水晶剣伝説 W スタンディノーブル防城戦

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V

「このくらい離れれば、大丈夫だろう」
 城壁から離れてしばらく走り続けた三人は、林の中の木の幹にもたれて息をついていた。
「肝を冷やしましたね……まさか、よりによって黒竜王子とはちあわせとは」
 額の汗をぬぐいながらアルーズが言う。
「申し訳ありません……自分が南門へと案内したばかりに。でもまさか、ジャリア軍もあそこを見つけていたとは」
「なあに、お前のせいじゃないさオルゴ。それに、悪名高いジャリアのフェルス王子を近くで拝めただけでも、いいみやげ話ができたってもんさ。ともかくも、他の方法を探すとしようぜ。どうやら日が高くなる前に入城しないと、キナ臭いことになりそうだ」
「というと、ジャリア軍が攻撃を始めるということですか?」
「たぶんな。さっきの様子からして、やつらはきっと城の門をすべて包囲してから一斉に攻撃を始めるつもりだろう。そうなってからじゃ手遅れになる」
「ですが、あの門から入れないとなると……どうしたらいいのか」
「おいオルゴ、他に門はないのか?通用門みたいのとか、秘密の抜け穴とかさ」
「抜け穴……そんな便利なものがあればいいんですが」
 三人は黙り込んだ。ここまできて城に入れないという状況は、さすがに予想もしなかったのだ。
「まあ、ともかくだ、ここにじっとしていても仕方がない。今度は少し西の方へ行ってみようぜ」
 レークはやや無責任に言った。他に考えも浮かばないようなので、三人はまた木々に身を隠しながら林の中を歩きだした。
「どうも……いけねえな。ジャリア兵の気配がさ、そこいら中でしやがる」
「そうですか。私にはとくになにも聞こえませんが」
 アルーズが首をかしげる。
「オレには分かるんだ。なんてえかこう……物騒な殺気だったものがさ。戦いががもうすぐ始まりそうな、そんなピリピリした空気が、そこかしこに漂ってやがる」
 そう言ってレークは首の後ろを撫でつけた。
「うう……ぶるぶる。このへんがそそけ立つような感じだぜ。四方八方に敵の気配がするってのは、どうにもたまらん気分だな」
「斥候の情報によれば、ジャリア軍は五千の人数で、この城を包囲しようとしているわけですから……このままでは、城壁に近づくのすら難しくなりますね」
 アルーズの言葉に、レークとオルゴも顔つきを険しくした。
 しばらくゆくと、またしてもジャリアの偵察隊とおぼしき気配が近づいてきた。
「くそっ、ここもヤバいようだ。向こうへ逃げろ」
 三人は木々の間をぬうように、茂みの奥へと走り出した。
 こちらの気配に気づいたのか、後方からジャリア兵の声が上がる。
「不審な者がいるぞ。逃がすな」
「ちっ」
 レークが振り返ると、木々の間から黒い鎧のジャリア兵士が現れた。
「こっちだぞ。捕らえろ!」
「やべえぞ。見つかった」
 ここで捕らわれてしまっては元も子もない。スタンディノーブル城の偵察に来て、逆に敵の捕虜となってしまったとあっては、笑い話にもならないだろう。
 追い立てられるようにして、三人は林の中を走り抜けていった。
(こんなに走るのは久しぶりだな)
 木の根に足を取られないように、木々の間を駆けながら、レークはふと考えた。
 見上げると、梢の間からは晴れ渡った空の青さが滲み出し、緑の香りとひんやりとした朝の空気が心地よく頬を撫でつける。
 こんな際ではあったが、自らが生きていることが実感できる気がした。隠れながら息を殺しているよりは、敵に追われているとはいえ、こうして思うがままに体を動かす方がずっと気持ちがいい。
(よし……オレはまだ、大丈夫だ)
 そんな自信が沸いてくる。たとえ敵に囲まれたとしても、自分なら切り抜けられるだろう……そう信じられる。
 振り返って二人が付いてきていることを確かめると、アルーズはさすが鍛えられた騎士だけあり、遅れることなくすぐ後ろをぴったりと走っている。
 オルゴの方は体の傷が痛むのか、ややつらそうであった。
「大丈夫か?もうすぐ林を抜けるぞ」
「ええ、なんとか……」
 脇腹に手をやりながらオルゴがうなずく。
「この先は、広場になっているようだな」
「レークどの、もしやここは……」
 オルゴが言うよりも早く、目の前の木々の間を抜けると、突然視界が開けた。
 いきなり周りが明るくなり、まぶしい朝日が降り注ぐ。林を抜けたのだ。
「なんだ……」
 彼らは思わず立ち止まっていた。
「これは……」
 レークが目を見開いた。他の二人も言葉を失ったように、目の前に現れたその光景を見つめた。
 目前に広大な空間が広がっていた。
「なんて……なんてこった」
 レークがつぶやく。
 そこは広々とした草地だった。右手には朝日に照らされたスタンディノーブル城がそびえ、その城壁に動く城の騎士たちの姿まではっきりと分かる。
 だが、三人が息をのんで見つめるのは、広場にうごめくたくさんの黒い不吉な姿であった。それはジャリア兵の軍勢だった!
