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 水晶剣伝説 Y セルムラードの女王


V

 スタグアイの港は、にわかにざわめきたっていた。
 スタグアイは国には属さない都市国家であるが、マクスタート川を挟んですぐ東には自由国家ミレイがあり、またマクスタート川を上流にさかのぼればヨーラ湖に行き着き、そこはもうトレミリア王国の領内であるので、実質的にはその両国からの影響を多分に受けている。王制のないミレイとの貿易は双方にとって平等な利益をもたらし、またトレミリアからもたらされる商品を西側の海洋国家、アングランドやオルレーネなどに運ぶことで、この小都市は大きな外貨を得て栄えてきた。
 スタグアイの港には常に多くの船が出入りする。マクスタート川を下ってきた商船や、その商船の積み荷を移しかえてまた出発する船など、それらの商船が日没までは入れ代わり立ち代わり停泊しているので、港には大型船から小型船まで、他国の船が入り交じって桟橋に並んでいる光景は珍しくもない。ただし、それがトロスからきたガレー船であったとしたら、また話は別であった。
 伝説的な都市国家であるトロスの船が、このあたりに来ることは基本的にはほとんどない。トロスが交易をするのは、東の超大国、アスカのみであるというのは定説であったし、ましてやトロスの誇る最新ガレー船などというものは、この海域の船乗りたちは誰も見たこともなかったろう。なので、臙脂色の船体をした優雅なガレー船が、夕日を受けて燃えるような姿で商船の間をぬって入港してくるその様子は、港にいた人々にとってはひどく異質な光景に思えたとしても無理はなかった。
「おお、こりゃまた、たいそうなお出迎えだぜ」
 そのガレー船の甲板の上からレークは港を見渡していた。港の桟橋には、船乗りたちや荷物を運ぶ人足たちなど、多くの人々が集まってきて、こちらを指さしたりしながらざわついている様子が分かる。
 空いている船着場のひとつにガレー船が横付けされると、集まっていた人々の間から港の管理者であるらしい、やや身なりのいい人間が幾人か現れて、こちらにやってきた。
「上陸の前に、そちらの船籍と、このスタグアイへの入港の目的を教えてもらいたい。この港は自由港であるが、戦時下における特定の国への戦争協力や、商用以外での船の入港に関しては、いくぶんの審査が必要となる。まずは船籍を教えられよ」
「こちらの船籍は、都市国家トロスに属すものである」
 管理官の言葉に、船長のモーガンが応える。すると、船着場に集まった人々から「おお、やはり」というような声があがり、あたりのざわめきはいっそう大きくなった。
「寄港の目的は、さる大切な旅人の下船と、漕ぎ手たちの休息であり、その他いっさいの国家的な事情は含まない。どうか停泊の許可を願いたい」
 港の管理官たちは顔を見合わせ、二言三言会話をしてからうなずき合う様子だった。
「了解いたした。下船の人数を確認ののち、上陸を許可いたします」
「やあ、ごくろうさん」
 停泊したガレー船から最初に降りたのはレークだった。どんなときであっても、人々から注目を受けるのは気分がいいものだというように、港の管理官と集まった人々に向かって鷹揚に手を振ってみせる。
「あなたは、トロスからの旅行者であられるか?」
「まあな、そうあられるよ。実際はアルディのウィールラース卿の使いとして、セルムラードへと向かう途中なのだがな」
「なんと」
 管理官たちは驚いたように顔を見合わせた。
 アルディの革命貴族、ウィルラースの名前は、ここのところ各国でもよく知られるところとなっており、この一見して知性も教養もなさそうな若者が、そんな大変な人物から使わされた人間だということを、ただちに信じてもいいものだろうかというように、彼らは互いに目を見交わすのだった。
