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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


Y

「おい。なんだか、霧がでてきたな」
 アクエルの言う通り、いつのまにか辺りには霧がたちこめだしていた。そのせいで視界はいっそう悪くなり、手前の木の向こうには、もうなにがあるのか分からない。
「気をつけろ。足元には石が多くなってきたみたいだからな」
「ああ、それに、なんだか歩きにくくなってきたな」
 今まではじっとりと濡れて苔むしていた地面に、小石や砂利が増えてきていた。代わりに、びっしりと根を張っていた木々はいくらかまばらになり、森は少しずつその様相を変化させているようだった。
「もしかして、森の出口が近いのかもな」
 期待に満ちたアクエルの言葉に、レークは首を振った。
「まさかな。こんな簡単にアラムラの森林を抜けられるはずはない」
「でも、この霧といい、あきらかになにかが変わってきているようだぞ」
「ふむ。あるいは、森の神ルベが怒っちまって、俺たちを迷わせて、森の生贄にするつもりなのかもしれんぞ」
「ま、まさか」
 アクエルはぶるっと体を震わせた。
「まあともかく、もうちょい先へいってみようぜ」
 二人は変化のきざしに引き寄せられるように、霧の濃くなりだした森の中をさらに進んでいった。
 やがて地面には岩が混じりはじめ、足元の土はあきらかに硬くなってきていた。また辺りの霧はいよいよ濃くなり、それとともに、汗ばむようだった森の空気がいくぶんひんやりとしてきているようだ。
 視界の悪い霧の中を転ばぬように歩いてゆく。木々の間からかすかに風が吹くのが感じられると、二人は気力をみなぎらせるようにして歩を早めた。
「おお、風が強くなってきたぞ」
 アクエルはいつのまにレークを追い越していた。もうすぐ森を抜けられると確信しているように、小走りに木々の間を抜けてゆく。
「おい、そんなに早く歩くな。危ないぞ」
「もうすぐ、木々がとぎれそうだ。あの先にきっと森の出口が……」 
 前をゆくアクエルの姿が木々の向こうに消え、
「うわああっ」
 悲鳴が上がった。
「お、おい。どうした?」
 だが声はそれきりとぎれてしまった。
 レークは霧の中に消えたアクエルを追って、木々の間を抜けた。だが、すぐにあわてて立ち止まる。
「おお……これは」
 風が吹き抜けた。
 うっすらと霧が晴れると、足元は岩の断崖であった。
「なんてこった、いきなり森がとぎれて崖が……いや、こりゃあ谷か」
 辺りにはごつごつとした岩場が続き、森の切れ目とともに、ぱっくりと大きな裂け目が広がっている。おそるおそる覗きこむが、谷底は白く霧に包まれていて、どのくらいの深さなのか分からない。そこから吹き上げてくる風や、割れ目の大きさなどから、谷はかなりの深さなのだろうと察せられる。
「アクエルのやつ……ここに落ちたのか」
 誤って人間がこの谷に落ちれば、まず助からないだろう。断崖から突き出した岩に、体をずたずたにされて。
「なんてこった……」
 レークはごくりとつばを飲み込んだが、
「た、助けてくれ」
 弱々しい声が聞こえた。
 すると、足元の岩からぬっと手が現れた。
「お、お前……無事だったのか」
「助けてくれ。お、落ちる……」 
 かろうじて突き出した岩につかまり、アクエルは必死の形相で呻いた。
「た、頼む。うう早く……」
「あ、ああ……」
 レークは手を差し出そうとしたが、
(まてよ……)
 ふと伸ばした手をとめた。
(もし、こいつをこのまま……)
 谷に落ちたことにすれば、自分一人で身軽に行動ができる。
(その方がいろいろと都合がいい)
(なにもジャリア兵なんかを、オレが助けなきゃならん義理はないわけだしな)
「おい、どうした。早く……早く手を」
「……」
 懇願するアクエルから、レークは目をそらした。
(すまねえな。あんたにも、家族や恋人はいるんだろうが、)
(まあ、これも運が悪かったということだ)
 差し出した手を引っ込めたレークは、そのまま立ち去ろうとした。
「おいっ、頼む。なんでもする。なあ、助けてくれ……」
 アクエルの悲痛な叫びが耳に刺さる。
「ああ、手がしびれ……もうダメだ」
(オレを恨むなよ。恨むなら、こんないくさを始めた、そうだ……あの王子を恨め)
 アクエルの手が力なく岩からはがれようとした。
「ああ……助けて!か、かあさん」
「ちっ!」 
 寸前のところでレークの腕が伸び、その手をつかんだ。
「そら、つかまれ。引き上げるぞ」
「あ、ああ……」
 両腕をつかんで引き上げてやると、アクエルは必死に足で岩をよじ登った。
「ああ、た、助かった……」
 汗をびっしょりとかいて倒れこんだアクエル。それを見下ろし、レークは複雑な気分で苦笑した。
(あーあ、助けちまった。勝手に体が動いたんだから、しょうがねえよな)
「死ぬかと思ったぜ……」
「大丈夫か?」
「ああ、まさか霧の向こうが谷になっていたとはな」
 荒い息をつきながら身を起こし、アクエルはじろりとレークを見た。
「だけどお前……まさか俺を、見殺しにするつもりだったんじゃないだろうな」
「ま、まさか」
 レークはあわてて首を振った。
「オレも怖かったんだ。腕を伸ばしたらさ、お前と一緒に谷に落ちちまうんじゃないかって。腕力にはあんまり自信がないもんだから」
「そうか。まあ確かにな、もし俺だったら、怖くて腕を出せなかったかも」
(けっ、この軟弱兵が!)
