水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

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夏へ…

 二人の浪剣士がトレミリアにやってきてから、もう二ヵ月あまりがたっていた。
 剣技会で見事優勝を果たしたレークと、他国間者にまつわる陰謀を阻止したアレンの二人は、賞金とともに屋敷を与えられ、フェスーン宮廷の敷地内に住まうことを許された。
 当初からの二人の目的は、アレンの持つ水晶の短剣と対になるはずの魔剣……水晶剣の探索であった。しかし、国王の宝物庫に忍び入っても目的の剣は見つけられず、いったんはもはやこの国にいる意味はないと出奔することを考えた二人だったが、彼らはこの国に留まることを選んだ。リクライア大陸西側でも最も由緒ある大国トレミリアで、それぞれが騎士となり、あるいは宮廷人となれば、旅の浪剣士として諸国を巡りながら、どこぞの王宮に危険を冒して忍び込むよりは、剣を探索するに利益があるだろう。現在では北の大国ジャリアの進軍によって、大陸間は非常に緊迫した状況下置かれており、いっそう厳しさを増した他国への入国チェックや、各ギルドの規制などを考えれば、身分ある宮廷人や騎士の肩書はどんな通行証よりも確実な信頼を得られる。そう彼らは考えた。
 まず二人は、トレミリアの貴族たちの信頼を得ること、より多くの有力な知己を増やすことを優先事項とした。幸いなことに、宰相オライア公爵とは数度の面会を経て、ある程度の信頼を得ることができた。むろん、自分たちの目的における最も深い秘密までは告げることはできなかったが、それでも、その知的な宰相とは言葉を飾ることなく多くの情報を交換し合えたし、まだ後ろ楯とは言わないまでも、少なくとも知人にはなり得たし、悪い印象を与えることはなかったはずだとアレンは考えていた。
 またトレミリア貴族たちの間では、あの剣技会での活躍以来、宮廷にやってきた二人の浪剣士の存在は、けっこうな噂になっていた。トレミリアの誇る名だたる剣士、騎士たちを打ち負かしたレークのことはもちろん、それとは対照的に、貴公子然とした美貌をもつアレンなどは、とりわけ貴族の女性たちからの関心を大いに集めていた。
 剣技会の後、アレンのもとには連日のように花や手紙が届けられ、話題の美剣士をひと目見たいという婦人たちからは、舞踏会や晩餐などへの誘いもくるほどであった。それらの誘いをすべて受けるわけではなかったが、アレンは送られてくる書簡の文面や、手紙の最後に押された爵位を持つ貴族の印章を確かめると、いくつかの晩餐や舞踏会には身なりを正して出掛けていったりした。
 彼にとっては、貴族たちの集うサロンに出てゆくことは、決して無駄なことではなかった。そうした場においての、宮廷における有力者同志の力関係を知ったり、姫君や伯爵夫人たちとの何気ない会話から得られる情報には、ときに有益かつ貴重なものも含まれていたからだ。
 舞踏会においても、アレンは常に貴族たちからの関心を得た。多くの婦人たちは、たった一度ワルツを踊っただけで、例外なく彼に心奪われた。その美貌に加え、周囲を楽しませる知的な弁舌と流麗な立ち居振る舞い、そのすべてにおいて、彼は完璧なる貴公子だった。すぐに婦人たちは、こぞって彼の相手になることを競うようになり、自慢げにひとときでも彼を独占し、その話相手になりたがった。
 こうして、しだいにその類まれな美貌の若者の存在は、貴族たちの間でも知られてゆき、ついに彼が式部宮の教師という地位を得るに至っても、もはや誰もそれを不思議がる人間はいなかった。
 一方の、黒髪の浪剣士……剣技会優勝者にして、今は宮廷騎士となった陽気なならず者、レーク・ドップであるが、
「かあっ、今日も稽古があんのかぁ。世間じゃルベの休日だってのによ……ったく」
 彼は今日も、起き抜けの悪態を部屋に響かせていた。
 寝台で体を起こし、大あくびをするその姿は、宮廷人となった今でもなにも変わらない。彼を無理やり起こした悪魔であるところの金髪の美剣士をぎろりと睨み付け、頭をぼりぼりと掻きながら無造作に立ち上がると、水桶に顔を洗いにゆく。
「なんと。お前が起きてすぐに顔を洗うようになるとは。これは驚くべき快挙といってもよかろう」
 大げさに言う相棒を振り返り、むっとしたように唇を尖らせる。だが、次にレークは少し照れたように言った。
「だってよ、稽古に遅刻するとあの、クリミナ……騎士長がよ、物凄いツラで睨むんだもの。あれじゃせっかくの美人が台無しだぜ。まったく」
「なるほど。それで、お前は騎士長どのの小皺を増やさぬためにと、いじらしい努力をして、そうして毎朝ちゃんと……というか俺に起こされてはいるんだが、前よりはちゃんと起きているわけだな」
 宮廷騎士の稽古服に着替えながら、レークは珍しくも殊勝にうなずいた。
「そう。俺っちの人生の指針として、絶対に破っちゃいけない二つがある。一つはよく食べよく寝ること。もう一つは……女には優しく、美女にはさらに優しく、というやつだ」
「では、女騎士どのが美しいうちはお前の早起きは続きそうだな。それはけっこう」