「あれが……敵の本陣か」
 その数ゆうに五百人以上はいたろう。ここからでは黒々とした甲虫のようにも見える、ジャリア兵たちは広場の中央付近に集まり、なにかの作業をしているようだった。
 建設中らしい巨大な攻城塔も見えた。その周りには、木材や金具などを運んでくる兵たちが忙しそうに立ち回っている。広場の端にはたくさんの木材が並べられ、その近くには組み立て中らしい巨大な武器らしきものがあった。
「あれは……投石機のようです」
 驚きに目を見開きながら、オルゴがつぶやいた。
「こりゃ……とんでもねえとこに出ちまったようだな」
 レークは思わずその顔に笑いを浮かべた。想像を越えた状況に出くわすときには、もはやただ笑うしかない。
 彼らが見ているのは、ジャリア軍による本格的な城攻めの準備であった。それはまぎれもなく、大規模な戦闘がこれから始まってゆくことを示す恐るべき光景だった。
「レークどの……」
 アルーズが言いかけたときだ。
 遠くから角笛の音が聞こえ、ジャリア兵が慌ただしく動きだすのが遠目に見えた。
「どうも、見つかったらしいぞ」
 いくつもの黒い鎧姿がこちらに向かってくる。
 蒼白になって立ちすくむオルゴとアルーズに、レークは叫んだ。
「ともかく……逃げろっ!」
 三人は脱兎のごとく走り出した。
 再び林の中に分け入り、木々の間を駆け抜ける。
「走れっ」
 レークは先頭にたって走りながら、二人が付いて来ているのを確認した。もしこんなところではぐれでもしたら、また遭遇することは難しい。その前にジャリア兵に捕らわれて、尋問と拷問の憂き目に合うのが関の山だ。
 敵全体にこちらの存在が知られてしまったからには、林の中には、そこら中に追手がいるような気がする。背後からの気配に気を取られていると、いきなり前方の木の間にジャリア兵の黒い鎧が見えて、レークをぎょっとさせた。
「ひえっ、やばいやばい」
 慌てて左に方向を変え、そちらに走り出す。
「レークどの、そっちは城壁の方ですよ」
「ああ、分かってるよ。だがこっちに行くしかないだろう。前も後ろもジャリア兵どもがわんさかいるんだ!」
 城壁に近づけばまた偵察隊に鉢合わせするかもしれない。それでもここで捕まるよりはましだった。背後からは、まだジャリア兵の気配が消えない。
「くそっ、どっちに行きゃいいんだ……」
 神経を集中させ、人けのない方向へ勘を頼りに走る。
 しばらく走ると、木々の間に城壁が見えてきた。三人は立ち止まり、息を整えながら周囲の気配を窺った。
「ここはどのあたりだ?オルゴ」
「たぶん、南門よりやや西のあたりですね」
「これからどうしますか?」
 息を切らしながらアルーズが尋ねる。レークは腕を組んだ。
「そうだな……このまま逃げ回っていても、いずれ奴らに捕まるだろう」
「ええ……」
「こうなったら、機を見て城から離れ、そのまま逃げるのが得策かもしれん……」
「ですが……しかし」
 ぐっと口許を引き結んだオルゴに、レークは言った。
「お前の気持ちも分かる。仲間を殺され悔しいだろう。だが命あってのものだねだ。ここで無駄死にすることはない。それに、ジャリア軍に捕まれば手ひどい拷問を受けるだろう。あの黒竜王子は、ちらっと見ただけでも恐ろしい野郎みたいだ」
「拷問などは恐れはしませんが……」
 オルゴは絞り出すような声で言った。
「しかし、無駄死にというのは……それも本意ではありません」
「そうとも。生きていりゃあ、また機会もあるってもんだぜ。ジャリア軍の方にしても、これから城を攻めようってときに、いつまでも俺たちにかまっているゆとりはないだろう。それならかえって逃げやすくなる。それに、今頃レイスラーブからは、援軍が出発しているに違いない。それに合流して、ジャリア軍の布陣を報告するだけでも任務をはたしたことになる。そうだろう?」
「それは、もちろん……」
 アルーズがうなずく。
 そのとき、林の奥からジャリア兵の気配が近づいてきた。
「ちっ、追いついてきやがったか。ともかく、いったんどこかに隠れるんだ」
「しかし、どこかといっても……」
 辺りを見回しても、木々の他には隠れられそうなところはない。
「すぐ前は城壁か……くそ、すぐそこに門でもありゃあな」
 城を目の前にしているというのにたどり着けない。そのもどかしさに舌打ちをしつつ、レークは周囲に目をやった。
 城壁からやや離れた茂みの向こうに、なにかが見えた。
「おや、ありゃあなんだ?」
 そちらに近づいてみると、茂みの暗がりに埋もれるように小さな石壁があった。その古びた石壁は苔むしていて、少し離れればまったく目立たない。
「おい、ここなら少しの間隠れられそうだぞ」