「よく助けてくれた。礼を言うよ」
「別に恩人になろうなんてつもりはないさ。あんたが無事でなによりだ」
 レークがそう言うと、アクエルは感動したようにうなずき、手を差し出した。
(たしか、なんでもすると言っていたよな。だったらなにか利用してやろうか)
「おお、ありがとう。今までは、お前のことをうさん臭いやつだと思っていたが、これからはそうじゃない。互いに助け合おう。そして、なんとしても生き延びて森を抜けよう」
「ああ、そうだな」
(オレは生き延びて、ジャリア兵どもは破滅させる方法はないものかな)
 二人はがっちりと握手をかわした。
「しかし、この谷はそう簡単には渡れそうもないな」
 辺りの霧がいくらか晴れてくると、そこに立ちふさがる深い谷の裂け目が、おそろしく大きなものであることが分かってきた。そして谷の向こうに側に目をやると、そこからはまた深い森が彼方まで続いている。
「この谷が森の終わりってワケじゃあなさそうだな。だとしたら、森を抜けるにはどこかで谷を越えなくてはならないぞ」
「この谷をか。いったいどうやって……」
 アクエルは谷底をおそるおそる覗き込む。レークはいっそ、その背中を蹴り飛ばしてしまおうかとも考えた。
(ま、今はやめとくか)
「まあ、もうちょい時間もあるし、ともかく谷にそって少し歩いてみようぜ。もしかしたら、どっかに渡れそうな場所があるかもしれないからな」
 東西に渡って谷の裂け目は延々と続いている。二人は谷に沿って西へと歩きだした。
「ううむ。どこまでいっても同じように続いていやがるな」
 裂け目にそって歩いてゆくが、景色はいっこうに変わらない。ときおり谷を覗き込んでみるが、霧に包まれた谷底がどのようになっているのか、皆目分からない。上空から見たら、森の中にある巨大な口のようにでも見えるのだろうか。まるで、世界そのものを真っ二つにしているかのように。
 左手に森を、右手に谷を見ながら、二人はしばらく歩いていった。
「おい、そろそろ戻らないか。このまま行っても、なにも変わりそうもないぞ」
「ああ、そうなんだが」
(しかし、このままジャリアの部隊の中に戻っていったら、もう逃げ出す機会はないかもしれんな)
 内心での逡巡を悟られぬように、レークは歩きながら谷の方を見つめた。
(ううむ、どうするか……)
 深い霧に覆われた岩場を見ていると、ふっと吸い込まれそうな気がしてくる。おそらく、ここから足を踏み外せば、奈落の底のような暗黒へまっさかさまだろう。ただ、谷底がどうなっているのかが見えないだけに、たしかに恐ろしさはあるのだが、飛び下りてもみたいというようなふとした衝動が、心の奥に幻惑的に生まれるのだった。
(こんなところで、誰からも顧みられずに死ぬってのは、どういう気分なんだろうな?)
