋人じゃ」
「その、水晶がか?」
「そうとも、だからわしは一人ではない。さっきの答えだが、わしは一人ではない。こうして、いつもばあさんと一緒におる」
 すると、不思議なことに、老人の手にした水晶がきらきらと光りはじめたようだった。それは暖かいような、見ていて心地よいような不思議な光であった。
「のう、生きておる。この水晶の中に、ばあさんの魂が宿っておるのだ」
 老人はそう言って、いとおしそうに水晶をやさしく撫でた。
「ばあさんは、魔術師マーゴスの娘じゃった。そう、そしてマーゴスの弟子でもあった」
「なん、だと……」
 レークは言葉を失い、老人の持つ水晶をじっと見つめた。横にいるブロテには、それがどういう意味を持つのかは分からないだろう。
「マーゴスの……、じゃあ、あんたは」
「ふむ。そうだの。あるいはまた……」
 白髪の老人は、どこか悲しそうな目をして、静かに言った。
「おぬしとは、どこかで、会うことになるやもしれんな」
「……」
 レークは、もっといろいろと訊きたいこともあったが、ブロテの手前それを我慢した。ただしばらく、この不思議な老人と、その手の水晶玉を、言葉もなくじっと見つめていた。
「さてと、ひとときの暇つぶしというには、なかなか楽しかったぞ」
 最後のイモを食べきると、老人はそのぎょろりとした目で、レークとブロテを見やった。
「おぬしらには、まだ大切な役目があろうし、愚かしくもむなしき、いくさなどというものを、あるいはいくらかマシな方向へも変えてゆける可能性を、また秘めておるようだ。そう……ばあさんが言った」
 老人は爪の伸びた長い枝のような指先を、すっと扉の方に向けた。すると、ぱたりと勝手に扉が開いた。
「特別に、森を抜ける扉を教えてやろう」
「森を抜ける……扉?」
「ふむ。あの扉を出たら、もう最初と同じ穴へはゆけん。その代わり、別の扉を開けることができる。よいか、ここを出たらまっすぐにゆき、ここだと思ったときに右手を見て、左手を見て、それから進め。現れた扉を前にしてためらわぬことだ」
 最後に、老人が「ゆけ」というように強く二人を見た。その目には、最初に来たときにはなかった、人間的で暖かな光が感じられた。
「じゃあともかく、ありがとうよ、じいさん」
 老人に礼を言うと、二人は入ってきたときと同じ扉をくぐって、再び暗い穴に出た。
 背後で老人の声が聞こえた。
「それから、森を抜ける扉を通ったら、ちょいと時間を進めさせてもらうぞ。つまり、ぬしらがこの穴に落ちなかったとして、そのまま森を歩き続けた場合の、もっとも早いペースでの時間を流れさせる。そうでないと、世界を司る黄金律に反してしまうのでな」
 そして、ぱたんと扉が閉まる音がした。
「おお、なんてこった……」
 振り返ると、そこにはもう扉はなかった。前にも後ろにも、ただ暗がりのトンネルが続くだけである。
「こいつは、なかなか、けったいな体験だな……」
 二人は、老人に言われたように、暗い穴の道をまっすぐに歩きだした。

 地下の穴は、二人を飲み込んだまま、けっして離すつもりはないとばかりに、濃密な闇をねっとりとまとわりつかせ、どこまでも続くかのようだった。
「ううむ、あのじいさんは、ここだと思ったら、右を見て左を見ろとかいっていたけど、さっぱり意味が分からねえ。なあ、いつまでたってもオレたちはもうこの穴から出られないんじゃないかって気がしてきたぜ」
「ともかく、もう少し行ってみましょう。先になにかがあるのかもしれない」
 さらにしばらく進むと、道がゆるやかに右に曲がってきているのが分かった。そのまま穴にそって進んでゆくと、その途中でそれは起こった。
 なにか奇妙な感覚……薄い膜を通り抜けるような、くすぐったいような、おかしな感触があったのだ。
 すると、
「おお、向こうに扉があります!」
 ブロテが前方を指さした。この先の行き止まりに、たしかに扉が見えた。そこからかすかに光が差し込んでいるのを見て、二人は歩を早めた。
「よし、開けるぞ」
 扉の取っ手をつかみ、それを引っ張ると、今度は手応えがあった。。
 扉が開かれ、まぶしい光が二人を包み込んだ。
 やっと外に出られるという安堵とともに、レークは足を踏み出そうとした。
 だが、
「うわああっ」
 声を上げ、体をよろめかせたレークは、かろうじてそこに踏みとどまった。
「なっ、な……」
「これは……」
 二人はそこに立ちすくんだ。
