水晶剣伝説 V ウェルドスラーブへの出発

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式部宮の姫君
  
「あら、カーステン様。もうお帰りでございますか?」
 白亜の円柱の立ち並ぶ回廊の途中で、顔見知りの女官が声を掛けてきた。
 「彼女」は足をとめると、いかにも貴婦人らしい優雅な身のこなしで、ゆったりと振り返った。金色の長い髪が、午後の西日に照らされてきらきらと輝く。
「ええ。今日は侍従長様のところに、ちょっと妹のことでご挨拶に伺っただけなの」
 青色の大きな瞳をそちらに向け、彼女は微笑んだ。
 なんのてらいもない純粋な笑顔と、その王族の姫君特有のどこか憂いを含んだ表情を、女官はうっとりと見つめた。
「まあ……そうでしたわね。妹君のミリア姫様は、今年でもう十二才におなりでしたか」
「ええ。あの子も今年から修道所に入るのだからと、モスレイ侍従長に妹のことをいろいろとお頼みしてきたの」
「それはご苦労さまでございました。ミリア様もさぞお喜びでしょう。お噂によると、最近は、お体のお加減もだいぶよろしいようですし」
「ええ。ありがとう」
 少々馴れ馴れしい女官の言葉にも、彼女は眉一つひそめることなく、その顔にやわらかな微笑みを浮かべた。
「ここのところ、あの子は本当に元気になったみたい。以前のようにベッドに臥せってばかりでなく、この頃はね、よく外へも遊びにゆくようにもなったのよ」
「まあ、それは大変なご回復ですね」
「だから、心配していた今年の修道所入りも、なんとか通例通りできそうなの」
 そう言って嬉しそうにする花のような笑顔に、女官はしばらくまたうっとりとなって、この金髪の美しい姫君を、憧憬の込められたまなざしで見つめずにはいられなかった。
「それはまことに、およろしいことで。お父上、公爵閣下もさぞお喜びでしょうに」
「そうね……」
 その言葉には、ほんのわずかに顔を曇らせたが、その笑顔の奥にあるものを隠すことも、すでに彼女は学んでいた。
 トレミリア王国の第三王位継承権者、カーステン姫は、今年十六歳になる。
 陽光にきらきらと輝く金髪を、額の上の髪飾り(フェロニエール)でとめ、ゆったり後ろに垂らした未婚の若い女性特有の髪形に、銀糸による細密な刺しゅうがなされたケルメス染の胴着とスカートをまとう、その姿は全体的にほっそりとしているが、この数年で女性らしい丸みを帯びた美しい線を描きだし、いよいよこの姫君も、少女から大人の女性へと移り変わる時期を迎えようとしているようであった。彼女は、いままさに咲き始めたカルヴァの花のように、美しく輝いていた。
 風になびく金色の髪と、空のような青い瞳をもつこの淑やかな美少女は、数年後にはきっと、トレミリア宮廷随一の美姫としてもてはやされることだろう。今はまだ、「物憂げな深窓の姫君」という表現がぴったりな、十六才の少女であるが。
「カーステン様、どうかいたされましたか?」
 女官に声をかけられると、彼女はこの回廊から見渡せる、広々とした緑の庭園の方を指さした。
「ほら。あちらに……あれは、ここの女官たちかしら?何人も集まっているようだけど」
「ああ……はい。あれですか」
「なんだかとても楽しそうね。ちょうど風に乗って、話し声が聞こえてきたものだから」
「ええ、そうなんですよ」
 女官は訳知り顔でうなずいた。
「カーステンさまはまだご存じなかったですね。実は先週からですね、新しく女官たちにお勉強を教えていただける先生が、こちらに入られまして」
「先生?」
「ええ、そうなんです。それがもう……とってもステキな先生なんですよ」
 女官は両手を組み合わせると、うっとりとした顔つきで言った。
「まだお若くいらして、でも古代アスカ語にとってもご堪能で。それはハンサムな……いいえ、お美しいとさえ言ってよいような殿方で」
「ふうん……そうなの」
 さして興味を持ったふうでもなくカーステンは訊いた。
「でも、そんなお若い先生なんて、このフェスーンの宮廷にいらっしゃったかしら?」
「いえ、それが実はですね……」
 まるで重大な秘密をでも打ち明けるかのように、声をひそめて女官は言った。
「あのお方は、宮廷の方ではないんです」
「そうなの……それじゃ、外国の方かなにかなのかしら」
