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水晶剣伝説 XIII 北へ、


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「……!」
 声を上げようとしたが、一緒に口をふさがれていた。
「静かに」
 耳元で低い声がした。男の声……そして、腕をつかむ力も強かった。
 メリッサは恐怖に硬直し、じわりと涙が溢れるのを感じた。
「ふ……うう」
「ここで、叫び声を上げられては、こちらが誤解されてしまうからね」
 思いの他やわらかな声……彼女は抵抗をやめた。
「いい子だ。手を放すからね」
 ふっと、腕が自由になった。メリッサはすぐに振り向いた。
「……あ」
「やはり、君か」
 暗がりの中でも、その冴え冴えとした白い顔と、美しい金髪は、見違えようはずがない。
「レイエン、さま……」
「こんな時間に。どうしたのかな?」
 相手がアレンだと分かって、メリッサは心底ほっとした。それと同時に、勝手に部屋に入ったというばつの悪さに顔を赤くした。
「あ、あの……私、」
「ふむ。もしかして、カシルに忍んで会いにきたのかな?」
「な……、ち、違います」
 慌てて首を振る。目の前のアレンがくすりと笑った。
「彼はまだ帰っていないよ。僕はたった今戻ったところだけど」
「たったいま?」
「そうさ。なにか?」
「いえ、その……」
 では少し前に、二階の窓から見えた人影はなんだったのか。
「ここのところ、たまに留守中に部屋の窓が開いてることがあったのだけど、君のしわざだったのかい?」
「ち、違います……、私は、私も……物音がしたから、入ってみただけで」
「そうなのか。確かに、君だったらなにも、窓の外から入らなくてもいいはずだね」
 少し考えるようにして、アレンは開いたままの窓を見つめていたが、
「まあいい。ともかく、君はもう部屋に戻りなさい」
 あくまで穏やかな声でアレンは告げた。
「カシールはきっと、今日はもう帰らないよ」
「そうなんですか」
「それとも、僕でよければ、ご令嬢とご一緒に添い寝をいたしましょうか?」
「えっ、い、いえ……」
 本気とも状態ともつかぬ言葉に、メリッサはしどろもどろで首を振った。暗がりが真っ赤になった顔を隠してくれた。
「では戻ります」
「いや、ちょっと待って」
 何かを見つけたように、アレンは床を凝視していた。
「そっちの部屋に燭台を置いてあるね。持ってきてくれるかな」
「はい」
 メリッサは、最初の部屋に置いた火のついた燭台をとってきた。
「ここに置いて」
「はい」
「ふむ……これは」
 アレンは床から何かを拾い上げた。
「これは、君のものかな?」
 そう言ってアレンが見せたのは、小さな指輪だった。
「いえ、たぶん違います」
「そうか、僕のでも、カシルのものでもない」
 アレンは燭台を手にすると、その銀細工の指輪に近づけた。
「何か内側に文字が入っている。これは、古代アスカ語だな」
「そうなんですか」
 しばらくの間、アレンはその指輪を黙って観察していたが、おもむろに顔を上げると、
「これはきっとお父上のものでもないね」
「ええ、たぶん」
「ではやはり、窓からのお客人が落としていったものとみるべきだろうな」
「……」
「メリッサ嬢、このことはお父上には言わないでおいてくれるかな」
「はい、もちろん」
 言われなくても、そうしたに違いない。自分がアレンとカシールの部屋に忍び込んだなどと知られては大変である。
「では、あなたは今夜はここに来なかったことにしておきますのでね」
 それからアレンは胸に手をやり、貴婦人への礼をした。もう戻れという無言の指図であった。燭台を手渡されると、メリッサはうなずいた。
「では。レイエンさま、失礼いたしました」
「はい、おやすみなさい。メリッサ嬢」
 うやうやしく貴婦人への礼をした金髪の貴公子が、最後にどんな顔をしていたのか、暗がりの中ではもうよく見えなかった。

 カシールが帰ってきたのは、その翌日の昼過ぎであった。
