水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

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トレヴィザン提督

 翌朝、
 晴れ渡った空のもと、騎士たちと物資を乗せた船が、メルカートリクスの港を出港した。
 波は穏やかで風は順風である。どうやら、一晩待ったのは正解だったようだ。白い帆をいっぱいに広げて、船は海上を滑るように進んだ。
 クリミナをはじめ、騎士たちは、無事に補給物資を調達する任務を果たしたことに、一様にほっとしたような表情を浮かべて、甲板上から船の進む方向に目を向けていた。昨夜の祭りで良い息抜きができたことも、気分を軽くしていたのだろう。若い騎士たちはとくにそのようで、フェスーンを出発したときの緊張感がだいぶやわらいだような様子だった。また、騎士たちは船の扱いにもだいぶ慣れ始めていて、少しずつ変わる風向きに対応して、帆桁の角度を変える仕事も、今ではかなりスムーズに行えるようになっていた。
 順調に風を受けて、船は北東……ウェルドスラーブの方角を目指して、海上を進んでいった。
 そして、さらに翌朝、東の水平線に太陽神アヴァリスが顔を覗かせると、船はその左舷前方の視界に陸地をとらえた。
「ダーネルス海峡です」
 すでに太陽の昇る前から甲板上に出てきていたクリミナも、見張り騎士からの報告に大きくうなずきながら、その視線を海面に向けた。
 ダーネルス海峡は、ウェルドスラーブの首都、レイスラーブへと続く、いわば玄関口のようなものである。陸地からせり出た半島に左右を挟まれる形で、海峡はぱっくりと開いた入り口のように、彼らの船を待ち構えていた。
「よし、座礁しないよう深度を測りつつ海峡に入る」
 舵をとるサルマの船乗りに指示を出すクリミナの横に、船室から上がってきたばかりのレークが近づいてきた。
「ふああ……良く寝た。もう着いたのか?」
 ぼさぼさの頭をぼりぼりと掻く、いかにも寝起き姿のレークに、思わず彼女はくすりと笑い、それから海上を指さした。
「あれがダーネルス海峡。あそこを抜ければもうレイスラーブの湾内だ」
「ああ……」
 晴れ渡った空と雲をまぶしそうに見上げ、レークはその少しずつ大きくなる陸地の影に目を凝らした。
「レイスラーブには一度行ったことがある。ありゃあでっけえ港町だな」
「そう。おそらくリクライアでも最大の港町。そして我がトレミリアの最大の友好国、ウェルドスラーブの首都でもある」
 クリミナの声にも、無事に目的地に到着できたという安堵の晴れやかさがあった。きっと彼女とて、この初めての単独の航海には、言い知れぬ不安がその心のうちにずっとあったのだろう。しかし今は、この青々とした空と同様に、任務をなし遂げた達成感がその表情にも現れていた。
 その彼女の横顔を見ながら、昨夜のことを思い返してでもいたのだろうか。レークはもうすっかり騎士の顔に戻った彼女の隣で、まだいくぶん覚めきらぬ夢の中にいるように、ぼんやりと立っていた。
 慎重な速度を保って船が海峡を抜けると、湾内の全貌が明らかになった。目の前に広がった光景に、甲板の騎士たちは「おお」と感嘆の声を上げた。
 それは巨大な湾だった。
 なめらかなスループを描いた海岸線には、このレイスラーブという都市が世界有数の港町であるということを見るものに実感させる、そんな見事な港が広がっていた。
 まず目に入るのは、沖合に停泊している大型船であった。その数たるや……一見しただけでは数えられないほどで、三本マストの大型のカラベル船、快速のガレオン船群が、まるでいつでも出港できるようにと整然と並んでいる。その様子も壮観であったが、近づくにつれ港の中には、さらにすごい数の船が停泊していることが判明してゆく。
 色とりどりに分けられた数十隻のガレー船、中型から小型の快速スループ船、そして最新鋭の戦闘ガレアッツァ船などが、それぞれ湾の外を向いて……ということはレークたちの船の方を向いて……見事に整列している様子は、まさに圧巻の一言だった。
