水晶剣伝説 W スタンディノーブル防城戦

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「ああ、ええと……」
「お前、ツォーマスだろう?」
 そばにきたジャリア兵がこちらを覗き込んだ。
「なにこんなところにつっ立ってるんだ?」
「あ、ああ……」
 どう答えればいいのかと迷いながらも、レークはここでいっそう不審がられるのもまずいと、とっさに聞き返した。
「ど、どうして俺だと分かった?」
「なに言ってるんだ。そんなの分かるに決まっているだろう。鎧の胸にある認識番号で」
「認識番号。ああ、そうか……そうだったな」
 うなずきながら、自分の鎧の胸元を見る。
(なるほど、番号ね。ジャリア兵たちはこれで互いの区別を付けているのか)
「それで、もう偵察は終わったのか?槍を持ったままぼんやりとして、どうかしたのか」
 すっかりこちらがツォーマスという男だと思い込んでいるらしい。こうなったら、それになりきるのが一番安全だろうと、レークは考えた。
「ああ。大丈夫だ。東の方は異常なしだ」
「そうか、ならさっさとその槍を置いてきて手伝え。こっちは人手が足りないんだ。夜明け前までに、投石機と攻城塔を完成させろというご命令だからな」
「分かった。ええと、槍はどこに……」
「向こうの武器置き場にでも転がしておけ。どうせいくさが始まっても、しばらくは投石と弓での戦いになるだろうからな」
 そう言うと、ジャリア兵はレークをじろりと睨んだ。
「しかし、なにか変だな……」
「な、なにがだ?俺はどこも全然、変じゃないぞ」
 思わず声をうわずらせるレークを、ジャリア兵が怪訝そうに見つめる。
「お前……鎖かたびらはどうした?」
「あ、ああ……」
 レークは顔中から汗が吹き出すような心地だった。内心で「しまった」と思いながらも、こうなったらもうはったりで通すしかない。そう腹を決めた。
「それがさ、どうも暑くてたまらないんで、ええと、脱いじまった」
「暑いだって?」
 ジャリア兵が首をひねった。
 下手な少し言い訳だったかと後悔したが、もう仕方がない。
「ああ、なんだかこう……頭が重いってのか、体が火照るような感じでさ」
「ああ、それはいかんな。風邪かもしれんぞ。そういえばなんだか声も変だしな」
「ああ……そうかもしれん。だもんで、鎖かたびらなんて重たいものはムリだと、脱いできちまった。まだ戦いも始まってないしな」
 いいかげんな言葉であったが、ジャリア兵は案外に納得したようにうなずいた。
「そうだな、まだ無理するな。倒れちまって足手まといになるくらいならその方がいい。なんなら先に休憩をとってもいいぞ。俺から隊長に話しておくから」
「ああ、いや、大丈夫だ。ちょっとばかし熱っぽいだけだから。ただ、もう少ししたら、ちょっと休ませてもらうかもしれないな」
「そうか。分かった。なら、先にこっちの投石機を手伝ってくれ。あと少しで完成なんだ」
「ああ、分かったよ」
 レークとしては、ここに長居するつもりは毛頭なかったので、少しでも抜け出しやすい口実を作っておくにこしたことはない。病気のふりをして休憩をとるということで、そのままこっそりと逃げてしまえばいい。
 とりあえず言われたように槍を置いてくると、さっきのジャリア兵が投石機の前で手を振っている。
「おお、ツォーマス、こっちだ」
 近づいてみると、そこにあるのは天秤式の投石機だった。長い腕木を平衡重りの力で回転させ、遠くまで石を飛ばす装置である。高さにして十ドーン近くもあろうかという、それは巨大なものだった。
(うへえ、こりゃすげえな……)
 それを見上げながら、レークは内心でつぶやく。
「もうほとんど完成している。これなら軽々とあの城壁の上まで石を飛ばせるぞ」
(そりゃ、たまったもんじゃねえな)
「お前に頼みたいのは、こいつに登っていって、腕木を支える留め金をしっかりと締めてもらいたいんだ」
「お、オレがか?」
「ああ、お前は身軽だったからな。得意だろう」
「う……」
 レークはあらためて、その巨大な投石機を見上げた。太い木柱に付いているごく簡素な梯子で、あのてっぺんまで登ってゆくらしい。
「さあ、早いとこ頼むぜ。もうすぐ王子殿下がここにもいらっしゃるんだからな」
「なに。王子殿下って……、もしかして黒……ああいや、フェルス王子が?」
「なに言ってるんだ。当たり前だろう。他に誰がいる」
「あ、ああ。そうだな」
 レークは兜の中でごくりとつばを飲み込んだ。
「殿下は几帳面な御方だからな。全ての投石機の完成を点検して回られるんだよ」
「そうなのか……王子がここに」
「ああ。だから急いで完成させないとな。朝までかかるようなら殿下に仕置きされてしまうぞ」
 ジャリア兵は冗談まじりにそう言うと、レークの肩を叩いた。
「そうか……」
 少し何事かを考えていたレークは、心を決めるとうなずいた。
「……分かった。こいつに登ればいいんだな」
「よし、頼むぞ。俺の方は支柱の点検をしておくからな。落ちないように気をつけろ」
「任せておけ」
 渡された工具をベルトに差すと、レークは颯爽と梯子に足をかけた。
