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   水晶剣伝説 XIII 北へ、


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 その部屋は、大貴族の居室というよりは、むしろ書斎のようだった。広さはクリミナのいた客室の二倍はあるのだが、壁際にはずらりと本棚が並び、中央には会議ができるような大きなテーブルがあった。
 クリミナが部屋に足を踏み入れると、女官は丁寧に一礼して扉を閉めた。本棚の前にある小さなテーブルに向かっていた人物が、すっと立ち上がって振り向いた。
「ああ、あなたは……」
 頭のどこかでは、そういうこともあるかも知れないとは思ってはいたが、いざ目の前にその人物が現れると、これはやはり夢ではないかという気持ちに包まれる。
「これは、クリミナどの。見違えましたぞ」
 やわやかで典雅な響きの声……ケルメス染の緋色のローブに身を包み、長く伸びたブラウンの髪がふわりと揺れる。沿海の国独特のおおらかな光と、鋭い意志の強さとが同居した、その緑がかった青い瞳が、まっすぐにクリミナを見つめていた。
 革命の貴公子、ウィルラース・パラディーン……その人が、そこに立っていた。
「さあ、どうぞ。こちらにおかけください」
「は、はい」
 クリミナは、驚きと半ば夢うつつが入り混じった気分で、ウィルラースの向かいに腰を掛けた。一見しただけでは男性とも女性とも判別しかねるような、その完璧な美貌を前に、言うべき言葉が思いつかない。
「なにかお飲みになりますか。熱いハーブのお茶でもいかがかな」
「は、はい……」
 ウィルラースが呼び鈴を鳴らすと、今度はさきほどとは別の女官が現れた。
「クオビーンと、レモンバームのお茶を」
「かしこまりました」
 女官が出てゆくのを待って、ウィルラースはにこりとクリミナに笑いかけた。
「もしや、あなたを呼びにやった女官のレナに、その服を着せられたのですか」
「い、いえ……これは」
 試しに着ているところを女官に見られて、そのまま……とは説明しようがない。クリミナは口ごもった。
「よくお似合いですよ。なんというか、独特な着こなしも含めて、よくお似合いだ」
 それが皮肉なのかどうか、やわらかな笑顔からはとても読み取れない。
「あのレナは、少々お調子者なのでね。無理やりそれを着せたのでなければよいけれど」
「いえ、そんなことは」
 クリミナはかぶりを振った。着ている服の恥ずかしさなどは、もうどうでもよくなっていた。
「それより、驚きました。ここがあなたの屋敷だったとは」
「なに。驚いたのはこちらです」
 ウィルラースは、思い出したようにくすりと笑った。
「朝食後に仕事をしていると、騎士たちが慌てて飛んできて、わけの分からないことを言い出すものだから、私は書きかけの書類を置いて、地下室へ行ってみたのですよ。すると、そこにあなたが倒れていたのだから」
「そうでしたか」
「最初は、分かりませんでしたがね。薄汚れた格好をしたおかしな女人だと、失礼ながらそう思って。よくよく見れば、これはなんと本当にトレミリアの女騎士殿だと。仰天したとはまさにあのこと」
 ウィルラースはくっくっと笑った。
 そこへノックとともに、カップを乗せた盆を手に女官が入ってきた。クオビーンのかぐわしい香りが立ちこめる。
「ありがとう。このクオビーンがなくては、私は半日ともたないのですよ」
 その香りを吸い込み、カップに口をつける。そんな様子すら優雅であった。
「良質なクオビーンがたくさん取引できるようになったというだけでも、ウェルドスラーブと友好国になれたことを、ジュスティニアに感謝せねばなりますまい」
 カップをいじりながら、ウィルラースは冗談めかして言った。
 かつての革命の貴公子であったころは、ふるまいは同じように優雅であっても、なにかに飢えるかのようにぎらぎらとしたものが感じられたのだが、いまはもっと落ち着いたというべきか、物事全体をを見つめる冷静な政治家のような雰囲気があった。実際に、いまはアルディの宰相という立場で日々の責務をこなしているのだから、それも当然なのかもしれなかったが。
 クリミナもハーブのお茶に口を付けた。爽やかな香りが鼻孔に広がる。ほっと息をついたクリミナを見て、
