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  水晶剣伝説 XIII 北へ、


X

 ハインとともに別室に案内され、運ばれてきた熱いクオビーンを前にして、クリミナはようやくほっと息をついた。
「ともかく無事で良かった。警備の不行き届きで危険な目に合わせてしまった。クリミナどのになにかあったら、オライア公爵閣下が大変悲しまれるだろうからね。それと行方知れずのレークどのにもだ」
 この一件については、クリミナ同様に、ウィルラースの方も考えるところはあったのだろうが、それを口にすることはしなかった。
「にしても、私はよほど甘いんだな。ハインどのを自由にするついでに、地下室の男たちの拘束を解いてやったのは」
「甘いですよ」
 そばに立つアドがぼそりと言う。
「厳しいね。ところで、君は、どうして最後まで剣を抜かなかったの」
「その男から、」
 ハインの方を見やり、
「こちらへ殺気を感じませんでしたので」
「そうか。すごいね。それが達人の勘というわけだ」
「勘ではありません。そんなものでウィルラースさまを危険にさらすわけにはいかない。ただ、分かるのです」
「なるほど」
 感心したようにうなずくと、その目がまたハインの方に向けられる。 
「君は、本能的にクリミナどのを守ったのかな。同じジャリア人を殺すというのは忍びなかっただろう」
「ウィルラースさま、ハインは、あの……」
 心配そうなクリミナに、貴公子はにやりと笑って言った。
「彼は、我々を救ってくれたんだよ。すくなくとも敵ではない。そうだろう?」
「はい」
「彼が本当は、どこの何者であるのかは大いに気になるところだがね。しかし、すごい腕前だ。アドにも負けないスピードと剣さばき。いいものを見せてもらったよ」
「ハインを、このまま自由にしてくれますか?」
「ふむ。どうしようかねえ」
 いたずらそうにウィルラースは口の端を歪めた。
「どちらにしても、あなたもまだ体調は万全でないようだから、せめて今日一晩はここに泊まっていかれるといい。部屋はいくらでもあるからね。私も、今日はここにいることにするよ」
「ウィルラースさま、ちゃんとした警備隊のいる、公邸にお戻りになった方が」
「ほら、アドはいつも慎重だけどね。まあ、君をそばにおいておけば、たいていのことは大丈夫だろう」
 そう言われればまんざらでもなさそうに、アドはわずかに表情を柔らかくした。
「それに、君たちのこれまでの旅の話もちゃんと聞きたいしね。なに、話せるところだけでもいいよ。また少し休んで、晩餐のときにでもね。なんなら部屋はハインどのと隣にしてもいい。それならあなたも安心でしょう」
「ええ……」
 クリミナは、ハインをちらりと見た。
「では、お言葉に甘えさせていただきます。あと、そうだわ、私の荷物は……」
「おお、もちろん、あなたの剣や、その他の荷物はちゃんと保管してあるよ。ちょっと見せていただいたけど、あれはいい剣ですね。コス島の女職人のものでしょう。おや、他になにか?」
「あの、じつは私の馬が、屋敷の外の繁みにつないだままでした」
「ふむ。どのへんか分かるかな。誰かに見にゆかせよう」
「ありがとうございます。北西の、お庭のプラタナスの大木に縄をかけて……あの、壁を乗り越えたので、その外のあたりだと」
「なんとまあ、あなたは優秀な女騎士であり、冒険家でもあるのですね。さよう、泥棒とまでは言っては失礼かな」
「いいえ、あの……申し訳ありません」
 クリミナは顔を赤くした。
「なに。たいていのことは許しますよ。なにせ、あなたとレークには、大きな借りがあったからね。セリアスさまを我が元に送り届けてくれた、という」
「……」
「セリアスさまに会いたいかな?」
 思いがけないその申し出に、クリミナは驚いた。
