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水晶剣伝説 XIII 北へ、


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 その翌日は、数日ぶりに道場に威勢のいい掛け声が響いていた。木剣を振る若者たち、その数十人を指導するのは、アレンとカシール、そして本日から師範に加わったエドランであった。
「よし、いいぞ。もっと早く、打ち下ろすんだ」
 猛々しいエドランの声が飛ぶと、剣を振る若者たちにもいっそう力が入る様子だった。アレンとカシールの優雅と言ってよい二人に、いかにも歴戦のつわものめいたエドランが加わったことで、道場の空気はより張詰め、実戦的な緊張感をともなっていた。
「よし、ではいったん休憩ののち、みな外へ」
 素振りがひと段落してから、アレンがそう告げた。
「本日も本物の剣を手にしてもらう。今日は、五十本の剣がある。ほぼ全員に行きわたるだろう」
 それを聞いた若者たちが歓声を上げる。少しの休憩をはさんで、外へ出たかれらは、庭園の一角に居並んだ。次々に剣が手渡され、ずっしりと重みのある剣を手にすると、かれらは目つきを変え、持つのが初めてのものは緊張の面持ちで、少し慣れたものは、すでに実戦を戦う剣士といった様子で、それぞれに剣を鞘走らせるのだった。
「では、まずは基本の型からだ。はじめ」
 すぐに広場には、大きな掛け声が響き始めた。
「そこ、腰を入れろ。一撃で叩き落とすようにやるんだ」
「はいっ」
 厳しいエドランの指導に、若者たちは汗まみれになりながら、必死に剣を振った。エドランの方も、剣を教えるということに、ずいぶんやりがいを覚えているようで、ときに自分で剣を手にして、細かく動きを指導していた。アレンやカシールの負担が減ったのはもちろん、それまでは不真面目だったような一部の入門者も、エドランが目を光らせるおかげで、攻撃の型や防御の型に本気で取り組まねばならなくなっていた。これでは脱落して来なくなるものもいるに違いないが、もともと実戦で使える兵力を育てるのが目的であったので、それはそれで問題はなかったのだ。
 一刻ほどの間、みっちりと剣を振った若者たちは、汗だくになってその場に座り込んだ。途中で腕が痛くなって、剣を下ろしたものも何人もいたが、ほとんどのものが最後まで剣を振り続けた。
「よし、今日はこれまでだ」
 満足そうに若者たちを見回し、アレンが告げた。
「みんな、よく頑張ったな。明後日にまた会おう」
「はい。ありがとうございました」
 声をそろえた若者たちは、鞘に戻した剣を胸に当て、騎士の礼をした。こうした一体感を教育することも、優秀な兵力を作るには必要だとアレンは考えていた。
 若者たちが解散してゆくなか、周囲にいた見学者の中から、一人の少女が歩み寄ってきた。恐れげもなくアレンとカシールの前に来ると、
「ねえ、私も剣を習いたいんだけど」
 その少女は唐突にそう言った。ややブラウンがかった黒髪をきゅっと三つ編みにした、可愛らしい少女である。
「おや、君は確か、ロンの友達の」
「ティムだよ」
 カシールはその娘に見覚えがあった。これまでもよく、稽古の見学に来ているのを見かけたことがある。
「そういえば、今日はロンの姿が見えないようだが」
「うん。今日はお店の手伝いがあるんだってさ」
「そうか。では君もおうちにお帰り、ティム。お母さんが心配するだろう」
「そんなもの。いやしないよ」
 少女はにやりと笑った。
「とうちゃんはあたしを捨てて、どっかへ行っちまったんだって。かあちゃんはあたしが小さなころに死んだよ」
「そうなのか。それは、つらいことを聞いた」
「つらくなんかないさ。あたしはもう、今年で十四になるよ。来年は十五だよ。そしたらもう結婚したっておかしくないでしょ」
「な、なるほど。君は少しおませさんなんだね」
 カシールの言葉に、少女はむっとしたようだった。
「私だって、剣で戦いたいし、自分の身は自分で守りたいんだよ。悪いのかい?」
