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 水晶剣伝説 Z 大森林の行軍


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 翌朝、日の出前のまだ薄暗い時分に、二人は宿を出た。
 朝の早いバコサートの船乗りたちが動きだしている港通りを避け、極力人通りの少ない裏道を選んで歩いてゆく。怪しまれぬよう、剣は背中に背負いマントに隠した。ブロテの方は、それでも相当大柄であるから、一目でただ者ではないことを知られてしまうだろう。なるべく人に見られぬよう町の外へ出るにこしたことはない。
「おい、もっと頭を下げろ」
 レークは、少し離れて付いて来るブロテに囁いた。
「ただでさえ、あんたは目立つんだからな、少しでも姿勢を低くして歩くんだ」
「はい」
 ブロテは言われた通り、窮屈そうに背中を丸めた。だがそうしても、軽くレークより頭半分くらいは大きい。
 バコサートは基本的には港町であるから、町の大通りというのはすなわち港へ続く海岸通りのことで、朝の早い船乗りたち以外は、商人も職人も起き出すしてくるのは日の出を過ぎてからである。二人の歩く通りは狭い裏道で、いまのところ人通りはまったくないが、それでもレークは慎重に、十字路ではいったん立ち止まり、近くに人の気配がないことを確かめてから、小走りに渡るのだった。
 ただし、あまりこそこそしていてもかえって怪しまれてしまうので、通りの向こうに人影が見えたときには、ゆったりとして普通に歩くことにした。二人ともが船乗りでもなければ、商人や職人のたぐいでないことは、一目で明らかであった。つまりは、旅人と剣士のどちらかだと、すぐに知れてしまう。旅の剣士であれば、そう珍しいこともないが、そうではなく、どこかの国の正規の騎士であったりすれば、それは面倒なことになる。
 このミレイという国自体は自由国家であり、どこの誰であろうと城門を閉ざすことなく受け入れるというのが表向きの建て前であったが、実際には、別の国の王族、もしくは騎士などという種類の人間が入り込んだときには、さまざまな手続きが必要で、それは接待という名の監視であったり、自由という名目の束縛であったりした。つまり、自由国家を謳い、軍隊のないことで平和を掲げていても、その実は、世界情勢や国家間のバランス、国としての立場や風評に関しては、えらく敏感であるという点では、さして他の国々と変わりはないのである。
「軍隊はいないが、自警団にはそれなりの兵力があるだろうしな。無駄にオレたちの正体がバレて、接待という名目で軟禁でもされちまったら、それこそ面倒だ」
「ええ。ミレイという国自体は、身分制のない自由をかかげていますが、実際には評議会のメンバーは貴族並の金持ちだとも聞きますし。投票で選ばれる総督には、国王に近い絶対の権力があると聞きますな」
「だが、分からねえのはよ」
 レークは十字路の手前でいったん立ち止まると、ブロテを振り返った。
「どうしてジャリア軍の連中を、町に自由に出入りさせているんだろうな?入るのも出るのも自由だっつったってさ、正規のジャリア軍を受け入れることが、このご時世だ、どんな意味を持つのかなんて、総督でなくたって分かろうもんだろう。自警団も黙ってジャリア兵を、へいどうぞ、って町に入れてやったのかね?」
「さあ、それは……」
 多国間の争いに介入しないことを原則としているミレイであるが、ジャリア軍の侵入を容認するということは、アルディなどと同様に、それが戦争協力とみなされても仕方がない。あるいはまた、それがミレイの総督の意志であるとしたら。
「やっかいだな。オレたちの正体がバレたりしたら、よけい面倒なことになりそうだ」
「ですな。気をつけましょう」
 二人はまた人の気配に気をつけながら、裏道から裏道へと縫うように、町の北側を目指した。
「おい、とまれ」
 次の路地を抜けようとしたレークはふと立ち止まり、またブロテに囁いた。
「見ろ」
 そっと路地の影から顔を覗かせる。
「あれは……」
 夜明け前のバコサートの町の北門前は、なにやら物々しい気配に包まれていた。
 そこには、列をなした黒い鎧姿……一見してそれと分かるジャリア兵たちが集い、不気味な緊張を周囲に漂わせている。
「おう、いるいる」