「おい、ちょっと待て。ツォーマス、その兜は外していけよ。重たいだろう」
「あ、ああ……いや」
 むろん兜を脱いで顔を見せるわけにはいかない。ここはツォーマスとやらになりきるしかないのだ。
「いや、その……やっぱ風邪っぽくてな。頭を夜風にあてて、冷やしちまうといけねえからさ……」
 さも無茶苦茶な言い訳であったが、有り難いことにジャリア兵の方も医学の知識は皆無のようだった。その言葉に納得したばかりか、「そりゃあいかんな。作業が済んだら休んでおけよ」と、親身に心配すらしてくれた。
 ほっとしつつも内心でほくそ笑むと、レークは投石機の梯子を登りだした。
「ほっ、こりゃあ、けっこうな高さだぜ」
 重い鎧兜を着たまま、梯子を上ってゆくのはなかなか難儀だった。十ドーンというのは大げさだが、軽く二階建てほどの高さはありそうだった。
 城壁の方を眺めると、松明の灯に照らされて、城の見張り騎士たちの姿がはっきりと見て取れた。
「ついさっきまでは、オレもあそこにいたんだよなあ」
 あの城壁塔の上で、傭兵たちに囲まれ、共に戦おうと誓い合ってから、まだ半日しかたっていないのだ。その自分が、今はこうして、はからずもジャリア軍のただ中におり、城を攻撃する武器である投石機のてっぺんに登っているとは。あそこにいる城の騎士たちも考えはすまい。
「どうだ?ツォーマス。大丈夫か?」
「あ、ああ……大丈夫だ。今やるから」
 下から声をかけられ、レークは慌てて返事をした。
(さてと、……やってみるか)
 足を滑らせぬよう気をつけながら、投石機の可動部に向き直る。
「どれどれ」
 腕木を支えるための支点には、鉄の棒がはめ込まれていて、それをとめるボルトのようなものをきつく締めるのが頼まれた仕事であったが。
 ちらりと下を見ると、今はジャリア兵はこちらを見ていない。自分の作業に没頭しているようだ。
 レークは工具を取り出すと、それを支柱のボルトにあてがった。
(へへへ……)
 そのボルトを締めるふりをしつつ、レークは思い切ってそれを反対側に回した。
(あまりすぐに外れちまっても、すぐにバレるからな)
 何度か動かせば外れるというくらいに、慎重にボルトを緩めてゆく。見つからないかとはらはらしながら、
(よし。こんなもんかな)
「これでよし。ちゃんと締まったぜ」
 わざと聞こえるように言うと、レークは仕事をやり遂げたふりをして、堂々と梯子を下りていった。
(どうなるか、あとのお楽しみってな)
「ご苦労さん。あとはいくさが始まる明け方までは休んでいていいぞ」
 さっきのジャリア兵が声をかけてきた。それにレークは真面目な兵士然として答える。
「ああ、ありがとうよ。でもどうせなら、他の投石機も点検させてくれ。ついでだから」
「そうか。偉いぞ、ツォーマス。やっぱお前は真面目だなあ」
(そんなでもねえさ……)
 兜の中でレークは密かににやりと笑った。
「そうだな。じゃああっちに並んでいるのも頼むか。俺からあとで隊長に、ツォーマスが登って点検してくれたと言っておくよ」
「オーケイ。ところで、投石機は全部でどれくらいあるんだ?」
「この大型天秤式のやつは、これとあと二機だな。他は小型のスプーン式のやつが六機くらいか。王子は天秤式を五機は欲しいと言っておられたようだが、一機組み上げるのに丸一日がかりだからな。とても明日までには無理だ」
 周囲を見回すと、なるほど確かにこのような大型の投石機は、他には二機ほどしかないようだ。
「スプーン式のってのは、あれだな」
 レークはやや小さめの投石機を指さした。名前の通り、それは大きな匙状の腕機がついたもので、そこに石を乗せて飛ばすものだ。見たかぎり、天秤式のものよりは威力はなさそうだ。
「あれは石を高く飛ばせないからな。城壁にダメージを与えるのがせいぜいだ」
「なるほど。すると、やっぱこのでかい天秤式ってやつが、敵にとっては驚異になるわけだな」
「ああ。こいつはすごいぞ。なんせ百エルゴの石だったら、ざっと四百ドーンは飛ばせるんだ」
「ほう、そいつあすごいな」
 感心してみせるレークに、ジャリア兵は自慢そうにうなずく。
「その威力といったら、軽々とあの城壁を飛び越して、城内の建物ひとつを一撃で破壊できるほどだ。人間だったら一度に数十人は殺せるぜ」
「それはすごい」
 内心では「そりゃひでえ」と思いつつ。
「よし、それならオレがしっかり点検して、万全の状態で使えるようにしておくか」
「頼むぞ」
「任せろって」
 ぬけぬけとそう言うと、レークはそれがまるで己の武器ででもあるかのように、手にしたスパナをくるくると回しながら、隣の投石機へと近づいていった。
「そーれ、緩め緩め」
 さっきと同じように、梯子を上り、腕木の可動部を外れない程度に緩めさせる。一度やったのですっかりコツはつかんだ。さらに続けて、その隣のものにも同じ細工をすると、レークは満足げにうなずいた。
「これでよし。あとは野となれ山となれだ」
 作業完了とばかりに下にいるジャリア兵たちに手を振ってみせる。
 投石機の梯子を下りようとしたとき、周囲のジャリア兵たちにざわめきが起こった。
 それはすぐに静まり、その代わりに辺りにはこれまでにない緊張の空気が立ち込めた。
(なんだ?)
