水晶剣伝説 U ジャリアの黒竜王子

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  黒竜王子

 そうして、二人の浪剣士が歴史ある大国において、騎士となり、あるいは宮廷人となり、その居場所を作りはじめたころ。
 トレミリアの首都フェスーンからは、北東の方向へざっと二百エルドーン。
 広大なロサリィト大草原の彼方に連なるバルテード山脈を越えて、さらに東へ……
 オルヨムン連山を東の背後にして、北海へと続くフィレシュタット川を水源とする都市がある。それがリクライア大陸において、東の超大国アスカを除けば、最も広い国土を持つ大国ジャリアの首都、ラハインである。
 そのラハインの城……フォルクストゥムの王城は、フォルスカット城とも呼ばれる、巨大な砦のような城である。黒々とそびえる頑強なるその城は、ラハインの城下町を見下ろす高台にあり、人々は畏敬の念をもって毎日その城を見上げるのだ。
 その高台にある城門前の広場で、今、悲痛な女の声があがった。 
「おやめください。どうか……」
 鎧兜に長槍を持った衛兵たちが輪を作るように、何人かをぐるりと取り囲んでいる。
「お助けを!お助けを!」
「うるさい。だまれ、罪人ども。フェルス・ヴァーレイ王子殿下の御前なるぞ」
 近衛騎士に一喝され、怯えたように女はおし黙った。その隣にいる少年も、町人らしき小太りの男も、青ざめ、怯えきった眼差しで不安そうに辺りを見回している。
「フェルス王子、本日捕らえたのはこの者たちであります」 
「そうか」 
 応えたのは、ひどく冷たい響きの声だった。
「ご苦労」
 まったく感情のこもらぬ静かな声。聞きようによっては、むしろ穏やかでさえあるその声の主は、外見だけならまだ二十五にもならぬ若者のように見える。だが、その黒い双眸には、すでに若さの輝きよりも、深く塗り固められた濃密な闇が覆い尽くしているかのようだった。
 全身に黒い騎士の鎧を着込み、真紅の裏地のマントを羽織り、房飾りのついたこれも漆黒の兜を手に持って、彼は立っていた。鋭く細められたその目には、冷酷そうな光が宿り、わずかな感情の動きすらも感じさせない。伸ばした黒髪はきっちりと整えられ、骨ばった頬の両側を覆い隠している。これが、「ジャリアの黒竜」、「冷酷王子」の呼び名で知られる、ジャリアの第一王子、フェルス・ヴァーレイであった。
「時間がない。さっさと始めろ」
「はっ」  
 二人の騎士によって両脇から押さえられた一人の女が、引きずられるようにして王子の前に突き出された。怯える目で王子を振り仰いだのは、やや盛りを過ぎた年齢に達しかけていたものの、見かけはまだ充分美しい女だった。
「ああ……あ、お、おゆるしを……」
 ぶるぶると震えながら、許しを請おうと頭を地面に付けた女を、冷やかな目つきで見下ろす。
「説明しろ」 
「はっ」
 別の騎士が進み出て礼をした。その横では書記係が机の上に記帳を広げ、羽ペンをインクにひたした。 
「この女。二日ほど前に、許可無く後宮より逃亡を計り、見張りの騎士に誰何されてもなお逃走し、その後にようやく捕らえましてございます」  
「ち、ちがいます!私は逃亡などしておりません。間違いです。どうか!」
 長い黒髪を振り乱し、女はかぶりを振った。
「女。いまさら申し開きなどかなわぬぞ」 
「本当でございます!私は逃亡などしておりませぬ」
 騎士の追求に女は声を震わせた。その目には涙が浮かんでいる。
「私はただ、子供たちに、ただことづてを渡すために……」
 女が言い終える前に、王子がすっと近づいていた。震える女のあごに手をやり、王子はその顔を覗き込んだ。
「あ……あ、あ」 
 女の恐怖の色は、明らかに身分貴き王子を近くしての畏敬や緊張などではなかった。それはまるで、死そのものを間近に見る死刑囚の絶望のそれだった。 