 かつて、レークとともにクレイ少年を連れて、まだ東西に分裂していたアルディのサンバーラーンに降り立ち、騎士たちに追われ、山賊に捕まりかけながら、なんとかグレスゲートへとたどり着いた。あの冒険行がにわかに思い出される。そして、あの可愛らしいクレイ坊やが、いまは大公としてこのアルディを治める地位にいるというのは、なんだか想像できないことだった。
「ええ、会いたいです」
「分かりました。では、なんとかしましょう。明日の朝にでも時間を作ってね。きっと、大公閣下も驚かれ、とてもお喜びになるでしょう」
 そのとき、窓の向こうから優美な音色が聴こえてきた。
「綺麗な音色……そういえば、さっきも聞こえていました」
「塔にいる、元大公妃が弾いているのですよ」
 ウィルラースは窓の外を指さした。
「たまに、お暇窺いにゆきますが、たいていは本を読まれているか、チェンバロを弾いておられるかだね」
「そうなのですか」
「さて、では私の方は、もう少し目を通しておきたい書簡などがあるので、そろそろ失礼しますよ。クリミナどのとハインどのには、それぞれに部屋を与えるように、女官に言い渡しておきます。部屋の外には念のため見張りの騎士を置きますのでご安心を。それから、武器のたぐいはこの屋敷の中にいるうちは返せないので、そこは了承いただきたい。そのほかに、必要なものがあれば、なんなりと女官に申し付けてけっこうです。それでは、晩餐の時にまたお会いしましょう」
 鳴りやまないチェンバロの響きに、少しうんざりしたように、ウィルラースは立ち上がった。アドとともに彼が部屋を出てゆくと、室内はとたんに静かになった。女官がやってくるまで、クリミナもハインも、疲れていたためか言葉をかわすことなく、窓の外から聞こえてくるその優雅な音色にただ耳を傾けた。
(とても美しい旋律だわ……)
 かつては華やかな大公妃の地位にいた女性が、いまでは一人で塔に軟禁され、一歩も外に出ることもなく生涯を終えるのだと思うと、その雅な音色の中に、どこかはかなげな寂しさが漂っているような気がするのだった。

「じゃあ、ハイン。またあとでね」
「ああ」
 隣の部屋に入ってゆくハインを見送り、自分の部屋に入ると、クリミナは着ていたローブを脱ぎ捨てて寝台に横になった。
 忍び込んだ屋敷の地下室で、自分の素性を明かして倒れ、ウィルラースとの再会からジャリア兵の襲撃と、そのひとつひとつを思い出すだけで、頭がぐるぐると回るような思いだった。
(でも、よかったわ)
 目的であったハインを探し出し、こうして会えたのだから。それに、ウィルラースともいろいろな話をし、なんとなくだがずいぶんと、国際情勢というものが見えてきたような気がする。旅をしている間は、いわばこうした世の情勢を見渡せる知識人というような人物と出会うことは、あのコス島の老人を除けばほとんどなかったので、色々と刺激を受けたし、また自分の立場やハインの立場、これからの行動などについても、これまではずいぶんぼやけていたものが、少しずつ定まってゆくような、そんな感じがした。
 夕刻までの時間をゆっくりと休むと、体調はずいぶん良くなったようだった。
「クリアナさま、お加減はいかがですか」
 ノックとともに、あのレナという女官がひょっこりと顔を出した。
「そろそろ晩餐のお時間なので、よろしければお支度を」
「ええ、分かりました」
 寝台から起きると、ずいぶん身体が軽く感じられた。頭痛も治まっている。
「着替えます」
 今度こそ、男ものの胴着姿に着替えようとしたクリミナだったが、レナはそれに断固反対した。
「せっかくのウィルラースさまとの晩餐ですから。こんな機会はないですよ。あの美しいローブ姿……とても素敵でした。お手伝いしますので、おめかしくださいませ」
 いくぶん辟易しながらも、クリミナはそれに従った。自分自身、女物の服を着てみてまんざら美しくなくもないと思ったし、なによりも目を輝かせるレナを前に、抵抗をする気も失せた。今度はちゃんと足通しを脱いで、刺繍がほどこされたレースのペチコートに緋色の長スカートを重ねて履き、胸の四角く開いた緋色のローブをまとった。