 そんなことを考えると、ぞくりとするような、奇妙な心地がする。
(たとえば、この谷に落ちて、そのまま死んじまったとして、)
(決して死体が見つかることもなく、いや、そいつが死んだかどうかすらも誰にもはっきり分からず、いつのまにかいなくなって……
(当の本人の体はバラバラになって、森の奥の谷底で、ゆっくりと腐ってゆく、)
 レークはぶるっと体を震わせた。
(おお、いやだ)
(少なくとも、このオレはそんな死に方はゴメンだ。だったら、華々しく剣の斬り合いで死ぬ方が、はるかにマシってもんだ)
 自分が死ぬなどということは想像がつかなかったが、こんな森の奥地で人知れず果てるなどということは、その想像すらもしたくなかった。
(だが……)
 どうしても、視線は谷の方へ……どこか神秘的な、青みがかった岩肌と霧の向こうにある、その奥底を覗きたくなってしまう。
(どちらにしても、この谷を渡るか越えるかしなくては、森を抜けられそうにはないな)
(だったら、いっそ……)
 飛び下りる……とはいかずとも、なんとか谷底へ降りることを考えた方がいい。そう思いながら岩場に目をやると、
「ん、なんだあれは?」
 霧に包まれた谷の斜面に、なにか黒い影のようなものが動いたような気がした。
「どうしたんだ?」
「ああ、あのあたりになにかが……」
 立ち止まったレークの横に、アクエルも並んで谷の方に目をやる。
「なにか、だと?なにかがいたのか?」
「ああ、なにかが動いた」
「どこだ?なにも見えないぞ」
「ああ、もう見えなくなっちまった。だが、たしかにさっきは……」
 今のは見間違えだったのか……それにしては、はっきりと、なにか黒いものが岩場を横切るのを見た気がするのだが。
「狼とか、猿とか、そんなものじゃないのか」
「かもしれんな……」
 もう一度目を凝らしてみても、今はもうなにも見えない。霧に包まれた谷底へと続く、青黒い岩場がただ連なるだけだ。
「なあ、そろそろ戻ろうぜ」
「ああ……」
「とりあえず、先にハインさまに報告しよう」
 じっと岩場を見つめるレークを、せかすように声をかけるアクエルだったが、
「待て」
 なにかを見つけたようにレークが目を見開いた。
「あそこだ」
「なに?」
 レークの指さす方に目をやる。
「なんだ。なにもないじゃないか」
「分からねえのか。岩場だよ。谷の底へ向かっている岩場だ。あそこなら、降りられそうだ」
「なんだって?」
 再び岩場をよく見ると、レークの言うあたりに、確かに岩の階段のようになっているところがあった。
「おお、本当だ……」
「な。あそこなら降りられそうだぜ」
 岩場は途中までで霧に包まれ、下の方までは見通せなかったが、あきらかにそこは、何者かの手によって作られた石段のように見える。
「おそらく、あれなら谷底までいけるはずだ。そんな気がする」
「お、おい……まさか」
「行ってみよう」
 有無を言わさずレークはそちらに歩きだした。
「お、おい。待てよ。勝手にそんな……報告、報告に戻らないと!」
「ああ、じゃあさ、あんたはここから一人で戻るといい。オレは谷を探索しているから」
「う……」
 アクエルは迷うように、右手の谷と左手の森とを交互に見た。
「だが俺一人じゃあ、隊のいる場所まで戻れるか分からん」
「なあに、平気さ。目印に木の幹に傷をつけてきたから。それをたどって戻ればいいさ」
「だ、だが……」
 明らかに一人ではとても不安だというように、アクエルは首を振った。
「お、俺の役目はお前を見張ることでもあるんだからな。一緒に戻らないと……いや、戻れ。い、一緒に来るんだ」
「いやだね」
「お、おいっ」
 レーク背中ごしにひらひらと手を振ると、すたすたと歩きだした。
「待てっ。待てよ……こんなところに俺を置いてゆくつもりか!」
 取り残されたアクエルは、いくぶん情けない声で叫んだ。
「くそっ、このっ。ハイン様に報告してやるぞ。は、反逆だ、脱走だとな!」
 レークはそれを無視して、目星をつけておいたあたりで、崖下の岩場を覗き込んだ。
 そして、
 アクエルが「あっ」と叫ぶ間もなく、そこからひょいと飛び下りていた!