「ええ。ある意味ではそうです」
 思わせぶりな言い方に、カーステンは思わずくすりと笑いもらした。
「ある意味ではって……そんな難しい言い回しをいつからするようになったの?」
「もちろん。アレイエン先生に修辞学を教わりはじめてからですよ。それまでは私、恥ずかしながら言葉遣いとかは、とっても苦手でしたから」
「アレイエン先生……とおっしゃるの。やっぱり男の方なのね」
「ええ。ええ。それも、とっ……ても、ハンサムな、若い、素敵な、先生ですっ」
「そんなに素敵なの?」
「そりゃ、そうですよ。大変なもん……いえものでございます」
「へえ……」
 さすがにそうまで言われては、多少の興味をそそられたのか、彼女はまた庭園の方に視線を向けた。
 花々の咲く庭園や、池を囲む散策道などが整えられたこの式部宮内では、普段はめったに年頃の男性などを見かけることはない。ここは、若い女官たちが宮廷に仕える修行をする、まさに女の花園といってよい場所なのである。
 庭園の芝生の一角にある、白い円柱に囲まれた日除けの屋根のあるちょっとしたあずまやには、いくつもの椅子が並べられ、そこに十名ほどの女官たちが座っていた。その前にはなにやら黒板のような大きな板が立てかけられ、そこに一人の男性が立っているのが遠目にも見える。それが、女官の言う新しい先生であるのだろう。
「ご存じでしょうか。ほら、あの五月に行われたフェスーンの大剣技会。あのときに優勝して宮廷騎士になった浪剣士がいましたでしょう」
 風に乗ってかすかに聞こえてくる嬌声に耳を澄ませながら、カーステンはうなずいた。
「ええ。近頃よく耳にするわ。優勝して騎士におなりの、ろう剣士……というのですか、なんだか変わった人で……そう、野蛮人とか、どなたかが言っておられました」
「アレイエン先生は、その御方と一緒にフェスーンにやって来られた人なんですよ」
「まあ、そうなの。じゃあ……その先生も元は野蛮な浪剣士だったというの?」
 カーステンは、少しがっかりしたように言った。
 純粋な宮廷育ちの姫君にすれば、「浪剣士」などというものはただ、粗暴で野蛮な者たちという認識しかない。そんな輩が、このフェスーン宮廷にいること自体が、なんだか恐ろしかった。先日の剣技会においても、フェスーンの町には普段では見かけないような、野卑な剣士や浪人などがたくさん溢れていたという。
 彼女はそれが恐ろしくてならず、剣技会の期間中は町へはおろか、宮廷内にある屋敷から一歩も外へ出られなかったのである。ようやく喧騒に包まれていた期間も終わりを告げ、フェスーンの町は以前の穏やかさを取り戻したはずだった。しかし、この宮廷内は、なにかが以前よりも少しだけ変わってしまっているようだと、彼女は感じていた。
 馬車の窓からふと通りを見ると、これまでよりも騎士や剣士の姿が多く見かけられるようになった。その中には、いったいどうやって宮廷人になったのかというような柄の悪そうな髭面の男が、恐ろしげに腰に大剣を下げて歩いているのを見たこともあった。それが先の剣技会で集められた剣士や傭兵たちだということは、後になってモスレイ侍従長からも聞かされたし、そうした兵たちが必要とされるくらいに、世間がここのところ少しずつ物騒な方向に向かいつつあるということも、彼女にも薄々は分かっていた。北の大国ジャリアが友国であるウェルドスーブへ侵攻を始めたという噂も、侍女や女官たちから漏れ聞いたこともある。
 だが、それらはしょせん、彼女にとってはなんら実感の沸かない話であったし、どうして遠い異国のいくさにこのトレミリアがこうもざわめきたたねばならないのか、どうして貴族のみが生活するこの宮廷内に、ああも野蛮な剣士たちが大勢入ってこなくてはならないのか、そのことが彼女にはどうしても理解できなかった。浪剣士などという存在は、ただ恐ろしく、言葉すら通じない野蛮な存在にしか思えなかった。
 由緒ある王国の王女として生まれ、王弟であるマルダーナ公爵を父に持ち、雅びな宮廷の中にいて高貴な姫としてかしずかれてきた彼女からすれば、それも無理からぬことだったろう。
「ええ。でも、元浪剣士といっても、あの方は……アレイエン先生は、他の汚い剣士たちなんかとは全然違いますよ」
 すっかり興味を失ったような王女の様子に、女官は少しむきになったように言った。