 剣や槍を手にしたもの、巨大な楯を背負うもの、あるいはいくつもの革袋を運ぶものなど、まさしくこれから戦地へ赴くという装備である。続々と集うジャリアたちの黒い姿で北門前の広場はほとんど埋まりつつあった。兵士たちはつとめて声をあげぬようにとばかりに、そこには息をひそめたざわめきと、大勢の兵達の鎧の触れ合う音だけが響いている。その静かさはいっそう恐ろしげであった。
「自由国家を謳うミレイの首都に、こんなにも堂々とジャリア軍が集まっているってのは、誰も考えもしないぜ」
「ええ……」
 息をのんで見つめる二人の前で、ジャリア兵たちの黒い群れは、朝もやの中をゆるゆると門に向けて動き始めていた。それはまるで、黒い甲虫が蠢くように、ひどく不気味なさまであった。
「さてと、どうしたもんかな。もうそろそろ夜が明けるぜ」
 動きだしたジャリア兵士たちを見ながら、レークは囁いた。
「日が昇ったら動きにくくなる。あんたは目立つからな、かといって、今あのジャリア兵たちに近づいてゆくのも危険だ。とりあえずは、このまま、もうちっと様子を見るか」
 だが、背後でブロテの返事はなかった。
「おい……どうした」
 振り返ると、ブロテは後方を見つめ、腰の剣に手をやっている。
「なにか気配が近づいてます」
「なに?」
 じっと耳を澄ませると、かすかに馬の蹄の音が聴こえきた。それは、少しずつこちらに近づいてきているようだ。
「……」
 二人は目配せすると、それぞれ路地の両側に寄って、物陰に身を隠した。
 息を殺してしばらく待つと、狭い路地の向こうから馬影が現れた。その背には騎士らしき姿が見える。騎乗して通るには狭すぎるような路地である。いったいどうして、わざわざここを通るのか。
(オレたちを追ってきた……なんてことはないだろうが)
 薄暗い路地の奥から、しだいに騎士の姿がはっきりと見え始める。物陰に息をひそめるレークは、久しぶりに味わうような緊張感に胸をどきつかせた。
(どうも、オレはこういうドキドキ、ハラハラってやつが、そう嫌いでもないらしい)
 そういえば、スタンディノーブル城の戦いでジャリア兵になりきって行動したときも、不安や恐れよりも、もっと心地よいもの……しびれるような感覚を確かに感じていた。勇気を出して行動すること、即断即決、その場に応じて臨機応変に動くこと、それが自分の性格に合っているようだとも分かっている。
(だからまた、オレはわざわざ、ジャリアに近づこうとしているのか)
 命がけの危険を冒してまで。それは、単なる冒険のスリルを欲しているからなのか。あるいはトレミリアのためという使命感なのか。水晶剣を探るアレンとの絆のためか……
(どれもそうなんだが、だがどうも……それだけじゃねえって気もする)
 もしかしたら、それは……
 あの恐ろしい王子と、彼の手にする魔力の剣……それに惹かれてのことなのか。
(だとしたら、)
 だとしたら……どうなるというのだろう。
「へっ、まあ、なるように、なるさ」
 レークは口の中でつぶやいた。
 その間にも、騎士を乗せた馬はこちらに近づいてきていた。今やはっきりと見えるその鎧姿から、それがジャリアの騎士であることは明白であった。
(昨日、酒場にいたやつではないな……)
 ジャリア軍特有の黒い鎧は変わらないが、馬上で赤い裏打ちのマントをなびかせる姿は、けっこうな上級騎士のようだ。兜はかぶっていない。辺りが暗いので顔つきまでは分からなかったが、どうやらまだ若い騎士のようである。
(どうするか。オレはともかく、ブロテのやつはデカいからな。見つかっちまうかも)
 路地を挟んだ向こう側で身を隠すブロテをちらりと見る。
(もし、ここで見つかるようなら、いっそ、二人で相手を仕留めちまった方が……)
 だが、それで騒ぎを聞きつけたジャリア兵が駆けつけてくれば、元も子もない。
(くそ。やはり、なんとかやりすごさねえとな……)
 馬蹄の音は、すぐそこまで近づいていた。
「……」
 物陰でレークはじっと息をひそめた。このままなにごともなく、騎士が通りすぎていってくれることを願いながら。
 だが、ぴたりと馬蹄の音が消えた。
(ちっ……)
 レークらの隠れるあたりの少し手前、騎士の乗る馬は、そこで静かに止まっていた。
「そこに隠れている者。出てくるがいい」
 凛とした声が上がった。
 やはり若そうな通りのよい声である。だがまた、そこには命令するに慣れた、意志の強さを感じさせる響きがあった。
(くそ、どうする……)
 ブロテの方に目をやると、「どうするべきか」というように向こうもこちらを見ている。