 岩場はかなりの傾斜であったが、そこにあるのは明らかに、人が上り下りできるように造られた岩の階段であった。
「ほう。こいつは、なかなか立派な道になってるじゃねえか」
 階段というには荒々しいものだったが、並べて積まれた岩は、谷底へ続く傾斜に沿ってちゃんと等間隔に置かれていた。
「こりゃ、本当に誰かが岩を持ってきてこしらえたとしか思えないな」
「おおい、ま、待ってくれ!」
 振り返ると、恐る恐るというようにアクエルが岩の上を降りてくる。やはり、一人で戻るのは心もとなかったとみえる。
「なんだ、報告に戻るんじゃなかったのか」
「いや、俺も行く……やはり、お前を見張っていないとな」
「あ、そう。なら勝手にしろ」
 レークはにやりと笑うと、また身軽にひょいひょいと岩を下りはじめた。
「ま、待て……おい、待てって」
 慌ててアクエルもそのあとを追う。
 岩から岩の段差が急で、降りるというよりは、ほとんど飛び下りるような感覚であった。これを下から登ることを考えると、相当の苦労だろう。
 谷を降りてゆくにしたがって、辺りはいっそう深い霧に包まれてゆくようだった。
「お、おい……どこまで、この岩場は続くんだろうな」
 息を荒くしてアクエルは言った。
「どこまでって、そりゃ、谷底までだろうさ」
「谷底……といっても、まだまったく底が見えないな。霧ばかりで」
 足元の岩の、その次の岩くらいまでは見えているが、その先は霧のせいでほとんど見えない。下手をして岩から足を滑らせたらと思うと、これは相当に恐ろしい岩の階段であった。
「いったん降りちまったらさ、また上ってゆくのはえらく難儀じゃないか?」
「まあ、そうかもな」
 適当に答えると、レークはまたひょいと岩を飛び下りた。降りるごとにだいぶコツをつかんできたので、次の岩、次の岩へとリズミカルに飛び降りてゆく。
「お、おい……もう少しゆっくり頼む」
「時間は待ってはくれないぜ、ジャリア兵さん。それこそ日が暮れちまったら、こんなところ、到底降りられやしないんだからな」
 さらに岩を下ってゆくと、いくらか様子が変わってきた。
 しだいに空気はひんやりとなり、かすかな水音のようなものが聞こえるようだ。下を見ると、霧の向こうになにかが見える。そこが地面であるのだとレークは確信した。
「おお、もうちょいで着くぞ。いったいどれだけ降りてきたんだろう」
 見上げると、頭上はるか上まで岩壁がそそり立ち、その先はもう霧で見えない。こうして見ると、けっこうな高さを降りてきたのである。
 さらに岩を何段か降りると、はっきりと、そこが谷底であろう地面が見えてきた。そしてどうやら川があるらしい、聞こえてくる水音も大きくなってきていた。
「なるほど、おそらく谷底にそって川が流れているんだな」
 最後の石段を飛び降り、固い地面の感触を踏みしめると、レークはほっと息をついた。
「ここが谷の底か。さて、どっちへ行けばいいのやら」
 あたりを見回してみても、やはり霧が深くて遠くまでは見通せない。ごつごつと大きな岩がそこら中に転がっていて、その岩の間からは細い木々が生え、頭上高く伸びている。この谷底までは日の光もあまり届かないのだろう、辺りは昼間にしてはずいぶん薄暗く、空気はひんやりとしていた。
「ともかく、川のあるところまで行ってみるか」
 少し休んで歩きだしたレークの後ろから、ようやく岩場を降りてきたアクエルが声を上げた。
「ま、待ってくれ。俺を置いていくなよ!」
 息を荒くして追いついてくるアクエルに、レークは悪びれもせずににやりと笑った。
「ああ、そういえば……あんたがいたんだっけ」
「おい、なんだかここは……不気味なところだな」
「そりゃあまあ、深い谷の底だからな。それも大森林の中にある。もしかしたら、得体の知れない怪物でもいるかもしれんな」
「か、怪物……」
 アクエルは思わず、周囲をきょろきょろと見回した。
「なに、勇敢なるジャリアの兵のあんたが、恐れることはなにもないさ」
「あ、ああ……それは、もちろん」
「じゃあ、いってみっか」
 レークは歩きだした。アクエルもあとに続く。
「けっこうデカい石がたくさん転がっているな。谷の上から落ちてきたのか」