「とってもハンサムだし。いいえ、ハンサムというよりはそう……綺麗です。本当にこんな男の人が世の中にいるのが不思議なくらいに。それに頭もすごくよろしいし、勉強の教え方も上手いですし。この式部宮でも今や、アレイエン先生に教わりたいという女官がどんどん増えていますのよ。私は明日が授業の日なんですけど、とっても待ち遠しいです。週に二度の勉強が楽しみなんて、こんなことはじめてです。勉強することがこんなに楽しいなんて……」
「いいわね。お勉強が進んで。私や妹のミリアも、本当はあなた方のようにしっかりとした学問を習うべきなのだと思うけれど」
「そうですねえ。でも、カーステン様は十分に頭がよろしいし、私などからすれば、おしとやかで気品もおありで、もう十分どこの国の王家にでも嫁げますよ」
「ふふ、ありがとう。でも、まだどこかに嫁ぐなんて、考えられもしないけど……それでは。私はそろそろ帰ります」
「ああ、お引き止めしてしまい申し訳ございませんでした。では、ただいま馬車のご用意をいたしますわ」
「大丈夫です。うちの馬車に門の前で待ってもらっているから。庭園の外まで歩いて行くわ。今日はいいお天気だし」
「さようでございますか。それではお気をつけて。妹君のミリア姫様にもどうかおよろしくとお伝えあそばせ」
 女官はうやうやしく一礼すると、忙しそうに早足で回廊を通り抜けていった。
「カーステン様、もうおよろしいですか」
 中庭に出ると、待たせておいた屋敷付きの侍女がいそいそと寄ってきた。
「ええ。もう用事は終わりました。さあ帰りましょう。きっと屋敷でミリアも退屈しているでしょうから。あとで一緒にお部屋で遊ぶことになっているのよ」
 日除けの傘を広げた侍女とともに、カーステンは歩きだした。ビンカやマルバなど、色とりどりの花々の咲く花壇と、美しい石像や石柱が整然と配置された庭園を見ながら、彼女はふと考えた。
(そんなに……綺麗なのかしら)
 女官に聞かされた、その「新しい先生」というのが、何故だか気になった。
(でも……貴族でない、浪剣士だなんていう下賤の人間に、そんなに綺麗で、しかも頭も良い人などが本当にいるものなのかしら)
 考えはじめると、彼女の中で興味がどんどんとふくらんでいった。高貴な姫とはいえ、まだまだ好奇心旺盛な年頃である。それに、どうしても自分の中の「浪剣士」というイメージと、「若く綺麗な先生」という女官の話が、まったく結びつかないのだ。女官たちがあれほど熱心になるその人物を、一目見てみたいと彼女は思った。
「カーステン様?」
 立ち止まった彼女に、侍女が首をかしげる。
「どうかなさいました?」
「あ、ああ……」
(庭園の方に戻っていって、少し離れたところからそっと顔を見るだけなら……)
「あの……、あのね、少しだけここで待っていてちょうだい。すぐ戻るから」
「は、はあ……カーステン様はどちらへ?」
「その……」
 彼女は仕方なく嘘をついた。
「……ちょっと、侍従長さまに聞き忘れたことがあるの。すぐに済むと思うわ」
「ああ、そうでございますか。わかりました。ではお気をつけていってらっしゃいまし」
 多少の後ろめたさを感じつつも、好奇心が勝ってしまった。カーステンは早足で庭園の奥へと歩きだした。
 人に見られぬよう、芝生の中庭のある裏側の木立に回り、慎重に歩いてゆく。なにやら、子どもの頃の、ちょっとしたいたずらをするときのような、わくわくとした気分があふれてくるようだった。
(この辺でいいかしら)
 木々の間からは芝生の広場が見えている。さきほど回廊から見たのとはちょうど反対側になる。そっと木立から抜け出ると、彼女は近くの円柱に走り寄った。
 そろそろと柱から顔を出して周りを見る。なんだか胸がどきどきとした。式部宮に挨拶に来た帰りに、まさかこんな子供じみた事をするとは、自分でも考えもしなかった。
 だが、すぐに彼女は落胆した。
(誰も、いないわ……)
 芝生の上に並べられた椅子はそのままだったが、さっきまではそこにいたはずの女官たち、そして、遠目に見た「先生」らしき男の姿も、今はどこにもなかった。立てかけられた黒板には、石灰で書かれた文字がずらりと並んでいる。
(もう授業は終わってしまったのかしら)
 彼女はため息をついた。
 わくわくとしていたさっきまでの気分は、さっと消えていってしまった。
