水晶剣伝説 U ジャリアの黒竜王子

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シャネイたち


「リミー、リミー」
 名を呼ばれて、くるりと振り返ったのはシャネイの少女だった。
 ぴんと耳を立て、可愛らしく首をかしげる。透き通るような金色の髪が顔にかかる。
「あら、おばさま。呼んだ?」
 歳の頃は人間にして十六、七というところだろう。すらりとした細い体つきも、しだいに女性としての丸みをおび始めているようだ。
「どこへいくんだい?リミー」
 少女を呼び止めたのは年長のシャネイだった。長い耳にいくつもの耳飾りをぶら下げて、頬を紅で化粧をしている。幾人も子供を産んだ女である印だ。
「どこって……」
「まさか、お前まで兵隊を見にゆこうというのかい?」
「だって、おばさま……」
 少女は後ろで手を組むと、その場でくるりと回った。亜麻製の簡素な胴着から伸びる褐色の足はしなやかで、その動きはどこか野性的だった。つぶらな瞳をくりくりと動かし、少女は言った。
「私だって気になるもの。前から言っていたわ。今日はサビーたちが何かするかもしれないって」
「なんだって」
 年長のシャネイは眉をひそめた。その耳がぴんと逆立つ。
 そういえば、さっきからどうも村全体がどことなくざわめいているようだった。ジャリアの兵隊が村の側を通ることなど、そう珍しくもないのに、今日の空気はどうも違うのだ。
 シャネイは空気に敏感だ。とくに五十年を生きてきて大人になったシャネイは、感覚が非常に発達し、空気のふるえや風の匂いにも何かを感じ取ることができる。
「あのガキども……まさか」
 鼻面にしわを寄せて、年長のシャネイは低くつぶやいた。
「おばさま?」
 少女はぱちぱちと目をまたたかせた。灰色がかったその瞳の色は、長い耳と褐色の肌とともにシャネイ特有のものだ。
「リミー・ファント。案内しておくれ。サビーたちのところへ」
「わかった」 
 少女はぴんと耳を立ててうなずくと、俊敏にかけだした。そのあとに年長のシャネイも遅れず続く。
「あのガキども……何か馬鹿なことでもしでかさなければよいけれど……」
 成人の女が着る長めのスカートをまくり上げて、たくましい褐色の足を見せて走りながら、彼女はそうつぶやいた。

 もうそろそろ日が暮れる。村の女たちは夕げの支度に取りかかる頃だ。
 村の中央広場にある泉には、水を汲みに集まったシャネイの女たちが楽しげに談笑するいつもの光景が見える。それを横目に、通常の人間であれば考えられないような敏捷さで二人のシャネイが駆け抜けてゆく。
「あそこよ」
 村の西の外れまで来ると、リミーは街道を挟んだ向こうの丘を指さした。
 この街道は、ジャリア軍が首都ラハインに出入りするのによく使われる。街道といっても、山や丘に囲まれた地形のせいもあり、道幅はかろうじて三列の騎士隊が通れるほどで、道自体も土を踏み固められ、一定間隔の印石が置かれただけのものであるが。村に近いこともあって、ここをジャリア兵士が通行するたびに、好奇心旺盛なシャネイの若者たちが、こっそりと覗きに来るのはしばしばあることだった。
「まだ、大丈夫のようだね」
 年長のシャネイは街道の北に目をこらし、騎兵の影が見えぬことを確認した。ここからは、ほんの一刻も馬で走れば、首都ラハインの城門に至る。
「あっ、いたわ。おばさま。あそこ」
 リミーが向かいの丘を指さした。年長のシャネイ……ドーリも、木々の合間にさっと動いたものを見つけた。
「リミー、あんたはここで待っていな」
「いや」 
「リミー」
 咎めるような口調にも、少女はただ首を振るばかりだった。ドーリは苦笑した。
「……わかったよ、おいで。でも気をつけな。オダーマの話じゃ、もうすぐそこまで兵隊が来ているってんだから。あんたみたいに年頃の女が一番さらわれちまうんだからね」
「うん」
 分かっているのだか知れない無邪気な様子に、年長のシャネイはため息をついた。 
「いくよ」
 二人は丘を駆け降りた。街道を横切って、向かいの丘に飛びつくようにして登ってゆくと、上の方から慌ただしい気配が起こった。
「お待ち」
 人間なら疲れ果てるほどの距離をあっと言う間に登りきると、ドーリは木の影に隠れようとしていた人影に向かって鋭く言った。
「おまえたち。そこにいるのは分かっているんだよ。さっさと出ておいで!」
 シャネイ特有の高い声が一帯に響き渡ると、少しして、木の上や幹の裏に隠れていた者たちが、おずおずと姿を現した。
