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これまでのあらすじ

黒竜王子フェルス・ヴァーレイ率いるジャリアの軍勢は、ロサリート草原にてトレミリア、セルムラード連合軍と激突、
二十日間を越える長い戦いの末、突如出現したシャネイ族により混乱に陥ったジャリア軍はついに敗走する。
こうして、ひとつの大きな戦いが終わり、リクライア大陸には再び、ひとときの平和が戻ったのだった。
南海のデュプロス島にて各国の代表が集って大陸間会議が行われ、今後の秩序が定められていた、その一方、
トレミリアを出奔した女騎士、クリミナ・マルシィは、行方知れずのレークを探して単身、あてのない旅に出るのだった。




 水晶剣伝説 XII クリミナの旅


T

 扉の向こうから、かすかな息遣いが聞こえていた。
 若い女のものに違いない。それは、ときに大きくなり、ときにまた静まり、かと思うと、次には苦しげなうめきのようになった。だが、よく聞くと、ただ苦しいだけではないのか、そこにはごくかすかな喜悦の響きをひそめている。
 そんな妖しい声が、少しずつ高まるようにして大きくなり、なにかをこらえるような息遣いとともに、しだいに激しくなってゆく、
 そして最後に、ひっ、という一瞬の悲鳴ともつかぬ叫びが上がり、
 唐突に、それはやんだ。
「おい、」
「ああ…」
 扉の前に立つ見張り騎士たちが顔を見合わせる。にやにやと口元を歪める二人の騎士は、しかし、それ以上には言葉を交わそうとはしない。
 ややあって内側から扉が開かれると、かれらは、慌てて直立の姿勢をとった。
「クロスフォード副団長に敬礼」 
 部屋から出てきたのは、すらりとした若い上級騎士だった。よく鍛えられたしなやかな体つきに、短めの黒髪、年齢は二十台後半にさしかかったくらいだろうか、鼻筋の整った美青年といってよい若者である。
 胸に手を当てて礼をする部下たちに、うなずくでもなく、上級騎士はいくぶん疲れたようなどこか物憂げな目を左右に走らせると、かすれた声で言った。
「ご苦労」
 それから、乱れていた胴着の胸元のひもをぎゅっと締め直し、そのまま歩き出す。
「……」
 通路の向こうにその姿が見えなくなるまで、見張りの騎士たちは直立の姿勢をとっていたが、それからまた顔を見合わせた。
「やれやれ、副団長もお盛んですな」
「しっ、誰かに聞こえたらどうする」
「誰もいないさ」
 扉の向こうを指さすようにして、またにやにやとする。
「クロスフォード副団長に栄光あれ」
 彼らが忠誠を捧げるアナトリア騎士団……もともとは海賊退治などを請け負っていた一騎士団が、ジャリアの首都ラハインを占拠してから、すでにひと月がたとうとしていた。現在、騎士団長であるグレッグ・ダグラスと、副団長、レクソン・ライアルが大陸間会議に出席のため不在であり、その留守の間、首都ラハインのすべての指令権を握るのが、もう一人の副団長である、ヨハン・クロスフォードであった。
 剣の腕前は騎士団でも指折り、冷静沈着にして、非常な知性も備わった彼こそが、団長グレッグ・ダグラスの後を継ぐ存在であることは、いまや騎士団の誰しもが認めており、このたびの首都ラハインの制圧においても、実際にヨハンが中心となり立案、遂行した計画によるところが大きかった。一方のレクソン・ライアルの方は、剣の腕ではヨハンと並ぶものの、どちらかというと突進型の性格で、駆け引きや綿密な作戦行動にはあまり向いていない。つまり、実質的には騎士団のナンバーツーであるのは、作戦参謀としても有能なヨハンの方であったし、彼こそが、騎士団長グレッグ・ダグラスのもっとも信頼する片腕であるといってもよかっただろう。
 だが、そのヨハン・クロスフォードには、最近ひとつの噂が流れ始めていた。
「しかし、ジャリアの王女とデキちまうってのは、マズイんじゃないのかな」