「とてもお美しゅうございます。少しお化粧もしましょうか」
 鏡台の前で、レナのなすがままになって半刻ほど……そこには、長旅にくたびれた男装の女騎士ではなく、優美に衣装を着こなしたあでやかな貴婦人がいた。
「なんて綺麗なのでしょう。まるで、どこかの王族の姫君ですわ」
 レナがうっとりと両手を組み合わせる。クリミナは鏡の中の自分を見て、うっすらとほほ笑んだ。
「おかしくないかしら」
「とんでもございませんわ。これほど美しい貴婦人は、アルディの大公家にもいやしませんわ。あ、いいえ……こんなこと言うとまずいですね」
「ありがとう」
 化粧をして口紅もつけた自分の姿には、気恥ずかしさもあったが、こうして華やかな衣装に身を包んで女らしく振る舞うということが、ずいぶん久しぶりであったので、確かに新鮮な気分ではあった。さきほどのようないい加減な恰好に比べれば、こちらの方がいくらかマシに思えた。
「私は、さきほどの斬新な着こなしも好きですけどね。どことなく中性的なお姿で」
 クリミナ以上にうきうきとして、レナは言った。
「さあ、ご案内します。まいりましょう」
 屋敷の二階の西側の回廊を歩いて、その先にある広間に通された。今日は正規の賓客を迎えたわけではないので、大がかりなものではなかったが、十人くらいは座れそうな長テーブルには、すでにたくさんの料理の皿が運ばれていた。
「クリミナどの、こちらへどうぞ」
 そう言うウィルラースは窓際の座席に座り、その横にはハインの姿があった。さきほどの服が血に汚れたこともあって、ハインも真新しい胴着に着替えて、なにやら落ち着かない様子であった。他にテーブルにつく客はいなかった。ウィルラース背後の壁に、ひっそりとアドが立っている他は、料理の皿を運ぶ小姓が二人いるだけである。
 クリミナが、ハインの向かいの席に着くと、さっそくウィルラースが杯をかかげた。
「さて、では乾杯しよう。美しき貴婦人との再会に。そして、貴婦人を守る騎士に」
 クリミナとハインも、ワインの注がれた杯をかかげ、それに口を付けた。
「肉も魚も、それにワインも、いくらでもおかわりしてけっこうだよ。雅やかなトレミリアの晩餐とはほど遠いでしょうが」 
「そんなことは」
 テーブルに並んだ料理は、焼かれた肉や魚、それにパイやスープなど、比較的オーソドックスなものであったが、ちゃんとした料理人の手で調理され、じつに美味しそうであった。旅の間、一般の人々と同じような素朴な食事しかしてこなかったクリミナにすれば、これは久しぶりのごちそうであった。
 クリミナがスープに口をつけると、ハインはさっそく骨のついた焼肉にかぶりついた。そういえば、今日は朝からなにも口にしていなかった。いなくなったハインを探して町を歩き回り、屋敷に忍び込んでと、大変な一日だったのだ。スープで体が温まると、ずいぶん食欲が湧いてきた。クリミナも肉や魚の料理に手を伸ばした。たっぷりとスパイスを効かせた焼肉や、今朝沖合でとれたという大魚の丸焼き、はちみつやチーズを使った何種類ものパイなど、ウィルラースの言うように、トレミリアの宮廷ほどには洗練されてはいなかったにしろ、どれもが新鮮で十分に美味であった。
「ワインのおかわりはいかがかな?」
「いえ、もう十分です」
 久しぶりの贅沢をすっかり堪能したと、クリミナは満足そうな息をついた。ハインの方は、まだ次の肉を手にし、かぶりついている。見かけによらず健啖家であるようだ。
「それにしても、あなたがそんなに危険な冒険をしてきたとは。森の中で山賊に襲われるところなどは、あの物語の中の女戦士、レイリアのようだね」
 これまでの冒険行をかいつまんで聞かせると、ウィルラースは、ワインの杯を片手に感心しながらそう言った。そういえば、あの山賊のガレムと最初に出会ったのは、このアルディでだったのだと思いだした。
(いままでは、あまり縁のある国だとは思っていなかったけど。不思議なものね)