「いや、もちろん、悪くはないんだが……」
 困り果てたようなカシールに、アレンがずくすりと笑いをもらす。
「なるほど。君は意志が強くて、勇ましい女性なんだね」
「あ、うん」
 アレンに声をかけられると、少女はとたんにもじもじとした。
「でも、剣はまだちょっと君には早いかな。もう少し大きくなったら、そうだな。細身の剣、レイピアなら教えてあげよう」
「本当に?本当だね?」
「本当ですよ。お姫様」
 アレンの言葉に、少女はうっすらと頬を染め、その目を輝かせた。そうすると、その表情には不思議な気品が漂うようだった。 
「ティムと言ったね。ところで君は、この屋敷に、これまでも何度も来ているのかな?」
「……」
 ティムは首を傾げた。何を訊きたいのか分からないというように。
「一人でこの屋敷の門をくぐるには、勇気がいるだろう。もしかして、君は、以前からよくこの屋敷のことを知っているのではないのかな?」
「うーん。たぶんね」
 曖昧に答えた少女に、アレンはにこりと優しく微笑んだ。
「僕は、怪しいものじゃないよ。安心していい」
「……」
「じゃあ、最後に、ひとつだけ教えて」
 アレンは懐からそれを取り出すと、少女に見せた。
「この指輪を、君は知っているかな?」
「……」
 目の前にさし出された銀の指輪を、少女はじっと見つめた。その目が、少しだけ見開かれたようだった。
「ううん、知らない」
 少女は首を振った。
「そうか。ありがとう」
 アレンは指輪をしまうと、少女に手を差し出した。
「いつかきっと、レイピアを教えるからね」
「うん。あのう……」
 少女はまたもじもじとして言った。
「レイエンさま、って呼んでいいかしら」
「いいですよ。光栄です」
 すると少女の顔がぱっと輝いた。花のような笑顔で、ティムは手を振った。
「レイエンさま、じゃあまたね」
「また、会いましょう。カシール、門まで送ってあげてくれ」
「はい」
 少女は歩きながら、何度も振り返ってはこちらに手を振った。アレンもその場から動かず、その姿が庭園の木立の向こうに消えるまで見守っていた。
 ややあって戻ってきたカシールは、なんとなく釈然としないという様子だった。
「レイエンさま。あの子が、なんだというんです」
「というと?」
「あの指輪まで見せて。なにかをお疑いなんですか?」
「まあ、そうだね」
 アレンはふっと笑って見せた。この金髪の貴公子が、こうして曖昧な物言いをするときは、それ以上は決して話してはくれないということを、カシールはよく知っていた。
「ところで明日は、昼間はずっと留守にするよ。君の方は、例の書状を飛脚に頼んでおいてくれ。明日の夜にまた相談しよう」
「分かりました」
 カシールはうなずいた。余計なことを尋ねても仕方がない。ひとつだけ確かなことは、これから事態が大きく動き始めるに違いないということだった。

 その翌日は道場は休みで、アレンは宣言通り、朝早くから姿を消していた。カシールは、与えられた仕事をこなすと、道場へおもむき己の剣の訓練をした。それから若者たちの名簿を見ながら、あれやこれやとエドランと共に相談をした。
 日が沈む頃になって、アレンは屋敷に戻ってきた。部屋で待っていたカシールに、満足そうにうなずいてみせ、何食わぬ顔で、伯爵やメリッサの待つ夕食の場へと出向いて行ったのだった。
 さらにその翌日、
 この日の稽古は、木剣ではなく、最初から本物の剣を持たせてのものだった。五十人ほどの若者たちが、庭園の広場で剣を振り続け、アレンとカシール、そしてエドランはかれらを指導しながら、見込みのありそうな者に近づいて行って直接声をかけ、自ら剣を手にして模擬的な戦いの動きを教え込んだ。剣と剣がぶつかり合う、その音の迫力に、若者たちは息を飲み、また己の腕を磨くべく、勇んで剣を振り始めるのだった。
「よし、今日はここまでだ。これから、名を呼ばれたものは残ってもらえるかな」