 いったい何事かと下を見ると、
「王子殿下に敬礼!」
 その声とともに、ジャリア兵たちが一斉にひざまずいた。
(王子、だって?)
 レークは梯子を降りる足をとめた。
 しばらくそこから見守っていると、ジャリア兵たちの前に黒い一騎が現れた。「おお」という、畏怖の込められたどよめきが、兵たちの中で上がる。
 松明に照らされ、全身黒光りする鎧姿と、赤い裏打ちのマントをなびかせて、
 馬上の王子がそこにいた。
「ご苦労」
 と、部下たちに軽く片手を上げる姿は、それだけで異質なオーラをまとっているかのようだ。強烈な意志と、漆黒のその姿同様の、どこか小暗い倦怠の混じった、とても危険な気配が、投石機の高みにいるレークにもはっきりと感じられた。
(あれが、ジャリアの王子、フェルス・ヴァーレイ)
 ゆっくりと梯子を降りるふりをしながら、さりげなく視線を向ける。
 つい今日の朝方も、茂みに隠れながらその姿を見ていたが、夜の闇と松明の灯のもとでは、なにか異様な迫力というか、強烈な圧迫感が感じられた。ジャリアの黒竜と呼ばれるように、全身黒ずくめの鎧を着込み、馬上に不動の態勢でいるだけで、その周囲にはまるで、禍々しい障気のようなものが漂うかのようだった。
「準備は順調のようだな」
「はっ、天秤式投石機三機、たった今最終点検が完了しました。いつでも使用できます。スプーン式の方は六台、すぐにでも移動可能です」
 部下の報告に、馬上の王子は満足そうにうなずいた。
(なんてえか……こう、不気味な野郎だな。それになんだか、さっきからこの指輪が、またきゅうっと締めつけてくるぞ)
 これまでも何度かあったが、アレンから渡されたこの指輪は、まるで警告を発するように、しきりに指を締めつけてくるのだ。なにかが、反応しているのだろう。
(それに、あの大剣……気になるな)
 王子の腰にある大きな剣鞘……かなり見事な大剣のようだが、その柄の部分には宝石らしきものが見える。
(まさかな。しかし、まさか……)
 その剣を見ていると、なぜだかとても心が騒ぐような……そんな妙な心地がした。
 すると、馬上の王子の、黒い兜をかぶった頭が、ゆっくりとこちらに向いた。
(……!)
 一瞬、レークは見た。
 こちらを向いた黒い兜の奥で、王子の目が赤く、ぎらりと光ったのを。
(いけねえ)
 ほとんど本能的に、レークは顔をそらしていた。
 このまま王子を見つめていると、なにか取り返しがつかないことが起こるようなそんな気がしたのだ。レークは、投石機の梯子に張りつくようにして顔を伏せ、しばらくじっと動かなかった。
「よかろう」
 王子の声が響いた。
 首の後ろにちりちりと感じていたものが消えると、レークは心底ほっとした。
「明朝日の出とともに城攻めを開始する。合図とともに最初の投石を放て。この南側からの攻撃は、西側の城門への攻撃と同時に行われる。心してかかれよ」
 王子の言葉を受けて、ジャリア兵たちの掛け声が一斉に上がる。
「では、作業を終えたものは明日に備えて、交代で仮眠をとらせるがいい。ただし、日の出とともに戦いが始まるのを心得ておくようにな」
「はっ。承知しました!」
 隊長の騎士が深々と頭を垂れる。
 王子の馬が動きだすと、両側に控えていた供の騎士も、訓練された動作でその後を追う。ジャリア兵たちは、しばらくはその場にひざまずき、王子の馬が去ってゆくのを見送っていた。
(ひゅう……まったく冷や汗かいたぜ)
 王子の馬が暗闇に消えると、投石機の梯子に足をかけたまま、レークはほっと息をついた。
(さっきはまるで、あの黒い兜の中から光る目がこっちを見ていたような気がした……)
 指輪の締めつけも今はもうおさまり、まるで黒い嵐が去っていったかのように、夜の空気はもとの穏やかさを取り戻していた。
 立ち上がったジャリア兵たちも、緊張を解かれた様子でざわめきだし、それぞれの作業の続きをする者や、休憩をとる者など、隊長の指示のもと動きだそうとしていた。
(さてと、じゃあこちとらも、もうそろそろ城に戻った方がいいかな)
 レークは投石機から下りると、休憩をとるため天幕へ向かうジャリア兵たちにこっそり混ざることにした。何気ない様子で、ジャリア兵の列について歩きだす。
(よし……あとはさり気なく抜け出せば)
「二百五十番、二百五十一番、五十二番、よし」
 兵たちをチェックする騎士が、一人一人の鎧の番号を確認してゆく。
「次、二百六十五、二百六十八、よし」
 列に並んだレークは少しはらはらしていたが、自分の姿は他のジャリア兵たちと全く変わらないはずだと、気を落ち着かせた。
「二百七十二、二百七十六番、よし。次……」
 次はレークの番であった。
「お前……」
「な、なにか?」
 騎士がじろりとこちらを見た。兜の中では汗をかきながら、レークは平静を装った。
「三百七番」
 それがレークの鎧についている番号である。
「お前の番号は、まだ休憩には早いはずだが」
「あ、ああ……そのう」
 内心での狼狽を表さぬように、レークは何度か唇を舐める。
