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 水晶剣伝説 XII クリミナの旅


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 船がメルカートリクスの港に着いたのは、コス島の島影に太陽が隠れ始めた頃だった。
 さっそく荷物を陸揚げしようと、忙しそうに行き交う船員たちの横を通り抜け、クリミナは船を降りた。町の市門に近づくと、小屋から顔を覗かせた女性が、こちらを見て「おや」という顔をした。 
「あなたは……ええと」
「こんにちは」
 正規の通行証を見せ、それがトレミリアのものだと知ると、女性はいくぶん目を丸くした。姿恰好は変えてみても、一度会ったことのある相手であれば、クリミナ・マルシイの顔を見忘れるはずはない。なにしろ、名高いトレミリアの女騎士である。その名前は広く知れ渡っているのだから。
「もしかして……あの」
「すみません。一人で旅をしています」
 目を伏せたクリミナの言葉に、これが公の訪問ではないことを悟ったようだった。
「さようですか……メルカートリクスへようこそ」
 女性はうなずいてそうとだけ言うと、通行証を返してくれた。クリミナはいくぶんほっとして、町に入ることができた。
「メルカートリクス、また来たわ」
 夕暮れの通りを少し歩いただけで、あたりにはこの町独特の気配がただようような感じがした。どこか穏やかで、時間がゆっくりと流れるような。職人の町特有の雰囲気であろうか。クリミナはそれがとても好きだった。
 このメルカートリクスは、いわずと知れた女だけの職人の町である。町を治める都市長も、管理官も、そしてこの町に住まうすべての商人、職人たちは女性であるというのは、世界的にみてもごく稀な都市であった。
 この町に住む女職人や商人たちは、もともとは、それぞれがトレミリアやセルムラードや、ウェルドスラーブやミレイなどにいた人々であったという。しかし、たいていの国では職人ギルド、ツンフトなどにに入るのにはとても厳しい審査があり、とくに女性の場合は大変な条件を付けられたし、たとえ運良く自分の店を持ったとしても、女性というだけで差別を受けたり、商売の相手すらしてもらえない。だから彼女たちは、国を出て、このコス島で女性だけの、女性のための職人の町をつくったのだった。
 男に頼らず、自分たちで品物を揃え、造り、加工して売る。女性職人としての誇りを持ち、皆が助け合って、己の技術を高めてゆくことで、彼女たちの職人としての確かな技量は広く認められ、いまではメルカートリクスは、どこの国にも属さない都市国家として認められ、様々な国から品物を買い付けに来る人々が後を絶たないのである。
 クリミナ自身も、この町に来ると、なんとなくほっとして落ち着くのであったが、それはやはり、自分が女騎士という立場にあって、女職人たちの持つプライドや矜持などに共感できることもあったし、ただ純粋に男と関わらなくてすむという気楽さもあったろう。
(私はもう、トレミリアの騎士ではないのだし……そのうち、この町で女職人としての修業でもはじめようかしら)
 それは、まんざらただの思い付きではない、よい考えに思われた。自分がいったいどんな職人になれるのかなどは、まったく分からなかったが。
 日暮れどきの通りには、職人らしく荷物を手にした中年の女がときおり行き交い、たまに船乗りらしき男の姿も見かけたが、とくにクリミナの方に視線を投げかけてくるものもいない。スカートではなく足通しを履て、男のような姿をしていることは、この町ではさして珍しくもないことなのだろう。
(やっぱり好きだなあ。この町は)
 もし職人が無理だとしても、この町を守る女衛兵として住まわせてもらうのもよいかもしれぬなどと考えて、彼女はくすりと笑った。
(どちらにしても、剣だけは鍛えておかないとね)
 そろそろ日も暮れかかるので、今夜はもう休むことに決めると、クリミナは少し迷ってからなじみの宿屋にゆくことにした。たぶん、どこへ行っても、自分の顔を知る者がいれば、どうせ素性は知れてしまうのだ。