「その山賊の親玉を仲間にし、そして今は、忠実な騎士を供にしているとは。あなたには女王のような資質があるのかもしれないね」
「まさか」
 クリミナは笑いながら、横にいるハインに目をやった。
(でも、彼が見つかって、なんだかとてもほっとしているわ)
(この安心感はなんだろう)
 自分一人であったら、このままジャリアへ旅立つことをひどくためらったかもしれない。
(もともと、独りで旅をするつもりで国を出てきたというのに)
 それが自分の女としての弱さなのか、それとも短い間にハインへの信頼が思いがけないくらいに増してきているのか。
(その両方かもしれない)
 ただそれは、決して男女の間の感情ではなく、あくまで頼りになる道連れとして、あるいは信頼を置く人間への思いである。クリミナはそう思っていた。
 もうひとつ、心配なのは、ハインが己の母国であるジャリアに行ったときにどうなるのかということだった。記憶をすっかり思い出すのか、それともそうはならないのか。どちらにしても、自分かハインかが、苦しい思いをすることになるに違いない気がする。
(きっと、この先もいろいろなことがありそうだわ)
「ところで、ジャリアにゆくのなら気を付けるといいよ」
 クリミナの思いを感じ取ったかのように、ウィルラースが口を開いた。
「ジャリアの北部、ラハインを中心にして、実効支配しているアナトリア騎士団の連中は、騎士と言うよりは、ほとんど山賊まがいの武骨なやつらだからね。デュプロス島の会議でかれらと言葉を交わしたが、ぎらぎらとした目つきと乱暴な物言いは、なかなかのものだった。そう、なんとなくレークどののことを思い出したよ」
「そうなのですか」
「ああ。君らがどこを目指すのかは分からないが、北に近づくにつれて危険が増してゆくと思った方がいい。だがそれだけでもない。ジャリア南部の国境付近では、旧ジャリア軍の残党が潜伏していて、こちらも山賊のように、いつどこに現れるか分からないという。なるべく街道から離れすぎずにゆくのがよいだろうね。もちろん、君らのような剣の腕前がある旅人なら、そうそう危険な目には合わないかもしれないが、しかしながら、ある種の特別な人間というのは、自分が望むか望まぬかに関わらず、向こうから物事が降りかかってくるからね。まさにそれが運命だということなのかもしれないが」
 いくぶん酔いが回ってきているのか、ウィルラースは、心地よさそうに目を閉じた。
「ある意味では、私はとてもうらやましいんだよ。君たちのように、あのレークのように、独りで好きな所へ行き、己の腕と運のみを信じて、降りかかってくる運命にもまれるようにして、ときにそれを切り捨て、ときにそれに流されさまようというのは。それこそが冒険というものなのだろうな。かつての私は、とにかくこのアルディをなんとかしたい、新たな国を作りたいと、その思いだけであらゆる行動してきた。それは今考えると、革命と言う名の冒険の日々だったのかもしれない。さほどの自由はなかったかもしれないが。だが、いまの私は、目的をおおむね達成し、国の宰相として、もはや逃げも隠れもできない立場にいる。むろん、私がどこかへ旅立ってしまうわけにもゆかぬし、これまでのように半ば強引に物事を進めてゆくことも、ある程度はもう自重せねばならない。アルディという国のことを考え、サンバーラーンの市民たちのことを考え、常に公国全体のことを考えながら行動しなくてはならないのだ。それを自ら望んでいたというのに、このようなぐちを吐くなどとは、少し情けないね。だが、あなたたちを見ていると、自らの命の危険を顧みず、国を捨て、旅立ち、先の分からぬ運命へと身を投じてゆく、そのわくわくとするような気持ちをね、私はつい想像してしまうんだよ」
 一国の宰相となり、すべてを手に入れたかのような貴公子の思わぬ述懐に、クリミナは驚きつつ耳を傾けた。