 ここにきてはじめのうちは、騎士の朝稽古を面倒くさがっていたレークではあったが、最近ではなかなか真面目に出掛けてゆくようになった。この宮廷において、ある程度の人脈と信頼を得るために、貴族たちや騎士たちとうまく関係を保つこと、できれば、有力な後ろ楯となる地位ある貴族と近づく機会を得ること、それらの行動が全てが自分たちの目的……つまり水晶剣の探索に大きく関わってゆくことなのだと、相棒から諭されてからは、レークも本来のものぐさをぶりを改めようと、多少の努力は始めていたのである。
 おかげで、ここのところ騎士団でのもめ事も減ってきていた。入団した当初は、それこそ浪剣士風情と蔑まされたり、あからさまに煙たがられたりもしていたが、今では少しずつではあったが、レークは騎士団の一員として受け入れられつつあった。
「近頃は騎士たちとも上手くやっているようだな」
 つい先日は、騎士団の少年騎士と決闘をしたという話を聞かされ、ひそかに気を揉んでいたアレンも、最近はレークから聞かされる毎日の報告にうなずくことが多くなった。
「ああ、なんかさ、あのファリスってガキとのひと悶着があって、こっそりクリミナ騎士長さんから、あのガキを怪我させないようにって頼まれて、そうしてやったら……それ以来なんだかクリミナの様子がちょっと変わってきたんだよ」
「ほう?どんな風に」
「なんていうか……そうだな。少し優しくなったってのか、いつもならさ、毎回稽古に行く度にこう……冷たい視線でオレをを睨み付けてきたもんだが、この頃はあんまりそういうのがねえな。まあ、ああやっておだやかにしてりゃ、あの騎士長さんもなかなかいい女だと思うんだけどね」
「ほう。それで近頃は、あまり騎士団の稽古をさぼらなくなったのだな。いい心掛けだ」
「まあな。それに、なんか知らねえが、このところ見学に来る取り巻き連中がけっこう多くなってるみたいだ」
「見学……騎士団の稽古にか?」
「ああ。はじめはさ、てっきり、こりゃみんなクリミナのファンかなんかだと思ったんだが。あいつは女のくせして、妙に宮廷の女官なんかからも人気があるからな。でもどうやら、そうでもないみたいだ」
 レークはやや自慢げににやりと笑って言った。
「なんか、そいつらはさ、この俺が目当てらしいんだなあ」
「ほほう。お前もそんなにもてるようになったか」
「まあな……って言っても、五、六人くらいだけどよ。こっちが剣の練習している間、なんかきゃあきゃあ言いながら手を振ってきたり、稽古が終わったら終わったで、俺のとこに寄ってきて、こう……こんなふうにもじもじしながら言うのさ」
 やや不気味に体をよじりながら、レークは真似をしてみせた。
「あの……レーク・ドップ様でしょう?この前の剣技会で優勝された御方ね……という感じでさ」
「それは、なかなか有名になったものだな、お前も。若い女官からちやほやされれば、それは稽古に行く甲斐があるというものだろう」
「バーカ。そう喜べるようもんでもないんだよ、またこれが。女たちはその後に、きまって付け加えるんだよ……アレイエン様のお友達でいらっしゃいますよね、とさ!」
「ふむ」
 それがさも当然というようなアレンの様子に、レークは大いに憤慨した。
「まったく。お前が、いろんな晩餐やら舞踏会やらに出向いて、誰彼なく女たちをひっかけるもんだから、こういう奴らが出てくるんだ。そのせいで、せっかくここのところちっとは優しくなってきたクリミナも、女たちが俺に押しかけてくるときには……これ以上ないという冷たい視線で俺を見やがる。みんなお前のせいだ」
「人聞きが悪いな。俺は舞踏会で誰彼なく女性に声をかけているわけではないよ。ちゃんとあれはどこぞの伯爵の令嬢で、あちらは公爵の姪にあたる姫君でと、色々と情報を集めているんだ。それに、おまえだって……」
「なんだよ?」
「麗しの騎士長どのに、やきもちを焼いてもらえて、嬉しいだろう」
「ばっか……お前は知らないから分からんだろうがな、あれはやきもちなんて可愛いもんじゃないんだよ。あの目つきはな、こちらを心底蔑んだような、まるでそう、ならず者の変態のろくでなしを見下ろすような……そんな冷たい目なんだ」
 レークはやや悲しそうにため息をついた。
「ろくでなしね。まあ、その通りだろう。身分も無い浪剣士が宮廷騎士になりましたはいいが、その男ときたら、ひどく汚らしい恰好で髪はぼさぼさ、言葉も態度も横柄で野蛮、しかも稽古はさぼるわ遅刻はするわ、挙げ句に身分違いの取り巻きの女性に囲まれて、ヘラヘラといやらしくにやけているわで……それはもう、どう見ても大変なろくでなしにしか見えぬだろうな。高潔な女騎士長どのからすると」
「……お、お前な」
 冷酷に言い放った金髪の相棒を、レークは憎々しげに睨んだ。
「そりゃあよ、確かに俺はもと浪剣士だし、お前みたいに雅びな言葉づかいやら、貴族の礼儀なんてのはこれっぽっちも知らん。だが……最近は朝起きて顔を洗い、一応髪もとかしてるし、服も着替えてる。たしかに他の貴族のボンボンみたいな袖のふくらんだブラウスだの、だぶだふのズボンだのブーツだの、お洒落な最新流行でござい、なんてやってられてねけどよ。しかし、だからってろくでなしは……ひでえ」