 レークは二人を手招きした。
「ん……これはなんだ?」
 壁の裏側に回ってみると、足元にぽっかりと穴が開けられていた。
 覗き込んでみると、中は真っ暗でどのくらい深いものか分からない。
「これは……古井戸のようですね」
 そばに来たオルゴとアルーズも穴を覗き込む。
「井戸か。よし、ちょっとまってろ」
 レークは小石を拾うと穴に落としてみた。
 ややあって、底の方で乾いた音がした。おそらくかつてはたっぷりと水をたたえていたのだろうが、今は干上がってしまっているらしい。
「ふむ。こりゃあ、いい隠れ家だぞ」
「レーク殿……まさかここに」
 アルーズが嫌な顔をした。
「なんだ、おまえ。まさか……暗いのが怖いとか言わないだろうな?」
「いえ、けっしてそのような……ただ」
「ただ、なんだ?」
「いえ、その……」
 恥ずかしそうにアルーズは言った。
「狭いのがちょっと、ダメでして……」
「そうか。よし、では入ろう」
「ええっ」
 にやりと笑うと、レークは意地悪く言った。
「早くしないと。そらジャリア兵どもがやってくるぞ」
「……わかりましたよ」
「よし。じゃあまずはオルゴ、次はアルーズが入れ。俺は追手が来ないかここで見張っているから」
 レークは、革袋から巻かれたロープを引っ張りだし、それを近くの木の幹に縛りつけた。
「気をつけろよ。石を落としたところそんなには深くないようだがな。万一足を滑らせて井戸の底でおだぶつじゃあ、喜劇の伝説になっちまう」
「はい。では私からいきます」
 オルゴがロープを手に、するすると井戸に入ってゆく。アルーズもロープをつかむと、おそるおそる井戸の暗がりを覗きこんだ。
「おい、早くしろ。どうやら敵さんの気配が近づいてきたぞ」
「は、はい……」
 アルーズが井戸の内側の石に足をかけたとき、馬蹄の音が近づいてきた。
(早く行け)
 小声でアルーズを急かし、レークは石壁の後ろに身をかがめた。
 壁ごしに覗き見ると、偵察兵らしいジャリア兵が、馬上からしきりに辺りを窺っている。この辺りが怪しいと睨んでいるようだ。
(どうするか……)
 今のうちに自分も井戸に入ってしまうか、それとも、もうしばらくこのまま見張るべきか……レークは迷った。相手は一人であるから、戦っても倒すことはできるだろう。だがここで剣を使えば、他の兵に気づかれるかもしれない。
(よし、井戸に入ってやりすごすか……)
 そう決めると、レークはロープをつかんで、井戸のふちに足をかけようとした。
 だがそのとき、石のかけらを足に引っ掛け、井戸に落としてしまった。
(しまった)
 井戸の底でカランと音がした。とたんに、ジャリア兵がこちらを向く。
(まずい……)
 レークは壁の後ろに身をかがめた。
 ジャリア兵は馬を降り、まっすぐこちらに歩いてくる。
(くそ……こうなったら、やるしかないか)
 レークは腰の剣に手をやった。
 一撃で相手を倒せば、もしかしたら他の敵には気付かれないかもしれない。だが、それにしても、倒したジャリア兵をどこかに隠さないことには、いずれこの隠れ場所も見つけられてしまうだろう。
 レークは必死に考えをめぐらした。
 ジャリア兵が茂みをかき分けて、そこまで近づいてきていた。
(どうする……やるしかないのか)
(……それとも)
 レークは大きく息を吸い込んだ。
 ジャリア兵は壁のすぐ向こうだ。
(くそ。もう……ままよ)
 直感的にレークは飛び出した。
「そらっ!」
 相手が声を上げる間もなく、その鎧めがけて体当たりをする。
 不意をつかれたジャリアが倒れ込んだ。その上に馬乗りになると、レークは手にした剣を振り上げた。
(だが、ここでやっちまうと……)
 一瞬のためらいがよぎる。
 それが悪かった。ジャリア兵が体をよじると、レークは振り飛ばされた。
「くそっ」
 くるりと回って起き上がり、剣を構えなおしたレークだったが、敵もなかなかの腕前のようだ。すらりと長剣を引き抜いて、じりじりと迫ってくる。
 むろん、剣を交えれば自分が勝つには違いないが、全身に鎧をまとった相手では、いかに上手く戦おうとも鉄のぶつかる響きで、また敵を呼び寄せてしまうだろう。
「ちぇっ、仕方ねえな」
 何を思ったか、レークはいきなり剣を放り出した。
「ほら降参だ。もういいや。捕虜にしてくれ」
 そう言って両手を上げて見せると、怪訝そうにしていたジャリア兵は、ゆっくりと近寄ってきた。
「……」
 レークは近づいてくるジャリア兵を見つめながら、左手の人差し指の指輪を親指でこするように触れた。すると、カチリと小さな音がして指輪の内側が動いた。
(アレン)
 心の中で強く叫んぶ。
(今が、そのときだ!)