「お前たち、そこへお並び」
 年長のシャネイの前に現れた五人の若者は、ばつが悪そうに互いに顔を見合せた。
 五人はみな上半身裸で、褐色の肌をあらわにした少年たちだった。ほっそりとした体に、腰に亜麻布を巻き、足の裏を守るサンダルのような履物をはいている。長い耳と薄い金色の髪、それに首の後ろから背中にかけて、そこにもまるでたてがみのように、うす金色の長い毛が生えている。灰色がかった目は好奇心に満ちて、いかにもいたずらそうである。
「サビー、トルーク、フーラ、ギムシ、それにナミンまで」
 年長シャネスのドーリは、腰に手を当てじろりと少年たちを睨んだ。
「お前たち、いったいこんなところで、なにをするつもりだったの?」
 少年たちはそっぽを向いたが、一人が手にしていた弓に目を止めると、ドーリは問い詰めた。
「まさか、そんなもので兵隊を狙おうとしたのかい?なんて馬鹿なことを」
「……だって、ドーリ」
「だってじゃないよ」
「サビー。お前はもうすぐ成人だろう。子供たちを止めるのがお前の役目なのに。そんな弓矢をもちだして。それに、ナミンはまだほんのこどもだよ。なにかあったらどうするつもりだい」
「だって、ナミンがどうしてもついてくるって……」
 少年は口を尖らせた。
「お前たちはジャリアの騎士どもの恐ろしさを分かっていないよ。あまりにね……」
「分かってるよ、そんなの。分かってるさ。だからこうして……」
 サビーと呼ばれた少年は、持っていた弓で矢を射る仕種をした。 
「あいつらの大将、黒竜王子を殺しさえすれば、何もかも良くなるんだ」
「そうだよ。奴さえやっちまえば、あとは恐くなんかないさ」
「やろうよ。ねえ、ドーリもさ、一緒に」
 気勢を取り戻したように、少年たちは口々に声を上げる。
「できるさ、だって、サビーの長弓の腕は村一番だぜ。こっから狙えば兜の隙間だって当たるはずだ」
「みんなの仇だ。ドーリだってやつらに恨みがあるんだろ」
「そうだ、仇だ、仇うちだ……」
「馬鹿お言いでない!」 
 その声に、少年たちはぎくっとしたように口を閉じた。
「馬鹿お言いでないよ」
 ドーリは悲しそうな顔でそう繰り返した。
「お前たち。お聞き。いや聞いておくれ……」
 少年たちは黙り込んだ。ドーリの後ろにいたリミーも、驚いたようにその大きな目を見開いた。
「頼むから、そんな馬鹿なことはやめるんだ。いいかい、ジャリアの騎士たちは強い、それにとても残酷だ。一人一人はそうでもないかもしれない。サビーの弓で何人かは殺せるかも知れない。でもね、あいつらは本当に大勢……そう大勢いるんだよ。数えきれないほどに」
「そんなこと、分かってるさ……」
「いいや、サビー、お前は何も分かっていない。いいかい。お前がジャリアの兵隊を一人殺したとする。ジャリアの兵隊は私たちを十人殺すだろう。たとえ私たち全員がやつらを一人ずつ殺したとしても、向こうはその何倍もの人数でまたやってくるんだ。何度も……そう、なんども同じことがあったよ。あたしの生きてきたこの百年くらいの間にはね」
 年長のシャネイは、そう言いながら顔を歪めた。
「あたしは何度も見てきたよ。あいつらがあたしたちの村を焼き払い、あたしたちを鹿や猪のようにして追いやり、殺していったのを。笑いながらね。あいつらは笑いながらでも人を殺せるんだ。それに、私たちはあいつらからすれば人ではない。やつらはね、あたしらを人だとは思っていないのさ。だからよけい残酷にできる。泣き叫ぶ女やこどもを容赦なく殺し、犯し、生け捕りにしては動物のように馬車につめ、奴隷として売られるんだ。私の友達も、兄弟も、そうして何人もいなくなったよ」
「どうしてさ……なら、どうして戦わない」
「何度も戦ったさ。なんどもそうしたさ。でもね……でも、結局は、私たちは奴らのように戦う訓練はちゃんとしていないし、戦いのできる人数もそうはいない。みな怒りと悲しみに震えはしても、これ以上犠牲者を見たくなかった。戦ってもかなわない。なぜって、私たちは本来戦いを嫌う種族なんだ。もちろん、いつだってさ、何人かの若者たちが先頭に立って、ジャリア軍に立ち向かっていったさ。それでもね……」
 かつて見てきた光景を思い描くかのように、ドーリは目を閉じた。
