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 水晶剣伝説 X 暁の脱出行


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 ローブの裾を引きずりながら出てゆくと、門の外には緑の林が広がっていた。
 木々の梢では鳥が囁き、青い空にはゆったりと雲が流れてゆく。
「世界はこんなにも美しかったんだなあ」
 レークはしみじみと言うと、思い切り息を吸い込んだ。バステール監獄都市の恐ろしさを知った今となっては、外の世界が素晴らしく爽やかで自由に感じられる。
「うう……もう、あんなところは二度とゴメンだ」
 背後で再び閉められた門をちらりと振り返る。そのとき、カンカンという警鐘の音が聞こえてきた。
「やべっ、もうバレたのか」
「こっちだ。レーク・ドップ!」
 黒いガウンの女が馬上から手を振った。
「どうやらうまくいったようだな」
「おかげさんで」
「さあ、早く乗れ。もう、やつらも気づいたようだからな」
 レークは走り寄って、女の手を借りて馬の後ろに飛び乗った。
「しっかりつかまっていろ。丘を駆け降りるぞ」
 そう言うや、女は掛け声とともに馬腹を蹴った。
 女の腰につかまると、ガウンの外からでは分からなかったが、そのとてもほっそりとした体つきにレークは少し驚いた。
 女の巧みな手綱さばきで、二人を乗せた馬は、木々の間をすり抜けるように丘を下ってゆく。やがて前方に街道が見えてきた。どうやらもう追っ手の心配はなさそうである。
「なあ。これから、どこへゆくんだ?」
 背中越しに尋ねてみるが、女はなにも答えない。
「まあ、いいけどよ。あんたのおかげで助かったんだ。どこなりとも行くさ。ああ……監獄以外ならな」
「ならば、密書をこちらに渡してもらおうか」
「はっ、さっきから密書、密書って、そればっかだな。よほどあんたの主に忠誠を誓っているのか知らねえが、まあいい……ジュスティニアに誓って言おう。密書はもうここにはないよ」
「なんだと?」
 女が手綱を引いて馬をとめる。
「では、どこだ?どこにある」
「そりゃあ、まあ……」
 レークなんとなく己の勘から、もうこの女は敵ではないような気がしていたので、嘘をつくのはやめておいた。
「仲間に渡したのさ」
「仲間……そうか、船から一緒に逃げ出したという、女のことだな」
「へえ。そこまで知っているとは、ますますただものじゃないねえ、あんたも」
 女はそれには答えず、やや肩をすくめると、
「……ならば、話は簡単だ。その仲間の女はトロスにいる」
「なんだって?」
 今度はレークの方が驚かされた。
「トロス?あの都市国家のトロスか」
「他にどこがある」
「いったいどうして、そんなところへ。なにかの間違いだろう。だって、クリミナはグレスゲートへ……あわわ」
 口をすべらせたことに気づいたが、もう遅い。
「クリミナ・マルシィ。トレミリアの宮廷騎士長にして、宰相オライア公爵の娘か」
 手綱をとりながら女は静かにつぶやいた。
「やはり、そうだったか。トレミリアの剣技会優勝者であるレーク・ドップと共に、ウェルドスーブからアルディに入るとは、トレヴィザンも豪胆なことをさせる」
「あんたは……いったい」
 まるで何もかもを知っているような女の言葉に、レークは眉をひそめた。
「まあいいさ。ともかく、彼女はトロスにいる。私の……主とともに」
「主……」
 それが誰であるのか。そして、はたしてこの女のことをすべて信じてもいいものか。レークにはまだ完全には確信が持てなかった。
「では。急ごう。トロスへ」
 女は静かに言うと、軽く馬腹を蹴った。黒いガウンが風になびく。
 二人を乗せた馬は、街道を東へ向けて走り出した。

 しばらく進むと、道はゆるやかに北向きになり、勾配も平坦になった。海に近づいてきているのだろう、東から湿った風が吹きつけてくる。
 やがて、アルディの北の国境であるノイシス砦が街道の先に見えてきた。
 そこは砦とはほとんど名ばかりの、古びた廃墟のような城であった。アルディがジャリアと同盟してからは、北側の守りには気を配らなくなったからだが、それでも国境を出入りする人間をチェックするための、ごくわずかな警備兵は残っていた。
