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これまでのあらすじ

トレミリア王国の大剣技会で優勝し、宮廷騎士となったレークは、相棒のアレンとともに王国内で徐々に己の立場を築いてゆく。
一方、北の大国ジャリアでは、残虐王子と謳われるフェルス王子が、軍勢を率いてウェルドスラーブへ進行を開始していた。
友国の危機に際し、トレミリアは急ぎ援軍と物資の補給部隊をウェルドスラーブへ向けて出発させる。
その途中、レークやクリミナらは本隊と別れて隊を率い、コス島のメルカートリクスへ立ち寄り、そこから首都であるレイスラーブへと無事に物資を届ける。
レイスラーブでは、国王や提督トレヴィザンらの歓迎を受けるが、会議のさなか飛び込んできた斥候兵の報告で、西の国境にあるスタンディノーブル城がジャリア軍に包囲されていることを知らされる。
困惑する人々の中で、レークは一人立ち上がり、自らがスタンディノーブル城へ赴くことを提案するのだった。




 水晶剣伝説 W スタンディノーブル防城戦

T

 夕闇の下りはじめた街道を、二つの騎影が疾走していた。
 ウェルドスラーブを横断する、もっとも大きな街道であるこの道は、日が沈みかかるこの時刻になっても、行商人の隊商や物資を乗せた馬車がたくさん行き交う。その多くは、国内第二の都市であるオールギアから首都のレイスラーブへと向かう馬車である。船便以外で西側の国々から持ち込まれるさまざまな食料や、物資……織物や衣服、宝石、金銀細工、それに剣や鎧などの大半が、この街道を通ってレイスラーブに運ばれるのだ。
 街道をゆくそうした馬車の列とすれ違い、そのまま猛烈なスピードで駆け抜けてゆく二頭の馬に、手綱をとる行商人たちは思わず振り返り、好奇の目を向ける。日も暮れかかるこんな時刻に、あのように大急ぎで馬を駆らせるというのはただごとではない。都市に情報を知らせるための早馬にしたところで、もう少しは他の通行者に気を配って馬を走らせるだろう。
 だがその二頭は、まるで決死の逃避行を続けるかのような、恐ろしい速度で街道を駆け抜けてゆく。ドドッ、ドドッという、重々しい馬蹄の響きは、通りをゆく全ての人々を振り向かせるほどの、なにか切迫したものを感じさせた。
 郊外の農民たちも、そろそろその日の仕事を終えて、都市の城壁に戻ろうかという時間である。一日の終わりを告げる太陽神アヴァリスは、すでに西の地平に沈みかかり、最後の残照がまぶしく道をゆく馬車を照らす。
 その夕日の方向に向かって、長い影を後ろに引きずりながら、その二騎は街道を疾走していた。
「もし、……もし」
 二騎のうち、後ろをゆく馬を走らせるのは、それと分からぬように簡素な胴着を身につけてはいたが、手綱を取る姿勢からしても訓練を受けた騎士であるに違いなかった。
 見た目にもまだ若そうなその騎士が、馬上で切れ切れに声を上げた。
「レ、レークどの……もう少し、速度をゆるめて下さい……」
 その声が聞こえたのか、前をゆく馬に乗る黒髪の若者が、慣れた様子で手綱を片手に持ち直して振り向いた。
「なんだ。もうついて来れねえのか?」
「も、申し訳……ありませぬ。ただ、ほんの少し、速度をゆるめてもらえませんか」
「なんだなんだ、だらしねえ。それでも騎士なのかよ、まったく」
 そう言って馬上で口元をゆがめたのは、トレミリアの騎士、そして元浪剣士レーク・ドップである。
「夜までにはオールギアに着くつもりなんだぜ。そんなにたらたらしちゃあいられねえんだよ」
「面目無い」
「仕方ねえな」
 つらそうな騎士の顔を見て、レークは軽く手綱を引き、馬の足を緩めた。
「かたじけない。なにせ、私は本職はガレー船乗りですので。騎士とはいっても、馬に乗るのは年に何度かしかありません」
 ほっとしたように言う騎士の横に、レークの馬が並ぶ。
「へえ、そうなのか。あのトレヴィザンの旦那の推薦だから、剣も馬もさぞ見事な腕前なんだろうと思っていたがな」
「しかし……私とて、剣の方ならそれなりに自信がありますぞ」
 やや誇りを傷つけられたように、騎士は口元を引き結んだ。
「海上ではガレー船を操り、海賊どもとの戦いも何度もしてきました」
「ああそう。だが、馬の方はからっきしってワケなんだな」
「いえ。乗馬が苦手だということではありません。ただ、その……しばらく乗っていなかったもので」
「はは、そうだろうとも」
 レークは笑いながらうなずいた。
 若い騎士は少々むっとした様子だったが、根が素直なたちなのか、そう険悪な顔つきでもない。トレヴィザン提督よりお供にと紹介されたときも、いかにも船乗りらしい素朴さがレークの気に入ったのだった。歳もレークとあまり変わらないくらいだろう。
「腕がなまっているんだったら、こうして馬を走らせながら、徐々にカンを取り戻していけばいいだろうさ」
「ええ、わかりました」
 負けていられぬとばかりに騎士はうなずいた。
「よし、ならまたゆるゆると速度を上げていくぞ。付いてこれるか?」
「付いてゆきますよ」
「よし」
 夕暮れの街道はしだいに暗さを増してゆく。速度を上げて疾走を始めた二つの騎影は、暮れゆく闇の中に徐々に溶け込んでゆくようだった。

 レークが単独でのスタンディノーブル行きを提案したとき、会議場は一瞬静まり返った。そのあと、円卓を囲むウェルドスラーブの諸公たちは猛烈に反対を唱えだした。
 あるものは、たかだか一人の騎士が戦地に行ってもどうにもなるものでもないとあざ笑い、あるものは、トレミリアからのよそものである人間が会議の決定に口を出すなど不愉快であるとあからさまに眉をひそめもした。一斉に上がった反発の声の中、その場を取り仕切るトレヴィザンはもとより、レークの横に座っていたクリミナも、なにをどう言ってよいかと分からぬように、その無謀な策を提案した剣士をただ無言で見つめるだけだった。
 しかし、レークは人々を見渡し、不敵な笑いをその顔に浮かべ、言ったのだ。