 親指で指輪の内側を回しながら、念じるように気を集中する。
 ジャリア兵が目の前に来た。
「怪しい奴め。貴様……城の兵か?」
「……」
 剣先を首もとに突きつけられ、レークの額にじっとりと汗がにじんだ。
「答えろ。さもなくば、この場で斬り捨てるぞ」
「分かった。じゃあこれを……」
 レークは、指輪をはめた左手をゆっくりと差し出した。
「これを見ろ!」
「なに……」
 一瞬、ぎくりとしたようにジャリア兵は身構えたが、
 なにが起こったのか、そのままぴたりと動きをとめた。
「……」
 動かなくなったジャリア兵を前に、レークはごくりとつばを飲み込んだ。まるで石になってしまったかのように、鎧姿の相手はまったく動かない。
「おい……」
 レークはやや不安になって、声をかけてみた。
 すると、ややあって返答があった。
「なん……だ」
 なにかに操られているかのように、その声にはまるで抑揚というものがない。
(どうやら効いたみたいだな)
 レークはほっと胸をなで下ろした。
「ようし。いいか、よく聞けよ」
 左手の指輪をこすりながら、レークは命令するように告げた。
「お前は、何も知らない。この場所のことも、ここに俺たちがいたこともだ」
「なにも……しら」
 抑揚のない声が、ジャリア兵の口からぼそぼそともれる。
「しら、しらない……」
「そうだ。この辺りにはなにもなかった。なにも見なかった。そう報告するんだ。それがお前の任務だ」
「なにもなかった……このあたりには」
 まるで操り人形のように、ジャリア兵は繰り返した。
「誰もいない。なにも見なかった。いいな。そう報告しろ」
「何も見なかった……だれも」
「そうだ。ここには誰もいなかった。そう言えばいい。そう言えば、お前は仕事を立派にまっとうできる」
「誰もいなかった。そう言う……」
 うつろな目をしたジャリア兵がそうつぶやく。
「そうだ。分かったな。よし、行け。あの馬に乗って、報告に帰れ」
「分かった」
 ジャリア兵は無造作に剣をしまうと、ふらふらと歩きだした。
 内心でははらはらしながら、去ってゆくジャリア兵の馬を見送ると、レークはほっと息をついた。
「はぁ……助かった。この指輪のことを思い出してよかったぜ」
 今一度指輪に触れてみると、その表面がわずかに熱を持っているようだった。
「これが、魔力の力か……」
 レークは不思議そうにつぶやいた。出発前にアレンから指輪を渡されたときに、説明された言葉の端々が思い浮かぶ。
(いいか、レーク。この指輪にはな、水晶の短剣の魔力を込めてある。どうしても必要になったときには、この指輪の内側をこうやって回転させながら、心に強く念じろ。今がそのときだ。魔力が必要だと。そうすれば、俺が持っている短剣から、ある程度の魔力がそちらの指輪へと伝わってゆく。ただし、知っての通り、この魔力は目の前の一人の人間にしか効かない。だからいいか、間違ってもこの指輪の力を当てにしすぎるな。これはあくまで魔力を媒介する道具にすぎない。指輪そのものには何の力もないのだからな。それをよく覚えておけ)
「なるほど。こりゃあ、使いようによっては便利な代物だな。そういえば、あの大剣技会のときも、アレンの奴は、水晶の魔力を使って試合場から抜け出したんだったな……」
 ジャリア兵が去っていった方向を見やると、辺りは静まり返り、敵の気配はもうしなかった。
「……さてと、ともかく、俺も井戸の中へおじゃまするとするか」
 再び井戸の中を見下ろすと、暗がりの中にぽっと灯がともっている。先に下りたオルゴとアルーズが蝋燭に火をつけたのだろう。
「なにしてんだあいつら。もし敵が井戸を覗いたら見つかっちまうぞ」
 レークは今度は慎重に足をかけ、ロープを手にして井戸穴へ入った。
 壁に足をつきながら、ゆっくりと降りてゆく。底までは案外深く、空気はひんやりと冷たかった。
「おい。ちょっと開けてくれ。よっと……」
 先に入った二人に声をかけ、レークは井戸の底に降り立った。
 足元はいくらか湿っていたが、水はほとんど干上がっている。上から覗き込んだときにはひどく狭そうだったが、こうして降りてみると、三人が隠れるには十分な空間であった。
「ああ、レークどの。大丈夫でしたか?なにやら声がしていましたが」
