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水晶剣伝説 XII クリミナの旅


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 その部屋の中は案外に明るかった。蝋燭の火がともっているのだろう、赤と白のいくつもの光が見える。
「どうぞ、お入り」
 いきなり声がした。
「……」
 おそるおそる部屋に足を踏み入れると、後ろで扉が勝手に閉まった。慌てて振り返ると、今度は笑い声とともに、
「大丈夫。問題ない」
 しわがれた声が聞こえた。
 そして、部屋の中に、一人の老人が立っていた。
「さてと、こちらにいらっしゃい」
 白髪に白い髭の老人は、クリミナを見てゆったりと手招きした。
「……」
 いったい、この老人は何者なのか。驚きと不安に包まれながら、クリミナは老人のいるテーブルへ歩み寄った。
「さあ、座るといい。たくさん歩いたろうからの」
 落ち着いたその口調に、クリミナはいくぶん緊張を解くと、言われるがままに椅子に腰を下ろした。テーブルの上には、大きな水晶の玉が、毛皮の台座の上に置かれていた。
 部屋はさほど広くもなく、また狭すぎもしないくらいで、壁際の棚には、古びた本や羊皮紙の束などがぎっしりと詰まっていた。隣の棚には、色とりどりの変わった石や宝石の原石のようなものがずらりと並べられていた。セルムラードでも見た緑柱石の原石や、つやつやとした青金石の塊、紫がかった水晶の結晶など、大小それぞれにたくさん並んでいる。部屋の四方には、蝋燭のともる銀の燭台が置かれていた。燭台はテーブルの上にもあって、老人の前にある大きな水晶玉を照らしている。
「手順を踏んで道を回らないと、この店の扉には決してたどり着けぬのだよ」
 よく意味の分からない言葉に、クリミナは目をしばたたかさせた。この老人はいったいどこの何者なのか、自分などを連れて来ていったいどうしようというのか、なにもかもが分からなかった。
「さて、手荒な事をさせて、申し訳ないの。あやつは、やはりもともとがいくさを生業とする騎士くずれ。たおやかな女性の相手には向かんわな」
 老人はそう言って、ほっほっ、と笑った。
「あの……」
 クリミナが言いかけるのを老人は手で制した。
 麻色の僧服のような長ローブに身を包んだ老人の姿は、年老いた祭司か、魔法使いのようでもあった。とがった鷲鼻にこけた顎、ぎょろりとした目には鋭い光をたたえている。この老人がただの占い師などではないと、クリミナは直感で感じていた。
「そなたが言いたいのは、わしは何者なのか、そして、いったい自分をここに連れてきた理由はなんなのか、ということだろうよ」
 クリミナの心を読んだかのように、老人は言った。
「だがまあ、慌てるでないよ。時間はここではたっぷりとある。そもそも、時間などという概念が無意味なくらいにな。この場所にいるかぎりは、そう……時間は無限にあると言ってもいい」
「では、ここは、メルカートリクスではないのですか?」
「ほっほっ、核心をつく質問よの。さすがは、女騎士どの」
「その問いに関する正確な答えはいささか難しい。なぜなら、そうであって、そうでないと言えるからじゃ。つまり、ここはコス島の女職人の町、メルカートリクスであって、実際にはそうではないとも言えるからじゃ」
 クリミナには、老人の言う言葉の意味がさっぱり分からなかった。
「いや、もちろん、我々はいまこの場所におる。怪しげな占い通りの、さらに奥まった裏路地にある、一軒の店の中で話しておるのだよ。それはまあ安心するがいい」
「……」
「さてと、ひとまずはお茶でも差し上げようかの」
 そう言って老人が手元の鈴を鳴らすと、クリミナの入ってきた扉から、一人の女が顔を覗かせた。
「これ、お客人に、ハーブのお茶を差し上げろ」
「かしこまりました」