「冗談だ。まあ、そう気を落とすな」
 がっくりと肩を落としたレークをなぐさめるように、アレンはぽんとその背を叩いた。
「俺もつい本当のことを言いすぎたようだ。確かに、最近のお前はよくやっているよ。稽古もちゃんと出てるようだし。恰好も前よりはずっとまともだ。少なくとも乞食やごろつきにはもう見えん……と思う」
「褒めてるのかよ、それで」
「それにレイピアの腕だって、前よりはだいぶ上がっているんだろう?」
「ああ、そりゃあ毎日稽古してりゃ、いやでもあの細っこい剣にも慣れてくらあな。まだクリミナには勝てねえがよ」
 あまり悔しさがあるようでもない顔を見て、アレンはふっと笑った。
「宮廷騎士長クリミナ・マルシィ殿、そしてトレミリア宰相オライア公爵の御娘か……相手としては不足はないな」
「相手?なんのだ?」
「いいや別に。さて、そろそろ朝稽古の時間ではないのか?」
「ああ、いけねえ……のんびりだべっている場合じゃなかった!」
 着替えを済ませたレークは、愛用の剣を手に部屋を飛び出した。
 一階に降りると、炊婦のマージェリが台所から声をかけてきた。
「いってらっしゃいませ。今日の夕御飯は鶏肉入りのスープですよ。それにデザートには、胡桃のパイも焼いておきますからね」
「ああ、ついでに美味いワインも買っておいてくれ。じゃあ行ってくらあ」
 扉を開けると、晴れ渡った空と朝の空気が彼を出迎えた。
 整えられた石畳の道を、騎士の剣を背負った元浪剣士は足どり軽く走りだした。

 トレミリアの首都フェスーンは、三百年の歴史を刻む王都である。
 豊かな水源に育まれた都市周辺の農耕地帯は、城壁の内側に住まう人々に十分な農産物を供給してくれ、内陸のおだやかな気候とともに、この都市は豊かに栄えつづけてきた。
 マクスタート川を南に下った港町スタグアイからは、毎日のように他国からの輸入品が運ばれて来るし、西の友好国セルムラードからは月に何度か大きな商隊が到着し、それに合わせてフェスーンの町では大きな市が開かれる。このように近隣諸国との交易を古くから積極的に行ってきたトレミリアは、リクライア大陸においては、今では最も商業ルートの確立された大国となった。
 また首都のフェスーンには、大陸間の商業における基準を司る、商人ギルドの本拠地が置かれ、他国から運ばれてくる様々な物資の価格設定や、関税率などもここで取り決められる。あらゆる貿易物資のランク付けがされ、市場における最新の価格が決定され、ひいてはそれがトレミリア国内のみならず、大陸全体の物価のスタンダートとされてゆくのである。いうなれば、このフェスーンこそが大陸間貿易の中心地であった。
 こうしたことをふまえて、現在にわかに緊迫しつつある大陸西部の状況を見ると、トレミリア、セルムラード、ウェルドスーブの三国に対し、貿易上での不平等を訴えていた北の大国ジャリアがついに兵を動かしたことは、ある程度予測のできた事態ではあった。
 ここのところ大陸全体では、金銀や宝石類はともかく、鉄や銅の需要が落ちていたこともあって、この数年で鉄資源の関税率は大きく引き上げられていた。これは鉄を必要とする剣や鎧などの武器の生産が、各国において急激に減ったことを意味する。それはつまり、大陸全土における戦争の減少を裏付けるものだったが、これまで自国の鉱物資源の輸出による外貨を頼りにしてきたジャリアにすれば、貿易による利益は悪化の一途をたどることとなった。
 不満を持ったジャリア側は、貿易上の不利なやり方の是正と、関税の引き下げを再三求めたが、トレミリアを含む西側諸国はこれに応じなかった。そして今年に入り、ついにジャリアは大陸間相互援助会議から脱退し、武力行使にうったえ出た。
 ジャリア軍は、ヴォルス内海を挟んでウェルドスラーブの北端の都市バーネイを対岸に見据える位置に陣を張った。これは事実上、ジャリアとアルディの両国による共同の軍事行動といってよかった。アルディは、ジャリア軍の自国領内の通過を黙認したからである。
 この両国とヴォルス内海を挟んで近接するウェルドスラーブにとって、事態は由々しきものだった。ウェルドスラーブは、ただちに友国であるトレミリアへ援軍を要請する。
 トレミリアからすれば、これらのいざこざはバルデード山脈と広大なロサリィト草原に隔てられた、いわば対岸の火事にすぎず、この時点ではまだ事態を切迫したものとは捉えてはいなかった。だが、その後すぐに、今度はジャリア軍がロサリィト街道を封鎖したという情報が届くと、ようやくトレミリア首脳部も事の大きさに気づき、大急ぎで国内の傭兵を集めるべくやっきになる。これが先日行われた、フェスーンでの大剣技会である。ここで集った剣士たちを傭兵として雇い入れ、ウェルドスラーブの派兵要請に応じるための主要な人員にする算段だったのだ。
 そうして、それからふた月余りが過ぎた。
 当初のせわしない緊迫状態とは裏腹に、ジャリア軍からの明確な宣戦布告は今だになく、表面上は、事態はまるで動いていないかに見えた。これは、思うように兵士の編成が進んでいないトレミリアとウェルドスラーブにとっては有り難いことだったが、この停滞期間がじつのところ、ジャリア王子フェルス・ヴァーレイが国王の帰還命令を無視できず、いったん兵を置いて首都のラハインに帰参したことによるものである、などということまでは知る由もない。ただ、とにもかくにも、この貴重な時間を利用して対ジャリアへの方針を定めるべく、ウェルドスラーブの首都レイスラーブにて対策会議が設けられた。