 人間の背丈くらいは優にある大きな岩がそこら中に転がっていて、なかなか歩きづらい。岩と岩の間をぬって進んでゆくという感じであったが、川の音を頼りにしばらくゆくと、やがて岩の数は少なくなり、ずいぶん見通しがよくなってきた。
「おお、見ろ。川だ!」
「ああ」
 うっすらと霧のかかった岩場の向こうに川の流れを見つけると、二人はそちらに駆けだした。
「おお、冷てえ!」
 川の水をすくって口につけると、ひんやりと冷たく、心地よく喉を通った。二人は川べりにひざをつき、喉をうるおす自然の甘露を存分に味わった。
「こりゃ美味い水だなあ。森の中にある谷川だからかな、すごく澄んでいるぜ」
 川幅はさほど広くはなく、底が透けて見えるので深さもさほどではないようだ。渡ろうと思えば渡れそうな、おそらく足がつくほどの深さである。
「この川は谷にそって、ずっと続いてるみたいだが」
 上流の方に目をやっても、霧のせいで先がどうなっているのかはよく分からない。
「さて、これからどうしたもんか」
 上流へ向かうか、それとも下流か。レークは腕を組んで考えた。
「ともかく、川の向こうへと渡ってみるか」
「おい、待てよ。その前に、いったんハインさまのところへ報告に戻るべきだろう」
「面倒くせえな」
「な、なんだと」
 あくまでジャリアの兵としての任務を優先させる相手に合わせるのが、レークはいささかおっくうになってきた。
(どうすっか。いっそここで、こいつをやっちまった方が、動き安いかな)
「きさま……反逆する気か。もしそうなら」
「そうなら、どうするってんだい?」
「くっ。反抗するのなら、この場で……」
「まあ待てよ」
 剣に手をやるアクエルを見て、レークはその気はないとばかりに両手を広げて見せた。
「なら、あんたは報告に戻ったらどうだ。オレはここで待ってるからさ」
「それはできぬと、さっきも言った。俺はお前を見張る役目でここにいるんだからな」
「なら、仕方ねえな」
 レークはおもむろに腰に手をおいた。アクエルがさっと顔を緊張させる。
「や、やるのか?」
「いや。だったら、二人で戻るしかないって、そういうこったな」
「あ、ああ……」
 ほっとしたようなアクエルに、にやりと笑いかける。
「じゃあ行くか。あの岩の段をまた上がるのは、ちょいと難儀だがな」
 二人は川を後にし、もときた岩場を歩きだした。
 谷を上る岩段のところへ戻ってくると、レークは壁のようにそびえる斜面を見上げた。
「さて、こりゃあけっこうな高さだが、大丈夫かい?」
「な、なに、こんな谷ごとき。くそっ、もちろん登ってやるとも」
 アクエルはそう言うと、先頭にたって岩を上りだした。
「気をつけろよ、ときどき滑りやすい場所があるからな」
「ああ、大丈夫さ」
 とはいっても、斜面に積まれた岩のひとつひとつはかなり大きく、まず岩に足をかけてから、両手を使ってよじ登らなくてはならない。これは降りてきたときよりも、よほど体力を使うものだった。
 ほんの数段を登ると、アクエルはもうぜいぜいと息を荒くして、岩の上に座り込んだ。
「ちょ、ちょっと、休ませて……くれ。足がもう……」
「なんだ、だらしねえな」
 身軽なレークはひょいと岩を上り、アクエルを追い抜いた。
「そら、これでも飲んで休んでな」
 川で汲んでおいた水筒を渡すと、アクエルはそれをごくごくと飲んだ。
「なんなら、俺は先に上がってるからよ。あんたはここで待っていてもいいんだぜ」
「……だが、俺はお前を見張る任務が」
「なあに、逃げ出したりはしねえよ。ちょいと駆けていって、ハインさんのところへ報告に戻りゃいいんだろ」
「しかし……」
 じろりとレークを見上げるその顔は、信用はしないぞというようでもあるが、同時に、疲れ切っているので任せたい、と言っているようでもある。
「本当に報告に戻るのだろうな?」
「任せておけって。ジュスティニアに誓って、ちゃんと報告するからさ」
 水筒を手にしたまま、アクエルはまだ迷うような顔をしていたが、よほど疲れていたのだろう、ほうっと息をつくとうなだれた。
「じゃあ頼む。もう足が痛くて、ちょっと動けん。俺はここで休んでいるから、ハインさまにちゃんと報告して、部隊をここに連れてきてくれよ」
「ああ、任せなって」
 レークは大きくうなずくと、アクエルを残して、一人また岩段を登りだした。