「まあな。でもよ、よっぽどお気に召したんだろうぜ。ここのところ毎日のように……とくにダグラス団長が大陸会議とやらに出かけていってからはさ、ほとんど毎日だぜ」
「まあ、美人は美人だけどさ。オレはごめんだね。一度だったか、王女殿下に呼ばれて、部屋に入ったときなんかよ、ジロりと睨まれて、ワケわかんないこと言われて、すぐにまた出ていけってよ。ありゃあ、ちっとオツムがおかしいんじゃないのか?」
「ああ、気が強いというのか、ヒステリーってのか、オレも怒鳴られたことがあったぜ。よっぽど我がままに育てられたんだろうぜ」 
「まあ、城を占領されて、両親は処刑され、そのうえ自分は妾みたいにされて、可愛そうっちゃ、可愛そうだけどな」
「ダグラス団長はこのこのは知っているかね」
「さあな、どっちにしろすぐにバレるだろうぜ。そうなったら見ものだな」
「というと?」
「そりゃあさ、あの王女殿下をめぐって、クロスフォード副団長が、グレッグ団長にたてつくのか、それとも……」
 この塔の守備兵を務めるのは、主にヨハン直属の部下たちであったので、そのような由々しき噂を外部にまで広めるようなことはなかったが、その分、仲間うちではこのようにあけすけな会話がよくなされていた。
「それとも、二人して同じ穴の兄弟になるってか?」
「そこまでは言ってねえよ。へへへ」
 団長のグレッグ・ダグラスがラハインにいないのをいいことに、こっそりと王女と仲良くなってしまったヨハンの狡猾なやり手ぶりを、むしろ賞賛するような声もあったが、そこにはやはり好色な見方が付きまとっていた。
 ヨハン自身も、はじめのうちは、この塔に入る時には王女の健康状態の確認として医者をともなったり、日ごとに違う侍女を連れて行って気に入り選ばせたり、王女が入り用の品物を届けさせるなどして、体裁を整える理由をつけていたのだが、最近ではそんなこともなくなり、部下たちがすでに気づいていることにもかまわぬように、むしろ堂々と一人で来るようになっていた。
「それだけ、あの王女殿下にぞっこんなのかねえ」
「よっぽどあっちの具合がいいんだろうさ」
 若く美しい王女を塔に囲って、そこに毎日のように入り浸るアナトリア騎士団の副団長……そのような下世話な噂話は、しだいに騎士たちの間に広まりつつあった。それはまだほんの内輪の部下たちの間でだけのものであったが、やがて、王城に出入りするすべての騎士たちに広まってゆくのは止めようがない。
(ふん、くだらぬわ……)
 だが、当のヨハンの方でも、そんなことはよく分かっていた。最近はよく、王女を幽閉する部屋扉の前で、見張りの騎士たちが下品な笑いをもらしたり、回廊を歩きながら自分を噂するような声を耳にしたりもする。うやうやしく部下たちが自分に向かって敬礼しつつも、その顔にはいやらしい笑いを隠し切れない様子を横目にすることもしばしばあった。
 だが、彼自身の思惑の方は、そんな問題よりもずっと別のところにあった。
(会議は昨日で終わったはずだ)
(ということは、団長らがラハインに戻るのは明後日というところか)
 ヨハン・クロスフォードは、もはやすっかり慣れた足取りで、回廊をわたり、塔から続く南の歩廊への渡し板を軽やかに飛び越えた。戦時にはこの渡し板を引き上げてしまえば、この塔に立てこもることができる造りなのだ。激しい戦闘をすることなく、この塔に住まう王女の身柄を確保できたのも、それらを知り尽くした上で塔を内側から乗っ取る計画を立てた自分の才覚であると、ヨハンは思っていた。
 このひとつの功績だけにおいても、自分はレクソンを出し抜いたはずだ。ラハイン占拠の際にも、自分の率いる騎士隊が、先んじて王城の守備兵と戦い、それを倒し、ジャリアの王族たちを拘束し、それをもってこのフォルスカット城の占拠をなしとげたのだ。その活躍ぶりは、間違いなくレクソンの部隊の上をいった。
(自分はアナトリア騎士団のナンバーツーだ)