「これが、世界に名だたるウェルドスラーブの海軍ってやつか……」
 居並んだ軍艦の威圧感に、さすがに感心したようにレークがつぶやいた。
 湾岸は西から東に、ゆるやかなカーブを描いて、西側の突き出た小半島部分には大きな灯台が、そしてぐるりと回って東側には防波堤をかねた立派な城壁が建てられている。そこはおそらくは人口的に埋め立てられたもので、海上の見張り台にもなっているのだろう、その海に突き出た城壁上には、巡回の騎士たちが何人も並んでいるのがここからも見える。
「旗を上げろ」
 クリミナの命令で、船のマストにトレミリアの三日月紋をあしらった旗が上げられた。
 それに気づいたように対岸の城壁上の騎士が、こちらに向けて青い旗を掲げるのが見えた。青旗は入港を許可するという万国共通の意味である。
「よし、入港だ」
 おびただしい数の軍艦に囲まれながら、彼らの船はレイスラーブの港へと入っていった。

 船が港に近づくにつれ、少しずつ人々の歓声のようなものが聞こえてきた。
「な、なんだ……」
 見ると、驚いたことに港の桟橋には大勢の人々がつめかけており、彼らはこちらに向かって手を振っているのだ。
「すげえ歓迎ぶりだな、こりゃあ」
 甲板上で目を丸くしながら、レークは人々で埋めつくされた港の様子を見渡した。
 そこに集まっているのはレイスラーブの市民たちだろう、彼らはまるで英雄の帰還を出迎えるように、こちらに向かって手を振り、そして歓声を上げている。クリミナをはじめ、船の騎士たちも、人々でひしめいている港の様子を驚きながら見つめていた。しかしこのような熱烈な歓迎ぶりには、レークも騎士たちも悪い気はしないので、やや照れながらも船の上から港に向かって手を振り返したりした。
 空けられていた一番大きな桟橋に船が寄せられ、錨が下ろされると、船上の騎士たちは、一様に安堵の表情を浮かべた。目的地、レイスラーブへの到着であった。
「よし。降りよう。まず積み荷を下ろさなくては」
 真っ先にクリミナが艀をつたって港の桟橋に降り立つと、それを待ち構えていた町の人々が一斉にざわめきたった。それにどう反応していいものかと、クリミナは少々困惑ぎみの表情を浮かべたが、歓迎を示す人々からの盛大な拍手は止まない。
「やあ、どうもどうも。俺はレーク・ドップ。大剣技会の優勝者で、今はトレミリアの騎士になったんだ。よろしくな」
 続いて港に降り立ったレークは、自分に向けられる拍手と歓声とにすっかりいい気分になると、帰還した救国の英雄然と、人々に向かって手を振った。
「こりゃ、本当に凄い歓迎ぶりだな!まるで町中の人々が集まってきたみたいだぜ」
 レークの言うとおり、人々の数は今や港に溢れかえるほどだった。その中には、騎士や船乗りらしい姿もあったが、大半はごく普通のなりをした市民たちであった。彼らは老若男女問わず、いかにもこの船の到着を聞きつけ、とるものもとりあえず駆けつけてきたといった様子で、中には商人や職人らしい人々にまじって、子供を抱いた主婦、着飾った若い女性、こどもの姿もあった。彼らに共通していたのは、誰もがトレミリアからの船の到着を心から待っていたというように、熱を帯びた興奮混じりの笑顔をその顔に浮かべながら、手を叩き、さかんに歓声を上げ続けていることだった。
 このような盛大な……というよりかなり大げさな、歓迎を受けるどんな理由があるのか、クリミナをはじめ騎士たちは戸惑うばかりだったが、ともかくは任務は任務である。桟橋付近にむらがった人々の前で、クリミナは騎士たちに荷物の陸揚げを指示しようとした。
 そのとき、にわかに人々のざわめきが大きくなった。
 と思うと、人垣が二つに分かれ……そこから一人の男が現れた。
「やあ、これはこれは、トレミリア宮廷騎士長どの!」
 振り向いたクリミナの前に、背の高い男が立っていた。
「これは、トレヴィザン提督」
 驚きに目を見開いたクリミナにうなずきかけるように、その男は人々の間をぬって大股で近づいてきた。
「ようこそ!我がレイスラーブへ」
 クリミナの前に立つと男は両手を広げて、その顔に満面の笑顔をのぼらせた。
