水晶剣伝説 U ジャリアの黒竜王子

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シリアン


「姫様、姫様、お聞きになりまして?フェルス様が、王子殿下がお帰りになっているそうですよ」 
「なんですって?」 
 侍女の言葉に振り向いたのは、ほのかに茶色がかった長い黒髪を腰まで垂らした若い女性だった。このうえなく繊細な刺しゅうの施された、サテンの白い胴着とスカート姿で、その顔はまだ少女といってよいようなあどけなさがある。
「本当なの?ピーム」
 手からこぼれ落ちて、床に散らばった占い用のカードなど気にもとめず、彼女はその目を輝かせた。
「お兄様がお帰りになった!」
 はかなげな瞳を見開いて、うっとりと両手を組み合わせる様子は、まるで夢見る少女のようであった。
「お兄様が……」
 普段は人形のように白い頬に、みるみる血の気がさしてくる。
「こうしてはいられないわ。ピーム、お願い」 
「はい、シリアン様」
 心得ているとばかりに、侍女はすぐに着替えの支度を始めた。
「ああ。ねえピーム、どこなの?お兄様は、どこにいらっしゃるの?」
「聞いたところでは、さきほど陛下のおられる謁見の間にお入りになられたとか。お父上とのお話が済めば、きっとこちらにお会いできますよ」
「ああ、本当に戻っていらしたのね。なんて久しぶりなんでしょう」
 侍女に着替えを手伝わせながら、彼女……ジャリアの第一王女シリアンは、つぶやきを繰り返した。
「ああ、お兄様……」

 宮殿の正門へ向かう途中の回廊で、フェルスはいったん立ち止まった。
「お兄様」
 息を弾ませ、侍女を置き去りにして駆け寄ってきたのは妹のシリアンだった。
 足は止めたものの振り返りもせぬフェルスの横で、副官のジルトは胸に手をやり、丁寧に貴婦人への礼をしている。
「お兄様」
 着替えたばかりのピンク色のドレスをまとった彼女は、もう一度、大きな背に向かって声をかけた。
「……」
 仕方なくというように振り返ったフェルスは、そばにきた妹に目をやった。だが、その顔はまったく表情を変えることはない。
「お兄様……」
 頬を紅潮させて兄を見上げ、彼女は嬉しそうに笑みをこぼした。
「帰っていらしたのですか。さっきピームに聞いて……、私、ずっと、ずっと待っておりましたのよ、お兄様。今度戻ってきたら、一緒に“熱い手”遊びをしてくださるって約束してくださいましたわね……」
「そうだったかな」
「そうですわ。いじわる」
 熱っぽく兄を見上げる彼女の目に、崇拝以上のものが含まれていることは、誰の目にも明らかだった。
 あるいは、もしこの二人を初めて見るものがいたとしたら、なんと似るところのない兄妹だろうと思うことだろう。
 一見同じような黒髪でも、妹の髪はやや茶色みがかっており、兄の方は漆黒を塗り込んだような黒髪である。そして互いの肌の色も、透き通るほどに白い王女の肌に比べて、王子の肌は浅黒く、それも日に焼けたものというよりは、もともとの皮膚がそうであるように見える。
 この王家の兄妹の血のつながりの真偽については、王宮内では噂に囁かれることもしばしばだったし、それは半ば公然の噂であった。ただし、国王は表面的には二人を実の兄妹として扱い、それを疑うものに対しては処罰を下すこともあった。なので、人々……すべての国民を含めた人々は、いかに毛色が異なろうとも彼らが王子であり、王女であるという事実のみを受けいれたし、それ以上の余計な詮索をしようとする勇気のあるものは誰もいなかった。
「でも、そんなことはもういいの。とにかくこうしてお帰りくださったのだから」
 王女は胸で手を組み合わせ、憧れである彼女の兄を見つめた。
「今度はいつまでおられるのでしょう?久しぶりに、ご一緒にお食事はできるのかしら」
「いや。これからすぐに発つ」 
「すぐに?」
 ひどくそっけない王子の言葉に、彼女は失望を隠せなかった。
「そんな。だって、約束したのに……。帰ってきたら、私のお話をたくさん聞いてくださるって。それに、まだ今年になってから一度も、ご一緒にお食事をしておりませんのに」
 目に涙を浮かべた王女を見かねたように、横にいたジルトが口をはさんだ。
「王子殿下。いかがでしょう?出立を一日延期なされては。一日くらい遅れたとしても、まだ事態はそれほど切迫してはおりますまい。プセに残した兵士にしてもボンドゥス公に任せてあるはずですから、なんの心配はないでしょう。久しぶりの王都ですし、今夜はゆっくりここにお泊まりになり、お体を休ませてはいかがかと。それに、こう申してはなんですが、王女殿下のこのお美しいお顔を悲しみに曇らせるのは、一万の兵を待たせるよりもはるかに気にかかる事かと」 
