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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


X

 こうして、レークは再びジャリア軍と行動を共にすることとなった。
 おおむねは思惑通りであったが、ひとつ違うのは、この部隊の指揮官であるノーマス・ハインの護衛という立場を与えられたことであった。当初の考えでは、ジャリア軍の末端の一傭兵として潜入し、さまざまな情報を得たのちにふらりと消えるように離脱するというものだったのだが、はたしてこの立場でそう簡単に逃げられるものだろうか。
(しかし、ま、なんとかなるだろう)
 レークはいたって気楽にそう思うことにした。だいたいが、これまでもそうやって、いくさの最中であってすら大変適当に、言い方は悪いが、いきあたりばったりに行動してきた彼である。そして、その場その場での直感や、そのときの空気、気配を読むことで、良く言うなら柔軟に、事態を乗り越えてきたという自負もあった。
(人生、それすべては、その場しのぎの連続よ)
 まさしく、それが彼の座右の銘である。それに、手元には不思議な力を持つ水晶の短剣と、絶対の信頼をおけるオルファンの鋼の剣もある。どう考えても、自分がしてやられることはない。そんな強い自信が自分にあるのを、レークははっきりと感じていた。
「小隊ごとに整列!これより出立する」
 バコサートの北門を背にして、隊列を組んだジャリアの軍がゆるゆると動きだす。
 輝く朝日に照らされる黒々とした鎧の群れが、のどかな牧草地を背景に列をなしているさまは、農作業をはじめようと畑に出てきたバコサートの市民たちには、えらく不気味に映ることだろう。騎乗した騎士を先頭に、歩兵隊が続き、馬に引かせる荷車をはさんで、また騎士と歩兵隊という編成である。総勢は二千というところだろう。
(やはり、いくさの主力にしては少ないし、偵察部隊にしては人数が多いな)
 後ろをゆく荷車には、この人数を飢えさせぬには充分なほどの水や食料が、たっぷりと積んであるようだ。
(補給部隊……ってわけでもなさそうだしな)
 レークは内心で首をかしげた。
 粛々と進む黒い鎧の兵士たちは、みなその顔に緊張を漂わせ、戦地に赴く張りつめた空気が感じ取れる。それぞれに剣や弓を背負った装備にしても、明らかに実戦を戦うための兵士たちであった。
「どうだ、我が軍の中に入った感想は」
「はあ、それはもう、大変に立派なもんですよ。ハイン閣下」
 部隊長であるノーマス・ハインとともに、レークは隊列全体の中程にいた。
「閣下なとど呼ばなくてもよい。お前は正規の兵士ではないのだしな」
「はあ、おそれります」
 護衛兼話し相手として同行を許されたレークは、ジャリア軍の簡易鎧を与えられて、仕方なくその黒い胸当てを身につけていた。ハインの横にならんで馬を歩ませながら、前後の隊列を見渡して、なにげなく背後を振り返る。
(ブロテのやつは、ちゃんと付いてきているかな)
 まんまと上手くジャリア軍に入り込めたのはいいが、いずれブロテと合流して脱出し、トレミリア軍に情報を持ち帰るのが目的である。ジャリア兵に発見されないように、ある程度の距離をとって付いてくるというのがブロテの役目であった。だが、いまは街道にも牧草地にも、それらしい姿はどこにも見えない。
(まあ、ここから見えちまってたら、ジャリア兵にも発見されちまうしな)
 きっと茂みにでも隠れながら付いてきているはずだ。レークはそう思うことにした。
 横をゆく馬上のハインをちらりと見ると、黒い鎧の胸に近衛騎士団の印である赤い房飾りをつけ、前方を見据えて背筋をぴんと張ったその姿は、まだ若いとはいえ、いかにもジャリア騎士としての誇りにあふれて見えた。兜をかぶらぬその横顔には、この部隊を指揮することが我が使命というような、なにか強い決意を感じさせる。
(ノーマス・ハインか……)
 おそらく、ジャリア軍の中でも、黒竜王子の信頼厚い部下なのだろう。つまりは、この部隊の任務というのは、それだけ重要なものなのに違いない。
(なんとか、少しでも多くの情報を探ってやるぜ)
「ハインさま……」
「どうした、レンク」
「この部隊はやはり、ロサリイト草原へ向かうのですかね?]