(つまらないの……)
 侍女をいつまでも待たせておくわけにもいかないと、カーステンは仕方なく歩きだした。
 誰もいない庭園を横切り、式部宮の玄関正面にある石畳の広場に出ると、ふと彼女は足を止めた。さほど遠くない所から女官たちの声が聞こえてきた。
 見ると、広場の中央にある噴水のふちに、先程まで授業を受けていたとおぼしき女官たちが並んで腰掛けている。楽しそうに談笑する女官たちの中に、ただ一人だけ見慣れぬ姿があった。
 彼女が近づくか、それともこのまま門の方へゆくかと迷っていると、
「まあ。カーステン様?」
 こちらに気づいたらしい、顔見知りの女官が声をかけてきた。
「今お帰りですか?カーステン様」
「え……ええ、そうなの」
 こうなってはもう仕方がない。彼女は、いかにも自分は、ちょうど帰る途中に噴水の前を通りかかったところなのだという様子で、ややぎこちなくそちらに近づいた。
 それを見た女官たちが一斉に立ち上がり、それぞれに貴婦人への礼をして彼女を迎えた。
「ご機嫌よう。カーステンさま」
「ご機嫌よう。み、みなさんはお勉強の最中でしたか?さっき回廊から庭園の方が見えたものですから。楽しそうなお声も聞こえて……」
「ええ、カーステン様。私たち、今はちょっと授業を一休みで、ここで先生とお話していたところです。よろしかったら、カーステン様もご一緒にいかかですか?」
「い、いえ……私は。向こうにあの、侍女を待たせていますから……」
 足が震えた。
(ああ……!)
 女官たちの間にいる、「その姿」を、目の端にとらえてしまってから……
 ここにいてはいけない。何故なのか、そういう気持ちが彼女をとらえた。
「あの、それでは……」
「それでは私は、これで……」
 だが、立ち去ろうとしても足が動かない。
 視線が勝手に、まるで引き寄せられるように、そちらに向いてしまう。そして……それを望んでいたのかさえ自分には分からなかったが……ぴたりと相手と目が合った。
 声を上げそうになるのを堪えながら、息をとめて、
 彼女は相手を見た。
(ああ……)
(ああ、なんて……)
 一瞬、彼女の中で全ての時が止まった。
 深い色の青い瞳が、まっすぐに彼女を見ていた。
(こんな……)
(こんな人が、本当に……)
 しばらく、息をするのも忘れたように、彼女はその場で立ち尽くしていた。
(ああ……神様)
 やわらかな微笑み……風に揺れる金色の髪が、陽光を受けてきらきらと輝いている。
 彼女は動けなかった。まるで地面に足を縫い付けられたかのように。
 相手の目がすっとそらされたとき、彼女は泣きたいような気持ちになった。一体、これは……この気持ちは何だろう。
「カーステン様?」
「どうかなさいました?」
 女官たちの声にはっと我に帰ると、カーステンは慌てて首を振った。
「いいえ……大丈夫です。ちょっと目まいがしただけ」
「まあ、いけません。お大事になさらないと」
「ええ……そうね」
 何度か息を吸い込むと、彼女は再びそちらに視線を向けた。
「……」 
 さきほどと同じ、静かな青い瞳が彼女を見ていた。今度はそれを正面から見つめ返し、彼女は……やや震える声で尋ねた。
「そ、そちらが……あの、新しく来られたという先生ですか?」
「そうなんです。カーステン様、こちらが先週から私たちに勉学を教えていただいている、アレイエン先生……」
 すっと立ち上がったのは、すらりと背が高い、たとえようもなく秀麗な青年だった。
 髪は透けるようなやわらかな色の金髪で、澄んだ深い湖のような青い目をしている。男にしてはほっそりとしたあごや、なめらかな白い首筋などは、一見したところ女性なのか男性なのかと人を悩ませるほどで、その繊細な美貌は完璧な彫刻のように整っており、まさに「白面の貴公子」という言葉がぴったりと当てはまるような若者である。
(ああ、こんな……)
(こんなに、綺麗な男の人がこの世にいるなんて……)
 目の前に立った相手の姿を見つめたまま、カーステンはその場に動けなくなった。
「失礼をいたします。高貴な姫君とお察しいたします」
 若者は軽やかに進み出ると、迷いない仕種で彼女の足元に跪いた。
「私は、アレイエン・デイナースと申します。この度モスレイ侍従長殿のお計らいにより、式部宮にて学問を教える職を得ました。まことに身分不相応ながらも、私ごときがお役に立てられますならば、フェスーン宮廷のために砕身してゆくつもりでおります」