 トレミリアからは大将軍レード公爵が、配下の騎士団を連れて会議に赴いた。レード公爵騎士団の団長は、ご存じのとおり、トレミリア剣技会においては山賊デュカスとして一般参加者にまじり、クリミナらと共に間者の枝打ちを影で支えた、ローリング騎士伯その人である。彼はレード公と共に、トレミリアとウェルドスラーブを行き来しながら、騎士団の編成などに忙しく奔走することになった。

 そうしてまたひと月が過ぎ、八月になった。
 緑の庭園に、黄金色の大輪のアミラスカの花々が咲き誇る……夏、
 トレミリアはまだ平穏だった。
「レード公爵に会うぞ」
 ある日の夕食後、アレンは前置きなしにそう切り出した。
「へ?レード……だれだっけ?」
 炊婦のマージェリには、しばらく部屋には近づかぬようにと言い渡してある。アレンは扉の鍵を閉めたの確かめると、のんきそうに首をかしげる相棒に向き直った。
「トレミリアの大将軍、軍事に関する王国の最高責任者、レード公爵ダルフォンス殿さ」
「ははあ……」
 さして驚きもせずにレークは鼻くそをほじくっていた。豪胆とも安気ともいえるその様子に、いつものように苦笑しながらアレンは話を続けた。
「情報によると、レード公は先日ウェルドスラーブより戻られて、八月いっぱいは宮廷内の自邸におられるそうだ。おそらくは通例の夏の晩餐会も催すだろうという話だ」
「晩餐会ねぇ。はっ、優雅なこったな。今にもいくさが始まろうかというときに」
「まあな。ただトレミリアにとっては、ジャリアはロサリィト草原と山脈を超えた遠い国だ。いくさといっても、この国の貴族たちにはまだ実感は沸かないだろうよ。また、おそらく無用な騒ぎを避けるためにも、ジャリア進軍の情勢は宮廷の要人以外には伝わっていないだろうからな」
「ふん。それで、その将軍さんとはどうやって会うんだ?まさかただの元浪剣士の俺たちがいきなり出向いて行って、こんちわ、なんていって気軽に会える人間じゃないだろう」
 もっともだとばかりにアレンはうなずいた。いきなりこのような重大な話を始めても、とくに驚きもしないのが、この泰然とした黒髪の浪剣士の剛毅なところである。
「ナルニアという姫君を知っているな?」
「ナルニア……ああ。先月から騎士団の稽古を見に来たりしてた、黒い髪のかわい子ちゃん。ああ、知ってるよ。だって、その娘の事は前からお前に言われていたからな。なるべくちゃんと挨拶をしたりなんだりで、かまってやってるけど。それがどうかしたか?」
「うむ。あの姫君はじつは……」
「実はもうすでにお前の女で、今は宮廷内部に潜入させてレード公を見張っている女スパイだ……とか?」
「……」
 アレンは冷やかな目をして首を振った。
「ああ、悪かったよ。冗談だって。怒んなよ。で?そのナルニアちゃんがなんだって?」
「彼女はレード公爵の娘だ」
「なるほど……って!マジか?おい」
「そう。レード公爵の次女、ナルニア姫。ちなみに長女のサーシャ姫は、一昨年ウェルドスラーブのトレヴィザン将軍に嫁いでいる。由緒ある家系の姫君たちだ」
「あのな……そういうことは始めから言えよな。そんな高貴な姫さんだって知ってりゃ、俺だってもうちょっと……」
「もうちょっと、なんだ?」
「うう。いや、べつに……」
 レークは頭を掻いた。大将軍の娘に対して、自分がこれまでにしてきた横柄な態度や言葉遣いを思い返しつつ。
「ふむ。お前でも、権威あるものへの体裁を考えることもあるんだな。よろしい」
 まるで教師のような口調でアレンは言った。
「今まで黙っていたことについてはあやまる。が、情報というのは、必要なときに必要な分だけ与える。それが正しいやり方だ。とくにお前のように後先考えないで動くやからを相棒にした場合にはな」
「ちぇっ」
 唇を突き出したレークは、ソファの上に乱暴に足を投げ出した。
「しかし、あるいはもしかしたら、お前がナルニア姫に対して無礼な口をきいたほうがむしろ良いこともあるんでな。じつのところ、それも計算に入れたといえば入れたのだ」
「どういうこっちゃ?」
 相棒の言葉にレークは首をひねるばかりだったが、常に考え深いこの青い目の策士がなにやら不可解な事を言いはじめたとき、そこになんらかの奥深い考えがあるのだろうということは分かっていた。
 アレンは、その秀麗な顔に薄い笑みを浮かべて言った。
「もうすぐ晩餐会だよ」

 ここフェスーンでは毎年夏の盛りになると、大貴族たちの晩餐会が行われるのが慣習だった。中でもトレミリア王族の流れをくむ、マルダーナ、ロイベルト、サーモンドのいわゆる三大公爵の主催する晩餐は、豪華絢爛な一大行事として、国王をはじめ宮廷の主要な面々が出席することでも知られる。それに続くのが、宰相であるオライア公爵と大将軍レード公爵の晩餐会であった。三大公爵のものに比べて格式はやや落ちるものの、こちらは一般の貴族たちでも参加できるとあって、例年多くの人々でにぎわい、ダンスや会食を楽しむのである。