 背が高く、がっしりとよく鍛えられた体格に、船乗りらしい日に焼けた浅黒い肌、短く刈り込んだ髪と、あごには黒々とした髭をたくわえている。
「トレヴィザン……提督」
 レークは口の中でその名をつぶやいた。
 少しでも世界各国の情勢に通じる者であれば、その名を知らぬものはいないだろう。彼こそが、ウェルドスラーブ海軍を預かる司令官であり、そして噂に聞く勇猛な海の男、大提督トレヴィザンである。ウェルドスラーブという国を支える二本の大きな支柱……外交面ではフェーダー侯爵、そして軍事においてはこのトレヴィザン提督であるということは、世事に疎い人間であってもごく基本的な常識であった。
 その大提督が、このように直々に自分たちを出迎え、目の前に立っているのである。
(トレヴィザン……か、じっさいにそばで見るのは初めてだな)
レークは興味深げにその人物を観察した。
 海軍の制服である金のボタンの付いた紺色の胴着をこざっぱりと着こなし、腰には短剣を差している。だがその足元は、まるでたった今船から降りてきたかのようなサンダル姿であるのが、なかなか粋な印象である。歳はおそらくは三十歳の半ばは過ぎているであろうが、その筋肉質の逞しい体つきからは、自らも甲板上の力仕事をこなすであろうことが察せられる。
 クリミナの前でにこやかな笑顔を浮かべる姿は、裏表のない明るさと人好きのする魅力に溢れており、その声や仕種、言葉使いからは男らしく豪快な人柄が伺える。
「騎士長どのは、またお美しくなられましたなあ。確か、お会いするのは……そう二年ぶりくらいか」
「ええ。あれは、ウェルドスラーブとトレミリアの友好式典の時以来ですね。おひさしゅうございます」
 クリミナもつられるように笑顔で答えた。トレヴィザンの前に立つと、いかに普段はきりりとした女騎士である彼女も、ひどく女性らしく見えてしまう。
「いやまったく。たった二年のうちに女性は変わるものだ。あのころはまだ可愛らしいお嬢さんという感じだったのだが、今ではもう立派なレディになられて。ああ……これは失礼、仮にも騎士どのに対して、それは失礼な言いようでしたかな」
「いいえ。そんなことはありませんわ。お褒めいただき光栄に存じます」
 普段はこのように普通の女性のように扱われれば、間違いなく眉をつり上げて憤慨するはずのクリミナだったが……彼女はくすりと笑って、あろうことか足を引いて、丁寧に貴婦人の礼をしてみせた。
(ちぇっ)
 横でそれを見ていたレークは、なにやら面白くない気分だった。
(大提督だかなんだか知らねえが、いちいちクリミナに慣れ慣れしいんだよ)
 レークの視線に気づいたのか、提督の顔がすっとこちらに向けられた。
「……」
 トレヴィザンははじめ無表情にレークを見ていたが、すぐに「おや」という目をした。
「……」
 レークの方も、提督のその視線を正面から受け止めた。
 するとトレヴィザンの顔つきが変わった。その眉間にはかすかに皺が寄り、にわかに眼差しも鋭くなったように見えた。
「こちらの……騎士どのは?」
「ああ、これはレーク・ドップと申します。フェスーンの宮廷騎士です」
「ほう」
 クリミナからの紹介を聞く間も、じっとレークの方を見たまま、トレヴィザンはうなずいた。
「よしなに。レークどの」
「どうも」
 差し出された手を見下ろし、レークはやや不遜な態度で言った。
「元浪は剣士……今は騎士なんぞやってますがね。よろしく」
「浪剣士……なるほど」
 興味を持ったようにトレヴィザンがにやりと笑う。
「よろしく」
 二人は互いを鋭く見つめながら、握手を交わした。
「さて、お疲れのところ申し訳ないが、さっそくいくつかの確認と、それと今後の展開についてお話したいのだが。ああ、物資の荷下ろしについては、我が方に任せてください。見るに、この船に乗っている騎士の数は思いの外少ないようだ」
 提督の申し出にクリミナもうなずいた。
「ええ、私を含めて十五名ほどです。遠征隊の本隊とはサルマでいったん別れ、ここレイスラーブで合流することになっているのですが……彼らはまだ?」