「なにをぼうっとしてるんだい。事はせっぱつまってるんだろう?援軍を出す決定は当然として、その前にこのオレがひとっ走り、向こうの状況を見てきてやるって言ってんだ。なんなら、城まで忍び込んで指令文書でもなんでも届けてやってもいい。ここからスタンディノーブルまでなら馬を走らせりゃ一日で着くさ。一刻を争うってんなら、のろのろと大軍が動きだす前に、このオレが向こうまで行ってやるよ」
 それを聞いた人々は一様に顔を見合せ、次にあれこれと言い始めた。その多くは、たかだか一人の騎士ごときに何ができるのかといった声であり、ほとんどの諸公たちはレークの言葉をただの夜迷い言であると嘲った。そんななか、ウェルドスラーブの軍事を司るトレヴィザン提督だけは、じっと黙って腕を組み、何事かを思案するふうだった。
「おらおら、こんな意味のねえ会議なんかでいつまでうだうだしていても、事態はなにもよくなりはしないだろう。とにかく、オレが斥候にでも伝達役にでもなってやろうって言ってるんだ。ありがたがられるのは分かるが、そんなに不景気なツラして人を見るんじゃねえよ」
「レーク、口がすぎるぞ」
 横に座っていたクリミナが、たしなめようと立ち上がりかけた。
 そのとき、それまでひと言も発することなかったトレヴィザンが声を上げた。
「よかろう」
 人々が一斉に注目する中を、提督はレークのそばまで歩いてゆくと、部屋中に響く声で告げた。
「方々、私はこのレークどのに、スタンディノーブルヘ行ってもらおうと思う」
 とたんに、会議場全体から、「おおっ」とざわめきが起こった。
「提督、しかし……」
 援軍部隊の隊長に任命された若きフレアン伯が、なにかを言いかける。
 それを手で制し、トレヴィザン提督は告げた。
「先の決定どおり、フレアン伯率いる援軍部隊は派遣する。明日中にだ。だが、それでもスタンディノーブルに援軍が到着するのは、どんなに早くても三日後になる。その間、なにもせずに手をこまねいているよりは、レークどのの言うように、あるいは誰かが斥候にゆくのが良策だろう。そして、できうるならば、包囲されたスタンディノーブル城の同胞に、増援は出発したという報を告げて士気を上げさせてやりたい」
「そうだろうとも」
 レークはぱちりと指を鳴らした。
「異論がある方はおるかな」
 諸公たちを見渡す提督の顔は真剣そのものだった。人々はざわめきつつも、誰も声を上げるものはいなかった。
「では、すまぬが、行ってくれるか、レークどの」
「ああいいよ」
 レークはうなずいた。それはまるで、すぐそこの隣町にでも遊びに行くような気軽な様子で。

 事が決まると、それからの準備は迅速に行われた。会議のあと、諸公たちはそれぞれの所有する騎士団に戻り、さっそく援軍部隊の編成に取りかかった。
 出立の準備を始めるレークに、トレヴィザンは一個小隊を貸そうと申し出たが、かえって足手まといになるとレークはそれを断った。その代わりに、腕が立ちなおかつスタンディノーブル付近の土地に詳しい騎士を一人付けてくれと頼んだ。そうして紹介されたのが、提督の直接の部下である騎士アルーズだった。彼はスタンディノーブルに近い町の出身で、剣の腕も提督のお墨付きということである。
 出発の準備が整いかけたころ、レークのもとにやってきたのはクリミナだった。彼女はレークがなんの相談もなく、いきなり突拍子もない提案をしたことにとても腹を立てていた。ただ、もう決定してしまった以上は仕方がない。ただし、こうなったら自分もともにスタンディノーブルへゆくと、彼女は決心したように言ったのだった。
 だがレークにしてみれば、女の道連れなどはただの足手まといにしかならない。いくらそう言っても食い下がるクリミナに向かって、彼はこう言った。
「ああ、それじゃあ、ただ危ないだの足手まといだのと言っても分からねえかな。ようするにさ、お姫様。オレはこれから早駆けの斥候として、敵に包囲された城へ忍び込もうってんだぜ。夜通し馬を走らせてケツが痛くもなるだろうし、小便をしに馬を下りるどころでもねえ。ときにはずぶぬれになって川を渡ったり、泥だらけになった穴を掘って敵から隠れることもあるんだぜ。分かるかい?それでも一緒に来るってんなら、もう止めはしねえ。ただし、その時はその綺麗なおぐしをさっぱり刈り上げて、男のふりをして汚ねえぼろ服を着てもらうがな。何故って、あからさまに騎士でございって馬に乗って走ってゆけば人目にもつくしな。そして、もし敵に捕まるようなことがあったら、女の場合は殺される前にそら、手ひどくなぶりものにされるんだってことをさ、よく覚えておきな」
 このいささか乱暴なもの言いは、さすがに功を奏した。彼女はげんなりとした顔つきになって、ついに黙り込んだ。
 レークはほっとした。なぜなら彼の方も、彼女にそんなみすぼらしい恰好をさせたり、泥や埃まみれになった姿など見たくはなかったのだ。
 こうして半刻ほどの後、レークは供の騎士一人だけを連れて、レイスラーブを出立した。
 町の市壁を出ると、西へ伸びる街道が、はるか彼方まで続いている。
 久しぶりに自由に馬を走らせると、とても解放されたような気分になった。なにしろ、このスタンディノーブルに来るまではずっと団体行動で、多くの騎士たちとともに足並みを揃えての旅だったのだ。それは本来はレークの性にはまるで合わないもので、規則や規律をともなった息苦しさがほとほと彼を疲れさせた。とはいうものの、仮にもトレミリアを背負った正規の騎士としての遠征部隊であるから、自分一人が我が儘をいったり、足並みを乱すわけにもいかない。それくらいの分別は今の彼にはあったし、出発前にアレンからもそれは固く言い渡されていたのだ。だから、遠征隊隊長であるセルディ伯やクリミナの手前、旅の間はあまり我を出さず、それなりに命令にもちゃんと従って、できうるかぎり粛々とやってきた。
 だが、それでもレークの中には、なにかうずうずとするもの……どこかへ飛び出してゆきたいような思いが、じわじわと溢れかけていた。あの会議において、思わず立ち上がって自分が行くと告げたのも、もともとそんなことを考えていたわけではなく、単なる勢いで出てしまった言葉だったのだ。