「そういえば、あなたと会うのは、あの都市国家トロス以来ですね。開戦前の高ぶりをひそめていた頃だ」
「ええ」
「あなたがたが、セリアス様を我が元に送り届けてくれたおかげで、こうしていまの私はいるのですよ。セリアス様は大公の地位につかれ、この私は不肖ながら、その補佐をするという立場になった。さよう、ひとつの時代が動き出したという気がしますね」
 まるで世間話でもするように、ウィルラースは一国の趨勢を口にした。
「おかげて、新たなアルディは順調に動き出した。そう、いまのところはとても。そういえば、風の噂に、あなたが国を捨てて出奔したというようなことも聞いたのだが。まさか、そのあなたと我が国にて再会することになるとはね。これもひとつの運命というものか」
「……」
 黙ったままのクリミナに、ウィルラースは別のことを訊いた。
「ところで、レークどのは、お元気かな」
「いえ……あの」
「これは失礼。探るような言いかたを。じつは、先のデュプロス島での大陸会議のおり、トレミリアのブロテどのとお会いした時に、あの彼が、戦場で行方知れずになったという話を聞きました。やはり、本当のようだ」
「ええ」
「それでは、あなたがここにいるのは、もしや、レークどのが行方知れずになったことと関係があるのかな?あるいは、彼を探して、とか」
 やわらかな口調で率直な物言いをするのは、以前と変わっていない。ウィルラースの性格には、きれいごとで物事をまぎらわせたり、真意を尋ねるのによけいな遠回りをするということは、微塵もないようであった。
「……」
 この相手を適当にごまかすことはできないだろうと、クリミナは素直にうなずいた。
「そうです。私は、彼を……レークを探しています」
「おお、やはり。それでトレミリアを捨ててまで。それはまた大変な決意ですね」
 なにを聞いても、さほど驚いたそぶりは見せない。その類まれな美貌も含めて、その落ち着きと冷静さにおいては、あの金髪の美剣士……アレンにもよく似ているとクリミナは思った。
(アレンとも、そんなにたくさん話したというわけではないけれど。こんなに綺麗な男性というのは、なんだか怖いくらいだわ)
(そういえば、アレンはいまどうしているのだろう)
 レークが行方知れずと知って、とても心配しているのではないだろうか。まだフェスーンにいて、カーステン姫の家庭教師をしているだろうか。アレンが、コルヴィーノ王を手にかけた刺客を追って……というか、そういう名目で、同様にトレミリアを飛び出したなどとは、夢にも知らないクリミナである。
「それで、」
 ウィルラースの青い瞳が、黙り込んだクリミナを静かに見つめていた。
「彼の手がかりを得て、このアルディへやってきたと?」
「そう、そうです」
「なるほど。これからどちらへ向かうつもりのか、お聞かせいただいてもよいかな」
「それは……」
 クリミナは返事をためらった。
「ご返答によっては、そう……私は、このままあなたを、ここに軟禁することも考えなくてはならないかもしれない」
「なぜ、そんなことを」
 問われると、ウィルラースはにやりと笑った。
「出奔したクリミナどのの行方は、トレミリアにとっては大変な重要な事項でしょう。たとえば私が、あなたをここにとどめ置き、フェスーンに使いをやらせたら、アルディとしてはひとつトレミリアに恩を売ったことになる。これは今後の貿易や、通商などの立場でもずいぶん有利に使えるカードになりそうですな」
「まさか、そんなことを」
「いまの私なら、しかねませんよ。宰相というのはね、国内の治安はもちろん、外交や貿易の方面にも、常に目をゆき届かせなくてはいけない。とくに、新たなアルディが始まったばかりのいまというときはね。ほんのわずかな関税率でも、それを勝ち取るためになら、美しいご婦人とのささやかな友情さえも売り飛ばしてしまう。そんな冷酷な男が私です」
「なんだか、ウィルラースさまは、ずいぶんお変わりになったように思います」
「そうかな」
 真面目な顔をして、貴公子は首をひねった。
「ええ、人をおどかすような、ご冗談も増えたようですけれど」
「ふむ、あの頃はそう……革命を志すただの、一個人に過ぎなかったからね。私などはとても無力な存在だったんだよ。いま思うと、心の余裕というのがあまりなかった。なるべくそれを、人には悟られぬようにはしたけれどね。だがいまはその反動でかな、いくらでも冗談が口にできる。それも本気の冗談がね。さよう、私はいつだって本気のことしか口に出さないんだよ」