 レークの方は、ウィルラースから「なにかあったときには自分の名前を出してもらってもかまわない」と、あらかじめ言われていたものだから、いかにも自分がその革命貴族の重要な使者然と、胸を張って人々を見回した。
「そういうことだからさ、この船の乗組員たちに上等な宿と食事を用意してやってくれ。それから、セルムラードの方面へゆく馬車を頼む。もちろん、そら、金はたんまりと払うからな」
 そう言って、金貨の詰まった革袋をじゃらじゃらと鳴らして見せる。それもウィルラースから旅の路銀にと与えられたものである。
「宿と馬車ですな。か、かしこまりました」
 ここにいる管理官の中でも、頭だった身分らしい中年の男がうなずいた。その態度はさきほどよりもいくぶんかしこまっていた。やはり、なにをいうにも自由都市国家における免罪符とは、金子にほかならぬということであるらしい。
「それと、オレの連れのために着替えの服とマントを。おお、それから上等の絹の肌着もいるかな」
「そんな必要はありません」 
 続いて船から降りてきたのはクリミナだった。簡素な胴着と足通しを着た男性のなりをしていたが、さすがに男性として通すには彼女は美しすぎた。管理官たちも、その男性のなりをした旅行者を不思議そうに見つめたが、その物腰からどうやら高貴な身分の人間らしいと察すると、同様にうやうやしい物腰で話しかけた。
「これは、雅びな貴婦人とお察しします、こちらの方のお連れさまでしょうか。ただいま、こちら様より宿と馬車、それに服の用意をというご希望がありましたが」
「ええ。ありがとう。でも服はけっこうです。私たちはわけあって早急に使者の役目をはたさなくてはなりません。船員たちを休ませる宿と、私たちのために馬車をお貸しくださるのなら、それだけで十分すぎるご配慮です。もちろん代金はお支払いしますし、このスタグアイの町で受けたご好意を、私たちはこののちもずっと忘れないでしょう」
「それはむろん。私たち、いやこの町は、自由に旅人を受け入れ、必要とあらば惜しみない援助をいたします。それが自由都市スタグアイの友愛の精神です」
 おそらくその管理官は、クリミナの態度や雰囲気に、どこか貴族的なものを感じ取っていたのだろう。その背後にある国家がいずれであったとしても、都市にとってはそれが有益な影響を及ぼすかもしれないということになれば、ここは彼らを丁重にもてなしておいて損はないという判断であろう。
「ありがとう。スタグアイにきたのは初めてだけれど、この町に来られてとても嬉しく思います」
 さすがにそうした儀礼的な友好の表現については慣れたもので、クリミナはその顔ににっこりと微笑みを浮かべて、管理官たちにうなずきかけた。今ではだいぶ伸びてきた栗色の髪をさらりと肩になびかせ、緑色の瞳をやわらかにくるめかせる彼女は、たとえ男装をしていても、そうして花のように笑うと、やはり姫君のように美しかった。
 むろん、実際にも王国の姫君であったのだが、ここにいる人々は、それをあのトレミリアに名高い女騎士、クリミナ・マルシイその人であるとは思いもしなかったろう。また、たとえその名を知っていても、実際にこれほど近くで彼女を見たことのあるものは、ここには誰もいなかったであろうから。
「それから、服はけっこうなのですけど、よろしければマントはいただけるかしら。聞くところによると、セルムラードの方はここよりも少し涼しいらしいですから」
「は、はい。それはもちろん」
 管理官たちは、すっかりクリミナを、大変な身分の貴族の姫君がこれまた大変な訳あって、このような使者として旅をしているのだと思い込み……また、それは事実そうであったのだが、結果として、供にいるレークの言うことも信じることになったのだった。
 あとから船から降りてきた船長のモーガンはじめ、実際には身分の低い漕ぎ手の男たちも、そのようなわけで、貴族の賓客を迎え入れるような待遇で、物珍しげに集まった人々の間を管理官たちに先導されて宿へと案内された。そこは港町スタグアイの宿の中でも、もっとも大きな宿で、管理官によれば都市の領主が直接運営する店であるという。多くの貿易船を受け入れるこの町では、他国の大商人や貴族などが立ち寄ることも多いらしく、ここはそうした賓客を滞在させる宿であるのだという。