 アルーズが心配そうに訊いた。オルゴの方は、壁の方を向いてなにやらしゃがんだままだ。
「ああ。偵察らしいジャリア兵が一人きたがな、なんとかやり過ごした」
「そうでしたか」
「ところで、なにやってんだ?お前ら」
「ええ、それが……どうも、なにかありそうなんです」
「なにかってなんだ?」
「これを見てください」
 さっきから壁に向けて蝋燭の火を照らしていたオルゴが振り返った。
 覗き込んだレークは眉を寄せた。
 井戸の壁面は平たい石を重ねられた造りだったが、その底に近いあたりに、小さな丸い穴があった。
「こりゃあ、なんの穴だ?」
「さあ、分かりません」
 蝋燭を照らしながらオルゴは言った。
「ですが、たぶん……この井戸は城に水を引くためのものだったのでしょう。昔は城の外に井戸穴があったと、城の老婆から聞いたことがあります」
「なるほど。昔はこの穴を通って、井戸の水が城内まで流れていったというわけだ。つまりこの穴は、城まで続いているということだな」
 レークはかがみこんで、その穴を覗き込んだ。穴の大きさは拳二つ分ほどであるが、顔を近づけると、そこから涼しい空気が吹いてくるのが感じられる。
「なんだか、変だぞ」
「なにがです?」
「どうも、この穴の向こうは、もっと広くなっているような気がする。でなきゃこんなに風が通るはずがないからな」
 レークは蝋燭を手にして、もう一度じっくりと穴を覗いた。
「やっぱり、壁の向こうはずっと広いみたいだ。それに、この壁石だがな、見たところこの穴の下……ここのところだけ、どうも色が違う気がする」
「本当ですか?」
「ああ、ちょっと、明かりを持ってろ」
 オルゴに蝋燭を渡すと、レークは壁の穴に腕を差し入れてみた。
「どれ……。おっ、奥になにかあるぞ」
 手の先が、なにやら棒のようなものに触れた。
「ありゃ、なんか動かせるぞ」
 いったいなにがあるのかと、オルゴとアルーズも穴を覗き込む。
「こうかな……」
 つかんだ棒を動かしてみると、棒は左の方に動かせることが分かった。狭い穴に差し入れた腕ではなかなか力が入らなかったが、ぎしぎしと音を立てる棒を、少しずつ動かしてゆく。
「そら……よ」
 最後のひと押しとばかりに力を込めると、まるで扉のかんぬきのように棒が抜けてゆく感触があった。そしてガチャリと鍵が開くような音がした。
「おい、こいつは、もしかすると……」
「レークどの。まさか、この穴は……」
「ああ」
 先程から目星をつけていた色の違う壁石に手を当てる。
「たぶん、こいつが……」
 両手に力を込め、石を押すと……
 ずしりと重たい感触とともに壁石が動いた。
「おお」
「へへ、こいつはすげえぞ」
 押し続けると重い壁石はゆっくりと奥へ入ってゆき、そこに人ひとりがくぐれるほどの穴がぽっかりと開いた。
「見ろ。こいつは、ただの水路じゃなさそうだ」
「ええ、まるで……抜け穴のようです」
 オルゴとアルーズも、興奮を隠せない様子でその穴を見つめている。
「ともかく、入ってみようぜ。いつまでも井戸にかくれんぼよりは、ずっとありがてえ」
 わくわくとした子供のような冒険心も手伝って、レークは一番にその穴に這い入った。
「よいしょ。こりや、けっこう狭いな……やっぱ」
 穴の入り口付近は這ったままで、じりじりと進むのがやっとの狭さだった。
 だが、レークの思ったとおり、穴は奥にゆくにしたがって徐々に広くなっているようだった。しばらく這い進むとやがて頭上の空間が広くなり、ついに立ち上がって歩けるほどになった。
「こりゃあ、立派なもんだ」
 後から付いてきたオルゴとアルーズも、頭がぶつからないかと慎重に立ち上がると、感心したように辺りを見回した。
 さらに進むと、通路は人がすれ違えるくらいの広さになった。かつては水道として使っていたのだろうが、これだけの広さであれば、人間が行き来することも十分に可能である。
「これは……大変な地下通路ですよ」
「まさか、こんなものが、あの井戸から続いているとは。私も知りませんでした」
 辺りにはひんやりとした湿った空気が漂い、不気味に静まり返っている。
 レークは暗がりに包まれた通路の先を、じっと凝視した。