 一刻半ほどの稽古ののち、アレンがそう告げると、若者たちは顔を見合わせた。今日の稽古といい、いままでとは何かが違っていたと、かれらは気づいたのかもしれない。
「スウェン、レオン、トッド、ボバン、この四人は少し残ってほしい。他のものは解散してよし。ではまた明日」
 名を呼ばれたものが前に進み出る。他のものたちは、少しざわつきながら、それぞれに屋敷から去っていった。
 アレンは、そこに並んだ四人の若者を見渡し、言った。
「君たち、四名は剣の腕も優秀で、腕力、体力、技術などに見込みもあり、そして勇敢な精神を持っているということで選ばれた」
 四人の若者は、緊張と嬉しさに顔を紅潮させた。
「ここで改めて問う。君らはジャリアのために、戦い、命を懸ける勇気があるか。そうではないものは、ここから去ってかまわない」
「……」
 並んだ四人は微動だにしなかった。
「それでは、我々とともに、命をかけ、戦う決意があるとみなしてよいのだね」
「はい」
「ジャリアのために」
「戦います」
「私も、戦います!」
 四人は口々に答えた。アレンは満足そうにうなずいた。五十人の中から選ばれただけあって、四人ともが強い意志を感じさせる顔をしていた。
「スウェン。君にはもっと長い剣がいいようだな。用意しておこう」
「ありがとうございます」
 スウェンと呼ばれたのは、身長の高い若者で、横幅はまだ細いが、鍛えればさらに筋肉がつきそうなしなやかな体躯をしていた。
「レオン。君はむしろ、短めの剣がいいかもしれない。いずれカシルから二刀を習うといい」
「はいっ」
 こちらは、背はカシールよりも少し低いくらいだったが、とても素早い動きができて、剣の腕も筋がいいと選ばれた若者だった。ネズミのように出っ歯なのが特徴的である。
「トッド」
 無言でうなずいたのは、黒髪を短く刈り込んだ、いかにもジャリア人らしい若者だった。剣の腕も立ち、呑み込みが早いので、エドランが指導するとすぐに上達したという。
「そして、ボバン」
 最後に名を呼ばれたのは、がっしりとした体躯で筋肉質の男であった。歳はアレンよりも少し上かもしれない。その眼はぎらぎらとして、いかにも戦士に向いていそうな雰囲気であった。
「君たちには、剣の腕前だけでなく、それ以上のことを期待している。いずれ部下をつけ、隊長になってもらいたいと思っている」
「おお」
 ボバンが拳を握りしめた。他の者たちもそれぞれにその顔を緊張させている。ただの市民であった自分が、いよいよジャリアのために戦えるときが来るのだと、湧きたつような思いがあることを、その表情が物語っていた。
「それぞれに、もっとちゃんとした剣と装備を与えよう。そして、まず初めに、大きな任務を我々と一緒にこなしてもらいたい。そして、これから話すことは決して他言せぬよう。たとえ友人にも、親や兄弟にもだ。この仕事が、この国を取り戻すための第一歩となるのだ。これがうまくいかなければ、この先はない。だが、君たちには十分にその力がある。これから道場の中で詳しく話そう」
 アレンは四人の若者を見渡し、
「最後にもう一度、猶予を与える。戦う気持ちのないものは去ってけっこう。ただの剣術修行だけしているのでは世界は変えられないのだ。我々と一緒にゆく覚悟のあるものは、付いてきて欲しい」
 それはむしろ、淡々とした口調であったが、人々を率いるための強い意志と、誇り高い覚悟とを感じさせた。居並んだ四人のうち、誰もここから去るものはいなかった。

 そして、その夜は、伯爵と約束した三日後の夜であった。
 夕刻前に、アレンは自ら伯爵の部屋の扉を叩いた。
「おはいり」
 いつもの落ち着いた声。相変わらず薄暗い室内に入ると、伯爵はアレンを手招きした。
「さあ、こちらへ」
 テーブルの上には杯が二つ置かれていた。伯爵の向かいに座ると、さっそくそこにたっぷりとワインが注がれた。
「今日はきっと、記念すべき夜になるね」
「すべての準備が整いました」
「そうか」
 機嫌良さそうにうなずくと、伯爵はワインの入った杯を手にした。
「君もやりたまえ」
「その前に、ひとつ確認をさせてください」