 フェルスはじろりと副官を睨んだ。
「無用の気遣いだな。貴様はただ、私の命令を遂行することを考えていればいい」
「は。失礼いたしました」
「シリアン」
 涙をためた妹をさすがにあわれに思ったのか、フェルスはいくぶん穏やかな声で言った。
「私は任務を遂行しなくてはならん将軍の身だ。それはわかるな?」
「は……はい」
 はじめて名を呼ばれて、彼女は小さく微笑んだ。
「私は行かねばならん。お前ももう十八になったのだろう。あまりわがままを言って、この兄や父上を困らせるなよ。それからお前の妹メリアンの面倒も見てやれ」
「でも、お兄様、メリアンなんかちっとも可愛くありません。いつだって私を馬鹿にしたり、お兄様のことも悪く言うのです。そんなの許せません。それに母様や父様も、私よりメリアンの方をばかり可愛がって、いつも私は一人ほったらかし。だから、私さびしかったのです。ちゃんと私とお話ししてくださるのはフェルスお兄様だけ。だからずっと待っていましたのに……それなのに、また私を置いて遠くへ行ってしまわれるのですね」
「……」
 王子は、彼にしては珍しく、少し困ったように連れの部下たちに目をやった。
ザージーンは向こうを向いて、その巨体の気配さえ感じさせぬように立っており、ジルトの方は、ときおり王女の方を見やりながらも、王子の逆鱗を恐れてか、兄妹の会話に立ち入ることはしなかった。 
「ああ、わかった。ではすぐに帰ってくる」
「この前もそうおっしゃいました。そして、戻っていらしたのは三月もあと……。その間シリアンはさびしくて死にそうでしたのに」
 またしてもたっぷりと涙をためた王女から、フェルスは目をそらした。
「時が移る。達者でな。行くぞ、ジルト、ザージーン」
「お兄様」
 もはやこれまでと歩きだした王子は、妹の声にももう振り返らなかった。
「お兄様……」
 しくしくと泣きだす王女に、ジルトが声をかけた。
「王女殿下。そんなに泣かれますな。このジルト・ステイク、王女殿下の御為ならば、どのような事でもいたします。私の剣はシリアン様のものです。どうか、この私がお側におりますことを、お忘れにならないで下さい」
 両手で顔を覆った王女は、肩に触れられた手に、ぴくりと体を震わせた。
「王女殿下……」
「触らないで」
「シリアン様」
 汚らわしいと言いたげに、王女は眉をつり上げ、涙をためた目で相手を睨んだ。
「私に触れていいのはお兄様だけ。お前などに何が分かるの」
「これは失礼を」
 うやうやしくひざまずくジルトから、王女はぷいと顔をそむけた。
「嫌われてしまいましたか。姫」
「お前など、最初から大嫌いよ。ピーム、ピーム、早く来て!」
「ひどいですな。何も嫌なことはいたしませんよ、私は。これでも騎士ですから」
「はやくあっちに行って。でないと、お父様に言いつけるわよ」
「これは、可愛らしいことを。サディーム陛下にお言いになると?それはまた、有り難き幸せ。ぜひそうしていただきたいですな。この私も、恐れながら姫様の花婿候補に立候補しようかという身、ならば、今のうちから父君にお近づきになっておけますから」
「誰がお前なんかと……汚らわしい」
「これはまた、ひどいおっしゃりようですな!」
「あっ」
 逃げようとする王女の腕を、ジルトはぐいとつかんだ。
「な、なにをするの。離して!無礼者」
「さっきまでお兄様、お兄様と、泣いておられたというのに、変わり身のお早いことで」
「なにをするの。こんなことをして、ただですむと……」
「すみませんね、たぶん」
 もぎはなそうとする王女のか細い手を引っ張り、柱の影へ連れてゆく。
「いや、やめて……」
「そういう怯えたお顔もお美しいですよ」
 ジルトが引き寄せると、王女は顔をこわばらせて必死に男を睨んだ。
「王女様……シリアン様、どちらにおはします?」
 回廊の向こうから声がした。
「さあ、お行きなさい。侍女が探しに来たようですから」
 ジルトは王女の手を離すと、にやりと笑った。
「大丈夫、私は姫君の騎士ですから。めったな事はいたしませんよ。ただし、あなたが私をあまりひどく扱ったり、無下に毛嫌いなさらなければね」
「……」
 王女はまるで恐ろしいものを見るようにあとずさると、そのまま小走りに去っていった。
 柱の影からその背中を見つめる男の顔に浮かぶのは、まるで血肉の通わぬような、アルカイックな笑みだった。
