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 水晶剣伝説 XIII 北へ、


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「おや、目が覚めたかい?」
 燭台に火を入れに来たらしい、女主人がクリミナのいる寝台を覗き込んだ。
「もう夕の六点鐘だよ。夕飯は食べられそうかね?」
「あ……」
「なんなら、ここに運んできてやろうか」
「あ、ありがとうございます」
 かぼそい声が出た。自分でも情けないような力のない声であった。
「まだ、具合は悪そうだね。ただ月のものが来ただけじゃなくて、あんたの場合は旅の疲れもあるんだろうね。女の身で、男の騎士のお供をして旅をするなんてのは、そりゃ大変なこった」
「あの……ハイン、さまは?」
「さあね。厩にもいないみたいだし、どこかへ出ているんだろう」
「そうですか」
「待ってな。スープくらいは飲めるだろう。今日のはね、魚のすり身団子を入れた特製スープだから。あったまるよ」
「ありがとう」
 クリミナは礼を言い、女主人が運んできたスープをなんとか飲み干すと、また横になった。
「まあ、無理せずにさ。すっかりよくなるまでウチで休んでゆきなさいな」
 女主人は、そう言い残して部屋を出て行った。
(ああ、まだ……身体がだるいわ。明日にはよくなるといいけれど)
(それにしても、ハインはどこへ行ったのかしら)
 彼のことだから、自身に危険が及ぶようなことはないだろうが、剣を持った異国の騎士くずれは、この港町では人目に付きやすい。トレミリアの騎士として通しているが、浅黒い肌に骨ばった精悍な顔つきは、やはりジャリア人のものなのだ。万が一にも、彼がジャリアの騎士であることが知られれば、敗走したジャリア兵同様の扱いを受けてしまうに違いない。
(……ああ)
 すぐ起き上がって探しにゆきたいが、いまはそれもできなかった。ただ彼の帰りを待つしかない。
(やっぱり、明日には出発したいわ)
 なにか面倒なことに巻き込まれる前に、サンバーラーンを出てゆかなくては。なんとなくそんな気がした。
(まずは、私が体力を取り戻さないとね)
 ともかく明日になればと願いをかけ、また眠ることにした。
 翌朝、目を覚ますと、近くに人の気配を感じた。見ると、壁際にハインが腰を下ろし、剣の手入れをしていた。
「ハイン、帰っていたの。昨日はどこへ……」
 寝台の上でゆっくり体を起こしてみる。まだだるさはあったが、昨日よりはずっとマシであった。
「……」
 ハインはこちらを見て立ち上がると、大きめの包みを差し出した。
「いろいろと買っておいた」
「いろいろって……」
「入用なものだろう」
 受け取った包みを開くと、そこには数枚の肌着と、足通しの下着となる下履きがたたんであった。それに靴下もいくつか。
「昨日はこれを買いに?」
「夕刻になってからなら、人目につかないと思ってな」
「そうだったの」
 いくぶん驚いてハインを見つめる。まさか、こんな買い物をしてくれるとは。下着については、クリミナも困っていたところだったので、これは大変助かるものであった。さっそく着替えたいくらいの気分である。ハインもそれを察したようだった。
「しばらく外へ出ているぞ」
「あ、ありがとう」
 新しい下着と、下履きを身に着けると、ずいぶん気分がすっきりとした。ボロボロになっていた靴下を履き替えると、足がとても暖かく感じられる。
「もう、いいわよ。入って」
「具合はどうだ」
 ハインは照れたように横を向いて言った。自分のことを心配してくれているのだ。クリミナは嬉しくなった。
「昨日よりはいいわ。でも、歩いたり、長いこと馬に乗ったりできるかは……」
「急ぐことはない」
「そうね。でも……」
 無理をしてでも今日発つべきか、それとももう一日休むべきか。クリミナは迷った。
「旅の食料が、必要かもしれないな」
「えっ?」
「もう少し買っておくとしよう。それに、ジャリアはもっと寒い。厚手のマントもいるだろう」
 ハインが自分からこんなに話すのは初めてだったので、クリミナは驚いた。いつも無表情を崩さない、このジャリア人の顔が、いつになくやわらいだようにも思えた。
「休んでいるといい」
 そう言うと、ハインは剣をベルトに吊るし、部屋を出て行った。あっけにとられて見送ったクリミナは、少ししてから、彼が自分のために今日はもう一日休むようにと、暗に告げたのだということを知った。
「仕方ないわね」