 目の前には、信じられない光景が広がっていた。
 ドドド、というすさまじい音が響き続ける。今にも、水しぶきがここまで飛んでくるかのようだ。
「な、なんだ……ここは」
 崖の上から勢いよく流れ落ちる滝……はるか下方には霧のかかった滝壺と、その向こうには緑の森が延々と広がっている。
 彼らが開けた扉は、まさしくその、滝の流れ落ちる断崖の真ん中であった。
「こんなところは、見たこともねえ……」
「はい……」
「なあ、だいたい、土の中にいたオレたちが、いったいどうして崖に出るんだ?」
「わ、分かりません」
 二人はしばらく言葉を失い、そこから見える景色をぽかんと眺めていた。
 紫色に変わり始めた空、西日を受けてきらきらと輝く滝の水が、七色の光とともにしぶきを上げながら落ちてゆく。その壮大な景観は、信じられないくらいに美しいものだったが、彼らには、地下の穴からのこの唐突な変化が、恐ろしく奇妙で、そして不気味にも思えるのだった。
「ここから落ちたら、死んじまうところだったぞ。ちくしょう、あのじじいめ」
 レークはぶるっと体を震わせた。扉を閉めると、滝の音はもう聞こえなくなった。
「いったいこりゃあ、どういう魔法なんだろう」
「ええ……驚きました」
「ともかく、戻ろうぜ。森の出口はここではないらしい」
 気を取り直すと、二人はまた暗い穴道を歩きだした。
「このあたりだったかな」
 しばらく道を戻ってから、また振り向いてみると、奇妙なことに、今度は道は前方で左手にゆるやかに曲がっていた。
「ううむ、なんだかまた怪しいが……ともかく、行ってみるか」
 少し進むと、やはりこちらにも扉があった。
「開けて……みるしかねえよなあ」
 扉の前で顔を見合わせ、二人はうなずいた。
 今度はなにがあってもいいようにと、慎重に開ける。
「どれ……」
 扉の向こうを覗き込むと、そこは薄暗い場所だった。はじめは、まだこの先に穴が続いているのかと思ったが、そうではなかった。
「ここは……」
 目が慣れてくると、石畳の床に石壁が続いている、廊下のようなところだと分かってきた。まっすぐに続く廊下の壁の両側にはいくつもの扉があり、この開けた扉はどうやら、廊下の突き当たりになるようだ。
「なんだか、どこかの城みたいだな……」
「ええ、滝の次は城ですか……なんとも、奇妙なことで」
 扉の先にあったのが、また別の場所であるのは驚きであったが、これもまたあの老人の魔法なのだろうと、二人はそう思うことにした。
「にしても、見たことのない城だな。なんつうか、うすら寒い感じの……」
「ええ、自分も見覚えのないところです。ここはどうやら、地下のようですね」
 二人は扉から足を踏み出すことをためらった。なんとなくだが、ここから出てしまってはもう二度と帰れないような、そんな気がするのだ。
「ここも森の出口とは違うらしい。んじゃ、また戻るか……」
 そのまま扉を閉めようとしたレークだったが、
「お待ちください!」
 向こうから声が聞こえた。
 すると、廊下の先の少し離れたところで扉が開いて、そこから人影が現れた。
「こいつはやべえ……」
 見つからないように扉を閉じかけると、レークは隙間から廊下を覗いた。
「……クさま、……どうか、お待ちを」
 扉から出てきたのは二人の男女であった。男の方は背が高く、がっしりとした、いかにも武人らしい感じで、女の方は長いローブ姿である。
「どうか、どうか……私を一緒にお連れください。どうか」
 ここからでは女の顔までは見えないが、黒髪を結い上げて、青っぽい地味な色のローブを着ているのは、城の女官かなにかなのだろうか。
「連れてはゆけぬ。アン……」
 低い男の声。女に背を向けた男は、立ち去りがたいという風にそこに立っている。
「お願いです……ああ、どうか」
 その背に取りすがる女は泣いているようだ。だが、男はじっと立ったままで、なにかに耐えるように動かない。
「……クさま……ああ」
 かすかなすすり泣きの声が、ここまで聞こえてくる。あるいは、この二人は恋人同士でもあるのだろうか。
 レークとブロテは、扉の影から惹きつけられるように、その様子を見つめていた。
「……」
 そのときふと、男の肩がぴくりと動いた。こちらの気配に気付いたのか、その顔が振り向こうとする。
「やべえやべえ」
 レークは急いで扉を閉めた。とたんに、扉の向こうとの接点が切れたというように、人の気配も声も消滅した。