「おやまあ、あなた……クリミナさんかい。まあまあ」
 宿の女主人は、クリミナの姿を見るや、驚きながらも暖かく迎えてくれた。
「いまは、ちょうどお客も少ないからね。好きな部屋を使って。ゆっくりしていっていいのよ」
「ありがとうございます」
 長旅に汚れた自分の恰好にも、なにも尋ねることなく受け入れてくれたことに、クリミナはまるで、自分の家にでも帰って来たような安堵感を覚えるのだった。
 荷物を置いて軽く食事をとらせてもらうと、旅の疲れもあったので、部屋に入ってすぐに寝台に横になった。壁際に立て掛けた剣……確かにかつてはレークが握っていたその剣を見つめながら、そのまま彼女は眠りに落ちていた。
 翌朝、目が覚めたクリミナは、夢の中で、誰かが自分をいざなっていたような、奇妙な記憶を思い返していた。それがレークであったのか、それとも他に人間であったのかは、いまひとつあやふやであったが、なんとなく、今日はなにかが起こりそうに思えた。
「じつはね。つい数日前までは、うちにトレミリアのレード公爵閣下やお付きの騎士さんたちが泊まっていたんだよ」
 一階の食堂で、朝食の料理を運んできたおかみが、小声でクリミナに言った。
「そうだったんですか」
「ああ、なんでも、デュプロス島での大陸会議の帰りなんだとさ。ほら、前にもあなたとここで一緒だった騎士さんもいたよ」
 それが一瞬、レークのことではないかと思ったが、よく考えればそんなはずもない。
「あの大きな体の……ブロテさんっていったかね」
「ああ、はい」
「この町で、入用なものを買って行かれたみたいだね。三日前くらいだったかね。それから、すぐにあなたが来たもんだから、ちょっとびっくりしてしまったわ」
「……」
 女主人は、黙り込んだクリミナの様子からなにかを察したのだろう、
「なにか訳ありのようだけど、よかったらしばらくは泊まっていきなさいな」
 優しくそう言ってスープの皿を置くと、厨房の方へ消えていった。
 食事を終えると、クリミナはさっそく、この町に来た目的のひとつを果たそうと、剣を手にし宿を出た。
 メルカートリクスの町の西側のはずれにある「夕日通り」、人口の水路が流れる、その通りには、多くの鍛冶屋、武具屋や蹄鉄屋などが立ち並ぶ。石造りの家々の煙突からは、もうもうと煙が上り、あたりには鉄の焼けるような匂いがただよい、鍛冶屋のハンマーの音がせわしなく響いている。
 以前に来た時の記憶を頼りに、クリミナは水路沿いの道を歩いていった。
 すぐに、看板に「オルファン&カリッフィ」の文字が書かれたその店を見つけた。店のよろい戸の陳列棚には、見事な銀細工のほどこされた短剣や、細やかな彫刻の掘られた飾り剣などが誇らしげに飾られている。
「こんにちは」
 店に足を踏み入れると、鉄を削るようなガリガリという音が聞こえてきた。所狭しと武器類が陳列された店内を奥へと進み、もう少し大きな声を上げてみる。
「こんにちは」
 すると唐突に、鉄を削る音がやんだ。ややあってから店の奥から出てきたのは、作業着めいた薄汚れた前掛け姿の二人の女だった。
「あらあら」
「まあまあ」
 クリミナの姿を見るなり、二人は驚いたように声を上げた。
「これはこれは」
「どうもどうも」
 無造作にたばねた黒髪に、つり上がった眉と細い目をした、見るからに姉妹らしい二人組……これがこの店の主人、オルファンとカリッフィであった。
「あの、どうもこんにちは」
 クリミナは、一瞬、いったいどちらがオルファンでどちらがカリッフィだったかと迷うように二人と視線を合わせ、そういえば、少し痩せている姉の方がオルファンだったかしらと思い出した。
「これは、トレミリアの」
「トレミリアの……」
 二人の方も、こちらの名前がすぐに出てこないように、姉妹で言葉をにごすと、顔を見合わせた。歳はたぶん、二十代後半から三十くらいというところだろうが、化粧っけもなく、当然ながら色気もなにもない二人の女職人は、どことなくクリミナをほっとさせるような、面白い……というか、性別を超越したような親近感を覚えるのであった。
「あのう、はい。クリミナ・マルシイです」