 もはや、前置きや無駄話はする必要もないとばかりに、アレンは切り出した。
「この指輪は、伯爵のものですね」
 自室に落ちていたあの銀の指輪を取り出すと、それをテーブルに置く。
「そう……思うかね」
「はい。もっと言うと、伯爵の前の夫人か、あるいは恋人のもの。そうですね」
「なんと、短い間によくも調べられたな」
 ワインを飲み干した杯を置くと、伯爵はにやりとした。いつになく楽しげな顔であった。
「この指輪は、女性のものには間違いがない。内側に書かれたのは古代アスカ文字です」
「君には、やはりそれが読めるんだね」
「はい。我が愛する娘へ、と」
「ふふ、私の思っていた通りのようだ」
 笑みを浮かべながら、伯爵はまたワインを注いだ。
「そのご婦人は、アスカ貴族の血を引くお方だったのですね」
「そう。アリオナとは、二十年前にこの町で出会った。私は領主の息子として、そろそろこの屋敷と伯爵の称号を受け継ごうかという頃だった」
 黄昏色に染まり始めた窓の外に目をやり、昔話を語るように、伯爵はゆっくりと話し出した。
「アスカの現皇帝エードランド四世は、当時はまだ戴冠前で、アスカ皇子として、首都ラハインへ赴こうとしていた。二十四歳でジャリア国王に即位した、サディーム王の祝賀行事に出席するためだ。当時、ジャリアは新興の国家で、このトラウベの町はまだ地方の自治都市にすぎなかった。ラハインへ向かう途上のアスカの皇子一行は、この町に立ち寄り、領主であった父の屋敷、すなわちこの屋敷で一夜を過ごしたのだ。私の父は四十半ばにしてすでに病気がちであったので、かれらをもてなすために奔走したのは母であり、領主の代理として皇子に挨拶をしたのはこの私だった。そこでアリオナと出会った。アリオナは皇子のお目付け役であったフィーデス公の娘で、当時十八歳だった。艶やかな黒髪をした、見た感じは少し地味な印象だったがね。私はすぐに好意を持ったよ」
 当時を思い出して、伯爵の目には、情熱的な光が一瞬宿ったようだった。
「短い晩餐だったがね。私は彼女の向かいに座り、皇子に気を遣いながらも、彼女と言葉を交わすのに夢中だった。彼女は長旅に疲れていたのだろう、翌朝になって熱を出してしまった。皇子の一行は予定をたがえることはできず、彼女と侍女を残して、そのままラハインヘ旅立って行った。一行は帰りがけにまたこの町に立ち寄り、彼女を拾ってアスカへ戻るつもりのようだった。正直、私は嬉しかった。かれらがラハインから戻ってくるまで、少なくとも数日間は彼女と一緒にいられるとね」
 伯爵はワインに口をつけ、ひとつ息をついた。
「それからは、そう、夢のような日々だったよ。彼女はその翌日にはすっかり元気になった。私は、彼女を連れて庭園を散歩し、馬車で丘の上まで出かけ、一緒に夕日を眺めた。その数日のうちに、私たちはもう恋に落ちていたんだ。皇子の一行が帰路に町に戻ってきたのは四日後のことだった。私はアリオナと別れるのはいやだった。そして、きっと彼女も同じ気持ちだったのだろう。アリオナは姿を消した。彼女は侍女を連れてトラウベの町へ出向いてゆき、そのままどこかに隠れたのだ。皇子の一行が町を去るまで。私はアリオナの真意を知っていたので、無礼を承知で皇子とフィーデス公に膝をついて懇願した。アリオナをそっとしておいてほしいこと、彼女を心の底から愛しているということ。フィーデス公は激怒し、そんな娘とは勘当し、二度と国に帰ることは許さないと告げた。いま思えば、それは公爵なりの娘への愛情であったのだろう」
「皇子の一行が町を去り、私はアリオナを探しに町に出た。アリオナは町のパン屋の女のもとにいた。彼女は楽しそうに言った。この町が気に入ったと。私はすぐにでも彼女を屋敷に迎えようと思っていた。だが、彼女はしばらく町の中で普通の市民のように暮らしたいと言った。私は少し残念に思いながら、毎日のように町のパン屋に通い、彼女と話をし、ときにパンを焼くようになった彼女を見守ったりした。私は、いずれ彼女を妻に迎えるつもりだった。だが、ほどなくして病床の父から、私には婚約者がいるということを教えられた。それはナンドの町の領主の娘だという。ジャリア王サディームが戴冠してから、ジャリアは領土を広げ、国境を強固にする政策を立てていた。このトラウベの町、ナンドの町、そしてプセを南の国境として連帯されるという、その国策において、ナンドの町の伯爵令嬢を妻にもらうことは、この町の領主としての家柄をより盤石にすることになるのだと。私は、それに逆らうことはできなかった」