 クリミナはくすりと笑うと、寝台で毛布にくるまった。
「出発は明日になってしまったわ」
 そうつぶやきながらも、ほっとしたような安堵感が広がってゆくのが分かった。
 また少し眠って、次に起きると、ずいぶん具合がいいようだった。
 まだハインは戻っていない。起き上がってみると、もう頭痛はしない。一階に降りて行くと、女主人が昼食のパンとスープを用意してくれた。それを食べてから、厩の様子を見に行った。愛馬はおとなしく飼い葉を食んでいた。
「お前も、今日一日休んだ方が嬉しいのかもしれないわね」
 自分の髪と同じ色の、栗毛の体を優しく撫でてやる。トレミリアからずっと一緒に旅をしてきた、親友のような存在である。無理をさせず、一緒にジャリアまでゆければと思う。
「明日は、お互い元気になって出発しましょう」
 それを理解したのか、愛馬は軽くいなないた。
 部屋に戻ったクリミナはまた横になった。体のだるさもずいぶん良くなっていた。あとは体力が回復さえすれば大丈夫だ。
 午後になってもハインは戻ってこなかった。午後の三点鐘が鳴るころには、クリミナはまたいくぶん心配になってきた。それでも、買い物で店をあちこち回ったり、外で食事をしているのかもしれないので、夕刻までには戻るだろうと考えることにした。
 だが、やがて日が沈み、夕刻の六点鐘が鳴り終わっても、ハインが戻る気配はなかった。この時分になると宿の一階には仕事を終えた船乗りたちがやってきて、食事をしながら酒を飲んでゆくので、ずいぶんとにぎやかになる。二階の客室にまでその声は聞こえてくるので、クリミナとしてはもう下に降りることはせず、部屋でおとなしくしている他はない。あまり、多くの人々に顔を見られたくないということもあった。
(ハインにかぎって、なにか危険な目に合っているということはないと思うけど)
 あるいは、まさか自分を置いてどこかへ行ってしまうということも考えたが、クリミナはすぐにそれを打ち消した。
(そんなこと、あるはずない……)
 ハインを信じたかった。それに、あの老人だって、ハインが自分に従うように暗示かなにかをかけたようなことを言っていた。
(ともかく、待つしかないわ)
 朝まで待って、それでも帰ってこなければ探しにゆく。クリミナはそう決めた。 
 いろいろな不安が頭をよぎり、すぐには寝付けなかったが、いまはただ眠って体力を取り戻すのだと、そう自分に言い聞かせた。
 浅い眠りのせいか、いくつもの夢ともつかぬ夢を見た。それは森に横たわるレークの亡骸を見つける夢だったり、ジャリアへの旅の途中で山賊に襲われて逃げまどう夢、そして目が覚めてハインが帰ってきたという夢もあった。明け方に目覚めて、それが夢だったと知ると、クリミナはひどくがっかりとした。
(ああ、でもレークのは、夢でよかったわ)
 なんとなくまだ胸がどきどきとしている。それがレークの夢のせいなのか、それともハインが戻ってきて嬉しかったという夢のせいなのか、よく分からなかったが。
 寝台から起き上がると、身体はずいぶん楽だった。頭痛もなく、すっきりしている。
「まだ、帰ってない……」
 室内にはハインが戻った形跡はない。これはただ事ではないと、クリミナは思った。やはり、ハインの身になにかが起こったのだ。
 急いで荷物をまとめ、身づくろいをすると、クリミナは部屋を出た。朝食の仕込みを始めている女主人に、ハインが戻ってこなかったかを尋ねると、
「いや、まったく見てないねえ。昨日から戻らないのかい?」
「ええ。ちょっと町を探してみます。あの、大変お世話になりました」
 そう言って、多めの銀貨を女主人に渡す。
「ちょっと、お待ちよ。もう行くのかい?せめて、なにか食べていかないかね?」
「いえ、ごめんなさい。本当にありがとうござました」
 クリミナはもう一度礼を言うと、引き留められる前に急いで店を出た。久しぶりに外に出たせいか、冷たい海風が頬に心地よい。昇りゆくアヴァリスの光がとてもまぶしかった。
「大丈夫。身体は動くわ」
 たっぷりと休んで、心身ともにずいぶん回復したようだった。早足で厩へゆくと、荷物を馬の背にくくりつけ、そのまま鞍に飛び乗った。どこを探したらいいのかも分からなかったが、とにかく行かなくてはと気が急いた。
「お前も、一緒にハインを探して」
 愛馬に語りかけ、手綱をとった。
 馬にまたがり大通りをゆくクリミナの姿は、えらく目立っていて、道を行く船乗りたちがこちらを振り返る。店店からは、女や子供地たちが顔を覗かせて、こちらを指さすが、そんなことにかまってはいられなかった。