 黒いローブをまとった痩せた中年の女は、まるで召使のようにうやうやしく礼をすると、また引っ込んでいった。
(さっきは、あんな女の人はどこにも見かけなかったけど)
 不思議がるクリミナに、老人は髭を撫でつけながら説明した。
「あれは、この家にいた前の占い師でな。いまはちと、わしのお手伝いをしてもらっているのだよ」
 少しして、また扉が開かれ、お茶の入った壺と、陶器のマグを盆に乗せた女が入ってきた。湯気の立つお茶が陶器に注がれると、室内にかぐわしい香りが広がった。
「まあ飲むとよい。疲れにもよく効くお茶だでな」
「……」
 クリミナはいくぶんためらいつつも、よい香りにあらがえぬように、それに口を付けた。すっきりとした味わいのお茶で、はちみつで少し甘みがつけてあるようだった。
「美味しいです」
「そうだろうとも。森で育てたハーブじゃからな」
 ハーブのお茶のおかげでずいぶんと気分が落ち着いたが、老人が次に口に出したことに、クリミナはひどく驚いた。
「ともかく。よくぞいらしてくれた。トレミリア王国、宰相オライア公爵の娘にして、宮廷騎士長、クリミナ・マルシイどの」
「な……」
 思わずお茶の入ったマグを落としかけた。いったいどうして、この老人は自分の素性をすっかり知っているのか。椅子から腰を浮かそうとするクリミナを見て、老人はまた、ほっほっ、と笑った。
「なになに、あなたのことを見知らぬものが、いようものか。あなたの精神的な波動はなかなかに強いものなのだよ。かの黒竜王子や金髪の美青年ほどではなくともな。きらびやかで歴史ある結界が作用する、かのフェスーンの宮廷にいる間はともかく、国を離れたあなたは、さよう……まるで光り輝く宝石のようにわしからは見えるのだよ」
「……」
「実際にお目にかかるのは、これが初めてであるがね。あなたの波動については、案外に前から注目しておったのだ」
「それは、なんのことですか?」
「まあ、分からずともよい。ともかく、あなたはここに来た。コス島にやってきた。ちょうど、そう……じつに見事なタイミングでな」
 そう言って老人は白い髭を撫でつけた。見ると、テーブルの水晶玉がきらりと輝いたようだった。
「ちょうど、そう……あのデュプロス島での会議に合わせて、わしはこの島の扉を開いた。深い森の地中からでは、さすがになにもかもを知るのは難しいのでな。正直、アスカの皇子ばらがデュプロスまで飛んでくることは予想がついたので、あまり奴に悟られるようなことはしたくはなかったのだが。まあ少なくとも、森の宰相とは会話できたのでよいとしよう」
 老人の話すことはほとんど分からなかったが、どうやらこの老人はただのほら吹きや、頭のおかしい気狂いではなさそうだった。
「ふむ。それでの、案外、この町の占い師にまじってのんびりと過ごす時間というのも、悪くないと思ってしまってな。それであの宰相が国に戻って行ってからも、何日かここで過ごしていたんじゃよ。そうしたら、こちらへやってくる宝石の輝きに気付いての。どうしようかと迷ったのだが、こういう機会というのはなかなか訪れぬのでな。思い切ってここへ呼ぶことにした」
 宝石……というのが、どうやら自分のことらしいとは分かったが、しかし、この老人がいったいなにもので、どうして自分をここに呼びたがったのかが、なおまったく分からない。クリミナは、老人の言葉になにかの意味を見出そうと、じっと耳を傾けた。
「まあ、もともとわしは、俗世の人間への干渉をすっぱりやめたつもりだったのだがな。しかし、あの……凍てついた湿原地帯でトレミリアの若者の命を助けてしまってから、なにかが変わってしまったようじゃ。いや、あの若者は定め通り、そののちにやはり命を落とすことになったのだがな。だが、あの干渉があって、草原のいくさの結実にいくばくかの変化をもたらしてしまったかもしれぬ、ということにいくぶん悩んだのだ。だが、もう手を触れてしまったものは仕方ない。わしはそう割り切ることにした。ばあさんも、それでよいと言ってくれたのでな」