「実はあの……ひどい頭痛と、目まいがしまして、熱もあるかもしれないので、ちょっと休憩をですね、いただきたいなと……」
「なに?」
 騎士はいったん怪訝そうに眉をひそめたが、
「ああ、三百七番……そうか、ツォーマスだな?」
 思い出したようにうなずいた。
「さきほど同じ隊の者から報告があった。具合が悪いのか?」
「ええ、ちょっと。少し休ませてもらえれば、きっと良くなると思いますんで……」
 内心でひどくほっとしながら、レークはゴホゴホと、わざとらしく咳をしてみせた。
「そうか。よし、分かった。休んでよし。明朝までには回復させておけよ」
「はっ。ありがとうございます」
「よし、次……」
 いそいそと歩きだしたレークだが、すぐにまた呼び止められた。
「おい、どこへ行く?」
 どきりとして振り返ると、
「お前の天幕はあっちだ。左から二番目。間違えるな」
「ああ、はいはい」
 レークは仕方なく、言われたとおりに指示された天幕の方へ歩いていった。
(ちっ……まあ、仕方ねえか。後で抜け出すチャンスはあるだろうからな)
 城壁から離れた広場の南端には、ずらりと天幕が立ち並んでいた。多くは兵たちの休憩用のものだろうが、いくつかは武器や食料などの保管用でもあるらしい。
 眠たそうなジャリア兵らが、各々の天幕へ入ってゆくのを横目に、レークも定められた天幕へと入ってみた。
「ほう、中は案外広いもんだな」
 それに天幕の中は暖かかった。夜風をしのげるだけでなく、並べば十人くらいは横になれる藁敷きの寝床があり、今はそこに何人かのジャリア兵が鎧姿のまま休んでいる。
「おじゃまするぜ……」
 レークは先客を起こさないよう、そっと暗い天幕の隅に腰を下ろした。
 ここにいるジャリア兵たちは、皆ぐっすりと寝ているようだ。それぞれの剣を横に置き、いつでも戦えるように備えている。さすがに訓練された兵たちだ。
(さてと……これからどうしたもんか)
 とりあえず、しばらく様子を見てから外へ出て、さりげなく林の中へ逃げ込むのがよいだろう。そのあとは走ってあの井戸まで行けばいい。
 そう決めると、レークはその場にうずくまるようにしてじっと待った。さすがにジャリア兵の中にいては眠くもならない。なるべく気配を消しながら、レークは待ちつづけた。

(さて、そろそろいいかな)
 どのくらい時間がたった頃か、天幕の外に人の気配がなくなったのを感じると、レークはそっと立ち上がった。
 天幕の外へすべり出ると、慎重に周囲を窺う。
(なんか、トレミリアの剣技会のときも、同じような気分を味わったな。そうそう、ローリング……いや山賊のデュカスの後をつけたときだ)
(あのときは、トレミリアの騎士たちに追っかけられたっけ……)
 今では、自分はそのトレミリアの騎士となり、今度はジャリア軍のただ中にいて、そこから抜け出そうとしている。
(なんてえことだ。人生はそれすなわち変転と冒険なり……てやつだな、まったく)
 兜の中でにやりと笑いを浮かべ、レークはそろそろと歩きだした。
 辺りに人の気配はない。ジャリア兵たちはそれぞれの天幕で休んでいるのだろう。
 遠くには松明の灯とともに、見張り兵たちの姿が見えるが、これだけ離れていれば夜闇にまぎれて抜け出せそうだ。
「しめしめ、これならなんとか帰れそうだな。城に戻ったら、ワインでも飲んで今度こそおとなしく寝るとしよう」
 レークはそろそろと天幕の裏側に回った。林の中に入ってしまえば、あとはあの井戸まで走ればいい。
 だが、誰もいないと思っていた暗がりに、かすかな人の気配がした。 
「おっ、なんだお前?」
 声とともに、暗がりの向こうからジャリア兵が現れた。
「こんな時間になにしているんだ?こんなところで」
「そっちこそ、なにをしているんだ?」
 レークは平静を装って答えた。
「俺か、俺は小便だよ。明日のことを考えると、ちっと緊張しちまってなあ」
 相手はこちらを仲間だと思っている様子で、気安く話しかけてきた。
「ほら、俺はこういう大きな戦は初めてだからさ。どうも寝つけなくてな」
「ああ……」
 こうなったら話を合わせておくかと、レークは適当にうなずいた。
「そうだな、うん」
「じゃあもしかして、お前も小便に来たのか?」
「ああ、まあな……」
「やっぱり。そうかあ、緊張しているのは俺だけじゃないんだな。よかったよかった」
 安心したようにうなずくジャリア兵は、年齢は二十五、六といったところか。素朴な笑顔はどこか田舎の若者めいた雰囲気だった。
「ほら、王子殿下の四十五人隊な。ああいういくさに慣れた連中ばかりかと思っていたけど、そうじゃない奴もいるって分かってよかった。俺の部隊にも若い奴がいてさ。でも、みんな堅い顔つきでこう、黙々と作業をしてっからさ、俺なんか誰も話し相手がいなくて。隊長にもノロマだのなんだとのさんざん叱られるし」
 ようやく見つけた話し相手だとばかりに、そのジャリア兵は話し続けた
「そんなこと言っても、こんな城攻めの訓練なんかしたこともない傭兵なんだから、無理もねってのによ。あ、これは隊長には黙っといてくれよ。あの隊長ったら、部下にはやったらと厳しいんだ。そのくせ王子殿下の前じゃへこへこして。おっと、いけねえ、これは言わないでくれよ。頼むから」