「だが、私自身がそうしたいかというとね、これはまた違うのだな。いや、正確にいえば私にはできないということなのだ。それは立場的なことはもちろんだが、私という実際の人間について、私自身がよく知るところによると、彼はリネンか絹の寝床でないと眠れない。カビくさい場所にはいられない、いまとなってはクオビーンがなくてはいられない。できればワインも。そして、剣術は一通りは習ったが、できればもう二度と剣は振りたくない。野蛮だし、なにより腕が疲れるからね。新鮮な肉や魚や、チーズがなくてはいられない。卵も、ナッツもだ。さよう、つまりは、私はただの貴族でしかないのだ。空想の中で冒険する浪剣士にあこがれても、実際にそうなることはできない。薄汚れた格好をして、世界を放浪するなどできはしない。だからなのだな。だからいつも、私はそういう冒険に憧れ、冒険の話を聞きたがる。それを聞いて、自分で冒険をしたような気になる。それを想像することで満足を得ている。実際に冒険者に身をやつして、寒かったり暑かったり、お腹が減ったり喉が渇いたり、痛かったりつらかったりすることなどはしたくない。そしてそれは、ほとんどの貴族がそうであるように、実際の痛みを知らないくせに、知った風になって物事を決めてゆくという、支配者たちの傲慢に他ならない。だがせめてね、私はそうした痛みをよく想像して、冒険に生きるということを想像して、町の人々の日々の営みを想像して、その気持ちを想像して、そのうえで政治をすることを考えたいのだ。ああ、私はなにを言いたいのだろうね」
 自分の話したことに少し照れたのか、ウィルラースはうっすらと笑った。
「だからね、あなたがレークどのを探しにゆくという、その大変な冒険に、私は勝手ながら大きな想像をしてしまう。あなたの旅の無事を祈りながら、あなたがどんな冒険をし、どんな事態に陥り、どうやってそれを乗り切るのか。あなたが旅の果てに、ついにレークどのを見つけることになるのか。それはいつ、どこでなのか。私はそれを知りたくて、知りたくて、死にそうになるかもしれない」
 常に冷静で、的確な行動と計画のもと、冷徹に物事を成し遂げてゆくという……実際に大きな革命をなしとげたこの貴公子の中に、このような冒険へのあこがれと、少年めいた好奇心が潜んでいたとは。クリミナは、吸い込まれるように、その美貌の宰相を見つめていた。
「だからひとつだけ、私の頼みを聞いてくれるかな」
 長い戦いのはてに、ついにひとつになった大国、アルディの事実上の施政者……ウィルラース・パラディーンは、いまは一介の旅人となり果てた元女騎士の顔を、真剣なまなざしで覗き込んだ。

 その翌朝、クリミナは早くに目が覚めた。
 心地よいくらいに弾力のある寝台で、朝までぐっすりと眠ったのはいつ以来だったか。朝が来るのを楽しみに思えたことも、ずいぶん久しぶりのことである。
 身体を起こすと、もう体調はすっかり回復したようで、身体もずいぶんと軽く感じられた。これなら旅立てるとはりきって、クリミナは身支度を始めた。
 昨日、女官が用意してくれた真新しい胴着と足通しを身に着け、軽やかに部屋を出ると、扉の外には、すでに支度を終えたハインが座り込んでいた。
「まあ、ハイン。あなたまさか、こんなところで寝たんじゃないでしょうね」
「ああ」
 顔を上げたハインは、そうだとも違うとも言わなかったが、クリミナはきっと、自分の部屋の見張り番を、彼が自らしてくれたのだと思った。
 二人が屋敷の階段を下りてゆくと、執事らしき男が立っていて、二人にうやうやしく礼をした。
「ウィルラースさまはすでに、公邸へとお戻りになられました。お二人のお荷物と馬は、門の前に揃えております」
「そう、ありがとう」
「それから、朝食をお召しになってから、午前の八点鐘の頃に庭園を散歩されてはどうかと申されておりました」
「庭園を?」
「はい。ただし、クリミナさまお一人でとのことです」
「分かりました」
 クリミナは、昨夜のウィルラースの約束を思い出した。