「この先がどうなっているのか暗くてよく分からんが……あっちは城の方向で間違いないようだな」
「ええ、それは確かです」
 うなずくオルゴも、このような地下の抜け道の存在に、興奮しているようだった。
「このままゆけば、たぶん城のどこかに着くはずです」
 通路は壁から天井は半円を描くように曲線に造られ、しっかりとした強度があるようだった。苔むした壁面のところどころから、ぽたぽたと水滴がしたたり落ちている。
 足元を滑らせぬように気を配りながら、三人は蝋燭の火を頼りに、暗闇に包まれた地下通路を、奥へ奥へと進んでいった。
「しかし、こんな大層な抜け穴を、いったいいつごろ造ったんだろうな」
「たぶん、少なくとも数十年前か……あるいはさらに昔でしょう。この城自体、ウェルドスラーブでは最も古い時代の城のひとつですから」
「なるほどなあ。井戸が枯れるとともに、この通路も忘れ去られたってわけか」
 レークは感心しながら、トンネルのように続いてゆくかつての地下水路を、あらためて見渡した。
 さらにしばらくゆくと、通路はまた少しずつ狭くなってきた。天井が低くなるにつれ、三人は身をかがめながら歩かなくてはならなくなった。
「たぶん、もうすぐ出口なのでしょう」
「ふむ。さあて、はたしてどんな所に出るのか……おや待てよ」
 先頭をゆくレークは、何かに気づいて足をとめた。
「左の壁になにかあるぞ」
 蝋燭の火で照らしてみると、壁の膝くらいの高さに窓のような穴が開いていた。
「こりゃあ……なんだろう」
 狭い穴はずっと先まで続いているようだった。よく見ると、それは通路のようでもある。
「おい、オルゴ。どう思う」
「おそらく、水路が一定以上の水量になると、ここから余分な水が抜けるように造られているのではないでしょうか」
「なるほど。城が水浸しにならないように考えてあるわけか。それは大したもんですな」
 アルーズが感心して言う。
「よし。ちょっとここで待っていろ。この先がどうなっているのか見てくる」
「レ、レーク殿、危険ですよ」
「なあに、ちょっと見てくるだけさ。心配するな」
 レークは蝋燭をオルゴに渡すと、その狭い穴に入っていった。
 しばらくして、穴から戻ってきたレークは、満足そうな顔で二人にうなずいた。
「どうでした?」
「ああ、思ったとおりだ。この穴は川まで続いている」
「川まで……つまりマトレーセ川の西の支流ですか」
 レークはにやりとしてうなずく。
 中州にあるステンディノーブ城の手前で、マトレーセ川は東と西の二つの支流に分かれており、レークたちが渡ってきたのは東の支流にあたる。
「穴の向こうから顔を出すと、目の前に川があった。ジャリア軍の船も近くに見えたぜ」
「本当ですか?」
「ああ、確かにやつらはマトレーセ川を船で下ってやってきたのだな。百人以上は乗れそうな大きなガレー船が何隻もあったぜ」
「なんと……」
「するとやはり、船に関してはアルディの援助があったとみるべきでしょうな」
 オルゴとアルーズは、それぞれに顔つきを険しくした。だがレークの方は、むしろこの冒険が楽しくなってきたように、威勢よく言った。
「さあ、ともかく先に進もうぜ。そろそろこの狭苦しい抜け道にはうんざりしてきた」
 三人はまた歩きだした。通路はさらに狭くなり、彼らは腰をかがめ、膝をつき、いざるようにして進んだ。
 狭い通路の前方に壁が見えた。
「どうやら、着いたらしいな」
 行き止まりのようだが、おそらくそこに出口があるに違いない。壁をこつこつと叩いてみると、それは石壁ではなく木で出来ていた。
「この向こうから外の空気が流れてくるぞ」
「出られそうですか?」
「ああ、どうやら、これはただの板のようだ。ちょっと待ってろ」
 レークは蝋燭をオルゴに渡すと、四つん這いのままで後ろを向き、思い切り板を蹴りつけた。
「だ、大丈夫ですか?そんなことして」
「よし、もうちょいだ」
 何度か蹴りつけると、ばきりと音を立てて板が割れた。
「そらっ」
 最後のひと蹴りで、バキッという音とともに板が吹き飛んだ。
「やったぞ」
 レークは穴から這いだした。後からアルーズとオルゴも続く。
 そこは石造りの壁に囲まれた広い部屋だった。どこにも窓がないので辺りは暗く、穴の中の暗がりに慣れた目でなければ、なにも見えなかったかもしれない。