「あの、背の高い剣士を見かけませんでしたか?」
 食料品や、マントの店など、ハインが立ち寄ったかもしれない店を見つけると、クリミナは馬を飛び降りて、目を白黒させる店の主人らしき男や店番の女、子供にも声をかけた。
「黒髪で、浅黒い肌をして、その……少し不愛想な、若い騎士です」
「いや、分からないねえ」
「知らないよ」
 首を振る人々の目は、そのままクリミナの顔に吸い寄せられた。一介の市民にしては美しすぎ、気品を感じさせる物腰には、たとえクリミナ本人は気づかなくとも、その貴族的な雰囲気はどうしても隠し切れないのだろう。肉屋の店主は顔を赤くして、横から子供を抱えた女房ににらまれ、マントを売る店番の中年女は、クリミナの顔を穴が開くほど見つめるのだった。
 その後も何軒かの店をあたり、道を行く船乗りたちなどにも訊いてみるが、ハインの手がかりはまったくつかめなかった。クリミナは考えたあげく、町の北側の市門まで行ってみることにした。ハインが自分を残して、一人で旅立ってしまうなどとは考えたくはなかったが、そういう可能性もまったくゼロではないのだと、自分に言い聞かせた。
(もしかしたら、通行証を持っていないハインは、市門を抜けられなかったのかも)
 いや、それもおかしいとクリミナはすぐに思った。ハインが最初から一人で町を出てゆくつもりであるなら、クリミナが寝ている間に通行証や金をすべて奪ってゆけたはずだ。
(やっぱり、ハインはそんなことはしない)
(きっと、なにか……何かがあったのだ)
 かすかでもいい。なにかの手がかりはないかと、通りをゆきながら、馬上から周囲に目を配る。日が高く昇る頃には、通りには多くの人々が行き交いだし、商売を始める店店からの呼び声とともに、あたりはいっそうの賑わいを見せ始めていた。クリミナはマントのフードを深くかぶったが、少年めいた恰好の従者が馬にまたがってゆく様子は、どちらにしてもやはり目立ってしまう。
(仕方ないわ……)
 クリミナは馬を降り、今度はしごく従者らしく、主である騎士を探しているという体で、人々に訊き回った。
 だが、相変わらずいっこうに手がかりは得られない。時間がたつとともに気ばかりが焦ってくる。このままハインが見つからなかったら……
(どうしよう……私は、一人でジャリアまで行けるのかしら)
 ハインがいなければ。これまで感じたことのない不安がにわかに湧き起ってくる。彼の存在は、すでにただの護衛役という以上のものであることを、クリミナは知った。頼りになる旅の道連れとして、そして話し相手であり、心細さを解消してくれる存在であり、そしてもう、ほとんど友人のように思えていたのであると。
(なんてことかしら。まだ出会ってから、十日足らずだというのに)
 素性のしれぬ記憶をなくしたジャリアの騎士を、自分がここまで頼りにしていたことに、あらためて驚かされる思いであった。
(このまま、ハインのことなど忘れて、私一人でジャリアを目指してもよいはずなのに)
 だが、到底そんな気にはなれなかった。ハインを探すこと。いまはそれしか考えられなかった。
(大切な相手……信頼する相手ができるということは、こうも面倒なことになるんだわ)
 しかし、それは決して面倒なだけではない。友人のため、大切な人間のために、苦労をするということを。いまはもう不思議には思わない。
(だって、私はレークを探すために、国を……トレミリアを捨ててきたんだから)
 宮廷で暮らしていたかつての自分では、考えられもしなかったことだ。騎士の称号を授かったとはいえ、一介の浪剣士を探して国を捨てるなどということは。
(ああ。友情や愛というものがどういうものなのか、いまはよほど分かってきたような気がするわ)
 その大切なもののためならば、たとえ時間も苦労も、どれほど捧げても惜しくはないと。相手のことを思って、居ても立っても居られないという気持ちを。
(もちろん、ハインに対してのは友情……そう、あとは信頼。ただそれだけだけれども)
 彼のぶっきらぼうな物言いや、無口だが素朴な感じには、いくぶん好感を覚えるようにはなっていたが、それは愛とはまた違うものだと、クリミナは思っていた。
(女の友達は何人かいたけれど。ナルニアとか……)
(でも、男の友達というのは、そういえばあまりいたことがないわね)
 宮廷や騎士団では、自分を崇拝してくるような少年騎士や貴族、それに姫君たちもけっこういたものだが、対等の立場で話をするような、年齢の近い相手というのはいなかった。唯一、オーファンド伯爵などは、気取らずに話ができる存在ではあったが、歳もずっと上であるし、友人というのともまた違う。
