5/10ページ 
 

 水晶剣伝説 X 暁の脱出行


X

 船は順調に東へ進んでいた。
 この分であれば、予定通りに夜のうちにはアルディの西側を通過できるはずである。
 だが夜半になると風がやみ、船の速度は急激に落ちた。
 帆船は、ガレー船のように櫂で漕ぐことはできない。あくまで風まかせである。帆の角度を変えながら、なんとか風を捕らえようとする船員たちは、誰もが年季の入ったベテラン船乗りたちであったが、そんな彼らでさえも、すっかり風が止んでしまった凪の状態ではどうしようもなかった。あとはただ、また風が吹くのをじっと待つしかない。
「なんだか、いっこうに進まねえな」
 レークはしびれを切らしてハンモックから降りると、船室のドアから顔を出した。くれぐれもあまり目立たぬよう、他の人間と関わらないようにと、出発前にトレヴィザン提督から言われていたのだが、さすがにただじっとしているだけというのは息がつまった。
「ちょいと様子をみてくるぜ」
「あ、ちょっと。レーク……」
 クリミナが止める間もなく、彼はネコのようにひょいと部屋の外へ出ていった。
「もう……」
 船室に一人になった彼女は、ほっと息をついた。
 レークとの再会も束の間、今度はこのように二人して旅立つこととなり、内心ではかなりの緊張があったらしい。レークがアルーズとともにスタンディノーブル城へ向かってからというもの、不安と心配に包まれて毎日を過ごしていたのだから。
(人の心配も知らないで、相変わらず飄々としているんだから……)
 彼女の気持ちを知ってか知らずか、レークの方は城での戦いのことを、ほとんど話そうともしない。彼がトレヴィザン提督に報告がてらに話した内容からは、とてつもなく危険を侵して行動していたことが察せられる。それを横で聞きながら、内心で一人どきどきとしていた彼女であった。
(いつだって、行き当たりばったりで、危ないことを平気でするのね)
 彼女自身とて、騎士として剣を手に戦うにはなんのためらいもないが、しかしレークのようにその場その場で、危険も省みずにとっさに思いつきの行動をすることは、とてもできないのではないかという気がする。
(なんだか、私はいつもはらはらしているわ。次に彼がどんなことを言い出して、なにを始めようとするのかを)
(だからせめて、こうして近くにいれば……遠くで余計な心配をして不安になることもない。そう……思うのだけど)
 それが、どういう気持ちであるのか、彼女にはよく分からなかった。まるで腕白坊主をもった姉のような気分のときもあれば、とてつもなく腕の立つ剣士として、それが同じ宮廷騎士であることを誇らしい気になることもある。とくにトレヴィザン提督が、彼の勇敢さを認めたときなどはそうであった。
(私は……騎士として、すでに彼を認めているということなのかしら)
(でも、それだけでなく……)
 相手を好もしいと思うということには、まだ抵抗があった。
(だって、なにしろ、あいつは元は浪剣士なのだし)
(いいえ。そういうことではなく……)
 クリミナは思わず赤面した。
(なんで、こんなことを……考えるんだろう)
(きっと、今はこんな格好をしているから、ちょっと違う気分なのだわ。きっと……)
 普段はまったく身につけないペティコートに長スカートという、いかにも女性らしい自分の姿を見下ろし、つい苦笑する。
(ちょっと前だったら、たとえこういう役割だとしても、断固として騎士の姿で通したかもしれないわね)
 それが、いつごろ前だったらのことなのか。レーク・ドップというおかしな剣士が現れてからなのか、そうでないのか。彼女はそれについては考えないことにした。
 かすかなノックの音、
「レーク?」
 クリミナははっとして顔を上げた。
 だが、そっと開いたドアから顔を覗かせたのは、見知らぬ女性であった。
「あ、あの……」