「ここは、どうやら、城の地下室らしいな……」
「ここがどこか分かるか?オルゴ」
「城門塔の地下室だと思います。地下道を歩いてきた距離から考えても、たぶん南の城門塔かと。階段で上に登ってみれば、はっきりするでしょう」
「なるほど。てえことは、ともかくあの城壁の内側には入れたわけだな。この水路は今は使われなくなったから、板を打ちつけてふさいだんだろう」
 レークは蝋燭を手に地下室内を見渡した。
 辺りには木材や木箱などが雑多に積まれ、葡萄酒の樽がいくつも置かれていた。ここは貯蔵庫としても使われているらしい。
「うほっ、酒だ酒!」
「レーク殿、今は酒どころでは……」
「ああ、分かってるよ。でも、気つけに……な、ひと口くらい」
「だめですよ。さあ行きましょう」
 アルーズに引っ張られるようにして、レークは酒樽に別れを告げた。
 部屋を出ると上に続く螺旋階段があった。その横には扉のない小さな部屋があり、人の頭ほどの大きさの石が山のように積まれていた。
「ここは投石機用の石の保管場ですね」
 オルゴが説明した。
「なんだつまらん。まだ酒蔵の方がいいや」
「レークどの、お気持ちは分かりますが、敵を倒すのは酒ではなく、どちらかというと石の方ですよ」
「へん。石なんてな、鍋のふたにでも使えばいいんだよ。俺には剣だけでたくさんだ」
 憎たらしそうに石を蹴り付けるレークに、アルーズが苦笑する。
「この階段を上ると一階に出るはずです」
 城に詳しいオルゴを先頭に、三人は階段を上りだした。
 幅の狭い螺旋階段は、敵が進入した際には、城の騎士が上りながら後退して戦うことを想定して、右回りに造られている。登ってゆく方は右手の剣が壁に邪魔される恰好になり、不利になるのだ。アルーズがそう説明すると、
「なら俺は両手で使えるから、守りも攻めも問題なしだな。敵にして恐ろし、味方にしていと頼もし……それがオレ、レーク・ドップ様ってワケよ」
 レークは剣を抜いて、左右の手に素早く持ち替えて見せた。
 そのとき、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。と思うと、鎧姿の騎士が現れた。
「うわっ、な、何者だ。お前たち!」
 その若い騎士はこちらを見るや、驚いた様子で剣に手をやった。
「お前たち、ここで何をしている。どこから入ってきた?」
「そんなにいっぺんに聞かれてもなあ。とりあえず疲れてるんだ。ちょっと休ませてくれや」
 横柄なレークの態度に、騎士は唖然としたようにその場に立ちすくんだ。
「な、なんなんだ。お前たちは……」
「我々は怪しいものではないのです」
 慌ててオルゴが説明した。
「この方々は、レイスラーブより遣わされたれっきとした騎士どのであります」
「いかにも、」
 進み出たアルーズが、胸に手を当て騎士の礼をした。
「我々はレイスラーブよりはるばる馬を飛ばしてまいった。自分はトレヴィザン提督直属の騎士、アルーズと申す。ともかくも、友軍の危機を聞きつけ、やってきた次第。城主たるマーコット伯にお取り次ぎ願いたいが、かなわぬとあれば、まずは隊長どのにお目通しを願うのがよろしいのかな」
「それは……なんと」
 騎士は、どう判断してよいものか分からぬとばかりに困惑の表情を浮かべた。確かに、いきなり地下室への階段に見知らぬ人間が現れて、レイスラーブから来た騎士だと言われても、にわかに信じがたいのも無理からぬ話であった。
「と、ともかく、まずは連行をせねばなるまい」
「連行だって?おい。歓迎のご案内の間違いだろう」
「レークどの。ここは穏便に」
「ああ、分かったよ……」
「どうした?なにをしてるんだ」
 騒ぎを聞きつけた別の騎士が降りてくると、若い騎士はほっとした様子で報告した。
「は、はい。申し訳ありません。それが……あの、突然この者たちが」
「なに……ああ、お前、オルゴ、オルゴか?」
「ああ、コンロー殿!」
「お前、無事だったのか、オルゴ」
「ええ。この通り」
 顔見知りの相手だったらしく、二人は歩み寄って握手を交わした。
「なんだ、オルゴの知り合いなのか?」
「ええ。こちらは城の守備隊の副隊長であられる、コンロー殿です」