 岩の段差は腰よりも高いくらいで、さすがのレークも途中で何度か休みをとった。しかし身軽さを自慢にする彼は、そのバネのような体を活かして登り続けた。
「ふいー、やっぱちっときつかったぜ。オレももう歳かな……なんつって」
 ついに岩段を登りきると、レークは大きく息をついてそこに座り込んだ。
 だが、すぐさま立ち上がり、鋭い目を周囲に向けた。
「あれ、なんか一瞬、気配がしたように思ったんだが……」
 しばらく、あたりを見回してみるが、近くにはとくになんの気配もしない。
「ふむ、気のせいか」
 いくらか霧が晴れてきたようで、谷の向こうに目をやると、その先に続く森がうっすらと見えている。
「この谷を超えたら、すぐにロサリイト草原ってカンジでもなさそうだな」
 また谷にそって歩きながら、レークは考えた。はたしてこのまま、ハインの元へ報告に戻るべきなのか。
(あるいは、このまま逃げちまう、ってのもアリか)
(だが……)
 それでは、わざわざこうしてジャリア軍の中に入り込んだ意味がない。なんらかの情報を得るか、それとも、別の成果を上げなくては。
(あのジャリアの部隊を、なんとかして窮地に追い込むとか、な)
 そうであるなら、この谷を活かして、なにかができるのではないか。そんな気がする。
(だが、なにをどうすりゃあいいんだろう)
(ううむ、こんなときアレンでもいりゃあ、なにかうまい手を考えられるんだろうが)
 歩きながら、また谷に目をやり、今度は森の方に目を移す。
 いつのまにか空はすっかり曇り、灰色の雲がどんよりと垂れ込めている。
(そういや、谷の下もけっこう薄暗かったしな)
 あるいは、もう夕刻が近いのかもしれない。
(こいつは日が沈むまでに、谷を越えるってのは無理かもしれないな)
 考えながらしばらく歩いてゆくと、目印にと地面に刺しておいた枝を見つけた。念のため、その近くの木の幹にも短剣で印をつけておいたのだ。ここから森に入ってゆけば、ジャリア部隊の待つ場所へと戻れるはずだ。
「……さて」
 レークはまだ迷っていた。アクエルには約束したものの、このままジャリア軍とまた合流することが、本当に正しいのかどうか。
「くそ。かといって、他になにができるってんだ」
 迷いながらも足を踏み出したとき、
 森の向こうから気配がした。
 じっと耳を澄ませると、しだいにそれははっきりとしてきた。なにか大勢のものが、こちらに近づいてきている気配であった。
 木々の間に黒いものが見えた。と、思うと、それは、いくつもの人影となった。
「……ちぇっ」
 レークは諦めたように、そこに立ち尽くした。
 近づいてくる多数の人影、その先頭がこちらを見つけたように、まっすぐに向かってくる。
「おお、お前か」
 木々の間から現れたのは、黒い鎧姿……ジャリア部隊を引き連れたハインであった。
「待っていても戻る様子がないのでな。木につけてあった印を頼りにここまで来た」
「ええと、どうも……遅くなりまして」
 ハインの横には、隊長格の騎士リガルドもいた。その後に続くジャリア兵たちは、多くのものが大きな革袋をそれぞれに背負っている。
「荷車では通れそうもないのでな、食料や物資は兵たちに背負わせ、馬は置いてきた」
「なるほど。その方がいいでしょう。この先は確かに」
「おお、森はここで終わっているのか。先はどうなっている……」
 歩いてきたリガルドは慌てて足を止めた。目の前に広がる光景に目を見開く。
「こ、これは……谷か」
「お気をつけを。ここからすぐに崖になってますんで」
「そのようだな。それも、けっこうな大きさの谷らしい」
 ハインはさすがに冷静さを崩さなかったが、それでも眼前に広がる霧に包まれた深い谷を、息を飲むようにして見渡した。
「これを、越えなくてはならないのですか……」
「そういうことだ、リガルド。我々はゆかなくてはならん。この谷を越えてでもな」
 そう言うと、ハインはじろりとレークを見た。
「ところで、一緒に行ったアクエルはどうした?」
「それが、ええ……じつは、ちょっと、いろいろありまして」
 レークは、健気な偵察のすえに成果を得て戻った部下、という態度で報告をした。