「それでも……結局はみな殺された。何人かの敵兵の命と引き換えに、何千の同胞が殺されたのさ。いくつも村が無くなった。生き残ったものは、他の村に身を寄せ、またその村がなくなると、別の生き残りと力を合わせて小さな村をつくった。この村にしてもそうさ。首都のラハインから近いということは、それだけジャリアの騎士どもを見ることも多いだろう。でもね、私たちはじっと耐えてきたのさ。もう無残に、なんの意味もなく、仲間が殺されてゆくのを見たくない。だから……この場所で、あえてやつらの都市の近くでひっそりと生きること、それがあたしらに敵意がないことを向こうに伝えることになる。無益な殺し合いはしたくないという意思を、あたしらはそうして伝えているのさ」
「でも……、でもさ、そんなのは間違っている」 
 黙って聞いていた少年は、どうしても納得できないとばかりに言った。
「どうして、あなたは平気なんだ、ドーリ。そりゃあ、あんたはこの村の村長の嫁さん、いうなれば村のおふくろだよ。でも、あんただってさ、オレ聞いたぜ……前に一緒だった相手、あんたの好きだった男もジャリア兵に殺されたってな」
「サビー」
「それでもあんたは、もうあいつらが憎くないっていうのか。それに、そうだ……リミーの兄さんだって……」
「おやめ、サビー」
 鋭くドーリが言った。しかし少年はかまわずに言った。
「お前の兄さんだって、二十年前にあいつらにさらわれて、そのまま帰ってこないんだろう。きっと殺されたんだ。あいつらに。そうに決まってる。お前だってくやしいはずだ。なあ、お前もあいつらが憎いだろう?」
「あ、あたし……」
 少女はなんと答えてよいか分からぬように、おろおろとして首を振った。
「およし。サビー」
「いてっ」
 ドーリはごつんと少年の頭を叩いた。
「お前って子は、リミーの悲しいことを口に出して。私はいいさ、何を言われようともね。もう昔のことだし。でもね、リミーには言ってはだめだ。この子がまだほんの子供のころのことだよ。そんなこと、いまさら言ってどうなる。人の感情をね、そうやってあおりたてようとするのはおよし。あんただって、もうすぐ大人になるんだろ」
「でもさあ……」
 少年はまだなにか言いたそうにしたが、ドーリに睨まれると口をつぐんだ。
「わ、私……わからない」
 リミーが声を震わせた。
「お兄さん……が、……なんて」
「いいんだ。もういいんだよ。さ、なにも考えるのはおよし」
 涙を浮かべる少女の肩に、ドーリはやさしく手をおいた。
 それに向かって、サビーが何か言おうとしたとき。
「あっ、来たよ。サビー!」
いつの間にか、また木に登っていた少年の一人が声を上げた。
「兵隊がやって来る!」
「なんだって」
 ドーリはそれを聞いて、手近な木にするすると登りだした。サビーもそれについてゆく。
 二人のシャネイは枝から枝へとつたって、街道を見下ろせる場所まで来ると、顔を見合わせた。
「こいつは、まずいわね」
 街道の北にいくつもの馬影が姿を現していた。かなりの速度で行軍しているのか、道ぞいに砂ぼこりが立ち上がっているのが見える。
「あたしとしたことが、つい長話をして時間をかけちまった。今からじゃ道を渡って村に戻るのは危険だわね」
「どうする?ドーリ」
「ああ……」
 その間にも、軍勢はみるみる街道を近づいてくる。二人にはもう、その馬影とともに騎士たちの鎧や彼らの手にする槍、その先になびく流旗までもが見えていた。
「おお、間違いない。あの鎧、旗印……王子の四十五人隊だ。あの黒竜王子がここを通るんだ……」
「ドーリ……」
 サビーがごくりとつばを飲み込んだ。黒々とした何十もの鎧兜が、突き上げられた長槍とともに列して進んでくる様は、不気味に恐ろしげであった。
「どうするね?ここからさっきの弓で狙ってみるかい?」
「う……」
 冗談ともつかぬドーリの問いに、少年は何も言えなかった。
「さあ、下りるよ」
 二人が身軽に木を滑り降りると、他の少年たちが心配そうに集まってきた。
 ドーリは早口で言った。
「いいかい、みんな。今から村に戻るのでは間に合わない。街道を渡って向こうの丘に登る間にもやつらは迫ってくるだろう。もし見つかったら、たとえ何の理由もなくとも、やつらはあたしらを殺すだろう。あれは残虐王子の騎士たちだからね。ただではすまない。とくにあんたたたち子供はね。助かりたかったら、あたしの言うことをお聞き。いいね」
 少年たちにはさっきまでの威勢のよさはなく、顔を見合わせるとみな素直にうなずいた。
「よし。まず、トルーク、フーラ、ギムシ、あんたたちはリミーとナミンを連れて、林の奥へ隠れるんだ。万が一やつらがこっちに気づいても大丈夫なように、逃げ出しやすいところへお行き。あたしがもういいよというまでは出てきてはいけないよ。トルーク、あんたはお兄ちゃんなんだから、ナミンを守るんだよ。リミーもいいね。おとなしくしてるのよ」
