水晶剣伝説 U ジャリアの黒竜王子

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  クリミナ・マルシイ

「そうですか。それでは、」
 汗ばんだ手を握りしめて、彼女は、思わずというように立ち上がっていた。
「ああ、それでは……」
「うむ。伯がそこまでいうのなら、そのようにとりはからうがよろしかろう。異存はありませんかな、皆様」
 ロイベルト公爵の問いに、人々は無言の肯定を示すように黙り込んだ。同時に、会議室から先程までの重々しい空気は消え、座席の人々は一様に、「やれやれ」といった面持ちで顔を見合せ、うなずき合う様子だった。
「では、決定する」
 宮廷会議の議長を務めるロイベルト公爵が、重々しく決定事項を読み上げる。
「本日よりトレミリア宮廷騎士団は、ここにおられるオーファンド伯爵を後見とし、実質の責任者セルディ伯爵のもと、これまで通り存続することを。ただいまここにおられぬマルダーナ陛下に代わりってこの私が、この閣議における任命権、決定権を行使させていただく。この決定はただちに明文化され、この会議終了後、一両日以内の三名以上の反対なければ、もって正式の事項となるものとする」
「ああ……」
 それを聞いて、祈るように両手を組み合わせていた彼女は、ようやく安堵の息をついた。それは誰あろう、トレミリアの女騎士……宮廷騎士長、クリミナ・マルシイである。宮廷騎士団の正装である白を基調とした胴着と足通しに、団長を示す深紅色の短マントを羽織った姿は、まさにトレミリアの誇る女騎士……カルヴァの花のような凛々しさで、どんな場所にいても貴族たちから注目され、視線を集める存在であった。
 会議の終了が告げられると、クリミナは、席を立ってゆく貴族たちの中で、その相手を探した。
「オーファンド伯」
 会議室を出たところを呼び止めると、足を止めて伯爵が振り返った。
「おお、これは騎士長どの」 
「伯、この度の伯のご尽力には、まったくお礼のいたしようもありません」
 いくぶん頬を紅潮させて、クリミナは感謝の言葉を伝えた。
「なにぶん、若輩の身の私たち……宮廷騎士団にとりましては、今回の件、なにもいたしようもなく、まことに情けないかぎりであります。伯の多大なるご厚情、決して忘れません。あらためて何度でもお礼を申したいほどです。そして今後は、己の未熟さを肝に命じ、いっそうの努力と精進をいたす所存であります」 
 女騎士が深々と頭を垂れる。美しい栗色の髪がさらさらと落ちかかる。
「いや、騎士長……クリミナどの」
 伯爵はゆったりと首を振り、
「そのように大げさな謝辞などはご無用、さあ顔をお上げください」
 その顔に穏やかな笑みを浮かべながら、少し白くなりかけたあご髭を撫でつけた。
「いいですかな、私はなにも、あなたにそのように有り難がられるためにこの提案をしたわけではありませんよ。宮廷騎士団という、その伝統ある組織の必要性を感じたから、このようなことでそれがあっさりと消えてしまうのは惜しいと思った。ただそれだけのことです」
「でも、わざわざ伯みずからが後見に立ってくださるなんて……」
「それはもう、私が提案したことですからな。誰かが手を挙げねば議会が終わらない。お茶の時間に間に合わないと、そういうことです」
 そう言って伯爵はにやりと笑った。緊張から解放された安堵もあって、クリミナの顔にも思わず笑みが浮かぶ。
「さて、ゆきましょう」
 二人は並んで回廊を歩きだした。女性にしては背が高いクリミナは、横に並ぶオーファンド伯とほとんが変わらないくらいであった。むしろ騎士としての訓練を日々続けている彼女の方が、すらりと背筋を伸ばし、美しい姿勢をしていたかもしれない。
「この時間がいちばんいいようですな。この庭園の眺めは」
 回廊から眺められる広い中庭は、陽光にきらきらと輝く池や、花々の植えられた大きな花壇、白い円柱のアーチなどが美しく配され、そこを通るものの目を楽しませてくれる。
 フェスーン城へと続く丘の中腹にある、この貴族院は、宮廷の主立った貴族たちが集まり定例の会議を行う場所である。すぐ隣には「蔦の小殿」と呼ばれる儀礼用の建物があり、たとえばこの会議場で決まった騎士の叙任式などもすぐにとりおこなうこともできる。先日、剣技会で優勝を果たした黒髪の浪剣士が騎士に叙されたのもその場所である。
「本当、きれいだわ」
 二人はそれらの景色を楽しみながら、ゆっくりと歩いていった。ときおり通り掛かった侍女や女官たちから頭を下げられると、伯爵はそれに笑顔で手を振り返す。
