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これまでのあらすじ

草原の戦いで行方不明となったレークを探すため、トレミリアを出奔した女騎士、クリミナ・マルシィは、コス島で不思議な老人と出会い、
一人の騎士をお供に旅を続けることになった。その謎めいた騎士、ハインとともに、クリミナは、アルディの首都、サンバーラーンへと辿り着く。
一方のアレンは、敗走したジャリア軍の残党に紛れ込みながら、その類まれな美貌と才覚によって己の立場を固めつつ、新たな計画を始めるのだった。




 水晶剣伝説 XIII 北へ、


T

「サンバーラーン……なんだかずいぶん、久しぶりに来たような気がするわ」
 港の桟橋に降り立つと、クリミナはひとつ大きく息を吸い込んだ。
 涼やかな潮の匂いが、胸いっぱいに広がってゆく。彼女のすぐ後ろから、手綱を持つハインが、馬とともに船から橋げたを渡ってきた。
「いい子ね。暴れずに船旅ができるなんて。レークよりもよっぽどお行儀がいいわ」
 栗色の毛並みを撫でてやると、愛馬は嬉しそうに鼻を鳴らした。
 ミレイの港町、コーヴェから船で半日。船がサンバーラーンに入港したのは、ちょうど美しい夕日が海の向こうに沈みゆく時分であった。輝く円盤の残照を甲板から眺めながら、マストをたたんだ船は、いかにも慣れた動きで港へと停泊したのである。
 船員たちが慌ただしく積み荷を下ろしてゆくその横を、船長が船を下りてきた。
「お疲れではなかったですかな」
 笑顔でクリミナに話しかける。この人のよさそうな船長になんとか頼み込み、無理を言って馬を甲板に乗せてもらっての船旅であった。
「いいえ、とても快適に過ごさせていただきました」
「それはよかった。いやいや、お金はもうけっこうですよ、先に十分にいただきましたからな」
 懐から取り出そうとした革袋をしまうと、クリミナはもう一度礼を言った。
「本当にありがとうございました。おかげで、このアルディでも馬を使えるので本当に助かります」
「ふむ。ところで、訊いてよろしければ、どこまで旅をされるのかな?」
「あの、それは……」
 クリミナは言葉を濁した。これからアルディを縦断してジャリアまで行くと言えば、きっと驚かれもしようし、もしも万が一、自分がジャリアへ向かったということが、彼女の父であるオライア公の耳にでも入ったら、いらぬ心配もかけるだろう。
「いやいや、無理におっしゃらなくてけっこう。とにかく、あなた方の旅の安全を願っておりますよ。とくに高貴なご婦人にとっては長旅は難儀なことでしょうから」
 船長はさも心配そうに言った。クリミナのことを、すっかりどこぞの伯爵令嬢だと思い込んでいるらしい。
「心から、旅の安全をお祈りしますよ」 
「あ、ありがとうございます。このご恩は忘れません」
 礼を言いつつ、手の甲に口づけでもされそうなところを、あわててひっこめた。そんなところを人に見られるのも困るのだ。なにせ、これからは騎士のお供の従者として、やってゆくつもりなのだから。
「では、これで失礼いたします」
 名残惜しそうな船長にこれまでとばかりに微笑みかけると、いそいそとその場を歩き出す。後から付いてくるハインの方は、馬の扱いにとても慣れているようだ。愛馬は駄々をこねる様子もなく、粛々と彼に付き従っている。
(アルディ、といえば……そうだわ)
 夕暮れの桟橋を歩きながら、クリミナはかつて一緒に旅をした少年のことを、ふと思い出した。
(あの、クレイぼうやは元気かしら)
 ウェルドスラーブから、レークとともに船に乗り、そこに乗り合わせていた侍女から、一人の少年をアルディの東寄りにある港町、グレスゲートまで送り届けて欲しいと頼まれた。実際はクレイというのは少年の偽名であり、彼こそがアルディ大公家の血筋をひく公子にほかならず、東西に分裂していたアルディの未来を左右するような存在であったのだ。