「ああ……」
(よくしゃべる野郎だな……)
 レークはいらいらしつつも、相手の話す言葉の端々に興味深いものを感じとっていた。
(四十五人隊か……そういえば聞いたことがあるな。それに、この軍には正規の兵だけでなく、こういう若い傭兵もいるのか)
「もう丸一日作業しっぱなしでへとへとさ。ようやくこれから休めるんだが、そんなわけでなかなか眠れなくて。本当なら寝る前に酒が欲しいところだがな。そうでもしなけりゃ、安心して眠れないっていうんだ」
「まったくだ」
 レークは適当に相槌をうちながら、早くこの場を抜け出したいと、そればかり考えていた。しかし、ジャリア兵はすっかり気をよくしたように話し続けた。
「明日からは城攻めが始まって、城壁からの弓矢を避けながら、そりゃあ大変な戦いになるんだろうさ。おお、いやだ。俺は元々は騎士見習い志願だったのに、悠々と城に勤められると思っていたら、臨時の傭兵に駆り出されて、こうして投石機やら攻城塔やら、歩兵の仕事をしなくてはならないなんて。おっかあも心配しているだろうし」
(くそ。なんておしゃべりな野郎だ。小便が終わったら、とっとと天幕へ戻っておねんねすりゃいいものを)
「なあ、分かってくれるか」
「ああ、ああ。分かるよ」
 いい加減にうなずいてやると、相手はそれが心底嬉しかったのか、いきなりレークの手を握りしめた。
「そうか。分かってくれるか!」
「ああ」
(手を離しやがれ)
 ジャリア兵はその顔に満面の笑みを浮かべて言った。
「お前とは友達になれそうだ」
(なれっこねえだろう)
「ところで名前はなんていうんだ?」
「名前?」
 レークは、さっきまで呼ばれていた名前を思い出した。
「えーと……ツ、ツォーマス」
「ツォーマスか。俺はヴァイク。なあ、その兜を取ってくれ」
「なに?」
「顔を見せてくれ、なあツォーマス。ここに来てからの、お前は初めての友達なんだ」
「いや、それはちょっとな……」
 なんだかまずいことになったぞと、レークは考えた。
「なんでだ?いいだろう。まさか、顔を見せられないようなワケでもあるのか?もしかし、顔に酷い傷でもあるとか」
「いや、そういうわけじゃないが……」
「ならいいだろう。なあ、友達になった証に顔を見て話そう」
(うう……こいつは困ったぞ)
 ここで無理を通して怪しまれてはまずい。かと言って、敵兵に顔を見せるのは。
(どうするか……)
 レークの内心の困惑をよそに、ヴァイクと名乗ったジャリア兵は、にこにこと屈託のない笑顔を浮かべている。
(今、ここにいるのはこいつひとりだな)
 辺りは静まり返っていて人の来る気配はない。天幕の裏の暗がりだし、よほど近づかなければ誰にも見られないだろう。
(それにこいつは、本当のツォーマスのツラは知らないようだしな。それなら……)
 レークは心を決めた。
「ああ、分かったよ」
「そうか、ツォーマス。やっぱり俺たちは友達だ」
(……ったく、ジャリア兵の友達を作ってどうすんだ)
 内心で苦笑しながら、レークは兜の留め具を外した。
「……」
 ゆっくりと兜を脱ぎながらも、かすかな不安がよぎる。
(大丈夫だろうな……)
 やはり敵兵の前で素顔をさらすことに抵抗はあった。もし、いきなり大声を上げられて敵に囲まれでもしたら、おしまいだ。
(くそ、もう……ままよ!)
 思い切って兜を脱ぐと、とたんにジャリア兵が目を見開いた。
「おお、ツォーマス」
(やばいか?)
 ずっと兜をしていたせいもあり、レークは額から流れ出る汗をぬぐった。
「お前……」
「……」
「なんて男前なんだ!」
 ジャリア兵の言葉に、レークは思わずずっこけそうになった。
「驚いたな……」
「そ、そうか?ははは」
「ああ。なんだか、ジャリアではあまり見ない感じの……細面の美男子っていうのか」
「あ、ああ。実は俺は生まれはジャリアではなくてな。その、えーと、アルディ……そうアルディなんだ」
「ああ、やっぱりな。あのあたりはハンサムが多いらしいしな。ウィルラースだっけ?美男の宰相も有名だからな。うん。お前もそんな感じだ」
「そりゃどうも」
 しげしげとこちらの顔を眺めるジャリア兵に、レークはややうんざりしながらうなずいた。
「なあ、ツォーマス。俺たちは友達だな」
「あ、ああ……」
(もういいだろう。オレはさっさとこっから抜け出したいんだよう。くそ)
「なにがあっても友達でいような」
「ああ」
(これから敵味方に別れて戦うんだぜ、このボケが……)
 レークは、いい加減疲れ果てたとばかりにため息をついた。
「おや、どうした?具合でも悪いのか?だったらもう天幕へ戻って休んだほうがいいぞ」
「おお、そうだな。そうするよ」
(ようし。いいぞ。お前もとっとといっちまえ)
「俺が一緒についてってやるよ」
「なに?いや、いいって」
「遠慮するな。これから生死を共にしようっていう仲間だろう」
「……しかしな」
(ああ……もう面倒だな!)