 モーガン船長や船員たちと一緒に食事と酒を振る舞われ、ひと息つくと、レークはさっそく切り出した。
「さっきも言ったがな、俺たちにはとても……そうとてつもなく大切な使命がある」
「は、はい、それはもう」
 管理官は、もうすっかり低姿勢で、レークの言うことにいちいちかしこまってうなずいた。やはりウィルラースの名前を出したのは大きかったようだ。アルディでの革命の噂は、このあたりの都市にも多少は届いており、もしもウィルラースが今後アルディの実権を握ることになれば、この都市にとって最大の商売相手のひとつになることは間違いがない。
「この船乗りたちは、このままここに泊めてもらうこととして、俺たち二人はこれからすぐに出発する」
「お休みにならず、今すぐに……ですか」
「そうだ。一刻を争う使命なんだよ。詳しくは言えねえが、まあこのリクライア大陸全土に関わるくらいの、そりゃ大きな問題なんだ」
「それはまた……なんとも大変なことで」
 管理官は目を白黒させながらも、いちおう真面目そうにうなずいた。
「馬車の用意はもうできているか。それと水と食料もたっぷり頼む。ほら、これは金だ。足りなければまでいくらでもあるぜ」
 レークが革袋を逆さにすると、テーブルの上にじゃらじゃらと一リグ金貨がこぼれた。
「ええ、もちろんです。ただいま用意させております。船乗りの方々も、それはもういつまででもお泊まりいただけますとも」
 計算高そうな管理官は、この宿の主人である太った男と顔を見合わせると、互いの取り分を吟味するようにテーブルの金貨を見つめていた。
 しばらくして宿の奥からクリミナが出てきた。彼女は肌着を着替え、いくぶん厚手の新しい胴着をまとって、その上にマントを羽織った姿で、いかにも旅の女騎士然とした様子であった。腰にはこれも用意してもらった新しい剣をしっかりと下げている。
「私はこれでいいわ。いつでも出発できます」
「よし。俺の剣ももらったし、あとは馬車だな。用意ができたらすぐ出発だ」
 レークは、モーガンと船員たちのいるテーブルに行って、軽く挨拶をした。
「世話になったな。あんたらとはここでお別れだ。ここまで船に乗せてもらったことには感謝するぜ」
「おお、レークどの。いや、こちらこそ。大切な使命のお手伝いができて、こちらこそ光栄でありました。道中の無事をお祈りしております」
 船員たちは温かな食事と酒にありついてみな上機嫌のようだった。レークは彼らにうなずきかけて立ち去ろうとしたが、それをモーガンが引き止めた。
「ちょっとお待ちを。いま船員たちと話したのですが、やはり我らには、あなた方がセルムラードにちゃんと辿り着いたということを、フサンド公王とウィルラース閣下に報告する義務があります」
「それはまた、律儀な忠誠心だな。まあ大丈夫さ。ここからなら、馬車を使えばセルムラードまでは一日くらいで着くだろう」
「ええ。それでですが、どうか御者としてこのラズロを連れて行ってくださいませんか」
 いかにも船乗りらしい日焼けした若者が、テーブルから立ち上がった。歳は二十代半ばというところか、がっしりとした体格で、細い目をした東方系の顔だちの青年である。
「こいつなら、船はもちろん馬の扱いも上手ですし、なにより剣も腕が立つ。もちろんレークどのには護衛などはいらぬくらいの腕前でしょうが、いろいろな雑事もこなす御者として連れて行っても損にはなりますまい」
「ふうむ」
「それに、さきほども申したように、我らはあなた方が無事に目的地に辿り着いたという知らせが欲しい。なので、このラズロにはセルムラードまでお供をさせ、そこでお二人を見送ってから、またこのスタグアイに戻ってきて報告してもらう。我らはそれまでここに滞在することにいたします。いかがでしょう」