 あれからもう、ずいぶんと年月がたったようにも思うが、じっさいにはまだ三月ほどしかたっていないのだ。あのときは、このサンバーラーンの港に着く直前の船上で、検問の騎士たちに見つかり、追われるようにして船を飛び出した。その同じ港に、いまは横にはハインと愛馬がいて、いくさも終わり平和になった夕暮れの桟橋を、敵に襲われる心配もなくこうして歩いている。それはなんとも不思議な気持ちがした。
(あの子はいまはもう、大公様になってしまったのね。簡単には会えないわね) 
 はにかみ屋でおとなしい印象の子供だったが、旅の間、レークの冗談や軽口に笑ったり、ときにふくれたりしていた。あの三人での冒険の旅は、いろいろあったが、いま思えば楽しかった。最後に都市国家トロスの港で少年と別れた時は、いつかまた再会できるだろうとなんとなく思っていたのだが、いまとなってはずいぶんと状況が変わり、トレミリアを出奔した自分は、すでに貴族でも騎士でもない、身分なき身なのだ。アルディの高貴な血筋の若君に、簡単に目通りなどできようはずもない。
(やはり、あの頃とは、ずいぶんといろいろ変わってしまったんだわ)
 時はながれゆき、時間はもうもとには戻せない。どれだけそう望んでも、過ぎ去った日々は元には戻らない。愛する王国を単身飛び出してから、ずいぶんとそう思うことが増えた気がする。
 だが、いまは一人ではない。振り返れば、愛馬を連れたハインが自分の後を付いてくる。彼は、コス島で謎めいた老人から、旅の供にと紹介された騎士である。自分の名前以外の記憶を失っていて、かつては自分がジャリアの騎士であったことはなんとなく覚えているようだが、それ以上のことは分からないという。はじめは、彼のことをすべて信用していいものか半信半疑であったが、どうやら彼がクリミナには従順であり、それは老人が彼にかけた暗示なのか、あるいは魔法なのかは分からないが、とにかく自分を守ってくれることは確かなようだった。
 それに、いまは頼りになる武器もある。コス島で自分用に整えてもらったカリッフィの剣……レークが使っていた同じこの剣を背負う、そのずっしりとした重みはとても心強く感じられる。使える武器があることで安堵するというのは、自分がやはり騎士だからかもしれない。
(武器もある。旅の仲間もいて、馬もいる)
 たった独りで旅を始めた直後に比べれば、いまは心細いことはもうなかった。
(そうだわ。なにも、怖いものなどないわ)
 自らに言い聞かせるように、クリミナは口の中でつぶやいた。
 桟橋を渡って港を出るための市門には、騎士たちが配備された小屋が建てられており、そこには何人もの見張りの騎士が行き来していた。
「町へ入るには通行証を提示してもらう。そこに並べ」
 二人が市門に近づくと、見張りの騎士が横柄に命令してきた。顔つきを固くしたクリミナは、言われたとおりにハインとともに検問の列に並んだ。
「通行証を拝見する」
 順番が来て、クリミナが通行証を差し出すと、それを見た騎士の目が光った。
「おや、これはトレミリアの……」
 そう言われて、クリミナはぎくりとした。トレミリアを出てからは、ミレイやコス島には立ち寄ったが、大きな国に入国するのはこれが初めてのことであった。通行証はトレミリアの正規のものではあったが、それになにか問題があるというのだろうか。
 通行証をじっくりとチェックしていた騎士は、クリミナをじろりと見た。
「これは、トレミリアの正規騎士のもののようだが」
「あ、は、はい……」 
 冷や汗をかきつつ、クリミナは騎士の供をする従者の体をとりつくろった。
「こちらは、トレミリア出身のオ、オライア公爵騎士団の騎士、ハインさまであります。私は従者のクリアナと申します」