「さよう、それについても……後ほど」
 トレヴィザンの顔つきがやや厳しくなったのを、レークは見逃さなかった。
「では……、とにかくこちらへ。お疲れのこととは思いますが」
 クリミナとレークは、トレヴィザンの後について歩きだした。
 ざわめく観衆の間を通り抜けるようにして提督が向かうのは、ここから少し離れた別の桟橋のようだった。歩きながら、レークは興味深そうに辺りを見回した。
 ウェルドスラーブの首都、レイスラーブといえば、世界でも有数の港町である。広い港には数えきれないくらいの大小さまざまな船が停泊し、膨大な量の物資が毎日陸揚げされてゆく。これは決して内陸の国であるトレミリアでは見られない光景であった。ヨーラ湖畔の町、サルマがトレミリアにおける海への門であるのは確かだったが、このレイスラーブの方はいうなれば世界への門であり、東方のアスカから西側のセルムラードまで、このウェルドスラーブはあらゆる国々との交易を盛んに行ってきた歴史ある港町なのだ。
(だが、おかしいな……やっぱ)
 これまでにも、世界各国をアレンとともに旅して回ってきたレークである。このレイスラーブに来たことも何度かあるので、トレミリアの若い騎士たちのようにいちいち物凄い数の船に驚いたり、港町特有のやや下世話な雰囲気にも、いまさら違和感を覚えることはない。
 だが……
 レークは眉をひそめた。
(なんていうのかな。なんか、そうだ……ざわざわとして、落ちつかない感じ)
 それがどこからくるものなのか、考えるまでもなく明白だった。自分たちを迎えるように港に集まった市民たち……彼らの拍手や異様な歓声には、どこか妙に熱を帯びた高まりのようなものが感じられてならない。
(こんな雰囲気ははじめてた。しかも、市民たちだけでなく、なんだか町全体が熱っぽく、ざわついているような……)
 かつてトレミリアの剣技会で、首都のフェスーンに入ったときも、確かに町全体が同じように熱を帯びた興奮に包まれていた。しかし、これはそれとも少し違う。
(もっと……そう、もっとヤバい感じ。もっと切羽詰まった時の、どうしようもなくなったときのような……)
 それをうまく言葉にはできなかったが、レークが感じていたのはそうした、病的なまでの熱狂……盛り上がり、興奮していなくては「耐えられない」というような、それは息の詰まるような、せわしなく、押し迫ったような危険な雰囲気であった。
「こちらへ」
 トレヴィザンが二人を案内したのは、港の中ほどにある整備された桟橋だった。
 ここは、通常の船が停泊する桟橋よりもやや広く、入り口には一般人が入れないように騎士の見張りが立っている。
 提督の姿に見張りの騎士が最敬礼をして一歩下がった。それに軽く手を振り、トレヴィザンと続いてクリミナ、レークが桟橋に入った。
「あの船です」
 トレヴィザンが指さした先に、とてつもなく豪勢な船が停泊していた。
 思わずレークは目を見張った。
 どう見てもただの船とは思えないそれは、全体に金の細密な飾り彫りがされた、実に見事なガレー船だった。
 大きさはさほどでもない。おそらく漕ぎ手を覗けば、二十人乗るのがいいところだろう。ただし、その豪華な装飾たるや、ただごとではなかった。
 船尾にしつらえられた座席の頭上には、赤いビロードで日除けが張られ、船の中央にはこちらもビロードの巨大な旗がはためいている。赤字に青い丸印のそれは、ウェルドスラーブ王家の紋章で、輝くような金糸で縁に刺しゅうがなされている。さらにその他にも、船体はそこいら中が高価な織物や金細工などで飾られていて、一体この船一隻にどれくらいの金糸やビロード、ダマスクが使われているのか、想像もできないほどだった。
 レークはしばらく口をぽかんと開け、その豪勢きわまりないガレー船を眺めていた。
「どうぞ、お乗りを」
 トレヴィザンにうながされて、クリミナとレークはその豪華な船に乗り込んだ。驚いたことに、船側に取り付けられた乗船用の階段までもが金でできているという有り様で、レークはおっかなびっくりその金ぴかの階段を踏みしめた。