 老人は、手元の水晶にいとおしそうに手を触れた。
「なので、じつは、あのいくさのあと、森を彷徨っていたジャリアの騎士をまた助けてしまったのだ。そなたをここに連れてきたのがそれよ。いささか手荒なことになってしまい、すまないと思っている。やはり、剣士や騎士などというのは粗暴なものよな。最初にトレミリアの若者を助け、次にジャリアの騎士を助けと、これであいこよ、バランスがとれる、などと言うつもりはない。だが、あの騎士は、森をさまよい、わしの家に続く扉の近くまで来て倒れたのだよ。それは放ってはおけないのう。これも定めなのかといくぶん考えながら、わしはまた手を出してしまった。放っておけば、いずれは死んだろうものを。助けてしまった。だが、もう後悔はしていない。そんなわけで、世間への干渉を放棄したはずのわしが、二度も重要なことに手を触れてしまったのだ。しかしまあ、いまはもう、それでよいさと、すっきりしておるよ。なので、そなたがこの島に来たことも、むしろこれは定めよとそう思うことにした。それで、こうして呼びつけてしまったというわけだ」
 老人の言うことはその半分以上がよく分からなかったし、語られる話がすべて真実だとはとても思えなかったのだが、クリミナにとっては、そこにひとつ気になる言葉があった。
「あの、最初に助けたトレミリアの若者というのは……」
「ああ、名前はよく知らぬがな。そこで死んでいたものを助けてしまったことで、間接的ないくさに関わってしまった。だがそのものは、そなたの思う人間でないのは確かだ。安心するがよい」
「な……」
 まるで、レークのことを見透かされたような気持ちで、クリミナは言葉を失った。
「ああ、すまんの。べつにそなたの心を読んだわけでもない。それもやろうと思えばできぬでもないが、そこまでするのは、完全に魔術師規約に違反するのでな。ただ、さまざまな要因と時間の流れにある出来事ども、そのすべてを忘れずに記憶し、対等に評価し、引き出しているだけで、たいていの事象は知ることができるのだよ」
「魔術師……あなたは、占い師とか、魔術を使う類の人なのですか?」
「ふうむ。どう言っていいものかの」
 老人は、珍しく困ったように口を突き出した。そうすると、偏屈そうだがいくぶん愛嬌のある顔つきになる。
「まあ、この世界で言うところの占いなどというものは、先に言ったような流転し続ける事象の論理的帰結をもとにした予測的な展開を、さも仰々しく意味ありげに告げるだけのことで、そんなものはわしにもいくらでもできるし、魔術たるものがなんなのか、ということに関しては、正確に説明するには大変長い講義となろう。つまり、そう……しごく簡単に言うなら、世間の占い師や秘術師などというものは、ほとんどが、わしらの弟子のそのまた弟子、程度の代物であるといっておこう。結局のところ、多くのものが見えるということは、よほど気を付けていないと、世界に面倒を起こす種ともなるのだからな。なので、実力のあるものは、その実力があるほど、逆説的にやがてそれを忌み、たいていはいずれ世捨て人となるのだよ。まあ、どこかの宰相や皇子は別としてな」
 意味の分かるような分からぬような老人の言葉に、感心するような呆気にとられるような顔をしていたクリミナだったが、どうやらこの老人が自分を害するつもりはないらしいことだけは分かってきた。ハーブのお茶を飲み干す頃には、いくぶん緊張がとけてきて、話を聞くうちに、この老人が本当に只者ではなさそうで、あるいはそのへんの占い師などよりも、よほど凄い人物なのではないかと思われ始めていた。
「あの……では、もしも、私がある人の居場所を知りたいとお願いしたら、答えていただけるのでしょうか?」