 だが、それが間違っていなかったことを、レークは今、馬上で感じていた。
(ああ、この気持ち良さはどうだ……)
 ぎゅっと手綱を握りしめ、誰にも命令されることなく好きなように馬を操る。
 風の音、空気の匂い、
 暮れゆく空に流れる、うっすらとした紫の雲を見上げながら、自由を実感する。
(ああ、せいせいするな……やっぱ、オレには堅苦しい社交辞令や団体でののろまな行軍なんてのは向いていないんだ)
 自分が根っからの自由人であることを思い出し、浪剣士として長い間大陸を旅してきた、その頃の感覚が、体の中にもはっきりとよみがえってくる。トレミリアの大剣技会で優勝し、騎士の地位を与えられたときから、そんなことは久しく忘れていたのだが。
 宮廷内での生活……騎士団の稽古や、大貴族との密会、行儀のよい晩餐会や華やかで洒落た舞踏会……そんな生活の中で鬱屈していた自分は、こうしてのびのびと馬を走らせるようなこの瞬間をこそ強く欲していたのだと、レークはあらためて知った気がした。
(ああ……このままどこまでも、どこまでも走っていきたいな)
 なにもかもを捨て去り、このままひとり旅にでも出たいと、心底レークは思った。地位も名誉も、そして騎士の誇りも、そしていくさも……なにもかもを投げ捨てて。
(自由な、気儘ままな旅に……また戻ろうか)
 それは彼の心からの叫びであり、純粋な欲求だった。同時に、いったいどうして自分がこのようなことに巻き込まれて、国を背負った騎士として、恩義も義理もない国のために奔走しなくてはならないのかという、そんな根本的な疑問さえも沸き起こってくる。
(……いっそのこと、このまま、本当にどこかに行っちまおうか)
 レークの心の中に、自由と旅への甘い誘惑が、じわりじわりと広がってゆく。
(……どこかへ)
 だが、一方では、彼はもう分かっていた。自分がそうはできないことが。
 逃げ出したいと考える頭の中には、同時に、相棒であるアレンの顔やクリミナの顔、それに先刻の出立の時のトレヴィザン提督の顔などが次々に浮かんでくる。
 わざわざ城門の外まで見送りにやってきたトレヴィザンは、「このような危険な任務をかってでていただき、まことに心苦しくもあり、そしてとてもありがたくもあります。貴殿の無事と幸運を切に願うものです」と、深々と頭を下げたのだ。
 そしてまた、思い出されるのは首都のレイスラーブに入ったときの、たくさんの人々の歓声と拍手……あのとき、自分たちはトレミリアの兵としての期待と責任とを、確かにこの身に受け止めたのだった。
(……くそ)
 馬上からちらりと後方を振り返ると、騎士アルーズが、レークの馬から決して遅れまいというように、必死に馬を走らせている。目が合うと、彼は馬上で口許を引き結び、大きくうなずいてみせた。
(そうだな……こいつを連れて逃げ出すこともできねえしな)
 レークは小さくふっと笑い前方に目をやった。
 すでに夕日は向かいの西の空に沈み、あたりは夕闇に包まれはじめている。
 黄昏の空が見せた、ひとときの自由への幻想……それを頭の彼方へ追いやると、レークは強く手綱を握りしめた。

「オールギアの町が見えてきました!」
 都市でいうと夜の八点鐘も過ぎようかという時分である。すっかり暗くなった街道の先に目を凝らすと、道の左右に続いていた林がにわかにひらけ、その先に都市の城門らしきものが見えた。
「あれがオールギアの町か」
「はい。本当ならレイスラーブからは丸一日はかかるはずですが、こんなに早く着くとは……ともかく、これで一息つけますね」
「そうだな」
 ほっとしたような顔のアルーズにうなずくレークの方も、さすがに駆け通しで疲れはあった。なにより走り続けた馬を休めて、水と飼い葉をやらなくてはならない。
「よしよし。もうすぐ休ませてやるからな」
 首を軽く叩いてやると、馬もまるで都市に着いたことを喜ぶように、ぶるるといなないた。
 オールギアは、ウェルドスラーブの国土のちょうど中心近くにある町だ。首都であるレイスラーブが東端に位置する港町であるのに対して、オールギアは内陸の平地の真ん中にある。ここは、ウェルドスラーブ国内でももっとも大きな都市のひとつであり、王国を東西を横断する街道は、常にこの町を経由して物資を首都のレイスラーブに運んだり、反対にレイスラーブからの物資を西側へと運ぶ中継地点にもなる。
 なので、ここは国内でも重要な商業都市であり、人口も多く活気に満ちた町であった。都市としても広いので、住みやすく、首都のレイスラーブからもそう遠くはないこともあって、普段は首都で仕事をする者たちも、案外この町に家を持つものも多い。また有事の際には、ここから北に半日ほどの距離には城砦都市トーメインがあり、そこには一万以上の騎士たちが常時駐屯していることも、この町の人々にとっては心強いだろう。
 このオールギアから、西の国境ぞいのスタンディノーブル城までは、さらに馬で丸一日の距離であるが、レークは半日でたどり着こうともくろんでいた。
「今夜はこの町に泊まりますか?」
「いや。ひと休みしたら出発だ」
「ええっ」
「時間が惜しいからな。それに朝になるのを待って出発したんでは、どうあってもスタンディノーブルに着くのは明日の昼を過ぎる。ジャリア軍に包囲された城に近づくのには、昼間はあまりいい時間じゃねえな」
「それは、確かに……」
「まあ、ともかく町に入ってメシでも食おうぜ。これから大事をなそうってんだ。腹ごしらえをして、軽く休むくらいのゆとりはもたないとな」
 眼前に大きくなる町の市壁に向かって、二人の馬は進んでいった。
 都市の市門は固く閉められていたが、鉄枠で補強されたいかにも強固そうな扉には、夜間の来訪者のためのくぐり戸があった。レークは馬を降りると、くぐり戸を叩いた。
 すると、しばらくして小窓が開き、そこに見張り兵らしき男の顔が覗いた。
「何者だ?今時分に都市に入ろうというのは」
「ああ、オレはレーク・ドップってんだ。後ろにいるのがアルーズって騎士。町に入ってちょっと休みたいんだ。よう、開けてくれよ」
 見張りの騎士はじろじろとレークを眺めると、首を横に振った。