 アレンの計画は、このレード公爵の晩餐会の席で、なんとか直接に公爵と言葉を交わす機会を得たいというものだった。
「俺も何度かナルニア姫とは、他の貴族のお茶会や舞踏会でお会いしたし、ダンスを踊ったこともある」
「そりゃ、さすがに手の早いこって」
「こういうときのためにな」
 アレンは、自分たち二人のうちのどちらかがナルニア姫と懇意になり、晩餐会の同伴者として選ばれるのが、もっとも手っとり早く確実なやり方だと説明した。
「なるほどね。それであのお姫さんに、なにくれと優しくしたり、かまってやれとかうるさく言っていたわけだな、お前は」
「あの姫君は見たところ、どうやらなかなか好奇心旺盛な方らしい。宮廷の貴族たちの中にはまだ俺たちの存在を疎んじる者も多いのだが、あのナルニア姫はどちらかというと好意的のようだ。というか、たぶん珍しいのだろう。俺たちのような人種が」
「ま、そうだろうよ。おきれいな貴族さま、姫さまたちにとっちゃあ、オレたちは毛並みの違う野良犬みたいなもんだろうさ」
 剣技会で優勝したレークの名は、その剣の腕前とともに、今では広くフェスーンの人々の知るところとなっていた。トレミリアの英雄であるヒルギス、ブロテを敗ったというその姿を一目見ようと、宮廷騎士団の稽古場には連日見学者が訪れ、そんな自らの人気ぶりに悪い気がするはずもなく、レークはやってきた貴族や姫君たちに愛想良く手を振った。
 一方のアレンは、もっぱら宮廷の女性たち、姫君たちの話題の的だった。
 あの剣技会での一場面で、人々の前に立ち、堂々と陰謀を暴いてみせた姿は語り種になっていたし、国王、貴族たちを前に、凛然とモランディエル伯を告発した、堂々たる態度を目にした人々は、すべからくその場で事件の証人となり、国王さえもが息を呑んだ、この美貌の剣士への賛辞を惜しまなかった。
 晴れて宮廷人となったアレンのもとには、連日のように晩餐や舞踏会の招待が届けられた。そして、すべての会席において彼は注目の的だった。
 その言葉使いに立ち居振る舞い、すべてが優雅で過不足なく、嫌みなく、流麗だった。姫君たちはうっとりとなって、アレンの姿を目で追った。ひっきりなしに申し込まれるダンスの誘いにも、彼は嫌な顔ひとつせずそれらを受け、巧みなステップで、ワルツもポルカもパヴァーヌも見事に踊りこなした。一度でも彼と踊ったり、言葉を交わした婦人、姫君たちは、アレンのことを「野卑な元浪剣士」などとはもう二度と考えなかった。
 こうして二人の元浪剣士、レークとアレンは、それぞれに宮廷における存在をしだいに認められつつあった。なので、アレンの言う、ナルニア姫の同伴として晩餐会に招かれ、レード公爵と対面するという計画も、なかなか現実味のあるものになりつつあった。
 晩餐会の季節になると、宮廷の姫君、貴婦人たちは、その同伴に誰を選ぶかという重大事に真剣に頭を悩ませ始めるのだが、おそらく、若き姫君たちの中には、現在宮廷でも話題の二人の姿を、ひそかに思い描くものもいたことだろう。



 アミラスカの大輪の花が、太い茎から顔を伸ばし始め、宮廷内の丘や庭園がいっせいに黄金色に染まりはじめる頃……
 アレンのもとに式部宮からの迎えが訪れた。
 夏の盛りのこの季節、式部宮の女官たちは、さまざまな催しの多い宮廷のあちこちに手伝いとして駆り出されるので、教師の仕事もしばらくは休みのはずであった。馬車から見渡す式部宮の敷地内は、そのせいかとても静かで、閑散としている。
「やあ。アレイエン。待っておったぞ」
 馬車を降りたアレンが、今や見慣れた古風な白い円柱の立ち並ぶ回廊を通り、その一室に入ってゆくと、モスレイ侍従長が皺深い笑顔で出迎えた。ここは侍従長の個室であった。
「挨拶などはよいから、まあ座れ。おい、シリルお茶を用意しろ」
「はい、ただいま」
 まだ可愛らしさの残る若い小姓が、早足に出てゆく。それを見送って二人は向かい合って腰掛けた。
「今はなにかと宮廷がせわしない季節だからな。女官たちは皆あちこちに出払っていて、そのせいでわしの世話をしてくれるのはあのチビすけくらいなのだよ」
 白髪の混じりはじめた口髭をなでながら、侍従長はかっかっと笑った。
「さて、おぬしをわざわざここに呼び寄せたのは他でもない」
「はい」
「なにしろ……うむ。とても急なことだったのでな。なんというか、わしも寝耳に水というか、まさか、このような申し出があるとは、いささか驚いたことでな」
 いつになくもったいぶった言い回しをされても、穏やかな顔つきを崩さないアレンの顔を、年老いてもなお聡明そうな目で侍従長はじっと覗き込んだ。
「そなたは、カーステン姫をご存じだったかな?」
「カーステン様。ええ。一度、ここの庭園でご挨拶をしたことがあります」
「なるほど。……そうか。ふむ」
 うなずいた侍従長は、しきりと何かを思案する様子でまた髭をいじり始めた。
「じつはな……」
 侍従長が話しだすまで、アレンは言葉をはさまずにじっと待った。
「じつは、そのカーステン様がだな……」
「はい」

 翌日になると、再びアレンは馬車に揺られていた。