 部下である騎士たちも、そう思っているに違いない。そして、実際に騎士団全体においても自分の力がしだいに大きくなっているという確信めいた感触と、部下の騎士たちからの崇拝や敬意も感じ取れる。なので、ジャリア王女との噂などは、どうということもない。
(だが……)
 だが、それでも彼には他に、ひとつ気になることがあった。
 ヨハン自身は、今回自分が大陸会議への同行を許されず、いわばラハインの留守番を任された格好となったことについて、なかなかに複雑な気持ちがあった。団長のグレッグ・ダグラスが、自分ではなくレクソンの方を連れて行ったこと。その間、ラハインでの全権を任されたとはいえ、もしかして、あるいは団長はレクソンの方により片腕としての信頼を与えているのではないか、どこかにそんな気持ちがわいてきてしまう。
 自分は、レクソンより歳はひとつばかり年上で、剣の腕にしても対等かそれよりいくぶん優っていると思われる。いわんや知力においては、問題にならないくらいに。そして、多くのものたちが囁くように、自分こそが次の騎士団長となるに間違いないと思っているし、グレッグ本人からもそれを期待しているというようなことを言われたことがある。
 だが、団長のグレッグは、この頃なんとなくだが、とみにレクソン・ライアルの肩をもっているような気がしてならないのだ。自分ではなく、レクソンの方を。
 これという具体的な理由はないのだが、たとえば、団長に報告をするべく、執務室と定められた王城の広間に入ると、グレッグがレクソンとなにやら密談をしていたというような、そんなことも何度かあった。だが、あるいはただ、それはデュプロス島で行われる大陸間会議のための打ち合わせであったのかもしれない。実際に、自分が留守を守り、このラハインにとどまるということは、団長からの直接の説明で了承したのだから。
(もっとも信頼する右腕のお前に、ラハインを託す、と)
 その言葉に偽りはないはずだ。
 それでは、なぜ、こんなにも気になるのか。
 ヨハンは、歩廊の上で足を止めた。眼前に広がる黒々としたフォルスカット城、そこはいまや自分たちにとっての最大の拠点となった。そのどっしりとした威容はいかにも頼もしく、赤い夕陽を浴びて重厚なシルエットを浮かび上がらせている。
(いずれ、この城をわがものに……)
 ふと、そんな気持ちになるのも、無理からぬことであった。正確に言えば、団長がラハインを離れてから、この場所に来るたびにそう思うようになったのだが。
 シリアン王女とのことも、自分の中ではおそらく、そうした野望につながることなのだと思う。なにもはっきりとした計画をもって、王女をわがものにしたわけではなかったが。いまとなっては、最初に王女を抱いたときに感じた、ジャリアという国そのものを抱いているような、自分がジャリアを蹂躙しているのだという心地よい感覚があったことは、どうしても否定しきれない。
 自分にとっての切り札。
 いくらレクソンがこれから上手く立ち回り、さらに武勲をたてることがあったとしても、決して自分には負けぬものがある。その切り札を、自分は手にしているのだという密かな優越感が、ざわめく心を落ち着かせるのだった。
(レクソンには渡さぬ……)
(我が騎士団の栄光も、それに……王女も)
 ジャリアの首都を制圧し、支配下におき、美しい王女の身体を抱く。
 自分が考えていた、支配者の夢が、いままさに実現しようとしている。
(誰にも渡さぬ)
(誰にもな……)
 黄昏の空のもとに溶け込むようなフォルスカット城の輪郭を、ヨハン・クロスフォードは、己の夢の続きに浸るように見つめていた。

(いまは、いつなのかしら……)
 夜なのか、それともまだ昼間なのかも、もうよく分からない。