 昼前には先に父のブレナン伯が屋敷に戻り、すぐあとに家庭教師もやってきた。メリッサは、カシールが戻らないことに悶々として勉強が手に付かず、家庭教師のイザナ女史の叱責を受けながら、休憩と称して羽ペンを置くと、すかさずアレンの話題で切り返した。すると、女史の厳しい顔つきはとたんに崩れ、まるで十代の乙女のようにぱっと頬を染めるのだった。金髪の美貌の貴公子、レイエンの噂は、もうずいぶんと町中に広まっており、普段はお堅いイザナ女史も、御多分に漏れず、「美貌のレイエンさま」のファンであるのは疑いようがなかったのだ。
「そそそ、それで……レイエンさまは、お食事のときにそんなことを?」
「ええ、そうなの。それからねワインの杯を上げながら、このトラウベの町と、美しき女性たちに乾杯、なんて……本気の顔つきでおっしゃったんですよ」
「まああ、なんてことでしょう」
 アレンがどんな言葉を口にし、どんな振る舞いをしたかを聞くだけで、イザナ女史は飛び上がらんばかりの反応をしめし、いちいち頬に手を当ててはうっとりとした。おそらくこの二十代半ばまで恋人もいたことがない、見た目もお世辞にも美しいとはいいがたいような女性にとって、田舎の国境都市に突如現れたアレンの存在というのは、幻想の王国から降臨した光り輝く王子であるように思えたのに違いない。
「はうう、優雅ですわ……」
 まるで初恋の乙女のような夢見る顔つきで、羽ペンのインクがすっかり渇くのも気づかず、女史はふうっとため息をもらした。メリッサは、「しめしめ、これで勉強の時間も早く過ぎるわ」と内心で思いつつ、一方では自分の思い人のことに想像を巡らせた。
(カシール……きっと戻ってくるわよね)
 アレンとともに彼がここにやってきて、まだほんの二週間ほどであったが、かれらはいまではすっかりこの屋敷にいなくてはならぬ存在に思えていた。それは家族という意味ではなく、むろんただの客人というだけではない。その微妙な思いについて、ここ数日とても考えることが多いメリッサであったが、それがどうやら恋であると、いよいよ認めざるを得ない気がしていた。もともと、この歳までさほど男子には興味を持ってこなかったのだが、それというのも、町で見かけるような同年代の少年というのは、ひどくがさつで、風情がなく、そして汚らしいという印象しかなかったからだ。父であるブレナン伯が優雅で紳士的であるだけに、その父のような雰囲気の若者でなくては、自分は好きにはなれないだろうとずっと考えていた。
(カシルは、お父様とはずいぶん違う感じだけど、)
 それでいて、町の若者たちともまったく違う。そして確かに、カシールは美しく、またときに優雅であった。それは認めなくてはならない。
(ただの剣士さんという感じがしないのだわね)
 それは、彼と一緒にいるアレンの方からしてそうであった。金髪のアレン、黒髪のカシール、二人はタイプは違えど、どちらもすらりとして見栄えが良く、そしてがさつなところがない。むしろ貴族的であると言ってよかった。だからこそ、父はかれら二人がこの屋敷に住まうことを、こうもあっさりと許したのだ。それは、メリッサが頼み込んだことではあったが、父の様子を見ていれば、二人にとても強い興味を持っていることが分かる。それも、とくにアレンの方にである。
(私は、どうしてカシルなのかしら)
 カシル以上に、アレンの方も美しく優雅であり、とても貴族的に見える。お堅いイザナ女史ですら、このようになってしまうのだから、ほとんどの女性にとって彼の存在そのものが、まさしく金髪の王子様であるに違いない。だが、それでいて、自分が惹かれているのはカシールの方であることが、屋敷で一緒に暮らしているうちにはっきりと分かったのだ。
(そうね……レイエンさまはやっぱり、ちょっと近寄りがたいところがあるかも)
 それはもちろん、自分と歳がやや離れているからでもあったろうが、それだけではない。言葉遣いも表情も穏やかであるのだが、アレンの方にはどこか底知れないところ、心が分からないようなところがある。きっと、イザナ女史であれば、それすらもミステリアスだと思うのかもしれないが、メリッサにとっては、言葉の裏では何を考えているのかいまひとつ読めないアレンというのは、とても大人に思えたし、また彼が自分などをはなから相手にはしていないことが、なんとなく分かっていた。むしろカシールよりも表面上は優しいし、自分によく言葉をかけてくれるのはアレンの方であったのだが。