 ほっそりとした指で端正な顎を触りながら、ウィルラースは口元を歪めて見せた。
「当ててみましょうか。あなたが向かうのは、きっと北……つまり、ジャリア方面ではないかな?」
「どうしてわかりますの」
「簡単なことだよ。ウェルドスラーブにゆきたいのなら、なにもアルディに立ち寄る必要はない。アスカへゆきたいのなら、サンバーラーンではなくもっと東の、そうグレスゲートあたりにゆくはずだろう。あなたはわざわざ、首都であるサンバーラーンヘ来た。ここからなら北へ向かうルートはいくらでもある。食料などの備品もいくらでも調達できる。人も多いから、騎士を連れていても目立ちづらい。そして、君の連れらしいあの男は、ジャリア人だろう。違うかな?」
 いきなり核心を突かれて、クリミナは口を引き結んだ。
「手荒なことはせぬよう、日ごろから騎士たちには伝えてあるんだが、行き届かなくて申し訳ない。ただ、誓って拷問したりしたことはないよ。アルディという国は、戦勝国であると同時に、戦敗国なんだ。革命を起こして、すべてが新しく生まれ変わったというのは表面的な部分に過ぎない。もともと、ジャリアと同盟に近い関係にあったことから、ジャリアの騎士くずれや傭兵くずれというのが、サンバーラーンには多かった。いまではずいぶんと減ってきてはいるが、それでもジャリア人の騎士や剣士を見かけたら、詰問し、怪しい場合には捕らえさせている。おそらく、あなたの連れの男も、市門に入る時から、すでにチェックされていたのだろう。詰問に応じなかったために、ここに捕らわれてきたのだと思う。あなたは、彼を探しにここへきたのだろう」
「その通りです。ハインは……ハインはどこですか?」
「安心していい。彼は別室で休ませているよ。拷問はしていないとはいえ、飲まず食わずでとても弱っている。騎士たちに聞いたところ、なにを尋ねても、彼は頑として答えなかったそうだ。自分の名前すらもね。おそらく、あなたをかばってのことだろう」
「……」
「彼をここに呼ばせるかね。あなたが望むのなら」
「はい、彼に会わせてください」
「いいとも。ただし、こちらもアドをこの場に呼ぶけれどいいかい。あなた一人なら、万が一のことなどないが、私の知らない騎士くずれの男を同じ部屋に入れるのだ。念のため護衛を付けさせてもらうことになる。そうでなくても、アドは私から目を離したがらない。ここへ来るのだって、彼女はいつだって一緒に来たがるんだ。いまもきっと、別室でやきもきしているに違いない。いや、別に彼女がそばにいて欲しくないわけではない。ただ、ごくたまに、一人きりになりたいときもあるんだよ。だが、なかなかそうもいかないのだ。面倒なものだよ。施政者というのはね。自分の自由などあったものではない」
 ため息まじりに言うと、ウィルラースはまた呼び鈴を鳴らした。鳴らし方に決まりがあるのだろう、今度は部屋の外にいた見張り騎士が扉を開けた。
「アドをここへ。それと、別室で休ませている例の男も連れてくるように」
「はっ、かしこまりました」
 ほどなくして、まるで呼ばれるのを待ち構えていたかのように、アドが現れた。クリミナがハーブのお茶を一口すするほどの時間である。
「お呼びですか」
 アドは、扉の前でさっと胸に手を当てて、きびきびとした足取りで部屋に入ってきた。クリミナの存在に気付いたようだったが、命令以外の会話はせぬとばかりに、目を合わせることもなく、主の前に速やかにひざまずいた。
「ああ、ちょっとの間、この部屋にいてもらえるかな。それだけでいい」
「かしこまりました」
 そう言っただけで、彼女はウィルラースの守護神でもあるかのように、その背後に立った。銀色の髪を美しく結い上げた、女騎士……セルムラード出身の、凛とした中性的な剣士を、クリミナは惚れ惚れするように眺めた。 
「アドともトロス以来だろう。彼女は最近ますます剣の腕を上げたよ。そのうちあなたと剣の試合をするところでも見たいくらいだ」
「ご冗談を」
 アドが剣を振るうところを直接見たことはないが、レークに聞いたところによると、大変な使い手らしい。その腰に吊るした二本の曲刀が抜かれた直後には、すでに相手を確実に屠っているという。