「なるほど。まあ、確かに、俺たちがちゃんと使命を果たしたことを、ウィルラースのだんなに知らせてやった方が、向こうとしてもいいのだろうな。わかったよ。そうしよう」
「ご承知、感謝いたします。このラズロにはよく言い聞かせておきますので、御者はもちろん、戦いや偵察、薪広いや、その他なんでも、お申しつけください。それから……」
 モーガンはふとレークの耳に口を寄せた。
「決してお二人のお邪魔はさせないように、とも申しつけております。それもご安心を」
「お邪魔って……おい」
 なにを言われているのかを悟ると、レークは思わず顔を赤くした。
「あのな。俺らは、そんなんじゃ……」
「どうしたの、レーク?」
 横で首をかしげるクリミナに、レークは慌てて首を振った。
「い、いいや。なんでもねえよ。旅の道連れができたって、ただそれだけのこった」

 用意された馬車に二人が乗り込んだときには、辺りはもうすっかり夕闇に包まれていた。
 港に浮かぶ船のランタンの明かりが、まるで星のように美しく水面に浮かんで見える。スタグアイの港には、これからも夜の漁に出てゆく船や、アングランドからの貿易船、それにコス島からの定期船などが入れ代わるようにして到着し、港が寝静まるまでにはもう少し時間がかかる。その反対に、陸路の方は日暮れとともにまったくもって人影はなくなり、これから都市を出てゆこうというものなどは誰もいないようだ。
「では、よろしいでしょうか」
 御者席に乗り手綱をとるのは、モーガンから役目を使わされたラズロである。トロスの船乗りの若者は、馬車の扱いも慣れたものというように、二頭立ての馬にそれぞれぴしりぴしりと軽やかにムチを当てた。
 馬車はゆるやかに通りを動きだした。都市の管理官から通行証ももらっていたので、市門を出るのにも問題はない。レークとクリミナを乗せた馬車は、そのままスタグアイの都市を抜け出し、西へ向かって走り出した。
 戦いの渦中にあったウェルドスラーブとは異なり、このあたりの空気はどことなくおだやかであった。馬車を引く馬にも緊張の様子はなく、二人の旅人を乗せて軽やかに通りを進んでゆく。もちろん、郊外に出ればこのあたりにも夜盗や山賊なども住んでいるのかもしれないが、それでも、空気そのものが戦いのさなかにあるのとないのとでは大きく違うのだということを、レークとクリミナは、馬車窓から外を眺めながらあらためて感じるのだった。
 そうして、とくに道中なにごとも起こらず、馬車は夜半にはパルドレールの町に着いた。
 パルドレールもスタグアイと同様に、国には属さない都市国家で、やはりコス島のメルカートリクスとの定期船や、海洋国家オルレーヌ、イルメーネ、アングランドとの貿易を中心に栄えてきた町である。このあたりの都市国家、海洋国家は、もともとが共立連合のような形で互いに助け合いながら、大国であるトレミリアやセルムラードなどにも負けない商業組合を作り上げてきたという歴史がある。なので、侵略や戦争というものにはまるで無縁な地域であったし、外敵から都市守るための城壁や軍隊というものは、最低限の備えはあれど、ほとんど用をなさない。パルドレールの市門も、城門というようなものではなく、見張り番がいる小屋がある程度で、こちらがスタグアイからの馬車だと告げると通行証を見せるまでもなく通してくれた。 
「どうしますか。どこかで宿をとり、今夜はここで休みますか?」
 御者席からラズロが尋ねた。彼らの馬車はそのままパルドレールの中央通りを進んでゆく。左右には、昼間であればなかなかにぎわっているだろう商店街のようで、夜も更けた今頃では開いているのは酒場か宿屋くらいのものであった。
「いや、水も食料もまだあるしな。少し休んだらすぐに出発しよう」
「そうですか。わかりました」
 いったいそこまで急ぐどんな役目があるのだろうかと、内心では思っていたとしても、ラズロは口には出さずにうなずいた。まだ若いがなかなか利口な船乗りのようだ。