(でも、やっぱり……あの人は、なんだかわからないわ。まるで遠いところからきた、言葉の通じない王子さまのよう)
 だが、それはアレンのことを嫌いだというわけではない。自分を丁寧に女性扱いしてくれ、令嬢として敬意を示してくれることはとても嬉しかったし、どきどきすることでもあった。しかし、それは恋心とは違う。恋というのはお互いが対等な感じでいられることが嬉しいのではないかと、メリッサはそんなふうに考えていた。
(ああ、だからといって、カシルと私が、対等にお互いを好きになったりすることは、きっとないんだわ)
 それもなんとなく分かっていた。カシールの方も、少なくとも自分に対してそのような気持ちはこれっぽっちも持っていない。勇気を出して話しかけてみても、いつもそっけない返事しか返ってこないのだ。
(それでも、嫌いにはなれない……やっぱり、これは恋なのかしら)
 思いがつのるのは、丸一日以上も彼を見ていないからなのだろうか。それを確かめたかった。カシールが帰ってきたら、思い切って二人で過ごせるようなことを持ち掛けてみようかと、メリッサは思った。
 こうして、ほとんど勉強は進まぬまま、午後の一点鐘が鳴った。
「先生、どうします。今日はこのあと」
「そうねえ。どうしようかしら」
 イザナ女史は、たいていは授業が終わると、一緒に食事かお茶をして午後を過ごし、ゆっくりと帰ってゆくのが常であった。 それに帰りがけに道場の方を覗いて、こっそりとアレンの姿を見てゆくのが最近の楽しみであるらしかったが、今日は稽古が休みだということをさきほど聞かされたので、少しがっかりしているふうであった。
「今日は、このまま帰ろうかしら……」
 女史はそう言って立ち上がりかけたが、そのときちょうど扉がノックされ、執事のベンゲルが顔を覗かせた。
「お嬢様、カシルさまがお戻りになったようです」
「なんですって!」
 聞くなり、メリッサは思わず立ち上がっていた。
「いま、帰ったの?どこにいるの?」
「はい。さきほどレイエンさまのお部屋に入られましたが」
「そうなの」
 メリッサはぱっと顔をほころばせたが、その次にむっつりとして唇をかみしめ、
「とても遅かったわ。いったいなにをしていたのかしら」
 そのまま足を踏み鳴らし、室内をうろうろとし始める。
「お嬢様……あのう」
 執事が困ったように伺いを立てると、メリッサはきっぱりと告げた。
「ベンゲル、お茶の用意を」
「はい。こちらにでよろしいですか?」
「いいえ。レイエンさまのお部屋によ。私と、」
 そして、イザナ女史を振り返り、
「先生の分も」
「ええっ」
 今度は声を上げたのは、イザナ女史の方だった。
「先生、お願いよ」
「あの、メリッサさん」
「私、一人じゃ勇気がないの。一緒にかれらの部屋に行って、お茶を飲んでくださらない」
「それは、あの……」
「お菓子もあるし、お食事だって用意させるから、ねえお願い」
「それはあの、もしや……」
 イザナ女史は目を白黒させていた。
「私が、あの、レイエンさまと同じお部屋で、お茶を?」
「そうよ」
「なんと……ああ、そんな夢みたいなことが」
 両手を頬に当てた女史は、くねくねと身体をよじった。
「なんてことでしょう……ああ」
「ではベンゲル、すぐに行くからお願いね」
「かしこまりました」
 執事が下がってゆく間にも、イザナ女史は熱を帯びた様子で、勝手に身もだえていた。
「ああ、わたくしが、レイエンさまと!」
「さあ。先生、いきましょ」
「はう……ええ。まいりますわ」
 二人の乙女は、互いの思い人への情熱に燃え上がるその心を到底みなまで隠せぬように、頬を上気させその手を取り合った。
 緊張した面持ちで、二人は一階の客間の扉に立っていた。メリッサが扉をノックすると、その後ろでイザナ女史は、ほとんど引きつらんばかりの形相で、なんとか優雅な微笑みを浮かべようと苦闘する様子だった。
「どうぞ」