「そのあいだ、ハインは待っていてくれるかしら」
「分かった」
 クリミナを一人にはさせたくないと言いたそうな様子だったが、彼は無駄なことは言わない。
 二人で朝食をとってからひと息つくと、クリミナは食後のデザートを断って、そわそわと立ち上がった。
「ご案内をお願いします」
 執事に頼むと、すぐに女官のレナがやってきた。
「もうすぐにお発ちになってしまいますのね。お寂しゅうございます」
 レナはたいそうクリミナのことが気に入ったようで、庭園の案内約を自ら買って出たらしい。
「そうした男性の恰好をされていても、きりりとしてステキですわ」
 とくに同性好きというわけではなさそうだったが、クリミナの姿にいちいちうっとりとする様子などは、やはりオードレイを思い出してしまう。今日でここを去るのだから、そう邪険にすることもないかと、クリミナはつとめて笑顔であしらった。
 屋敷の裏手の庭園は、ツゲやイチイの木が美しく配置された、見事に整えられた一角で、高台にあるため周囲の見晴らしも素晴らしい。南には、サンバーラーンの港と青々とした広い海が広がり、東にはアルディを治める公家や大臣などの立派な屋敷と、四つの尖塔が晴れ渡った空を背景にそびえたつ。
「こちらです」
 レナに案内されて、区画庭園を歩いて行くと、ちょうど午前の八点鐘が鳴りだした。
 庭園のちょうど中央あたりには、海の女神、アルヴィーゼの彫像があり、その手にある水の張られた水盤からは、ゆるやかに水が流れ出して、水路となって庭園を横切っていた。その水路の向こうから、いま人影が現れた。
 お供の女官と、背後に護衛の騎士らしき二名を連れて、早足でこちらに向かってきたのは、可愛らしい少年であった。
「クレイぼうや……いえ、セリアスさま」
 クリミナは思わず、こみ上げてくるものを覚えた。
 レークとともに夫婦の役割を演じながら、二人の子供としてクレイ少年を連れ、船に乗り込み、ウェルドスラーブのトールコンからアルディへとわたり、このサンバーラーンでは旧大公の勢力たる騎士たちに追われて、徒歩でグレスゲートへと向かうという大変な旅をした。あのときから、まだ三月ほどしか経ってはいないのに、もうずいぶんと昔のことだったように思える。
 茶色みがかった金髪をした、品の良さそうに整った顔だち……いかにも貴族の少年めいた、あのときのままの姿で、セリアス・フレイン……十一歳のアルディの新大公は、おずおずとクリミナに歩み寄った。
「大公殿下、お目通りできることを光栄に存じます」
 クリミナはやわらかく微笑んだ。
「覚えているかしら。私を、」
「もちろん、覚えています」
 少年は、少しはにかみながらクリミナを見た。
「セリアスさまは、おいくつだったかしら」
「僕は、もうすぐ十二歳になります」
 あのときよりも、少しはきはきとしていて、少し大人になったような感じがするが、まっすぐにクリミナを見る素直なまなざしや、微笑んだときのぷっくりとしたやわらかそうな頬はなにも変わっていない。
「久しぶりね。お元気そうでよかった」
 少年を抱きしめたくなるのをこらえながら、クリミナはひざまずいた。
「大公殿下には、ご機嫌うるわしうございますか?ふふふ」
「うん。そんなのしなくていいよ」
 あのときからずいぶん世界は変わり、互いの地位や立場も変わっていたが、可愛らしく少し照れ屋の少年は、その中身まではすっかり変わってしまったわけではないようだった。
「レークは元気なの?」
「それは、あの……」
 クリミナは口ごもった。草原のいくさで生死も分からぬ行方知れずだとは、言えなかった。
「レークにも、また会いたいな」
「セリアスさまは、レークがお好きなのかしら?」
「うん。レークは楽しいし、それに強いから」
「そう、でしたかしら」
「うん。たまに怒ったりしていたけど、僕やあなたを一生懸命守ってくれたんだよね」
「ええ……そうね。ええ……」