「申してみよ」
 王子は静かに言った。
「間違って捕らわれたのなら、それは我が部下どもの失態。そのほうの言い分も聞こうではないか。ただし後がつかえておるのでな。すみやかに申せ」 
「は、は……はい!」          
 生きる望みに急かされるように、女は口をひらいた。
「わ、私は、確かに後宮につとめる女官です。もう十年近くの間つとめさせていただきました。その間、一度として逃げ出したり、お務めをむげにしたことはございません。一昨日もそうです。私はただ子供たちに、今月分のお給金を渡しに行ったのでございます」
「嘘をつけ。後宮女官の給金は、その家族にちゃんと届けられているはずだ」
 騎士に追求されて女官は力なく首を振った。すでに何度も流した涙が、赤く腫れた目元にまた流れ落ちる。 
「違うのです。今月は。一昨日はたまたま、給金を届けてくれる侍女たちがみな具合が悪くて登城しておらず、そこで仕方なく、私が自分で届けに戻ろうと……」
「だったら、もう一日二日待てばよかったではないか?」
 穏やかな口調で王子が訊いた。
「ああ、王子様。お慈悲を。私の子供たちは、今日明日を食べるのにも精一杯なのでございます。一昨日、その日どうしてもお金を渡さなくては、子供たちが……」
「子供は何人いる?」          
「六人でございます。上は十二になり、一番下はまだ二つで」
「なるほど、それは大変なのだろう」   
「はい。はい」
 女はすがるように両手を組み合わせた。
「私はずっと十年の間、子供たちのために働きました。後宮ですから、お休みがいただけるのは月に二度ほどです。私が子供たちに会えるのはその時だけ。あとは乳母が一人で面倒をみてくれていますが、それでも手が回りきれず、子供たちは自分たちで食べ物を買い、服を縫い、ろうそくを作り、なんとか生活しているのでございます。私はあと一年で後宮の仕事から上がることができます。来年には三十ですから。ですから、あと一年、なんとか無事に家に戻りたいのでございます。そんな私が、どうして逃亡などいたしましょう。あと一年つつがなく過ごせばよいところを、どうしてこのようなことで罪を問われたいと思いましょう。誤解です。私はけっして逃亡などは……」
「その子供らは、みな貴族たちの落とし子か?」
「は……」
 王子の目が……静かだが恐ろしいほどに冷たく、彼女を見下ろしていた。
「六人の子供がすべて、後宮でのみやげなのか?初めの子はいくつで産んだ?」
「は……、はい。十六でございます」 
「難儀なことだな。十六で。名も知らぬ貴族の子を宿すとは。それから六人も?」
 王子の声の調子が変わっていた。
「不幸な子供が六人……、父親も知らぬ、母のぬくもりも知らぬ……」
 それは皮肉めいたある種の嘲笑と、嫌悪が込められているかのような。
「あ、あの……」
「さて、次」
 戸惑う女をよそに、王子は立ち上がった。もうそれきり女の方は見ようともせず、騎士たちをうながす。
「では、この女はいかがいたしましょう?」
「処刑。首をはねろ」
 王子は眉ひとつ動かさず言った。
 それを聞いて、女は全ての望みが打ち砕かれたように叫んだ。
「ああ……ご、後生でございます!後生で……」
 絶望の悲鳴が広場に響いた。
「ふむ。よい声だな。女。それが聞きたかった」 
 王子は満足げにうなずいた。周りの騎士たちは微動だにせず、誰も声を上げるものはいない。
「あああ……あ、子供たちが……私の子供たち……」
 狂ったように叫び、身悶える女を、王子は背中越しに一瞥した。
「安心しろ。おまえの子供らは殺しはせん。ただし、給金もしないし世話もせぬ。自力で生き抜けばよし。これから飢えて死ぬか、悪に走るか、人買いに売られるか、それは運命というもの」