 扉の向こうからアレンの声がした。息を吸い込んで扉を開けると、テーブルに向かい合ってくつろいでいる二人の青年が目に入った。
「おや、これはメリッサ嬢」
 にこやかなアレンの顔には、なんのてらいも感じられない。メリッサは思い切って用件を告げた。
「あの、お邪魔してもよいかしら。よかったらあの、お茶でもご一緒に」
「もちろんですよ。どうぞ」
 カシールと目が合うと、メリッサはさっと自分の頬が紅潮する気がした。
「おかえりなさい、カシル」
「ああ、ただいま」
 そっけない返事であったが、それだけでも嬉しかった。ずいぶんと久しぶりに言葉を交わしたのだから。
「ええと、こちらは、私の先生の、」
「はじめてお目にかか、かかります」
 イザナ女史は、ぎこちなく挨拶を述べた。憧れのアレンを前にして、緊張も極まって口から泡を吹いてしまいそうなくらいの様子である。
「メリ、メリッサさんの家庭教師をしております、イザナと申します」
「これは、ご丁寧に。イザナさん」
 アレンは椅子から立ちあがり、にこりと微笑むと貴婦人への礼をした。
「でも、すでに何度かお見掛けしていますね」
「そ、そうでしたかしら」
「ええ、屋敷の廊下や道場の外などで。ちゃんとご挨拶できずに、申し訳ありませんでした」
「いいええ。こちらこそ。とんでも、ありません」
 彼女はうっとりとなって、そのまま卒倒するのではないかというふうに、ふらふらとよろめいた。
「どうぞ、こちらにお座りください」
「これは、ありがとうございます」
 アレンが椅子を引いてくれたので、イザナ女史はまるで姫君のように恥ずかしそうに頬に手を当てながら、なよやかに着席した。メリッサもその横に座る。
「いま、お茶とお菓子を頼みましたから、ご一緒にいただきましょ」
「これは、ありがとう。メリッサ嬢。ちょうど、なにかつまみたいと思っていたところですよ」
 アレンが言葉を発するたびに、イザナ女史は身体をくねらせ、金髪の美貌に視線を吸い付かせた。社交的なアレンに対して、カシールの方は、いくぶん不機嫌そうにむっつりと口を引き結んでいる。メリッサはおずおずと尋ねた。
「あの、カシルは、村へ戻ってきて、どうだったの?」
「ああ、久しぶりに家族に会えたし、ここでの暮らしも問題ないって報告しましたよ」
 とくに隠すことはないとばかりにカシールは淡々と答えた。 それ以上とくに言うことはないと、その顔が語っていた。メリッサもそれきり黙り込んだ。
 やがて、ノックとともに、女中のケリーがお茶を乗せたトレーを手にして現れた。
「お茶と焼き菓子をお持ちしました。今日はクオビーンが手に入りましたので」
 かぐわしい香りとともに、それぞれのカップがテーブルに置かれる。ケリーはやわらかに微笑みを浮かべながら、アレンとカシールの前にクオビーンのカップを置いた。続いて、イザナ女子の前にカチンと音を立てて置き、メリッサの前にはしごく丁寧に置いた。
「それから、こちらは木の実の焼き菓子でございますわ」
「これは美味しそうだ。ありがとうケリーさん」
 アレンに名を呼ばれて、女中はぱっと頬を染めた。歳の方はイザナ女史といい勝負であるだろう。二人は、お互い未婚の女性らしい互いへのかすかな嫉妬心とともにじろりと相手を見やった。
「それでは、ごゆっくり」
 最後ににこやかに微笑んで、女中は下がっていった。
「では、さっそくいただきましょうか。ここは僕が切り分けましょう」
「いえ、わたくしがやりますわ」
 ナイフに手を伸ばしたイザナ女史は、同時にアレンの手がそこに重なったので、思わず恥じらいの声を上げた。
「んま……」
「これは失礼」
「いえ……あの、いえ」
「ご婦人のお手を煩わせるわけには。ナイフの扱いには慣れておりますので、」
 そう言って、アレンはナイフを手に、器用に焼き菓子を切り分けた。イザナ女史の方は、すでに焼き菓子どころではないというように、両手を胸の前で組み合わせて、もじもじとしていた。