 部屋の明り取り窓には、カーテンが取り付けられているのだが、それを開けるような気力もない。いや、むしろそこからまぶしい陽光が差し込んだとたんに、自分は死んでしまうのではないか、そんな気がする。あるいは、光がいまの自分を照らし出したとたん、発狂してしまうのではないかと。
 とてもお腹が減っているような、それでいて何も食べたくはないような、自分がなにを欲しているのかすらも、いまはよく分からない。いっそ、この暗がりの部屋で、このまま朽ちてゆきたいような、倦怠と絶望が混ざり合ったどんよりとした心持が、もうずっと続いていた。あるいは、もしかして、自分は物心ついたときから、このようにして暮らしていたのかもしれない。
 少し考えるとまたけだるくなって、いったん起き上がりかけてもまた寝台に横になる。眠っているときのほかは、ときおりのどが渇いて、水桶から水を飲むくらいが、彼女の唯一の行動であった。
(なんとなく、まだ体が熱いみたい)
 火照っているというのか。体全体が酒に酔っぱらってでもいるような。酒を飲んだことはほとんどないのだが。
(なんだか……寂しくてつらい)
 一人でいることにはずいぶん慣れてきたはずなのに。
 ヨハン・クロスフォードに抱かれたのは、もう一度や二度ではない。あの日、最初にこの部屋に連れてこられた時から、ほとんど毎日のように、彼はこの部屋を訪れては、自分の身体を抱くのであった。
 初めは嫌でたまらなかったし、この身を汚されて、このまま死のうとも思った。だが舌をかむ勇気もなく、結局、次の日も、その次の日も、彼のされるままになった。
 そうして十日も過ぎると、悪夢のように思えていた信じがたい事実……自分の王国が、かれらに支配されたのだということを、もはや受け入れるしかなかった。
 もう自分を助けに来るものなどはいないのだ。そうと知ると、彼女はすっかり抵抗することををやめた。というよりも、うつろな表情のままな、ただなすがままになるその様子は、まるですべてを諦めたうぶな娼婦のようだった。
(わたしは……)
 これまでされたこともないような乱暴な扱いを受け、ときに卑猥な言葉を投げられて、なじられるたびに、自分がどうしようもなくみじめで、また死にたいような気持にもなるのだったが、一方では、自分の中にある女としての部分が目覚めだすような、奇妙な心地を覚えていた。
 ヨハンは、ときに乱暴に、ときに優しく自分の身体に触れ、自分の身体の中に入ってきて、やがて震えるようにして果ててゆく。いまでは、そんな彼を、そう嫌いではなくなっていた。いや、むしろ、ときに可愛いと思えるようにもなったことを、認めなくてはならない。そしてまた、自分が求められること、彼という男の体に支配されてゆくことの、心地よさを覚え始めていることも。
(いやよ、いやだわ……)
 そう思って身をよじっても、それがほのかな心地よさをともなって、頭の中に広がってゆくのだ。
(わたしは、どうなってしまったのかしら……)
 国を失い、慰みものにされたとはいえ、ジャリア王女としての誇りはどこかにまだあったので、決して自分からは、ヨハンに対して快楽を求めるそぶりや、甘えるような言葉などは発したことはない。だが、それでいて、いつまでたっても彼が現れない日は、なんとなく落ち着かぬ気分になったりするのであった。
 そんなときに、シリアンが思い描くのは、兄の顔だった。
(お兄様……)
(フェルスお兄様……どうして、助けてにきてくれないの)
そう思いながら何度も泣いたし、兄の名を呼んで、寝台の上で身もだえることもしばしばだった。
 それでいて、扉が開かれて、そこにヨハンが現れると、はっとなっていきなり胸が高鳴り、彼が自分の服を乱暴に脱がし、荒々しく覆いかぶさってくると、彼女は不思議な安堵のようなものを感じるのだった。
 そうして彼に抱かれ、一瞬だけ満ち足りたような気分になると、彼女はまた子供のようになにも考えず眠れるのだった。それからはまた、独りだけの暗い部屋で目を覚まし、いったいいまはいつなのか、自分に何が起こったのかを考え、思い出し、寂しさと屈辱に悶え、兄の顔を思い描き、しくしくと泣いては、次にヨハンが訪れるまでの長い時間をただ一人で過ごすのであった。