「あああ……子供たち……」
 王子の言葉が耳に入っているのかどうか、女は頭を掻きむしり、かすれた声で叫び続けていた。 騎士たちは暴れる女を引きずり、広場の隅へ連れていった。処刑はただちに行われる。
「処刑をご覧になりませんので?」 
 王子の横にいて、いままで一言も発しなかった青マントの騎士が声をかけた。近衛兵たちとは明らかに違う、金銀の細工入りの精巧な鎧とビロードのマント姿は、どこか高圧的な様子で、神経質そうな青白い顔につり上がった眉が酷薄な印象を与えている。
「ふん。首切りなど、いまさら面白くもない。それに時間もない」
「さようで」
 口の端をつり上げた騎士の名は、ジルト・ステイク。今回のフェルス率いる遠征軍の副官を務める、名のある伯爵騎士だ。
「私だったら、まず縛り上げて、女が騎士たちの慰み物となるのを見物し、そのあとは牢獄に入れて、罪人どもに犯し殺されるのを毎日覗き見しますけどねえ」
楽しそうにそう言い、男はぺろりと唇をなめた。
「次だ」
 次に王子の前に引きずり出されたのは、大きな目に涙をためた、可愛らしい少年である年齢にしてまだ十二歳かそこらというところだろう。
「この子供は窃盗の罪です」
「ほう、なにを盗んだ」
「鳥のロースト一羽であります。下働きの給仕でありながら、いやしくも晩餐のテーブルからこっそり料理を盗み出し、不届きにもそれを持ちかえろうといたしました」
「なるほど。腹がへっていたのか?」   
 王子が尋ねても、少年は怯えた目を左右に動かすだけだった。
「いかがいたしましょう?」 
「ふむ、そうだな……」
 思案するように、王子は空を見上げた。
 初夏といっても、山地が多く、海抜も高いジャリアは、まだ小春のように涼しい。曇った灰色の空と、地平にうっすらと見える山脈の黒い影を、王子は何を思いながら見つめるのか。
「こども。お前の名は?」
王子は静かな声で尋ねた。
「答えよ!王子殿下のご質問だぞ」
 騎士に命じられると、少年はひっと声を上げ、がたがたと震えながら声を発した。
「……ウ、ウェルム……」         
「ウェルムか。それではお前の望みはなんだ?剣は習っているのか?」
「は……はい。王子さま」
「お前は将来何になりたい?騎士か、医者か、職人か。言ってみろ」
「あ……ぼ、僕は」
 少年は戸惑いがちにおずおずと答えた。
「その……僕、騎士になりたいです」
「ほう」
「僕は、馬が好きで……、騎士になったら毎日馬の稽古をして、それで早くお国のため、王子さまのために働きたいのです」
「なるほど。それは立派な夢だな。それで、何故盗みをした?」
「そ、それは……」 
 口ごもる少年に、王子はやや眉をつり上げた。
「時間がない」
「あの。友達に……、僕の友達に、騎士団の馬番をしている奴がいて、そいつが病気なので、なにか食べさせたくて……それで」
「調べたか」
「はっ。確かに。ワイトエルス公の騎士団にそのものの友人なる少年が、馬番をしておりこの数日病であるようです」
「そうか」
 騎士の報告にうなずき、王子はまた少年を見た。
「どうやらお前は、情に厚く、他人の為に身を危うくしてまで何かをする、強い勇気と意志も持っているようだな。確かに、あと何年かすれば立派な騎士になれるかもしれん」
「は、はい」
 少年はぱっとおもてを輝かせた。
 王子は微笑を浮かべて告げた。
「両足を切れ」
「は?」
 一瞬、困惑したような騎士たちに、王子は鋭く言った。
「聞こえなかったのか。両足だ。すぐにやれ」
「は……はっ」
 何を言われたのか分からないように、少年は呆然としていた。その腕を二人の騎士が乱暴につかみ、ずるずると引きずってゆく。
「足を切ったら、すぐに止血して手当てをしてやれ。それから書記」 
「はっ」