 まるで詩でも朗読するかのような優雅な声の響きに、彼女は思わずうっとりとなった。
「私は、もとは身分いやしき一介の剣士にて、このように高貴なる姫君に言葉をおかけすることはまことにはばかれますが、素性の知れぬ闖入者としていらぬご不快や不審をいだかせてはと思い、こうしてご挨拶をさせていただきます」
 ひざまずくその様子さえもが、まるで、絵画か神話の中の一場面ででもあるように、見るものに思わせてしまう……そんな空気を、この若者はまとっているようだった。
 カーステンは、しばらくの間、口がきけなくなったように、その金色の髪がやわらかに風に揺れるのをただ見つめていた。
「ア……アレイエン様」
 ようやく、恐る恐るというように、彼女はその名を口にした。
「どうぞ、お顔をお上げください」
 すいと顔を上げた相手と目が合うと、彼女はぱっと頬を染めた。
「ご丁寧なご挨拶に御礼申します。あ……あの、お仕事のお邪魔をしてしまいまして」
「いえ、そのようなことは。ちょうど、今はこうして休憩をしているところですから」
 にこりと笑った顔も爽やかで、どこか気品に満ちていた。
「わ、私……」
 頬がかっと熱くなる。自分が何を言っていいのか分からない。
「あの……私、今日は急いでおりますので」
 そう言うのが精一杯だった。これ以上ここにいたらどうにかなってしまうに違いない。
「こ、これで失礼いたします……」
 急いで目をそらすようにして、彼女はその場から早足で歩きだした。ほとんど小走りのように門の近くまで来ると、彼女はようやく歩を緩めた。
(ああ……なんてこと)
 胸に手を当ててふっと息をつく。胸の鼓動はまだ治まっていない。
(あんな……あんな人が、いるなんて)
 門の前に待っていた侍女が、こちらを見つけて近寄って来るのにも気づかない。
(なんて、綺麗な人だろう……)
(アレイエン……さま、といったわ)
 その名を今一度口の中で呼んでみる。
(アレイエンさま……)
(ああ、本当に……あんな方が……)
 きらきらとした金色の髪と、ほっそりとした秀麗なその顔を思い浮かべるだけで、胸が高鳴った。
(ああ……)
(それに、あの……青い瞳)
(見つめられていると、なんだか吸い込まれそうだった……)
 彼女は自らの胸を抱きしめるようにして、その場でうっとりと目を閉じていた。
「カーステン様」
「あ……」
 顔を上げると、侍女が心配そうに覗き込んでいた。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ。な……なんでもないの」
「さようですか。侍従長殿とのお話は、もうお済みになりましたか?」
「え……ええと」
 ふと彼女は首をかしげたが、そのような言い訳をしたことを思い出した。
「あ……そう、ええ。もう済んだわ」
「ようございました。それではお屋敷に帰りましょう。そこに馬車を来させましたから」
「そうね」
「カーステン様?」
「な、なに?」
「お顔が少々お赤いようですが、熱でもおありになるのでは?」
「え?……いいえ。大丈夫です」
 ぎこちない様子に侍女は首をかしげたが、とくに不審がりもしなかった。カーステンは日傘を差した侍女とともに、門の外に止まっている馬車の方へ歩きだした。
(なんだろう……おかしいわ。私)
 馬車に揺られながら、カーステンはまだ落ち着かない気分だった。
 窓から見えるフェスーン城の尖塔や、城下に広がる緑の森……いつも見慣れたその風景を眺めながら、彼女は思っていた。
(なんて……気品のある方だろう。まるで、どこかの貴族のように……)
 見かけは普段と変わらぬ様子で、侍女と向かい合って腰掛けている彼女の頭には、さきほどの青年の姿が浮かんで離れなかった。
(あんな方が、もとは浪剣士だったなんて、とても信じられないわ)
(だって、あんなに優雅に言葉を発して……まるで本当の貴族のように礼儀もわきまえていて、それに声もお美しくて)
(あの人が、野蛮な剣士だなんて……どうして思えるかしら)
 かすかに車体を揺らしながら、黒塗りの馬車が石畳の道をゆくと、通りの人々が、こちらを王族の馬車と見知ってか、さっと道をあけてゆく。それをぼんやりと見つめながら、彼女は座席でふっと息をついた。