「なんだったんだ……今のはいったい」
「ええ……」
 またしても呆然として、二人は顔を見合わせた。
「あの城みたいなところは、ただの魔法のからくりなのか、それとも……」
 だが、扉から出てきたあの二人といい、壁や床の感じといい、それが幻などではなく、どこかに実在する世界なのだということはたぶん間違いなかった。
「それに、はっきりと話し声までも聞こえたしな。なんともけったいな感じだな」
 そしてレークには、さきほどの城の空気……その感じをどことなく知っているような気もしたのだ。それがどことまでは、はっきりと分からないのだが。
「変な感じだぜ……」
 もどかしいようなこの気持ちはなんなのだろう。
「どうしました?」
「ああ、いや……なんでもねえ。なんでも……な」
 心配するようなブロテにうなずきかける。
「ともかく、また戻ろうぜ」
 二人はまた同じようにして、もとの穴道を戻っていった。
「きっと、このあたりでいいと思うんだよなあ。なんとなく、そう感じるんだ」
 だいたいの場所で立ち止まり、そして振り返る。
「ありゃ、またかよ」
 今度はまた、先の道は右手に曲がっていた。
「また、行ってみますか?」
「いや」
 レークは腕を組んだ。
「……たしか、あのじいさんは、右を見て左っつってたよな」
 右に曲がっている穴の先をじっと見ると、
「おい、ちょっとまた後ろを向いてみるぞ」
「は、はい」
 二人は後ろを向き、
「いいか、一緒に振り返るぞ。せえのっ」
 呼吸を合わせて一緒に振り返る。
 すると、
「おお、これはいったい……」
 さっきまでたしかに右に曲がっていた道が、今度は左に曲がっていた。
「なるほどな。魔法なのか、錯覚なのかは分からねえが……そういうことか」
「レ、レークどの、これはどういうことなんでしょう……」
 老人の言葉を思い出しながら、レークはうなずいた。
「いいかブロテ、もう一度後ろを向くぞ」
「わ、分かりました」
 二人はまた後ろを向き、そして、同時に振り返った。
「おお、思った通りだぜ!」
「なんと……」
 声を上げる二人の前で、その奇妙な穴の道は、今度はまっすぐに続いていた。
「これが出口だ」
 レークはにやりと笑った。
「ためらわず進めばいい」
 しばらく進むと、はたして、穴の先に扉が見えた。
 レークは飛びつくように扉の取っ手をつかむと、確信とともに押し開ける。
「おお……」
 そこには、森が広がっていた。
 森の先には、赤く染まり始めた黄昏の空が見えている。この大森林の終わりが、たしかにそこにあると告げているかのように。
「ここが、森の出口……」
 今度こそ、二人は足を踏み出した。
 久しぶりに頬に感じる、涼やかな空気……緑の匂いが、かぐわしく感じられる。
「レークどの」
「ああ……」
 二人は振り返った。
 あるいはそうだろうと思っていたが、やはり……そこに扉はもうなかった。ただ深い森が口を広げている。
「あのじいさんのいった通りだ。もう夕暮れだぞ」
「ええ」
 ついさっきまでは朝だった気がするのだが……まるで、土の中の穴をくぐりながら、時間をくぐりぬけてきたような、そんな奇妙な感覚であった。
「行こうぜ、広い空の方へ」
 黄昏の空を目指して、二人は歩きだした。

 森の終わりはあっけないくらいに唐突であった。
 先にある木々の間を抜けると、そこは見晴らしのいい草地であった。まだまばらに、ぽつぽつと茂みが見えるものの、そこはもう森ではなく、草原であった。
「ここが……ロサリイト草原なのか」
「ええ。おそらく、草原の南端部です」
 森を抜けた安堵とともに、眼前に広がる黄昏の赤紫色の空の美しさに、二人は感動して立ち尽くした。
「そうか……ここが」
 大きく息を吸い込むと、レークは広い草原を見渡した。
 アヴァリスの残照に照らされて、赤く輝くような草地がどこまでも広がっている。
 リクライア大陸最大の草原地帯であり、ここは大陸の東西を分ける荒野……そして、この草原の先には、彼らが旅立ってきたトレミリアがある。
「ロサリイト街道が見えます」
 ブロテが指さした先に、草地の中にくっきりと線になって見える道があった。
「行きましょう」
「ああ」
 二人は、夕日に照らされる草原地帯に、いま足を踏み入れた。


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