 こうなったら仕方ないと、レークは左手の指輪に触れると、それを指で回し始めた。
「なあ、一緒に戻ろう。そうだ、同じ天幕で眠ろうぜ。だって俺たちは友達なんだから」
「……ああ、分かったよ、そらっ」
 指輪をはめた左手を突き出すと、レークは心に念じた。
(頼むぜ……アレン。今こそ魔力が必要だ!)
「な、なんだ……」
 ジャリア兵が驚いたように目を見開き、ややあってその体がびくりと震えた。しだいにその顔からは表情が消えてゆく。
「おい、聞こえるか」
 相手の顔の前で左手をゆっくりと回しながら、レークはゆっくりと言った。
「オレはツォーマスだ。お前の友達だ」
「ツ……ツォーマス、ともだち……」
 抑揚のない声でジャリア兵がぶつぶつと繰り返す。
「オレはな、もう少しここにいる。だから、お前は先に天幕にもどって眠れ。いいな」
「戻って……眠る」
「よし。それでいい。ぐっすりと眠れ。命令だ」
「めいれい……わかった」
「行け」
 レークが命じると、ジャリア兵はよろよろと歩きだした。
「ふぅ……これでよし」
 ジャリア兵が天幕の方に消えるのを見届け、レークはほっと肩をすくめた。
「はあ……なんだか、えらく疲れたな」
 兜をかぶり直して歩きだそうとしたものの、ひどく足が重かった。そう言えば、かぶった兜がさっきよりもずしりと重いような気がする。
「それに……おい。すげえ眠くなってきたぞ。こいつあ、いかんな」
 夜中に城から抜け出して、ジャリア兵になりすまして敵陣紛れ込み、投石機に登って作業をしたりと、疲れることが多かったからだろうか。それにしては急激な眠気であった。
「ともかく、林の中に入って……」
「それから、ええと……井戸の通路から城へ……」
 おぼつかない足取りでレークは歩きだした。
 このまま木々の生い茂る林に入れば、もう敵に見つかることはない。
 だが、
(いかん。なんでこんなに眠いんだ……)
 頭の方がひどくぼうっとしてくる。このまま意識が遠のいてゆくようだ。
(ここで眠っちまったら……くそ)
 なんとか歩こうとするが、どうにも体がいうことをきかない。まるで、自分の体が自分のものでなくなってしまったように。自分の意思に反して、体が勝手に眠りに落ちようとしているかのように。
(く……)
(ダ……メだ……)
 レークは地面に膝をついていた。
 もう何も考えられなかった。体にまるで力が入らない。
 ここがどこなのか。自分はもう林の中にいるのか。それとも、むしろこれこそが夢で、本当の自分は城にいて、寝台の上ででぐっすりと眠っているのか。もうそれすらもおぼつかない。
 ただ、すうっと意識が薄らいでゆく。まるで眠りの魔法にでもかかったかのように。
(アレン……)
 心の中で相棒の名を呼ぶと、かすかに左手の指輪が反応したような気がした。
 頭の中で「このままではダメだ」と、誰かが叫んでいる。しかし、もう体はまったく動かせなかった。
 レークはその場に倒れこんだ。
(いいか、レーク……)
 眠りに落ちる寸前、相棒の言葉が、ふと脳裏に浮かんだ。
(指輪の魔力を使いすぎるな。この指輪は、魔力を遠くから受け取るための媒介だが、同時に、お前自身の力も消耗するのだ。分かるか?)
(ああ、分かったよ。アレン)
(いいな。けっしてむやみに何度も使うな。魔力でお前自身を助けるはずが、かえって危険に陥ることにもなるのだぞ)
(分かってるさ、アレン……)
(分かってる……)
 かすかにつぶやきながら、レークは、そのまま意識の闇へと落ちていった。


 はっと目を覚ましたのは、猛烈な轟音のせいだった。
 まるで、巨大な岩同士がぶつかりでもしたような、凄まじい音が響きわたり、地面が振動するかのような感覚に、レークは飛び起きた。
「な、なんだ……」
 自分がいったいどこにいるのか、レークには一瞬分からなかった。
 辺りには物凄い怒号と、けたたましいわめき声がまじり、それに地面を揺らすような大勢の足音が響いている。
「ここは……」
 いったいどうして、自分はこんな所に寝ているのか。それを考えるよりも早く、目の前の光景が飛び込んできた。
 大勢の黒い鎧の兵士たちが走り回り、投石機から発射される石弾が空中高く舞い上がる。
 東の空には、すでにまぶしい光を放ちながら、暁の太陽が昇り始めている。
「て、ことは……」
 ここは城壁からはずいぶん離れた広場の南端であった。天幕から武器を手に出てゆく兵士たちが、また目の前を走ってゆく。
 しだいにはっきりとしてきた頭に手をやり、立ち上がって辺りを見回す。
 怒号のような叫び声と、慌ただしい命令の声、走り回る兵たち……
「こりゃ、まずいな……」
 レークはつぶやいた。 
 夜明けとともに戦いは始まっていた。
 ひゅん、という音がしたと思うと大きな石が空を飛んでゆく。ドーンという猛烈な激突音とともに、城壁の一部が砕け落ちると、ジャリア兵の歓声が上がる。
 広場を包むような、わあわあという叫び声に続いて、今度は城壁から放たれる何百という矢が風を切って飛んでくる。また悲鳴と怒声が交差する。
「なんてこった……オレが寝ている間にすっかり夜が明けて、戦いが始まっていやがる」