 夢の時間は過ぎたとばかりに、伯爵はふっと息をついた。
「その翌年、私は妻をめとった。正式にこの屋敷を受け継ぎ、ブレナン伯爵となったのだ。妻となったエレンは、とても明るく、活発な女性だった。アリオナとは正反対だったからね、はじめは、愉快に笑ったり、あれこれと不平を言ったりする妻が苦手だった。私もどちらかというと内向的な人間なのでね。それでも、私は、少しずつつ妻との生活にも慣れていった。だが、一方ではアリオナへの思いも断ち切れずにいた。そう、数年間は、どちらにも中途半端な思いで、ふわふわとしていた。私も若かったのだな」
「……」
 アレンは口をはさむことなく、伯爵の話に静かに耳を傾けた。
「さらに数年がたち、私に娘ができた。メリッサだ。初めての自分の娘に、私は有頂天になった。メリッサが可愛くて、可愛くて、この子のためならなんでもしたいと思った。父が亡くなったのはその翌年のことだった。私は名実ともに屋敷の主となり、トラウベの領主として独り立ちしなくてはならなかった。アリオナとは、もうしばらく会っていなかった。彼女への思いは、このまま封印しようと、私はそう誓った。メリッサはすくすくと育ち、妻との関係も良好で、この屋敷は幸せに溢れていた。だが、それを壊したのはこの私だった」
 伯爵の顔は、再び倦怠の翳りに包まれだしていた。
「それからしばらくたったあるとき、私は町でアリオナに会った。なんとなく、ただなんとなく行ってみただけだったのだ。あのパン屋に。私の顔を見るなり、彼女は言った、近いうちに結婚するのだと。相手は町の燻製店の息子だという。私は、わけもなく怒りを覚えた。そうだろう。アスカの貴族の娘が、ただの町の燻製やの妻になるなどど。そんなことがあっていいのか。だが彼女は、はらはらと涙を流した。そのときに私は知った。彼女は、本当は私のことを思っていてくれたのだと、ずっと待っていてくれたのだと。そして私も涙を流した。私はアリオナを抱いた。心の底から、彼女を奪いたいという本能が、私を動かしていた」
 自らの罪を告白するかのように、伯爵は話し続けた。
「それからも、五日に一度はアリオナのもとへ出かけ、彼女を愛した。妻のエレンには内緒で。私はこの恋に有頂天になった。アリオナが自分のものになったという、その自分勝手な喜びと、そして彼女を抱くという欲望のため。そんな日々が数か月も続いた。やがてアリオナは身ごもった。そうなることは、分かり切っていたはずなのに、いざアリオナが私の子供を宿したとなると、嬉しさと同時に、私は妻への後ろめたさにさいなまれた。そして、本来は別の生き方があったかもしれぬアリオナを奪い、彼女の結婚をだめにしたこと、アリオナとの子のことを、妻にはこれからもずっと隠さねばならぬのかということに、私は悩み、精神をおかしくしていたのだろう。いまだったら、そのときに何もかもを妻に話し、アリオナを屋敷に呼び、メリッサと同じように彼女の子を幸せにしてやろうと思ったことだろう。だか、そのときの私にはそんなことは思いもつかなかった。なんと臆病で身勝手な若造だったのだろうな。後悔しても仕方のないことだとは分かっている。だが、いつも考えてしまうのだ、あのとき何故そうしなかったかと。きっとそんな私に愛想をつかしたのか、あるいは私を悩ませることはすまいと思ったのか、子供を産んでから、彼女は私と会うことを拒み続け、やがて再び姿を消した。どこへともなく。いなくなってしまった。結局、私は妻も、アリオナも、両方失うことになったのだ」