 黒塗りの天蓋に施された金細工や、ゆったりとした革ばりの座席など、到底一介の剣士などが乗れるような代物ではない、見事な鹿毛の引く二頭立ての豪奢な馬車に乗り込んだアレンは、こういうこともあろうかと、宮廷に来てからただちにしつらえた、薄手だが品のいい折り返し襟の短外套に身を包み、いかにも貴公子然として見えた。
 馬車が向かう先は、宮廷内の東側、高台へと続く奥まった一角であった。このあたりは、主に大貴族や王族たちが住まう区域で、丘にそびえるフェスーン王城を囲むように名だたる貴族たちの城館が点在している。
 この特別な区域へ入るには、たとえ貴族であっても正規の許可証を提示しなくてはならないのだが、アレンの乗る馬車は見張りの騎士に誰何されることなく、悠々と城門をくぐり抜けた。車体の横に王家の紋章であるトレミリアの三日月紋と、マルダーナ公爵家の撥ね馬の紋章が刻まれたこの馬車そのものが、通行証として認識されているようであった。
 馬車の周囲には美しい風景が広がっていた。
 右手には広大なブドウ畑がどこまでも続き、丘の上には青い屋根屋根の尖塔がそびえるフェスーン城が壮麗に佇んでいる。その背後にはガーマン山地の山々の稜線が、麓の雲にかすみながら美しく映え、この古式豊かな城を見事に引き立たせている。
 アレンは、馬車の窓から見えるそれらの風景を静かに眺めていた。
 このあたりまでは以前にも一度だけ来たことがあった。剣技会での功績により宮廷人の地位を国王から授かったあの日……王城へと通じる丘の中腹にある白亜の殿で、レークは騎士の剣を、アレンは宮廷人の証である白いマントを受け取ったのだ。そして、その夜、国王の宝物庫へ忍び込んだが、結局、探していた水晶剣は見つからず、落胆の中でこの国を出るかどうかと思案にくれた。それがもう三月も前のことだ。
 あのときと同じ馬車道をゆく車輪の響きを聞きながら、金髪の美剣士はそんなことを思い返していたのだろうか。その秀麗な横顔からは、なにも窺い知ることはできない。
 馬車はさらに北東へと進んだ。辺りには整えられた芝生の庭園が続き、白鳥が泳ぐ池の向こうには、尖った屋根のやや時代的な屋敷や塔などがぽつぽつと見えていた。
「あちらが、マルダーナ公爵閣下の別邸でございます」
 手綱をさばく御者がアレンに告げた。
 馬車道の先に見えはじめたその屋敷は、歴史を感じさせる赤茶けた壁に、いくつもの高い尖塔をそなえた、ほとんど城といってもよいような立派な建物だった。
 マルダーナ公爵は、王国第二の地位を持つ大貴族である。王家最大の公爵であり、軍事、経済のすべてに大きな発言力を有する国の重鎮、そして、トレミリアの現国王マルダーナ四世の妹、ファーリアを妻にもつ。
 「マルダーナ」という名称は、トレミリア伝説の賢王であるマルダーナ一世にちなんで設けられた公爵位である。王国の全域に広大な土地を有し、サーモンド公、ロイベルト公とともにトレミリアの三大公爵と称される。宮廷内にも数多くの城や別邸を持ち、国王と近しい血縁をもつこの家系からは、他国へ王妃として嫁いだ姫なども多い。実際、マルダーナ公爵の長女ティーナは、現ウェルドスーラーブ国王妃であり、そういう意味でも国内のみならず、他国への影響力も大きい由緒ある名家なのである。
 屋敷の前にとめられた馬車からアレンが降りると、大きな扉が開かれて、現れた女官たちが彼を出迎えた。そのうちの女官頭らしき美しい女がそばに来て、「アレイエン・ディナース様であらせられますね」と、流麗な仕種で宮廷人の礼をした。それにうなずくと、彼は屋敷の中に通された。とたんに別の女官がすっと側に来て、強引でないほどの絶妙な手つきで服の埃をはらい軽やかに去っていった。続いて案内役の女官が、急ぎすぎぬ足取りで彼を回廊へと先導し始めた。なにもかもが流れるような優雅さで、アレンはいささか感心した。
 長い回廊の両側には、伝説の英雄や神々を模した彫刻や、代々の美姫を描いた絵画などが飾られ、ほのかに花の香りが漂っていた。すれ違う侍女たちは黒地に白いレースの入った優雅な衣装姿で、みなうやうやしい仕種でアレンに挨拶をした。
 この屋敷にいるのは、ほとんどが侍女か女官ばかりのようだった。おそらくは、ここに住まう身分あるものへの気配りなのだろうか、下男や男の従者の姿はまったくなかった。
 白い円柱の立ち並ぶ回廊をぐるりと回り、臙脂の絨毯が果てし無く続いてゆく廊下の、そのずっと奥まった扉の前で、ようやく案内の女官が立ち止まった。
 アレンの前でその扉がゆっくりと開かれた。女官がうやうやしく頭を下げる。
 かぐわしい花の香りが彼を迎えた。
 「しばらくお待ちください」と言い残し、女官が出てゆくと、アレンは部屋を見回した。
 ここはおそらく来客用の広間なのだろう。高い天井には豪華なシャンデリアがつり下がり、壁には細密なタペストリや絵画が並べられている。南トレミリア織りの高価な絨毯が惜しげもなく敷かれた広間の中央には、見るも立派な肘かけ椅子とテーブルが置かれ、大きな装飾入りの明かり取り窓からは、午後の陽光がやわらかく室内を照らしていた。