(ああ、そういえば……)
(セルディ伯が、私と婚約したいとかいう話もあったのね)
 あのサルマの宿に押しかけてきた、なんとかという嫌な騎士のことを思い出してしまった。自分を捕まえてフェスーンに連れ帰り、セルディ伯と結婚させようという目論見だったらしいが。セルディ伯自身は、オーファンド伯の甥ということもあって、そう嫌悪するような人柄ではないのだが、結婚などは到底考えられない。
(そういう点でも、フェスーンに戻らずに本当に良かったのだわ)
 セルデイ伯と結婚し、子供を産み、伯爵夫人として宮廷で普通に暮らすという人生も、ひとつ間違えばあったのだと考えてみて、クリミナは思わず身震いした。
(それを思うと、自分はいま、なんという冒険をしているのかしら)
 ロサリート草原からアラムラの森へ、そこで山賊と出会い、それから南下してコス島へと渡り、いまはアルディのサンバーラーンで、道連れの騎士の行方を探しているというのは。こんなことを、たった半年前の自分が想像できたろうか。
(ああ……心細いけど、なんだかワクワクするようだわ)
 本当の自由の意味を知ったような気持ちで、クリミナは息を吸い込んだ。港町サンバーラーンの潮の香りを含んだ空気と、異国の風が頬を涼やかに撫でつける。
「ねえねえ」
 様々な思いに浸りながら、馬の手綱を手に通りを歩いていたときだ。つと横から一人の少年が近づいてきた。
「ねえ、剣士を探しているって、さっき人に訊いていたよね」
 歳は十二、三才くらいだろうか。茶色の巻き毛をした、なかなか可愛らしい少年である。
「おいら知ってるよ」
「本当なの?」
 クリミナは思わず声を上げた。
「ああ、だって、昨日うちの店に来たもの」
「店……なんの店?」
「ウチは、仕立て屋だよ。服とか、毛皮とか、マントとか、なんでもあるよ」
「それで、その人は、どんな剣士だった?」
「うーんとね。背が高くて、黒い髪で。剣を下げてたよ」
(それは、ハインみたいだわ)
 初めての手がかりに興奮する気持ちを覚えたが、まずは落ち着こうと、クリミナはひとつ息を吸い込んだ。
「それから、その剣士はどこへ行ったか分かる?」
「なんか、何人かの騎士がやってきて、連れていかれたよ」
「なんですって」
 つい大きな声を出してしまい、通りの何人かがこちらを振り返る。クリミナは慌てて声をひそめた。
「騎士に連れていかれたって、どこへ?それはどんな騎士だったの」
「うーん、この町の騎士だと思うけど。おいらとかあちゃんが店番をしていてさ。その剣士さんが、買い物終わって店を出たところに、その騎士たちが取り囲むようにして」
「……」
 それは、おそらくハインに間違いないのではないかという気がした。だとしたら、その騎士たちは最初から、ハインのことを捕まえるために、あとを付けていたのだろうか。
「ねえ、君のお店に連れて行ってくれない?お母さんはいるかしら」
「ああ、いると思うよ。おいら、買い物を頼まれたところだから」
 少年は手にしていた長い固パンを見せた。
「こっちだよ」
 クリミナは少年のあとについて、通りを横切り、狭い路地に入っていった。
「こっち」
 パンをかかえた少年は、早足でどんどん歩いてゆく。
 曲がりくねった裏路地は、大通りに比べると、行き交う人の数はずっと少ない。フェスーンの職人通りに比べると、ずいぶん汚らしいというのが、クリミナの正直な感想だったが、確かにハインが買い物に店を探すとしたら、こういう人けのないところを選んだに違いない。
「ここだよ」
 少年が指さしたのは、薄暗い路地を進んで奥まったところにある、一軒の店だった。浮彫りの看板には、「仕立て屋、ローブとマント」と書かれている。路地には人影はなく、大通りに比べるとひどくひっそりとしている。近くには魚を卸す店があるのか、あたりはとても魚臭い。いや、これは皮なめしのにおいなのか、それもよく分からなかった。
「あら、フィル。早かったね」
 店の奥にいる女が、こちらを見つけて声を上げた。
「あ、かあちゃん。パンだけ買ってきたよ。そしたらさ、」
「パンだけだって。ついでに塩と揚げ魚もって、言ったろう。今日は大漁だったらしいから、魚も安いはずなのに」
「ごめんよ。このおねえさんが、訊きたいことがあるんだって」
 おねえさん、という言葉を聞いてクリミナはぎくっとした。フードを深くかぶって、年若い従者を装っていたのに、こんな子供にもあっさり女であることが分かってしまっていたとは。クリミナはひどくがっかりとした。