「セルムラードへのルートはふたつありますね。ひとつはイルメーネ、オルレーネの国境沿いにゆくルート。こちらは街道ぞいですのでセルムラードの国境まで比較的安全です。もうひとつは森と山道の多いルートです。北上してニドキアという村を目指し、そこから西へ進んでカイル川を越えれば、首都のドレーヴェはすぐのはずです」
「どちらが早いんだ?」
「私も実際にはドレーヴェまで行ったことはありませんが、距離的には森を北上する方が半日くらいは近いのではないかと」
「では森だ」
 レークは即答した。アルディへの旅の間で危険というものは嫌というほど味わってきた。たとえ夜盗だろうが山賊だろうが、もう怖いものなどはなかった。

 レークの宣言した通り、ほんの半刻ほど休憩をとっただけで馬車はまた出発した。すでに夜半も過ぎ、町の外に出るとすぐに、辺りは濃密な闇に包まれた。
「眠たくなったら寝ちまってもいいぜ」
 隣に座るクリミナに、レークは少し照れくさそうに言った。
「もし、なんかあったら、その……オレが守ってやるさ」
「大丈夫よ。一日くらい眠らなくても。私も騎士として鍛練はしてきたのだから」
 きっぱりとそう言った彼女だったが、その体をそっとレークの肩に触れるくらいに寄せてきた。
「……」
 二人は座席で前を向いたまま、互いのかすかなぬくもりを肩ごしに感じ合った。それは、この旅を通して確かに二人が近づいた、その心の距離であったかもしれない。
 絆、というにはまだ、なにも確かなものはなかったが、お互いの中になにがしかの気持ちが生まれはじめたことは、どちらも気づいていたに違いない。
 パルドレールを出発してからほどなくして、街道の先に分かれ道が見えてきた。北へ伸びるその細い道の前には、「ニドキア行き」と書かれた、ごく小さな立て札があった。
「ここからは少し道が悪くなるようです。勾配も上りになるので少し揺れるでしょうから、注意してください」
 御者席のラズロが言うやいなや、馬車はガタガタと揺れだした。そこは正規の街道のように整備された道ではなく、草むらの上に車輪あとでできたような、道とも言えぬような道であった。
「おお、こいつはなかなか、のんびり眠ってもいられなさそうな道だな、おい」
 ときおり大きくガタンと車体が揺れ、クリミナの体が触れるのが嬉しくなくもなかったが、この揺れでは座席で仮眠をとるどころでもなさそうである。
「ここからそのニドキアって村までは、どのくらいかかるんだ?」
「たしかなことは分かりませんが、たぶん朝になる前には着けると思います」
 手綱をとるラズロは、暗がりの先へ続いている小道を見失わないように、巧みに馬車を操っている。あたりは草むらと林ばかりで、いったん道から外れてしまうと、迷ったままのたれ死にということにもなりかねない。
 道の勾配は少しずつ増してゆき、それとともに車体は丘を上ってゆくような感覚になった。窓の外はしだいに黒々とした木々に覆われ、ますます方向感覚がなくなってゆく。
 横に座るクリミナの手が、そっとレークの手に触れてきた。レークはその手をしっかりと握った。
 どこかで狼の遠吠えが聞こえた。木々の間からは、今にも赤く光る目が現れるような気がした。辺りはどんどん暗くなり、本当にここが道なのかどうかも分からないくらいに、前も後ろも森に包まれてゆく。地面にはごつごつとした岩が多くなり、馬車の揺れはますますひどくなった。
「どうも、この辺りが限度のようです」
 いったん馬車をとめ、ラズロが振り返って言った。
 なんとか岩を避けながら道なき道のような丘を上ってきたが、馬車で進めるのはこの辺りが限界のようだった。また、いくらムチを当てても、休みなしで丘陵を上り続けてきた馬の足は、もうほとんど動かなくなっていた。
「村まではもう少しのはずです。仕方ありません。ここからは馬車を降りましょう」
「そうしよう。どのみちこう揺れちゃ、車内で休んでもいられないしな」
 レークも馬車を降りて、ラズロを手伝って馬と車体をつなぐロープを外した。二頭の馬のうちの一頭は、口から白い泡を吹き、もうとても歩けそうもなかった。