 当然のことながら、ここは、彼がレークとともに暮らすよう与えられた屋敷などとは根本的に違い、非常に瀟洒な風情に満ちていた。装飾の豪華さもさることながら、年代を経た壁や天井の深みある色合や、部屋に漂うなにかしっとりとした空気には、「空間そのものの格調の高さ」というようなものがあるかのようだった。
 アレンは、壁際に飾られた優美なフェスーン城の描かれた見事な絵画や、窓枠に施された手の込んだ細密な彫刻などを興味深げに覗き込んだ。幾何学的に彫られた天井の模様を見上げ、窓際に寄って眼下に広がる広大な庭園を見渡したりしながら、部屋の中をゆっくりと鑑賞していると、彼は気配を感じてふと足をとめた。
 振り返ると、ちょうど静かな音を立てて扉が開くところだった。
 まるで、そこに現れるのが誰かをすでに予期していたというように、アレンは敬愛の込められたやわらかな微笑を浮かべた。
「あ……」
 部屋に入ってきた女性が小さく声を上げた。
 アレンの姿を見てか、女性は少しのあいだ躊躇するかのように、そこに立ちすくんだ。
 進み出たアレンがうやうやしく膝をついた。
「姫君、自分はアレイエン・ディナースと申します」
 相手を決して驚かせぬような、優しく穏やかな声だった。
「私のような一介の名もなき輩が、高貴なる姫君にこのように近しく、ご尊顔を拝するご無礼を、どうかお許しください」
 深く頭を垂れたアレンを見て、女性は困ったように両手を組み合わせた。その口から震えるような小さな声がもれる。
「あの……。お、お顔を……どうか、お顔をお上げください」
「はい。では、失礼いたします。姫君」
 顔を上げたアレンと目が合うと、彼女はうっすらと頬を染めた。
「あの……あなたを、ここに呼ばせたのは私の方なのですから。どうか、ここではお客さまとしてくつろいでください」
「身に余るお言葉。一介の下郎である私ごときが、王家の姫君とお近く接することなど、本来ならば到底許されぬことですが」
「そんなこと……ありません」
 囁くような声で彼女は言った。
「たとえ王族だろうと……公爵の娘であろうと、人は皆、同じく目の前の相手をこそ敬うべきです。それが、先生になるかもしれない人であれば、なおさらです」
 トレミリア王国第四王位継承権者、カーステンは、そう言って淑やかに微笑んだ。
 傾きはじめた西日が室内に差し込み、その見事なプラチナがかった金髪をきらきらと照らしている。
「ア、アレイエン様……」
 その名を呼ぶと、彼女の頬はさっとバラ色に染まった。
「あの……とにかく、お座りください。そちらに」
「はい。姫君」
 アレンは先にたってゆき紳士的に椅子を引き、カーステンを座らせた。
 女官がやってくる様子はなかった。本来ならば、客人に対して飲み物などを運んでくるのが普通であろうが、部屋には誰も来る気配はなかった。おそらくは彼女自身がそう命じていたのだろう。
 このように若い男性と二人でいるなどということには全く慣れておらぬのだろう、向かい合って座りながら、彼女は落ち着かなげだった。ときおりアレンと目が合っては、また頬を染めて目をそらす。
「あの、あの、アレイエン様……」
 しばらくの沈黙ののち、彼女はようやく意を決したように口を開いた。
「今日お越しいただいたのは……私、モスレイ侍従長に頼んだのです。あの……」
「はい。そのことは侍従長殿からお聞きしていますよ」
 それを聞いて、彼女はややほっとしたように言葉を続けた。
「私は、今年で十六歳になります。去年修道所を出たのですけれど、それ以来ずっとお勉強をすることがなくて。屋敷の外へ行くのは、お父様にお会いしに行くくらいで。ときどき式部宮に行ったりして、そこで女官たちとお話をすることはありますけれど……」
「はい」
「ですから、これまではあまり出歩くこともありませんでした。それに、あの……ご存じかもしれませんが、私の妹のミリアは体が弱く、それでも十二才になる今年は、どうしても修道所に入らなくてはなりません。そのこともあって、モスレイ侍従長にはときどき相談に乗ってもらっていました。他に話をできる人もいないので……」
 彼女の声はかぼそく、まだかすかに震えてもいたが、それでもなんとか自分の決意を伝えたいという、意思のようなものが感じられた。
「それで、このあいだ、式部宮に新しい先生がいらっしゃったと聞いて、私……その方を見てみたいと、帰りにちょっと庭園の方を覗きに行ったのです」
「ああ、そのときですね。姫と最初にお会いしたのは」
「ええ。女官たちがいつになくとても楽しそうでした。それに、先生という方がこんなにお若い方だと知って驚きましたし、それに、この前の剣技会にお出になっていた方だということも後から知って、私、とても驚いて……」
「ええ。身分無き浪剣士の分際でありますが、恐れ多くもこのフェスーン宮廷に住まうことを国王陛下より許されました。それについてはまことに恐縮の極みです」
「いいえ。そんなことはありません。剣もお出来になり、学問も修められているというのは、素晴らしいことです。宮廷の貴族にもそんな方はあまりおりません。それに、式部宮の女官たちに話を聞いても、アレイエン様の教え方はとてもユーモアがあって、楽しくて、なんだかいつの間にか物事を覚えてしまっているようだと、とても評判でしたし」
「にわか教師のこの身には、身に余るお言葉です」
「それで、その……私」