「そうさの。答えられる範囲においては可能であるよ。いや、じつのところ、そなたがその人間を探していることは知っていた」
「そうなのですか……では」
「まあ、焦るではない。先にも言ったが、時間はたっぷりとある。レーク・ドップの行方について、なんらかの助言をしてやろうというのも、じつはおぬしをここに呼んだ目的のひとつであった」
「……」
 クリミナは今度こそ、驚いて口がきけなくなった。この老人は本物の預言者か、魔術師ではないかと、そんな気すらした。
「先にも言ったが、わしは、あまり世俗の人間に干渉をするべきでないと思いながら、長い事生きてきたのだが、ここにきて、そう……少し考えが変わった。つまり、己の定めを持ち、その定めに向かってゆく類の人間について、中でも、より重要に世界に対する因子となりうる人間について、その定めがしかるべきときにしかるべき方向に向かわないとしたら、それはあるいは、我々のような調整者の怠惰が招いた結果なのかもしれぬとな。すでに、二人の人間の命を助けておいて言うのもなんだが、生死にかかわる場面での過剰な干渉は、やはりゆき過ぎたことかなのもしれん。だが、そなたのような輝く宝石が、なにかを求めてやってきた、その偶然の必然というべきただ一度の機会に関しては、その定めにある勇気ある行動を真摯に受け止めるなり、あるいは正しくその求めに応じることは、案外に悪いことではないのかもしれぬと、そう思うようになったのだよ」 
 相変わらず、老人の話はまったくもってよく分からなかったが、どうやら自分になにかの助言を与えてくれそうだと、クリミナはその言葉にじっと耳を傾けた。
「ふむ、そなたはさすが聡明で、話をよく聞いてくれて助かる。あの粗暴なる元浪剣士どのは、人を変人扱いするように見おるし、このわしに無礼なことを言いおったからの。まあ、それもあの男の楽しいところなのかもしれんが。おそらく、そなたもそのようなところに惹かれたのではないかな?」
「あの……もしかして、レークのことをご存じなのですか?」
「ふむ。一度おうたよ。あの男のさだめにおいてな。あれは必要な邂逅だった」
 クリミナはすっかり驚きながらも、この老人の言葉は不思議と信ずるに足るように思えた。
「どこで、とも、いつ、とも訊かんのう。さすが、あの男よりもよほど落ち着いているし、じつに知的な対応じゃ。なかなか気に入った。さよう、なにを訊かれようとも、結局わしは自ら話したいことを話したいときに話す。それが、いま現在の、唯一の、わしの矜持であるともいえるでな」
 老人は気分が良さそうに話し続けた。
「あれは、なかなか愉快なひとときだった。あの男についても、トレミリアの剣技会で優勝したあたりから、非常に注目はしていたのでな。いずれは会うときもくるかと思っていた。さて、あのあとで、草原の大きないくさが始まり、そして終わった。黒竜王子は倒れ、魔剣とともに行方が分からず、王子を倒したレーク・ドップもまたな。森からずっと見ておったよ。王子の身体が、シャネイたちの群れに囲まれ、覆われ、そして消えるのを。消えたというのは、決して死を意味することではない。わしが見ていた波動が消えた、つまり見失ったということじゃ。シャネイというのは、じつはその一人ずつが霊的な魔力を持っていてな。一人だけでは微力だがああも大勢が集まると、なかなか大変な力となるのだよ。なので、王子はもちろん、レーク・ドップがそこからどのようにして消えたのかも、わしには分からん。ただ言えるのは、」
 老人の目がきらりと光ったように見えた。
「水晶剣と水晶の短剣がぶつかりあったのだから、そこになにかが起こったということじゃ。さよう、なにか……新しい力の発現か、新しい磁場の誕生か、あるいは……」
 老人はいったん言葉を切ると、しばらく自ら考えるように黙り込んだ。
「……」
 クリミナは、水晶剣というはじめて聞く言葉に、なにか恐ろしく重要な響きを感じる思いだった。そして、それにレークが大きく関わっているという、直感的な確信があった。