 ようやく状況が飲み込め、慌てて周囲を見渡すと、足元には自分のかぶっていた兜が転がっていた。寝ている間に無意識に外したのだろう、それを拾い上げる。
「よ、よし……ともかく、城へ戻るぞ。こんな所で、ジャリア兵どもと一緒にいたら、間違われて味方の矢に当たっちまう」
 レークは兜をかぶると、急いで林の方へ走り出そうとした。
 だが、間の悪いことに、ちょうど天幕から武器を持ち出してきたジャリア騎士に見とがめられた。
「貴様、なにをしている!」
「ちっ」
「そんなところでうろちょろするな。お前も傭兵ならこっちに来て戦え」
 このまま走って逃げるか、それともこの騎士を斬り倒してしまうか、レークは迷った。
(くそ……それともこいつにも指輪を使うか)
「おい早くしろ!こうしている間にも敵どもの矢が降り注いでいるんだぞ」
(だから、オレはその敵なんだって)
 レークは困ったように振り返った。
 すると、また何人かの武器を手にしたジャリア兵がこちらに走ってきた。
(くそ……)
 これでは指輪の魔力は使えない。やはりここは剣で切り抜けるしかないと、レークは腰に手をやった。
「なんだ、貴様。歯向かう気か?」
 ジャリア騎士が声を荒らげた。
「くそったれ、オレはな……」
「ツォーマス!」
 その時、一人の兵士がレークに駆け寄ってきた。
「こいつは、ツォーマスです。自分の友人であります」
「なに。そうなのか」
 騎士が訝しそうにレークを睨む。
「俺だ、ツォーマス」
 兵士が兜の面頬を上げると、それは、昨夜のヴァイクという男だった。
「こいつはきっと、具合が悪くてここで休んでいたのです。なあ、そうだろう?」
「ああ……」
 レークがうなずくと、ヴァイクは心配そうに訊いてきた。
「具合はどうだ?もう戦えそうなか?」
「ああ……」
「そうか。ならば、さっさと来い。一人でも射手が欲しいからな」
「そら、この弓を使えよ」
 ヴァイクの差し出した弓と矢筒を受け取ると、レークはやけくそ気味にそれを背負った。
(くそ、どうすりゃいいんだ)
 もう逃げることはできない。かといって、味方のいる城に攻撃をするなど、それこそ馬鹿げている。
「行くぞ。お前たちは城壁付近で射手をしろ」 
 ジャリア騎士に追い立てられるように、レークは他の兵たちと一緒に走り出した。
 城壁の近くは慌ただしい空気に包まれていた。
 頭上からはまるで雨のように矢が降り注いでくる。近くの地面に突き刺さる矢を見て、思わずレークは兜の中で顔をしかめた。
(おいおい、冗談じゃないぜ。なんでオレが、味方のはずの城の連中から矢を放たれなくてはならないんだ)
 勝手に城の外へ出た自分が悪いのは分かっている。しかも、こうしてジャリア兵の黒い鎧を着込んでいては、城壁の上からではその区別はつくまい。
(くそ。ともかく……そうだ、なんとか、なんとか隙を見て逃げださないと)
 このままでは、ジャリア兵に扮したまま、味方と戦うことになってしまう。味方の矢に狙われて戦死では……笑い話にもならない。
(うう……とんでもないことになったなあ)
「いいか。お前はここで射手をしろ。一人でも多くの敵を射落とせよ」
 ジャリア騎士から命じられて、レークは辟易しながらも、仕方なく弓を手にした。
(第一、オレが弓を引いて、あんな城壁の上にまで矢が届くわけもないだろうに)
 思わず馬鹿らしさに笑いたくもなってくる。
 前方には城壁からの矢を防ぐための大型の盾がずらりと並べられ、矢をつがえるときにそこに隠れながら、ジャリア兵たちはレークの見ている前で次々に弓を引いてゆく。その彼らの背後には大型投石機が設置され、これからまさに兵士たち何人がかりかで、石を打ち出す準備をしているところだった。
(ふうん。投石機で石を打ち出すのには、けっこう手間がかかるらしいな。その間にこうやって兵に弓で援護射をさせるってワケか)
「なにをしている。早く矢を射よ!」
 背後から騎士の怒鳴り声が上った。
(くそ。こうなったら仕方ねえな……)
 レークは矢をつがえると、城壁の方へ狙いを定めるふりをした。ここから見上げると、城壁の上まで矢を届かせるのは容易なことではなさそうだ。逆に高い城壁の上からは、この辺りまで簡単に矢を射かけられる。レークの前にある盾にも何本もの矢が突き刺さり、その横には負傷した兵が何人も倒れていた。
(ほっ。怖いねえ……剣で戦ってならまだしも、頭の上から降ってくる弓矢に当たって死んじまうのは、ごめんこうむりたいもんだ)
「射よ、矢を射よ!」
 ジャリア騎士の命令に並んだ兵たちが一斉に弓を構える。レークも適当にそれに習った。
(どうせあの上までは届かないしな。それならいっそ、こうしてやらあ)
 弓を思い切り上に向けると、周りの兵たちと同じタイミングで矢を放った。
 ジャリア兵の放った矢が城壁に向かって飛んでゆく中を、レークの放った一本だけがへろへろとあらぬ方向へ飛んでゆく。
 やや離れた場所で、「ぎゃあ」という、あわれなジャリア兵の悲鳴が上がった。
「おお、当たったか」
 レークは兜の中でほくそ笑んだ。
「馬鹿者。どこを狙っている!」