「そこにいるのは分かっている。それもただの町人の気配ではないな」
 夜明け前の暗い路地に、騎士の声が響きわたる。
「どうした。出て来ぬのなら、容赦せぬぞ」
(くそ、こうなったら、やるか……)
 レークは決断すると、ブロテの方を見て剣を抜くしぐさをした。ブロテがうなずいた。
「盗賊か辻斬りか、浪剣士かはしらんが、命がいらぬようだな」
 騎士はすたりと馬から降り立ち、剣を抜き放つと、そのままこちらに歩み寄ってきた。
(いけ)
 レークが合図する。
 ブロテはすらりと剣を抜き、物陰から出た。
 その巨体がぬっそりと姿を現しても、騎士はまったく落ち着き払った様子で言った。
「やはり隠れていたか。だが……ほう、これは、ただの辻斬りではないな」
 剣を構えたブロテに、いくぶん感嘆したように声を上げ、
「その立ち姿。大した手練の剣士と拝見する」
 騎士は静かに剣を構えた。
(あれは、かなりの腕前だな。それに、あの落ち着きよう……どうもただもんじゃねえ)
 物陰から見つめるレークは、ここは自分も出て行くべきかどうか、決めかねていた。
(だが、ブロテを相手にして勝てるとも思えねえ)
(やはりここは任せて、オレは下手に顔を見られない方がいいか)
 だが、そんな甘い考えは一瞬で吹き飛んだ。
 騎士は、あっと言う間もなく素早い間合いで飛び込んでいた。
 ブロテが避ける間もない。懐に飛び込まれると同時に、鈍い響きが上がった。
「なっ」
 剣をはじき飛ばされたブロテは、かろうじて後ろに飛びすさった。想像よりも数段鋭い攻撃であった。
(こりゃあ、まずいぜ……)
 ここで万が一、ブロテが捕らえられてしまえば、とても面倒なことになる。ブロテがトレミリアの名のある騎士であることは、すぐに判明するだろうし、そうなれば、拷問にかけられるか、あるいは人質として利用されることもありえる。
 レークはとっさに腰の剣に手をやったが、飛び出してブロテに加勢する代わりに、思い直したように周囲を見回した。
「……」
 自分が隠れているのは路地にある家と家のごく狭い隙間であった。この隙間がずっと奥へ続いていることを見て取ると、レークは体を横にして隙間に入り込んだ。
 窮屈きわまりない通路ともいえないような隙間を、まるで猫のように通り抜けてゆく。勘を頼りに暗がりを進んでゆくと、方向を変え、また別の隙間へと入ってゆく。
(このあたりか)
 再び狭い隙間を抜けると、そこは、さきほどの路地であった。
 空はしだいに白み始めていて、もうすぐ夜明けが近いようだ。路地の先に目を向けると、道を塞ぐように騎士の乗っていた馬が見えている。その向こうには、対峙する二人がいるはずだ。かすかな殺気が伝わってくる。
「……」
 足音を立てぬように、レークは小走りにそちらへ近づいた。上手くすれば、騎士の背後から急襲できると考えたのだ。
 馬がぶるるといなないた。その横をすり抜けると、ジャリア騎士の背中が見えた。
(よし)
 気配を感じたのか、騎士の体がぴくりと動き、こちらを振り向こうとした。
 だがブロテはその隙を逃がさなかった。
 新たに手にしたカリッフィの剣を振りかざし、ジャリア騎士に向かって飛び込んでいた。
「くっ!」
 騎士はかろうじてそれを剣で受け止めたが、ブロテの強打にはじかれてよろめいた。
(よし、やれる!)
 腰をついた騎士をみて、レークは剣を手に飛び込んだ。
 ジャリア騎士は観念したのか動かない。とどめを刺すべく、ブロテがジャリア騎士に向かって剣を振り上げる。
 前からはブロテ、背後からはレークの剣が、ジャリア騎士に振り落とされる。
 そう思われた。
 鈍い音とともに、剣がぶつかった。
「おい、大丈夫か!」
 声を上げたのはレークだった。いったいなにを思ったのか、彼はジャリア騎士をかばうようにブロテとの間に割って入っていた。
「なっ……」
 レークに剣を受けとめられて、ブロテは驚いたように目を見開いた。
「なにを……」
「きさま。辻斬りか!」
 レークは鋭く声を放つと、その剣の切っ先をブロテに向けた。
「こんな路地で待ち伏せて、騎士を相手に物取りでもするつもりだったのだろう」
「な、なに……」
「オレは偶然に通りがかって駆けつけたが、そのような卑劣なやり口は捨ておけん。来い、でかいの。オレが相手になる!」
 呆気にとられていたブロテだったが、
「……お」
 レークの目配せに気づくと、すぐにその意を察したようだった。