 いかにもなにも知らないただの浪剣士という体で、レークは素朴な質問をした。今後の戦いの舞台となるのは、ロサリイト草原であることは兵士たちの誰もが知っている。
 だが、ハインはそれに、「すぐに分かる」と短く答えただけだった。当たり前だが、レークのことを完全に信用しているわけではないということだろう。二人の背後には、見張り役とおぼしき騎士がぴたりと続き、常にこちらの動きに目を光らせているのも分かっている。
(やはり、そんなには甘かねえってことだな)
 だが、この危険な任務にも、レークにはなにか胸踊るようなものがあった。それは、あのスタンディノーブルの防城戦のときにも感じた、充実した緊張感であり、たとえ苦境であっても、自らの行動と機転で場を乗り切るということへの確信と自負であった。
 命がけの冒険……それこそが己の望む日々であるのだと、ウェルドスラーブからアルディ、そしてセルムラードという変転の旅の中で、あらためて実感した気持ちであったのだ。
(なにがあっても……てめえを信じて、ただ進むだけさ)
 レークはにやりと笑い、敵であるジャリア兵たちに囲まれながら、手綱を握る自分を密かに鼓舞するのだった。
 牧草地に囲まれたのどかな道をしばらく進むと、前方に東西に分かれる街道が見えてきた。この街道を右手に、つまり東に進めばウェルドスラーブの国境にまで辿り着く。スタンディノーブルがジャリア軍の居城となった今であるから、おそらくそちら方面で、ジャリア軍の本体と合流し、ロサリイト草原を目指すというのが、現実的な路線であろう。
 反対に、街道を西に折れると、そちらはミレイ国内の各地へと続き、やがてマクスタート川へと至るルートである。マクスタート川を上流に遡れば、ヨーラ湖からトレミリア国境へと入ることができるが、この人数を乗せて川を上るための船があるとも思えない。
(やはり、東へ進んで、どこかで大部隊と合流するんだろうな)
 だが、そのレークの予想はあっけなく裏切られた。
 ジャリアの部隊は確かに、街道を東へと針路をとった。だが、申し訳程度にしばらく進むと、隊列は唐突に進軍をやめてしまった。
「全軍停止」
「全軍停止!」
 ハインの指示により、隊列はぴたりと動きを止めていた。だがすぐに、今度は長い隊列の後ろ半分が、ゆるゆると向きを変えて動きだした。
「これは……いったい、どうするつもりなんです?」
「見ていれば分かる」
 涼しい顔でそう言うハイン。にわかに編成を変え始めた隊列を見ながら、レークはつぶやいた。
「こりゃ、まるで、部隊が二つに分かれるみたいだ」
 街道の先頭をゆく隊列の頭はまったく動きを見せないが、レークらのいる中央から後ろの兵たちだけが、ゆっくりとその向きを変えてゆく。やがて隊列はLの字のような形となった。
「この二千の兵員のうち、」
 静かにハインが口を開いた。
「一千はこのまま、街道を東へ、その先のジャリア軍の本体に合流する」
「残りは……どうするんで?」
「向こうだ」
 馬上でハインが北を指さした。
「あっちって、まさか……」
 そちらにあるのは、街道をはずれた牧草地、そして、その先には……
 黒々と……どこまでも続くかに思われる大森林があった。
「北上し、アラムラの森に入る」
「なんだって。そりゃ、無茶だ……アラムラ森林は、有名な迷いの森だぜ。一度深くまで入っちまえば、方向も分からず二度と出られない。深い渓谷や妖しげな獣も住むという、とても人間が通り抜けられるところじゃねえ」
「そうかな」
「コローデの大森林の山狼よりも、さらに恐ろしい獣がいるっていうが、誰も生きて森を横断したものはいねえから、それがどんなのかも分からねえ」
 なにしろ、トレミリアの遠征軍すらも、ウェルドスラーブへゆくために森の中心を迂回し、東側のアラムラ街道を通らざるをえなかったのだ。森林の真ん中を通行するなどというのは、とても正気の沙汰とは思えなかった。
「誰もがそう考えるな。だからこそ、効果的なのだ」
 隊列の後ろ半分は完全に北側を向き整然と並んだ。満足したようにうなずくと、ハインは言った。
「アラムラ森林超えの狙いは、森林をここから北に突っ切れば、ロサリイト草原のトレミリア側にほど近い位置に出られることにある」
「なるほど。奇襲ですか」
「ただの増援部隊を指揮するために、私は来たのではない。殿下より直接命じられたのだ。この作戦を。正確にはマクルーノの立てた計画であろうが」
「……」
(殿下……黒竜王子のことだな。するとやはり、こいつは王子の側近の騎士なんだな。マクルーノというのは誰だ?)