 二人の馬が街道を近づくと、いかめしく鎧を来た警備兵がのろのろと姿を見せた。滅多に通行のないこの街道に、いかにもうさん臭そうな黒いガウンの二人がやってきたのだから、怪しまれるのも無理はない。警備兵は、じろじろと検分するように二人を眺めていたが、馬上から女が差し出した通行証を見るや、その顔つきが変わった。
「ど、どうぞ……お通りを。どうぞ」
 うやうやしく頭を下げるその様子は、まるで絶対的な権力者の命を受けたものであるかのようだった。女の持っていた通行証にはそれだけの威力があった。レークはその内心で、ますます確信を強くした。
 二人の馬は国境を越え、さらに街道を北へと進んだ。
「おい、トロスへはこのまま陸路から入るつもりなのか?」
「まさかな」
 女は馬上で淡々と言った。
「どんな人間であろうとも、陸路でトロスに入れるものはいない」
「だろうな。名高いトロスの三重の城壁ってやつか」
 リクライア大陸の歴史上、もっとも古い都市国家がトロスである。言い伝えでは、東の超大国アスカを逃れた王家の貴族の一人が、独自の小国を作ろうと志した。それがトロスの始まりであるという。どこの国家に対しても頑に通商を拒み、入国の制限も非常に厳しく管理されていることで、現在では、トロスは独自の価値体系を持つに至っている。
 それはいわば、トロスを味方につければ、世界で最も安全な隠れ場所を手に入れるということでもあるのだった。
(謎の都市国家トロスか……オレも実際に城壁の中へは入ったことはないんだよな。あるいはアレンのやつなら……)
「あの川を越えれば、じき小さな港町に着く。そこからは船でゆく」
「おお、ちょうどいい。川で服を洗うとしよう。汚水の匂いでトロスの入城を断られたら大変だからな」
 二人は川沿いでいったん休憩をとることに決め、さっそくレークは汚れた服と体を川の水で洗い流した。
「ううむ。まだちっと匂うかな……なあ、どうだ。匂うか?」
「さあ」
「さあって、なんだよ」
 女は馬に水を飲ませながら、冷たく言った。
「別に私はどちらでもかまわない。お前がトロスに入れようが入れまいが」
「ちぇっ」
 レークは川べりの草の上に腰を下ろした。
「ところでさ、あんたはずっと、その頭巾をかぶったままなのかい?」
「悪いか」
「べつに、悪くはねえがよ。あんたってこう、どんなことを言っても刺で返すんだな」
「……」
 女は黙って首をかしげると、
「そうだな……ここまで来れば、もう平気だろう」
 顔を覆っていた黒い頭巾をおもむろに外しはじめた。
 とたんに、銀色の滝がこぼれ落ちた。
「……」
 レークは言葉を失って、あらわれた女の顔を見つめた。
 それはなんとも不思議な、そしてこれまでに見たこともないような類の美女であった。
 いや、美女というよりも美人というべきか。女でありながら、背丈はほとんどレークと変わらない。きりっとつり上がった目に、柳眉というのがぴったりの意志の強そうな眉、細面のどことなく中性的な顔つきは、しっかりと女性としての美しさも兼ね揃えている。そして、頭巾の中にしまっていた銀色の髪が、きらきらと輝いて黒いガウンの上に流れ落ちる様は、どうにもこの世の女とは思えないような、ひどく幽玄な気配を漂わせている。
「なにを見ている。私の顔はそんなに変か?」
「いや、そうじゃなくて……」
 レークは言うべき言葉が見つからず、ただじっと女の顔を見つめていた。
「あんたは……あんたは、誰なんだ?」
「私は私だ」
 女はきっぱりと言った。まるで馬鹿にしたようなまなざしが、こちらを見下ろしている。
「それは、そうなんだが……いったい、あんたは、どこの何者なんだ?」
「お前には関係ない」
 女の言葉はあくまで冷たかった。だがその口調さえもが、彼女には似つかわしいようにも思えるのだった。前に名乗った「アド」というのも、はたして本当の名前であるのかどうか。ただ分かるのは、彼女がこのアルディの人間ではないということだ。それはレークには賭けてもいい気がした。こんな銀色の髪をした色白の人間など、沿海のこの国にはいるはずもない。
「それに、そうだ……あんたはどうして、このオレの居場所が分かったんだ?オレがあのバステールの監獄にいることを、どうやって知ったんだ?」