「お、おのれ……、き、貴様は何者だ?」
 演技と分かって見れば、いくぶんぎこちない言い方ではあったが、ともかくそれで充分だった。あとは千両(リグ)役者に任せればいい。
「オレか?へっ、オレはな、旅の浪剣士、レンク・ディーだ!」
 朗々とした声が、光の射し始めた路地に響きわたる。
「剣の腕にはちと自信があるぜ。オマエもなかなかの使い手のようだがな。オレにかかれば所詮はでかいだけの雑魚よ。さあ、どうする。かかってくるのか?」
 そう言って片目をつぶると、レークはいかにもそれらしく上段に剣を構えた。
「くっ、こ、この浪剣士ふぜいが!」
 くわっと顔をしかめて剣を振りかざすブロテも、なかなかの役者である。
「おおおおっ」
 恐ろしげな掛け声とともに、レークに襲いかかる。打ち下ろされた剣を、レークは発止と剣で受け止め、今度は攻撃をしかける。
「おらっ!」
 ガッ、ガカッ
 鋼の剣同士がぶつかる、強い響きが路地にこだまする。
 レークの背後ではジャリア騎士が立ち上がった。
「レンクとやら」
 演技が見破られたかと一瞬緊張したが、
「助かったぞ。礼を言う」
 そう言うと、騎士はレークの横に並んで、ブロテに向けて剣を突き出した。 
「辻斬りか、物取りかと知らぬが、この私を襲うとはよい度胸だ」
 声にあるのは怒りとともに、気高い誇りを感じさせる響きであった。
「かかってくるがいい。もう油断はせん」
「……」
 どうするべきかと、ブロテは剣を構えながら二人を見比べた。それにレークは目の動きで「行け」と伝えた。
「お、おのれ……この俺がし損じるとはな」
 くぐもった声で吐き捨てると、ブロテはくるりと向こうを向き、走り出した。
「待ちやがれっ」
 それを追おうとして、レークはずるりと足を滑らせて地面に転がった。ふりをした。
「くそっ、ちくしょう」
 顔を起こして、路地の向こうに消えてゆくブロテを確かめる。
「大丈夫か?」
「逃がしちまった。あの辻斬り野郎め」
「かまわぬ」
 騎士はレークを助け起こすと、あらためて礼を言った」
「助けられた。ところで、お前はいったい」
「ああ、あっしはレンクといいまさ。旅の浪剣士で」
「浪剣士か、なるほど」
 うなずいた相手を、レークは素早く観察した。
 それはすっと鼻筋の通ったなかなかの美男子で、まだ二十歳になるならずというほどの若さに思える。ただし、その目つきには、騎士である誇りと確固たる意志、そして、相手を貫くような鋭い光が存在していた。
 空はだいぶ白み出し、狭い路地にも光が差し込んで、道に沿って家々の影ができていた。その路地の先から、黒い鎧姿の一隊が二人の方に近づいてきた。
「おお、ハインさま!」
 駆け寄ってきたのはジャリア兵たちである。
「剣のぶつかる物々しい音を聞きましたが、ご無事でしたか」
「ああ、すまぬ」
 その兵たちにうなずきかけ、騎士は言った。
「人目を避けて路地からきたのだが、辻斬りに襲われた。だが、ここにいるレンクなるものに助けられた」
「そうでしたか。それはまたご無事でなにより」
 まだ若いながらも、この騎士は兵たちにかなりの敬意を払われているようだった。その横顔をじっと見ると、どことなくだが見覚えがあるような気もしてくるのだが、
(ハインといったな……どっかで聞いたような名だが)
「おお、お前は昨夜の」
 声を上げたのは、昨日の酒場で会ったジャリア兵であった。
「ああ、どうも。レンクでさ」
 レークは愛想笑いを作ると、頭を掻いた。
「あのー、言われた通りに北門へゆく途中でして、そこをちょうど、このお方が襲われているところに通り掛かったってワケで」
「そうであったか」
「ルグエン、この者を知っているのか?」
「は」
 騎士に尋ねられ、ジャリア兵は直立して答えた。
「レンクという傭兵志願の浪剣士でありまして、その他にも重要な情報を知るということで、部隊に来て報告させるべきと判断いたしました」
「なるほど、傭兵志望か。確かになかなか腕がたつようだ」
 騎士はいくぶん興味を覚えたように、レークを見た。
「いいだろう。この者を連れてゆく。その情報というのも気になるが、なにより命を救われた恩人でもあるからな。隊に合流したらまずは手厚くもてなしてやれ。それから出立前に私のもとによこせ」
「了解いたしました、ハインさま」