「ほう……」
 騎士の目が横にいるハインに向けられた。
「あなたが、トレミリア騎士、ハインどのであるかな」
「いかにも」
 ハインは落ち着いた物腰で、騎士の視線を受け止めた。
「ふむ。トレミリア人というよりは、むしろ北方の……ジャリアの人間のようにも見えるが」
 鋭く目を光らせる騎士に、クリミナは考えておいた設定を説明した。
「いえ、そのう……ハインさまの祖父母にあたられる方が、じつはジャリア系の移民の姫君で、ハインさまにもその血が入っているのです」
「なるほど、そうなのか」
「いかにも、その通りだ」
 鷹揚にうなずくハインの様子は、それらしい貫録が備わっていた。騎士はいくぶん気圧されたようにうなずくと、
「了解した。けっこうです」
 いくぶん言葉使いも改まって、通行証を戻した。馬を連れていることも、正騎士であるということで、どうやら怪しまれずに済んだようだ。
「通ってよし。次」
 その言葉にクリミナはほっとして、いかにも従者らしく、ハインの後につき従うていで市門をくぐり抜けた。
 サンバーラーンの都市内に入ると、すでに夕暮れ時とあって目抜き通りにもにぎわいはなく、通りの店店はその多くがすでに鎧戸を閉めていた。明かりがもれているのは、漁を終えてこれから一杯ひっかけて帰ろうという船乗りたちが集まる酒場か、食堂、あるいは宿屋のたぐいくらいであった。
 二人は、あまり人目につく前にと、通りで手ごろな宿を見つけると、長旅で疲れていたこともあって、迷うことなくその「青い魚亭」の扉をくぐった。店の一階は、多くの宿と同様に食堂になっていて、何人かの船乗りらしき男が楽しげに酒を飲んでいる。
「いらっしゃい。おや、旅の騎士さまかな」
「はい。トレミリアの騎士と、私が従者です。一晩泊まりたいのですが」
 旅の間に、ずいぶんと町の宿屋に泊まることにも慣れた。旅人らしい物言いで尋ねると、宿の主人らしき中年の女がにこにことしてうなずいた。
「部屋は空いてるよ。店の裏手に厩があるから、好きに使いなさいな」
「ありがとうございます」
 振り返ると、ハインはもうさっさと厩へ馬をつなぎに行ってしまった。それは従者の仕事なのだが、変に思われはしないかとクリミナは内心で考えたが、主人の女はまったく気にとめる様子もなく、酒や料理を運ぶのに忙しそうにしていた。
「さあ、あんたもそこに座りな。ちょうどサバイーが揚がったところだからさ」
「サバイー?」
「ああ、知らないのかい。サンバーラーン沖でよくとれる魚だよ。今朝は大量だったからね、たくさんあるよ。熱々のうちにお食べ」
 そう言うと、女主人は皿に山盛りの揚げ魚を持ってきて、どすんとテーブルに置いた。
「そっちのタレか、塩をかけてお食べ。パンもいるだろう?魚を挟むと美味しいよ」
「はあ、ありがとうございます」
 揚げたての魚の香ばしい香りが立ち込める。このような、庶民的な食べ物にもずいぶん慣れてきた。クリミナはフードを脱いで、女主人に微笑んだ。
「おやまあ、ずいぶんと美人さんだね。従者さんにしてはさ」
「は、はい……どうも」
 そこへ、厩から戻ったハインが店に入ってきた。
「ああ、ハイン……さま、ご苦労……さまでございました」
 慌てて従者らしく丁寧に言いつくろうと、ハインはいくぶん眉を寄せ、無言で向かいの席に着いた。
「あらあら、こちらが騎士さんだね。なるほど立派な顔つきをなさっておられる。さぞかしお強い方なんだろうね」
「……」
 ハインは何も答えず、ピューターに注がれたワインを口にした。
「ええと、こちらのハインさまは、とても無口な方で、いつも一言か、多くても二言ほどしか話さないんですよ」
「そうなのかい。それはまあ、おえらい騎士さんなんだろうねえ。トレミリアから来なさったとか」
「はい……そのう」