「ドーリはどうするの」
 不安そうな顔でリミーが尋ねると、年長のシャネイはふっと笑って言った。
「この馬鹿といっしょに見張りさ」
「ちぇっ、馬鹿はないぜ……」
 サビーが口を尖らせる。
「大丈夫……なの?」
「安心おしリミー。大丈夫だから。あいつらは弓や槍を持っているだろうが、この丘の上までは届かないし、馬だって来られない。走ったら人間よりもあたしらの方がずっと早い。大丈夫だよ。ただし隠れたら動いてはいけないよ」
「うん。分かった」
「さ、お行き。トルーク、リミーを頼むよ」
 少年たちがリミーを連れて離れてゆくのを見送ると、ドーリは少年に向き直った。
「お前は私とおいで。ジャリアの黒竜王子を、その目で見るといいよ」
「う、うん」
 しだいに聞こえはじめた馬蹄の響きに耳を立てて、サビーはその顔をこわばらせた。
二人は再びするすると木に登り、太く伸びた枝をつたってさっきの場所にくると、息をひそめて街道を見下ろした。
「どうだい、見えるかい」
「ああ、もうこんな近くに……」
 シャネイの視力、聴力は、人間よりもはるかに鋭い。彼らの目には、街道をゆくジャリア騎士の黒鉄色の兜の赤い房飾りや、槍の先端になびく流旗に描かれた黒い竜の紋章までもが、木の上からでもはっきりと見分けられた。
「ほら、あそこさ。列の真ん中よりすこし前あたり。前後を騎士に守られた黒い馬」
 ドーリが指さす方にサビーは目を凝らした。
「あれが……ジャリアの黒竜王子、フェルス・ヴァーレイさ」
「あれが……」
 隊列のほぼ中程に、ひときわ立派な鎧のその一騎を見つけると、少年はそちらをじっと見つめた。
「フェルス・ヴァーレイ……、ジャリアの黒竜……」
「そうさ。残虐王子、血も涙もない冷血漢……やつのために、殺された仲間は今までに数千人もいる。村もいくつもなくなった。あたしの昔の夫も、親も兄弟もみな、やつに殺されたんだ。やつと、やつの軍隊にね……」
 深い憎しみの込められた声に、サビーは思わず横を見た。
「ドーリ……泣いているのか」
 頬に流れる涙を拭いもせず、年長のシャネイは静かに言った。
「サビー。これはね、これは憎しみと悲しみの涙さ。いつまでも決して乾くことはない。私が死ぬまでずっと流しつづける涙さ。死んでいった親兄弟、そして、すべての同族のために。その無念と、葬られてもなお残るだろう、憎しみと悲しみに」
「どうしてだ、ドーリ」
少年は顔を歪ませ、獣のように歯を剥きだした。
「どうして戦わない?その怒りを、憎しみを、やつらにぶつけない。うらみをはらさない。奴らを一人でも殺すことができるなら、俺はこの命はいらない。だから、だから俺は、弓をとった。たとえ今日、あの王子を殺れなくても、もし俺が殺されても、次の誰かがきっと、きっと……」
「駄目なんだよ」
 ドーリは悲しげに首を振った。
「それはね、駄目なんだよ……」
「どうしてさ!なあ、いっちまうぜ。やつら、俺たちがここから見ていることも知らずにいっちまうぜ」
 少年は枝から身を乗り出して、ジャリア兵たちがまさに通りすぎようとしている街道を指さした。
「いつだっていたよ。お前みたいな子は」
 ドーリの声は穏やかだった。そこには、愛すべき若者への慈しみと、そして、ある種の哀れみ、そして憧憬も込められているように。
「何人も見てきたよ。腕に自信のある青年も、弓の得意な若者も、恋人を殺されて復讐をちかった若い娘も。いつだって、みな憎しみと怒りをたぎらせて、ときにはあんたみたいに爆発したさ。そして、みんな死んだよ。かれらだけでなく、その度に彼らの家族も、こどもも、彼らのいた村の住人も、すべてが殺され、焼かれ、消えていったよ。たぶん、なかにはジャリアの騎士を殺した者もいたろうよ。勇敢にも数百人の切り込み隊をつくってやつらの軍隊をおそった連中もいたさ。でもね……、結局はみな死んだんだ。そしていつだって、その度に数百人の無関係の同胞、女や子どもたちが見せしめに殺された」
「でも……だからってさ、いつまでも、あんな奴らのいいようにさせていいのか?いつまでもこれじゃ……」
「そんなことはわかってる。でもね……でも、それは今じゃない」
「どうして……どうしてさ?」
 少年は悔しそうに唇を噛んだ。
 その間にも、ジャリア騎士隊は迅速に歩を進ませてゆく。今や二人が見下ろすのは、その隊列の最後尾であった。