「どうした。何をしていた」
 振り返ったフェルスは、回廊の出口でようやく追いついてきた副官を、咎めるでもなく、ただじろりと見た。
「申し訳ありません。王女殿下のお悲しみようがあまりに、おかわいそうで。少しでもお力づけの言葉をと」
「よけいなことを」
つまらなそうに王子は言い捨てた。
「行くぞ」
 王宮の城門前には、王子の愛馬が従者とともに主を待っていた。うやうやしくひざまずく従者から手綱を受け取ると、王子は赤い裏打ちのマントをひるがえし、艶やかな黒い毛並みの愛馬にまたがった。
 王子の馬は、風を切るように丘を下る道を駆けはじめた。

 一つの山そのものが砦のようなフォルスカット城は、ラハインの町のほぼ中心に位置している。
 ジャリアの首都ラハインは、人口は六万人ほど。この時代の一都市としてはリクライア大陸でも大きな部類に入る。北海へと流れ込むフィレシュタット川を水源とし、東には大陸最高峰の巨山クレシルドの白き頂を臨む。国内の気候は、オルヨムン連山をかけてくる北東の風のせいで夏でも涼しく、反対に冬になると厳しい寒さに包まれる。
 この地から大陸の西部へ……つまりトレミリアやセルムラードへゆくには、西のバルテード山脈を迂回し、南側のヴォルス内海に出て、さらに広大なロサリィト大草原を横断しなくてはならない。したがってジャリアの鉱物資源である錬鉄、青銅などを西側諸国へ運ぶためには、まずヴォルス内海に隣接するアルディ、ウェルドスラーブといった海洋国を介する他はない。
 アルディとジャリアは長年友好関係にあったが、ヴォルス内海をへだてた西よりのウェルドスラーブは、この数年ジャリアから入ってくる鉱物資源の貿易関税を引き上げつづけていた。ウェルドスラーブとしては、立地的に東側と西側の中間に位置しているという利点を生かし、それまで通行税等の利益を効率よく享受してきたわけだが、この数年でさらに、西から東に運ばれる食料や織物等への関税率も大幅に引き上げた。
 これに激怒したジャリアは、大陸間相互会議から脱退し、関税規定にかからない西側の小都市国家との取引を重視しようとした。しかし、西側の大国トレミリア、セルムラードは、大陸間の貿易ルートを乱すこのやり方を遺憾とし、それに同調する都市国家に対しては制裁を下すという声明を出した。
 国力的にも大陸西側の盟主であるといってよいトレミリアに逆らってまで、危険な取引をする都市国家はこれにより激減し、ジャリアと西側の貿易上のパイプは事実上途切れた。ここにきて一気に孤立化してしまったジャリアは、友好国であるアルディに働きかけ、新たな流通制度の確立を目的にした同盟を結ぶ。そして間もなくアルディも、ジャリアについで大陸間相互会議から脱退、ここに至り、大陸の東と西の対立構造がにわかに激化したのである。
 ジャリアとしては自軍の強力な騎馬隊、長槍隊に加え、唯一の弱点であった海軍もアルディのガレー船団を味方に付けることで補強された。西側の大国で、組織された海軍を擁するのはウェルドスラーブのみ。陸軍にいたっては、長年戦争から遠ざかっているトレミリア、セルムラードの騎士隊などは、勇猛なジャリア軍にとっては恐れるに足りない。つまり軍事的に言えば、東方の大国アスカの動向さえ気にしなければ、ジャリアは西側国家に対し、実力を持って牽制をしかけられる立場となったのである。
 ジャリア国王サディームは、手始めにウェルドスラーブを牽制する目的で、第一王子のフェルス・ヴァーレイを南の国境都市プセへ派遣した。だが、王の意図したよりも王子の行動は大胆で、そして急激なものであった。王子はただちに兵を動かし、明らかに敵方にそれを知らしめるようにしてウェルドスラーブ国境付近に接近し、威嚇的な布陣をとったのである。当然、このジャリア軍の動きは、ただちにウェルドスラーブ側の知るところとなり、友国であるトレミリアへの援助要請、そしてトレミリアの首都フェスーンでは傭兵集めの剣技会が開かれるに至ったしだいである。
 西側諸国の緊張は一気に高まり、リクライア大陸は不穏な渦の中に包まれつつあった。
 事態を引き起こした当のジャリア王子にとって、これらの情勢の推移は、すべて計算のうちだったのだろう。ただひとつ、王宮からの執拗な帰還命令以外は。

 馬上の王子は、不機嫌そうな手綱さばきで馬を駆り、丘を下っていった。
 ラハインへの町へと続く市門前の広場には、王子の配下である「四十五人隊」が待機していた。 
「ご苦労」
 整列していた騎士たちは、黒ずくめの鎧姿を馬上に見つけると、左手に兜を持ち右手を胸に当て、彼らの主を迎えた。 