 三人が甲板に上がると、それを待っていたかのように、ゆっくりと品のある静かさで船が動きだした。甲板には大きな櫂を持った数十名の漕ぎ手たちが座っており、彼らが一糸乱れぬ動きで櫂を動かし始めたのだった。
 まるで海面を滑るようにガレー船は動きだした。戦闘用のガレー船ではないので、漕ぎ手たちもそれぞれに雅びやかな服に身を包んでいて、それぞれが櫂を動かす姿もどことなく優雅だった。
「すげえな……」
「ええ」
 顔を見合わせたレークとクリミナは、すっかり感心して甲板上を見回した。レークはもちろん、内陸の王国の出であるクリミナも、このような豪華な船に乗るのは初めてであるらしかった。
「なに、あまり沖には行かず、その辺りをぐるっと回って戻ってくるだけです。港はあのように市民たちで騒々しいので、この船の上の方がお話もしやすいでしょう」
 トレヴィザンは二人に付いてくるようにうなずきかけると、船尾に向かって歩きだした。
 金糸で彩られたビロードの日除けの下に、およそガレー船らしからぬ、まるで玉座のような立派な座席があった。横に親衛隊とおぼしき騎士たちを従えて、そこに座っていたのは……トレヴィザンと同じくらいのまだ十分に若い、そしてなかなかの美貌の男性だった。
「陛下……」
 座席の前まで来ると、おもむろにトレヴィザンが跪いた。
「我が同胞ともいうべき援軍を引き連れて来てくださった、トレミリアよりのお客人、宮廷騎士長クリミナ・マルシィ殿、騎士レーク・ドップ殿をお連れいたしました」
 うやうやしく頭を垂れたトレヴィザンの様子から、そこにいる相手が誰なのかレークにも察しがついた。
「ご苦労」
 座席から提督に頷きかけるその人物こそ、誰あろうウェルドスラーブ国王、コルヴィーノ一世であった。
「久しぶりであるな、クリミナ殿。この度は我が国のためにこのように駆けつけていただき、まことに大儀に思う」
「は」
 さっとクリミナが跪くと、横にいたレークも慌ててそれに習った。
「それに、そなたはまた美しくなられたようだ。すでにトレヴィザンにもそれはさんざん言われたと思うが」
 国王はそう言って笑った。その顔は、王族の者にだけ表れるような特別な才気に富んでいたが、また一方では、どことなくいたずらそうな様子もある。三十歳そこそこの国王という点では、トレミリアのマルダーナ王と同じだか、こちらのコルヴィーノ王はとても表情が豊かで、血色のいい顔に浮かんだてらいのない笑顔は、むしろ提督トレヴィザンのように、海の男の逞しさと人好きのする雰囲気とを併せ持ってるようだった。
「我が妻の妹たち……カーステン姫、それにミリア姫は元気でやっているかな?最後に会ったときには、ミリア姫の方はまだほんの赤ん坊だったと思ったが」
「はい。カーステン様は今年で十六歳、ミリア様は十二歳におなりです。お二人ともお元気で、またお美しくなられました」
 答えるクリミナは、すでにこのウェルドスラーブ王とは面識があったし、その気さくな人柄を知っていたのだろう。一国の王を前にしてはやや馴れ馴れしい態度ではあったが、この国ではどうやらそれが普通のことらしい。そばにいたレークもそれを見て取った。
「ふむ。いやいや、どうして。騎士長どののお美しさも数年前とは見違えるようだ。あの頃はまだ騎士のまねごとをしている、やんちゃなお嬢さんという雰囲気であったが……いやいや、これは失礼な言いぐさだったか」
 そう言って、国王はまた笑い声を上げた。
「さ、とにかく、こちらに座られるがよい。そちらの騎士どのも。トレヴィザン、お前も来い」
「は」
 トレヴィザンは、レークとクリミナに、国王と向かいの座席を勧めて、自分は王の横の席に着いた。それから警護の騎士たちに合図を送り、彼らをやや離れた所に立たせた。これから話される内容については、余分な人間には聞かせられぬという、それはぬかりのない配慮なのだろう。
「水の上では、宮殿のように余計な連中に会話を聞かれることもないので、我等はとくに大切な会見はこうして船の上ですることが多いのですよ」
 トレヴィザンが説明した。その間にも、船は港からだいぶ離れてきており、今はやや速度を緩めて湾内をゆるやかに漂っていた。