 バコサートの北門を出ると、そこは都市外の田園地帯が広がり、東西へ伸びる街道の向こうには、緑豊かな丘陵地帯がどこまでも続いている。街道を東へ半日にもゆけば、マトラーセ川まで辿り着き、川を渡ればそこはもうウェルドスラーブの国土である。
 ミレイの首都、バコサートは、スタンディノーブル城から馬で一日足らずの距離にあり、かつては物資の取引も多くされていた。しかし、スタンディノーブルがジャリアの手に落ちた今となっては、バコサートの取引先はあっさりとジャリアへと切り替わっている。自由国家であり、どの国とも平等に付き合うという立場を標榜するミレイであるから、それがたとえトレミリアやウェルドスラーブの敵国であろうと、商売相手として成立するならば、ジャリアでもアルディでもかまわないという、それはある意味でまことに実際的な態度であった。
 これまでは、かろうじて均衡を保ってきたリクライア大陸の勢力図において、ウェルドスラーブがジャリアに占領されたことで、もはや東側と西側のバランスは大きく逆転し、じわじわと東からの風が西に吹き込み始めている。分裂しかけているアルディを除けば、ジャリアに対抗できる大国というのは、もはやトレミリアとセルムラードしかなかった。
 地理的にトレミリアとウェルドスラーブにはさまれたこのミレイにおいては、そうした勢力の動きを敏感に感じることで、自国の立場をゆるやかに微調整しながら舵取りをしてきたのだが、現在ではジャリアの勢い強しということで、そちらからの圧力を抵抗なく受け入れることで、自由国家としての存在を保つということなのだろう。むろん、だからといって、ただちにトレミリアやセルムラードと国交を断絶するのではなく、西側とのパイプについても、まだあらゆる可能性を残しているというのが、なかなかにしたたかなところであったが。
「おお、これは……たいしたもんだ」
 レークは感嘆したように声を上げ、そこに集まる兵士たちをざっと見回した。
 いつもはのどかな田園地帯であるはずの街道横の牧草地に、黒々とした鎧姿がびっしりと並んでいる。ジャリア軍の部隊……それも思っていた以上に規模の大きな部隊が、そこに陣を構えていた。
(二千……いや三千はいるか)
 ひとつでも目に見える情報を得ようと、レークは目を凝らした。
(それに、どうも騎馬が少ないな)
 部隊の中には、荷物の運搬用の馬はけっこう目につくが、騎馬隊と呼べるようなものはほんの一部で、半分以上が歩兵である。
(こっから歩いてロサリイト草原まで行くってのか?)
(戦う前にへとへとになっちまうだろうに。それとも、どっかで騎馬隊が合流するのか。それもありえるな)
 じっくりとジャリアの部隊を見回していると、ジャリア兵が近寄ってきた。
「おい、レンク。こっちだ」
 昨夜酒場でも会った、髭を生やしたジャリア騎士である。
「俺の隊に来るがいい。俺は第六小隊隊長のルグエンだ。よろしくな」
「これは小隊長殿でしたか。どうりで貫祿がおありになる」
 レークはにこにこと愛想笑いを浮かべ、ルグエンの後に付いていった。
 牧草地に立てられた天幕は、各小部隊ごとにあてがわれているらしい。そこでは出立を控えたジャリア兵たちが、交代で休息をとっているところだった。
「おいみんな、紹介するぞ。こいつはレンクだ。傭兵志願者だが、剣の腕前は相当のものらしいぞ。なにしろ、つい今しがた、巨漢の辻斬りに襲われたハインさまのお命を助けたんだからな」
 ルグエンがそう紹介すると、ジャリア兵たちはレークの周りに続々と集まってきた。
「ほう、傭兵志願者か。俺も今年から傭兵になったんだ、よろしくな」
「ハインさまを助けたって?なあ、詳しく聞かせてくれよ」
 案外に友好的なジャリア兵たちに、レークはやや面食らいながらも、そこは調子のいい彼である。すぐさま親しみを込めた笑顔を見せ、自分から手を差し出した。
「やあ、よろしく。オレは旅から旅の浪剣士、レンクだ。今までも何度か傭兵をしたことはあるが、名だたるジャリアの兵士さんたちに会えて、とても嬉しいよ」
「浪剣士か、なるほど。いかにもそんな感じだな。今までどんなところにいたんだ?」
「そりゃもう、世界中を旅してきたよ。最近ではアルディやトロス、アングランドにセルムラードへも行ったしな」
「へえ、トロスか!あの伝説の都市だよな。どんなところだい?」
 興味を持ったように、ジャリア兵が目を輝かせる。ここには比較的若い兵たちが多いらしい。みな二十代前半くらいの若者だ。
「そりゃあもう、トロスは天国みたいに豊かなところさ。それはそれは、綺麗な女や、贅沢な食べ物がたくさんでさ」
