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水晶剣伝説 XI デュプロス島会議


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 歴史的な会議が行われていたデュプロス島での出来事を、各国の人々が知るようになるのはずっと後のことになる。
 国を動かすような立場とは無縁の、市井に生きる人々にとっては、それよりも日々の営み……この冬を乗り切ることの方が、はるかに現実的で大事な問題だった。
 大陸の西部にある、トレミリアの冬というのは、基本的にはさほど厳しくはない。
 雪の降り積もるジャリアの北部や山岳地帯などに住む人々は、冬の間はただ家に籠もり、秋までに収穫を終えた食物を頼りにて、じっと冬をやりすごすしかないが、基本的に温暖なこのトレミリアにおいては、北部の一部を除けば雪の降ることはまれで、たとえ冬であっても凍えるほどの寒さというのは珍しいくらいであった。
 いくぶん厚着をしながらも、人々は変わらず町に出てゆき、さすがに畑仕事はすることはなくとも、物を売ったり、買ったり、通りを行き交いながら、都市はそれなりに活気に満ちている。焼きたてのパンや、暖かなスープなどを売る店は、相変わらず繁盛し、この時期に多くなる冬鹿の肉を買いにきたり、当然ながら、毛皮や、冬ものの衣服を売る店などもにぎわった。
 首都であるフェスーンは当然であったが、湖畔の町、サルマでもそれは同じであった。むしろ、冬の間は、ずっと南方にあるサルマの方が、フェスーン以上ににぎわいがあったかもしれない。
 フェスーンに住まう貴族たちの中には、冬になると南部の都市へと移動して、別邸で過ごすというものも少なからずいたし、さらに南方のミレイやコス島などからの物資がいち早く届くという点においても便利であったので、冬に限ってはサルマの方がずっと豊かであったと言えたろう。
「だって、とても春までは待てないわ」
 そろそろ寒さもやわらぎはじめた、そんなサルマの町外れの宿の食堂で、うんざりとしたように匙を放り出したのは、クリミナ・マルシィだった。
 もうあの戦いからひと月もたっているというのに、いっこうに国を旅立つ決心のつかない、そんな自分にもうんざりとしていた。
 だが、そうではないということを、一方では分かってもいた。
 むろん、国を捨てて、いずことへも分からず飛び出してゆくことへの不安……何度も、そうしようとしたが、そのたびに立ち止まり、結局はもといた宿へと戻ってきてしまう。それは単に、不安というだけではない。自分がただ臆病なだけではないと思いたかったし、また実際にそうなのだった。
(私はたぶん……) 
 質素な豆のスープ……フェスーンの宮廷にいたころには、食べたこともなかったような、塩の味しかしない貧しいスープの入った皿を見つめ、彼女は物思いに沈んだ。
 最近はいつもこうだ。
 食事の時間にじっと、テーブルについている間、数少ない他の客たちは、フードをかぶって決して顔を見せようとしない彼女をちらちらと見ながら、彼女が考えに浸る間に食事を終えて部屋へと戻ってゆく。
 サルマの外れにあるこんな安宿に泊まるのは、よほど貧しい観光客か、首都のフェスーンへ向かう途中の職人見習いか、ケチな商人くらいのもので、長くても数日すればいなくなっている。彼女のように、ひと月もの間滞在するには、この宿の料理は質素すぎたし、ひと月も宿代を払えるような旅人であれば、もっと立派な宿でサルマの名物でも毎日たらふく食べていただろう。なにしろ、ヨーラ湖に毎日到着する船からは、新鮮な魚や肉、南方からの香辛料、果物などが、次々に運ばれてくるのだ。物価的にも、首都のフェスーンよりもずいぶん安いから、金持ちが豪遊するには、このサルマほどうってつけな都市はないのである。
 だが、クリミナは、この宿を選んで、もうひと月も粗末な食事に我慢しながら、いまもってここに滞在していた。
 当然ながら金にはまったく不自由していないが、なるたけ人目を避けねばならなかったし、それでいてヨーラ湖からあまり離れた所もイヤだったので、町の外れにあって、なおかつひっそりとした目立たないこの宿をすぐに気に入ったのであった。
 宿に入ったときに、すでに主人には多めに金を渡して、しばらく滞在するかもしれないが、決して訳は聞かないで欲しいこと、自分のような人間がここにいることを誰にも言わないで欲しいことを告げていた。
 幸いにして、宿を営む老夫婦は、自分の顔を知らないようであった。