「冗談ではないさ。あなただって女の身でありながら、一人旅をして、危ない目にも合いそうなところを、きっとその剣で切り抜けてきたのだろう。すごいことだよ。身近にアドという存在がいるから、女性でも大変な剣の腕前を持つものがいるのだということを、信じられるからね。私としては、もしアドがいなかったら、あなたに自分の護衛を頼んだかもしれないよ」
「まさか」
 クリミナくすりと笑った。ちらりと見ると、アドは口を真一文字に引き結んだまま、石像のようにそこに立っている。まるで感情というものがないように思えるが、彼女のウィルラースへの忠誠がただの主従関係によるものだけでないことが、同じ女としてなんとなく理解できた。
(こんなにも美しい男性のもとに仕えるというのは、どんな気持ちなのかしら。そして、その相手を愛してしまったとしたら)
 どちらもが類まれな存在であり、叶わぬ恋を秘めた物語のようなロマンを、二人の姿から感じて、こんなときであったが、クリミナはひととき想像を巡らせた。
「男を連れてきました」
 少しして再び扉が開かれたとき、そこに騎士とともにハインが立っていた。クリミナの姿を見つけるとハインは無言でうなずいた。まだ後ろ手を拘束されているが、地下室で見た時よりはずっと元気そうであった。
「ハイン」
 クリミナは思わず椅子から腰を浮かした。
「もういい。離してやるといい。ここにアドがいるから心配するな」
「はっ」
 命じられると、騎士はハインを部屋に押しやり、扉を閉めた。
「やあ、ハインどの。さきほどは地下室で失礼した。私はウィルラース、知っているかもしれないがアルディの宰相にしてこの屋敷の主だ。君に無礼をしたことはすまないと思っている。ただ、こちらとしても、ジャリア人らしき騎士くずれというのは、いかにも拘束の対象となりやすいのでね、仕方がなかった。さあ、どうぞこちらへ」
「……」
「なに、安心していいよ。クリミナどのと私は、すでに旧知の間柄なのでね」
 ウィルラースに手招かれると、ハイン無言でこちらに歩いてきた。
「君もなにか飲むかな?」
「けっこうだ」
 そういうと、クリミナのいる横に立つ。ちょうど向かい合ったところに立つアドにちらりと目をやると、アドの方も、まるで相手の力量を図るかのように、ハインを睨みつけた。
「初めて君の声を聞いたね。それに近くで見ると、思っていたよりも若そうだ。もしかして私より若いくらいじゃないのかな。ふむ、……ハインか。そういえば、いまふと気づいたのだけど、どこかで聞いたような名前だね。君はジャリア人なのだろう?」
「……」
 ハインは黙ったまま、うなずくでもない。
「それにその目つき。物おじせぬ物腰といい、とても一介の兵士には見えないな」
「ハインは、記憶を失っているんです。彼は、自分の名前の他には、ほとんどなにも知らないんです」
 クリミナはかばうように説明した。
「それは、どうやら嘘ではないようだね。そうでなくては、ジャリア人でありながら、いかにも剣士然としてこのサンバーラーンに入国するというのは、よほどの馬鹿ということになる。目を付けてくださいと言っているようなものだよ」
 ウィルラースの毒のある物言いにも、ハインは眉一つ動かさない。
「なるほど。なかなかしっかり訓練された騎士なのかもしれないな。あるいは、強烈な命令でもされているのか」
 興味ありげにハインを見つめながら、ウィルラースは尋ねた。
「彼とはどこで会ったのですか?」
「コス島で」
 どこまで話してよいものかと考えながら、クリミナは答えた。
「ある方から、紹介されたのです」
「よければ、その方の名前を教えていただけないかな?」
「知らないのです」
 この点では嘘をつかなくて済んだ。コス島で会ったあの不思議な老人に関しては、素性も名前もまったく分からないのだから。
「占い師の店で会った老人で、たしか、自分のことを魔術師のようなものだと言っていた気がしますが」
「なるほど、それなら少し納得がゆく。それに記憶を失ったジャリアの騎士を、こともあろうにあなたの護衛に付けようというのは、なかなか面白い発想だ」
 考えをめぐらせるように、ウィルラースは腕を組んでしばらく黙り込んだ。それからややあって、また口を開いた。
「たとえばセルムラードのエルセイナどのも、大変興味深い人物なんだが。どうにも、そのご老人というのも、それに近い大変な人物である気がするね。たとえ名を名乗らなくても、このジャリア騎士を見れば、なんとなくそれが分かる。おそるべき暗示かなにかによる命令と、絶対の服従を課すような、魔力的な力がね」