 女性はひどくおびえた様子で、おずおずと部屋に入ってきた。帽子をかぶった少年を連れている。
「お、お願いします。どうか助けてくださいませ!」
 手にしたカンテラを床におくと、女性はいきなりその場にひざまずいた。
「ええと。どちらさまですか?」
「どうか……どうかお助けくださいませ」
 クリミナの問いには答えず、女性はただそう繰り返すだけだった。
「私たちは……ミレイからの旅行者ですけど。もしかして、部屋をお間違えでは?」
「いいえ、いいえ。この船の一等良い部屋におられる方に助けを求められられよと、そう助言されたのです。どうか、お助けください」
「助言って、誰から?」
「それは……申せません」
 女性は訴えるような切迫した目を、クリミナに向けた。
「もうすぐ、サンバーラーンに着きます。この分では、それまでに夜が明けてしまうでしょう。そうしたら……おお、大変なことになる」
「ちょっと、落ち着いてください。なにがどういうことなのか、できればちゃんと説明していただけないかしら。でないと、私たちにも旅の目的がありますし、助けられることならそうしてあげたいけど、そうもいかないかもしれない」
「そうですね。おお、そうです。あなた様がとても冷静な方で良かったですわ」
 女性は両手を組み合わせた。
「ともかく、こちらにお座りになってはいかが。そちらのぼうやも」
「ありがとう」
 さっきよりもいくぶん落ち着いたように、女性は礼を言い、連れていた少年を椅子に腰掛けさせた。沿海の女らしい、白いフードのついたローブを着ていて、見るところまだ中年というほどには歳はいっていないようだが、虚空を見つめるその顔はひどく疲れた様子であった。ちょこんと腰掛けている子どもの方は、深々と帽子をかぶっていて顔つきはよく分からなかったが、とてもおとなしく、そしてどことなく品が良かった。この二人が親子でないことは、クリミナにはすぐに見て取れた。
「ええと、まずなにから話してよいか……いいえ、あまり話してはいけないこともあって、なかなかご説明しづらいのですけれども」
 女性はそわそわと両手をもみ絞りながら、考えを整理するように話しだした。
「このお方は、じつはさる高貴なお生まれのご子息で、いろいろとあの……訳があるものですから、正確なことは申せませんのですが……ともかく、私はこの方の侍女というか、母がわりのようなものでございます」
 横に座る少年は、女性の言葉にもただおとなくしく人形のように座っている。
「それであの、ゆえあってウェルドスラーブで暮らしておりましたが、この度アルディの方にお戻りになることになりまして」
「つまり、この坊やは、アルディの出身ということなのですね」
「え、ええ……そう申していいものかどうか」
 女性はしどろもどろに答えた。できることなら、それも隠しておきたいことなのだろう。
「おお、船が動きだした。でも、夜明け前にサンバーラーンを通過するのは、もう無理かもしれません」
「首都のサンバーラーンに着くのを恐れておられるようだけど、」
 クリミナは首をかしげた。
「ではこの坊やはサンバーラーンではなく、その先のグレスゲートまで行きたいのかしら。そうすると、私たちと同じということね」
「ええ。そうなのです。サンバーラーンでもし船から降ろされると、とても……おお、とても大変なことになります」
 女性は恐ろしそうにぶるっとその体を震わせた。
「この船ならば、夜のうちにサンバーラーンに寄港して、すぐに出航するものと思っていましたけど。夜明けになれば、港では検閲があるでしょう」
「今はいくさだから、他国からの船には、当然厳しいチェックが入るでしょうね。積み荷はもちろん乗組員も調べられるでしょう」
 それも考慮に入れて、一般人の旅行者の夫婦になりすますことにしたのだ。アルディの検閲を恐れているのは、クリミナたちもまったく同じであった。
「ではあなた方は、アルディの方なのに、そのアルディの検問を恐れているということなのね」