「お前が、万が一、あの王子を矢で射抜いたとしても、きっと私たちは本当に勝ったことにはならないんだよ。もちろん、やつらは私たちを許すことはないだろうし、この近隣の村はすべて焼き払われ、仲間たちは女子供、それに老人まで、決して見逃されはすまい。運良く生き残って脱出したものも、いつかは見つかり、そして殺される。たとえ、あの王子がいなくなったとしても、やつらはその代わりに別の王子か将軍かを先頭にして、また同じように私たちを狩るだろう」
 ドーリの声が震えていた。
「だから……今はまだ駄目だよ。お前も死んでは駄目だ。トルークもギムシもフーラも、そしてリミーも。まだ死んではだめ。今はまだ……」
「ドーリ……」
 とても……とても悲しそうな顔を、少年は見た。それは沈みゆく夕日に照らされて、紅に包まれた悲しい泣き笑いの顔だった。
「でもね……」
 彼女はまるで遠くの未来を見守るような、優しい目をして言った。
「おまえたちが子を産み、子を育て、そうして、いまよりももう少し、子どもの数が増える頃、大人も増えるころ。きっと……きっとね、その時がくるよ。命をかけて、皆で力を合わせるときが。そうさ、きっとくる。それまではね、静かに、じっと静かにただ待つんだ。ただ怒りにまかせて、そのことを忘れてはだめ。憎しみだけで突っ走っては、結局はすべてが無駄になってしまう。ひとつひとつを、大きな一つにして、そこから始めなくては。いままではあたしもそれを考えなかった。あたしは見てきたよ。目の前で仲間が殺され、耳を切りとられ、殴られて蹴られて、やつらがあのゆがんだ笑いであたしらを蔑み、見下ろすのを。あたしは見てきた。怒り、憎しみは、それだけでは何も生まない。何も変わらないんだ。わかるかい?だから、今は耐えるんだよ。じっと、耐えるの。無駄に死んではだめだ。いいかい、だめなんだよ……」
「ドーリ……」
 彼女の言葉の中にある何かを感じたのか、少年は込みあげてくるものに耐えるように歯を食いしばり、こっくりとうなずいた。

「ドーリ、サビー!」
二人が木から降てゆくと、隠れていた少年たちとリミーが駆け寄ってきた。
「どうだった?」
「もう大丈夫なの?」
「やつらはいなくなった?」
 抱きついてくるリミーの頭を撫でて、ドーリは皆に安心させるようにうなずきかけた。
「大丈夫だよ。あいつらはいっちまった。もう大丈夫さ」
「俺たちは怖くなかったよ。な、フーラ」
「な、ギムシ」
「でもリミーったら、一番怖がりなんだもの」
「そうそう、ナミンだって泣かないでじっとしていたのにな」
 この中で一番小さなナミンが、こくこくと得意気にうなずいてみせる。
「よせよ、お前ら。リミーは女の子なんだからな」
 少年たちのリーダーであるサビーが言った。
「そうさ。それにこの子はね、たくさんつらいことがあったんだから……」
 ぎゅっとしがみつて離れない少女の頭を、ドーリはやさしく撫でつける。
「思い出しちまったのかい?怖い記憶を」
 少女がこくりと小さくうなずく。
「大丈夫。もう大丈夫だよ。あたしがついてる。あいつらはいっちまったんだ。もう来ないから」
「ドーリ、もしかして、リミーは兄さんのことを……」
 言いかけたサビーは、口に指をあて首を振るドーリを見て、黙ってうなずいた。
「ねえ、サビー、兵隊を見たんでしょ?どうだった?」
「どうだった?怖そうだった?あいつら」
「やっぱりでっけえ武器とか持ってたんだろ?」
「あ、ああ……」
 少年たちがサビーを取り囲んで質問をあびせる。サビーは、困ったようにただうなずくだけだった。まるで彼は、なにか心にかかる考え事でもあるように、ぼんやりと視線をさまよわせていた。
「さ、もう戻ろうか。もうじき暗くなるよ」
 リミーが落ち着くのを待ってから、ドーリはそうきりだした。
「村へ戻って夕御飯だ。でもお前たち、母さんたちにしかられて飯ぬきになっても泣くんじゃないよ」
「いいもん。そうしたらドーリの家に食べにいくから」
「そうそう、ドーリのご飯たべるー」
「馬鹿いってんじゃないよ。あたしだって、炊事の途中できちまったんだから、オダーマに怒られてあたしも飯ぬきかもしれないよ」
 危険が去ったことで緊張もなくなり、丘を下る少年たちはドーリと並んで歩きながら、楽しそうに笑い合っていた。
「嘘だあ。オダーマは怒らないよ。だってオダーマはやさしいもの」
「そうさ。それにオダーマはドーリが大好きだから。きっと怒らないよ」
「愛しあってるんだもんねえ」