 レークは耳にした情報で、少しでも役立ちそうなことは記憶しようとつとめた。
「では、本気で、アラムラ森林に入るつもりなんですか?」
「そうだ。できれば、日が沈む前に森林を突破したい」
 ハインは馬上からレークを見た。
「どうする?お前は傭兵志望と言ったが、もし恐れるならここで離脱してもかまわんが」
「ええと、その……」
(うう……こいつは、えらい作戦の部隊に紛れ込むことになったぞ)
 レークは迷った。
(ブロテは付いてきているかな。もしオレがジャリア軍と一緒にアラムラ森林に入ることになったら、やつにもえらく危険な目に合わせることになる)
 これだけの人数の部隊ならともかく、単身で森の奥へ入り込んでいって、もしも迷ったら、そうそう生きては帰れないだろう。
(なんとかどこかでブロテに接触して、お前はもういいから、別ルートでトレミリアへゆけと、言ってやるべきだろうな)
 だが、さりげなく周りを見回しても、やはりブロテらしき姿はどこにも見えない。見晴らしのいい街道ぞいであるから、ジャリア兵に見つからぬよう、距離をとって付いてきているのだろうか。
(どうする。このまま森へ入っちまっていいものか)
 レークが思い悩む間にも、ジャリア軍の隊列は、まるで最初からそう動くことを指示されていたようにこのまま東の街道へ向かう前半の列と、北側に向きを変えた後半の列が、整然と離れ始めていた。
「街道部隊はそのまま前進!スタンディノーブル近郊にて本隊と合流せよ」
 ハインの指示が響きわたる。
「よし、ではこちらも準備が整い次第出発する。食料と水のチェック、それから、各自が兜に房飾りを付けるのを忘れるな。森に入ったら、後ろのものは前をゆく兜を目印に付いてゆくのだ。アラムラの森林を甘くみるな。昼間でも一度迷ったら抜けられなくなるぞ」
 隊列のジャリア兵たちが一斉に兜をかぶる。その頭頂には、本来は上級騎士のみが付けることを許される赤い房飾りが、森林の行軍での目印として付けられていた。
(うう、こいつらは本当にアラムラ森林を突破するつもりでいやがる……噂に名高い迷いの森だぜ。ムチャというか、阿呆というか……)
 しかし、もうここまで来たら、この部隊を野放しにしてはおけない。なんとかして、少しでも情報を得るのが自らの役目であると、レークも心を決めた。
(あるいは……そうだな)
 ふと思いついた考えがよぎった。
(むしろ、この部隊をアラムラ森林で遭難させちまう……なんてことも)
(それができれば、一番トレミリアのためになるわけだしな)
 それならば、少しばかり危険を冒してみるだけの価値はある。
(しかし、つくづく……)
 レークは苦笑した。
(オレは冒険好きなのかもしれねえな)
 そう思いながら、新たな任務を得たような高揚感が、全身にじわりと駆けめぐるのが感じられる。
「隊列を整えよ。歩兵は二列になれ。食料の馬車は最後尾へ。騎士たちは馬から降りよ」
 街道を東へ離れてゆく部隊を見送ると、ハインは馬上から指示を出し、自らも馬を降りた。これから森の中へ、道なき道をゆくという覚悟である。
「出発。アラムラの森へ!」
 黒い鎧兜に身を包んだジャリア兵の隊列が、行軍を開始する。街道から外れて牧草地に分け入り、前に広がる黒々とした森へと、恐れも見せず進んでゆく。
(ついこの前までは、もう海はうんざりだと思っていたが……今度はまた森かよ)
 セルムラードのドレーヴェを目指すために、へとへとになりながら森の中の山道を歩いたのがついこの間である。
(しかも、今度は、人跡未踏のアラムラ大森林ときた)
 この冒険のハシゴには、いつか吟遊詩人たちも歌いながら驚くに違いない。ジャリア兵の隊列にまじり馬を歩ませながら、目の前に大きくなってゆく森林の広がりに、レークは心の中で祈るのだった。
(森の神ルベさんよ、どうか俺だけでも無事に森を抜けさせてくれよ)