 その独り言のようなつぶやきに、クリミナはどう返答していいものか分からなかった。
「デュプロス島の会議にて、エルセイナどのを久しぶりに見た時は、まさしくそういう感じがあったよ。私などは、ただほんの少しばかり洞察力のある人間というだけで、なにも特別な能力などはないのだが、ああいう、なんというか、選ばれた種類の人々というのは、その本人はもちろんのこと、相手におよぼした痕跡の力というのかな、そういうものまではっきりと分かるくらいになるという」
「……」
「クリミナどのも、かつてセルムラードへ赴いたおりに、エルセイナどのと会っているだろう。どうかな、そのコス島のご老人と、エルセイナどの、なにか共通するような感じはなかったでしょうかね」
 ウィルラースからの思いもかけない質問に、クリミナは首を傾げた。
「エルセイナさまとは、まったく違うようなご老人でしたけど」
 むしろ、エルセイナのことを思い出すのなら、その絶世といってもいい美貌は、目の前にいるウィルラースの方に近いのではないかと思うのだが。あの謎めいたセルムラードの宰相は、男性なのか女性なのかも、まったく判別できないような外見であったし、中身の方も底知れない、いわば性別を超越したような存在に思えた。その点、ウィルラースやアレンというのは、同じく大変な美貌の持ち主ではあっても、ちゃんと血肉を備えた人間であって、とてつもなく美しいが、やはり一人の男性であるというふうに思えるのだ。
「外見というよりは、なにか感じられる力というものについてなんだが」
「それは……よく分かりません」
 クリミナは素直に答えた。もしも、この場にレークがいたならば、エルセイナとあの老人の共通点について、それはただひとつ……それこそ水晶の魔力であり、水晶剣へとつながる手がかりたる人物たちであるとでも語ったか、それとも内心で考えたかもしれない。だが、クリミナはむろん、水晶剣の存在も、水晶の魔力についても、なにも知らない。
「そうか。ではまあ、その老人についてはよしとしよう」
 ウィルラースは、いくぶんもどかしそうに肩をすくめた。
「このハインというジャリアの騎士が、あなたのお供としてこのアルディにやってきた事実。そして、これからあなたがたはジャリアへと向かうのだという。それは本当にレークを探してなのかな」
「どういうことでしょう?」
「いや、つまり……こういう抽象的な言いかたは気に入らないかもしれないが、私はずっと考えているんですよ。鍵はジャリアにあると」
「……鍵?」
「そう。これという確証があるわけでもない。また鍵というのがなにを指すのか、私自身にもはっきりとは分からない。ただ……」
 ウィルラースは、クリミナと、その横に無表情に立つハインとを見やった。
「すべては北へ……ジャリアへと流れ始めている」
「すべては、ジャリアへ?」
「さよう。さまざまな要因、日々受け取る細々とした報告、各国の情勢、人の流れ、それらがいま、すべてジャリアを指しているように思えてならない。具体的な事項については、公けにしたくない情報もあるので話せませんが、この数日の間、とくにそう思えるようになった。そこへきて、昨日、今日で捕らえられたジャリアの騎士くずれが何人もいて、そのなかにこのハインがいた。そして、クリミナどの、あなたの連れだという。これらがすべて偶然などとは到底思えない。おそらくは……そのコス島の老人なる人物も、私と同じか、いや私以上に事象の流れを見ているはずだ。つまり、あなた方がジャリアへ行こうとするのは、すべてにおいて必然であるのかもしれない」
「それは、どういう意味です?」
「そのままの意味だよ。私にだって、はっきりとは分からない。レークを探す手がかりがジャリアにあるというのも本当なのかもしれない。そうなると、つまりは彼も含めて……レークどののことだが、もっと言うと、彼が行方知れずになったことも含めて、すべての物事がジャリアへ流れてゆくという、その必然を構成する要因であったのではとね」
 ウィルラースは、彼にしては珍しく、興奮をにじませるような口調で語った。
「よく分かりません」
「私もだよ」
 クリミナの明快かつ簡潔な返答に、ウィルラースはふっと笑った。
「考えても考えても、はっきりとは分からない。だからもどかしいのだ。しょせんは私などは、魔力もなければ、予言もできぬ、ただの一介の人間にすぎないのだから。おや、どうした?アド」