「はれ。それはまあ……いらっしゃい」
 店の女はいくぶん不審がりながら、少年を近くに呼んで耳打ちした。
「誰なんだい?」
「ええとね。昨日ここに来た、剣士のお客を探してるんだってさ」
 クリミナはかぶっていたフードを脱ぐと、相手を脅かさぬよう、つとめてにこやかな顔で店内に入った。店の中には、所狭しと女物の胴着やローブ、それにマントやベルトなどが陳列されていた。いや、陳列というよりは、積み上げられていたというべきか。表通りの店などに比べると、店内はひどく乱雑なように見えた。
「こんにちは。あの……私はクリアナと申しまして」
「まあ、これは、きれいな娘さんだねえ」
 クリミナの顔を見たとたん、女が声を上げた。歳は三十前後だろうか。茶色の髪をひっつめた、少しきつそうな女である。フィルというこの少年の母親だろう。
「いきなりすみません。ぼうやが言ったように、私のがお仕えする剣士……いえ、騎士さまを探しているのです。聞けば、昨日この店に来られたとか」
「ああ、確かに昨日は剣士さんが来ましたよ。あまり繁盛していない路地裏のこんな店にと驚いたけれど。背が高くて、黒い髪をした、とても無口なお方だったわね」
「きっとその人です。ハインというトレミリアの騎士で、私は彼にお仕えする従者なのです」
「まあ、トレミリアの。どちらかというとジャリアの人のように思えたけど、そうではなかったのね」
「ええ、はい。あの方はその……いろいろな混血なもので」
 クリミナは適当に言いつくろった。それよりも色々と訊きたいことがあった。
「彼は、もしかしてマントを買いに来たのでは?」
「そうそう、それも女性が着るような、少し小さめで、それでいて寒さをしのげるものがいいと言っていたわ。もしかして、あなたのものを買いにきたのかしら」
「ええ、たぶん……」
 ハインに間違いないとクリミナは確信した。
「それで、彼……いえ、そのお方は、それからどこへ行ったのですか?」
「それがねえ、店を出てすぐに、見回りの騎士隊が現れて、その剣士さんを取り囲むと、なにやら問答をしてたわね。私が店の外へ出ていってみると、ちょうど騎士たちに両側からつかまれるようにして連れてゆかれるところだったよ」
「そうですか……」
 そこまでは、さっき少年から聞かされたので、もう驚きはない。問題は、ハインがどこへ連れていかれたか、そして、何故捕まったのかである。
「その騎士たちは、いつも市中を見回っているんですか?」
「そうだねえ。ほら、このアルディ自体が、昔の体制が崩れて、新しくなっただろう。ウィルラース閣下が宰相になられて、この国を統治されるようになってから、騎士たちの見回りはずいぶん多くなったねえ。きっと、まだ残っている反抗分子を取り締まろうってんだろうね。朝、昼、夕と、三回は大通りを見回っているよ。でも、こんな裏路地まではめったに来ないんだけどねえ」
「……」
 ウィルラースの名を聞いて、クリミナは、かつて対面したことのある、あの美貌の貴公子の姿を思い浮かべた。そしてあらためて、冷静な熱情をもって革命を志していた彼が、ついにこの国を統治する立場になったのだということを実感するのだった。
「でも、トレミリアの騎士さんだっていうなら、捕らわれる理由もないだろうしねえ。ああ、もしかして見た目がジャリア人のようだから、目をつけられたのかもしれないねえ」
「そうかもしれません。彼は、正規の通行手形を宿に置いたままにしていたので」
 だが、だとしたら宿に手形があると言えばいいものを。あるいは、ハインは自分に迷惑をかけたくなかったので、それを言わずあえて捕まったのだろうか。
(なんにしても、探して助けないと)
「そうなのかい。それは運が悪かったねえ」
 店の女は気の毒そうに言った。フィルという少年の方は、なにかを思い出そうというように、首をひねったり振ったりしている。
「あの方が、どこへ連れていかれたか分からないでしょうか?」
「そうだねえ。たぶん騎士団の宿舎がある、山の手だと思うけれどね。それ以上のことはちょっと」
「たぶん、前の大公のお屋敷だよ」
 少年が声を上げた。
「まあ、フィル。どうして知っているの?」
「うん。昨日の騎士の胸当てがさ、前の大公の騎士団のものだと思うよ。ずっと前だけど、同じように騎士が浪剣士かなんかを捕まえて、そのあとを付いて行ってみたんだ」
「まあ、なんて危ないことを」
「そしたら、山の手の大公の屋敷の門に入っていったよ」