 口髭をたくわえた短髪の騎士は、レークとアルーズにうなずきかけた。
「スタンディノーブル城の城壁守備隊を任されています、コンローと申します。部下のものが失礼をいたしました」
「なあに、分かればいいんだ。オレたちが怪しい輩なんかでないってな」
「ところで、貴殿たちはいったいどうやってここへ?城の外はジャリア兵どもが取り囲んでいて、なかなか近づけぬはずだが」
 不思議そうに尋ねる騎士に、レークは鷹揚にうなずいてみせた。
「ああ、それそれ。これには、大変な苦難の旅があったのよ。オレたちはな、この城の危機を聞きつけて、はるばるスタンディノーブルから夜通し馬を走らせて到着したんだ。食うものも食わず、悪鬼のごときジャリア兵に追われ、何度となく命の危険を乗り越えながら、それでも勇敢に己の使命を全うするため、決死の思いでこの城に辿り着いたのだ」
「おお、そうでしたか……」
 騎士はレークの話に感動したように、何度もうなずいた。
「スタンディノーブルから……それはそれは、大変でしたな」
「だから、な。まずは何も聞かず、ちょびっとばかり休ませてくれ」
「もちろんですとも。では、ひとまずお部屋にて休まられるがよい。私はマーコット伯にこの事をご報告にまいらねば」
「ああ頼む。それに水も一杯もらえるとありがたい。いや、もちろん酒でもいいがな。さっきの地下室にあったワインでもいいし……」
「ははは、それはなんと豪胆な。戦のまえに景気付けというわけですかな。ではケーヒル、方々をお部屋にご案内して差し上げろ」
 若い騎士にそう命じると、副隊長の騎士は報告のため早足で階段を上っていった。
「では、お三人はこちらへ」
 三人は若い騎士に案内され螺旋階段を上った。
 三階まで来ると城壁内側の歩廊に出た。厚い壁の内部に造られた狭い歩廊は、人がかろうじてすれ違えるくらいの幅しかなく、壁には所々に矢狭間があった。これは外の敵を弓で狙い撃つための細長い窓で、そこには弩を手にした騎士たちが待機していて、城内が戦いを目前にした臨戦態勢にあることが見て取れた。
 歩廊を通り抜けて三人が案内されたのは、城壁守備隊の騎士たちが休むための小部屋だった。
「どうぞ、ひとまずはこのこでお休みください。水桶の水はご自由に使っていただいてけっこうです」
 一礼して騎士が去っていくと、三人はどっと床に座り込んだ。
「ふいー……ともかく、やっと城に入れたわけだな」
 ジャリア兵に追い回され、暗い地下道を通り抜け、けっこうな苦労の果てに、ようやく目的の城に辿り着いたわけであるから、さすがにレークもほっと息をついた。
「一時はどうなることかと思いました」
「ああ、まったくな。しかし、さっきはお前がいたおかげて怪しまれずに済んだ。礼を言うぜオルゴ」
「いえ、私はなにも。ただ、この城についてはだいたいのことは知っていますので、またお役に立てそうなことがあったら、なんなりと言ってください」
「ああ、そうするよ。とりあえず水を飲ませてもらおうかな」
 部屋に置いてある水桶に顔を近づけ、レークはくんくんと匂いをかいだ。
「おお、これはなかなかいい水だな。この城にはいい井戸があるらしい」
「ええ。城の中郭にある井戸はいい水が出ますよ。だから、ここで作った麦芽酒はとても美味いんです」
「そりゃいい。いい水があることがいい城の条件だからな。水が悪いところには住む気もしねえ。これなら籠城戦も戦えそうだ」
 桶からすくった水をごくごくと飲むと、人心地がついた。
 あらためて室内を見回すと、簡素な腰掛けと仮眠用の毛布くらいしかない、じつに殺風景な部屋だったが、夜通し馬を駆け通して来たレークとアルーズには、こうして水を飲んで休めるだけでも十分ありがたかった。
「いかんな。このまま横になったら、すぐに寝ちまいそうだ」
「そうですね。自分も安心したら、急に眠気が……」
 アルーズもつられたようにあくびをした。
 だが、ほどなくして扉が開かれ、さきほどの若い騎士が顔を出した。
「副隊長殿からのご伝言をお伝えします。城主のマーコット伯爵閣下がお二人とお会いになるそうです。天守の広間までお越しください」


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