「こら。こどものくせに、なんとまあ生意気なことをいう」
 ドーリは笑いながら少年たちの頭を小突くふりをした。キャアと声を上げる少年たち。ふとリミーが振り返ると、サビーは一人うつむきかげんに少年たちのあとを歩いていた。その手には使うことなく済んだ愛用の弓がぶらさがっている。
「……とにかく、みんなの母さんたちにはあたしから言っといてやるよ。ジャリア兵を見にいったなんていったら大目玉だろうから、ちょっと丘に遊びに行って遅くなったとでもしておこうかね」
 ジャリアの一隊が通りすぎた街道には、軍馬が通った蹄のあとがまだ生々しく残っていた。そこをはしゃぎながら横切る少年たちから、ドーリはふと街道の先に目を移した。もちろんジャリア兵の姿などは、もうその流旗の一片すらも見つけられない。すっかり暗くなった夕闇のなか、街道の先はただ黒々とした森が広がるばかりだった。
「ドーリ」
 少年たちは街道を渡って村へと続く丘を登っていたが、ドーリがその声に振り向いたとき、サビーは街道の真ん中で足を止め、ぽつんとそこに立っていた。
「おや、なんだい?あんた、まだそんなところにいたのかい」
「ああ……」
「早くお行きよ。ほら、あの子らはもう村へ着いちまうよ」
「う……うん」
 うつむいたまま曖昧な返事をする少年の様子に、ドーリは首をかしげた。
「なんだい、元気ないね。ジャリア王子を弓矢で狙おうかってあんたが。もしかして、さっきのあたしの話をまだ気にしているのかい?だったらもう忘れていいよ。そんなに考え込むことじゃ……」
「違うんだ……」
 少年は首を振り、なにか言いたそうにこちらを見た。
「あの……さ、ドーリ」
「うん?どうしたんだい?」
「ちょっと、話すことがあるから……」
 普段は明るく快活な少年が、今は奇妙ににおずおずとしている。ドーリはふと眉を寄せた。
「ドーリー、早くー」
「あんたたち、先に村に帰っといで。あたしらもすぐ行くから」
 丘の上から手を振る少年たちにそう言うと、ドーリはサビーに目をやった。少年は意を決したように口を開いた。
「ドーリ……あの、オダーマを呼んでくるように言ってよ」
「なんだって?」
「いや、オダーマでなくてもいい。サダルでも……そうだラビでもいい。とにかく大人の男を来させてよ」
「いいよ……分かった」
 ドーリは少年の様子から、これがただごとではないと悟ると、もう一度丘の上の子供たちに声をかけた。
「お待ち。トルーク、あんたみんなを村まで送っていったら、ちょっとあたしの家に行って、オダーマに伝えとくれ。ちょっと遅くなるからって」
「分かったー」
 丘の上からトルークが手を振った。
「それから……、そうだね、ラビに、すぐにここに来るように言っておくれ」
「ドーリ、ここじゃなくて、赤石の水車小屋のあたりがいい」
 横からサビーが言うのにうなずき、ドーリは言いなおした。
「トルーク。ラビに赤石の水車小屋にすぐ来るように言っておくれ」
「分かったよー。オダーマには遅くなるって、ラビには来るようにって言うよ」
 少年たちが村の方へ消えてゆくのを見送り、ドーリはサビーに向き直った。
「さて……話してちょうだい。どうやらなにかあるようだけど?」
「ああ……そうなんだ。もしかしたら、だけど……」
 サビーはうなずき、その顔をまっすぐ年長のシャネイに向けた。
「隣村……南のレンゼー村のリンジたちを知ってるよね」
「ああ、あの悪ガキども。あんたらとよく一緒になって遊んでたね。それがどうかおしかい?」
「うん。水車小屋まで歩きながら話すよ。すぐにラビが来るだろうから」
「いいよ。そうしよう」
 二人はさきほどジャリア兵の一隊が消えていった方向へ、街道を歩きはじめた。
 人間にすればかなりの早足で歩きながら、サビーは事の次第を語りだした。
「今日のこと、つまり、ジャリア兵と、うまくすれば王子を殺そうという計画は、ただの遊びじゃなくて、けっこう本気だったんだよ」
「ああ……それで?」
「それで、俺たち……俺とトルーク、そしてレンゼー村のリンジたち、どっちがうまくやるかを競争していたんだ……」
「なるほどね。ということは、レンゼー村の悪ガキどもも、あんたたちみたいに無茶なことをするってわけかい?」
「ああ、やると思う。あいつらの方がずっと人数多いし……、俺たちは、俺とトルーク以外は、ただおまけにくっついてきただけだけど、あっちはもっと大がかりみたいなんだ。この前会ったときにちょっと教えてくれたけど、リンジは『俺たちは強力な長弓を作ったんだぜ。こいつなら鎧だって貫通できる。見てろよ。必ず残虐王子の首をとってやる』って言っていた。なんだか向こうは村の大人も何人かそれに協力しているみたい」