 四人は向かい合って、たわいない話をしながらお菓子を口に運びつつ、楽しいお茶の時間を過ごした。アレンとカシールは、自分たちの遍歴などの詳しい話はせず、ほとんどがこの町に来てからのことを語るだけであったが、夢見る女子たちにとっては、それすらも彼ら貴公子たちの魅力を増幅させる、魔法の媚薬のようなものであった。実際、メリッサにしても、このようにして長いことかれらと話をするというのは、食事の時間を除いては初めてであった。それに、夕食にはたいてい父が同席していたので、あまりくだけた会話などはできなかったのだ。
 よく話すのはアレンの方で、カシールは何かを尋ねられたり、話を振られたりしたときくらいしか口を開かなかったが、それでも、彼らがここにきて十日余りの晩餐での会話、そのすべてを足した時間よりも長くしゃべったことは間違いなかった。メリッサも、アレンの言葉に笑ったり、ときにふくれたりしながらよく話をした。意外なことに、この金髪の貴公子は大変な聞き上手で、その深い青い瞳にじっと見つめられ、優しい微笑みでうなずかれると、自分がとても興味を持たれているような気分になって、ついついよけいなことまで口にしてしまうのであった。
「そうなの。お母様はナンドの領主の娘だったのよ。この町にやってきて、お父様と結婚して、私が生まれたの。それからね、ついこのまえ知ったのだけど、私にはね、じつは妹がいるんですって。いままでそんなことちっとも知らなかったわ」
「それは、驚いたでしょうな」
「ええ、お母さんが違うらしいんだけど。いつか会ってみたいわ。よくは分からないけど、その人は身分が不釣り合いの人だったみたいで。正式に奥さんにすることはできなかったんですって」
「なるほど。それはお互いにつらい関係だったんでしょうね。きっと」
「そうよね。でも私だったら、身分なんか違ってもいいから、本当に愛する人とならずっと一緒にいたいわ」
 恋に夢見る年頃の少女らしく、メリッサはうっとりと胸に手を当てた。
「わ、わたくしも、そう思いますわ」
 横にいたイザナ女子も、勢い込んで同意した。
「心の底から愛する人と共にいられるのならば、どのような誹謗中傷にも、それに屈辱にもきっと耐えられます。そう……愛こそがあれば」
「お二人の心には、愛の神マージェリーが住んでおられるようですな。きっと素敵な愛に巡り合えますよ」
 微笑んだアレンの方をちらりと見やり、イザナ女史はぱっと頬を赤らめた。
「もう、もう……巡り合っているかもしれませんわ」
 女史のつぶやきに、メリッサも思わずカシールの方を見て赤くなった。いかにずうずうしい妄想をしても、恋する女たちにはその権利があった。
「ところで、じつは、イザナさんにお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「ま、まあ……なんでございますかしら」
 直接アレンから尋ねられ、イザナ女史はがっしりと両手を組み合わせた。やや不気味にぱっちり目を見開き、たとえどのような秘密をでもぶちまける覚悟があると語るかのような目力で、彼女は正面からアレンを見た。
「なんなりしとお聞きくださいませ」
「たいしたことではないのですが、もしや、この指輪をご存知ではないですか?」
 アレンが取り出した銀の指輪に、先にメリッサが反応した。
「それは……昨日の」
 慌てて口を閉じる。昨夜、この部屋に忍び込んだことを、カシールには知られてはいないだろうか。それとも、アレンはすでに話してしまったろうか。
「じつは、これは昨日、この屋敷で拾ったものなのですが。もしやあなたのものではありませんか?」
 イザナ女史は、アレンの手にある指輪を熱心に覗き込んだ。
「銀の指輪……可愛らしいものですわね。きっと女性のものでしょう」
 ちらりとアレンを見上げる。その目には、媚びるような妖しい色が一瞬垣間見えた。
「いいえ、私のものではありませんわ」
「そうですか。それならけっこう」
「では、レイエンさまは、それがどなたのものなのか、まったくご存知ではないわけですのね」
「そうです。見当もつきません」
「では、この屋敷に入ったことのある女性……全員に訊いてみるのがよろしいですわね」
 いくぶん皮肉めいたようなイザナ女史の言葉であったが、
「そうですね」
 アレンはふっと笑ってうなずいた。それきり、この話題については誰もなにも言わなかった。メリッサはほっとして、苦いクオビーンを飲み干した。