「駄目だな。今は特別警戒中なのだ。不審な輩は町に入れるわけにはいかない」
「なんだと?」
「どうしても入りたければ、明日の朝を待ってもう一度来るのだな」
「ちょっと待てよ、おい」
 木窓を閉めようとする騎士を引き止め、レークは耳もとに囁いた。
「あのなあ、ここだけの話なんだがよ……オレたちは重大な任務で、スタンディノーブル城へ行く途中なんだよ」
「なんだとう」
「信じられなけりゃ、国王の蝋印入りの通行証だってある。おい、アルーズ」
「はい」
 側に来たアルーズが懐から書簡を取り出した。それを見せると、とたんに見張りの顔色が変わった。
「こ、これは……失礼をいたしました。国王陛下直々の印章とは。すぐに門を開けます」
「頼むぜ」
「少々お待ちください」
 国王の鑞印はさすがに大変な威力のようで、見張りの態度はすっかり変わっていた。
「ふうん。こりゃなかなか気分がいいな」
 ほどなくして、ぎぎぎと音を立てて扉が開かれた。馬にまたがったレークは、最敬礼する見張り騎士に鷹揚にうなずきかけ、アルーズとともに門のアーチをくぐった。
 城門を抜けるとそこはもう都市の広場だった。夜の八点鐘が過ぎた時分であるから、辺りに人の姿はあまりなく、広場から続く大通りの店店も、その多くが戸締りを終えて、通りは静まり返っていた。
 馬に乗ったまま、二人は大通りを進んでいった。
「さって、とりあえずメシを食わせてもらえそうな店を探すことにしよう」
「ええ」
 通りにある店のうちでも、いくつかはまだ明かりが灯っている所もある。そのほとんどが飲み屋か食堂兼宿屋を営む店であった。
「ああ、あそこがいい」
 それは大通りに面した一軒の酒場で、透かし看板にナイフと皿の絵があるのを見れば、食事もできそうである。近づいてみると、それはなかなか大きな店で、外には馬をつないでおける場所がちゃんとあった。
 馬を降りた二人はさっそく店内へ入った。
「へい、らっしゃい」
「よう、なんか食わせてもらえるかい。それと、外の馬にも水と飼い葉をやってくれ」
「かしこまりやした。どうぞお座りを」
 小太りの主人が愛想よく答える。
「こんな時分に、旅人さんかい。どっからきなすった?」
 レークとアルーズがテーブルに付くと、そばにいた何人かの客が振り向き、横にいた初老の男が声をかけてきた。
「ああ、レイスラーブから。明日の朝までにはスタンディノーブルまで行きたいんでな」
「なんと。スタンディノーブルまで、明日の朝までにだって?いくら馬を飛ばしてもそれは無理だろうて」
「なあに、実はレイスラーブを出たのも、今日の午後の三点過ぎだったからな。そう無理でもねえと思うが」
「なんとまあ。それが本当なら大変なことだ。普通の隊商であれば、レイスラーブからスタンディノーブルまでは三、四日がかりで行くというのに」
 初老の男は驚いたように言い、二人をしげしげと見た。
「まあ、俺らはその、騎士だしな……」
「レークどの」
 横に座るアルーゼが囁く。自分たちの任務を明かすのはよろしくないと、その顔が語っていた。
「分かってる。大丈夫だって」
「ほほう。これは騎士どのでしたが。それは失礼をいたしました。しかしその……それにしてはなかなかその……」
「ああ、オレたちがみすぼらしい恰好だってんだろ?」
 自分の着ている粗末な胴着と汚れたマントを指さし、レークは笑った。
「まあ、これにはいろいろあってな。隠密行動というか、特殊任務というか……」
「レークどの」
「ああ、大丈夫だって」
 心配げなアルーズにうなずきかけ、耳元に囁く。
(どうやら、まだここまではジャリア軍の噂は届いてないみたいだぜ)
(そうでしょうか?)
(ああ、さっきの町の通りの様子からも、あまりびりびりした空気はなかった。それにこの店にいる連中も、なんていうか、皆平和そうな顔をして酒を飲んでいるからな)
 それはレークの言うとおりのようだった。この町の空気からは、まだ戦の始まったという切迫したものはなにも伝わってこないし、この店の客たちにしても、見たかぎりでは誰にも恐々とした様子はみられない。
 おそらく、このオールギアにはまだ、スタンディノーブル城がジャリア軍に包囲されたという情報は届いていないのだろう。レイスラーブでの会議室に駆け込んできた斥候兵がその一報をもたらしてから、まだ半日とたっていないのだ。
(なるほど。確かにそうかもしれませんね)
 店の人々をさりげなく見回すと、二人は軽くうなずき合った。
「では騎士どのたちはすぐに出発するのかい。そりゃ難儀なこったのう」
「ああ、まあな」
「せいぜい気をつけるこった。夜の街道には山賊も出るらしいからの」
「ああ、そうするよ」
 山賊などよりもはるかに脅威となるジャリア軍が、そこまでやってきているかもしれないのだと、レークは言いたくてたまらなかったが、それをぐっとこらえた。
 店のおやじが湯気のたつ皿を二人の前に運んできた。
「そら、お客さん。肉だんご入りのスープだよ。これでも飲んであったまっとくれ。パンと塩漬け肉はいくらでもあるから、余ったら旅の食料に持ってゆくといい」
「おお、ありがてえ」
 二人はさっそく食事にとりかかった。レークもアルーズも、空腹であるという点ではまったく異論はなかった。

 食事を終え店を出ると、二人は再び馬にまたがった。
 大通りを西へ進む。西の城門を抜ければ、そこはスタンディノーブルへと続く街道である。
通りには人けはなく、人々はもう寝静まっている時間なのだろう、明かりの見える家はさっきよりもずっと少なくなった。レークは馬を歩ませながら、昼間であればけっこう賑わうだろう広い通りを見回した。
「せっかくオールギアに来たんだから、本当ならもうちっと、のんびりと色々な見物をしたいところなんだがなあ」
「そうですね。自分もこの町に立ち寄ったのは久しぶりです。ここは西からやって来るいろいろな物資や食料で常に豊かな町ですから。食べ物屋やお酒、洋服、鎧や剣を売る店など、それはもう見ているだけで楽しいものですよ。ああ、でもレークどのはトレミリアのから来られたのですから、あの雅びやかなフェスーンの町に比べれば、ここもずっと田舎くさいかもしれませんが」