「仕方ねえ。一頭はここに置いてゆこう。もう一頭は、一人くらいなら乗れそうだな」
 レークはクリミナに言った。
「あんたは馬に乗りなよ。オレが歩いて引いてやるからさ」
「大丈夫よ。私もそんなに疲れていないから」
「いいから、そら」
 クリミナの手を引き、体を支えて馬に乗せてやる。
「なんかさ。こうすると、お姫様を守る騎士みたいな気分だな」
「もう、レーク……」
 少し恥ずかしそうにクリミナは馬にまたがった。
 クリミナを乗せた馬を引き、レークとラズロはいっそう勾配のきつくなった山道を上っていった。
 辺りはいよいよ漆黒の闇に覆われて、道というよりは草むらの上にあるわずかな車輪跡だけを頼りに進んでゆくのは、ひどく心もとない。ごつごつとした岩の後ろに、なにかの影がさっと横切り、森の奥からはときおり獣じみた唸りのような息づかいが、どちらの方向からともなく聞こえて来るような気がした。
「なんつうか、どうも、物騒な気配がしやがるな」
「なにかいるのでしょうか」
「さあな。だがさっきから、近くになんかがこう……いやがるような感じがする。見ろ、馬も怯えているみたいだ」
 馬はときおり前に進むのを嫌がるように足を止め、首を横に向けた。それをなんとか引っ張りながら、勾配を上ってゆくのはなかなか体力がいった。
 雲間からふっと月が顔を覗かせると、その明かりを頼りにして道を外れていないかを確かめて、また山道を上ってゆく。だが道をゆくごとに、レークのいうその物騒な気配は、消えるどころか、もっと強まってきていた。
 それはまるで、こちらと歩を合わせるように、こちらが立ち止まると気配も止まり、動きだすとその気配もまた動きだすというような、なんとも気味の悪いものだった。
 立ち止まって耳を澄ませると、ハッハッ、という獣のような息づかいが、そう離れていない場所から聞こえる気がした。周囲の闇の中には、なにかが蠢くような確かな気配も感じられた。それもひとつふたつではない、たくさんの生きた気配がである。
「おい。なんだか、囲まれているみたいだな」
「このまま進んでもいいものでしょうか」
 やや不安げにラズロが言う。
「お前、剣は使えるな?」
「ええ、ただ……」
「なんだ」
「稽古以外で戦ったことはないのですが」
「まあ大丈夫だろう。どうやら、相手は人じゃあなさそうだ」
「いざとなったら、私も戦うわ」
 馬上から言うクリミナに、レークは安心させるように笑いかけた。
「大丈夫だ。お姫様を守るのが騎士の役目だからな。あんたには指一本触れさせねえよ。ええと、この場合は……ツメ一本、という方が当たっているかもしれんな」
「なにかがいるわ。ここから見回すと、木の向こうや岩の影なんかに、なにかが、たくさん動いている……」
 今や獣の息づかいがはっきりと聞こえていた。両側からも後ろからも、草の上を横切る黒いものが見えた。
「少し歩を早めよう」
「ええ、ですが……」
「どうした」
「どうも、さっきから思っていたのですが、いつのまにか道を外れているような気がします」
「なんだと」
 足元には道というには、ほんのかすかな轍の跡があるくらいで、周囲はいよいよ木々に囲まれて暗くなり、行く手に見えるのはただ、黒々とした森ばかりであった。
「この先は道がなくなっているような、そんな気がします」
「気づかないうちに道から外れて、森の中に入ってきていたってことか」
「申し訳ありません。自分もまるで気づきませんでした」
「無理もないさ。月が雲に隠れちゃ、あたりは闇の中だ。迷うなって方が難しいさ」
 レークは周囲を見回した。
「だが、どうするか。引き返そうにも、背後からもたくさんの気配が追ってきやがる」
 獣たちの息づかいと、草がこすれるいくつもの気配が、すぐ近くに感じられる。それは背後から、両側から、こちらを取り囲むようにして迫って来るようだ。
 馬は怯えたようにいななき、その場からいくら引いても動かなくなった。