 伯爵は自らの顔を覆った。おそらくこの十五年間、同じようにして後悔し、煩悶のときを過ごしていたに違いない。その口から嗚咽するような呻きがもれる。
「伯爵夫人は、病で亡くなったと聞きましたが」
「そうだ。だがエレンはきっと知ったのだ。アリオナのことを。私のしたことすべてを。亡くなる間際に彼女は私に言った。私を恨みはしないと。この町に来られて幸せだった。そしてメリッサのことをお願いしますと。私はエレンの手を握りしめ、何度もあやまった。彼女はただ微笑んでいた。メリッサはまだ三歳になったばかりだった」
 しばらくの沈黙と、ため息まじりのつぶやきののちに、伯爵はようやく顔を上げた。このような苦悶から脱する経験を、これまで幾度となく繰り返してきたのだろう。その顔には、疲れ切った倦怠の色と同時に、何かをあきらめたかのような、奇妙に決意じみた鋭さがあった。
「その指輪は、アリオナが母上から受け継いだものだ。アスカ貴族の証であり、肩身であるそれを、彼女は自分の娘に渡すつもりだった」
「アリオナさんは、亡くなったのですね」
「そうだ。私がそれを知ったのはつい昨年のことだ。たまたま、市参事会の仕事で、町の孤児院を訪れたときだった。私は一人の少女を見つけた。歳は十二、三歳くらい。その子は、私に近寄って来て礼儀正しく挨拶をしてくれた。この町の子供にしては、なんというか、少し様子が違っていた。ブラウンがかった黒髪と、大きな黒い瞳……少しおてんばそうだが、こちらを見つめる顔つきには強い意志と、孤児とは思えない気品を感じさせた。すぐに私はアリオナを思い起こした。そういえば、髪の色も私と彼女のを、ちょうど合わせたようなふうだったからね。だがね、あろうことか、その子は、私が孤児院に寄付しようとして取り出した銀貨の入った革袋をいきなり奪い取ると、そのまま走り去ったのだ。私はあっけにとられたまま、路地へと消えていった少女を見つめていた。職員に聞いたところ、あの少女は、以前はこの孤児院にいたのだが、何年か前に脱走したのだという。それ以来、ときどきまた、金に困るとふらりと戻ってくるのだという。私は少女の名前を聞き出し、町中を探すことにした」
「その少女の名前は、ティム……そうですね」
「なんと、そこまで知っていたか」
 伯爵は驚きながらも、にやりと笑った。
「そうか、あの子と会ったのだね」
「ええ、道場の稽古を見に来ていました。この屋敷に一人で出入りするには、伯爵の許可がなければできないでしょうからね」
「うむ。あの子の名前がティムだと聞かされた瞬間に、私には分かった。ああ、あの子はやはりアリオナと私の子だとね。生まれる前に、私は男の子だったらティモスと名付けようと、アリオナに話したことがあった。生まれたのは女の子だったのだが、彼女は娘にその名を付けたのだ。それから私は人を雇い、この町の隅々まであの子を探させた。そして、ついに見つけ出した。あの子ははじめ私を見て、おびえたような顔をしたが、私がアリオナの名前を口にすると、とても驚いていた。そして私がお前の父なのだと告げた。すぐにそれを信じたようでもなかったが、話しているうちに少しずつ警戒を解いてくれた。話によると、アリオナは、ティムが五歳になるならずの頃には身体を壊していて、あの子の世話をしていたのは一緒にいた侍女であったらしい。おそらく、そのあと、時を経ずしてアリオナは亡くなったのだ」
 伯爵はやや声を震わせ、気を取り直すように、ワインを一口飲むと、話を続けた。
「それから、ティムは数年間はその侍女に育てられたが、やがてその侍女も病か事故かは分からないが、死んでしまった。そうしてティムは孤児院に送られた。やがて町の窃盗仲間に加わるようになり、盗みをしながら暮らしていたのだ。あの子を見つけてからは、私はティムを屋敷に連れていって一緒に暮らすべきだと、そうずっと考えていた。だが、あの子はそれをよしとしない。むしろ困ったような顔をして拒むのだ。私を父親だと認めていないのかもしれない。それに、少々言葉遣いや素行も悪いのでね、いきなり連れて帰ったらきっとメリッサも驚くに違いない。なので、いまは信頼できる炊夫に頼んで、あの子の世話をしてもらっている。それでも、長年の習慣なのだろう、盗みをなかなかやめられないようなのだが」