「そうだなあ、確かにフェスーンの町では買えないものはないってくらい、いろんな……それこそ世界中から集められた宝石やら、珍しい香辛料やら高価な酒も、なんでも手に入りそうだけどな。でも、この町もなかなかのもんだぜ。なにより食い物が素朴で美味いし。実はオレも、以前に二度くらいは来たことがあるんだ」
「おお、そうでしたか」
 アルーズは嬉しそうに言った。
「てっきりトレミリアの方々は、ウェルドスラーブといえば海の国で、ガレー船と魚料理と、飲み物といえばクオビーンと、それくらいしかご存じないかと思いましたが」
「オレも騎士になる前は、いろいろ旅していたからな。ウェルドスラーブはもちろん、アルディ、ミレイ、セルムラード、アングランド、それにデュプロス島にも行ったさ。もちろんこの国は港町が有名だし、魚も美味いけどな。いろいろな国を旅してた頃には、好きな国のひとつだったよ」
「そうだったのですか。そんなに旅をなされて」
「まあな。アルディのサンバーラーンや、この国の首都のレイスラーブにも何度も行ったよ。その頃はまだ旅の剣士で、金をかせぐのに地方の剣技大会にも参加したりしてさ」
「おお、私も去年と一昨年のサンバーラーンの剣技大会には出場しておりました」
 アルーズは顔を輝かせた。
「それでは、あるいはどこかでそうとは知らず、レーークどのと対戦したことがあったかもしれませんね」
「あ、ああ……そうかもな」
 レークは言葉を濁した。その大会で優勝したのは自分とアレンだとは言うのも、どうもはばかれる。
「おお、そうだ。そういえば、レーク殿は、先のトレミリアの大剣技会でも優勝したのでしたね」
「まあな」
「すごい。あの大会には、トレミリアの名のある騎士たちがたくさん参戦したと聞きますから、そこでブロテ卿やヒルギス卿を打ち負かして勝ったというのは、相当にすごいことですよ」
 若き騎士アルーズは、崇拝のこもったまなざしをレークに向けた。
「私も一度だけ、ヒルギス卿とはお手合わせをしたことがありますが、大変苦戦をいたしました」
「ほう。じゃあ勝ったのか?」
「いえ、両者剣を落として引き分けでした」
「ほう。それじゃ、おめえもなかなかの腕前じゃないか。さすがトレヴィザン提督が推薦するだけあるな」
「いえいえ、とんでもない。私などまだまだ尻の青い若造ですよ。世の中には提督や、それにトレミリアのローリング卿のように、すごい戦士がたくさんおられます」
「へえ、トレヴィザン提督もそんなに強いのか」
「ええ。それはもう」
 誇らしげにアルーズはうなずいた。
「剣をとってはウェルドスラーブ一の剣士、そして世界最高の船乗りでもあられます」
「ふうん。そうなのか。ま、確かにそうでもなけりゃ、提督でありながら、一国の軍を司る将軍にはなれねえだろうな」
「ええ、ですが、その提督がおっしゃられていましたよ。あのレーク殿は、おそらく剣の腕では自分などでは及びもつかないほどの実力の持ち主だろうと。少し目を見交わしただけでもそれが分かったと」
「それはそれは……。あのトレヴィザン提督がそんなことをねえ」
 提督から褒められたことがまんざらでもなく、レークはにやりと笑った。クリミナと親しく口をきいたり、偉そうな嫌な奴だとばかり思っていたが、こうして話を聞けば、案外そう悪い人間でもなさそうだと、レークは考えた。
「ですから、あの、レークどの……」
 アルーズが真剣な目つきで言った。
「いつか、この私に剣の師事をお願いできないでしょうか。いえ、もしそれがご迷惑であれば、ただ一度立ち合うだけでもかまいません。騎士として己の技を磨きつづけたいと、常日頃から思っておりますので、どうか」
「ああ、いいぜ」
 すっかり気分をよくしてレークは答えた。
「おお、ありがとうございます」
「しかしまあ、当面はスタンディノーブルへたどり着くことを考えないとな。そら、もうすぐ西の城門にさしかかるぞ」
 二人の馬は大通りを抜け、町に入ったときとは反対側の西の城門前の広場にやってきた。
「また通行証を見せなくてはならんかもしれないな。用意しておいてくれ」
「はい」
 レークが馬を降りようとした。そのときだった。
「つっ」
 突然、左手の指が締めつけられるような感覚があった。
「なんだ?」
 ほんの一瞬のことだった。だが、確かにレークは感じた。左手の人指し指に奇妙な感覚があったのを。
「こいつか?」
 そこには遠征の前にアレンから渡された銀の指輪がはめてあった。アレンから「もしもの時のために」と渡されたものだったが、こんなふうに指を締めつけるとは聞いていない。
「どうしました?」
 馬から降りてきたアルーズがレークのそばに来た。
「いや……なんでもねえ」
 そう答えながらも、レークは不思議そうにその指輪を見つめた。
(コイツに魔力があるのは確かなんだが……いったいなんでこんな時に)
(もしかして……なにか)
 なにかの気配がないかとレークは辺りを見回した。だが、周囲には人影はおろか、近くには明かりのついた家すら見えない。辺りは暗く、ただしんと静まっている。どこがでかすかに犬の鳴き声が聞こえたようだが、それだけだった。
(ただの犬に、指輪が反応するものかな……)
 左手の指輪に触れてみる。だが、もうさっきのような指を締める感覚は現れなかった。
(やっぱり、気のせいか……)
 とりあえずそう思うことに決めると、レークは馬を引いて城門へ歩きだした。
「お二人さん」
 すぐ近くで人の声がした。
「うわっ……だ、誰だ!」
「こっち、こっち」
 腰の剣に手をやって振り向くと、広場の隅の方の路地の入り口に、小さな老婆がちょこんと座っていた。そこに路地があったとはさっきまでは全然気づかなかったし、辺りにはまるで人の気配もなかったはずである。
 レークは剣から手を離すと、その怪しげな老婆を見た。
「な、なんだ、おめえは」
「ふふふふぇ」
 老婆は乾いた声で笑い声を上げた。
「おどかしやがって。ばばあ」
「ふぇっ、ふえぇっ」