「まあ、本当ならば、私自身が騎士団の直接の責任者も兼ねられればよかったのですが。あいにく私は別に城壁の監督責任者もやっていて、そうもいかない。そこで甥のセルデイにおしつけることにしました」
 オーファンド伯は冗談めかして言った。
「まあ……、でもセルディ伯はその事は承知しているのですか?」
「いいえ。まだなにも」         
「でもそれじゃ……」
「大丈夫ですよ」
 そう言って、いたずらそうに片目をつぶってみせる。
「セルディのやつはね、あなたのファンですから」
「はあ?」
「まあ、それを言ったら、この私めもね、いうなれば、麗しの女騎士、クリミナ・マルシィ殿のとりまきのようなものですがね」
 伯爵はほっほっと笑い声をあげた。歳の割には、洒落の分かる優雅な貴族であることを、おそらくは伯自身も自負しているのに違いない。女騎士はなんと言ってよいか分からず、つられるように笑顔になって、首をかしげるのだった。
 ともかく、ここ数日の最大の懸念は、霧が晴れるようにすっきりと払拭された。庭園の出口で伯と別れると、クリミナはなんとなくすぐには馬車に乗る気にはなれず、散歩もかねて気に入りの場所に立ち寄ることにした。
 そこは庭園のはずれ、木立に囲まれたところにある、小さな泉だった。静かでひっそりとしたこの場所が、クリミナのお気に入りであった。
 泉のふちの石に腰を下ろすと、彼女はほっと息をついた。 
「よかった……」
 膝を抱えて泉の水面を眺めながら、水辺に咲くアイリスやビンカなどの花々を見つめていると、その顔にやわらかな微笑があふれてきた。人前ではけっして見せぬその表情は、この奥まった庭園の一角においては、いかに普段は騎士として強くあろうとする彼女とても、実際には繊細な感性をもつ、ただのうら若い一人の女性であるということを物語っていた。
 それから思い切って草の上に横になる。しっとりとした草の感触と匂い……土と緑の息吹が感じられる。クリミナはそっと目を閉じた。
「よかった……」
 その口から、もう一度、小さなつぶやきがもれる。 
 実際のところ、彼女の安堵というは相当に大きかった。
 トレミリアの宮廷騎士団、その騎士団長を務めるクリミナ・マルシイにとって、騎士団とはかけがえのない生活の場であり、そして唯一の帰るべき家であった。
 幼いころより騎士としての訓練を始め、十二歳のときに見習いとして宮廷騎士団へ入団した。それからは朝夕を問わず、剣や馬術の稽古に明け暮れ、強くなること、ただそれだけを考えてやってきた。そうして、彼女はいつしか宮廷において、他の姫君たちとはまったく異なる生き方を選んだ、自分という存在を発見していた。
 生まれの高貴さという点では、トレミリア王家に次ぐ大貴族の血を引いていたが、それは彼女にとってはなんのステータスにもなりはしなかった。優雅なドレスに身を包んでにこやかに貴婦人の礼をすることよりも、馬を駆り、剣をふるう生きかたをこそ彼女は選んだのだ。そのせいで、「男まさりの姫君」、「生まれ損ないの女剣士」などとも、陰口をたたかれることもあったが、彼女自身は、そんな周りの好奇の視線などにはへこたれもせず、ただ黙々と日々の鍛練をこなし続けた。
 そして去年、十八になったクリミナは、ついに第三十二代のトレミリア宮廷騎士団長となったのだった。無論のこと、女性が騎士団の長となるなどということは、この国はじまって以来のことである。当初はそれについて宮廷内でも色々と物議をかもしたものだが、彼女の見事な剣の腕前やその毅然とした振る舞い、そして美しく凛々しい容姿もあいまって、人々はしだいにこの女性騎士の存在を認めはじめていた。とくに女官や侍女たちからは、その男装の麗人めいた姿は憧憬の対象ともなり、日に日に宮廷の人々の話題や噂に上ることが増えると、女騎士クリミナへの人気はしだいに高まっていった。また彼女自身も、それに応えるよう、いっそう自らの責任と誇りとを強くして、日々の稽古に励み、己を鍛えていったのであった。
そんなとき、国をあげての大剣技会で起こったあの事件が、にわかに宮廷騎士団の存続を揺るがすこととなった。
すべての発端は、北の大国ジャリアが、リクライア大陸西部の七大国が交易や安全の保証などのために設けた「大陸間相互援助会議」から一方的に脱退し、なんの声明もなしにトレミリアの友国である東の海洋国ウェルドスラーブの北の国境と、ロサリート草原の街道ぞいに兵を布陣させたこと。それが今からふた月ほど前のことである。