「すまぬな」
 眉間に皺を寄せていた老人の表情が、ふとやわらいだ。
「つまりは、わしとて、決してすべてを知り、見つめているわけではないのだ。さて、分かるように言い直そう。さよう、おそらく……手がかりはジャリアにある」
「ジャリアに」
「ふむ。大きな力の方向、様々な気の力が、そちらに集結しようとしている。それは水晶剣の存在自体もそうだといえるし、つまりは、それに関するものたち、レーク・ドップもその一人としてな」
 予言めいた老人の言葉を信じてもいいものなのか、以前の彼女であったなら眉をひそめたことだろう。だが、いまとなっては、まさしくこれは、天からの啓示ようにすら思われた。文化的なフェスーン宮廷の中で聞かされる占い師たちの言葉とは、これは根本的に違うものだと、クリミナははっきりと理解していた。
「ジャリアに行けば……レークに会えるかもしれないのですね」
「そこまでは言えん。ただ、彼に通じる人間、彼に通じる手がかり、彼に通じる力が、そこに集結しようとしているということなのだ。そこに彼がいるかもしれぬし、いないかもしれぬ。そこまではわしにも分からんよ」
「そうですか……」
 それでも、なにも手がかりすらなかった昨日までからすれば、大きな前進であった。ともかく、これでひとつ目的地ができたのだと、クリミナの目にはまた輝きが戻った。
「美しい目をしている。深い緑色の。美しく純粋な輝きよ。恋する女性というのは、こうまで美しいものなのかの。それと、この風をきる鹿のような女騎士こそが、この大陸においても、他にない特別な存在であるということなのかの」
 つぶやくような老人の言葉は、ほとんどクリミナには聞こえなかった。
「では行くのかの、ジャリアへ。危険な旅になるだろうよ」
「はい。行きます」
 迷いのない言葉に、老人は口元を歪めた。
「なんとなく、そなたは、ばあさんの若いころに似ておるな……」
「おばあさん……それは奥様のことですか?」
「まあ、そう言ってもいいかな。正式には夫婦であったわけではないがな」
 手元の水晶球を大切そうに撫でながら、老人は幸せそうにうなずいた。
「気が強くて、自分の思った通りに行動する人じゃったよ。凛然としていて、ときに女性らしくもあり、そなたのように美しかった」
「その方を、愛していたのですね」
「そうとも。いまも愛しておるよ。失われた器のことを嘆いたこともあったがの、いまはもう、こうしてずっと一緒におられる」
 クリミナには、よくは分からなかったが、この老人が、過去に色々なつらいことや苦しいことを味わってきただろうこと、そしてそれでもなお、いまも心に優しい愛情を抱いているということが、なんとなく感じられた。
「後悔しないような生き方か……きっと、そなたは、そうして行動し続けることが、己の指針、矜持でもあるのだろうな。女であっても、それは立派なものよ。いや、女なればこそ、ただ純粋に愛に殉じるということなのかな」
 独り言めいた老人のつぶやきに、クリミナは首をかしげた。
「いや。わしはどうやら、そなたをとても気に入ったようだ」
「それは、ありがとうございます」
「それにそなたは、無用のことを訊かない。わしの名前も訊かないのだな」
「教えていただけるのですか?」
「いいや」
 老人はにやりと笑った。そうすると、今度はとてもいたずらそうな表情になる。
「名乗ったところで、おそらくあまり意味はないだろう。そなたは、そう……この大地に生きるもの。我々のいるような世界をあまり知るべきではない。そうだの、どちらかというと、そなたの思い人も、そう言ってよいかもしれんな。これは珍しいことよ。金髪の片割れの方は明らかに、わしや、あの皇子などに近い存在に思えるのだがな。これだけ、物事の中心にいて、世界を動かすための関わりをもって、重要なる場面に幾度となく現れる存在のくせに、あの男ときたら驚くほど素直で……というか単純で、大地に根差した人間の側の色が強いというのは。ふむ……このことについては、案外もっとよく考証する必要があるかもしれんな」