「それも、答える必要はない」
 無表情のまま、女はそっけなくそう言うだけだった。
 釈然としないまま、レークはまた女が手綱をとる尻馬にまたがった。ともかく、トロスにゆけばなにかが分かるに違いない。

 二人の馬はさらに北を目指した。
 ここまで来ると、街道はほとんど道なき道のような状態で、ときに林の中を木々をぬって進み、ときにごつごつとした岩場を慎重に通り抜けてゆく。
 そして、日が傾きはじめるころになって、ついに視界の先に海が見えた。
「あそこに小さな港がある」
 馬上から女が指を差す。
「そこから船でトロスに入る」
「へえ。こんなところに港がねえ」
 ゆるやかな丘を下ってゆくと、確かに入り江のような小さな湾が見えてきた。
「まさかトロスへゆくのにこんなルートがあったとはな」
 だが、丘を下りきらないうちに、いきなり女が手綱を引いて馬をとめた。
 思わずレークは女の背中につんのめった。
「な、なんだ?どうした……」
「武器を持っているか?」
 女が静かに尋ねる。その声からは、なにひとつ危険は起こっていないかのようだ。
「いや。監獄でみんな取られちまった」
「なら、馬の上でじっとしているがいい」
 そう言って、女が地面に降り立つ。それとほとんど同時に、前方の茂みから、三人、四人と、剣を手にした男たちが現れた。
「こいつらは……まさか追っ手か」
「違うな」
「それじゃあ、いったい」
 さっと女がガウンをはね上げると、その両手に刀がひらめいていた。
(ほう、曲刀使いか……)
 弧を描いた刃をもつ曲刀(シミター)は、このあたりではなかなか見かけない武器だった。扱いも相当に鍛練が必要とされるが、技術を習得した曲刀使いは、戦闘の達人の域にまで己を極めているという。
(こいつはますます、この女……ただものじゃねえな)
 女が右手に持つのは曲刀であったが、左手にあるのはどこか奇妙な短剣であった。柄の部分に宝石がはまっており、まるで儀式用の剣のようだ。
(あの剣は……)
 どことなくレークには見覚えがあった。
(まてよ。ありゃあ……まさか、)
(水晶剣の短剣か?)
 アレンが持っているその剣を、レークは何度となく目にしている。女が手にしているのは、それと瓜ふたつのものであった。
(まさか。なんで……あの女があれを)
 馬上から食い入るように見つめるレークの前で、待ち伏せしていた男たちが、さっと女を取り囲んだ。彼ら全員が黒いローブを着ていて、その顔はターバンで半ば隠している。それは明らかに、追手の護民兵とは異なる姿だった。
(こいつらはいったいなにもんなんだ……くそっ。わからねえことだらけだ)
 武器を持った男たちに囲まれながら、女はいたって落ち着いているようだった。両手を左右に広げた構えで、まっすぐに剣を立て静かに立っている。
「やれっ!」
 一斉に男たちが襲いかかった。
 だが、剣が合わさる音は一度も響かない。
 まるで、踊りのような優雅さで女が舞った。
「うわああっ」
 血しぶきが飛んだ。
 ほとんど同時に、二人が地面に倒れ込む。
 次の瞬間には、また一人
「くそ……化け物だ」
 最後に残った男も、すでに腕に傷を負い血を流していた。片腕で剣を構え直そうとしているが、女の方は、もう勝負はついたとばかりに剣を下ろしていた。
(すげえな。なんて早業だ……) 
 馬上で見つめていたレークは乾いた唇をなめた。
 女の剣技は見事なものだった。扱いの難しい曲刀を、まるで自分の手のようにしならせて、相手が出す剣の横をすべるようにかすめてなぎ払う。スピードの点では、あるいは自分よりも上かもしれない。レークはそう思った。
(水晶剣の短剣を持っていることといい、この女……どうにもただ者じゃねえぞ)
 女は剣をしまうと男に背を向けた。
「く、くそっ。なめやがって!」
 背後から男が剣を振りかざした。それを振り向きもせずしなやかにかわすと、曲刀が風をきる音を立てた。
 ぴしゅっ、と血がしぶき、男の腕が飛んだ。
「うわああっ」
 剣を握ったままの腕が、ごろりと地面に転がる。
「ちくしょう……腕が、俺の腕があぁ!」
 絶叫し、のたうち回る男に一瞥をやり、
「終わった。さあ、行こう」
 曲刀を鞘に戻すと、女は静かに言った。