 少し離れた路地の入り口から、老婆の声が不気味に響いてくる。その路地はとても狭そうで、ここからではまるで、ぽっかりと黒い穴が続いているようにしか見えない。
 そこにいる老婆はがらくたの中にいるように思えたが、そうではなく、実際は老婆の前に木でできた小さな卓があり、そこに蝋燭の明かりがぽうっと灯っているのだった。暗がりの中に、老婆の顔がぽっかりと浮かんで見えるのはそのせいだろう。
「お二人さん。これからどこへゆきなさる」
「どこだっていいだろう。ばばあ。オレたちは急ぐんだ。じゃあな」
 その不気味な老婆を無視して、レークはそのまま馬を引いてゆこうとした。
 だが、なぜか馬がそこから動こうとしない。
「どうしたってんだ、こいつ」
 いくら引いても馬は動かなかった。まるでその場に足を糊付けされたようである。
「レ、レークどの……」
 恐ろしくなったようにアルーズが声を上げる。
「あの婆さんは、もしや、幽霊とか……」
「馬鹿。そんなことあるわけねえだろう」
 レークは鼻で笑った。
「ですが、なんというか、その……ひどく薄気味の悪い婆さんですな」
「ふふえっふぇ」
 こちらの会話が聞こえたのかどうか、老婆がまた不気味に笑い声を上げた。
「おい、ばばあ。その気色悪い声で笑うのをやめろ」
「なにを言うとるかね。わたしゃただの占いの婆だよ。夜の間ここを通るものどもを占ってやる、ただの婆ぁだよ」
「占い……なんだそうか」
 それを聞いてレークはややほっとした。
 そういえば確かに、老婆のいる卓の上には占い道具らしき、怪しげな骨や石などのガラクタが転がっているようだ。そう思えば、白髪だらけの長い髪も、どことなく占いの婆といった雰囲気だ。
「おどかしやがって、婆さん。それでオレたちになんの用だ。こっちは時間がないんだ。占いならまた今度な。スタンディノーブルへ行ってきたその帰りがけにでもやってくれ」
「スタンディノーブル、あんたらはこれからあっちに行くんだね」
「ああ、だから急ぐんだよ。朝までには着きたいんでな」
「そうかい。ちょっとお待ち」
「だから、待ってる暇はねえって言ってんだろ。そら行くぞ……動け、この」
 レークは馬を引っ張った。だが、彼の馬は嫌々をするように、首をよそに向け、鼻息荒くいなないた。
「くそっ、なんだってんだ……」
「怯えておるんだよ」
「うわっ。ば、ばばあ……いつのまに」
 レークは腰を抜かしそうになった。
 たった今まで、離れた路地の入り口にいたはずの老婆が、すぐ近くに立っていたのだ。
「な……なんだ、どうやって」
「まさか、やっぱり幽霊……」
 アルーズがつぶやくと、老婆は黄色い歯を剥き出しにしてにっと笑った。
「なんと、臆病な騎士さんたちよ」
「きさま、なにもんだ……ばばあ!」
 レークは反射的に腰の剣に手をやっていた。
「なにって、ただの婆ぁさ。あたしゃ、この通り小さいからね。遠くにいるように見えても、あの路地はほんのすぐそこさ。ただ何歩か歩いてきただけなのに、人を化け物扱いするのでないよ。ふぇっ」
 そう言って老婆はまた笑った。
 確かに老婆の身長はレークの腰ほどしかない。離れて見えるあの路地も案外近かったのだろう。それに近くよくで見ると、老婆はまったくただの老婆に見えた。痩せこけた体に灰色のローブのようなものをまとい、真っ白の髪はぼさぼさで、その顔は皺くちゃである。
「さてさて、時間がないんだったね。では軽く占ってやろうかい」
 老婆は手にしていた杖で地面をこつこつと叩いた
「ばばあ、だから占いはまた後にしろって……」
「黙りゃ!」
 鋭い声が飛んで、レークは思わずひるんだ。その隣ではアルーズが、化け物をでも見る目つきで老婆を見つめている。
「……」
 老婆は杖の先にある水晶をレークに向けると、それをじっと覗き込むようにした。
「ほほう、ほう」
 それからぶつぶつと、なにごとかをつぶやきながら、水晶の中に目を凝らしている。
「さうかね、さうかね」
 一人で納得するように老婆はうなずいていたが、しばらくしてその杖を地面に下ろした。
「あんたら……スタンディノーブルへ行きなさるんだね」
「だから、さっきからそう言ってるだろう」
 レークの口調には、さっきよりもやや畏れのようなものがまじっていた。この老婆が、どうやらただ者ではないらしいことを、レークも感じはじめていた。だからといって、老婆の姿恰好には、老いた占い師という以上の特異なものはなにも見つからなかったのだが。
「ふむ。よかろう。誓約にしたがって、具体的な運命を告げることは許されぬ」
 にわかに老婆の声が重々しくなっていた。
「ならば、ひとつ、もっとも重要な忠告をしておくことにしよう。こまごまとしたものよりも、それさえ心にとどめておくが、おぬしの未来には光をもたらすはず。よいかな」
「よくわからねえが、なんかあるなら早く言えよ」
 レークはぶるっと体を震わせた。いったい、この老婆は何を言おうとしているのか。
「よいか、心して聞くがいい。物事には具体的な未来をも定める力がときとしてあるが、その具体的な変化をもたらすには、はるかに人の気構えひとつの方が有益じゃ。ときとして、占い師はいいかげんな目先の事象を述べるが、真に大切なのはそんなことよりもむしろひとつの決断、そしてそれをする時のとき。そのときの心構えなのじゃ」
「なにを、言ってるんだ?」
 老婆は乾いた声で続けた。
「おぬしの未来、それも遠くの未来ではなく、それほど近すぎる未来でもない。よいか心せよ。裏切りものが全てを狂わせる。それを覚えておくことじゃ」
「なんだ?そりゃ、どういうことだ」
「どうもこうもない。言った通りよ。裏切りものに気をつけることじゃ。いつかな。明日かな、明後日かな。ひと月後かな、一年後かな、それは知らぬ。また定めの中にすらも、変革の余地はある。気をつけることじゃ」
「……」
「ふむ。よいの。しかしそれ以外は、おおむね、事はおぬしの力量にそって進むじゃろう。これはなかなか珍しい星のもとにあるのう。自ら望めば、その方向に未来が転がるとは。なかなか、なかなかこれは面白い」
(この婆ぁ、なに言ってやがるんだ?)