 哲学者めいた老人の言葉の、その半分も意味は分からなかったが、どうやら自分やレークのことを少なからず好意的に思ってくれているようだということは理解できた。
「さて、わしが話せることは、もうだいたい話して聞かせた。これは占いでも予言でもなく、いわば、わしの希望的な予想にすぎぬのだが、まあ多くの占い師どもが告げるのも結局はそうしたものなのだがな」
 そう前置きしたうえで、
「身の危険もいくつもあるだろう、望まぬ出会いもあるだろう、新たな友にも出会うだろう、旧知の人間にも出会うだろう、その先にゆくには、勇敢さと機知と方法が必要になるだろう。だが、そなたが素直な感性と直感に従えば、裏切りは起こらない。あやまちは起こっても破滅はすることはない。剣の腕は常に磨いておくがいい。たとえ、己の王国に敵する立場になろうとも、戸惑うことはない。最後の喜びは、つらい悲しみの先にある。それを忘れぬよう」
 老人は淡々と語って聞かせた。クリミナは、それを真剣な顔つきで心にとめた。
「それから、もしよかったら、騎士のお供をやろう。腕の立つそなたのこと、護衛などはいらぬのかもしれんが、ジャリアの方角は、現在いろいろと物騒なところもあるようなのでな」
 老人はよほどクリミナを気に入ったのか、そこまで世話をやいてやるというのは、相手が若い女でなかったとしたらはたしてどうだったろう。そのとき水晶玉が赤く光ったように見えたのは気のせいだったろうか。
 ちらりとその水晶を見やり、老人はひとつ咳ばらいをした。
「ふむ、さきほど、そなたをここまで連れてきた。あの男はな、かろうじて自分の名前と、自分がジャリアの騎士であったことは覚えておるが、それ以外は、ほとんどの記憶は失っているようなのだ。だが、見たところ、ずいぶんと位の高い騎士であるのは間違いない。どうだの、ジャリアに入り込むには、正規のジャリア騎士を連れて行くのが、実のところ一番安全かもしれぬぞ」
「ええと……それは」
 クリミナは困ったように言葉をにごした。
 ガレムと別れてからは、また一人で旅をしてゆくつもりだったのだが、今度はジャリアの騎士をお供にするというのは、どうも違和感があるように思えた。なにせ、先日までトレミリアと戦っていた敵国である。
「いくさが終わればもう、敵も味方もあるまいよ。いつまでも怨恨を持ち続けるから、いつになってもいくさの種が消えぬのよ。あらたな芽を出し、あらたな葉をつければ、どんな種でも、また違う木に変わることができる。そうではないか」
「ええ……」
 確かに、ジャリアに行く危険を考えれば、腕の立つジャリアの騎士が一緒にいるというのは心強い。そして、老人の言うように、ジャリア人の一人一人に恨みがあるわけではない。いくさというのは、国同志のいざこざであって、その国に住まうものたちすべてを憎むことではないのだから。
「では、お言葉に甘えまして、お願いいたします」
「よかろう」
 老人は満足そうにうなずいた。
「ここを離れてから、わしの呪縛が解ければ、あの男は記憶を少しずつ取り戻すかもしれん。だが、そなたの言うことはどんなときでも聞くようにしておこう。困った時には、あやつに頼っても間違いないように、ちゃんとしつけておくのでな。明日の朝にでも宿に行かせるよ」
 この老人と出会って、なんだか物事がずいぶんと明確になって進むような、そして変わってしまったような気がしたが、それが間違っているとはクリミナには思えなかった。結局、老人の名前も素性も知らぬまま、彼女はその言葉を全面的に信じることになったのであった。
(なんだか不思議な……まるで夢の中にいるような感じだわ)
 それから、老人はまた鈴を鳴らして、さっきの女にお茶のお代わりを持ってこさせた。