「これも忘れぬよう書き留めろ。いいか、あの少年のその後を観察するため、一人の騎士を、見習い騎士でもいい……つけてやること。足のなくなった少年が、これからどんな生き方をするか、騎士になるという夢を捨てるか、絶望して死ぬか、またはあきらめずなんらかの目的をもって生きるか、それが知りたい。そのうち俺は忘れるだろうから、一年に一度は報告しに来るように」
「はっ、心得ました。さっそく文書にし、それ相応の者を任にあたらせます」
「さすがはフェルスヴァーレイ殿下。考えられることが違いますなあ。じつに面白い」
 ジルト・ステイクがぱちぱちと手を叩く。
 王子は次の罪人を呼ばせた。連れてこられたのは町人風の中年男だった。
「お慈悲を、王子様」
 これまでの二人の問答を見ていたせいか、男の顔はすっかり青ざめていた。それでも一縷の望みをというように、男はひざまずき、深々と頭を垂れた。
「説明しろ」
「はっ。この者は石工であります。先の王宮の庭園改築のおり、国王陛下の大切にしておられますベルトラム神の彫像に傷をつけたのでございます」
「ほう。それは重罪だな」
「後生であります。どうか申し開きを!」 
 両手を組み合わせて懇願する職人を見下ろし、王子は冷たく言った。
「聞くだけは聞こう。ただし、陛下のご臨席が告げられたら終わりだ。俺はただちに謁見の間に行かなくてはならん」
「ははっ」 
 職人は額の汗をぬぐうと、何度も唇をなめ、話しはじめた。
「私は、このラハイン王宮の庭師、そして石工として二十年もお勤めしてまいりました。今回の庭園改築につきましては貴族様がたより多くの推薦をいただき、この私が陣頭指揮をとってまいりました。中庭の列柱廊、葦のパーゴラ、鳥舎、その他、噴水、彫像の配置換えに至るまで、つつがなく、完璧にこなしましたのでございます。それにつきましては王子殿下にもご覧いただければ、私の仕事が分かっていただけるかと思います」
 王子はふんと鼻をならした。 
「彫像に傷をつけたとか」 
「そ、それは……、修復可能であります。ほんの小指ほどの傷でございますから。それにこう申してよければ、そのベルトラムの像はすでに表面が劣化しておりまして、そろそろ補強、あるいは改修の時期かと。再びご命令いただければ、今度は完璧な像をお作りいたします。それはもう美しく、誇り高いベルトラムを。フェルス殿下のように気高い、力強い彫像をお作りしてみせますです」
「俺はベルトラムなど好かん。太陽神アヴァリス、またはいくさの神ゲオルグ、それが俺の神だ」 
「は、はっ、それはもう。それならば、もう一体、殿下のためにゲオルグの像をお作りいたしましょう」 
「ふん」
 王子が何か言いかけたとき、さっと近寄ってきたものがあった。いままで王子の背後に影のように控えていた、褐色の肌の大男である。男が何事かを耳打ちすると、王子はそれりにうなずき、軽く手を挙げた。
「ここまでだ。国王陛下が謁見の間に臨御され、私をお待ちのようだ」
「はっ、し、しかし……私は」
 顔をこわばらせた職人に、王子はゆったりとうなずいた。
「うむ。どうやら、そなたは優秀な職人のようだな。殺すのは惜しい人材と見た」
「は。ありがたきお言葉」
「私はもう行かなくてはならん」
 王子はマントをひるがえすと、最後に職人を一瞥した。
「ときに、お前は右利きか左利きか?」
「は?」
 何を訊かれたのか分からぬ様子で、職人は首をかしげた。
「どうした?俺はお前の利き腕はどちらかと聞いているのだぞ」
「そ、それは……」
 冷徹なまなざしが職人を凍りつかせた。職人は必死に思案するように、きょろきょろと目を動かし、ごくりとつばを飲み込んだ。
「……ひ、左利きでございます」
「そうか、よし」
 王子はうなずいた。
「なら助けてやる」 
「あ、ありがとうございます」