「我々は、しばらくの偵察のすえ、ついにこの谷を降りることのできそうな岩場を見つけまして、勇気を振り絞り危険な岩場を下って谷の底まで降りました。霧に包まれた谷底はひんやりとして涼しく、冷たい川も流れておりました。我々は話し合い、そこでいったん報告に戻ろうということになりまして。また岩場を上ろうとすると、これがけっこう上るにはきつい岩場なので、アクエルはそこで動けなくなってしまったというワケで、使命をたくされた自分は、ひとり岩を上りきり、こうして報告のために帰参したわけです」
「なるほど。谷を降りられる場所を見つけたのだな。ご苦労だった。そこならばこの部隊全員が降りられそうか?」
「ええ、一列でゆけば降りられるでしょうが、ただ、いったん降りてしまうと、上るのはなかなか大変かと。あっしのように身軽さに自信があれば問題はないのですがね」
「そうか」
 ハインはいったん考えるようにして腕を組んだが、すぐに決断したようにリガルドに向き直った。
「どちらにしろ、森を抜けるにはこの谷を越えるしかない。谷底へ降りてみれば、向こう側へ登ることができる場所があるかもしれん。いつまでも森の中をさまようよりは、よほどいいとと思うが。お前はどう思う?」
「はっ、私もハインさまのご意見に賛成であります。兵達の食料にも限りがありますし、ここは谷越えを選ばれるのが正しいかと。それに、ロープや鉤など、岩場を登るに役立つ道具も揃えてありますので」
「よし。では、レンク、案内しろ。谷を降りるその岩場へ」
「はいさ」
「よし、全軍行軍再開!二列になり、谷の岩場に落ちぬように注意しろ」
 こうなっては仕方ないと内心で思いつつ、レークはジャリアの部隊を引き連れて歩きだした。
「なるほど、これは相当な規模の谷だな」
 レークと並んで歩きながら、森を分断してどこまでも続いてゆくかに思われる、広大な谷間を見渡し、ハインは言った。
「しかも、岩場の傾斜はとても急なようだ。もしここから転落したら、生きてはおられんな。本当にここを降りられるような場所があるというのか」
「ええ、それを探すのに時間がかかったんですよ。このまま手ぶらで報告に戻っては仕方ねえってんで。そして、ついに見つけました。面白いことに、まるで階段のように岩が重ねられた場所を」
「ほう。それはよくやったな」
 千人にもおよぶジャリア兵の隊列が、大森林の奥地にある谷ぞいを、粛々と進んでゆく。上空から見れば、黒々とした鎧姿の兵たちが、まるで群れをなす甲虫のように列をなしてゆく、おそろしく異様な光景であったろう。
(なんとも、面倒なことにならなきゃいいがな)
 少なくとも、ジャリア兵たちとともに命の危険を味わうのは、まっぴらごめんであった。報告に戻ろうとしたことをいくぶん後悔もしながら、レークは谷の岩場を見つめた。
「さあ、このあたりです」
「よし、全軍停止!」
 隊列を停止させると、ハインはレークの指さす方に目を凝らした。
「おお、あれが……そうか」
 さきほどよりもだいぶ霧が薄れ、ここからでも谷底へと続く岩の段がはっきりと見えた。
「なるほど。確かに、まるで石段のように岩が下まで続いている。これならば降りられそうだな」
「ただ、実際に降りてみると段差がけっこうありますんで、お気をつけを」
 レークの言葉にうなずくと、ハインは灰色にたれこめた空を見上げた。
「森の中にいるときには分からなかったが、空がだいぶ薄暗くなっている。夜になる前に、この谷を越えてしまいたいところだ」
 再び岩場に目をやると、リガルドや部下たちに告げる。
「よし、隊列を一列にして岩場を降りるぞ。レンク、先頭にたて」
「分かりましたよ」
 一度降りた谷への岩場に再び足をかけると、ふと、奇妙な気持ちがした。
「……」
 なにか、この石段を降りることが……いや、この谷へ降りることはもうやめた方がいいというような、さっきまでは感じなかった不安……というか予感のようなものが。
(なんだ?……)
 気のせいだろうか。懐にある水晶の短剣が気になる。だが、ここで剣を取りだすわけにもいかない。
「どうした。そんなに岩を降りるのは大変なのか」
「い、いえ。ただちょっと……段差がきついので、滑り落ちないようにひとつ注意を」
 あとに続くハインにうなずくと、レークは岩の段を降り始めた。