 ひとつ息を吸い込み、彼女は言った。
「モスレイ侍従長にお願いしたのです。できたら、あの……私にも、学問を教えていただきたいと。アレイエン先生に、私の……家庭教師になっていただけたら……と」
 そこまで言うと、彼女は頬を染めたままうつむいた。
 しばらく、室内に沈黙がおちた。不安になった様子で、彼女はちらりとアレンを見た。
「そうですね……正直言いまして、私などには過ぎた申し出で、とても驚きました」
「では……」
 顔を輝かせたカーステンだったが、アレンの次の言葉ですぐに顔を曇らせた。
「確かに、モスレイ侍従長からもそのお話を聞いて、こうしてやって参りましたが……、ですが、やはり姫君は、私には手の届かぬご身分の高貴な御方です」
「そんな……」
「それは私などにはもったいない、とても有り難いお話ですが、やはり身分無き下郎たるこの私などを教師にされるよりは、他にもっとふさわしい方が宮廷にはおられるでしょう。それに……お父上や、王家の貴族方、またこの屋敷の人々にとっても、私のような得体の知れない風来坊が屋敷の内外を闊歩しては、なにかと姫によくない噂もつきましょう」
「いいえ……そんなことは」
 彼女は必死に首を振った。
「ですから、とても申し訳ありませんが、このお話は……」
「アレイエンさま……お願いします」
 ほとんど椅子から立ち上がりそうな様子で彼女は懇願した。日頃から彼女をよく知る侍女が見ていたら、さぞ驚いたことだろう。
「どうか……お引受けください。私、一生懸命勉強します。アレイエン様が不快に思われるようなことには決していたしません。お母様には分かってもらいます。それにここの女官たちも大丈夫です。お父様は……お父様のことは平気です。この屋敷に来ることは滅多にありませんし。それに、アレイエン様は風来坊などではありません。れっきとした宮廷人であらせられます。国王陛下から正式に宮廷人の証である白いマントを授かったのですから。ですから……どうか。どうか……お願い」
 それ以上は言えず彼女は下を向き、両手で顔を覆ってしまった。
「どうしましたか?姫」
 アレンは椅子から立ち上がると、そばに寄って優しく声をかけた。
「ああ……」
 顔を覆ったまま、彼女は小さく呻きをもらした。
「ああ……私、すみません。一人で勢い込んで話をしてしまって……、恥ずかしいわ」
「大丈夫ですか?」
「ごめんなさい。つい大きな声で。私……男の人とはほとんど話をしたことがないのです。それに、今ごろ気づいて……そうしたら、なんだか急に恥ずかしくなって……」
 ちらりとアレンを見ては恥ずかしそうにまたうつむく、そんな彼女の様子は、一国の王女とはいえ、やはりまだ十五才の可憐な少女でしかなかった。
「アレイエン様は、私が知っているような普通の男の方とは、ずいぶん雰囲気が違います。それで私……つい男性とお話をしているということを忘れていたようです。一人で勝手にたくさんしゃべってしまって。本当に恥ずかしい……」
「そんなことはありませんよ。姫は高貴でおやさしく、そして勇敢な心もちゃんとおありです。話を聞いていて、私にはそれが分かりました」
 カーステンはおずおずと顔を上げて、アレンを見た。
「私……本当に男の方とこうして二人だけでお話するのは、本当にはじめてで……。ああ、モスレイ侍従長とはよくお話しますけど、侍従長は私にとって祖父みたいな感じですから。だから、本当はあなたとこうして会うということに、すごく緊張していたんです。昨日からずっと。いっそ女官に頼んで代わりに会ってもらおうかとも思いましたけど、でも、やっぱりこれは私のことなのだし、私からちゃんとお願いしないとダメかしらって。だって、考えてみればこれはとてもあつかましいお話だし。アレイエン先生は他に式部宮で教えるお仕事があるのだから。でも、それでも私、どうしても先生に……あ、いいえ、まだそう呼んではいけませんね。アレイエン様にお勉強を教えて欲しくて。だから……、ああ、私、また一人で勝手にたくさん話してしまっているわ。ああ、もう……」
 両手で顔を覆おうとするカーステンの肩に、アレンがそっと手を触れた。
「カーステン様」
「お名前でお呼びするご無礼を、どうかお許しください」
「アレイエン様……」
「お話、了解いたしました」
「え……」
 一瞬、何を言われたのか分からぬように、彼女はきょとんとした。
「で、では……」
「ええ」
 アレンはにっこりと笑ってうなずいた。
「教師の件、お引受いたします。身分不相応の私などで姫君のお役に立てますれば」
 彼女の顔がみるみるうちに輝き出す。
「ああ……それは、本当に、本当でしょうか?」
「ええ。私などでよろしければ」
 彼女は両手を組み合わせた。花のような笑顔とともに。
「ああ、アレイエン……先生」
 彼女は椅子から立ち上がっていた。夢見るような顔つきで、その頬をバラ色に染めて。
 マルダーナ公爵を父に、現国王の妹ファーリアを母に持つ、高貴なる十五才の王女は、こうして、元浪剣士である金髪の青年を、その教師として迎えることになった。


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