 もちろん、彼女の身の回りの世話をしたりする侍女は、毎日交代でやってくるが、それは良く知るミープでもなければ、顔見知りの侍女でもない。侍女たちは、ただ水桶の水を替えたり、燭台の灯をともしたり、着替えを持って来たり、ただ機械的に仕事をこなすだけであった。シリアンがいくら話しかけても、おそらく固く禁じられているだろう、彼女たちはただ首をふるだけで、いそいそと部屋から出ていってしまう。なので、人間的に言葉を交わせるような相手は、ヨハンしかいないのだった。
(あんな……男、)
 そう自分に言い聞かせても、それが嘘だということは自分自身ですぐに分かる。むしろ、いまでは、彼がこの部屋を訪れることだけが、彼女の唯一の慰めであるかもしれなかった。自分自身では、決してそれを認めたくはなかったにしても。
(私は、待ってなどいないのよ。あんなやつを)
 なにせ、自分の王国を無法にも侵略したものたちなのだ。決して許してはいけないはずの相手なのに。これまでも、父上はどうなったのか、母上はどうなったのか、それに妹のメリアンはどうしているのかと何度も尋ねたが、ヨハンはただ、あいまいに、どこかへ捕えてあるとか、いずれ会える日も来るかもしれぬ、とだけ言うのであった。それからいつものように、彼のたくましいものが自分の中に入ってくると、もうなにもかもどうでもよくなってしまう。自分の身体はこんなにも変えられてしまったのだと、恥ずかしさと屈辱に泣きたくもなったが、それ以上に、身体中に感じられる隠し切れない喜びが、勝手に自分に声を上げさせて、勝手に彼の体にしがみついてしまうのだ。
(私は、いったいどうしてしまったのだろう……)
 事を済ませてヨハンが部屋から出てゆくと、彼女はまた一人になる。すぐに眠れないときには、寝上でぼんやりと膝を抱え、暗がりの中でじっとしているのだ。
(お兄様……会いたい)
 うっすらと頬に涙が伝わる。
明日になれば、なにかが変わるとも思えなかったし、明日になったことに気づくとしたら、またおもむろに扉が開いて、そこから彼の姿がぬっと現れるのを待つことでしかなかった。
(お兄様……)
(私を、助けに来て)
 暗がりの時間は永遠に続くかのようだ。
 大国ジャリアの王女であった少女は、いまはただ、寝台の上に囲われたみなしごのように、こごえる身体を丸めて、なんとか今日の眠りにつくのだった。



 東の空が明るくなってきた。
「ああ、夜が明けるわ」
 これから目指す方角から、アヴァリスが昇ってくるのだと思うと、とても心強い気がした。クリミナ・マルシイは、輝ける円盤の訪れに心底ほっとしたように、手綱をとる馬上から白みがかった地平線に目を凝らした。
 思えば昨日は、セルディ伯からの使いであるという、ケイテンという騎士によって、サルマの宿にいるところを発見され、逃げるようにして飛び出してきた。すでに夕闇も迫る時間であったので、その日の夜はヨーラ湖の東側、森のとば口くらいで一夜を明かすことにした。さすがに、たったひとりで夜の草原へ飛び出すには、彼女もまだ不安であったのだ。
 そのうちにまたケイテンらが追ってきて、見つかりはすまいかという懸念もあったので、夜明け前に起きだすと、すぐに馬にまたがった。どこへゆくとも決めてはいなかったが、とりあえずいったん森を出て、草原の街道沿いに進んでゆくことにしたのである。
(でも、いま思うと)
 これまでは何度もしようとしてできなかった、トレミリアからの出国……サルマの町を出発するきっかけになったということでは、むしろあの追手らは感謝すべきなのかもしれない。そう考えると、いままでずっと旅立つことに怖気づいて、ひと月もの間うじうじとしていたことが、馬鹿らしくも思えてくるのである。