「そういう身の上の娘さんがおられたのですね」
 アレンは、同情するように言った。
「とても悲しいお話ですが、そのティムが元気に生きていることは、伯爵にとってもなぐさめとなるでしょう」
「ああ。できれば、早く一緒に住みたいと思っている。幸い、君の開いた道場や剣士たちにはとても興味があるようだな。屋敷に来たかったらいつでも来るとよいと、あの子には伝えてあるのだ」
「では、今度私からそれとなく、この屋敷に住んでみてはどうかと伝えてみましょうか。それに、メリッサ嬢の口から聞いたのですが、彼女も自分には妹がいるらしいと知っているようでした」
「そうか。メリッサももう十六歳。隠し事をしようとしても、いずれ気づかれてしまうのだな。ときの流れというものは、それぞれを成長させてゆくらしい。思い出の痛みも、喜びも、そして子供たちも」
 伯爵は力なくうなだれ、ひとつため息をついた。
「この指輪は、ティムの母親、つまりアリオナの唯一の形見として残されていたものだ。孤児院の院長に金を渡し、私が預かった。他のものはすべて売り払われてしまっていた。せめてこの指輪だけは、いつかティムに渡したいと思っている。母親の形見として、そしてあの子が、アスカの大貴族フィーデス家の血を引く娘だという事実とともに」
 長い話の間に、部屋はすっかり暗くなっていたが、やはり誰かが燭台に火を付けに来るような気配はなかった。伯爵は自らの物語を話し終え、痛みや喜びを思い出したあとの疲れと、いくぶん告白によって気が晴れたような複雑な様子で、アレンに向きなおった。
「さて、今度は君の話を聞こうか」
 向かい合うお互いの顔は、半ば暗がりに溶け込んでいたものの、こうして薄闇の中で会談することに、二人はもうずいぶんと慣れていた。
「私が思っている通りなら、そう……君もおそらく、アスカの人間なのだ。違うかね」
「その通りです」
 アレンはそれを素直に認めた。
「正確に言うならば、生まれ落ちたのがアスカであったかどうかはさだかではないのですが。ともかく幼少から、物心つくまで、私はアスカで育ちました」
「おお、やはり」
 興奮を隠せぬように、伯爵はうなずいた。
「帝都であるヒルドゥスの郊外の町で、私は育てられました。もう一人、兄弟のように育てられたレーク・ドップと一緒に」
「レーク・ドップ、その彼はいまどこに?」
「分かりません。先の草原のいくさで行方知れずになったとか」
「なるほど、それで、君はなぜジャリア軍に紛れ込んでいる?」
「話せば長くなりますが、私は一時期トレミリアに身を寄せていて、草原のいくさが終わったのちに出国し、草原の戦場跡でカシルと出会いました。彼はトレミリア人ですが、国にはもう未練がなく、私の供をすることになったのです。先ほど話した行方知れずの親友、レークの手がかりを求めて、我々はジャリアへ入りました。敗走したジャリア軍の中になら、なにかが分かるかもしれぬと考え、かれらと行動をすることにしたのです。彼らは、首都のラハインをアナトリア騎士団から取り戻し、幽閉されているというシリアン王女を奪還したいと考えていて、私はその志を分かち合うと決めました」
「それはなぜだね。君はジャリア人でもないというのに」
「ひとつには、アナトリア騎士団などという野卑な軍団が、一王国の首都を占拠し、王国全体を支配しようというのは危険な状態であり、正しくはないと考えたからです。もうひとつには、先ほど申した、親友のレークを探す手がかりを得たいからということです。一人では行動に限界があり、ジャリア軍の力を借りれば、各地を周りながら、より有益な情報が得られると思うからです」
 アレンの言葉には迷いがなく、まるで初めからこのように話そうと、定められてでもいるかのようだった。
「ふむ。そこまでしても探そうというのは、そのレーク・ドップという人間は、つまり君にとってとても大切な存在なのだろうね。家族のように」