 そのように緊迫した情勢下でトレミリアの剣技会は開かれた。裏返せば、これは国内からの優秀な兵力の徴集を目的とした大会で、いうなれば対ジャリアへの軍備を早急に整えたいという軍策でもあった。また予想されるのは、これに乗じて国内に入り込んでくるであろう敵国からの間者の類で、トレミリアの騎士たちに与えられた任務は、これらの間者、密偵の侵入を未然に防ぎ、剣技会の期間中に密かに抹殺することであった。
 その任務自体は、クリミナやローリングをはじめとした騎士たちの活躍もあって、ほぼ完全に遂行されたといってよい。ただ、予想もしなかった事件がその大会の裏では起こっていたのである。軍事関係の要人であったモランディエル伯の売国行為の発覚……他国の間者から金を受け取り、かわりに国家の内部機密を渡していたという、伯爵の売国の事実が露見したのだ。そして、それは二人の浪剣士の活躍によるものであった。
 大会で優勝した当の浪剣士には、賞金とともに宮廷騎士の地位が与えられ、トレミリア宮廷に迎えられた。クリミナにとっては、たとえそれが大変な陰謀を防いだ英雄であろうとも、名も知れぬ一介の浪剣士などが、栄えあるトレミリアの宮廷騎士になることには少なからず抵抗があった。しかし、そうした感情的なものよりも、もっと実際的な問題が発生した。
売国の罪で投獄されたモランディエル伯は、もともとが宮廷騎士団の後見人であり、伯爵はそのつてを利用して、自分の甥であるビルトールを騎士団に入れていた。今回の陰謀においても宮廷騎士としての彼の存在を利用したことで、人々からは当然のように、前代未聞の裏切り者がいた宮廷騎士団などは即刻廃止すべきだという意見が、定例会議の場で出されたのである。会議場に集まった人々はうなずき合い、その意見に暗黙の賛成を示した。また、宮廷騎士団はずっとモランディエル伯の出資によって成り立っていたので、その援助がなくなれば自動的にその運営は困難になる。そうなれば当然代わりの後見人が必要になるのだが、投獄された伯爵の後を受けて、名乗り出るような貴族は誰もいなかった。
 クリミナは人づてでそのことを知ると、次の会議には自らが当の騎士団長として出席し、人々に向かって宮廷騎士団の重要性、その伝統などを必死に説いた。しかし、実際的な貴族たちの多くは、たかだか若造の集まりにすぎぬ宮廷騎士団が存続する必要性はさしてないだろうと首を振った。そのようにまったくよい反応が得られぬまま、次回の会議において宮廷騎士団の廃止が決議されることになった。
 クリミナはこれが最後の望みとばかりに、本日の会議において、議長であるロイベルト公爵や宮廷の重鎮たちに向かって、引き続き宮廷騎士団の存続を声を枯らして嘆願した。資金的な面はそれぞれの団員が持ち寄ったりして何とかできるし、後見人がいないのなら自分がそれを兼ねてもよいと、彼女は顔を蒼白にして訴えた。クリミナにとって、宮廷騎士団の廃止とはすなわち、自分の居場所を奪われることに他ならなかったのである。
 だが、その必死の抗弁もむなしく、ついに騎士団の廃止が決議されることとなった。彼女は座席に座り込み、ほとんど絶望しかけていた。そのときである。一人の貴族が立ち上がった。それがオーファンド伯爵だった。
 人々からの信頼も厚く、宮廷会議においても一目置かれる伯爵の口から、後見人としてある程度の身分あるものがつくならば騎士団の存続を認めてもよいのではないか、という譲歩案が出されると、それに反対するものはなく、その提案は認められた。そして、今ここで後見に立つものあらば、騎士団の存続を認めるという運びとなった。
 静まり返った会議場……それは、クリミナにとってはまさに緊張に震えるような時間だった。会議終了の時間が迫っていた。まったく誰も名乗りを上げる様子もないまま、やがて午後の三点鐘が鳴った。クリミナは再び席上でうなだれた。
議長であるロイベルト公爵が閉会の声を発しようとするとき、立ち上がったのは、またしてもオーファンド伯爵だった。注目する人々の前で、伯爵は自らが騎士団の後見を買って出た。そして責任者には、甥であるセルディ伯が就くと。異論を唱えるものはなく、ロイベルト公爵の口から正式にそれが承認されると、クリミナは震える拳を握りしめ、ただ涙をこらえるのに精一杯だった。
 宮廷騎士団は晴れてその存続を許された。クリミナ・マルシイは、騎士団長としての自らの存在意義を取り戻したのだった。
(オーファンド伯は恩人だわ……。騎士団だけでなく、私自身の)
 さわさわと風に揺れる木々を見つめながら、クリミナは心からの安堵と希望が、胸の中にしみ入るように広がってゆくのを感じていた。