 騎士の怒声が飛んだが、レークは知らぬ顔で次の矢をつがえるふりをしていた。
 ジャリア兵が交代で弓を引く間にも、城壁の上からは雨のように矢が飛んでくる。レークのすぐ近くの地面にも矢が突き刺さり、思わず悲鳴を上げそうになった。
(ひえっ。冗談じゃねえな……おい)
 このままここにいては、いつかは味方の矢に当たってしまいそうだ。
(こりゃ、なんとか逃げる算段を考えねえと)
「おい。なにをしている貴様!」
 その場で周囲を見回していると、挙動不審に思われたのか、後ろから騎士に怒鳴られた。
 レークは適当に思いついた嘘を口にした。
「ああ、騎士どの!向こうの方は、どうも矢の援護が手薄になっております」
「なに?」
「自分は向こうで、この自慢の矢で援護したく思います」
 騎士はレークの指さした方を見やると、うなずいた。
「なるほど。確かにあちらは人手が足りんようだ。よし。許可する」
「ありがとうございます」
「臨機応変な奴だ。名はなんという?」
「はっ、ツォーマスであります」
 ぬけぬけと言うとレークは頭を下げ、堂々とその場から走り出した。
(さてと……)
 少しずつ移動しながら、「援護に来ました」などと言いつくろうと、何本かの矢を適当に放ち、またすぐに走り出す。自分の放った矢がどこへ飛んでいったかなどはおかまいなし。そうやって射手をよそおいながら、レークは兵の少ない方へ、少ない方へと、巧みに移動していった。
(しめしめ……)
 うまい具合に前線から離れたレークは、まだ完成途中の攻城塔の裏側に回ると、そこに身をひそめた。ひと息ついてから耳を澄ませると、ジャリア兵たちの叫びや怒鳴り声が、少し遠くなった喧騒のように聞こえてくる。
 冷静になって考えてみても、城壁からの味方の矢を必死に避けていたのだから、なんと皮肉な状況だったことか。たとえ無事に城に帰りついたとしても、笑い話で人に話すにはあまりに情けない。
「まったくな。もういいかげん、弓はごめんだぜ」
 しばらく息を整えると、攻城塔の影からそっと顔を出してみる。ジャリア兵たちは相変わらず城壁に向けて矢を放ち、投石機の腕木を引いたり石を運んだり、負傷者を運び出したりとおおわらわで、誰もこちらに気付くものはないようだった。
「よし、今のうちだな」
 念のため、レークは負傷したふりをしてその場に倒れこんだ。誰も近づいてこないとみると、そのまま地面を這うようにして動きだした。
(もしここで見つかったら、もう剣で切り抜けるしかないな)
 レークは辛抱強く、ずるずると地面を這い続けた。兜が邪魔でいっそ脱いでしまいたかったが、もうしばらくと我慢して、そのまま少しずつ戦場から離れていった。
「このあたりまでくりゃあ、もう充分か」
 そっと立ち上がり振り返ると、すでに城壁からはだいぶ離れていた。右手の方には、木々の間からマトレーセ川の青い流れが見えている。
「西の支流が見えるってことは、あの井戸からはけっこう離れちまったな」
 かといって、ジャリア兵がひしめく広場を横切って東側の林へと出るのは危険だし、それを迂回するようにぐるりと回ってゆくと、かなりの時間がかかってしまう。
「どうしたもんか……」
 だが、いつまでもここにいるわけにもいかない。城の仲間たちは、ジャリア軍を迎え撃つのに今も必死に戦っているのだ。
 立ち止まって考えていると、背後から馬蹄の音が聞こえてきた。
「まずいぞ」
 近くに隠れる場所はないかと辺りを見回す。
「おっ、あれだ」
 左手の前方に天幕が見えた。前線から離れたところにぽつんと立てられたその天幕は、兵たちが休憩に使うものにしてはやや大きなものだった。
「ともかく、一時しのぎにはなるだろう」
 レークは急いで走り出すと、その天幕に滑り込んだ。
 天幕の中は薄暗く、そしてとても静かだった。
 辺りにはまるで貴族の部屋のようにハーブの香りが漂っている。ここはまるで、騒々しい戦場とは遮断された別の世界のようだった。
 敷物の上にはゆったりとした長椅子が置かれ、テーブルの上には食べかけのパンや果物の皿などがあった。部屋の奥はビロードのカーテンで仕切られ、その向こうは休憩のための寝台でもあるのだろうか。どちらにしても、とても一兵士のものとは思えぬ豪華な調度である。
「こいつあ……かなりの大物の天幕か」
 ふと見ると、そのビロードの仕切りの前に兜が転がっていた。ジャリア軍特有の頭上が尖った形で、その頭頂部には白と赤の房飾りがついている。
「……あれは、確か」
 その兜を確かめようと、レークが一歩進み出た、そのとき
「誰だ」
 はっとするような低い声が、ビロードのカーテンの向こうから聞こえた。
 レークはその場に凍りついた。人のいる気配はまったく感じなかったのだ。
「誰だ。ザージーンか?」
 むくりと人が身を起こすような気配と、
「誰も入るなと言ったろう」
 かすかないらだちをふくんだ声……
「あ……」
 なにか、恐るべき気が立ちのぼったような、そんな感じがした。
 ゆらりと、カーテンが動いた。
 そこに
 その男がいた。
 


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