「俺もときどきは寛容な日もあるのだぞ。なにしろ、利き腕は助けてやろうというのだからな」
 それを聞いて、安堵しかけていた職人は、はっとして顔をあげた。
「右腕を肩から切り落とせ。いますぐにな」
「そ、そんな……、お、王子殿下!」    
騎士たちに命じると、もはや興味が失せたというように、王子は足早に歩きだした。 
「う、嘘です!さっきのは。本当は、私は右利きでございます!」
 職人は騎士たちに取り押さえられながら、離れてゆく王子の背中に叫んだ。
「右手は私の命……職人の命でございます。なにとぞご容赦をぉ!」
「嘘だと?この俺に向かって、お前は嘘をついたのだな?」
 立ち止まって振り向いた王子の横顔に、残忍な笑みが浮かんだ。
「では死刑だ」
「そ、そんな……」
「どうする?右手一本か、それとも死刑か?選ばせてやる」
「……」
「どうだ?さっきのは嘘なのか?」 
「い……いえ」
 職人は苦しそうに顔を歪めた。
「嘘では、ありません……」
「よかろう。では右腕がなくなろうともかまわぬな。お前にはまだ、利き腕の左手があるのだから。それから騎士たちよ。処刑は広場の隅ではなく、今その場でやるように。俺は歩くのが早いのでな、悲鳴が届くようにたのむ」
 そう命じると、「ハハハ」と声を上げて笑いながら、王子は去っていった。
「お慈悲を!どうか。ああ……右腕は。お慈悲を、殿下ぁ!」
 騎士たちに押さえつけられた男は、これから腕を切り落とされるのだ。
「ああああ!」
 絶望の悲鳴を背中に聞いても、王子はもう立ち止まらなかった。

「余興にもならんな。つまらん。父上の命で帰ってきたはいいが、こうも待たされるとは……」
「そうですなあ。罪人がたった三人では。見張りどもにもっと取り締まりを強化させませんと。とくに女。もっと女を多く捕らえてこいと」
 宮殿へと続く回廊を大股に歩いてゆく王子の横で、副官のジルトは、背後からの悲鳴に耳をそばだてながら、その顔に笑みを浮かべた。 
「ザージーン」
 王子が呼ぶと、二人の後ろに従う褐色の肌の男が顔を上げた。一応鎧は着てはいるが、その男の風貌は、騎士たちとは全く異なっていた。剃りあげた頭には奇妙な文字のような入れ墨が彫られ、尖った耳は奇妙な形で、刃物かなにかで切り取られたかのようにぎざぎざしていた。首の後ろのあたりからは薄い金色の毛がはみ出ていて、ジャリア人が黒髪であることからすると、その男だけはやはり明らかに異人種であるようだった。
「お前の剣の腕、ますます上がったな。あと百人も殺せば、陛下のご信頼も得られよう」
「有り難き幸せ」
 ぼそりとつぶやくように答えると、男は小さく頭をさげた。それきり男の顔にはなんの表情も浮かばない。その細い目の中に、どんな光が宿っているのかも分からない。ひとつ確かなのは、王子のことをひどく恐れているだろうこと、それだけであった。
 薄暗い回廊を渡り、奥まった廊下を進むと、その先に大きな扉があった。
 扉の両脇には槍を持った番兵が立っている。フェルス王子がうなずきかけると、番兵は急いで扉を開いた。
 王子と副官のジルトが扉をくぐり抜ける。従者はここから先には入れない。
 赤い絨毯の廊下をさらに進むとまた扉があった。今度は王子の背丈の二倍ほどもあろうかという大きな扉で、その前にフェルスが立つや、すでに来場が告げられていたのだろう、扉の 奥から銅鑼の音が上がり、そしてゆるゆると扉が内側に開きはじめた。
「ジャリア第一王子、フェルス・ヴァーレイ殿下、お出ましです」
 触れ係が大仰に告げる。
 扉が開ききるまで待ってから、王子は室内へ入っていった。
 天上の高い広間の中が一瞬ざわめきたった。
 数百の蝋燭を立てたシャンデリアに照らされて、玉座へ続く赤い絨毯を挟んで、左右にはジャリア王国の名だたる廷臣たちがずらりと並んでいる。