 老人は、すっかりクリミナと話すことを気に入ったようで、今度は自らもお茶に口をつけながら、よほどくつろいだ様子になって、たわいもない話や、哲学的な話などを語ってくれた。クリミナにとっては、よく分からない話も、なんとなくわかるような話もあったし、かなり俗世離れしていて、いちいちもってまわった難しい言い方をする老人の言葉に、ときおり首をひねるような気持ちになりながらも、論理的かつ意外性に富んだ視点から展開する話は案外に面白く、時間を忘れて聞き入ることになった。
「あの、ずいぶん長居をしてしまいましたので、そろそろ……」
 クリミナがそう切り出すと、老人は残念そうに、口をへの字にした。もっともっと話をしたそうな、そんな顔であった。
「ふむ、すまんの。年寄りの長話につき合わせてしまい。ここにいる限りにおいては、通常の時間軸のようなせわしない気づかいは無用なのだが。しかしまあ、一般の人間にとっては、無限に近い時間の流れなどというものには、かえって恐怖してしまうところもあろうでな。尽きない思索を友とする、わしらのようなものでなくては、すぐに退屈に狂ってしまうであろうよ」
「あの、いろいろと、ありがとうございました」
「なに、礼など無用。わしは、気になったものにのみ関与して、気に入ったものにのみ助言を与える、ただの偏屈な老体よ。そなたも、あのレーク・ドップも、こういってよければ、正直なところもう、友人たるに近い気がしているのだよ。たった一度しか会わずとも、魂の色を好もしいと思えば、素直に気に入ってしまう。わしにもまだ、そうした人間味が残っていたようでな。それは、なかなか愉快なことよ」
 ほっほっ、と髭を揺らして笑う老人は、最後に謎めいたことを言った。
「よいかの。この店を出たら、左手にまっすぐ進みなさい。そして、そなたの見覚えのある通りに出るまでは決して振り向かぬように。また、決してこちらに戻ってこようとは思わぬように」
 それがどういうことなのかは、よく分からなかったが、クリミナはうなずいた。いったんこの老人のことを信じることになった以上、その言葉を疑う理由もなかった。
「ふむ。そなたは、本当に気に入った。一途でまっすぐなところもとてもいい。ばあさんがいなければ、助手としてずっと手元に置いておきたいくらいじゃよ」
 立ち上がって扉の前まで来た老人は、クリミナにそう囁いた。まるで部屋にいる誰かに聞かれたら困るかのような小声で。
「では、行きなさい。くれぐれもさっきの言葉を忘れんようにな」
「はい。ではさようなら」
 クリミナは部屋を出ると、後ろ手に扉をしめた。
 とたんに、まるで現実に戻ってきたような奇妙な感覚があった。また扉を開けても、もうきっと、老人のいたあの部屋はそこにはないのではないかという、おかしな気持ちがした。
「ああ……」
 店の中はひんやりとして薄暗く、さきほどと同じお香の香りが漂っている。あの騎士の男の姿はどこにもなかった。
 クリミナは静まり返った店内を通って、カーテンをくぐって外に出た。とたんに、日差しのまぶしさにびっくりした。
(さっきは、こんなに明るい通りではなかったようだけど……)
 なにかが違っているような気がしたが、ともかく、老人に言われた通り、左手に向かって通りを歩き出した。
 あたりは、先ほども見たように、占い師や魔術師などの怪しげな店店が立ち並んでいたが、さっきと違うのは、店先には占い師の女の姿が見えたり、通りを歩いてくるお客などの姿がちらほら目につくことだった。
(さっきも通ったはずなのに、なんだかもう別の通りみたい……)
 薄暗くどんよりとしていた景色も、いまはずいぶんとアヴァリスの光が差し込んで、影と日なたをくっきりと作り出している。怪しげな通りではあったが、ここは確かにメルカートリクスの町であった。
(不思議だわ……なんとなく方向も分かるし、もう迷わずに帰れるような気がする)