 アルディの首都、サンバーラーンには、王城というものはない。山の手と呼ばれる高台には大公の住まう屋敷と、宰相や大臣などの住まう五つの屋敷があり、それを守る近衛騎士が駐屯する物見の塔など、六つの塔がその周辺を囲むように建てられている。いわば、山の手の高台は、アルディの大貴族たちが住まう宮廷というべき場所であった。
「前の大公というのは……たしか、」
 以前にウィルラースから、よく名を聞かされていたが、クリミナはその名を思い出せなかった。代わりにフィルの母親が言ってくれた。
「ストンホード大公だね。いまはもう処刑されちまったよ。でも、騎士団はそのままなのかねえ。あたしはよく知らないけれど。そういえば、大公妃のメイグリッドさまが、ウィルラースさまに思いを寄せていたということは有名な話だったよ。そのこともあって、前の大公はウィルラースさまをサンバーラーンから追放したんだと、もっぱらの噂だったしね。そのストンホード大公はいまはもう処刑されて、大公妃の方はどこかの塔に軟禁されているって話だけどさ」
 やはり女というのは、そうした噂話の類に精通しているものらしい。フィルの母親は、不愛想な見かけによらずずいぶんと饒舌になっていた。
「まあ、ウィルラースさまが、あれだけ美しい方なんだからさ、無理もないよ。あたしは遠目にちらと見ただけだけどね。前のアルディがいくさに負けて、どうなることかと思ったけど、ウィルラースさまたち、新しいアルディを名乗る方々が、サンバーラーンの港に上陸して、人々でごった返す大通りを山の手に向かって堂々と歩いて行ったんだよ。あの光景は忘れられないねえ。まさに英雄の凱旋という感じだったよ。派手やかな赤いマントをなびかせて、銀色の鎧をぴかぴかさせて。とてもお美しい姿だったねえ」
 そのときの光景を思い出すように、母親はうっとりとした顔で手を組み合わせる。
「いまじゃ町の景気も、ずいぶんと戻ってきたし。これからは、そら、西側の国々ともたくさん貿易をするっていうじゃないか。あんたの国、トレミリアともさ。これからは外国とも仲良くしてゆけると思うと、前よりはよっぽど良くなるんじゃないかと思うねえ」
「はあ」
 いまはそんな話はどうでもよいのだ。ハインのことで気が急いているクリミナは、ただうなずくだけだった。
「では、ハインが連れてゆかれたのは、前大公の屋敷である可能性が強いんですね。それだけ分かっただけでも助かります」
「どうするんだい。まさか行くのかい?」
「ええ。ハインが怪しいものではないということを伝えて、自由にしてもらいます」
「そうかい。でも、女のあんたが行ったところで、釈放してもらえるかどうか」
「とにかく、行ってみます。ありがとう。フィルもありがとう」
 母親と少年とに礼を言うと、クリミナはそのまま踵を返そうとした。
「あ、ちょっとお待ちな」
 母親がクリミナを引き留めた。棚に積まれた品物から畳まれた布地を取り出すと、それを差し出す。
「昨日の剣士さんが、買ったマントだよ。男物のやつを寸法直ししたんだよ。お金はもうもらっているからね、ちょうどいい、持っていきなよ。あんたのためのマントなんだろうから」
 受け取ったマントを広げてみると、それは白テンの毛皮が裏打ちされたしっかりとした厚手のもので、とても暖かそうだった。
「ありがとう。ハインがこれを……」
 北国であるジャリアは寒いだろうからと、自分のために選んだのだろう。クリミナはそのマントを大切そうにまた畳むと、革袋にしまった。
「それでは、これで」
「気を付けておいきなよ」
 母親が手を振る。少年は店の前まで出て来くると、山の手の方向を指さした。
「あの塔が見えている方向だよ。六つの塔のうち、ひとつが大公妃の塔で、そのそばにあるのが前大公の屋敷だから。なんなら一緒に行こうか?」
「ありがとう。でも、いろいろとお店の用事があるでしょう」
「平気だよ。そんなに遠くないし」
「じゃあ、お願いするわ」
 少年はくるりと戻って母親に言いにゆくと、また走ってきて馬上のクリミナに笑いかけた。
「行ってきていいってさ」
「じゃあ、後ろにお乗りなさい」
 手を貸してやり、少年を馬に乗せてやる。
「馬は初めて?」
「うん」
「ちゃんとつかまっててね」
 少年は少し照れながらクリミナの腰に手を回した。
「あの高台を目指せばいいのね」
「そうさ」
 クミナは馬首をめぐらせると、北西の方角へ馬を歩ませた。
 少年を後ろに乗せて、通りをいくつか横切ってゆくと、騎士らしくもない二人の騎乗者を見てか、人々が珍しがって振り返り、こちらを指さしてくる。