 クリミナは、他のテーブルにいる船乗りたちを見回した。とくに、変わったような者はいない。いかにも素朴な恰好の地元の船乗りたちだろう。
「まあ、ワケありなら、話さなくてもいいよ。ともかく食べとくれ。アルディにようこそ」
「ありがとうございます。いただきます」
 気のいい女主人の言葉にほっとすると、クリミナは教わったように、揚げ魚をパンにはさんで頬張った。魚からじゅわっと脂があふれ出し、口の中に熱さと旨みが広がった。
「美味しいわ。ね。ハイン……さま」
 つい呼び捨てにしそうになる癖は、そろそろ気を付けなくてはならない。人前にいるときは、自分は従者のクリアナなのだ。
「ああ、美味い」
 ぶっきらぼうなハインの言葉だったが、クリミナに自然に笑みが浮かんだ。
 食事を終えると、二人は二階の部屋に落ち着いた。女主人の配慮で、他の泊り客からあまり目につかない、ひっそりとした廊下を通った、その一番奥にある部屋を使わせてもらえることになった。小さな明かり取り窓に寝台がひとつあるだけの、ごく簡素な部屋であったが、室内はそこそこ清潔で嫌なにおいもしない。
 クリミナはさっそく寝台に横たわった。安宿屋の固い寝台にもすでに慣れたもの。寝台があるだけマシというものであった。これからの旅では、まともな宿に泊まれることの方が少ないかもしれないのだ。
「長い船旅だったからかしら、なんどかとても疲れたわ」
 すでに暗黙の了解で、寝台を使うのはクリミナの方であったが、ハインはとくに文句を言うでもなく、扉近くの床に座ると、すでに黙々と剣の手入れを始めていた。
「サンバーラーン……ようやく、アルディまで来たのね」
 とくにハインに話しかけるというわけでもなく、独り言のようにつぶやく。それでも誰か聞いてくれる人間がいるというだけで寂しさはなかった。
「ここから、ジャリアまで、またどのくらいかかるのかしら。順調に行ければいいけれど……」
「……」
 ジャリア、という言葉を聞いても、ハインはとくに反応もしない。もともとがジャリアの騎士だったというが、本当にそれ以外のことはすべて忘れているのだろうか。故郷のことや、家族や、恋人のことなども。
(恋人……か、ふふ)
 この不愛想なハインに、まさかそのような相手がいるなどとは、とても想像できない。
(でも、もしいたとしても、全然おかしくはないのよね)
 無口で不愛想なのはともかくとして、見た目にはむしろハンサムといってもよい風貌であるのだし、年齢を考えても、将来を誓ったような娘がいたとしてなんら不思議ではない。
(故郷では、彼が帰らないことを、とても心配しているのではないかしら)
 クリミナ自身についても、父であるオライア公や、宮廷騎士団の仲間たちなどが、自分のことをきっと心配しているのに違いない。それを思うと、いつも心がぎゅっと苦しくなるものだ。
(ハインがもし、自分の故郷を思い出したら……)
 ジャリアへ行くついでに、そこを訪れてもよいかもしれない。クリミナはそんなことを考えた。
 だが、それよりも、もちろんレークの手がかりを探すことの方が先決であった。ハインにしても、そのためにあの老人が自分の護衛にと付けてくれたのだから。
(コス島のあのおじいさん……あの言葉を信じて)
 いまはただ、ジャリアを目指す。あの不思議な老人が何者なのかは知らないが、レークや自分にとって、そう悪い人間ではないとは思えるのだ。魔術めいていてとても怪しげではあったが、その言葉には理性と真実の響きとが感じられた。
(すべてがジャリアを指している……)
 老人の話した言葉を思い出しながら、クリミナは寝台で目を閉じた。
 翌朝、目が覚めると、世界がぐるぐると回って見えた。
 よほど疲れていたのだろう、昨夜はまだ早い時間であったが、あのままぐっすりと寝てしまったらしい。
 呻きながらも体をなんとか起こすと、頭がズキズキと痛んだ。