「そりゃすげえ。俺もいつかは行ってみたいぜ」
「なあ、もっと詳しく話してくれよ」
「おい、お前たち。出立まではあと一刻ほどだぞ。ちゃんと準備をしておけよ。レンクには食べ物と酒をやって休ませてやれ。あとでハインさまのところへ連れてゆくから、酒も飲ませすぎるなよ」
「は、了解です。ルグエン隊長!」
 それから半刻もしないうちに、ジャリア兵たちに囲まれたレークは、すっかり彼らと打ち解けていた。
 はじめは、レークの方に、この兵たちの中に、あのスタンディノーブルの戦いで自分を知るものがいるのではないかという不安もあったのだが、どうやらここにいるのは、みなスタンディノーブル城の陥落のあとでジャリア本国から派兵されたものたちであるようだ。
「あの城の攻防戦は、そりゃあ激しいものだったってさ、風の噂で聞いたんだけど」
 と、さりげなく話をふってみたが、ジャリア兵たちも「そうだったらしいな」と言うだけであった。これで安心したレークは、あらためて他の情報を得るべく、いかにも興味津々な浪剣士のふりをして彼らに訊いてみた。
「それで、ウェルドスラーブはもうすっかり、ジャリア軍が占領しちまったのかい?」
「さあ、首都のレイスラーブは落ちたみたいだから、きっとそうなんだろう」
「ジャリア軍はやっぱり、次は、西側へ侵出するつもりなんだろうな?」
「そうなんじゃないか。次の戦地はロサリイト草原だろうって、みんな言っているし」
「だいたいどんだけの数の兵が集結するのかね?」
「さあ、よくは分からないが、何万ってところじゃないか?」
 彼らの返答の曖昧さに、レークは内心でいらいらとしたが、部隊の一兵士の認識などは、しょせんはこの程度なのだろう。
「何万ね。なるほど、それはけっこうな数だな」
 そう感心して見せつつ、今度は、この兵士たちでも知っていそうなことを訊いてみることにした。
「ところでさ、この部隊の大将は誰なんだい?まさかあの黒竜王子、その人ってことはないよな?」
 もしそうであったら、ただちに逃げ出さなくてはならない。あれはほんの一瞬の邂逅であったが、あのとき天幕で相まみえたジャリアの王子の姿は、二度と忘れられないほどに、レークの心には強く刻みつけられていた。
「まさか」
 ジャリア兵は笑って首を振った。
「フェルス王子は、俺らにとっては雲の上のようなお方だよ」
「ああ、お姿を遠くから見たことはあるが、そばに行ったら、きっと、ぶるぶると震えちまいそうだ」
 やはり、ジャリアの一般兵にとっても、あの王子の存在は格別のものであるらしい。兵たちの表情から、大変な敬意と同時に、強い畏怖の念を抱いているのが伝わってくる。
(無理もねえ。あの恐ろしい殺気……圧力ってのか、とても人間とは思ねえような)
(そしてあの剣だ……)
 王子が目の前でその剣を手にした瞬間、自分は絶対に勝てないということが、直感で感じられた。
(あれが……あれが、本当に水晶剣だってえなら……)
(いや、きっと本当なんだろう)
 セルムラードの宰相、エルセイナ・クリスティンは確かにそうだと言った。
(うう……だとしたら、むしろ王子に近づいて、なんとか剣を奪えれば……)
 だが、なるべくならそうしたくはない。なんとなく、本能的にそう思うのだ。
(あの王子は危険だ……とても)
(オレ一人だけじゃ、とても倒せねえ)
 はっきりとそれが分かる。剣の腕前うんぬんではなく、そこにあるのは、技術や能力を超越した、大きな力であると、そう感じられるのだ。
(せめて、アレンでも一緒にいればな)
(あいつは今、どうしているだろう)
 そう思うと、にわかに相棒がなつかしくなってくる。これまでは片時も離れず、一緒に旅をしてきた、いうなれば兄弟のような存在である。そのアレンと、これほど長いこと会わないということは、かつてなかった。
 水晶の力を借り、アストラル体となってわずかに心で会話を交わしたが、あのときは言葉を聞き取るのがやっとであったし、意識体の存在が飛ばされかけていたせいか、その姿もはっきりとはせず、おぼろげにしか分からなかった。
(いずれ、オレもトレミリアにも戻るだろうが、そうしたら二人で水晶剣について、もう一度よく話し合うべきだろうな)
 エルセイナの言っていた言葉……水晶剣は人を魔人にするという、そのことも気になる。
(人を不幸にするって……それは、あの王子に限ってのことなんじゃないのか?)