(不安はあるけれど、いったん飛び出してしまうと、なんだかせいせいするわ)
 それは、首都のフェスーンを飛び出してきたときにも感じたことであったが、トレミリア王国そのものから出奔するということへの、いくぶんの逡巡はまだ拭い去れてはいなかった。騎士としての自分、貴族としての自分、そしてトレミリア人としての自分、それらをすべてなげうって、一介の旅人になるなどということは、これまで考えもしなかったことである。それだけに、ずっと貴族として、宮廷人として育てられてきた彼女には、どうしてもうしろめたさのような気持ちが抜けきれないのである。
(まあ、でも、こうなってしまったものは仕方がないんだわ)
 かつてのレークとの旅の間に身に着いた、生きるための図太さや、無理なこと、無駄なことはきっぱりと諦めたり、捨て去って、次のことを考えるという、人としての逞しさが、いまの彼女を支えていた。
(ゆきましょう。アヴァリスの方向へ) 
 昇り始めた陽光に向かって顔を上げ、ぐっと手綱を握り締める。クリミナを乗せた馬は、ロサリート街道を東へと、進んでいった。
 いくさが始まってからは完全に封鎖されていたロサリート草原であったが、いまでは、ぽつぽつとだが旅人や商人の姿が見られるようになった。草原の戦いでトレミリアが勝利したことで、東側との交易のルートが再び回復し始めていることは、多くの商人や職人たちにとっては大変ありがたいことであった。ただ、大規模な隊商や、護衛を雇えないようなものには、この草原のルートはまだまだ危険をともなうものだったのだが。
 あの大きないくさが終わってからというもの、あちこちで戦場かせぎや盗賊たちが出没するようになり、ひと月以上たったいまでも、被害にあう商人や旅人などが後を絶たないという。クリミナがサルマで聞いた話では、護衛もなしで草原の街道を通るのはとても危険であるということであった。親切にしてくれた宿の夫婦も、クリミナが草原のことを訊くと、まさか女の一人身でロサリート街道なんぞを通ろうとは思ってないだろうが、と前置きしたうえで、もしもどうしても通らなくてはならないのなら、腕のよい剣士でも雇って、それでもなるべくは夜になる前には戦場跡から離れていることだね、と念を押すように言っていた。
 腕のいい剣士の護衛については自分に限っては無用であるし、おそらくはたいていの剣士よりは自分の方が使えると思っているので、とくに心配はしていなかったが、だからといって夜の草原で盗賊と遭遇したいとも思わなかった。
(でも、やっぱりどうしても、いくさのあった場所には行かないと)
 ともかく、レークが戦った場所に行けば、なにかの手がかりがきっとあるのではないか。あるに違いないという気がしたし、サルマにいる間、何人かの騎士から草原での話を聞いていて、だいたいの場所はすでに頭には入れていた。
(夕暮れ前には、戦場のあたりにまで、たどり着けるんじゃないかしら)
 昇りゆくアヴァリスが大地を照らしてゆくと、彼女の前には、どこまでも続く草原が広がっていた。
(ああ……)
 この街道を通ったことは二度ほどあったが、そのときは大勢の騎士たちと一緒であったし、それもずいぶん昔のことだった。あのときは宮廷騎士長になっての、おひろめもかねてのウェルドスラーブへの旅だった。
(あのときは、父上もいて、セルディ伯に、それにそうだわ、たしかナルニアも一緒に馬車に乗っていて……)
 思い出すとなつかしさがこみあげてくる。いまは、馬に乗り、たった一人、この草原の街道をゆこうとしているのだから、ずいぶんとときが流れた気がする。
(一人だと、草原はとても広く感じるわ。当たり前だけど……)
 右手には茶色味を帯びたアラムラの森が見え、左手には冬枯れの色合いの草原が遥か彼方まで続いている。もうひと月、ふた月すれば、また美しい緑に包まれるロサリート草原だが、いまは荒涼とした冬の大地が眼前に広がっていた。