 これまで微動だにせず、まるで彫像のように立っていたアドがぴくりと動いた。その目を鋭く扉の方に向けている。
「いえ、なにか聞こえた気がしたもので……」
「ふむ」
 ウィルラースは、そのまま言葉を続けた。
「だからね、ことによっては、ここにいるハインどのを、あらゆる拷問にかけてでも、その老人についての話をさせたいとまで考えてしまう。ただ、そうなると、あなたを完全に敵にしてしまいますね」
 その冗談と本気ともつかぬ言葉に、クリミナが眉を寄せた。
 そのときだった。
「ウィルラースさま」
 今度は、主をかばうようにアドが、テーブルの前に進み出た。それとほとんど同時に、ハインが振り向いていた。
「ああっ!」
 扉の向こうで、叫び声が上がった。
 ただならぬ気配に、ウィルラースが椅子から立ち上がる。
「何事だ?」
 がしんという音とともに、なにかがぶつかり、倒れたような物音、
 そして、乱暴に扉が開かれた。
「おお、ここにおられたか」
 血に濡れた剣を手に、二人の男が立っていた。それは、地下室に捕らわれていたジャリア人らしき男たちだった。
「おや、物騒なまねを。私に何の用かな」
「ウィルラースさま」
 アドが主を後ろにかばおうとする。
「ハインさま!」
 剣を手にしたジャリア人の男がその名を呼んだ。
「探しましたぞ。さあ、この剣を!」
「なに?」
 鞘に入った剣が、ハインの足元に投げられた。
「さあ、剣をお取りください。幸い、この部屋の護衛はその女の騎士だけのようだ」
「……」
 ハインは無言のうちに、足元の剣を拾い上げた。
「ハイン?」
 クリミナが不安そうに声を上げた。ウィルラースは、その様子をじっと見ている。まだアドは動かなかった。
 部屋に踏み込んできた二人のジャリア人は、ハインに向かって言った。
「ハインさま。まさかこんなところでお目にかかろうとは」
「……」
 ハインは剣を手に、無言で相手を見つめた。
「直接の配下ではありませんでしたが、殿下の近衛兵として働いていた時期もありました。直接お目に書かれて光栄であります」
「さあ、まずその護衛を倒し、そこにいる宰相を人質にとりましょう」
 男たちの眼にはぎらついた物騒な光があった。彼らが訓練されたジャリア兵くずれであるのは明らかだった。
「おいこの女は、邪魔だな。やっちまうか」
 二人のジャリア人が、剣を構えながら、クリミナの方へにじりよった。
「おお」
 一人がクリミナに襲い掛かった瞬間、
「うわあっ」
 びしゅっと血がしぶいた。
 男の脳天から血が噴き出していた。そのままばたりと倒れこむ。
「ハ、ハイン……」
 もう一人が何かを言う前に、鋭い剣先がその胸を貫いていた。ごぼっと口から血を流し、男が目を白黒させる。
「ハイン……」
 震える声でクリミナが名を呼ぶ。
 血の付いた剣を引き抜くと、ハインは無言で剣を放り捨て、こちらを振り返った。
「いや、驚いたものだ」
 動かなくなったジャリア兵の遺体を見つめ、ウィルラースがつぶやく。
「閣下、ご無事ですか!」
 そこへ、どたどたと足音を響かせて、近衛兵らしい騎士数人が駆けつけてきた。室内の様子を見て声を上げる。
「おお、これは……なんということだ」
「さきほどのジャリア人どもか。まだ一人、そこにいるようだ!」
 騎士たちは剣を抜いて、ハインを取り囲む。
「こやつ、閣下を狙った刺客か」
 ウィルラースは、ほんの一瞬、考えるふうであったが、
「大丈夫だ。彼は敵ではない」
 騎士たちに告げた。クリミナはほっと胸をなでおろした。
「遺体を片付けてくれたまえ。それから、他に仲間はいないか邸内を調べろ」
「分かりました」
 騎士たちがジャリア兵の遺体を片付けるあいだ、クリミナは、無言で立ち尽くすハインの横顔を見つめていた。
(ハインは……私を助けてくれたんだわ)
 そのことは嬉しくもあったが、一方では、さきほどジャリア兵たちが、「ハインさま」と名を呼んだときのことが、鮮明に頭に残っていた。
(ハイン、いったい……彼はどういう人だったのだろう)
「クリミナどの、ともかく部屋を移りましょう。ハインどのも一緒に」
 ウィルラースの落ち着いた声が、彼女を我に帰らせた。


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