「さて、あまりゆっくりとしておられる悠長な時間もないようなのでな」
 最初に国王がそうきりだした。
「まず、現在の状況についてだが……トレヴィザン、要点だけをそちからお二人に説明して差し上げろ」
「は」
 トレヴィザンは、クリミナとレークとに向き直ると、てきぱきと話しだした。
「まず、ともかくも……我がウェルドスラーブにようこそ。我が国最大の友人にして、いわば親戚でもある大国トレミリアのお力を、このようにお借りできることを大変嬉しく思います。長旅でお疲れのこととは存じますが、しばしの時間をこのトレヴィザンめにお与えいただきたい」
 二人がうなずく間を待って、トレヴィザンは続けた。
「とりあえず、現在の状況からお話いたしますと、ご存じのとおり、ジャリアの軍勢約二万五千が不穏な動きを見せはじめたのは、すでに今から四月も前のこと。ジャリア軍は自由国境地帯を抜け、我が国の北端の都市バーネイを見据えるヴォルス内海を挟んだ対岸に布陣したのです。そのころ、ご存じのようにトレミリアでは例の大剣技会が行われ、我が国からは援軍要請の懇願書をたずさえたフェーダー侯がフェスーンに赴いておりました。その時点では、ジャリア軍が宣戦布告をしてくるのは確実、そして時間の問題かと思われていましたので、こちらとしても、一刻も早い戦力の補給をと焦っていたわけです。なにしろ、海軍はともかく、陸の兵力についてはジャリアに比しては赤子のような我が国ですからな。こういうときには、トレミリア、セルムラードの援軍を頼みにするしかないというのがなんとも心苦しいところですが。ちょっと……失礼」
 テーブルに置かれたグラスを取り、ワインを一口飲んでからトレヴィザンは先を続けた。
「さて、そのように大急ぎで軍備を整えようと、我々は相当に焦り、奔走していました。しかし、そう……不思議なことにあるとき、ジャリア軍の動きがまったく止まりました。それは突然のことだったので、我々も拍子抜けしたくらいです。当然、トレミリアの方でもその情報はつかんでいたでしょうが、指揮官として自ら兵を率いていたジャリア王子……あの黒竜王子が、あるいはなんらかの事情で軍勢から離れねばならなくなったのではないかと我々は推測しました。ともかくもジャリア軍は停滞し、これは助かったとばかりに、我々はその間に大急ぎで軍備を整えることにいたしたわけです。武器を作らせ、各主要都市の城壁を補強し、何度となく会議を行い、有事になった場合の予測をして、事に備えました。そうして先日、トレミリアから増援の準備が整ったと聞き、これは間に合ったと思ったのです。うまくすれば、大がかりな戦になるまえに兵力の睨み合い程度で事が収まるかもしれないと。それは、今考えれば実に甘い考えでしたが、その時点ではそう思われたのです」
 トレヴィザンはいったん言葉を切ると、クリミナとレークを見た。
 二人は余計な口を挟むことなく、じっと話を聞いている。トレヴィザンの話には、いっさいの誇張や無駄がなく、その論理的な口調は大変実際的であった。おそらくこのような資質こそが、この提督が国王から厚い信頼を寄せられている大きな理由であるのだろう。
 トレヴィザンは続けた。
「しかし……、ここに来て事態は動きだしました。それも悪いほうに」
「……悪い方に」
「ええ。今からたった数日前のことです。それまで沈黙を保っていたジャリア軍が、バーネィに侵攻をはじめ……つまり、ついに戦は始まりました」
 横にいる国王がその表情を曇らせる。だが、提督は淡々と、事実のみを簡潔に告げた。
「そして、これはつい昨日の知らせですが、バーネィは陥落しました」
「……」
 しばし、船上に沈黙が流れた。
 クリミナとレークは無言で目を見交わした。コス島へゆき、補給物資を調達している間……つまり彼らの知らないうちに、すでに戦いは始まっていたのだ。その事実に、二人の顔もいくぶんこわばった。
「バーネイは落ちました」
 トレヴィザンは繰り返した。
「バーネィ城は陥落、そしてジャリア軍二万は町を完全に占拠し、最新の斥候からの情報では、すでに奴らはそのまま南下を始めているとのことです。目的地は、このレイスラーブであることは想像に難くない」