「なんだか、僕も騎士になった気分だよ」
「そうね。ふふふ」
 クリミナの方も、少し楽しい気持ちで、肩越しに少年に笑いかけた。ハインのことがなければ、このまま遠乗りにでも出かけたいような気分であった。
「あそこが山の手への道だよ」
 少年が指さして教えてくれた。ゆるやかな高台を上ってゆくその道には、多くの荷車や商人たちが行き来している。通りの両側には多くの店が立ち並んでいて、それらは貴族たちの住まう屋敷へと物資を運んだり、売りに行ったりするのを生業とする商人たちの店だろう。ワイン樽を荷馬車に担ぎ込む商人や、野菜や果物がぎっしりと詰まったかごを重たそうに背負う女や少年の横を、貴族を乗せた黒塗りの立派な馬車が軽々と追い越してゆく。
 馬に乗ったクリミナたちが坂道を上ってゆく姿は、いくぶん目立ってはいたが、人々は己の仕事でそれどころではないというふうに、さして注目はされなかった。実際に、馬に乗って荷物を運んでゆくような商人もいたのであるから。
「そこを右手に入ると、前の大公の屋敷だよ」
 少年の言う通り、通りを曲がってしばらくすると、赤茶色の屋根をした尖塔が、しだいに大きく見えてきた。あれが大公妃の塔なのだろう。
 屋敷に近づくにつれ、通りには荷車や馬車の数が目立ってきた。近衛騎士らしき姿もときおり見られ、すれ違い様にクリミナたちの方に鋭い一瞥を送ってくる。
(なにか、面倒なことにならなければいいけど)
 だが、二人が乗る馬は、とくに呼び止められることもなく、前大公の屋敷の門の前までやってきた。屋敷といっても、つり上げ式の門の両側には立派な門塔をかまえた、ほとんど城のような造りであった。
 屋敷の門の前には、荷車を引く商人や、かごを手にした男や女たちが列をなしていて、数名の騎士たちがかれらをチェックしながら、一人ずつ門を通している。
「あのう、ちょっと尋ねたいのですが」
 馬上からクリミナが声をかけると、騎士の一人がじろりとこちらを見た。
「なんだお前は。商売人なら、列に並べ」
「そうではなくて、」
「なら忙しい。あとにしろ」
 横柄な態度にクリミナは腹を立てた。仮にも一国の騎士から、そのような扱いを受けたことはかつてなかった。だが、いまの自分はフェスーンの姫君ではありはしない。クリミナはぐっとこらえて、ひきつった笑みを浮かべながら相手の騎士に告げた。
「私は、トレミリアの正騎士の……じゅ、従者です。ここに正規の通行証もあります」
「ほう」
 騎士は、まだいくぶん不審そうにこちらを見た。
「その、私が仕える騎士さまが、ここに連れてこられたと聞きました。まずそれを確かめ、そして会わせてもらいたいのですが」
「ふむ。そういう話は聞かんが。だが、それならまず市庁舎に行って、面会受付を書簡で申し込むのだな。うまくゆけば数日で許可が下りるだろう」
「数日……そんなに待ってはいられません」
「ではあきらめるんだな」
 そう言うと、騎士はもう取り合わず、別の商人が引いてきた荷車の荷物をチェックし始めた。他の騎士たちも同様で、己の仕事の邪魔をするなというばかりに、クリミナの姿などには目もくれない。
「く……」
 クリミナは唇を噛んだ。自分をないがしろにしたこの騎士たちを、この場で怒鳴りつけてやりたくなったが、さすがにそれはやめておいた。
(我慢だわ。いまのわたしは公爵の娘でも、宮廷騎士長でもないのだから)
「どうするの?クリアナさん」
 尋ねる少年に、クリミナは口を真一文字にして、「いったん、戻りましょう」と、手綱を引き馬首を返した。少し離れたところで肩越しに振り返り、騎士たちがこちらを見ていないことを確かめる。
「ちょっと脇にそれるわよ」
 そう言うと、二人を乗せた馬は道をそれ、木陰の中へと分け入った。木々に包まれた傾斜地までゆくと、クリミナはすぐに馬を降りた。手を貸して少年も下ろしてやると、手近な木の幹に、手綱をくくりつけた。
「フィル……ここからお家まで帰れる?」
「うん。前にも来たことあるから大丈夫だよ。クリアナさんは、これからどうするの?」
「ちょっと荒っぽいけど、屋敷に忍び込んでみるわ」
「ええっ、大丈夫なの?」
「これでも一応、騎士……いえ、騎士見習いとして剣も学んでいるからね」
 そう言ってクリミナは、背中に背負っていたカリッフィの剣を少年に見せた。
「じゃあ僕、ここで待っているよ」
「ダメよ。もし見張りの騎士にでも見つかったら……君を巻き込むわけにはいかないわ」
「平気だよ」
 クリミナは困ったように首を振った。