「それは……その」
 女性はうなずくでもなく言葉を濁した。この少年のことがとても心配なのだろう、その肩を抱くようにしながら、「大丈夫ですよ」としきりに囁きかけている。
「どうか、お助けください。じつはアルディへの正規の通行証は一枚しか持っていないのです。この通行証と一緒に、このお方をあなた方にお預けできないかとお願いしたくて」
「それではあなたが捕まってしまうのでは?」
「私のことなどはいいのです、このお方を、東アルディに送り届けていただけるのなら、私のことなどは」
「……」
 アルディが現在、東側と西側に分裂しかけていることは半ば公の事実であった。では、この少年は東側の貴族の血筋でも引いているのだろうか。
「どうか、重ねてお願いいたします」
 クリミナは女性の顔をじっと見た。
 おどおどとして不安そうな様子ではあったが、今の言葉通り、この少年のためなら命もかけるだろうという、そんな決意も目の奥の光には感じられた。
(なにか、面倒なことにならなければいいけれど)
 だが、女性の言うように、このままサンバーラーンに着いてアルディ海軍の検閲が入れば、通行証のないことで怪しまれ、悪くすれば連行されてしまうだろう。そうなると、おそらくこの少年の存在が知られることが、大きな問題となるなにかがあるのかもしれない。
(でも、それは私たちも同じ。トレヴィザン提督より託された密書がアルディに知られてしまっては、この使命はすべてが終わってしまう)
 クリミナは素早く考えた。どうすればいいのかを。
 ちらりと、少年の方を見ると、その口元にはかすかな微笑が浮かんでいるようだ。自分の立場やこれからの困難などは、まったく考えていないような。
「どうか……」
 女性が重ねて言いかけたとき、ドアが開いてレークが部屋に戻ってきた。
「おっ、誰だい。お客さんか。この海の上で珍しいこった」
「ええと、レー……いえ、あなた。こちらは、私たちと同じ、グレスゲートに向かう方たちで。ちょっと訳があるんですって」
「へえ、そうなのか」
 レークは目を丸くした。彼には客人のことよりも、クリミナから「あなた」と呼ばれたことの方が驚きなのであった。たしかに夫婦という設定であれば、他人がいるときにはそう呼ぶのが自然なのだろうが。
「あー、その……お、お前」
 妻に話しかける夫としては、ひどく照れくさそうである。
「やっといい風が吹き出したんで、この分なら夜明けと同じくらいにはサンバーラーンに着くそうだぜ。そこで積み荷を下ろしたら、ただちにグレスゲートへ向けて出発するということだ」
「そうなのね、あなた。ところでこの方たちはね」
 クリミナから説明を聞くと、そういうことかとレークはうなずいた。
「はーん。そういうわけか。まあ、いいけどな。どうせオレたちもそっちへ行くんだし」
「それでは、お願いできますでしょうか。グレスゲートの港に、迎えのものが来ることになっていますので、そこまで送り届けていただければ」
「しかし、この坊やが本当はどこのえらいぼっちゃんだろうとさ……」
 クリミナの横にじっと座っている少年をじろりと見て、
「人にものを頼むときには顔くらい見せろってんだ」
 レークは女性が止める間もなく、いきなりその帽子をむしりとった。
「……」
 少年はぴくりとも動かず座っていた。その目が静かにレークの方に向けられた。
 感情のこもらない、青いガラス玉のような目。茶色みがかった金髪の髪は丁寧に切り揃えられ、整った顔だちはいかにも貴族の少年めいていて可愛らしい。
「な、なにをなさいます……無礼な。このお方は」
「誰なんだい?」
 レークは少年の顔を覗き込んだ。
「たいそう綺麗な顔をしているな。うん……そうだな、どことなくアレンみたいだ。まあ、あいつよりもずっと可愛らしいが。そりゃ、子どもだから当たり前か」
 じろじろと見られても、少年はいっこうに黙ったままで、かすかにその首をかしげただけだった。