(ああ……)
 自分の胸に手を置き、そっと目を閉じる。
(アレイエン……さま)
 その名をつぶやくだけで、先程感じた胸の中のざわめきがまた、さざ波のように起こり広がってくる。
(ああ……)
 何度も息を吸い込んではまたため息をつく……そんな様子を、向かいに座る侍女が心配そうに覗きこんだとき。
 彼女は突然「あっ」と、声を上げた。
「ど、どうされましたか?カーステン様」
 侍女が驚いて座席から腰を浮かせかける。
「なんて……なんてことでしょう」
 カーステンは両手を頬に当てて叫んだ。その顔は蒼白で、握りしめた手がわなわなと震えている。
「どうされましたか?な、何かあの、大変なことでもありましたか?」
「ああ。私ったら……もう」
 いったい何が起こったのかと、侍女が心配顔で覗き込む。
(ああ、私ったら……)
(あの方に……自分の名を言うのを忘れていたのだわ)
(なんてことかしら……)
(私の馬鹿……)
(次にお目に掛かれるかどうかも分からないのに……ああ)
 何度目かの深いため息をつくと、彼女はがっくりと座席に体をもたせかけた。
「ああ……」
「どうされました?姫様。カーステン様」
 おろおろと座席から立ったりまた腰を下ろしたりする、あわれな侍女の様子など目にも入らぬように、彼女はただ悲しげに首を振り、またため息をついた。
「カーステン様、いったい、どう……」
「ああ……もう」
 ため息まじりの嘆きと、それを心配する声とが、ずっと問答のように続き……
 高貴な姫君を乗せた馬車は、ゆるやかに石畳の道を走り抜けていった。

 式部宮とは、フェスーン宮廷の女官を志す女性たちが、国王宮に仕えるための様々な勉強や、礼儀作法を学ぶ、いわば女官の学校のような場所である。ここでの数年間の習練の後、彼女たちは試験を受け、厳しい審査を通ってからようやく、正式な女官として遇されることになる。これは非常に狭き門であり、相応の才覚と美とを兼備えた者のみが、晴れて正規の女官の地位を得られるのである。
 女官とは、主に宮廷の雑務一般をこなし、王侯たちの補助をする身分である。当然ながら、その職においては、女としての美貌のみならず、ある程度の専門的な知識と知力……事態に対処する時の機敏や機転、そして、ときには忍耐なども必要となる。文字の読み書きはもちろん、ときには外国語の知識や、高貴な相手に接するときの正規の礼儀作法や言葉遣いなど、女官として身につけておくべきことは多いほど良いとされる。
 式部宮を卒業し正式に女官となれば、宮廷での地位は保証され、給金も払われる。住まいにも食事にも困ることはない。だから、貧しい都市民や貧乏貴族の中には、娘を女官に就けることに一縷の希望を見いだすものも少なくなかったし、また、女官となれば宮廷において貴族たちの目にとまる機会も増える、将来有望な貴族の若者や、爵位を持った青年騎士などに見初められれば、玉の輿も夢ではなかった。
 それゆえ、女官たちは常に己を磨き、宮廷においては出来うるかぎり優雅に、そして如才なく振る舞うことを学んでゆく。その中でも、王や大貴族たちにその才を認められた者は、大貴族の姫君にも劣らぬ寵愛と待遇を得られることもあった。
 生まれながらの身分に頼ることなく、ただ己の才覚と美貌によって貴族社会でのし上がった女性……トレミリアの歴史にも、伝説となっているそうした名高い女官たちの物語がある。将来を夢見る女官の卵たちが憧れてやまないのは、いつのころも同じ、宮廷という舞台で華やかに輝く、そうした存在……強く、そして華麗に咲く大輪の花なのであった。
 式部宮をとりしきるモスレイ侍従長によれば、宮廷内で様々な仕事をこなさなくてはならない女官にとって、とくに必要とされる学問は、まず文法、修辞学、そして論理学であるという。これらは大学においては自由七課のうちの「トリヴィウム」と呼ばれ、算術、幾何、天文学、音楽のクワドリヴィウムの四課と合わせて、学生たちによく学ばれている。
 この時代、大学において必須となるのは法学、医学、神学の三課であり、これは多くの場合、どの国家においても当てはまる。ここトレミリアにおいては、基本的には女子が大学へゆくことを許されてはいないが、王族や名のある貴族の姫君であれば、十二歳になると修道所に入り、そこで学問を学んだり花嫁修行を行うという習わしがある。