 森林に一歩足を踏み入れると、そこはもう別の世界であった。
 周囲はうっそうと繁る広葉樹の大木に囲まれ、一歩進むごとに辺りは薄暗くなってゆくような気がした。
「隊列を崩すな。前をゆくものが通ったその後を通るのだ。足元に気をつけろ。木の根に足を取られて無駄な体力を浪費するな」
 ハインの指示とともに、鎧姿のジャリア兵の軍列が、木々の間をぬって森林の奥へと進んでゆく。
 セルムラード近辺の高地の森林とはまったく異なり、このアラムラの森林は低地であり、湿りけを含んだ地面はぬるぬるとしていて、そして空気はじっとりとして蒸し暑かった。木々の幹はもちろん地面にむき出した根にも、緑色の苔がびっしりと生えていて、一歩ゆくごとに足を滑らせぬよう常に気をつけていなくてはならなかった。
「こいつは、なかなか難儀な行軍になりそうですな」
「だからこそ意義がある。おそらく誰も、この森林を縦断してくる部隊があるなどとは思うまい」
「それは、まあ確かに」
 ハインの言葉にうなずきつつ、レークはガアガアと不気味な鳥の声が響く頭上を見上げた。折り重なるように広がる木々の枝葉にすっぽりと包まれて、空などはまったく見えない。陽光はほとんど差し込まないので、あたりは昼であっても薄暗く、風の音すらも聞こえない。その代わりに、なにかの動物の声らしきものや、虫や鳥の鳴き声が常にどこかで聞こえている。
 少し歩くだけでじっとりと汗ばんでくる。この蒸し暑さは、鎧兜の兵たちにはさぞつらいものだろう。隊長であるハインも、ときおり小休止をとると、自らも水筒に口をつけた。
「もの、どのくらい歩いたでしょうな?」
「まだものの一刻もたっていないだろう。アラムラ森林の入り口の入り口というところだろうな」
 部下たちの手前か、疲れたそぶりは見せず、兜を脱いだハインは額の汗をぬぐった。
 これから目指す北の方角を見やると、いよいよ木々はみっしりと生い茂り、森は本来の不気味な妖しさを存分に発揮し始めることを侵入者たちに告げるかのように、青黒い闇に包まれている。
「いやあ、実際にきたのは初めてですが、ここはおっとろしい森ですねえ。そろそろ、なんかが出てきそうだ」
「なにか、とは?」
「そりゃあ、なんでも。なんでも出そうですぜ。この森なら」
 レークは顔を歪めて笑うと、周囲の兵士たちにも聞こえるくらいの声で言った。
「凶暴な獣や、血を吸う怪虫、毒をしたたらせる植物、それに……あるいは、いまだ知られていない、人ならざる化け物とか」
「そんなものが、ここにいるというのか?」
「ええ、まあ聞いた噂ですがね。怪力にして凶暴、人をとって食らうという、おそるべき森の巨人の話は」
「森の巨人……」
 それを聞いたジャリア兵たちが、ざわつくのが分かった。
「ええ、人知れぬ森の奥に住み、普段は鹿や鳥などをとって食べているという。身の丈は優に2ドーンを超え、高い木にもよじ登る腕力と、狼すらも震え上がらせる叫び声。そして人間だろうが、なんだろうが食べられるものには襲いかかり、その強力な牙で骨まで咀嚼するとか」
 得意のはったりが、ジャリア騎士たちの心胆を寒からしめているぞと、レークはいい気になって続けた。
「なんでも、これまでアラムラ森林に入って、帰って来たものがいないというのは、全員がその森の巨人の餌食になっていたという話もあるんですぜ。へへへ」
「……」
 息をのんだように、周りのジャリア兵たちが静まり返る。ハインまでもが、いくぶん顔を青ざめさせているようだ。
「このままアラムラ森林を奥へ進んでゆけば、そういう危険もあるってことを、念頭に入れておくべきでしょうな。もしも途中で森林を踏破できずに引き上げたとしても、それは誰からも責められることじゃあないですよ」
「なるほど、そういうこともあるのだと、心にとめておこう」