 少年の言葉に、何故だか泣きそうな気持になった。コス島に行って以来、なるべく自分の中に押し込めようとしていたもの……心の底からレークを求める気持ちが、一瞬で溶けだしてきたような感じであった。
「きっと、会えます。また」
「うん。じゃあ、今度は二人で会いに来てよ」
「ええ、きっと……」
 声を震わせたクリミナは、少年に涙を見られぬようそっとぬぐった。
「セリアスさま、そろそろお時間です」
 大公という立場から、このように外に出られる時間というのは少ないのだろう。それも護衛やお付きなしでは、どこもゆかせてはもらえぬのかもしれない。
「約束。きっとね」
 少年は寂しそうに、クリミナに別れを言った。
「またね」
「はい。セリアスさまも、お元気で」
 女官にうながされて歩き出すが、少年は何度も振り返ってはこちらに手を振った。護衛の騎士の間から、少年の顔が覗くたびに、クリミナも笑顔で手を振った。

 屋敷のエントランスへ戻ると、すでにハインがそこに待っていた。
「お待たせ」
「ああ」
 二人とも真新しい胴着に身を包み、休息も十分であった。また旅を始める気力と体力を取り戻し、クリミナは晴れやかな気持ちだった。
(すべては、これでよい。そんな気がするわ)
 セリアス少年とは、ほんのいっときの再会だったが、ひとつの胸のつかえが降りたような感じがした。そして、これまでは感じなかった、アルディという国への親しみが、ずっと湧いてきた気がする。
(これはきっと、必要な出来事だったのだわ)
 ハインが捕らわれたことも。あるいは自分が体調を崩したことも。今日につながっているのだ。そしてこの再会と休息とが、自分を蘇らせてくれたのだと、そう思えた。
 屋敷の門まで来ると、そこにひとりの男がぽつりと立っていた。三頭の馬もそこにいた。そのうちの一頭は、クリミナの愛馬の栗毛である。
 男は、笑顔で二人にうなずきかけた。
「こんにちは。私を覚えてますか」
 船乗りのように日焼けした肌に、がっしりとした体格。細い目をした、どことなく東方系の顔立ちをした騎士である。
「もしかして、あなたが、ウィルラースさまが言っていた方ね」
「そうです。ラズロです。クリミナさんとは以前にご一緒に旅をしましたね。レークさまと一緒にセルムラードへ」
 クリミナはよくよく騎士の顔を見て、思わず手を叩いた。いまは騎士らしく上等の胴着を着ているので、気づかなかったが。
「ああ、思い出した!そうだわ。ラズロ。あなたなのね」
「はい、お久しぶりです」
 かつて、レークとともにトロスからセルムラードへと旅をしたとき、港町スタグアイの酒場でトロスの船長モーガンから旅の連れにと紹介された。それがラズロであった。セルムラードの首都、ドレーヴェへの道のりを、途中でオオカミに襲われたり、山の中で迷ったりしながら、なんとか一緒に切り抜けた。なかなか勇敢で、馬の扱いにもたけて剣も使える。なによりその誠実な人柄をクリミナも気に入っていた。
「あなたは、トロスの船乗りよね。どうしてこのアルディに?」
「はい。じつは、あのあとお二人がドレーヴェに無事についたことを、ウィルラースさまに報告して、そのままヴォルス内海の海戦に参加したのです。我々は勝利し、ウィルラースさまは新たなアルディをお作りになられた。自分は、これからもぜひともウィルラースさまのもとで騎士としてやってゆきたいと申し出まして、それが正式に認められたのです」
「そうだったの」
「今回また、クリミナさまの旅のお供をさせていただけるということで、大変うれしく思っております」
 歳は二十代半ばほどだったろう。レークやハインよりはいくつか年上の、トロス出身の騎士は、あらためてクリミナと、そしてハインとにうなずきかけた。
「ウィルラースさまの命により、お二人に付いて、ジャリアまでゆきます。お二人が危ない目に合われたときにはそれを助け、それ以外のことは極力干渉はせぬようにと命じられております」
「……」
 ハインの方は、なんとなく気に入らないふうに、じろりとラズロを見ただけだった。