「これより帰途へつく。ただちに出立するゆえ用意しろ」             
 王子が告げると、騎士たちは兜をかぶり、きびきびした動作でそれぞれの馬に飛び乗ってゆく。驚くべき迅速さで隊列を組んでゆく部下たちを満足そうに見ながら、王子は従者から受け取った水筒に口をつけた。 
 王子の四十五人隊……それはフェルス・ヴァーレイ王子直属の近衛兵で、徹底的に選び抜かれた精鋭であった。
 文字通り四十五人からなるその騎士隊は、下は十六歳、上は二十五歳までの若者たちで、一人一人は王子自身によって数万の中から選ばれた者たちである。その全員が剣術はもとより、パイクと呼ばれる長槍の名手であり、弓もこなす。王子に対して命の忠誠を誓い、命令とあらば、たとえ親兄弟であっても手にかけるを辞さないという覚悟の者たち。常にフェルスの身を守り、己の身を投げ出してでも主を守ることを徹底的に教育された騎士たちである。
 それだけに王子の信頼も厚く、どのような場所へも、またどのような移動命令があっても、四十五人隊だけはひき連れるのだった。今回、国王からの首都への帰還命令が下されたときも、せめて一千の兵を護衛にという声を無視し、王子はこのたった四十五人の供と副官のジルト、そしてザージーンのみを連れ、一日半駆け通しでラハインに舞い戻ったのだった。そして今また、たった一刻ほどの滞在で、まともな睡眠すら取らず帰路へ着くことになっても、四十五人隊の面々には不平を上げるものはおろか、命令に対して少しでも緩慢なそぶりを見せるものさえいなかった。
 隊列が出来上がり、従者からそれぞれ長槍を受け取った騎士たちは、その穂先に近衛騎士隊の紋様である黒い竜を描いた流旗を誇らしくかかげ、王子の次の命令を待っていた。
「準備整いました!」
 四十五人隊の副隊長、ノーマス・ハインが報告した。
「ご苦労」
 フェルスは馬上でうなずいた。まだ二十歳そこそこであるが、しなやかな長身に、そつのない才気を持ったこの若者を、王子はことの他気に入っていた。
「ではノーマス、帰路はお前がしんがりに付け」
「はっ」
 名誉ある役目をもらい、若者はその頬をさっと紅潮させた。
「出立!」
 王子の号令一下、隊列を組んだ小隊が動きはじめる。
 すでにふれが出されていたので、石造りの大きな商館が立ち並ぶ、南大門へと抜ける大通りには人影はなく、物陰から様子をうかがう市民も、先頭にたつ騎士が持つ槍先の流旗が見えると、あわてて家の中へ入っていった。「残虐王子」とも、「ジャリアの黒竜」ともあだ名される、フェルス王子の逆鱗に触れることは、そのまま自分たちの命にかかわることであると、市民たちはいやというほどに知っていたのだ。
 前触れの騎士が角笛の音で「王子と四十五人隊」の通行を告げると、人々は通りからいっせいに姿を消した。子供連れのものはわが子の手を取って、商品売りはかごから果物をこぼしながら、老人は必死に杖をついて、逃げるように離れてゆく。
 カッカッカッカッ 
 王子の騎馬隊が石畳に馬蹄を響かせゆく。
 その間、人々は路地や物陰に隠れ、家に入り木戸を閉めて、この不吉な一隊をやりすごすのだった。間違っても王子の目に触れる所へ出ていってはいけなかった。残酷にして冷血、容赦も慈悲もなく、いくさでは圧倒的な才能を発揮するこの若き王子を崇拝し、その黒ずくめの不吉な姿すらも「暗黒の力と美しさの象徴」と称賛するものもなかにはいたが、大半の市民たち……とりわけ平和に暮らす人々にとっては、暗黒も不吉もただ恐怖であるだけだった。
 隊列の騎士たちはは整然として終始無言で、王子の命令なくては言葉も発せず、咳払いもせぬというように、粛々と通りを進んでいった。
 馬上の王子は護衛の騎士に前後を守られながら、久しぶりに見るはずのラハインの町並みにもたいした感慨を感じることもないように、ただまっすぐ前方に目をすえ手綱をとるのみ。
 やがて、通りの向こうに城壁に挟まれた市門が見えた。王子の一行が近づくと、鎖の巻き上げ機の鈍い音とともに、巨大な市門がゆるやかに開かれてゆく。軽く手を上げた王子は、騎士隊を引き連れて門をくぐり抜けた。
 城門の外に広がるのは、丘に囲まれた広大な畑と牧草地。南へと伸びる街道とともに彼方まで続く森は、黄昏の空のもと、しだいにその陰を濃くしてゆくようだった。


                  
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