「くそ……こうなりゃ、ここで戦うか」
 すらりと剣を抜くと、レークはクリミナの乗る馬を守るようにして、その前に立った。ラズロも剣を抜き放ち、緊張した顔つきで周囲に目をやっている。
「レ、レークどの。獣たちが……」
 闇にうごめく不気味な獣たちは、もう隠れることはやめ、彼らの前にその姿を現そうとするようだった。フッフッ、という息づかいと、獰猛そうな唸りが前後左右から大きくなり、それは少しずつ近づいてきた。
 あたりが月明かりに照らされる。
 すると、いくつもの光る赤い目が木々の間から現れ、その数は続々と増えていった。
「こりゃあまた、物騒なやつらに囲まれたようだ」
 剣を握りしめレークはつぶやいた。
 銀色の毛皮に鋭い牙……怒りの中にかすかな知性を感じさせるような赤い目をくるめかせ、その獣たちはこちらを取り囲んでいた。
「でかいな。ただの狼にしちゃ……」
「聞いたことがあります。コローデの森には山狼と呼ばれる恐ろしい獣が住んでいると」
「山狼……コローデの森だって?しかし、ここはそれよりもっと南の方だろうよ」
「ですが、山狼は丘や山間の森を好むとか。このあたりの地形ならば、それがいても不思議ではないかもしれません」
「かもしれんな。どっちにしろ、こいつらがオレたちを狙っていることには変わりねえ」
 二人が言葉を交わすその間にも、狼たちはこちらを取り囲みながら、少しずつその数を増やしているように見えた。一頭一頭が人間と同じほどの大きさもあり、それが何十匹も集まると、その存在の圧力はたとえようもない恐怖を感じさせる。
「たぶん、やつらだって馬鹿じゃねえだろう。剣を持った人間にいきなり飛び掛かってはきやしねえさ」
「そう……ですね」
 剣を構えながら二人は周囲を見回した。狼たちはこちらを窺うように、じっとその赤い目を光らせている。
「くそ。動くに動けねえな。かといって、ずっとこのままここにいては」
 レークが唇をかんだ。そのとき、
「レーク。狼が!」
 馬上からクリミナが指さした。
 右手前方にただらならぬ気配がした。そちらを見ると、ひときわ大きな唸り声とともに、狼たちがさっと動いた。その間から……一頭の山狼が現れた。
「こいつは……」
「お、大きい」
 レークとラズロが息をのむ。
 それは、小馬ほどの大きさもあろうかという狼であった。
 月明かりに光るような銀色の毛皮に、かなりの歳を経てきたような、ふてぶてしい面構え。赤く光る目の周りにはいくつもの傷があり、逆立てた耳には戦いの記憶を物語るような傷跡が残っている。
 居並んだ山狼たちの間に明らかに緊張の気配がみえた。どの狼も唸るのをやめて尻尾を垂らし、従順の証のようにいくぶん頭を垂れていた。その間をのしのしと歩いて来る、威風堂々たるその一匹は、間違いない、この群れのボスであろう。
 あの狼に襲いかかられれば、人間などはひとたまりもないだろう。剣を手にしたまま、二人はその場から動けなかった。
(くそ……ともかく、クリミナを守らないと)
 ちらりと見ると、彼女は馬上でじっと動かない。ぐっと口元を引き結んだその顔は、いくぶん青ざめて、一見平静を装ってはいるが、恐ろしさに耐えているのに違いない。
(オレが守るんだ……お前を)
 心の中でそう誓うと、レークは再び狼たちに目を向けた。
 ボス狼はゆっくりと右回りに歩きながら、こちらの様子を窺っていた。
「……」
 レークはなるたけ殺気を放たないよう注意しつつ、ぐるりと背後に回ってきたボス狼の気配に集中した。他の狼たちはボス狼の動きを見守るかのように、息をひそめるようにしてじっと動かない。
「レ、レークどの」
「しっ、声を上げるな……」
 こちらから動けば、狼たちが一斉に襲いかかって来るだろうことは分かっていた。さしものレークといえども、これだけの数の狼を相手に、剣だけで立ち向かうことには恐怖を感じずにはいられなかった。
 剣を握る手にじっとりと汗がにじむ。ボス狼はそのままゆっくりと右回りに動き、レークらのいる左側にきて、いったん足を止めた。