 襲撃者たちの血に濡れた地面を冷たく見下ろし、まるでなにごともなかったように手綱をとる。その女の背中を見つめながら、レークは訊いた。
「あいつらは、いったいなにものなんだ?」
「……」
「どうも、見たところ、オレを追ってきたというわけではなく、むしろ……あんたを狙っていたようだったが」
「私ではない」
 手綱を握りながら、女は淡々とした声で言った。
「あれはおそらく、私のお守りする方を狙っている連中だ。今の情勢では、あの方を狙う輩はいたるところにいるだろう」
「あのお方……」
 それが誰を指すのか、レークにももう、なんとなくだが分かり始めていた。東と西に分裂しかけているアルディの、この情勢を考えれば。
「なるほど。つまり、あんたは本来、そのお方ってのの護衛役というわけなんだな」
 想像通りならば、その人間がトロスにいて、そこにクリミナもいるということは、そう不思議なことではないような気がした。

 丘を下りきると、目の前には青い海が広がっていた。
 女の言う通り、小さいがちゃんと桟橋のある港には、小型のボートが停泊していた。それはごく小さいが、ちゃんと折り畳み式のマストもついた立派なものだった。
 二人は馬を降りてボートに乗り込んだ。
「おお、あれがトロスの城壁だな」
 海面の向こうに、夕日に照らされた白い城壁が見えた。城壁から突き出したいくつもの塔は、付近を航行する船を監視するようにそびえている。海からは攻めがたく、陸からはさらに難し、という言葉通り、半島を丸々城壁に囲まれた堅固な城塞都市、それがトロスであった。
「櫂は扱えるな?」
「あたぼうよ。ガレー船だって漕げらあ」
「では私は舵をとろう」
 紫色に染まりはじめた黄昏の空を見上げながら、二人を乗せたボートは、ゆるやかに海上を進み始めた。
 おそらく、トロスの城壁からはもうこちらの存在は見えていたのだろう。ボートが近づいてゆくと、突然奇妙なことが起こった。正面に見えている物見の塔の上で、白と青の旗が振られると、海面から大きな柵がゆっくりと上がり始めたのだ。
「おお、すげえ」
 レークは思わず櫂を動かす手を止めた。
「あそこが船の発着口だ。小型の船は城壁の内側へ続く運河を通れるようになっている」
「へえ。そいつは便利だな。さすが名高い先進国家トロスだ」
 柵が上がると、城壁には小型船が通れるくらいの空洞がぽっかりとあいた。ボートはそこを目指して進んでゆく。
「しかし、こうもすんなりとトロスに入れるなんて、信じられないな」
「この船は、トロス公王家の御用船なのでな」
「へえ。トロス公王家……なんてえか、あんたのご主人さまってのは、よっぽど気に入られているんだな。閉鎖的なトロスの王さまが、外国の人間にそうまでするなんてさ」
 女はそれには答えずただ巧みに舵をとる。ボートは城壁の穴にさしかかった。
「マストをたたむぞ」
「おお。すげえすげえ」
 マストを下ろしたボートが、城壁の穴に飲み込まれるようにゆっくりと入ってゆく。
 トンネルを抜けると、目の前が明るく開けた。
 そこに、信じられないような光景があった。
「おお。川だ!」
 それは角石を敷きつめて作られた人工的な運河だった。小型の船舶であれば悠々と行き交えるくらいの幅があり、それがまっすぐに都市の中心に向けて続いている。
 運河の両側は広場になっているようで、そこには規則正しく木々が植えられ、庭園のように美しく整えられていた。その向こうには都市の中心部であろう、石造りの塔や建物の屋根屋根が並んでいる。それはなんとも美しい、近代的な町並みであった。
「こいつは驚いた。トロスってのは、もっと……砦みたいに、ごつごつとした町だとばかり思っていたんだが」
 レークはボートから身を乗り出すようにして、周囲に広がる景観を見回した。
 謎に包まれた都市国家……トロスの内側を、このように実際に目にすることはもちろん初めてであったし、それが想像以上に近代的な都市であることに、驚きを隠せなかった。
「トレミリアのフェスーンも、相当きれいな都市だと思っていたけど、こりゃあ、そういうレベルじゃねえな。なんつうか、まるで……まるで、楽園みたいだ」