(寒いな……夜になったら火をたかないとダメかも)
 吹き付ける風の冷たさに、やはり春まで待った方がよかったのだろうかと、一瞬だけ思いながら、彼女はひるむ気持ちを追いやって、また馬を歩ませた。
 何度か休憩をとり、馬を下りて水を口に含み、小川を見つけると馬に水を飲ませた。しばらくしてから振り返ると、出発してきたサルマの城門はとっくに見えなくなっていた。街道には前にも後ろにも、他に人影はなかった。いよいよ孤独な気持になってくる。
 このあたりに来ると、地面にはよく見ると、ところどころに、土が掘り返されたような場所や、草木が倒されている場所があった。きっといくさの跡だろう。兵士の死体などは見えなかったが、クリミナがはっとしたのは、少し離れた場所にトレミリア兵のものらしき兜が見えたことだった。
 そちらに近寄ると、激しい戦いが行われた場所であることを物語るように、あたりには草木が倒れ、馬の蹄が土を掘り返した跡が無数に残されていた。クリミナは馬を下りて、そこに転がる兜を手に取った。黒い土がこびりつき、さびたような匂いがしたが、それはまぎれもなくトレミリア騎士の兜であった。
「……」 
 ずっしりとした兜の重みを腕に感じながら、クリミナはしばし、呆然と立ち尽くしていた。
(この兜も、きっと……誰か騎士がかぶって、ここで戦っていたのだわ)
 ここで命を落としたのか、あるいは無事に逃げられたのか。当たり前であったが、実際にこの場所で、生きるか死ぬかの戦いが行われ、多くの人間が死んでいったのだと思うと、これまで想像でしか知らなかったいくさというものが、現実的な痛みや苦しみをともなって感じられる気がした。
 誰のものともしれぬその兜をそっと地面に置くと、彼女は手を合わせ祈りを捧げた。
「……」
 もしかしたら、この騎士にも、誰か愛するものがいて、その帰りを待っていたかもしれない、親や兄弟や、妻や、あるいは子供がいたのかもしれない。死という一瞬が、それをすべて奪い、彼をこの世から消したのだ。
(それが当たり前のように行われる場所……それがいくさなのだわ)
 いまさらながら、いくさの爪痕にショックを受け、クリミナはふらりと歩き出した。心配そうに愛馬が寄り添うようにして付いてくる。
「ああ……」
 しばらく歩いてゆくと、風の匂いが変わってきたように感じた。なにかの空気を感じて、彼女は思わず息をついた。
 前方には、いくぶん小高い斜面があった。
 あたりには馬蹄の跡が増え、明らかに戦いの跡とおぼしき、土のくぼみがあちらこちらに見えた。錆びた鎧の残骸や、折れ曲がった剣などが、土をかぶってそこかしこに転がっている。
 斜面に近づくと、クリミナは、なんとなく気配に引かれるように歩いていった。広大なロサリート草原には、このようにちょっとした丘や、窪地になっているようなところがときどきあるのだが、ここは特に大きな窪地を囲むように斜面が広がる地形になっている。
 すでに中天に差し掛かろうとしているアヴァリスの陽光が、まぶしく降り注ぐ。もうそんなに時間がたっていたのかと、斜面を登りながら、クリミナはいくぶんぼんやりと考えた。
 ずいぶん歩き続けて足が疲れていたが、彼女は馬に乗らなかった。何故か、どうしてもこの先にゆかなくてはならない。そんな気が強くするのだ。律儀な愛馬は、手綱を引かれるまま斜面をついてくる。
 いくぶん息を荒くしながら、辺りが見渡せる丘の上まで来た。
「……ああ」
 そこには、想像していたものより、はるかに強烈な光景が広がっていた。なんとなく、このような想像はしていたのだが、現実にそれを目の当たりにすると、人はただ言葉を失い立ち尽くしてしまう。
「ああ、あ……あ」
 声にならぬ声とともに、クリミナはがくりと膝をついた。


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