「おい、このぼっちゃん。どっか頭がおかしいのかい?全然しゃべらないけどさ」
「ぶ、無礼な……なんということを。そんなことはありません」
 女性はレークの手から帽子を取り返すと、それを丁寧に少年にかぶせた。
「大丈夫ですよ、クレイ様。なにも怖いことはないですよ」
「クレイ様ってのか。その坊やは」
 おそらく正式な名ではないのだろうが、名前を呼ばれると、無表情だった少年の目にかすかに光が宿ったようだった。
「オーケイ。じゃあ、クレイ坊やって呼ぶことにするぜ。その坊やをグレスゲートまで連れてゆく。それでいいんだろう」
「お願いいたします。それから、どうぞくれぐれもこのお方にご無礼のないよう」
「はいはい。分かったよ。それから?」
「あとは、もしなにかを尋ねる場合は、クレイ様とお名前を言ってから訊いて差し上げてください。そうしないと、誰に訊いているのか分からないと思いますので」
「なんつうか、面倒なおぼっちゃんだな。本当におつむの病気じゃあないのかい?」
「いいえ。クレイ様は、ちゃんと言葉も理解されますし、ご自分のお考えもお持ちです。ただ……ちょっと、感情の表現が苦手な方なのです」
「へえ。さっきからまったくしゃべらないから、耳も聞こえないし口もきけないのかと思ったが、そうじゃないのか。おい。クレイの坊ちゃん」
 レークが呼びかけると、少年の目がこちらを向いた。
「なんか言えねえのか?」
「……」
「お願いしますでも、お世話になりますでも。なんでもいいからさ」
 だが、少年はじっと黙ってレークを見ているばかりだった。
「ちぇっ。薄気味悪いガキだな」
「そ、そういう失礼なことは……」
「そうよ、あなた。失礼だわ」
 クリミナが少年をかばうように言った。
「きっとなにか訳がおありになるのよ。それに、とてもおとなしいし、可愛らしい坊やだわ。ね、クレイ様って呼んでもいいのかしら?」
「……」
 すると、少年の頬にぽっと赤みがさした。ゆっくりと、その頭が動いてうなずく。
「おお。動いた。人形じゃあないんだな、やっぱり」
「あなた。そういうことは言わないで。ねえ、クレイ様」
「ちぇっ。女にはちゃんと返事をするんだな。ガキのくせにもう色気付いていやがる」
 なんとなく面白くない気分だったが、レークにもこの少年がどうもただの子どもではないような気はしていた。そして少年をグレスゲートまで届けるとなにが起こるのか、それにも興味があった。
「まあいいや。駄々をこねたり逆らったりと、面倒なガキよりはよっぽどいいかもな。それじゃあ、どうする?検察に訊かれたら、こいつを俺たちの子どもだって説明するかい?そりゃあ、ちょっと無理があるかもなあ」
 少年の歳は十歳前後であろうが、自分とクリミナが夫婦という設定にしては、あまりに大きな子どもである。せめて自分たちを三十歳くらいに偽らないかぎりは。だが、レークもクリミナは、見た目もそれなりにハンサムとなかなかの美人であるし、それにとても若々しく、歳より下に見えはしても、十歳ほども歳を上げて偽るのはとても無理に思えた。
「子ども。レー……いえ、あなたと、わたしの?」
 ぱっと顔を赤らめたクリミナを見て、女性が首をかしげながら尋ねる。
「あのう、お二人は本当に御夫婦なのですよね?ミレイからの」
「ああ。そういうことになっ……いや、その通り」
 レークは慌ててうなずいた。
「では、きっと大丈夫ですよ。最近では若いうちに結婚して子どもを産む人たちも増えているし。とくにミレイなどの沿海の自由でおおらかな気風なら、あなた方くらい若い子持ちの夫婦も不自然ではないでしょう」
「そ、そういうものなのかしら」
 クリミナはどきまぎしながらちらりとレークを見て、それから少年を見た。