(さあ……)
 レークは首をかしげ、ひそひそとアルーズと囁き交わす。
「さて、もうよい。いきなされ。あたしも、そろそろ寝るとしよう。今夜はもう、そら誰も通りそうもないでな。いくさの匂いは明日にも届くじゃろう」
 老婆は最後にまた、ふぇっふぇっと不気味な笑いを残して、路地の方へとことこと歩いていった。
「……」
 レークはアルーズと顔を見合せた。
「おい、ばばあ……」
 それから、もう一度老婆を呼び止めようとしたとき、
 ちょうど月が雲に隠れたのか、辺りの夜闇がさっとその濃さを増した。
 一瞬のあいだ、濃密な闇が城門前の広場を包み込んだ。
 再び月明かりが戻ったとき、老婆の姿は跡形もなく消えていた。
「……おい」
「は、はい……」
「消えちまったぞ……あの婆ぁ」
「き、きっと、あの路地に入っていったんでしょう」
 やや震える声でアルーズが言った。
 さっきまで老婆がいた路地の入り口は、ぽっかりと開いた穴のようにただ黒々として静まり返っていた。老婆が座っていた小さな卓は、今はもうただの板きれのがらくたにしか見えない。そこには蝋燭もまじない道具も、いっさいが消えていた。
「……そうだよな」
 自らに言い聞かせるようにレークはつぶやいた。
 低く馬がいなないた。ひとときの呪縛から解き放たれたかのように、今までそこを動こうとしなかった馬は自ら足を動かした。
「ううむ……それにしても、気色悪い婆あだったなあ」
「ええ……」
 二人はうなずき合うと、それぞれにこの出来事を胸の奥にしまいこむように、もう何も言わず、馬を引いて歩きだした。
 風ひとつ吹かない静かな月夜……その静寂を破ることを恐れるように、二頭の馬の蹄はコツコツと、ひどくひかえめな音を石畳に響かせ、市門へと進んでいった。

「クリミナどの、まだお休みにはなられませんでしたか」
 控えめなノックを聞き、彼女が扉を開けると、そこにいたのはトレヴィザン提督であった。まだ正規の提督服のまま、ついさっきまで編成した兵を監督してきたというような様子である。
「こんな夜分に女人の部屋に入るのは、なにぶん気が引けますが。少しよろしいか?」
「かまいません」
「では、失礼して」
 そろりと部屋に入ってきた提督は、気をつかうかのように言った。
「なに、私は自分で言うのもなんですが、とても安全な男ですよ。とくに敬意を払うべきご婦人の前では」
「そうでしょうとも」
 クリミナはくすりと笑った。
「万が一なにかあれば、すぐに奥様に言いつけますから。それに、隣の部屋にいる騎士たちも飛んできますし」
「ははは。これは恐ろしい。不遜な行いをした私は、妻のサーシャに仕置きされ、あまつさえクリミナ姫を崇拝する騎士たちによって、この身を八つ裂きにされるというわけですな。これは気を付けねば」
 顔を見合わせ、二人はくすくすと笑った。
「こちらへどうぞ、提督。私はまだ当分眠れそうもありませんから」
「これは、いけませんな。若い女人たる貴女は、しっかりと眠りませんと。いくらお若いとはいえ、その美貌に翳りがさしてしまいますぞ」
「ご忠告、感謝いたします」
 二人は夜風のあたるバルコニーに出た。
「もしや、眠れずに夜空を見ておられたのですかな?明日は早くから出発だというのに」
「ええ……」
 遠くに見える海はすっかり夜闇に包まれ、その黒々とした水面が、ときおり月明かりに照らされて光っている。
「あれは、船の灯かしら。こんな時間でも、ヴォルス内海には船が出ているのですね」
「ええ。夜といえども、近辺の海上の巡回は怠りません。それが我がウェルドスラーブの首都であるレイスラーブの務め。この内海は東のアルディと北のジャリア、三国を結ぶ海ですからな。そして現在においては、最大の警戒をはらうべきなのがこの海ですから。不審船の情報がないかと四六時中恐々としております」
 ちかちかと灯る船からのカンテラの合図は、なにがしかの定時連絡なのだろう。人々が寝静まった夜でも、海の上にも、それに港にも、まだ働きつづけている人々がいるのだ。
「提督の方も、まだお忙しいのですか」
 ウェルドスラーブの全軍を司る将軍でもあるのだから、午後の会議からはずっと働き通しなのであろう。しかし提督はその顔に疲れた様子は微塵も覗かせず、にこりと笑った。
「いや、さきほど援軍の編成は終わり、あとは明日の日の出とともに出立するのみです。結局、各騎士団からすぐに出せるのは全部で五千ほどの兵ということで、ジャリア軍五千と渡り合えるかはやや不安ですが、かといって出立を一日遅らせればそれだけスタンディノーブルの方が厳しくなるわけですから、いたしかたありません」
「そうですか」
 とくに自分の意見を言うわけでもなく、クリミナはまた遠い海の方に目をやった。彼女にしてみれば、自身はトレミリアから遣わされた遠征隊の一員にすぎず、この作戦における指揮権はもとよりトレヴィザンに付随するものと思っている。
「……」
 彼方まで続く黒々とした夜の海は、昼間に見るのとはまるで違う。水平線すらも溶け込んだあの黒い闇の先には、いったい何があるのだろうかと考えると、吸い込まれてゆくような恐ろしさを感じるのだ。
「クリミナどの」
 少しの沈黙の後、提督が口を開いた。
「やはり、思いとどまるわけにはいきませんか」
「……」
 提督の方に顔を向けたクリミナは、黙ったまま首を振った。
「そうですか……やはり。しかし、これは女性にはとても危険な遠征になりますぞ。ジャリア軍と交戦状態となるのは、いまとなっては確実です。できることなら、このレイスラーブにとどまっていただくわけには」
「いいえ」
 彼女は、今度ははっきりと口に出して告げた。
「私は行きます。それが私の務め。ウェルドスラーブへの遠征軍に加わったときより、実戦となることももう覚悟の上です」
「……」