(あの剣を手にすれば、すごい力を得るというのは、きっと確かなんだろうけどな……)
「でも、今回は、ハインさまがじきじきに我らの隊を指揮するってのには驚いたな」
 ついつい自分の思いに浸り込んでいたレークは、ジャリア兵の言葉に我に帰った。
「ああ、まったくだ。我々に知らされたのが、今朝ここに集まってからだからな」
「ハインさまってのは……さっきの」
「ほら、お前が助けた、あの方だよ」
「ああ。そのハインさまは、えらい奴なのか?」
「えらいもなにも、なにしろ、ハインさまは……」
 そのとき、小隊長のルグエンがそばにやってきた。
「さあ、お前たち、そろそろ出立準備にかかれ。これからしばらくは休息はないからな、気を引き締めていけよ。レンク、お前はこっちにこい。ハインさまがお呼びだ」
「へいへい」
 慌ただしく準備を始めるジャリア兵たちに手を振り、レークは口笛まじりにルグエンのあとについていった。
 牧草地には、各小部隊ごとに整列したジャリア兵たちが、いよいよ出発のときとばかりに、それぞれに緊張の面持ちで指示を待っていた。ルグエンに連れられたレークが通りがかると、兵たちの視線が集まった。自分の正体がばれないかと内心で恐れていたレークであったが、誰かが声を上げてこちらを指さすようなこともなく、ずいぶんほっとした。
「ハインさま、さきほどのレンクというものを連れてまいりました」
「ルグエンか。入れ」
 天幕から声が上がった。
 その天幕はごく簡素な作りであった。一般の兵士たちの休憩所となんら変わらない仕様だが、ひとつだけ目立ったのは、入り口の前には黒い竜の描かれた流旗がたなびいていることだった。それが近衛騎士隊の紋様であることをレークは知らなかったが、その黒い竜の絵がジャリアの黒竜王子を連想させ、思わず口元を歪めた。
「失礼いたします」
 ルグエンにうながされて、レークは天幕の中に入った。
「ご苦労。そちらは、レンクだったな」
 地図を広げた卓の前に立っていた若い騎士……ハインが振り向いた。
「下がっていいぞルグエン。出立の準備もあろう」
「はい、ですが……護衛なしでは」
「かまわん。大丈夫だ。このものは私に害をおよぼすつもりはない。そうだろう?」
 ハインは、レークを見てにやりと笑った。
「私を殺すつもりなら、さきほどの路地でもできたはずだ」
「めっそうもない。それはもう、そんなつもりは毛頭ありませんよ」
「分かりました。それでは、失礼いたします」
 一礼してルグエンが出てゆく。天幕の中にはハインとレークとの二人だけになった。
「近くにくるがいい、レンク。さきほどは助けられたな。あらためて礼をいう」
「いや、それほどでも」
 レークは恐縮したふうに騎士に近寄った。
 近くで見ると、歳はレークと変わらぬくらいか、あるいは少し若くも見える。ジャリア人らしい黒髪と、いくぶん日に焼けた浅黒い肌をした、切れ長の目の美男子であるが、その顔つきはどこかまだ少年の面影を残している。そして、その目には、厳しく己を律しているような意志の強さが宿っている。
「わたしは、ノーマス・ハイン。近衛隊の騎士だ」
「ノーマス、ハイン……」
 やはりどこかで聴いたような気もするが、知らない名であった。
「お前は、旅の浪剣士だと聞いた」
「ええ、レンクです」
「出身は?」
「それが、じつは……」
 レークはいったん口ごもり、さも重大な秘密を告げるかのように言った。
「アスカで」
「ほう、」
 ハインはうなずくと、レークの顔を見た。
「それで、アスカを出奔して、今は旅の剣士にか」
「ええ、気楽なもんでさ」
 その横柄な言葉使いにも眉ひとつひそめない。むしろ、さらに興味をもったようだった。
「ところで、私を襲ってきたあの巨漢の剣士に、心当たりはあるか?」
「いえ、まったく」
「そうか」
 ハインは鋭くレークを睨んだ。そうすると、さすがジャリア軍の士官という迫力がある。
「では、お前はまったく偶然にあの場を通り掛かり、私が誰とも知らぬままに、あの巨漢の剣士に向かっていったと、そういうわけだな?」
「ええ、そうです」
 レークはあっさりとうなずいた。とっくに嘘は考えてある。
「じつは、このバコサートには、今朝一番の船で着いたばかりでして。なんとなく通りをふらふらと歩いているうちに、あの路地に迷い込んじまいまして、そうしたらですよ、なにやら物々しい気配がするぞってんで、おそるおそる近寄ってみたら、なんとも立派な騎士殿が巨漢の剣士に襲われているじゃありませんか。あっしは浪剣士ではありますがね、強盗や辻斬りのたぐいは大嫌いで、しごくまっとうな浪剣士なんでさ。人さまを襲って金を巻き上げたりする連中は許せねえ」
「なるほど。ではお前は、私を襲ったのは、強盗か辻斬りであると言うのだな。それにしては、そう……あやつはなかなか見事な剣術をしていたがな」
「最近ではね、辻斬りを働く浪剣士にも、腕のたつ奴が増えているんですよ。まったく嘆かわしい。もしかしたら、やつが噂の巨漢剣士ドラコかもしれませんな」
「なんだそれは?」
「えっ、ご存じない?それはまた……」
 もったいぶったようにひとつ咳払いをすると、レークはさも真剣な顔つきで語りだした。