「では、どうかお願いします。もうそろそろサンバーラーンに着いてしまいますので、私はこれで戻ります。あ、くれぐれもクレイ様を丁重に扱ってくださるよう。繊細な方なので。そしてグレスゲートに着くまでは、なるべく帽子をとらずに、顔を見せないように」
 それから女性は、最後に少年を抱きしめると、
「クレイ様。ここでお別れです。ここからはあなた様はこのお二人を頼りにしてください。どうかご無事で。そして……いつかまたお目にかかれますことを」
 涙をこらえるように別れを述べ、急いで立ち上がった。
「それでは、どうかよろしくお願いいたします。このお礼はいつか必ずいたします」
「お礼なんていいけどよ、あんたはどうなる?通行証がないんじゃ、見つかったら捕まって、悪くすりゃ監獄送りになるんじゃあねえのか」
「いいんです。私はどうなろうとも。その御方を無事に送り届けられるのなら、私の命などどうでも……」
「そいつは……また」
 決意に満ちた女性の言葉に返す言葉がみつからなかった。彼女がそこまでして助けようとするこの少年は、いったい何者なのだろう。
 悲しげな微笑みと、少年への慈愛に満ちたまなざしを残して、女性が部屋を出てゆくと、レークとクリミナは思わず顔を見合わせた。
「なんだか、おかしなことになったもんな」
「ええ」
 二人の横には、さっきから一言も声を発せぬまま、ちょこんと少年が座っている。その顔には、なにを考えているのか計り知れないような無表情の上に、人形めいたかすかな微笑が浮かぶだけだった。

 水平線に陽光のきらめきが現れ、洋上が明るくなり始める頃に、船はサンバーラーンの港を視界にとらえた。
 アルディの首都であるサンバーラーンは、ウェルドスラーブの首都レイスラーブと並ぶ大陸屈指の港町である。商業用の大型帆船が港の沖合に何隻も停泊し、港と船を連絡するボートがたくさん行き交うのがその普段の光景であるはずだが、ただ、今はそうした商船よりも港の周囲にはパトロールの軍用ガレー船が多く見られ、いくさの緊張を感じさせた。
「さって、予定よりだいぶ遅れたようだが。アルディの首都に到着だ。今はもう、ここはジャリアと同盟する敵国だからな。よけいなお荷物を預かっちまったけど、無事にグレスゲートまで行けることを祈ろうぜ」
「お荷物っていう言い方はひどいでしょう。ねえ、クレイ様」
 少年がこくりとうなずく。クリミナの言うことにはちゃんと従順に反応するのだが、それがレークにはやや癪に触った。
「へっ、そうやってママに甘えてりゃいいさ。オレの方は厳しい親父でいくからな」 
「まあ“あなた”、いくら元浪剣士だからといって、子どもにまで荒っぽい教育はなさらないでくださいな」
 妻になりきったようなクリミナの言い方に、レークはぷっと吹き出した。
「ああ、分かったよ、“おまえ”。オレだって、少ないかせぎで子どもを育てるつらさから、つい荒々しくもなっちまうが。せめてこいつを、立派な剣士に育ててやらにゃあな」
「そうですわね」
 二人は顔を見合わせると、くすくすと笑い出した。
 船が港に停泊すると、やはりというか、当然のようにアルディの政府軍による積み荷のチェックが行われ、船の乗員は全員が甲板に引き出された。
 レークとクリミナは、いかにも夫婦らしく仲良さそうに寄り添って、一人一人の乗員をチェックしてゆく鋭い目つきのアルディの兵士に、なるたけにこやかに微笑みかけながら通行証を見せた。
「ふむ。ずいぶん若い夫婦だな。旅行者か?」
「ええ、まあ。ミレイから、グレスゲートに住んでいる親戚に会いにゆく途中で」
 兵士はじろじろと二人を見て、それからクリミナと手をつないでいる少年に目をとめた。
「これは、お前たちの子どもか。通行証は?」
「ええと。はい、こちらで」
「ふむ。確かに、正規のものだな。しかし……どうも変だな」
「な、なにがでしょう?」
「お前たちの子どもにしては、ずいぶんと大きいが」
「それは、あの……自分はこれでももう三十歳でして」
 レークは必死に言い訳をした。