「そうですね。我々は剣聖サムソンを父として、一緒に剣を教えられて育ちました。なので、一応はアスカ貴族の家庭で育った、家族と言ってよいのでしょう」
「剣聖サムソン……聞いたことがある。世界最強の剣の使い手であり、アスカ王家の血筋を引く伝説の剣士だったな」
「私とレークが十八になるときには、もう六十近い老父でした。サムソンは今の大将軍であるザースエイザー卿を師事していたこともあります。たしか、アリオナさんの父であられるフィーデス公は、ザースエイザー将軍の血縁であったはず。じつは、私も一度、フィーデス公にはお目にかかったことがあるのです」
「なんと、そうだったのか」
「はい、そのときにはすでにアリオナさんは、この町に来てあなたと出会い、愛し合い、お子をお産みになっていたのですね。そう考えると、なんともふしぎな縁を感じます」
「まったくだ。だが、もうひとつ訊きたい。肝心のことだ」
 伯爵は、もう半ば心は決まっているというようだったが、最後の確認をしないではいられぬというように、
「君は、さきほど準備はすべて整ったと言った。私はそれを聞いて思ったのだよ。いまこれから、大きく物事が始まってゆくと」
「……」
「私はジャリア人だが、この国境の町トラウベは、もとからジャリアの領土であったわけではない。私はこの地でアリオナと出会い、恋をした。アスカからやってきた君という存在は、私にとってはとてもただの偶然とは思えないのだ。指輪を使って、それを試させてもらったのだが」
 伯爵の顔にはは、己のもとめるものをついに見つけかけているという、静かな興奮の喜びが現れていた。
「私は、妻と恋人を失い、悲嘆にくれながらも、この町の総督として責務を果たし続けてきた。その意味はなんなのか。私は思ったのだ。あるいは、君のような人間が来ることをずっと待っていたのではないかとね」
「……」
「君は、ジャリアを手中にするつもりなのか?」
 少しの沈黙ののち、答えがあった。
「可能ならば」
「笑いなどしない。はじめから分かっていたよ。君がただものではないことを。その眼を見れば、その物腰を見れば。誇り高き魂の色を見れば。君が、帝王であることは、そう……明白なのだ」
 伯爵は、二つの杯にワインを注ぎ足した。
「私の心はすでに決まっている。君の為ならば、あらゆることをするだろう。君に忠誠を誓おう。我がアリオナへの愛にかけて」
「いいのですね」
「そうだ、我が帝王よ。ふふ、私には分かるよ。あのカシルと同じように、いまの私の目には君がそのように映っているのだとね」
 幸せそうな笑みを浮かべ、伯爵は訊いた。
「君の私への最初の望みはなんだ?」
「トラウベの総督をお願いしたいのです。肩書とは別の、実質的な総督役ということになるとは思いますが」
「なるほど。そうくるか。では、きっと実行するのだな。私が考えていたなかで、最も危険な方法を」
「はい、明後日に決行します。予定通りならば」
 無駄な説明や言葉というのは、そこにはいらない。すでに、盟友となり、運命共同体となったことを、二人ともが理解していた。
「おそらく、到着は夕刻になるのではないかな。明日にもまた状況を報告させよう」
「お願いします」
「ふふ。何故だかね、とても落ち着いた気分だ。最初から、もう決まっていたのかもしれないな。そう、君とここで最初に出会ったときから」
 向かい合った二人は、互いに杯をとり、それを静かに合わせた。
「アスカから来た美しき帝王に」
 濃密なワインの香りに酔いしれるように、伯爵は高々と杯を掲げた。
 それは、これまで実質的な後ろ盾を持たなかったアレイエン・ディナースが、初めて現実の権力を備えた味方というものを得た、そんな夜であった。そして、暗躍する個人に過ぎなかった彼の存在が、やがて世界に大きく知れ渡ってゆくことになる、その決して戻れぬ階段の最初の一歩であったのだ。


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