 この町においては素性を隠すこともあるまいと、クリミナははっきりと名乗った。
「そうそう、クリミナさんだ」
「クリミナさんだ」
 姉妹は一緒にぽんと手を打ち鳴らした。
「ええ、以前は、レーク・ドップという剣士……いえ、騎士と一緒にここを訪れまして」
「ああ、覚えているよ。彼はいい剣士だった。だから、あたしの大事な剣をあげたんだ」
「あたしの剣もあげたんだ」
「ええ、それで……これを」
 クリミナはさっさく、持ってきた剣を鞘から抜いて見せた。とたんに、妹のカリッフィの顔つきが変わった。
「それは、あたしの剣だ」
「じつは、この剣は山賊から譲ってもらったのです。たしか、レークがこの町であなたがたにもらった剣だったと見覚えがあったので。やはり間違いはありませんか」
「ああ、間違えたりするものか」
 妹のカリッフィは、剣を受け取ると、それを隅々まで検分するように眺めた。
「一から自分で作り上げた、大切な子供みたいなものだからね。間違いようがない。これはあたしの剣だよ」
「やはり、そうですか」
「でも、この鞘は違うな」
「鞘は見つからなかったそうです。山賊によるとロサリート草原の森で、この剣を見つけたということです。そこは、レークが……戦った場所です」
「ふうん……では、あのレークさんは、いくさで死んでしまったのかい?」
 カリッフィの言葉に、クリミナは顔をひきつらせた。
「こら、そんなふうに言うもんじゃないよ」
 もう少し分別のあるらしい姉のオルファンは、クリミナの顔つきを見て、なんとなく悟ったようだった。
「あのレークどのは、見事な腕前の剣士だった。あたしが、このあたしがさ、最高の剣をあげたい気持ちになったんだ。あんなことは初めてだったよ。いくさなんかで簡単に死ぬとは思えない。あなたもきっと、そう思っているんだろう?」
「はい」
 クリミナは寂しげに微笑んだ。
「たぶん……いえ、きっとどこかで生きていると思っています。ではやはり、レークは、あれから一度もここに来ていないのですね」
「ああ。残念ながら」
 それを聞いて、クリミナはがっかりとした。そんなに簡単に会えるとは思ってはいなかったが、やはり彼女にとっての最高の想像は、この町でレークに再会することだったのだ。
「そうですか。もしかしたら、剣の手入れなどでここに来ているかもしれないと、思ったのですが……」
 うつむいたクリミナの様子に、姉妹は顔を見合わせた。
「そういえば、少し前にブロテどのなど、トレミリアの騎士たちが島に来ていたけど、かれらの活躍で草原の戦いに勝ち、ジャリアをやっつけたんだよね。レークさんもきっと、立派に戦われたんだろう」
「……」
「まだ死んだと決まったわけでもないだろうし、それに私の方の剣は見つかっていないんだろう。たまたまカリッフィの剣は落としてしまったのかもしれないな」
 姉の方は男女の機微をいくらか理解するらしい。気を使ってそう言うオルファンの言葉に、クリミナは少しだけ救われた気がした。
「ええ。そうですね」
「ところで、そのカリッフィの剣はどうする。あんたが使うのかい」
「ええと、はい。できれば」
「そういえば、あんたもトレミリアの女騎士として、なかなか有名な人だものね」
 名前を忘れていたことは棚に上げて、オルファンはクリミナに指を向けた。
「もちろん、私がいただいてよければ、ですけど。じつは、私は一人で旅をしていまして、武器となる剣を持たずにきたものですから」
「それはそれは。もしかして、レークさんを探して、かい?」
「はい……」
「おお」
 姉妹はまた顔を見合わせた。それから二人はいくぶん驚いたように、クリミナをしげしげと見つめた。
「なんとまあ、女一人で国を出て、好きな男を探して、この世界を彷徨おうというのかい」
「はい……まあ」
「オル姉……あたし、なんだか、びっくりして感動に震えそうだよ」
「ああ。いまどきそんな、女だてらに命がけの一人旅をするなんざ、聞いたこともない」
 同じようなロマンの香りを感じ取ったもの同士とばかりに、姉妹はうなずき合った。
「妹よ、どうだい」
「うん、姉」
 二人はクリミナに向き直り、