「まったく、なんてことだろう……」
 ドーリは苦々しくつぶやいた。
「馬鹿なことを……、もし誰かか止めなかったら……」
「それにそろそろ、ジャリア軍がレンゼー村の近くを通るころだよ」
「それでラビを呼びに……」
「うん、オダーマでもいいけど、ラビの方が危険なこととかに慣れてるでしょう?もしレンゼー村がジャリア兵に襲われたりしたら……」
 ドーリは立ち止まり、表情を険しくして少年を見た。
「あんた。ここからすぐお帰り。話してくれたからもう怒りはしないよ。でもここまでだ。レンゼー村へはラビに行ってもらう」
「そんな。いやだよ」
「駄目だ。もし、本当に村が危険な状態だったら、どうするんだい」
「大丈夫だよ。俺もう子供じゃないよ。弓だって使えるし、剣だって少しは……」   「サビー」
ドーリは声を強めたが、少年は臆することなく言った。
「ドーリ。俺は行くよ」
「サビー……」
「俺はもう子どもじゃない。自分の命は自分で守るし、その責任ももう自分でとるよ」
 そう言った少年の顔を、ドーリはじっと見つめた。 
「それに、俺はいかなくちゃ。リンジたちは友達だよ。あいつらだって、みんな、仲間のためを思ってやろうとしているんだ。俺だってそうだ。でも、さっきドーリの話を聞いて、俺は分かったよ。こんなやり方では何も変わらないって」
「サビー……お前」
 少年はうなずいた。その目の光は強く、まっすぐにドーリに向けられていた。
「だから……俺はリンジたちをとめなくちゃ。今から走っていけば、もしかしたら間に合うかも知れない。リンジたちには俺から言わなくちゃ駄目なんだ。あいつらのやろうとしていることも、俺のやろうとしたことも、それは本当に危険なことで、全部の村に関わる大変なことなんだって。俺から言わなくちゃ……」
「そう……そうだね。そうかもしれない」
 それまでただのいたずら好きの子どもだった少年が、にわかに大人になりつつあったことを、ドーリは初めて知った。ほんの数年前はもっとずっと小さかったのに、今では背丈はドーリとほとんど変わらない。普段はやんちゃで、よく笑うその顔は、今はまるで青年のように引き締まって見える。
「それにさ……」
 落ち着いた笑顔とともに、サビーは言った。
「もしかしたら、リンジたちも今頃、俺みたいに誰かに止められて、こっぴどく怒られているかもしれないしね」
「ああ、そうだね。そうだったら、ただの取り越し苦労ってもんだ」
 二人は顔を見合わせて笑った。

 街道を南に少しゆくと、川べりの小さな水車小屋がある。近隣のいくつかのシャネイ村が、粉挽きのために使用する共同の小屋だ。二人が小屋の前で待つと、ほどなくしてこちらに駆け寄ってきたのは、同じ村の青年、ラビだった。
「ラビ、早かったね」
相当なスピードで走ってきたのか、シャネイの若者は何度か息をついてうなずいた。
「夕食中だったが、ほっぽらかして走ってきた。ドーリが大急ぎで呼んでいると、子供らが言うのでな」
 女や年寄りの多い彼らの村では、ラビは一番頼れる若者だった。すらりと背が高く、力持ちで機転もきく。かつては自警団で剣を習っていたこともある。彼にとって、村長オダーマの妻であるドーリは、ほとんど家族にも近い存在であった。
「どうした?ドーリ、何があった」
「すまないねえ、ラビ。急がせちまって。カナリは驚いてなかったかい」
「大丈夫さ。俺の嫁は勇気がある。慌てて飛び出そうとする俺に……ほら、こうして水筒と、もしものための短剣、包帯やら薬草なんかを持たせてくれたよ」
 若者は腰に縛りつけた皮袋を見せた。
「それにしても、子供たちが大騒ぎで村に帰ってきたので、みんな仰天してオダーマの所に駆け込んでいるぞ。しかも、オダーマの家にドーリがいないので、みんな何があったのかと心配している」
「あら、いやだ。あの子たちったら、そんな大げさな。オダーマは何か言っていた?」
「いや、オダーマはまず皆を落ちつかせて、ドーリの言うとおり、俺に様子を見に行かせようと言った。皆が慌てることはまだ何も起こっていないと。それで俺に向かって、ドーリとサビーを頼む、自分は村長の責任があるゆえ、村を離れられない。何かあったときはすぐ対処できるようにしておくから、二人をくれぐれも頼むと」
「さすがはオダーマ」
 ドーリは満足そうにうなずいた。