「この子は二十歳の頃の子どもで、そのころ妻は十八歳でしたから、まあずいぶんと若い子持ちだと、周りからさんざん言われて……なあ、お前」
「はい。あなた」
「その子どもの帽子をとってみろ」
「ええっ。そ、それは……いけません」
「なぜだ」
「それは、つまり……この子は太陽の日差しがとても苦手で、この通り、いつも深く帽子をかぶっていないと、それは大変なことになっちまいますんで」
「ほんの少し顔を見るだけならかまわんだろう」
「う……それも、ですから、ヤバ……いえ、まずいというか」
 この少年の髪の色、目の色を見られれば、自分ともクリミナとも似ても似つかないのがひと目で分かるだろう。そしてまた、それ以上に大変なことになるのだということを、なんとなく予感していた。それはこの少年の身分や血筋に関係する、重大な秘密なのだということまでは、まだ知らされていないにしても。
「どうした。なにがまずいのだ?」
「そ、それは……その」
 レークは背中にたらりと汗が流れ落ちるのを感じた。
「怪しいな。では、ひとまずお前たち全員を連行するぞ」
「お待ちください」
 クリミナは、革袋から取り出したものをさっと兵士の手に握らせた。
「これで、どうか……」
 それは数枚の金貨だった。
 兵士はじろりとクリミナを睨んだ。
「私たちは怪しいものではありません。ミレイからきた、ただの旅のものです。この子もそうです。それで、信じていただくわけにはいきませんか」
「おい。どうした、なにをもめているんだ」
 こちらの様子に気づいた別の兵士が、つかつかと甲板を歩いてきた。
「なにか怪しいものでもいたのか?さっきも向こうで通行証を持たない女を一人捕まえたが、ここにもそういう輩がいたか」
 レークとクリミナは密かに目を見交わした。やはり、少年を連れてきた女性は捕らわれたのだ。彼女にどんな運命が待っているかは、想像したくもなかった。
「……」
 クリミナの手が、ぎゅっとレークの手を握りしめた。
「いえ。大丈夫であります」
 手の中の金貨をさっと懐に入れると、兵士は無表情に言った。
「正規の通行証もチェックしました。問題はありません。お前たち、行ってよし」
 それを聞いたとたん、レークは体から力が抜けそうになった。
 それでもほっとした顔は見せないよう、クリミナと少年の手を引いて、急いで船室に戻ったのだった。
「ふいー、ひやひやしたぜ。まったく」
 船室に入ると、レークはその場にへたり込んだ。
「しかし、やっぱ金は万国共通の手形だな。助かったぜ」
「ええ。捕まらずにすんでよかったわ」
 ほっとしたようにクリミナも椅子に腰掛けた。彼女の手を握る少年の方は、この切迫した事態にもさして不安な様子もなく、見かけは変わらず静かでおとなしかった。
「でも……これで済めばいいけれど」
 そうつぶやいたクリミナの不安は当たった。
 船室でいくら待っていても、いっこうに船が動きだす気配がないのである。
「くそっ、いつになったら出発するんだよ、この船は」
 さすがにいらいらとしてきて、レークは立ち上がった。
 状況を確かめようと船室から出ると、船内を駆けてくる人影が見えた。それはこの船の船長であった。
「おい、どうなってる?船はまだ動かないのか」
「それが……この船はここで足止めになります」
「なんだと?」
 それを聞いて、レークはぎゅっと眉を寄せた。
「じゃあ、グレスゲートには行かないってことか?」
「はい。船はこのままアルディ軍の管轄に置かれ、移送船として使われるとのことです」
「そんな馬鹿な」
 しかし、戦時下であることを考えれば、そうしたこともあり得ることだった。そして、おそらくそこにはアルディの東西の分裂も関わっているのだろう。首都であるここサンバーラーンから、反対勢力の集う西側のグレスゲートに物資を運ばせないという意味もあるのかもしれない。
「まもなくアルディの兵たちがここに降りてきます。やはり、あなた方を怪しんでいるのでしょう。早くお逃げください」