 人々の視線を一身に受けながら、王子は恐れげもなくつかつかと絨毯をふみしめ進んでいった。
 絨毯の先には、一段高くなった壇上に大理石で作られた豪奢な玉座があり、上方の壁には神々を模した巨大な絵画が飾られている。
 台座の前まで来るとフェルスはひざまずいた。長いマントが床に広がる。
「面を上げよ。王子、ここにきて無用な作法はいらぬ」
 ずっしりとした低い声が玉座から発せられた。
 フェルスは顔を上げた。こちらを見下ろす鋭い目と、王子の目が合った。
「大儀」 
 金糸で刺しゅうがほどこされた丈の長い鐘形外套(ウペランド)をゆったりと羽織り、鶏冠のような真紅のボネをかぶったジャリア王サディーム二世は、今年四十三歳になる。
 しわの寄った額に果断そうな太い眉、黒々とした口髭をたくわえ、尖った鷲鼻をしたその顔は、まるで辺境の戦士のように無骨な印象であった。肩幅も広く、がっしりとした体格は王子と同様である。
 その隣には、ジャリア王妃が彫像のように座っている。王妃エレノアはまだ三十の半ばほどであろう。宝石を散りばめた豪奢な紫色のドレスをまとい、結い上げた髪に高いヘニン帽をかぶり、つんとあごを上げた様子は、いかにもその気位の高さを示しているようだった。
「王子よ。何故このようにそなたを呼び戻したか、そのわけは分かっておろうな」
「御意」 
「ならば問う。ジャリア第一王子にして全軍を統帥する将軍、フェルス・ヴァーレイよ」
 王の声が重々しく謁見の間に響きわたった。
 立ち並んだ廷臣、諸公貴族たちは、はっとしたように二人に注目する。
 もとは勇猛な剣士でもあり、将軍として自らが前線に立ってもいたサディーム王である。王子のフェルスに全軍の指揮権を与えてからは、自らは王城での統治に専心し、かつての覇気は薄れはじめたかと囁かれてはいたが、王子と正面から対峙する王の額にはうっすらと血管が浮かび、その声には猛々しくも強い響きがあった。
「答えよ、フェルス」
「このサディームの命に何故に背いたか。そなたは二つの罪を犯したのだぞ。ひとつは、王であるわしに伺いをたてることなしに、独断にて時期を定め、ウェルドスラーブへ接近したこと。もう一つは、たび重なる帰還命令をことごとく無視し続けたこと。どうだ、申し開きがあるならば、わしと、我が重臣たちの揃うこの場にて釈明せよ」 
 広間に集う人々は息を呑んだように静まり、王の前でひざまずく黒い王子に目をやった。
 王子はしばらくじっと頭を垂れていたが、やがてその面を上げたとき、そこにはなんの表情も……恐れも、内省も浮かんではいなかった。
「恐れながら」
 乾いた、感情のこもらぬ声だった。
「陛下の命に背いたと仰せられますが、私にはそれがどのようなことか、よくのみこめませぬ」
 王はかっとしたように口を開きかけたが、黙って王子の言葉を待った。 
「まず一つめについてですが、ウェルドスラーブへの接近、侵攻に関しましては、以前の軍議での取り決め通りであります。たとえ、その時期が少々早まったからといって、いちいち首都王城に確認と伺いを立てるということは命令書にはありませぬ。また、軍を移動させるとともに、ウェルドスラーブ領内近くまで接近したことに関しましては、現場での決断です。つまり行動の決定、その機会を選ぶに際しては、もっとも効率よい方法と、的確な機を得ることこそが肝要。これは兵法の基礎であります」
「しかし王子よ、宣戦布告なく、装備した軍を連れて他国領土へ三エルドーンまで近づくことは、大陸法では禁止されておろう。先の軍議ではまず、ジャリア領内南端ぎりぎりに兵を集結させ、大陸西側に声明を出し、その返答しだいでまた次の行動を定めるという結論だったはずだが」
 主だった廷臣たちは、王の言葉に互いにうなずき合うと、口々にそれに賛同した。