「お母さんが心配するし、それに……もし君が見つかってしまったら、この馬まで奪われてしまうのよ。だから、君はここから離れて、なにごともなかったように家に帰って、そして私たちのことはもう忘れてちょうだい」
「そんな……」
 少年は悲しそうに口を尖らせた。
「ね。ここまで連れてきてくれてありがとう。君の助けがあったことはずっと忘れないわ。もしまた、会うことがあったら……いえ、きっとまたお家を訪ねるから」
「うん、分かったよ」
「じゃあ、気を付けて帰るのよ。お母さんにもよろしくね。そして、私のことは誰に何を聞かれても、知らないと言うのよ」
「分かった」
 少年はうなずいた。握手を交わし、その頬に手を当ててやると、フィルは嬉しそうにはにかんだ。
 手を振って少年と別れると、クリミナはその表情を厳しくし、さっそく身支度を始めた。余分な荷物はここに残し、カリッフィの剣だけを背負った身軽な姿になると、こういうときのために用意していた、鉤つきのロープを取り出した。
「ちょっとの間、辛抱してね。きっと戻ってくるから」
 愛馬の体に手を置いてそう囁く。クリミナは木々に隠れながら、あたりに気を配りつつ屋敷の方へと近づいていった。
 騎士たちのいる正門からはもうだいぶ離れている。城壁に近づき、鉤のついたロープを手に壁を見上げる。フェスーンの王城などに比べれば、その壁はずっと低いので、ロープを伝えば超えられそうであった。
 人けのないことを確かめると、クリミナはぐるぐると鉤のついたロープを回し、それを思い切り投げ上げた。鉤は壁を越えて飛んでゆき、上手いこと屋敷内の木の枝に巻き付いた。
「あら、すごい」
 前にレークがやって見せてくれたことがあったので、それを真似てみただけなのだが、こう簡単にゆくとは。案外、自分にもこういう才能があるのかもしれない。
「なんだか、泥棒にでもなった気分だわ」
 苦笑しながら、クリミナはロープを手に壁を上り始めた。
「よいしょっと」
 騎士として鍛えてきたおかげで、腕力には普通の女性よりは自信がある。ロープをつたい、なんとか壁を乗り越えた。壁の上からそのロープを引き上げて、それを木の下に垂らしておく。こうしておけば、屋敷を出るときに、この木を登って壁に飛び移れるだろう。
「完璧だわ」
 軽やかに地面に降り立つと、そのままじっとして周囲の気配を窺った。
 この辺りは屋敷のはずれの庭園である場所らしく、辺りにはプラタナスの大木が立ち並び、身を隠す場所には事欠かない。クリミナは素早く木々に隠れながら、壁にそって移動を始めた。
 さきほどの門の方まで近づいてゆくと、商人らしき男たちや、かごをかついだ女たちがぞろぞろと邸内を歩いてゆくのが見えた。正門のチェックを通ってきた人々だろう。
 クリミナは、木々に隠れながらそろそろ近づいて、思い切ってかれらの前に飛び出した。
「あっ」
 驚く商人と女に、にっこりと笑いかけて、
「お願いします。どうかこのままお静かに。この屋敷に連れてこられた私の友人がいるのです」
 そう伝えると、用意しておいた銀貨を、そこにいた人々に握らせた。商人たちは顔を見合わせたが、
「連れていかれた友人に会いたいのです。お願いです。このまま屋敷まで一緒にゆかせてください」
 クリミナが重ねて懇願すると、そのうちの一人がうなずいた。
「分かったよ。かわいそうに。だが、捕まっても知らないよ」
「ありがとう」
 門の外の騎士たちは、まだこちらには気づいていない。屋敷に入れさえすれば、あとはなんとかなるだろう。クリミナはさらに銀貨を何枚か差し出すと、一人の商人が背負ってかごを譲り受けた。
 はみ出るほどのイモが詰まったかごの重さに耐えながら、クリミナは、商人の一団にまぎれて屋敷の玄関の前に立った。
「野菜と果物、塩漬け肉、パン、脂などをお持ちしました」
 商人の代表が声を上げると、玄関の扉が開けられた。そこには黒いローブ姿の執事と、若い小姓が何人か立っていた。
「ご苦労、さあ入れ」
 屋敷のエントランスはとても広く、奥には二階へと続く階段が見えた。左右には長い回廊が続いていて、小姓や女官などが忙しそうに立ち歩いている。
「イモや野菜、果物などの食料は地下へ運ぶように。ワイン樽もだ。塩漬け肉とパンは料理場だ。納品書は帰りがけ。支払いは十日後だ。さあ急いだ急いだ」
 横柄な執事に命じられて、商人たちがそれぞれに品物を運んでゆく。かごを背負ったクリミナは、地下へ食料を運ぶ商人たちにまぎれ込んだ。


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