「決まったよ」
「えっ?」
「あんたにその剣をやる」
 カリッフィはにっこりと笑ってそう言った。
「あ、ありがとうございます」
「それだけじゃない」
 職人らしい鋭い目をしてオルファンが言う。
「その剣はちょっと刃こぼれがあるからね。メンテするよ。それと、あんたに合うようにちょっと剣幅を削ってやろう。そうすればさらに軽くなって扱いやすくなる」
「それは、とても助かります」
「あとは、新しく鞘も作らないとね」
「ありがとう。そんなにしてもらって。お代はいくらですか?」
「そんなもんいらないよ」
「いらないよ」
 姉妹はきっぱりと一緒に言った。
「一度はレークにあげたものだ。大切なあたしらの子としてね。それを今度は、あんたのために仕上げるんだよ。これからあんたの命を救うことがあるかもしれない、あんたと一緒に戦う剣に仕上げるんだよ」
「そうさ。女の子の、女剣士のための剣として、新しい命を吹き込むんだよ」
 オルファンとカリッフィの目は、プロの職人としての炎が宿ったように、きらきらと輝きだした。  
「いくら金をもらったって、そんなことはしない。あたしらは、あんたの旅を応援したいからそうするんだよ。クリミナさんが、レークと会うために、これからつらい場面や戦いを乗り切るために、剣に命を吹き込んで渡すんだよ。金なんかいらない」
「いらない」
 姉の言葉にカリッフィもうなずく。
「だから、いつかまたここに戻ってきたとき、剣が役に立ったと、そう言ってくれればそれでいいのさ。できたら、そう、レークさんと一緒にね」
「あ、ありがとう……」
 クリミナは心からの礼を言った。思わず涙がこみあげそうになる。 
「あたしらは、すべての女の味方だ。とくに、強い女の味方だ。意志のある女の味方だ。それはみんな、あたしらの仲間だ。あんたのためなら、一晩や二晩、徹夜することだっていとわないよ。なあ、妹」
「うん、姉」
 愛を貫く使徒たる彼女の旅のためなら、どんな協力も惜しまないというように、職人姉妹は顔を見合わせて大きくうなずいた。
「ありがとう……」
 まるで心強い友を得たような気分だった。ここに来てよかったと、心からクリミナは思った。
「いまはなにもできないけど、きっといつか、お礼はします」
「いらないって、そんなの。ただ、次に戻ってきたら、旅の土産話でも聞かせてくれればさ」
「はい」
「じゃあ、さっそく作業にかかるからさ。あとは任せておきな」
「任せておきな」
 姉妹が揃ってどんと胸を叩く。
「あんたも、なるべく早い方がいいだろう。そうだな、明日の朝にまた来ておくれよ」
「分かりました。ありがとう」
 心から礼を言うと、クリミナは店を出た。
 なんだかずいぶんと気持ちが軽くなった。この世界に自分は一人ではないのだという、そんな嬉しさであった。
(いつか、あの二人とゆっくりと話をしてみたいわ)
 彼女たちとは、とてもいい友達になれそうな気がする。
(また、この島に戻ってきたら……レークと一緒に、あの店を訪れよう)
 目的のひとつは果たしたが、このまま宿に帰るのもなんとなくつまらないので、クリミナは、港へと続く潮騒通りを歩いてみることにした。
 潮の香りが漂う海沿いの通りを、きらきらと輝く波間を見ながら歩いてゆくのはなかなか心地がよかった。レークの足取りはつかめなかったが、彼とつながる剣を手に入れたし、青い空とどこまでも広がる海を眺めていると、ずっと前向きな気持ちが湧いてきた。
(この通りを二人で歩いたんだわ)
 それはもう、ずいぶんと昔の出来事のような気がした。短かったが二人で過ごしたのんびりとした時間……今思えば、冒険につぐ冒険の合間のやすらかなひとときであった。
「そうそう、このお店で食事をしたんだっけ」
 通り沿いの食堂で食べた新鮮な魚料理の味が、じんわりとよみがえってくる。あのときのレークの笑顔や、陽気な冗談なども一緒に思い出され、思わずクリミナはくすりと笑いをもらした。
(またいつか、一緒に食べたいな)
 そんな願いが叶えられるのなら、自分はどんな苦労をしてもかまわない。そう思えた。