 うなずくと、ハインは兵士たちに向かって告げた。
「だが、我々はゆかねばならぬ。我がジャリアのため、王子殿下のため。なんとしてもこの森を縦断し、ロサリイト草原へと辿り着く。それが我らに課された使命である」
 彼のひたむきな情熱と王子への忠誠には一点の曇りもなく、まだ若いながらも、その言葉には強い意志の力があった。それは兵たちにとって求心力ともなる。
「命を賭けてなし遂げるべきものがあるならば、それはこの行軍に他ならぬ。ともに乗り切り、そして我がジャリアのために戦おう。兵たちよ。森はきっと抜けられる!」
「おおっ」
 力を得たように、兵たちが意気軒昂と声を上げる。
(へえ、ただの若造のぼっちゃんかと思ったが、なるほど、なかなか根性は据わっているらしいな)
 レークはいくぶん感心して、そのハインの横顔を見つめた。
「では出発する。夕刻までにはなんとしても森を縦断するぞ」
 兵たちは再び隊列を組み、木々の間を縫うように粛々とと動きだした。
 さらに森を進んでゆくと、いよいよ辺りは暗くなっていった。行く手をさえぎるかのように連なった木々が視界を遮り、じっとりとしめった地面や、苔むした木の根に足をとられそうになりながら、隊列はともかく北を目指して進んだ。
 ゲゲゲ、という不気味な鳥の鳴き声や、枝を踏むようなバキバキという物音にはっと周囲を見回して、兵たちは緊張に顔を引きつらせる。迷いの森と呼ばれるこの森の奥地へと向かっていることに、誰もが未知なるものへの畏れを胸にいだきながら、それでも自らを鼓舞してまた歩を進ませる。
 あたりはますます暗がりに包まれ、もはや今が昼なのか、それとも夕刻なのかすらも分からない。幾重にも重なった木々の間から、ほんのかすかな光が差し込むと、それだけで彼らにとっては希望の光のように思えるのだった。
 人跡未踏の森の深みへと、隊列はさらに進んでいった。
「全体小休止!各自は糧食にて食事をとれ」
 どれくらい歩いたのか、現在はどのあたりにいるのか、まったく分からなかったが、兵士たちが疲れ切っているのは明らかであった。休息の命令を聞いて息をつくと、兜を脱ぐジャリア兵たちは、みなびっしょりと汗をかき、湿った土の上にもかまわず次々に腰を下ろした。
 馬車に積んである食料は千人の部隊を十日ほどは飢えさせないくらいにはあったが、もしそうではなかったら、誰もが不安になり、行軍はすぐに滞ってしまっただろう。固パンと干し肉を受け取った兵士たちは、それを大切そうにかじりながら、暗い森の中にいる恐怖感を極力遠ざけるように、仲間たちと顔を合わせ、言葉を交わすのだった。
「ハインどのは食べないのですかい?」
 ちゃっかりと、真っ先にパンを手に入れたレークは、それを頬張り、さっきからじっと森の先に目を向ける指揮官のそばにきた。
「私はかまわん。それより……ここはどのあたりなのだろうな。北へ向かっているのは確かであるし、おそらくは森の奥地にだいぶ入ってきたと思うのだが」
「そうですねえ……」
 レークはパンを飲み込むと、ハインの横に並んで、行く手に続いている森の暗がりに目をやった。
 このアラムラの森は、セルムラードを目指したときの山間の森とは異なり、勾配はほとんどなく、その点では歩き安かったが、逆に言えば、行けども行けども景色は変わらず、同じ森がどこまでも続くような感覚で、それがしだいに不安感といらだちをつのらせる。兵士たちが疲れているのも、先の見えないストレスが大きいのに違いない。
「なにか目印でもあればいいんですがね、いつまでたっても見えるのは苔むした木の幹と、暗い茂みばかりで。こりゃあ、なんとも難儀ですな」
「ああ」
 短く答えたハインの表情にも、いくぶんのいらだたしさ、もどかしさがにじみ出ている。当然ながら、彼自身もジャリア兵たちも、このような森の行軍などの経験はないのだろう。まともに日差しも届かず、風も吹かず、ただじっとりとしめった空気の中を、先がどうなっているのかも分からぬまま延々と歩き続けるというのは、とても気力を消耗する。