 来るときは騎士の後について、路地から路地へとぐるぐると回って歩いたのだが、こうしてまっすぐに戻ってゆくと、そのうち見知った通りに出るだろうという安心感がある。
 なんとなく振り返りたくなる衝動をこらえながら、クリミナは言われたように、通りをただまっすぐに歩いていった。
 しばらくゆくと、通りの両側には占いの店が少なくなり、一般の小物屋や雑貨屋などが目につき始めた。さらに進むと、見たことのある大通りにさしかかった。気付けば、そこはもうメルカートリクスの目抜き通りであった。ここを右手に進めば、港へと続く市門まで続いている、なじみのある大通りだ。
 クリミナはほっとして立ち止まると、いま歩いてきた通りを振り返った。
「……」
 ずいぶんと歩いてきたので、当然ながらここからではもう、あの店のあったあたりまでは見えない。だが、いまこの通りを戻って行っても、もう二度と、あの店にはたどり着けないような、そんな気がした。あるいは、もうあの扉の向こうの部屋には決して行けないような気が。
(なんだか、魔法でもかけられたような感じだわ)
 ほんの少し前のことなのに、もうすでにあの老人と会話をした時間が、夢の中の出来事のようにも思えるのだ。
(そんなはずはない……あれはたしかに現実だった)
 いますぐに走って戻って行って、あの店の扉をまた開けてみたいという好奇心にかられるのだが、一方では、それを試すことはまったく無意味にも思えた。
 いくぶんもやもやとした気持ちをかかえながら、クリミナは大通りを歩き出した。
 辺りには地元の女職人や女商人たちにまじって、買い付けに来た他国からの商人の姿などもあり、にぎわうというほどではないにしても、それなりに人の通りがあった。このあたりは、食べ物屋や宿屋、雑貨屋、服飾店などが軒を連ねていて、さきほどの占い通りとはまったく異なり、なかなか見た目にも楽しく華やいでいる。
 通りを歩きながら、クリミナはふとあることに気付いた。
(そういえば、あのおじいさんと長いこと話し込んでしまったけど、太陽の高さはさっきとほとんど変わっていないみたい)
 少なくとも一刻以上はあの部屋にいたのだから、もうそろそろ日が傾き出してもいい頃なのだが。頭上のアヴァリスは、いまだ中天にあって誇らしげに輝いている。
(まるで、ほとんど時間がたっていないみたいに……)
そう考えて、クリミナは首を振った。たとえどんな占い師でも魔術師でも、時間を止めることなどできようはずもない。
(まさかね……)
 深く考えるのはやめることにした。考えても分からないことは考えない。その真理に彼女は従った。
 それよりも、まだ時間はあるのだからと、これからの旅のための道具や物資を、いまのうちに買っておくことにした。まずは手近な雑貨屋に入って、新しい水筒と、食料を入れるための革袋を。それから蝋燭や、ロープ、包帯などの必要品も買っておく。服飾店では、女性ものの色とりどりの長スカートなどに目が行きつつも、ぐっとこらえて男ものの丈夫そうなチュニックと肌着、それに細めの足通しを買った。あまり派手なものだと目立つので、遍歴職人のように見えるような地味な服が、この旅にはちょうどよい。
「食料は、明日旅立つ前に買えばいいわね」
 荷物をかかえて宿に戻るころになって、ようやくゆるゆると日が傾きだしていた。時間の経過をこれほどゆっくりに感じたことはなかったが、きっとあの老人の部屋で過ごしたのは、思ったほどは長くなかったのかもしれない。
 宿の部屋に戻ると、頭も体も疲れていたので、そのまま寝台に横になった。
(明日になったら、まさか今日あったことがなにもかも夢だった……なんてことにはならないわよね)
 そんなことを考えながら、クリミナは目を閉じた。


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