 彼から別れの言葉を告げられた場所である、波の打ち付ける岩場まで来ると、クリミナは深く息を吸い込み、じっと海を見つめた。岩の上に腰を下ろすと、まざまざとそのときの言葉が思い出されてくる。
「ここで、お別れだ」
「それは……どういうこと?」
「どうもこうもねえ。つまり、トレミリアには行かねえ、ってこった」
 あのとき……ここで別れたら、もう二度と会えないような、そんな気がした。
(行かないで)
(私も……私も連れて行って)
 その言葉をぐっと飲み込んだ自分、船に乗るレークを見送りながら、なにも言葉をかけられず、手を振ることもしなかった自分、それを死ぬほど後悔し続けている自分……それらの感情が胸に渦巻くたびに、苦しさと後悔と、レークへのいとしさ、そしてせつなさに、彼女は気が狂いそうになるのだった。
「……ああ」
 クリミナは泣いていた。
 あのとき、無理にでも付いてゆけば……せめて、最後にちゃんと顔を見て、自分のこの気持ちを伝えていれば……
(あれが、最後になるなんて、思わなかった)
(本当に会えなくなるなんて……)
 そんな予感があったにしろ、そんなことはないと、次に会ったときにはもっと素直になろうと、そう思っていたのに。
(自分が、こんなに彼を愛しているなんて……)
 あのときと同じほど……いや、あのとき以上に、その気持ちは強くなっている。胸の奥にしまい込んでも、しまい込んでも、ふとしたときに気持ちがあふれ出してくるのだ。
(ああ、会いたい……
(会いたいよ。レーク) 
 涙はとまらなかった。
旅の間は、緊張や疲れにまぎれて、自分を強く奮い立たせていたのだが、いったん女としての気持ちが出てしまうと、どうしようもなかった。そして、ここは女職人の町、女のための町なのだった。彼女が安心して泣ける場所は、もしかしたらここにしかなかったのかもしれない。
(ダメね……こんなんじゃ)
 自分の弱さが憎らしい。しかし、それでいて、愛する男のことを考えて涙を流すというのは、どうもそう悪い気持でもない。
(今日だけ……ここにいる間だけ)
 しばらく泣いていると、不思議と気分がずいぶんとすっきりとしてきた。ひとつ感情を吐き出して整理できたような、そんな気分であった。結局は、自分はここに泣きにきたのかもしれない。そう考えることにした。
 気分が落ち着いてきたので、クリミナは岩から立ち上がろうとした。そのとき、向こうの岩陰にさっとなにかが隠れたような気がした。
「なにかしら」
 気のせいかもしれなかったが、人の動きや気配に関しては、騎士として訓練されて敏感になっている。その岩陰に近づいて確かめたくも思ったが、いま持っているのは短剣だけであったので、万が一のときには心もとない。
 慎重に気配をうかがいながら、クリミナは通りに戻ることにした。
「……」
 誰かがあとをつけてくるような気配はない。何度か振り返りながら、もときた道を戻ってゆく。ともかく、いったん宿まで戻るのがよいだろう。ここは女だけの町だとはいえ、多くの船がやってきて、男の船員が上陸して町で寝泊りすることも珍しくはない。そこに、騎士や剣士や、さらに物騒な者が紛れ込んでいるという可能性もなくはないのだ。
(いろいろ動くのは、明日、剣を受け取ってからの方がいいわね)
 通りに見えるのは、職人らしき中年の女ばかりで、不審な人影はとくに見当たらない。
(それにしても、やっぱり、女だけの町というのは物騒だわ。自警団のようなのはあるのかもしれないれど、やはりちゃんと訓練を受けた女剣士が必要な気がしてきたわ)
 そんなことも考えながら、気配に気を配りながら歩いてゆく。念のため、通りを曲がるたびに背後を振り返ってみるが、誰かに付けられているということもなさそうだった。
(あれは、気のせい、だったのかしら……)
いくぶん緊張をといて、宿のある通りにさしかかったときだ。
「あっ」
 叫ぶまもなく、背後から何者かが飛び出してきた。クリミナが身構える前に、懐に飛び込まれた。
「……クリミナ・マルシイ、だな」
 男が耳元でささやいた。その俊敏な動きは只者ではない。気を付けていたはずなのに、まったく気配を感じさせなかったとは。