「くそっ。金をもらっといて密告もしやがったか。これだからアルディ人ってのは……」
 だが、悪態をついている暇はなさそうであった。通路の先の階段から、何人もの兵士が降りてくるのが見えた。
「教えてくれてありがとよ」
 ミレイ人の船長に礼を言うと、レークは急いで船室のクリミナと少年を引っ張り、通路を走り出した。
「兵たちが追ってくるわ」
「ああ。たぶん、さっきのやつが報告したんだろう。もしかしたら、このガキのことで、なにか怪しんだのかもしれんな」
「どうするの?」
「これがオレだけだったら、海に飛び込んで泳いで逃げりゃあいいんだがな。今はあんたも、ガキもいるし、そうもいかないだろう」
「足手まといになるつもりはないわ」
「しかし、そのひらひらのスカートじゃ水泳は無理だろうさ」
 クリミナはむっとした顔をしたが、確かにこの格好では海に飛び込むというわけにもいかない。それに、この少年を連れているかぎりはそう無茶もできなかった。
「さあ、ともかくそこの梯子を登って、甲板に出るんだ」
「でも、上にはアルディの兵たちが……」
「やつらはオレが相手する。お前たちは、近くにあるボートを見つけて飛び移れ。海に飛び込むよりはマシだろう」
「わ、分かった。さあ、クレイ様」
 下からクリミナが支えながら、少年に梯子を登らせる。少年は案外器用に梯子を登ってゆき、ハッチの格子までゆくと、それを開けようと手を伸ばした。
「待って、クレイ様」
 クリミナは格子の間から甲板の様子をそっと覗き、近くに人影がないと見ると、ハッチを押し上げた。少年を甲板に上がらせ、自分もそれに続く。
「いいわ、レーク」
「おう」
 三人が出たのは船首付近の甲板で、幸い近くにアルディ兵はおらず、もともとのこの船の船員が、錨の巻き上げ機の前に立っているだけだった。船員はレークたちの姿に驚いた顔をしたが、レークが口に指を当てるとうなずいて、声を上げようとはしなかった。
「錨が下りてるってことは、簡単にはこの船で追っかけてはこれないわけだな。巻き上げには時間がかかるんだろう?」
「そりゃもう。重労働でさ」
「よしよし。それでじゃオレたちがボートで逃げたことも、見なかったことにしてくれよ。そら、これで」
 革袋から取り出した金貨一枚で、船員はにこにことうなずいた。
「ボートはそこにあります。どうぞどうぞ」
「サンキュー。その縄ばしごも借りるぜ」
 レークは手際よく船の舷側に縄ばしごを降ろし、海面にある小さなボートを見下ろした。
「あれじゃ遠くまではいけそうもないが、当座逃げるにゃ充分だろう。クリミナ、先に行けよ。クレイ坊やは俺が抱えて下りる」
「わかった」
 ひらひらとしたスカートを海風になびかせて、クリミナが縄ばしごを下りてゆく。それを見守っていると、背後でピーッという笛の音が聞こえた。
「いたぞ、あそこだ!」
 振り返ると、甲板をどやどやとこちらに駆けて来るアルディ兵が見えた。
「おっと、やべえ、やべえ」
 ひょいと少年を抱き抱えると、
「ちょっと目を閉じていろよ」
 レークはそのまま、甲板からボートへ飛び下りた。
「おおっと!」
 少年を抱いたままなんとか降り立ったが、ボートがぐらりと揺れる。
「大丈夫?レーク、クレイ様」
「ああ。クリミナ、櫂を!」
 レークは少年を座らせると、櫂を握りボートを漕ぎだした。 
 船の上では、アルディ兵士たちが慌ただしく動きだしているのが見える。だが、錨を上げて、マストに帆を張らなくては帆船は動きだせない。
「スタンディノーブルに続いて、またしても水上の脱出ってワケだ」
 櫂を漕ぎながらレークにやりとした。だが戦いに疲れていた城のときとは違い、今回は体力もたっぷりあった。
「おっしゃ」
 力強く櫂を動かし、朝日の方向へボートを漕ぎ進める。しだいに、アルディ兵のいる船は後方に遠くなっていった。


次ページへ