「……」
 狼たちと人間との静かな対峙……静寂の緊張ともいうべき時間が流れていった。
 再び月が雲に覆われると、あたりは漆黒の闇に包まれた。暗がりに目を凝らすと、こちらを見ている赤い目が、闇の中に浮かんで見える。
 不意に、すぐそばに獣の気配を感じた。
「……う」
 怯えたように馬がぶるるといななく。ほとんどもう手の届きそうなくらいのところ……、そこに大きな影がいた。
 レークはごくりとつばを飲み込むと、
「ラズロ、剣をしまえ」
「なんですって?」
「いいから。いう通りにしろ」
 そう囁くと、おもむろに自らも手にしていた剣を鞘にしまった。
「死ぬ気ですか。レークどの」
「そうじゃねえ。いいか。どっちにしろ、剣で戦っても、あの数の狼たちだ。オレたちの誰かが犠牲になるだろう。あるいは全員かだ」
「……」
「だから、ここは、一か八かだ。武器を隠して殺気を消すんだ」
「で、ですが……」
 すぐそばにある山狼の気配……その強烈な存在感には、何者をも威圧するような強さが感じられる。もちろんレークにも恐ろしさはあった。だが今は、ただ本能で感じた通りに行動する他にない。そんな気がした。
「わ、わかりました」
 いくぶん顔をこわばらせながら、ラズロも剣を鞘にしまった。
「よし。いいか、決して声を上げたり動いたりするな。もし、やつらに襲いかかられたら、オレたちは終わりだ」
「は、はい」
 レークとラズロは緊張に息をひそめ、その場に立ち尽くした。
 雲が動いた。
 目の前に立つ、その銀色の姿が月明かりに浮かび上がる。
 間近で見ると、山狼はおそろしく大きかった。もし上からのしかかられたら、人間などはひとたまりもないだろう。あの鋭い牙と爪で引き裂かれれば、人も馬もただの肉塊となって彼らの一夜の食を満たすことになるのだ。
「……」
 声を上げそうになるのをこらえながら、彼らはじっとそこに立っていた。
 山狼はこちらをじっと窺うようにしながら、一歩、二歩と近づいてきた。今やその鼻息が感じられるくらいの近さである。
「う、ああ……」
 顔をこわばらせたラズロが、がたがたと震える。
(声を出すな。こちらに敵意がないことを教えるんだ)
(はい……ですが、)
 山狼の威圧感は圧倒的だった。いったい何十年生きてきたのかという、なにものをも恐れぬような堂々たる気高さ、そして一種の神々しさが、その銀色の獣の体からは立ちのぼってくるようだった。
 まるで二人を見比べるようにしながら、山狼はさらに一歩近づいてきた。飛び掛かられれば、もはや剣を抜く暇もなく、その牙の餌食とされるだろう。
(ジュスティニアよ、助けたまえ……だ)
 レークは無意識に懐にある短剣を握りしめた。
(レ、レークどの……)
 山狼はくんくんとその鼻を鳴らし、こちらの匂いをかいでいる。それはまるで、どちらを先に餌食にするかと選別しているようにも思える。
「ああ……ああ」
 こらえかねたように、ラズロがまた呻きをもらした。
(しっ、声を上げるな)
「いや……だ。いやだ」
 ラズロはがたがたと体を震わせて呻きを上げた。彼の中では、恐怖と緊張はもう限界に近かったのだ。
「ラズロ、落ち着け」
「狼に食われて死ぬのは……いやだ」
 レークが止める間もなかった。
「あああっ」
 ラズロは剣を抜き放つと、それを振り上げていた。
 とたんに、山狼の赤い目が凶暴にきらめいた。
 「ワオオッ」という低い咆哮とともに、牙をむき出しにした赤い口がぱっくりと開かれた。周りを取り囲む他の狼たちも一斉にいろめきたち、凶暴な唸りを上げ始める。
「うわああっ」
 剣を振りかざすラズロ。
 山狼のボスが、その喉もとを狙って飛び掛かった。
 悲鳴と唸り声とがまじり、あたりに響く。
 鋭い牙がラズロの喉を切り裂くかに思えた、
 その刹那だった。



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