「なんなら、自分が偵察にいってきますかい?」
 ふと思いついたことをレークは口にした。
「偵察、か」
「まあこの通り、あっしは重い鎧も着ていないので身軽だし、ちょっとこの先がどうなっているのか、さっと見に行ってきて、先になにがあるのか、隊列がこのまま進んでゆけるかどうか報告しますぜ」
「ふむ。なるほど」
 ハインは考えるように腕を組んだ。そのとき、隊長格らしい騎士が近づいてきた。
「リガルドか、どうした」
「はっ、いささか申し上げにくいのですが、兵士たちの疲労が著しく、これからの行軍を考えますと、もうしばらくの休息を与えた方がいいかと。できますれば」
「よかろう。ではもう半刻ほどの休止を許す。そののちただちに隊列を整えよ」
「はっ」
 リガルドはちらりとレークに目をやると、また兵たちのもとへ向かっていった。
「ということだ。では、お前の申し出もちょうどよい」
「では偵察に行ってきやしょう」
「ただし、半刻以内には必ず戻れ。さもないと脱走したものとみなし、次に見つけたときには捕らえることになるからな。見張りも兼ねて一人兵をつけるぞ。よいか」
「もちろんでさ。逃げるなんて、とても……あっし一人ではどのみち、ここから森を抜けることなんてできませんから。もちろん偵察を終えたら、すぐに戻ってまいりますよ」
 ハインの鋭い視線を受け、にこにことしてレークはうなずいた。

「では、行ってまいりますぜ」
 軽く手を振ると、レークは、見張り役に付けられた若い兵とともにハインらの隊列から離れ、北に向かって出発した。
「ええと、あんたはアクエルだったな。まあ、よろしく」
「ああ、」
 見張り役に命じられたのは、レークと同じくらいの歳の若い兵士であった。背は高くないが、細身の筋肉質の体型で、なかなかはしっこそうな様子である。
「あんたは、ルグエン隊長の部下なんだってな」
「そうだ」
 やや神経質そうな顔つきで、目をきょろきょろとさせながら、レークのことを油断ならぬ奴というように、ちらりと見る。その様子が気に食わなかったが、レークはあくまで愛想よく、ただし、ハインの前にいるときよりはいくぶん横柄な態度で接することにした。
「まあ、そんな緊張した顔すんなって。今はこうやって、森の中にいる仲間同士なんだからさ」
「ふん。自分の任務は、お前を見張りながら、部隊の進路となる森の北側を偵察し、報告することだ。あまり馴れ馴れしくするな」
 少しも気を許しはしないというようなアクエルの様子に、レークはやや苦笑しながら、森の先を指さした。
「ああ、分かったよ。じゃあ、さっさと先を急ごうや」
 森はいよいよ暗く、頭上はうっそうと枝葉を繁らせた木々に覆われたままだ。足元の湿った土は草と苔のために滑りやすく、地面から突き出た木の根をよけながら、先の見えない暗がりを歩いてゆくのは不安を誘った。
「おい、なにをしているんだ?」
「ああ目印さ。こうして……迷わないようにな」
 レークは歩きながら、ときおり短剣で木の幹に×印をつけた。もし迷いそうになったときには、これをたどって部隊の方まで戻れるだろう。
「なるほど、頭がいいな」
 アクエルの方も軽装であったので、早足で歩くレークにも遅れずに付いてくる。二人は隊列の行軍よりもずっと早い足どりで、身軽に木々の間を抜け、北へと進んでいった。
 辺りは相変わらず見通しが悪く、苔むした地面と草木がはびこり、延々と続いている。ときおり鳥の鳴き声や、茂みの向こうから鹿かなにかの鳴き声が聞こえる他には、生き物の気配や物音はほとんど感じられない。これまでに人間が入った形跡すらない奥まった森林であるから、当然ながら道しるべなどはなにもない。そのことが、これほどまでに不安感を誘うものだとは……いかな豪胆なレークでも、それを認めざるを得なかった。