「……」
 レークは思い出していた。先程感じた町の人々の異様な雰囲気……緊張をはらんだ熱気のようなもの、その正体を……
 戦いはすでに始まっていた。
 この町の人々は、すでに戦時中の緊張と高ぶりに包まれていたのだ。あの異常なまでの熱気と興奮とは、そうしていなければどうしようもないという、人々の本能的な恐れであり、それはすなわち、戦い……いくさの到来を意味する町全体を包む恐慌なのだった。
 それを考えると、遠く離れたトレミリアの地の空気は、いまだ平和そのもので、戦が近いという事実にも、人々はどこか他人ごとのように感じていた。このウェルドスラーブの港に入ったときに感じた違和感……それは、平和な国から、いきなり戦時中の国に入ったときの、突然の空気の変貌だったのだ。
「事態がそれほど切迫していたとは、知りませんでした……」
 じっと話に耳を傾けていたクリミナが口を開いた。
「ともかく、私達の任務は補給物資の調達と、少ないながら二千の兵の派遣でした。この数日の間に、そのように事態が急転していたとは知らず……おそらくトレミリアの方でもその情報はまだ届いていないかと。まったく、友好国の危機というのに、我ながら安穏としていたことを反省するばかりです」
「いやいや。そのようなお心遣いは無用。なんにせよ、こうして貴重な物資を運んで来ていただいたことに感謝こそしなくては」
 トレヴィザンの言葉に国王もうなずいた。
「我が国最大の友国であり、そして愛する妃の国でもあるトレミリア……それはトレヴィザンにしても同じであろうが……それがこのように派兵の申し出に応えてもらえた儀、国王としてまことに嬉しく思う。さらに、女性の身でありながら、こうして自ら先頭に立って指揮してこられたクリミナ殿の勇気、それはまさにトレミリアの勇気と誠意の表れと、我が国民たちも大いに喝采するところ。こちらが感謝こそすれ、そのように苦慮思していただくにはおよばぬ」
「過分なお言葉痛み入ります、陛下」
 クリミナが頭を下げる。 
「この遠征に加わる時点で、私などはすでに女の身は捨てております。今後は単なる一兵士、一騎士として陛下と、我が友国ウェルドスラーブの為に剣を取ることを、お許し願いたいと思います」
「うむ。見事な心意気。それでこそ噂に聞く女騎士クリミナ殿であるな。そして、こちらの騎士は……」
 国王の視線を受けて、レークは慌ててうなずいた。 
「あ、ええと……オレ、いや私は、レーク・ドップと申します」
「ふむ。あのトレミリアの大剣技会で優勝したというのはそなたか」
「ええ、まあ。恐れ入りますね」
 いまだ使い慣れぬ言葉遣いに、つい横柄さがにじみ出てしまう。
「ああ、申し訳ありませぬ。この者、言葉遣い、貴族としての振る舞い、まったくもって生来の粗忽者にてございますゆえ」
 眉を寄せる国王を見て、横からクリミナが言葉をそえる。
「国王陛下にはどうぞ、ご無礼をお許しを」
「ああ、よいよい。余は表面上の媚び、へつらいが嫌いでな。要は、そのものが本物の男かどうかよ。肝要なのはな」
 国王はそう言うと、剛直そうな笑いを浮かべた。
「ところでレークとやら、そなたはたいそう強いそうだが」
「ええ、まあ……そうですが」
「おお、言うたな」
 国王はむしろ楽しげであった。
「ここにいるトレヴィザンもな、なかなかの腕だぞ。今は提督なんぞと船の上で威張っておるが、もとは大剣を振り回す乱暴者よ」
「陛下、陛下……乱暴者とは、人聞きが悪い。麗しの騎士長どのがおられる前で」
「ぬかせ。美しい妻がいる身でおりながら、この上クリミナ殿にも熱を上げるとは。お前のサーシャに直接言いつけるぞ」
「おお、そればかりはどうかお許しを。陛下」
 降参したようにトレヴィザンが言うと、国王は豪快に笑い声を上げた。
「ははは、我がティーナとそちのサーシャとは仲もよいからな。わしが妃に話したことは、みなサーシャにもつつぬけだと思うがよい」
「ああ、そうでしょうとも。いつだって叩かれるのはこの私。ほんの少しだけ、美しいトレミリアの女騎士どのを褒めただけでも、バジリスクの視線で睨まれるものです」