「面倒だわ……女って」
 このような体調になることは、月に一度はあった。昨日からこうなる予感はあったのだが、今回のはいつもよりも重たそうだ。
「フェスーンにいたときは、すぐに医者に薬をもらえたのに」
 光が差し込む部屋にはすでにハインの姿はなかった。厩にでも行ったのか、剣の練習でもしているのか。
 ともかく、重たい体で起き上がり、荷物をまとめる。予定では今日中にアルディの北の国境近くまで行きたいと思っていた。
 部屋を出て、階段を下りようとするが、身体がふらついた。それでも朝食をとれば、もっと歩けるようになるだろう。
「おや、おはようさん。よく眠れたかね」
 昨日の女主人が、厨房で料理の仕込みをしながら、声をかけてきた。他に客の姿はない。
「はい。ありがとうございます」
「待ってな。いま、焼き立てのパンと、スープを持っていくから。あのお兄さんは、さっき厩を見にいったみたいだよ。じきに戻るだろう」
「そうですか。どうも」
 ハインがそばにいると思うとずいぶんほっとした。こういう体調のときに、もし一人旅であったら、どうしていいか分からなかったかもしれない。
(頼れる相手がいるって、いいな)
 まだハインと出会ってから、数日しかたっていないのだが、荷物運びから馬の世話まで黙々とこなしてくれる彼の存在は、すでになくてはならないものに思えていた。
「はいよ。二人分のパンとスープ」
「ありがとう」
 湯気の立つスープがテーブルに置かれる。クリミナは、他に客がいないことを、女主人に尋ねてみた。
「ああ。いまウチに泊まっているのはあんたらの他にはもう一人だけだよ。最近サンバーラーンに来たばかりの船乗りで、まだ住むところがないんだと。朝早くから漁に出かけちまったよ。ウチのダンナと一緒にね。あたしのダンナも船乗りなのさ。帰ってくるのはいつも日が沈むころだよ。昨日の夜、何人か酒を飲みに来ていたのもみんな、地元の漁師や船乗り連中さ。夜になると、ああやって集まってきてわいわいやるんだよ」
「そうなんですか」
「ところで……あんた、よく見ると、やっぱりえらくべっぴんだねえ」
 女主人は、まじまじとクリミナの顔を見た。
「綺麗な目の色をして。ちょっとこのへんじゃ見ないようなさ。ああ、あの兄さんはトレミリアの騎士だって言ってたっけ。じゃあ、あんたもトレミリアの生まれなのかい?」
「ええ、まあ……」
 クリミナはなんとなく言葉を濁したが、この女主人は悪い人間ではないようなので、それとなく出自を明かしてもよいかもしれないと思った。
「じつは、私もトレミリアの騎士……の家系なんです」
「おやまあ。ではあんたも貴族のご身分なのかい。なるほど、道理で綺麗なわけだ。それで、そんな騎士と貴族の娘さんが、どうしてまたサンバーラーンに?」
「ええと、それは……その」
 さすがに、いくさで行方不明になった恋人を探しに、これからジャリアへ向かうのだとは言えない。というか、それこそむしろ、嘘くさい話ではないか。
「じつは、トリーアの方に知り合いがおりまして」
「トリーア。ずっと北の国境ぞいの町かい?また遠いところに」
「ええ」
 トリーアならば、ジャリアへ向かうには通らねばならない町であるから、まったくの嘘というわけでもない。
「それはまた、大変だねえ。そうか、それで馬を連れているんだねえ」
 他にお客がいないこともあってか、女主人はもてあます時間を、客との会話をして楽しむようでもあった。
「なるほど、それで今朝もう旅立っちまうわけかい。そんなに急ぎの用でもあるのかね」
「はあ……まあ」
 クリミナが返答に困っていると、ぬっとハインが店に入ってきた。
「ああ、ハイン……さま。ごくろうさま」
 ほっとしてクリミナは微笑んだ。なんだか頭がぐるぐると回る心地がした。