(セルムラードへの森とは全然違うな……なんてえか、誰もいない世界、この森自体が、どこまでも続く、終わりのないひとつの世界のように思えてくるぜ)
 部隊を離れて少し歩いただけで、そのような気持ちになるのだから、この森を一人で通り抜けようなどと思うものは到底いないだろう。振り返ると、たった今通ってきた木々の間すらも、すでにうっそうとした木々に覆われて先がわからない。もしも幹につけた目印がなかったなら、とても部隊のいるところまでも帰れそうにはないという気がする。
「お、おい……そろそろ戻るか。どこまでいっても森には変わらないぞ」
 アクエルが不安げに言った。勇猛で知られるジャリア兵にしては、彼はいくぶん気が小さいようだ。
「まあ、まだ時間はあるしな。もうちょっと行ってみようぜ」
「そ、そうか……」
 肩ごしにアクエルを見ると、レークはくすりと笑った。
(なるほど、ジャリア兵っつっても、人間には変わらねえ。人それぞれってわけだな)
(そういや……あいつはなんていったか、)
 レークはふと思い出した。あのスタンディノーブル城で、ジャリア兵になりすまして戦いに参加したとき、田舎の若者のような素朴な兵に会ったことを。
(ええと、たしか……ヴァイクとか、そんな名だったっけな)
 ジャリア兵になりすました自分をすっかり信じて、友達のように接してきたあの若者のことが、なんだかとても印象に残っている。それまでは、ジャリア兵は恐ろしい殺人兵士の集団のように思えていたのだが、たとえ、それを指揮する王子や騎士がどうあれ、その末端である一人一人の兵士たちは、自分たちと変わらない、優しさや悲しみをいだいた人間であるのだと、レークはそのとき実感したのだった。
「なあ、まだ行くのか?」
 アクエルがぽつりと言った。
「戦いには……恐怖などはないのだが、いや、あったとしても、命令を受ければ死ぬ覚悟はできている。祖国のため、そして王子殿下のために」
 このジャリア兵士もまた、田舎に帰れば家族や兄弟のいる、ごく普通の人間なのかもしれない。そうレークは思った。
「だが、こんな森の奥地で、遭難して果てるというのは……とても、そうだ、とてもいやだ。なんの武勲も立てずに、誰にも知られることなく、木々に囲まれた苔むした土の上で死ぬなどというのは……」
「ああ、そうだな」
 祖国への忠誠心というものは、どの国の兵だろうと変わらないものらしい。ただ、そうしたしがらみから自由でいられることが、レークにはずっと当たり前のことだった。そして、その身軽な自由こそが生きる喜びであったはずなのだが、
(オレも、ちっとは変わってきちまったのかな)
 今の自分の立場はトレミリアの騎士であり、名目的にはトレミリアという王国の利益のために動いているということになる。もちろん、水晶剣という大きな目的はあるにしろ、ブロテやクリミナら、騎士として仲間といえるような関わりが出来たこともあり、彼らの愛するトレミリアを守ることや、それに敵なす相手と戦うということには、さしてためらいはない。そういう点では、自分はすでにもう、名ばかりではないトレミリアの騎士であったのだが、不思議なことに、それがさほど不快でもなかった。
(なんてこった、)
(自由とはほど遠い騎士なんざになっちまって、お国のために働くなんざ。このレークさまがよ)
 それは嘆きであったのか、自嘲であったのか、思わずくすりと笑いが込み上げる。だが、一方では、なにもかもを捨てて逃げ出そうとは、自分はもうきっと思わないだろうことを、知っていた。
(まあ、しゃあないな。なるように……なるさ)


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