 クリミナは、新たな連れが知人であったことにほっとした。昨夜の晩餐で話されたウィルラースの頼みというのは、自分では決して目の当たりにできない、クリミナたちの冒険や旅の経緯を、お供の騎士にしっかりと見届けさせ、それを持ち帰り報告させるというものだったのだ。
「できれば、あなたがレークどのと再会するという、その感動的な場面までを、なんとか彼に見届けさせたいが、そこまでは無理かもしれないね」
 ワインに少し酔ったように、ウィルラースは、その頬を紅潮させながら言ったのだった。
「とにかく、あなたたちの旅の邪魔にならぬようにだけは、気を付けさせるよ。彼が足手まといになったときは置いて行ってもらってかまわない。また、窮地に陥った時には彼を使ってくれていい。彼のために君たちがなにかしようと思わなくていい。君たち二人からは少し離れて、あとを行くときもあるだろう。彼がいなくなっても探さなくていいからね。きっと、彼はしかるべきときがきたら、そう、勝手にここへ戻ってくるだろう。そのタイミングと判断はすべて彼に任せることにしてあるから。とても信頼できる騎士なのでね。私は、退屈な日々の公務に勤しみながら、いつか彼が帰ってきて、あなたたちの話を聞かせてくれることを、楽しみに待つことにするよ」
 その見届け人というべき騎士を一緒に付いてゆかせる代わりに、ハインのための馬や、その他の必要な装備もすべて用意してくれるというので、クリミナにはそれを断るべき強い理由もなかった。願わくば、その騎士というのが感じのいい人間であればと思っていたところだったが、それがラズロであるのなら、なんの文句もなかった。
(むしろ、彼ならレークのことも知っているから。助けになることもあるかもしれない)
 ウィルラースがそこまで考えてラズロを選んだのかどうかは分からないが、ともかく、これで旅の仲間が一人増えたのである。クリミナにすれば、レークを探すための心強い味方が一人増えたような気がした。
「よろしくね。ラズロ。まずは、ジャリアへゆくまでは」
「ええ。アルディ国内の北ゆきのルートも、いくつか知っていますから。お任せください」
 そう言ってラズロは胸を叩いた。
「ごめんなさいね。お前を放っておいてしまって」
 しばらくぶりの愛馬の体を撫でてやる。用意されたハインの馬は、こちらは艶やかな黒毛である。ラズロの馬も同じ黒毛だった。
 ハインは、戻ってきた己の剣をしっかりと腰のベルトに吊り下げた。コス島のオルファンとカリッフィの店で、クリミナが買ってやった長剣である。
「私のカリッフィの剣は。しばらくは使いそうもないから、ハインの荷物にしておいてくれるかしら」
「分かった」
 ハインの馬は、クリミナの愛馬よりも少し大きな牡馬だったので、クリミナの荷物を一緒に乗せてもまったく問題ない。
「ウィルラースさまから、アルディ国内の通行書もいただきました。セリアス大公の蝋印付きですから、これを見せればどんな町でも自由に行き来できます」
「それは助かるわ」
 受け取った通行書を懐にしまい、クリミナは愛馬にまたがった。ハインとラズロもそれに続く。
 高台の涼やかな風に背を押されるように、三人は出発した。朝日を受けて輝く南海を見下ろし、塔に囲まれた山の手を下り始める。
 見上げれば、晴れ渡った空がどこまでも広がっている。クリミナは、潮風の香りを吸い込むと、はにかんだ少年の笑顔とともに、それを記憶した。
(これからが本当の、北への旅だわ)
 次に戻って来られる日が来るまで。この旅の果てが来るまで。
 自分はきっと変わらない。アルディにいようとも、たとえジャリアにいようとも。
 それを信じることがいまの自分にはできるのだ。
「ゆきましょう。北へ」
 旅がまた始まり、そして続いてゆく。
 クリミナは、眼下に続く道をしなやかに指さした。



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