 無言で席についたハインを見て、女主人はこれ以上は無駄話をするのも気が引けたのか、厨房へ引っ込んでいった。
「食事をとったら出発しましょう」
「ああ」
 あまり食欲が湧かなかったので、自分のパンもハインにやった。クリミナはスープだけを飲み干すと、旺盛にパンをかじって飲み込んでいるハインを見つめる。
(ハインは、ジャリアへゆくということを、いったいどう思っているのかしら)
自分の故郷へ戻るという喜びはあるのか。それとも、ほとんど記憶を失っていることで、むしろ苦しみの方が大きいのか。だが、それを尋ねても、おそらくは答えてはくれないだろう。そんな気がした。
(あのおじいさんが言っていたのは……私に従うようにという、暗示か、魔法のようなものをかけたと、そう言っていた気がするけれど、それはいつ解けるのかしら。解けたとしたら、それからどうなるのかしら)
 そのときハインの記憶は戻るのか。それとも、記憶のないまま、自分への忠誠心だけがなくなるということなのか。クリミナにはよく分からなかった。
(ああ、なんだかまた、頭が痛くなってきた……)
 体調はやはりあまりよろしくない。だが、この宿でのんびりと休んでいたいとも思えなかった。ハインが食事をたいらげるのを待って、クリミナは席を立った。
「では、いきましょうか」
 女主人に宿代を支払っている間に、ハインが厩から馬を引いてきた。
「なんだか、あんた顔色がよくないけど。大丈夫かい?なんならもう少しくらい休んでいけばよいのにさ」 
「いえ、大丈夫です」
 気遣う女主人に礼を言って宿を出た。まだ足が少しふらつくようだ。
「ハイン。ごめんなさい。私……馬に乗ってもいいかしら」
「ああ」
 ハインの方も、クリミナの体調がおかしいことには気付いているようだった。
「ありがとう」
 手を借りて愛馬の背に乗ると、多少楽になった気がした。深くフードをかぶり直す。
「行きましょう」
 ハインは、馬上のクリミナにうなずきかけ、馬の手綱を持って歩き出した。騎士であるはずのハインが、少年めいた恰好の従者を馬に乗せて、手綱を引いて歩くというのは奇妙な姿ではあったが、この際やむを得ない。
 アルディの首都……サンバーラーンは、ウェルドスラーブの首都であるレイスラーブと並ぶ大きな港町である。港の沖合には商業用の大型帆船が停泊し、港と船を連絡するボートや、漁へ向かう大小の漁船などが朝な夕なと、忙しく行き交う。大きないくさも終わったことで、いまはもう軍用のガレー船などはほとんど見られなくなったが、その分、物資を乗せた商船の数は明らかに増えている。それら大小の帆船たちが波間を縫って行き交う光景は、漁師や船乗りたちが、いくさが終わった喜びを、青いキャンバスの上で表現しているかのようでもあった。
 港へと続く大通りは、昨夜と違ってずいぶん活気に満ちていた。クリミナを乗せた馬が通りを歩いてゆくと、これから港へ向かう船乗りらしき男たちが次々にすれ違ってゆく。若者から壮年の船乗りまで、早朝の冷たい海風もものともせず、薄手のチュニックや胴着姿で悠々と歩いてゆく姿はあちこちで目に付く。すでに水揚げされた魚を運ぶ荷車が勢いよく追い抜いてゆき、荷物を積んだ馬車や、台車引きの人足がまた慌ただしく行き交ってゆく。魚の匂い、潮の匂いに包まれた通りのあちこちで威勢のいい掛け声が響き、路地裏から顔を出したネコたちが、エサをねだるようにひと鳴きする。
(そういえば、サンバーラーンの町をこうして、ゆっくりと見たことはなかったわ)
 もともとが、アルディという国そのものが、ジャリアとともに大陸間相互会議から脱会し、西側の国々との交流を絶ってきた、いわばトレミリアにとっては敵国も同然であったのだから、それも当然ではあったのだが。 