 それも決して大げさな表現ではなかっただろう。リクライア大陸においては最も古い都市国家として誕生したトロスは、それ以来、数百年にわたって他国からの侵略を許したことはない。名高いトロスの三重の城壁や、徹底した防衛戦術により、都市の内部を敵に蹂躙されることは決してなく、あのジャリアですらもトロスには手が出せず、その存在をただ黙認せざるをえないのだ。
 また、トロスは東の超大国アスカを唯一の交易相手とし、西側諸国の情勢には無縁とばかりに、閉じられた壁の内側でひっそりと歴史を刻んできた。それもこの都市をミステリアスな伝説と化している要因であった。西側とのいくさにはもちろん、国同志の通商にも交わらず、それでも二百年以上にわたって豊かな平和を謳歌し続けているこの都市は、確かにある意味では、楽園のような場所であるといってよかった。
 そして、分裂するアルディで革命を起こそうという人物が、一時的に身をひそめるには、これほど都合のよいところもないであろう。
 都市の中央部までくると、運河は大きな人口湖のようになり、そこで終わっていた。円形の人口湖の岸には、放射状に桟橋が並び、そこにはずらりと色とりどりのガレー船が停泊していた。それはなかなか壮観な光景だった。
 二人のボートは、そのうちのひとつの桟橋に着けられた。
 ボートを降りると、トロスの守備兵らしきものたちがただちにやって来た。女はそれに自身の通行証を見せてあれこれと説明すると、守備兵は改まった態度で下がっていった。
「さあ、こっちだ。レーク・ドップ」
 こちらを呼ぶ女の声が、いくぶん弾んでいるのは気のせいだろうか。女の後について石段を上ってゆくと、そこは綺麗に整備された歩廊になっていた。
 散策もできる庭園にもなっているようで、歩道の周りには緑の樹木が整然と植えられ、カルヴァやバーベナなどの花々が華やかに花壇を彩っている。
 まっすぐに続いている歩廊の先には、この都市すべてを見下ろすようにして、公王の城がそびえていた。トレミリアのフェスーン城のような壮麗さはないが、四つの主塔を配した、いかにも堅固な造りの城である。
 城へと続く歩廊の先から、こちらに向かって歩いて来る人影があった。護衛らしき二名の兵士を両側に連れている。
 その人物が視界に見えたとたん、レークの横で女がひざまずいた。
「お、おい……」
「ウィルラースさま」
 女がつぶやく。
「ウィルラース……あれが」
 レークはその人影に目を凝らした。
 ウィルラース・パラディーン……アルディの革命貴族として名高い人物であり、トレヴィザンから託された密書を渡すべき、その当の相手でもあった。
「アド」
 近づいてきた相手は、やわらかに微笑みを浮かべた。
 そこに貴公子が立っていた。
(こいつが、ウィルラース……)
 それは、貴公子としか、言いようのない姿だった。
(なんて……)
(なんてえ、綺麗な男なんだ)
「アド、よく戻ったね」
 声をかけられると、ひざまずいた女の頬がぱっと染まった。
「はい……はい」
(なんだ?なんだ……おい)
 さっきまでとはうって変わった女の様子に、レークは思わず口もとを歪めた。
 しかし、それも無理はなかった。それほどに、目の前に立っている貴族は、特別であったのだ。
(ウィルラース卿か……たしかに、これは)
 アマランサスで染めた色の赤いローブに身を包み、長く伸ばしたブラウンの髪が、ふわふわとして肩の上で揺れている。そしてその顔だちは、一見するだけでは男性とも女性とも判別しかねるほどの、それは完璧な美しさであった。
(いやはや、こんなに美しい男ってのが、実際にいるんだな)
 アレンという美貌の相棒をよく知るレークですらも、はっとするだけの容姿である。それも、ただ綺麗なだけではない、きりりとつり上がった眉や、緑がかった青い瞳とともに、どこか沿海の国独特なおおらかさと、艶めいた妖しさ、そして異国的な雰囲気も漂わせているのが、また魅力的であった。
「こちらが、例の……レークどのかな?」
 エメラルドの飾りが入った縁無し帽に軽く触れると、美貌の貴公子はこちらに目を向けた。
「トレミリアのクリミナどのから話は伺っている」
「それはどうも」
「私がアルディのウィルラースだ。よろしく」
 差し出された手を握ると、やわらかくなめらかな、まるで女のような感触だった。
「アド。さあ立って」
「はい」