 二人のやり取りを前に、クリミナとレークも思わず顔を見合わせていた。
「ところで、ずっと気になっているのですが」
「なんでしょうか、クリミナ殿」
「ええ。サルマにて別れた、我々の同胞、遠征隊の本隊のことです。さきほど提督にもお話しました通り、我々は物資補給の任務のため本隊とは分かれ、単独で船にて海路をとりました。本隊とはここレイスラーブで合流することになっていましたが……陸路と海路の違いはあるでしょうが、日数的に考えても、我々と同時かあるいは本隊の方が先に到着していてもよいはずなのですが……」
「……」
 トレヴィザンはそれにはすぐに答えず、ただ口許を引き結んだだけだった。先程までの穏やかな顔つきとは異なる厳しい面持ちで。
「見たところ、どうやら本隊の方はまだこのレイスラーブには到着していないようです。……もしや何かありましたか?」
「さよう……じつは、それについては、まだはっきりとは言えないのですが」
 言いにくそうにしていたトレヴィザンは、横目で国王がうなずくのを確認すると、
「よいですか。これは極秘事項で、まだ公表できない情報です。そして確かであるという保証もない」
 そう前置きして話しだした。
「トレミリアの遠征隊一行が、我がウェルドスラーブの西端の国境都市、スタンディノーブルに入城したという報告が一昨日ありました。そう、順調に行けば、彼らは確かに今日にはこのレイスラーブに到着できるはずだったと思いますが……しかし、今日になって、スタンディノーブルからの連絡は突然途絶えました」
「……」
「スタンディノーブルに限らず国境周辺の各都市からは、細かな情報を届けされるため斥候の飛脚が連日やってくる手筈なのですが、陥落したバーネイはともかく、今日になってもスタンディノーブルからの斥候の消息が分からないままのです」
「それは……どういうことでしょう?」
「まだ分かりません。正確には、何があったのかも分からない。もしかしたら、単に斥候がどこかで足止めを食っているのかもしれない。あるいはそうでないかもしれない。じつは昨夜のうちに、新たな偵察の者を、今回は正式な騎士の小隊を連れてレイスラーブに向かわせたところです。これが戻ってくれば、事実がどうなっているのかが判明するはず。ですから、それまでは……」
「ま、慌てず騒がずってこったな」
 ぶっきらぼうに言ったのはレークだった。
「その通り。ここで焦ったり、おろおろしたところで何も始まらないわけです。とにかく、それについてはしばらく待つことです。もちろん、トレミリアのご同胞のことですし、大変に気掛かりとは思いますが。最悪のことを考えるのも、楽観的に考えるのも、結局はどちらも想像のうちにすぎません。あらゆる可能性を予測しておくにこしたことはありませんが、余分な妄想で判断を鈍らせたり、今すべき行動をそのせいで躊躇するのは得策ではない。しばしお待ちを。とにかくまだ確実な情報がありませんので。しばし」
 クリミナはうなずいた。 
「了解しました。では、ともかくは事実が分かり次第すぐに教えてください。私もトレミリアを代表して来た騎士ですから、無用に騒ぎ立てることはいたしますまい」
「もちろん、なにか新たな情報が入り次第、即座にお知らせします。こちらとしても、トレミリアの兵員……騎士たちのお力を大変あてにしております。遠征隊の方々が何事もなく、このレイスラーブに入城していただけるよう全力をつくします」
 トレヴィザンは胸に手を当て、力強くうなずいた。
「では、とにかく今日の所はゆっくりお休みください。旅の疲れもおありでしょうから、そろそろ港へ戻ることにいたしましょう。よろしいですかな、陛下」
「うむ、ご苦労」
「では」
 トレヴィザンは立ち上がり、一礼すると、漕ぎ座の方へ指示を出しに向かった。
 国王のガレー船は、美しい湾内の景色を見ながら、再び喧騒のうずまく港へと、ゆるやかに向きを変えていった。


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