 カシールは相変わらず、自分からなにかを話すということはなかったが、美少年というのは得なもので口を閉じていても、決してむっつりとして嫌な感じには見られず、むしろミステリアスな感じがよいわと、のちにイザナ女史が語ったものだった。しかし、その女史は圧倒的にアレンの愛のしもべであった。アレンの話す一言一言に熱心にうなずきかけ、彼の視線をいっときでも食い止めようと、まばたきすらも我慢してぱっちりと目を見開き、ときに横にいるメリッサが恥ずかしくなるような、吐息まじりの艶めいた声色で相槌を打つのであった。
 まともな男であれば、完全に辟易してしまいそうなその濃密な攻撃を、アレンは常に涼やかな笑みを浮かべながらさらりと受け止め、あるいは受け流した。それがますます女史の心に火をつけるようで、しまいには隣にメリッサがいることすらも忘れたかのように、身を乗り出すと、このまま口づけを受けたいというくらいの姿勢で、本人が思う色気あるしぐさで首をかしげて見せたり、かなりわざとらしく両手を組み合わせたりもするのであった。
 もしもここに見物人がいたら、はらはらとしつつ寸劇のようにも楽しめそうなお茶会は、こうして一刻ほどで幕を閉じた。イザナ女史は、テーブルの木の実のパイがなくなろうと、いつまででもここにいたいような様子であったが、さすがにこの屋敷の家族ではない家庭教師の分際たるを思い出したのか、パイの最後の一口を放り込んでからは、いくぶんテンションを抑えたような感じであった。そこへちょうどよく、ノックとともに女中のケリーが現れた。
「失礼いたします。レイエンさま、旦那様がお呼びでございます」
「承知しました。すぐに行きますとお伝えください」
 内心ではずいぶんとほっとしていたのかもしれないが、少なくともそれを顔には全く出さずにアレンは立ち上った。
「それでは、私はこれで。みなさんはどうぞ、ごゆっくり」
「いいえ。わたくしも、そろそろおいとまいたしますので」
 すかさずイザナ女史も腰を浮かした。
「では、階段までご一緒しましょう」
「はい」
 女史は、アレンに付いていそいそと部屋を出た。残されたメリッサは、カシールと向かい合ったまま、やや気まずそうに沈黙する様子だった。
 屋敷のエントランスで、アレンは女史に向かって丁寧に貴婦人の礼をした。
「それでは、イザナ先生、ごきげんよう」
「はい、あの……」
 イザナ女史はとても名残惜しそうに、なにか言葉を探す風だった。
「あの……指輪」
「ええ」
「そういえば、なにか文字のようなものが書かれてありましたわね」
「そうでしたか」
「レイエンさまは、あの文字をお読めになったのでしょうか?」
 アレンは、わずかにその目をそばめた。
「さあ、僕にはよく、分かりませんでしたが」
「そうですか。それならけっこうです」
 女史はにこりと笑うと、膝を曲げて貴婦人の礼をした。
「また、お会いできますことを。ごきげんよう」
 去ってゆく女史を見送りながら、アレンは、どう考えていいものか判別しかねるというように、いくぶん口元を歪めた。それから伯爵の部屋へ向かおうと階段を上ったが、ふと踊り場で立ち止まると、彼は少しの間、窓から見下ろす中庭を眺めていた。

「お入り」
 部屋の扉をノックすると、いつものようにいらえがあった。そういえば、こうして伯爵の部屋を訪れることが、ここのところ多くなっていた。扉を開けたアレンは、なんとなくデジャヴュのような心持で、本と乾燥ハーブの匂いが混じったような、伯爵の部屋の独特な空気を、不思議ななつかしさとともに感じていた。
 今日はいつもよりは少し時間が早いので、燭台の火がなくても部屋はまだ十分に明るかった。ただ、もともと伯爵は目があまりよくないらしく、まぶしい日の光を好まない。窓は開けられていたが、そこにはカーテンが引かれ、室内は一定の明るさ以上にならないよう気が配られていた。
「どうぞ、ここへお座り。お茶はもうたくさん飲んだろうから、なにもいらないかね」
「はい、大丈夫です」
 相変わらずどことなく愁いを帯びた伯爵の表情には、今日はいつにも増して疲れなのか、倦怠なのか、あるいはその両方なのかが入り混じって見えた。