「それに、先刻の斥候の情報によれば、私たちとサルマで別れたセルディ伯らの一行も、やはりスタンディノーブル城にいるということでした。本来であれば、こちらが援軍として馳せ参じたはずが、かえってウェルドスラーブの方々に迷惑をおかけすることになり、心苦しいかぎりです。また、私たちの遠征隊と共にいらしたフェーダー侯爵も、このような形で巻き込んでしまいました。包囲されたスタンディノーブル城に向かい、仲間たちと侯爵を救出するのは、私たちの任務であると考えています。ですから、私も戦います。女であるからといって足手まといにはなりませんし、気をつかっていただくこともご無用です。私も騎士のはしくれです。戦うために私たちはここに来たのですから」
「そうですか」
 クリミナの言葉を、トレヴィザンはやや表情を険しくして聞いていたが、やがて小さくうなずいた。
「しかし、我が国に迷惑をかけたなどということはめっそうもない。少なくとも、あなた方が運んで来てくださった貴重な物資の数々は、本当に有り難いものでしたよ。それに、先刻出発されたレークどのの、あの勇気というか豪胆さには、あの場にいた誰もが驚かされました。まさか、単身で敵軍に包囲された城に乗り込もうなどという……」
「それは、私も驚きましたわ」
 クリミナは、その顔に呆れまじりの笑いを浮かべた。
「会議の前には、そんなことは何も聞いていなかったのに、まさかいきなりあんなことを言いだすなんて。横で聞いていてハラハラしてしまいました」
「ははは、なるほど」
 トレヴィザンも愉快そうに笑った。
「さすがのクリミナどのも、あのレークどのには意表を突かれるというわけですな。しかし、あの不敵な御仁は、なんというか……こういってはなんですが、トレミリアの騎士らしからぬ大胆なお人ですな。ああ、なんでも先の剣技大会で優勝した褒章として騎士となられたのでしたか」
「ええ。じつのところは、まったく礼儀も作法もない野卑な者ですわ」
「これはこれは」
 面白そうにトレヴィザンは言った。
「クリミナどのからそうまで言われるとは、なかなかレークどのも憎らしいですな」
「どういうことです?」
「いや、あなたがそのように、一人の誰かに対して、感情をあらわにして話されるというのは、なかなか珍しいことかと。ああ、もちろん最近のあなたのことは存じませんから、私がかつて知っていた女騎士のクリミナどのと比べて……ということですが」
「……」
 クリミナはどう言ったらいいものかと黙り込み、それからやや眉を寄せて言った。
「べつに、私はあの男のことなど、宮廷騎士団の一騎士として以上の感情などもっておりませんけれど」
「なるほど。これは失礼をいたしました。よけいな戯れ言を」
「でも提督はなぜ、あのレークの言いだした無謀な単独行動を許したのですか?」
 クリミナはどうあっても、もう一度それを尋ねずにはおられなかった。
 トレヴィザンは腕を組むと、慎重に言葉を選ぶようにして話した。
「それは、先も申しましたとおり、この切迫した事態において、大軍を編成するには相応の時間がかかります。レークどのが申し出た斥候としての任務は、冷静に考えてみても、なにもせず手をこまねいているよりは、はるかに有益であると判断したからです。それに、もしうまくして彼がスタンディノーブル城にたどり着くことができたなら、我々からの正式の書状を届けることができます。城を包囲され、おそらくは心身ともに疲弊してゆくであろう守備隊にとっても、援軍発つの知らせを見れば、少なからぬ希望を沸き立たせてくれることでしょう」
「でも、たった一人で……いえ、提督の騎士がお一人供にいるとはいえ、ジャリア軍の包囲をかいくぐって、彼らがスタンディノーブル城へ無事にたどり着けるとお考えですか?」
「さあ」
 提督は曖昧に言った。
「可能性はなくはないでしょうな。あとは、レークどのの機略と勇敢さしだいというところか。あるいは、もしも城にたどり着けずに、レークどのが途中で引き返してきたとしても、彼からジャリア軍の布陣についての情報を得られるならば、それだけでも成功といえるでしょう。ただ、もちろん、なにもかもをレークどのに頼って、のろのろと援軍をゆかせるつもりはありませんよ。こちらとしても臨機応変に、状況に応じて動くだけの用意があります。あまり彼を当てにしすぎるのも考えものですから、あくまで、まずは彼はただの斥候役と考えておくことがよいでしょうな」
「でも……あのレークは、もしかしたら、私たちの思っている以上のことをするかもしれません」
「ほう」
 それを聞いて、提督はきらりと目を光らせた。
「それは、どういう?」
「……分かりません。ただ、なんとなくそう思うのです」
「なんとなく、ですか。それは、冷静なクリミナどのらしからぬお言葉ですが」
「そうですか?」
「なにしろ、五千ものジャリア軍に包囲された城ですからな。いかに彼とて、大軍のひしめく様子を遠目に見れば、肝を冷やしてそのまま戻ってきてもおかしくはないかと」
「そんなことは、たぶんないですわ」
 まるで自分の誇りを傷つけられたかのように、クリミナは反論した。
「あのレークは、剣技大会でもなみいる騎士たちを次々に負かし、それだけでなく、恐るべき売国の計画をも暴いてみせたのです。それに、あの馬上槍試合での勇気……彼なら、きっとなにか、私たちの期待以上のことをなしどげるのではないかと、そう思います」
「ほう。そうでしょうか」
「そ、そうです……」
 自分がむきになっていることに気づくと、クリミナはやや声を小さくした。
「……たぶん」
 恥ずかしそうに海の方へ顔を向ける彼女の様子を、トレヴィザンはじっと見つめ、
「では、彼の無事を祈りながら、今夜は寝るといたしましょう」
 そう穏やかに言った。
「クリミナどのも、明日は早いですから、そろそろお休みください」
「ええ……そうします」
「では、私はもう少しやることがありますので、これで」
 軽く会釈をすると、そのまま提督は部屋を出ていった。
「……」
 バルコニーに残ったクリミナは、しばらく夜の海を静かに見つめていた。
 海上には船の灯が、暗闇の中の星のようにいくつも光っている。それをぼんやりと眺めながら、あるいは彼女は、疾走する馬にまたがる騎士の姿を、思い描いていていたのだろうか。
 出立の朝をひかえて、ウェルドスラーブの夜が更けてゆく。


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