「おそるべき巨漢剣士ドラコ!なんでも噂では身の丈は優に二ドーン、体重は百エルゴはあるって話でさ。その巨漢に似合わぬような俊敏さと剣の腕前、強力な打ち込みで相手の剣を叩き折るという、おそるべき浪剣士にして辻斬り。それが巨漢剣士ドラコです」
「そのようなものは、これまでまったく聞いたこともないが」
「ええ、無理もない。奴が町に現れ始めたのはそう、ほんのひと月ほど前ですから。それも決まってミレイや、アングランド、オルレーネなどの南海に面した港町ということでさ。噂じゃ、やつはもともとはアングランドの船乗りだったって話も聞くし、また別の噂では、はるか南海の島、サウスゲートの出で、船が難破したせいでリクライア大陸に流れ着いたということです。とにかく、たいそうな剣の使い手で、デカさに似合わず俊敏さもあり、逃げ足も相当のものとか……ああ!」
「どうした?」
「そういえば、さきほどの巨漢剣士も、大変な逃げ足の速さではなかったですか?」
「そういえば、確かにな」
「もしかして、もしかして、あれが、噂の巨漢剣士ドラコだったのかも。いや、きっとそうに違いない!おう、なんてこった」
 ひどく興奮したようにレークは両の拳を握りしめた。
「間違いない、あれがドラコだ!」
「……」
「ああ、だったら捕まえて、当局に差し出せば莫大な賞金が手に入ったかもしれないのに。取り逃がしちまった……オレのバカ!」
 それをハインはやや苦笑気味に聞いていたが、レークの表情があまりに真剣であったので、それがまったくのデタラメであるとも決めかねる様子だった。
「なるほど。たしかに、あの剣士はただの辻斬りにしては、見事な腕前だった。しかし、お前の方も、ただものではない剣技だったぞ。お前は本当に、ただの浪剣士なのか?」
「ただの……というか、」
 にやりと不敵に笑って見せると、
「実力的には、たしかに天才の部類になるんでしょうね」
 レークはぬけぬけとそう言ってのけた。
「まあ、まだ剣の試合じゃ負けたことはないもので。賞金を稼いで旅をしてますから。ただ、傭兵として実際にいくさを戦ったことはないもんで、いくさってのがどういうもんなのかと興味はあります」
「ふむ、そういえばルグエンから聞いた話だと、傭兵になるのを希望しているそうだが」
「栄えあるジャリア軍の傭兵として戦えるなら、このうえない喜びであります」
 わざとらしい媚びを見せるレークの顔を、ハインは鋭く検分するように見た。
「ところで。報告では、お前はアングランドのマイエにて、ウェルドスラーブ王を見たということだが」
「ああ、ええ。そうそう、そうです」
「それは事実であるのか。詳しく話してみろ」
「ええ、そりゃもう……事実も事実!」
 レークは、得意のはったりをまじえて、マイエで遭遇したということにしてあるウェルドスラーブ王と、護衛の騎士たちの様子を、いかにも実際に見たのだというように話して聞かせた。ハインから王の様子などを尋ねられると、レークはその容姿や背格好にいたるまでを正確に返答した。なにしろ、コス島で実際に王に謁見しているのだから、真実らしく語るのはそう難しいことではなかったのだ。
 そしてついにハインもそれを認めた。
「たしかに、それは間違いなくウェルドスラーブ王のようだ。どうやらお前の言っているのは嘘ではないらしいな」
「おお、もちろんでさ。どうして嘘なぞ申しましょう!善良なる浪剣士のこの私は、偉大なるジュスティニアに誓い、真実のみを申し上げます」
 神への忠実な使徒ならぬことで著しいはずの彼であるが、今はぬけぬけと両手を組み合わせ、祈るようにホラを吹いた。
「マイエか……それが昨日のこととなると、ウェルドスラーブ王の一行はもうすでにセルムラードへ入ったと思うべきだろうな」
 ハインは考えるように腕を組んだ。
「おそらく、今日か明日にはトレミリアへ着くことになるか」
(へへ……)
 レークは内心で舌を出した。
 実際には、王やクリミナたちはまだコス島におり、今日の昼ごろにようやくスタグアイに向けて出発する予定であった。これで、ジャリア軍の目をコス島からそらしておくことができる。
「ならば追手をかけても遅かろうが、一応、殿下には報告を出しておくか」
 そうつぶやくと、ハインはレークに向き直った。
「よし。では我々は予定通り、これよりただちに出発する」
「ロサリイト草原へ、ですか?」
「そうともいえるが、それだけでもない」
 首をかしげるレークを見て、ハインは満足したようににこりと笑った。
「お前を傭兵にはできん。遠征の中途で兵員を補給することは王子殿下より禁じられているのでな」
「そうですか、そいつは残念」
 レークはがっくりと肩を落として見せた。
「ただ、命を救われてそのまま恩を返さぬのは、騎士の道にもとる」
 おそらく、恩義や忠誠ということに関しては、生真面目なたちなのだろう。ノーマス・ハインは真剣な面持ちでそう言った。
「もし、お前が、我が軍への同行を望むのなら、そうだな……あるいは、私の側近、護衛としてでも帯同させるにやぶさかではない」


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