 だが、ジャリアとの同盟関係にあったかつてのアルディは、いくさでの敗北ののち、革命の貴公子、ウィルラース・パラディーンのもと、新アルディとしての新たな政権を誕生させた。大公家の血を引く、若干十一歳のセリアス・フレインが新たに大公の座につき、宰相の地位に就いたウィルラースを中心にして、新たな平和主義と西側との通商を積極的に行う、「ひらけた公国」を掲げ、統治されてゆくこととなったのである。
 かつてのアルディがどうだったのかはクリミナは知らないが、現在のサンバーラーンは非常に活気にあふれていて、船乗りたちはみな生き生きとした顔つきで仕事へと向かってゆく。通りに並ぶ店店からは、パン屋でも肉屋でも、そして魚屋でも、商売人たちの威勢のよい声が響いている。そのにぎわいは、ウェルドスラーブの首都、レイスラーブにも劣らぬくらいである。いやむしろ、ジャリアによる占領の憂き目にあったレイスラーブの方が、多くの犠牲を出した分だけに、まだ疲弊していたに違いなかった。
(レイスラーブにも立ち寄りたかったけれど)
 だが、トレミリアの友好国であるウェルドスラーブの首都には、クリミナの顔を知る者も多い。それに、自分が招き入れてしまった刺客によって、コルヴィーノ国王が暗殺されたという事実は、いまもずっとクリミナの心を苦しめていた。そんな自分が、どんな顔でウェルドスラーブへゆかれるというのだろう。
(ティーナ王妃はお元気であられるかしら……)
 夫である国王が暗殺され、さぞかし嘆いておられることだろう。そして、国王暗殺のきっかけを持ち込んだ自分のことを、きっと憎んでいるに違いない。
(サーシャねえさんにも、なにも言わずに飛び出してきてしまった)
 トレヴィザン提督夫人であり、レード公の長女であるサーシャは、クリミナのよき理解者であり、幼馴染であるナルニアの姉でもある。あの暗殺劇のあとも、彼女はクリミナに優しい言葉をかけて慰めてくれた。
(いつか、また会えたら……たくさんお礼を言って、おわびをして)
 だが、果たしてそのような日が来るのだろうか。いつかまたトレミリアに帰ることのできるような、そんな日がくるのだろうか。騎士団も、身分も、責任も、なにもかもを投げうって飛び出したこの自分が。
(そんな日が……)
 馬上で思わず泣きそうになるのを、ぐっとこらえる。
 なんだか体が熱かった。それにひどく頭も痛い。
 馬の手綱をとるハインは、振り返るでもなく黙々と通りを進んでゆく。このまま通りを北へ抜ければ、もうすぐサンバーラーンを出られるはずだ。赤茶色をした家々の屋根の向こう、左手の方にいくつかの塔が見えてきた。あの高台にあるのは、アルディを治める貴族たちの住居である。
(あのあたりに、クレイぼうやもいるのかしら……)
 そんなことを考えていたときだった。
「ハイン。ごめんなさい……ちょっと」
 そう言うのがやっとだった。クリミナは馬首に突っ伏していた。
 ぐるぐると世界が回るような気分だった。頭がひどく痛い。
「どうした」
 立ち止まったハインが振り向いた。
「ごめん……やっぱり無理だわ」
 荒い息を吐き、そう告げる。
「戻ろう」
 即座にハインは言った。
 そのまま宿に引き返してからのことは、あまり覚えていない。ひどい頭痛と体のだるさで、意識がもうろうとなっていた。
 クリミナの様子を見た宿の女主人は、あたたかい毛布を用意してくれ、すぐに部屋で休むように言ってくれた。ハインに背負われて宿の二階に上がり、部屋の寝台に横たわると、クリミナはそのままぐったりとして動かなかった。いままでの旅の疲れが、ここにきてどっと出たのかもしれない。騎士として体は鍛えていたつもりだが、やはり女性としての体調の変化というものは仕方がなかった。
 クリミナは毛布にくるまって、それから一日中眠り続けた。


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