「よし、あとのものも一列になって続け。荷物の多いものがいたら、前のものを支えてやれ。くれぐれも滑り落ちぬよう注意せよ」
 レークを先頭に、リガルド、ハインが岩場を降り始める。
 重い鎧を着て、さらに荷物を背負った兵士たちには、この高い段差を降りてゆくのはなかなか苦労がいった。谷の下方は依然として霧に包まれて底が見えないので、いったいここがどれだけの高さなのか見当もつかない。滑り落ちれば終わりであることは誰もが分かっていたので、兵たちは緊張とともに、一段、また一段と、慎重に岩を下りるのだった。
「おい、まだずっと、降りるのか?」
 レークのあとに続くリガルドが訊いた。
「ああ、まだようやっと半分ってくらいですな。なに、さっきよりも霧は薄くなってるんで、これだけ下が見えりゃ大丈夫でさ」
 そう言いながら、レークはひょいひょいと、岩から岩へと飛び降り、ときおり振り返って、のろのろと降りてくる後方の隊列を待ってやる。
「はっ、これじゃ、降りる前に本当に日が暮れちまうぜ」
 じれったそうに口の中でつぶやく。
 ジャリア兵たちも少しずつ、岩場を降りるのに慣れてきて、荷物を背負ったものはそれをいったん次の岩に下ろしてから自分も降りるという方法で、ずいぶん楽になったようであった。こうして一歩ずつ、一段ずつ、兵たち隊列は谷の岩場を降りていった。
「おや、そういえば、アクエルがいないな」
 もう谷底に近いところまで来ていたレークは、思い出したように辺りを見回した。
「あいつめ、いったいどこへ行ったんだろう」
 疲れ切ったアクエルが岩の上に座り込んだのは、このあたりだったはずだか。どこにもそれらしい人影はない。
「たぶん、また下まで降りたんだろうな」
 そう思うことにしてまた石段を飛び下り、谷底まではあと数段というときだった。いきなり懐に、びりっとするような感覚を覚えた。
「つっ……」
 レークはすぐになにかが分かった。水晶の短剣……それがにわかに熱を帯びたのが、今度ははっきりと感じられた。
「なにが……」
 なにかがある。あるいは、なにかが起こるというのか……ともかく、急いだ方がよいという、そんな気がした。
「レンク。どうした?」
「いえその、ここまできたら、もうさっさと降りちまった方がいいと」
 後ろから付いてくるリガルドに適当に答え、レークは石段を急いで飛び下りた。続いて、リガルド、ハインも地面に降り立った。
「さあ、谷底に到着でさ」
「おお、ここが……空気が涼しいな。それに川の水音がする」
「谷にそって川が流れているんでさ。そこで休憩をとるのもいいでしょう」
「では、全軍が降りきったら、その川辺で休ませよう」
 ハインは自らが降りてきた岩の段を見上げた。
「ずいぶんな高さを降りてきたのだな。しかし、このような石段があるというのは、不思議なことだ」
 谷底の霧もずいぶんと晴れてきているようだった。斜面にそって続く石段の上に、黒い鎧姿のジャリア兵たちが列をなすさまが、ずっと上の方まで見通せた。
「空はずいぶんと暗くなっている。これはひと雨くるかもしれんな」
「ですな。もっと兵たちに降りるのを急がせた方がいいかと」
 谷底に降り立った兵たちは、リガルドの指示で続々とその場に整列してゆく。なにぶん千人におよぶ隊列であるから、その最後尾のものは、いまようやく谷の上から降り始めたくらいであろう。全員が到着するには、まだしばらくの時間がかかりそうである。
(どうやら、なにも起きそうにないが……さっきのはなんだったんだ)
 レークはそっと懐に手をやった。そこにある水晶の短剣は、まだなんとなくだが熱を帯びているようにも思える。
(どこかに、なにか危険が潜んでいるとでもいうのか。それとも……)
 もう一度周囲を見回してみても、とくになんの異変も感じられない。
 すべての兵のうちの三分の一ほどが谷底に降りてくると、岩に囲まれたこの場所は、これだけの人数が集まるにはとても窮屈であった。
「よし、では、移動するぞ。隊列の先頭から川の方へ向かえ」
 ハインの指示で、整列したジャリア兵たちが動きだす。
 そのときであった。


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