「いくさは生き物です」
 それをさえぎるように王子は言った。
「いくら軍議で定められた事とはいえ、最終的な決定はすべて前線の状況を見て決めるもの。的確な判断、迅速な応対、それなくしてはいくさに勝利はありません。また、皆様もすでにご存じかと思われますが、ここで問題となるのは、このたびのウェルドスラーブ、そしてトレミリア側の反応です」
 王子の冷静さに気押されたように、王はちらりと横の王妃に目をやった。王妃は静かに王を見返し、うなずくでもなくまた正面を向いた。
 そうした王の態度や、自分を見るときの王妃の冷たい視線などには、まるで心も動かされぬというように、王子は淡々と言葉を続けた。
「ひと月ほど前、トレミリアの首都フェスーンにて、まれにみる大規模な剣技大会が行われました。これは我々の兵の動きが諸国に知られるところとなった、そのほんの五日後のことです。おそらくそれは剣技会の名を借りた大規模な兵集めであることは明白でしょう。しかも、もぐり込ませた間諜からの情報では、その大会中は綿密な闇討ち、つまりトレミリア騎士たちによる他国間者の謀殺が国家レベルの任務として行われたようです。これは明らかに、そこで集められた兵を編成して即座に配備するための処置。敵側……つまり我々に、それらの軍備に関する情報をなるたけ与えないというやり方です。また、そこには確実にウェルドスラーブからの要請、請願があったものと思われます。トレミリア王家の姫が数年前ウェルドスーブ王家に嫁いでからは、知っての通り両国の関係はほとんど家族同様になった。いうなれば身も実も同盟国となったわけです。ウェルドスラーブをつつけばかならずトレミリアも動く。そういう意味では、我々のやり方は予想どおりの結果を得たわけです」
 もはや口を挟むものはいなかった。王ですらこの堂々として、何者も恐れることなく、大胆な論説を声にするジャリアの王子を、ただ息を呑んで見つめるだけだった。
「つまりは、殿下」  
 廷臣の中から声を上げたものがいた。 
「このたびのトレミリアでの剣技会、つまり傭兵集めは、我々ジャリア軍の迅速な動きに反応したものであり、しかも、王子はそれを確かめるためにこそ命に反して進軍を行った、と申されますか?」
「その通り。さすがリーズ公」
 居並んだ重臣たちの中に公爵の姿を見つけると、王子はそちらにうなずきかけた。 
「トレミリアのこの急速な動き、軍配備、それが何を意味するものか。当然、抗戦です。当初仮想的国としていたトレミリア、そしてセルムラードは我々の動きに応じて、すぐさま……おそらく十日以内には軍を配備させるでしょう。どうです?これでもまだ、声明を出し、なおかつその後の諸国の対応をかんがみて、などという悠長なことができますか。すでに、どのみちいくさは決まっていたのですよ。それをどのように伸ばしても、結果が同じであるのなら。まず先に先手をとって、優位な状態に自軍を導くことが、それを司る将軍において、どれだけの罪といえるのでしょう」
 しだいに、廷臣たちの間でも賛同の声が上がりはじめた。
 王子の弁舌は鋭く、また冷静にして的を得ており、たとえ異論を唱えたいものがいたとしても、その勇気はなかった。多くはただ、ため息まじりに首を振るか、ぼそぼそと近くの知己である貴族と囁き合うのが関の山であったろう。 
「もはや動きだしたのです。あとはその流れをいかに先読みし、常に敵に対して先んじるか、それこそがが重要なのです」
  そう言って、広間をゆっくりと見渡す王子に、人々の間からは拍手も上がった。
「さて、二つ目といわれる私の罪ですが、幾度もの帰還命令に従わなかったということに関しまして。それについては、もはや言う必要もないかと思いますが」