 クリミナは唇をかんだ。短剣は懐にしまったままだ。無用に動けば、男の腰にある剣の方がずっと早いだろう。
「お前は……なにものだ?」
 男は無言のままクリミナの腕をつかみ、狭い路地へと引きずり込んだ。
「く……」
 鍛えられた剣士のような腕力だった。気丈にふるまいながら、クリミナは恐ろしさに青ざめていた。
(この男は……いったい)
 その動きや力から、かなりの手練れであるに間違いない。たとえ剣を持っていても、勝てないかもしれないほどの。それが分かるだけに、むやみに逆らうのは得策ではない。
「クリミナ・マルシイだな?」
 淡々とそう繰り返す男の声は、どこか機械的で不気味だった。なにものかの命令を受けているに違いないが、それがいったい誰なのかがまったく分からない。
(トレミリアの騎士ではなさそうだ……)
 男の浅黒い肌や黒髪、顔の雰囲気からして、ジャリア人のようにも見える。
(まさか、ジャリアの騎士が、何故こんなところに……)
 だとしても、どうして自分の名前を知っているのか。クリミナはつとめて冷静を装って、男の顔を見つめた。
 眉間に皺を寄せ、鋭い目をした男の顔には、やはりまったく見覚えはない。年のころは二十台前半くらいだろうか。少しだけ、レークに似ている気もしたが、その眼の中にある切迫した光と、どこか苦しそうな表情は、陽気なレークとはまったく異なる雰囲気であった。
「答えろ……クリミナ・マルシイだな?」
「……」
 ここで違うと言っても、この男が信用しそうもない。クリミナは仕方なくうなずいた。
「では、一緒に来てもらおう」
「待て。そちらは、どこの何者だ?」
 だが男はその問いには答えようとはせず、クリミナの手を引っ張って、そのまま路地の奥へと歩き出した。
「手を……放せ。逃げはしないから」
 力ではとてもかなわないと、クリミナはおとなしく男に従うことにした。男はじっとこちらを見て、仕方なさそうに手を離した。まったく話が通じない相手でもないようだ。
「……」
 不安はあったが、こうなったら、男が自分をどこへ連れてゆこうとするのかを確かめてやろうと決めた。どのみち、殺そうと思えば、この男の腕ならばすぐにやれたはずなのだ。
「こっちだ」
 そう言って男は路地を進んでゆき、右に左にと曲がっては、迷う様子もなく別の路地へと入ってゆく。いったい、この男がどこへ向かおうとしているのか、見当もつかなかった。
(ここは、いったいどのあたりなのかしら)
 男に付いて、ぐるぐると路地を回っているうちに、しだいに方向感覚もなくなってきた。あるいは、それが狙いなのかもしれなかったが。
 あたりはもう、見知った通りの景色とは違い、暗くよどんだ空気が漂っていた。通りをゆく人の姿はほとんどなく、ごくたまに見かける人の姿も、職人というよりはもっと怪しげな、ありていにいってみすぼらしく汚れた服をきた中年女や、暗い色のローブに身を包んだ得体の知れない占い師めいた女であったりした。
(こんな怪しい通りがあったなんて、知らなかったわ)
 ひどく年をとった老婆が、すれ違いざまにこちらを見てにやりと笑うと、クリミナはとても不気味な気分になった。そういえば、メルカートリクスの町には、職人の集まる区画とはまったく異なる、占いや魔術師、錬金術師のような輩が集う、裏通りというものがあるらしいと、聞いたことはあった。
 昼間だというのに、辺りはずいぶんと薄暗く感じる。馬車も通れぬような道の狭さもそうだったが、通りに並んだ家々は、どれも灰色の石造りの建物で、黒いビロードで窓が覆われていたりする家も多かったせいだろう。それぞれに見慣れぬ文字で看板が書いてあるのだが、よくよく見れば、それはほとんどが古代アスカ語であることがクリミナにも分かった。
(そういえば、占いや魔術をとり行うのは、古代アスカ語の知識が不可欠だとか、前にモスレイ侍従長から聞いたような覚えがあるわ)
 こんな際であったが、クリミナは、この怪しげな通りに非常に興味を覚えた。フェスーンの宮廷にも占い師がやってきたりしたことはあったが、それは貴族たちを相手にする、いわば表の知名度がある者たちで、このように女職人の町の裏通りで店を構える占い師、あるいは魔女というのだろうか……それらの人々は、いったいどういう種類の人間であるのか、とても知りたい気もした。