「あたしが見込んだ男だわ。それでこそ。それじゃあ、村の方はまず安心ね」
「ねえ、ドーリ。こんな所に立ち止まっていても仕方ないよ。歩きながら話そう。早くレンゼー村へ行かないと」
「おお、そうだ。そうだね。行こう」
「レンゼー村へ?いったい何があったんだ?」
 ラビが眉をひそめた。その長い耳がピンと立つ。
「まさか、さっき通りすぎたジャリア軍の一隊となにか関係があるのか?」
「そうさ」
 ドーリがうなずく。
「もしかしたら……大変なことが起こるかも知れないんだよ。まだ分からないけど。とにかく、行こう。ラビ、あんたが先頭にたって」
「わかった。レンゼー村だな」
 ラビを先頭に、三人は街道を走り出した。

 夕闇に包まれた街道の周りには、黒々とした森や山々が広がっている。このあたりにはいくつものシャネイ村が隣接しており、リンゼー村は彼らの足なら走ってほんの半刻ほどの距離であった。
「なるほど……そういう、ことか」
 少年とドーリから話を聞いたラビは、顔つきを険しくした。
「それはまずい。俺は知ってる。あの黒竜王子を。一度ラハインの宮廷に小麦を届けに行ったとき、俺は近くであの王子の顔を見た」
 街道の印石がかろうじて見えるくらいの夕闇の中を、三人は軽やかな足どりで走り抜けてゆく。シャネイの視力はとても強く、夜闇の中であっても、地面の石ころも、突き出した木々の枝も、はっきりと見分けられる。
「あの王子の目……なにも映さない、まるで感情のない目。あの目が、俺は心底恐ろしかった。特に俺たちシャネイを見る目つきは、とうてい人間を見る目つきとは思えなかったよ。言葉の通じぬ動物を見るような、蔑みも越した冷たい目つき。まるで道端の石ころでも見るように俺を見た、あの目を見たとき……俺は知ったのだ。残虐王子という名は、決して大げさなものではないのだと。あの王子からすれば、きっと俺たちを殺すことなどには何も意味を持たない。豚や猪を殺すように奴らは我々を狩り、殺してゆくだろうと」
「そういえば、たしか、あんたの妹と両親も……」
「ああ、前の村で殺された。あのときも王子の配下の部隊が通りかかって、ちょっとしたことで奴らの怒りをかい、戦いになり、そして……村は壊滅した。生き残ったのは老人とほんの数人の女子供だけだった」
 前をゆくラビの声がかすかに震えるのを、サビーは聞いた。
「いけない……いくら子どもたちのすることとはいえ。あいつらは決して容赦しない。早く……早く止めないと」
「いやだよ。リンジたちが、みんな兵隊にやられちゃうなんて。そしたら俺……俺……」
「サビー。まだそうと決まったわけじゃないよ。あんたも言っただろう。あの悪ガキどもも、お前みたいに今頃は誰かに止められて、こっぴどく叱られているかもしれないって。あたしたちが村に着いてみたら何も起こっておらず、レンゼーの人たちが笑いながら、よく来たねって、みやげにに白パンでもくれて、あったかい豆のスープをごちそうしてくれるかもしれないよ。そうさ。なにも……なにも起こっていないよ、きっと……ね」
 ドーリの言葉は、自分自身に言い聞かせるようなつぶやきに変わった。夜の街道を走る三人の足取りは、なにかに急かされるように、しだいに速くなっていった。
「村はもうすぐだ。あの橋を渡れば……」
 遠くに小さな光が見えはじめていた。川の向こうにレンゼー村はある。
「あっ」
「な、なんだあれは」
 サビーとラビが同時に声を上げた。
「あれは……」
 ドーリも息を呑んだようにつぶやいた。
 村の明かりとおぼしき光が、しだいに大きくなっていた。
 その光は、ひとつ、ふたつ、みっつと、見る間に増えてゆく。
 三人は橋の手前で立ち止まっていた。
「あれは……火だ!」
 ラビが叫んだ。
「まさか。まさか……」
 ドーリが口の中でつぶやく。
 村が燃えている。
 耳を澄ますと、村の方向からはごうごうという炎の音が聞こえ、それに混じって、なにかが起きているらしい喧騒の空気が伝わってくる。
 いったい何が起こっているというのか。三人は言葉を失って立ち尽くした。
 黒い夜空に燃えさかる火柱が上がる。
「あっ、お待ち。サビー!」
 ドーリが止めるまもなく、少年は村に向かって走り出していた。
「ラビ、サビーをとめて!」 
 二人のシャネイは少年の後を追って、赤々とした炎に包まれつつある橋の向こうへ走り出した。


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