 少し間を置き、王子は挑みかかるように父である国王を正面に見やった。サディーム王は微動だにせず視線を受け止めたが、その眼力は、浅黒い肌に灰色がかった目をもつ剛毅な息子の方に、明らかに分があるようだった。
「二万五千の兵のうち」 
 玉座を見つめながらも、しかしその目の先にはすでに別のものを映しているかのように、王子は穏やかに言った。 
「一万をアンマインに、もう一万をジャリア領内ぎりぎりのプセに残してあります。あとの五千は、実はウェルドスラーブ北端のバーネイ、そのマトラーセ川の対岸に布陣したままです」 
 王は何も言わず、ただその眉間に皺を寄せただけだった。
「このたった五千の兵の動きが、ウェルドスラーブを慌てさせ、トレミリアを動かしているのです。おそらく、かれらは二万のジャリア軍がすでにヴォルス内海の都市を占領し、アルディと共謀して半包囲をしいたものと考え、大慌てなのでしょうな」
「それも、おまえが一人で決めたことか?」
「父上」 
 一応はその声に儀礼的な敬意を含ませて、王子は薄く笑った。
「私とて軍事のなんたるかを学んだ身。ただ猪突猛進の能無しではございません。つまり、こう言って良ければ、私は父上の命令をそむいてはおらないわけです。ウェルドスラーブに接近しているのはたった五千の兵士。これは斥候兵といってよいもので、全軍をむやみに敵領内に近づけてはいません。むろん、今後のご命令しだいではただちに出撃可能なように布陣させておりますが。これで……いかがでしょう?」
「いまさら、とりかえしはできぬようにことを運んだな」
 王子はうやうやしく一礼した。
「帰還命令につきましては、このように命を守り、可及的すみやかに馳せ参じました。ただ、なにぶん二万五千の兵を残すわけですから、それなりの編成のし直し、詳細な待機命令を出すのに手間取りました。それが私の不手際と申されますなら、甘んじて咎を受けますが」 
「もう……よい」
 王は疲れたようなかすれた声で言った。
「では、再び私は将軍としての任に戻ってもよろしいと。軍の移動、布陣に関しての細かい部分は、これよりまた現場に一任していただけると考えてよろしいでしょうか」
「好きにするがいい」 
「はは。ジャリアの将軍として恥じない働きを、ここにお誓いします」
 フェルスは頭を下げると、ちらりと王妃の方に目をやった。冷たく、まるで憎しみのこもったような王妃の視線に、彼はかすかに口の端をつり上げた。
 王は最後に、居並んだ諸公たちに向けて、「意見、質問あるものは述べよ」と、いくぶん力ない声で告げたが、誰も進み出ようとするものはいなかった。
「それでは、これにて。私はまた任に戻りたく思います。兵たちが気がかりですので」
 王子はすっと立ち上がり、国王と王妃に一礼すると、かちんと拍車の音をたてて踵をかえした。
 大股で絨毯をふみしめてゆく、その黒い嵐のような鎧姿を、人々は感嘆と畏怖をもって見送った。諸公たち、そして国王でさえも、王子が謁見の間から退出するまで、重苦しい沈黙に支配され、言葉を失っているようだった。
「さすがですな。お見事な弁舌、外で聞いておりましたよ」
 扉のすぐ外に控えていたジルト・ステイクがうやうやしく頭を下げる。
「つまらぬ時間をとった。すぐ戻るぞ」  
「も、戻るって、まさか今からプセまでですか?」 
「当然だ」 
「し、しかし、少しくらい休みませんか王子。行きだって一日半、たった一刻休んだだけで馬をとばして、これで帰りもじゃ身が持ちませんぜ」
「だったらお前はここに残るのだな。そのかわり副官は解任だ」
 無表情に言い放つと、王子はそのまま歩きだした。
 回廊の先で控えていた大男のザージーンを付き従え、マントをなびかせ行く王子の後を、副官はあわてて追いかけた。


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