(もちろん、この町にいるからは、みな女性なんでしょうけど)
 そこまで考えて、あるいは占い師に、レークの居場所を訊いてみるのもいいかもしれないと、ふとクリミナは思いついた。
(占いを頼りになんて、いかにも心もとないけど。なにも手がかりがないよりはマシだわ)
 だが、それよりもまずは、現状をなんとかしなくてはならない。この身元も知れない騎士か剣士に、これからいったいどこに連れられてゆくのか。危険を冒してでも、なんとかして逃げた方がいいのか、クリミナにはまだ判断がつかなかった。
(武器があればなんとかなるのだけど、ただ逃げただけでは、また同じように力づくで押さえつけられてしまうだけだわ)
 男の方は、こちらの気配を感じているぞとばかりに、振り返ることなく歩き続けている。また何度か違う路地に入り、すでにまったく、もうここが町のどのあたりかなのかは分からない。
(なんとなく、空気が湿っていて、ひんやりとしている気がする)
 相変わらず、あたりにはほとんど人影はなく、怪しい文字の書かれた看板の店先にも、黒ビロードが垂れ下がった窓にも人の気配はない。なんだか、自分がどこか見知らぬ国にでもやってきたような気分であった。
「……」
 なにかがおかしい……クリミナはそう思った。首筋がちりちりするような異質な気配を、自分の中の本能的な部分が感じ取っているのが分かる。
(ここは、本当にメルカートリクスの町なの?)
 そんな疑問が頭をよぎる。だが、男について歩き出してからは、まだ半刻ほどしかたってはいないのだ。ようやく町のはずれにたどり着くくらいの時間である。
 依然として前を行く男は、まったく迷うようでもなく、次々に路地に入り、また次の道へと曲がってゆく。その迷いのない足取りは、あるいは、まるで誰かに命令されながら歩いてでもいるかのようであった。
 クリミナにとって、永遠のようにも思える時間が過ぎた。
 ようやく、次の路地に入ったとき、男が足を止めた。まるで延々と迷路を歩き続ける、ミレンディローラの物語に入り込んだような気がしていたクリミナは、いったいどこに連れていかれるのかという不安も忘れて、とてもほっとした。
「ここだ」
 男が指さしたのは、一軒の石造りの家だった。
 そこはやはり、このあたりの他の家のように、占い師めいた雰囲気のある店で、入り口には黒と紫のカーテンのようなものがかかっている。近づいてみると、店先には大きな水晶の塊が陳列され、奥の方からお香のような奇妙な香りが漂ってくる。
「入れ」
 有無を言わせぬ男の言葉に、クリミナはいくぶんためらいながらも、ここまできたら逃げることはできないと覚悟を決めた。
「……」
 カーテンをくぐると、強い香の香りがたちこめた。
 店の中は薄暗く、いくつか並んだ長テーブルや、壁際には棚があるのが分かったが、そこに乗せられたものがなんなのかまではよく分からない。しだいに暗さに目が慣れてくると、棚に並ぶのが、様々な石の塊や、なにか得体の知れない液体が入ったビンなどであることが見て取れた。よく見ると、中には動物の骨のようなものや、人間の頭がい骨までが飾ってあって、クリミナはぞっとした。
「行け」
 男は店の奥の方を指さした。ここからは一人で行けということだろうか。男は奥の暗がりを指さしたまま動こうとしない。
「……」
 不安な気持ちはあったが、クリミナは意を決してそちらに歩いて行った。香の匂いを吸い込むと、なにやら不思議に頭が朦朧としてくる気がした。
 店の奥は突き当りになっていて、古びた木製の扉があった。ここへ入れということだろうか。後ろを振り向くと、もう男の姿は見えなかった。
「……」
 クリミナは扉の取っ手に手をかけた。ひんやりとした感触に不安がつのるが、もう仕方がない。ひとつ息を吸い込むと、思い切って扉を開けた。
 カチリという音がして扉が開かれた。


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