 これが女官の場合となると、技能と容姿とが認められさえすれば、その年齢に関わらず宮廷においての地位を得ることができる。ただし、彼女たちはその後、宮廷内での様々な誘惑から自らの意思で自分自身を守らなくてはならない。女官としてのある程度の誇りを持ってやってゆくには、どうしても頭の回転の速さや、問題を回避するためのその時々における機転の早さが肝要になる。また、時には公文書に目を通したり、筆記するような、間違えの許されない大切な仕事をすることもあるだろう。その上で文法や修辞学、論理学は、いわば彼女らにとって必要な「武器」であり、またそうであるべきだというのがモスレイ侍従長の持論であった。
 アレンは、その侍従長のめでたき覚えを得て、式部宮の教師の地位を得たのであるが、元は一介の浪剣士にすぎぬ彼が、その職を得るに至った理由としては、完璧な作法にのっとった宮廷式の礼儀や身のこなし、その論理的な物言いと修辞の確かさなどが認められたからであるが、その外にももうひとつ、彼が古代アスカ語に堪能であるということも大きかった。
 古代アスカ語は、リクライア大陸の東側の大国……最も歴史のある皇国、アスカにおけるかつての公用語である。
 千年の昔、リクライア大陸の多くはアスカの領地であり、当時、古代アスカ語は大陸全土に渡って広く使用されていた。やがて時代が流れ、国が幾つもに分かれ、また新たな国々が生まれていったが、現在においてもまだ、多くの国では古い伝記や伝説、学問書などにおいては、古代アスカ語で書かれた当時の書簡がそのまま用いられている。また、正式の式典や儀式にあっては、神官の唱える警句は今でもすべて古代アスカ語のものである。
 最近では、この古い言語は、大陸の中では比較的慣習を大切にするこのトレミリアにおいてさえも、やや廃れつつある傾向にあった。王族の中でもしだいにそれを解さない者が増え、古代アスカ語はもはや、古文としての価値と学問研究以外ではその実用性を失っていた。
 文学者としても一目置かれる存在であるモスレイ侍従長の言葉を借りると、古代アスカ語を学ぶことは、まず先人の英知に触れ、偉大な先人たちを敬うことにもなり、その知識を身につけることは、宮廷人として真に正しい判断と決断、言動を持ちえることを意味するのだという。したがって、侍従長は古代アスカ語を流暢に話し、読み、書き、解する、その美貌の青年を前にしたとき、たとえその者が元浪剣士であろうとなんであろうと、その才を認め、彼を女官たちの教師に抜擢する決断をしたのであった。

「先生……アレイエン先生」
 噴水のほとりで、水音を聞きながら物思いにふけっていたアレンは、女官たちのくすくす笑う声に、その秀麗な面を上げた。
「はい。なんでしょう?」
「先生ったら。さっきからずっと黙ってらして。どうかしたのですか?」
「でも……黙ってうつむいた先生の横顔、とっても素敵……」
 うっとりとした顔の若い女官が両手を組み合わせる。
「あ、こら。ミラったら。ずるーい」
「あん。そんなんじゃないわよ」
 頬を染めた女官を見て、周りの者たちがいっせいに「きゃあっ」と嬌声を上げる。
「そうよ。抜け駆けはいけないわよ、ミラ。それに、そういう風に先生にお世辞言ってもダメよ。だってね、先生があなたなんかを相手にするはずないもの」
「もう、サリスったらぁ。ひどいわ」
「しとやかぶってもダメよ。先生が帰ったあとのあなたの変貌ぶり、ここで言っちゃおうかしら……」
「あら、サリスこそ。ミラのこと言えないんじゃない?」
「なによ」
「なーに」
 女官たちのかしましく、とりとめのない会話を聞きながら、アレイエン・ディナース……アレンはくすりと笑いをもらした。
「ほら。先生が笑ってる」
「いや。すみません。私がぼんやりしていたばかりに、皆を苛立たせてしまたみたいで」
 彼は金髪をひとつかき上げると、自分の教え子である女官たちを、その青い瞳で平等に見回した。目があった女官が次々にぱっと頬を染めてゆく。
「ちょっと考えていたんですけどね。さっきの姫君……あの御方はカーステン様とおっしゃるのですか」
「まあ、先生」
「それでは、先生は、今さっきまでずっとカーステン様のことを考えて、黙ってうつむいていらしたというのですか?」