 トレミリア王国において、「騎士団」と呼ぶものは大きく分けて三つある。ひとつは国王直属の騎士たち……つまり国王に唯一の誓いを立て、歯向かうものは同胞といえど立ち向かう近衛騎士団。二つめは、現在王国に十一人いる公爵に仕えるそれぞれの騎士団……彼らは自分たちの仕える主と忠誠と契約によって結ばれ、戦時においては国家を守ると同時にその主のために戦う、いわば公爵たちの私設軍である。
 そして三つ目が宮廷騎士団である。基本的には主というものを持たず、宮廷内における警備などを受け持つ組織であり、私的な契約や特定の主への忠誠はもたない。それはある意味では、宮廷内の自発的な奉仕グループといってよいかもしれない。
 宮廷騎士団に参加できるのは、主に十六歳以上の身分ある貴族の若者たちで、彼らはここで騎士としての腕を磨き、退団したのちは父の身分を継いだり、別の正規の騎士団へ入団してゆくのが常だった。また十六歳に満たないものは見習いとして参加し、剣術馬術の手ほどきを先輩騎士たちから学ぶのある。つまり、宮廷騎士団とは大人の騎士になるための養成機関でもあり、宮廷貴族の若者にとってはそこに入ることが一つのステータスにもなっていた。
 その宮廷騎士の団長を務めるクリミナ・マルシイにとっては、騎士団のない生活など考えもつかなかったし、それがなくなるなどということは、決してあるはずがないとずっと思っていた。だから、今回の剣技会に置いての一連の事件……それが騎士団の進退にまでおよんだ経過について、彼女はひどく驚き、ショックを受けたのだった。
(そう、でも、そうなのだわ。永遠に続くものなんてない。まして、宮廷騎士団は正規の騎士団とは違う……誰かがお金を出してくれ、その存在を認めてくれなくては存続できない、小さなものなんだ)
(でも、それでも……私にとってはここがすべての居場所。女の私には……)
(ああ、そうなんだ。いくら否定しても、私は女で、いずれは誰かのもとに嫁いだり、馬に乗るのをやめて何か別の仕事をしなくてはならない……)
 そんなことは、いままでちゃんと考えてみたこともなかった。いや、頭の片隅にはそうした思いがどこかにあったことは確かだったが、あえてそれを引っ張りだして思い悩むことはしたくもなかったし、どうせ考えても無駄だと意識の奥底にしまい込んでいた。
(私以外の者たちは、いずれはみんな親の爵位を襲名し、自分の騎士団をもったり、またどこか他の正規の騎士団に入るためにここを去ってゆく……)
(でも私は……)
(私は、このあとどこへ行けばいいのだろう?)
 晴れ渡った空にゆったりと流れてゆく雲を見つめながら、彼女は答えの出るはずもないその問いにしばし対峙した。さわさわと揺れる緑の梢、美しいアイリスの花々が彩るこの庭園で、彼女はただ一人だった。 
 午後の三点鐘を告げる鐘が遠から響くと、クリミナは顔を上げた。
「いけない。午後の稽古の時間だわ」   
 さっきまでの思いを振り払うように立ち上がると、彼女はそれでも今朝よりはよほど晴れやかな顔で、急ぎ庭園を後にした。

「クリミナ様!」
「クリミナ様だ……」 
 宮廷騎士団の稽古場である練馬場には、すでに騎士たちが集まっていた。自分たちの騎士長の姿が見えると、かれらは駆け寄ってきてクリミナを取り囲んだ。
「クリミナ様!」  
「会議はいかがでした?」 
「この騎士団は本当に廃止になるのですか?」
 一様に緊張した様子で問いかけてくる若者たちを、クリミナは驚いたように眺めた。
(そうか、私だけじゃないのね。不安だったのは。知らなかったわ。……いいえ、ただ気づかなかっただけね)
「まず、結論からいいます。この宮廷騎士団は、今後ともいままで通り存続します」
 固唾を呑んでいた騎士たちは、クリミナがそう言うやいなや歓声を上げた。
「本当ですか?クリミナさま」
「ええ。これからも、ずっと……」
 騎士たちを見回してうなずきかける、その言葉はほとんど自分自身に言い聞かせるかのようなつぶやきだったが、団員たちにはそれで十分だった。 肩を抱き合って満面の笑顔を見せるかれらに、クリミナも思わず笑みをもらした。 
(皆がこんなに、この騎士団を好きで、必要としていたなんて)           
 それからクリミナは軽く手を上げ、踵を合わせて直立した。とたんに喜び騒いでいた騎士たちも口を閉じる。 
「さあ、もう稽古の時間は始まっている。いつも通り始めよう」
 そう告げて、彼女が腰の剣に手をやると、整列した騎士たちがそれに習い、唱和する。
「いつも通り始めよう」
 かれらがそれぞれに広場に散ってゆくと、すぐに気合いの入った掛け声と、剣の合わさる高らかな響きがあちこちから上がりだした。


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