「先日話した通り、この町にアルディからの文官がやってくる。エイナー伯というらしい」
 唐突に話し始める、その核心の突き方がアレンはそう嫌いではなかった。無駄な世間話に興じる趣味はないという点では、かれらは案外よく似ていたのかもしれない。
「文官とともに一緒に二十数人の騎士が配属されるようだ。総督の護衛と、この町の治安を守るという名目らしいがね。私が思うに、その実、反乱分子の芽を摘む役割を担うに違いない」
「そうですか。しかし、そのような情報を私に漏らされて、大丈夫なのですか」
「何をいまさら。他人行儀なことを」
 伯爵はいくぶんむっとしたようにも見えたが、なにかに怒るということも面倒だというように、そのままふっとため息をついた。
「君のことだから。ある程度は、すでにこれらの情報も仕入れているのではないかな」
「……」
「あるいは、もう、なんらかの対策も講じていたとしても、私は驚かないよ」
「まさか。そのようなことは」
「エイナー伯が赴任してくるのは、五日後のことだ。あるいはもう少し早まるかもしれなん。当初の予定だと、騎士が五十人とも言われていたが、アルディにしても、国内の治安がまだ完全に回復してはいないのだから、それほどの兵力も割くわけにはいかんのだろう。なにしろ、ジャリア南部には主要な都市だけでも十数か所はあるからね。アルディ、ウェルドスラーブ、そしてアスカ、その三国が共同で都市を統治するとしても、どの町をどの国が受け持つかを決めるのに、ずいぶん時間がかったらしいからな。ようやくそれが決まったので、我が町はアルディの総督が受け持つことになるわけだがね」
 伯爵は顔を上げると、
「気に入らんな」
 アレンを見ながら言葉をつづけた。
「そうだろう。アナトリア騎士団などに首都ラハインを占拠され、今度はアルディに我が町が統治されるなどとは。歴史あるこのトラウベの町がだ」
「各都市に配属されるという文官や騎士たちは、やはりアルディとウェルドスラーブからの人員が中心なのでしょうか」
「いや、そうでもないようだ。文官はともかく、騎士の人員に関しては、アスカからもけっこうな数がジャリア国内に派遣されると聞いた。アルディにしろ、ウェルドスラーブにしろ先のいくさの痛手が大きく、自国の統治や、戦場となった都市の立て直しに多くの人員が割かれているからね。トレミリアとセルムラードは、はなからジャリアの統治などには関心がない。となると、大国アスカの資源と人材が、大きくものをいう状況になってきているのは間違いがなかろう」
 さきほどまで倦怠の空気をまとわせていた伯爵の顔は、いくぶん紅潮していた。こうした世界の情勢について語れる相手がいるというのが、嬉しいのかもしれない。もともとは、雄弁で情熱的な性分であったのだろう。
「ありがとうございます。我々にとって、必要なのはまさしく情報そのものなのです」
 心を決めたように、アレンは伯爵にうなずきかけた。
「では、君からの情報もあるわけだな」
「ええ。すべてをお話しします」
「そうか。やっと、私を信頼してくれたというわけだね。嬉しいことだ」
 伯爵の顔が柔和にほころんだ。
「ただ、三日待ってください」
「三日か」
「はい。三日後までに、すべての条件をそろえ、私からあらためて伯爵に、お頼みすることになると思います。それまでに、私の方も準備を整えたいのです」
「そうか、なにやらわくわくするな。それまでは、なにも訊いてはいかんのかね」
「おそらく、伯爵ならばもう、なにも驚かれることはないと思いますが。私としては、行動を起こす前にすべてを伯爵にお話しし、そしてお願いしたいのです。それはいまではなく、三日後です」
「分かった。ならば待っていよう」
 伯爵の目には、またいつもの落ち着いた光が戻っていた。だがそれは、もはや哀愁と倦怠ではなく、ようやくなにかを見つけたような、未来を見つめるような光であった。
「なにも驚かないよ。私が想像する、それ以上のことが起こるのだとしてもね」
 つぶやくような言葉がその口からもれた。


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