「ええ。まあ」
 女官たちが、また「きゃあっ」と声を上げる。
「いや。先生……」
「そんなの……いけません先生」
 女官たちに口々に咎められ、アレンは困ったように苦笑した。
「あ、いや、そんなんじゃなくて。ただ、とても……そう、とても高貴な感じの御方だったから、どこのお姫様なのだろうと、ちょっと考えていただけですよ」
 それを聞いて、女官たちは顔を見合せたが、それで多少は納得したようだった。
「ああ、そうですね。先生は宮廷に来たばかりだから、あまり王族の方々のことをご存じないのも当然ですわね」
「ええ。なにしろ私はご存じのとおり、元は身分無きただの風来坊ですからね。さっきはつい出すぎた真似をして、おそれ多くも姫君に挨拶などしてしましましたが、本来はそれすらも許されぬような高貴なご身分の方であるわけですね」
「それは、確かにそうですわね」
 ここにいる女官の中でも、なかなか一目置かれる存在であるサリスが言った。
「カーステン様は国王陛下の妹君でファーリア様のご長女、そしてお父上はあのマルダーナ公爵ですわ。つまりこのトレミリアの王族の姫君の中でも、カーステン様は特に高位ににあたる御方なのです」
「なるほど」
「でも、カーステン様は高貴な姫君であらせられますが、本当にお優しくて、私たちのような女官見習いなどにもお声をかけてくださいますわ」
 他の女官たちも同意した。
「そうなんです。高貴なご身分を振りかざすこともなく接してくださります」
「それに、お美しくあられるし」
「本当に。今年で十六才におなりになりますが、もうほんの一、二年すれば、このフェスーン宮廷で随一の姫君におなりになりましょう。皆そう申していますわ」
「それに妹君のミリアさまも、最近ではずいぶんお元気になられ、カーステン様と二人並んだところなどは、本当に花のような御姉妹です」
 彼女たち女官にとっては、高貴な姫君や王族まつわる話題というのは、尽きせぬ興味の対象のひとつであり、そうでなくとも若い女性というものは、そうした噂話が大好きなものである。どこどこの子爵に美男子がいるとか、宮廷の姫君や夫人たちの情報などに、彼女たちほど精通しているものはない。
「なるほど。よく分かりました。つまり、カーステン姫という御方は、その美しさにおいてカルヴァの花のように麗しく、身分ある姫君でありながら少しも高慢なところなく、優しさにおいて野に咲くアイリスのようにやわらかで、分け隔てなく人に接される、まことに素敵な美姫であられるということですか」
「ええ。まったくその通りですわ」
「私、宮廷入りの女官になったらぜひ、カーステン様のお付きになりたく思います」
「そうね。あの方なら王家の姫君としてだけでなく、女性としても尊敬いたしますわ」
 口々に同意する女官たちを見回し、アレンはふとその顔を曇らせた。
「そうですか。私としたことが、さきほどは図々しくもそのような高貴な姫君に向かって、言葉をかけてしまった。カーステン姫にはお気を悪くされていなければよろしいが」
「あら、アレイエン先生なら大丈夫ですわ」
「そうですよ。先生なら、そこいらの貴族のお坊ちゃんなんかよりも、ずっと雅びでいらっしゃるもの」
「そうそう。だって、私見ましたわ。さきほどのカーステン様のお顔……先生のご挨拶に少し頬を染めておられましたもの」
「まあ、本当なの?ミラ」
「ええ、たぶん」
「まあ、それってもしかして……」
「お聞きになりました?ねえ、先生」
 再びきゃあきゃあと嬌声が上がる。さざめくような女官たちの声に囲まれ、アレンはやわらかな微笑みを浮かべながらそこに座っていた。噴水の中央にある女神マージェリの彫像に目をやると、像の手にする水壺から溢れ出る水流を、彼はなにを思うのか、しばらく無言で見つめていた。
「さて……そろそろ授業に戻りましょう。休み時間は終わりです」
 立ち上がったアレンは女官たちに告げた。
「次は古代アスカ語の古典から。文法と語法を勉強しましょう」
「はい。先生」
 女官たちは日除けのためのヴェール付きのヘニン帽をかぶりなおし、アレンの後に続いて歩きだす。
 夏の到来を予感させるように、空はただ青くどこまでも続いていた。


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