 女はまるで従順な女官のように立ち上がった。だが、彼女はまだ相手と目を合わせることはできず、あごを引いたままうつむいている。その様子は妙に可愛らしい。
「ご苦労さま。こうしてレークどのを連れてきた。君は見事に任務を果たしたよ」
「はい。ウィルラースさま」
 またしてもぱっと頬を染めるその様子に、レークはもう分かった。この貴公子のためなら、きっと彼女は己の命すら投げ出すだろうと。それはあるいは、ただ主への敬愛以上のものなのだろうということも。
(まあ、無理もねえだろうがな。こんな美貌の男に仕えてりゃ)
「ともかく、二人とも疲れたことでしょう。まずは一休みをなさって、話はそれからにしよう」
「そりゃ、ありがたいね」
「フサンド公王にも事情は話してある。君のための居室も用意させてあるよ」
「どうも」
 いきなり「君」呼ばわりされることに、レークは内心では気分がよくなかったが、顔には出さなかった。もともとは美形の男というものに、あまり好感を覚えないたちである。長年の友であるアレンを除いては。
「では、ゆきましょう」
 二人の護衛に守られたウィルラースについて、レークは歩廊を歩きだした。アドはその後ろを一歩下がってついて来る。それもまた、自分の仕事をわきまえた様子であった。
「ところで、レークどの」
 ウィルラースがつと肩を寄せてきた。
「例の、密書はお持ちでしょうな?」
「ああ、あれは……クリミナが」
「おや。彼女はあなたが持っていると言っていたが」
「そいつは……」
 レークは眉を寄せた。確かに、密書はあのときクリミナに渡したはずだったが。
「どうなってるのか、オレにも分からない」
「ふむ。どういうことだろう」
 ウィルラースは首をかしげ、ゆったりとしたローブの袖を軽くまくり上げた。そんなしぐさひとつですらも、じつに優雅であった。
「それで、クリミナはどこにいるんだ?」
「ああ、彼女にも君の到着は知らせたから、もうすぐここに……おや」
 ちょうど歩廊をこちらに向かって駆けてくる姿が目に入った。
「もうお越しだ。さすがはトレミリアの女騎士。迅速だね」
「……」
 レークの見る前を、栗色の髪をふわりとなびかせ、長スカートの裾をもどかしそうにたくし上げ、走って来る……それはまぎれもない、彼女であった。
「クリミナ」
 レークはその名を呼んだ。街道で別れてから、数日ぶりの再会である。だが、そのなんと長く感じられたことだろう。
「レーク」
 息をきらせた彼女が目の前に立っていた。前と変わらず美しく、その目をきらきらと輝かせて。
「よう……」
「ええ」
 二人は互いに一歩ずつ踏み出した。
 どちらからともなく手を差し出すと、ごく自然に抱き合った。
 相手の鼓動をすぐ近くに感じる、たとえようのない安堵感……自分は戻ってきたのだ、という不思議な感動がじわりと押し寄せる。
「よかった。あんたが、無事で」
「こっちこそ……すごく心配したのよ」
 顔を見合せると、二人は照れたようにはにかんだ。
「でもレーク、ちょっと……臭いわ」
「ああ、すまねえ。監獄でさ……いろいろあったもんで」
「監獄!そんなところにいたのね。なんてことかしら。でも、よくこうして抜け出せてこれたのね」
「まあな。そっちの……アドか、彼女に助けてもらったりさ」
「ああ、そうなのね」
「ところで、例の密書は持っているか?」
「もちろん。ここに……」
 クリミナはいきなりスカートをまくり上げた。
「おい……」
 目のやり場に困るようなレークの前で、彼女はペチコートの下から細長い筒を取り出した。
「これでしょう」
「クリミナどの」
 ウィルラースが、その整った顔をかすかにしかめた。
「あなたは、それはレークどのが持っていると、そうおっしゃっていたが」
「ええ。でも、そう言わなくては、ちゃんとレークを助けて、ここに連れてきてくださることは、なかったかもしれませんでしょう?」
「それは、また……」
 美貌の貴公子は、してやられたというように、くすりと笑った。
「いやもちろん、どうあってもレークどのは救い出しましたとも。彼が密書を持っている、いないに関係なく」
「そうでしょうとも」
 クリミナはやわらかに微笑むと、密書の入った筒を差し出した。


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