 もちろん、クリミナ・マルシィという名前を聞けば、知らぬはずはないだろうが、おそらくは肖像画程度でしか、トレミリアの女騎士のことは見たことはないようで、彼女は安心して、自分は人を探している旅人であることだけを教えたのだった。
 この時代、女の一人旅などどいうのは、たいそう珍しかったので、とくに老婦の方は心配そうに、なにかできることはないかと尋ねてきたが、クリミナはそれを丁重に断ると、こっそりとまた金を握らせて、なにも聞かないで欲しいと頼んだ。訳ありの客ということで、いつ出て行ってもかまわないという約束をしてもらい、それ以来、彼女はここを拠点に、ときどきサルマの町を歩き回ったりしながら、彼のことを探していたのだった。
(たぶん、私は……)
 ここにいれば、いつか彼が、ふと戻ってくるのではないかという、そんな淡い期待を捨てきれずにいるのだ。
 ここにきた当初は、毎日そんなことを考え、明日こそはきっと、戸口の外に彼が立っているという期待をし、何度も夢にも見た。それでいて、彼はもうこの国にはいないのだという気持ちにかられて、町を出ようとも考えた。実際に、荷物をまとめ……といっても、多少の着替えと食料、それに短剣くらいの荷物であったが、それを革袋に背負って国境まで馬で出掛けたことも何度もあった。
 だが、いざ旅に出ようとしても、それ以上の勇気が出ないのだ。
 もちろん、これまで一人で旅をしたことなどはない、その不安もあった。自分がいかにぬくぬくと、宮廷でなに不自由なく暮らしてきた人間であるかと、思い知るような気がした。あの、ウェルドスラーブから、トロス、そしてセルムラードへの旅……あのときには、かたわらには常に彼がいてくれた。彼が、何度も自分を助けてくれ、陽気な言葉で不安を吹き飛ばしてくれた。
(私は、一人では、彼を探すことすらできないのだわ……)
 そう思って、自分の無力感に涙を流し、その度に、彼に会いたくて身悶えるような気持ちで夜を明かすこともあった。  
(それに、私はまだ、どこかで信じているのかもしれない)
 彼が、レーク・ドップが、この町に戻ってくることを。
 しかし、結局、今日もとくに変わったことはなかった。スープとパンを少し残して部屋に戻ると、彼女は気をまぎらわすために、いつものように剣の手入れと、いつでも飛び出せるように、必要な荷物をまとめながら時間を過ごすことにした。
 旅立つのは春になってからの方がよいと、宿の主人は気づかうように言ってくれるのだが、あとひと月もふた月も待ってなどいられなかった。こうしているうちに、いつのまにか、あの草原のいくさからはもう、ひと月がたってしまっていた。
 ただ、クリミナにとっては、あの日からときは止まったままのような気がしていた。
 あの日……
 トレミリアのフェスーンを単身抜け出し、ただひたすら馬を走らせた。
 深夜になってサルマに到着した彼女は、翌朝になってから、草原でのトレミリア軍勝利の報を知ったのだった。城門へと続く通りは人々で埋めつくされ、草原から続々と帰還してくるトレミリア軍を、都市民たちが歓呼で出迎えた。
 「トレミリア万歳!」の声があちこちから上がり続け、レード公を筆頭にした軍勢が町に凱旋する。群衆の中にまじって目を凝らすと、そこにブロテや、ヒルギスといった騎士たちの姿は確認できたが、どこにもレークらしき姿は見当たらない。彼女は思い切って、フードを深くかぶると、人々をかき分けるようにして、通りの近くまで出て行った。
 目の前を、いくさで傷を追って足を引きずる兵や、痛々しい包帯を巻いた兵などが通りすぎてゆく。やがて、騎士たちにかつがれたひとつの柩が運ばれてくると、人々はどよめいた。それを見てクリミナは思わずはっとした。
「ローリング騎士伯だそうだ」
 人々の話が耳に入ると、それがレークのものではないことにほっとしながらも、あのローリングが戦死したという事実に衝撃を受けた。
(まさか、あの人も……)
 そんなことは信じられなかった。そんなはずはないと彼女は思った。
 だが、目の前を通りゆく騎士たちの列を必死に目で追い続けても、そのあとに続く兵や、負傷者たちの中にもレークらしき姿はどこにもいない。
(レーク、レークはどこなの?)
 クリミナは思い切って、すぐ目の前を歩いてきた兵士に近づいた。ある程度の身分がある騎士だと、自分の正体がばれてしまうだろうから、やや下級の兵のなかで、少し立派な鎧をつけているものに声をかけた。
「もし、すみません」
 立ち止まった兵士がクリミナの顔をじろりと見た。
「レーク……レーク・ドップという騎士は、ご存じでしょうか?」
「レーク、ああ……あの決死隊を率いた隊長か」
「決死隊……」
「ああ、森の中で少数の騎士を率いて、敵軍の只中へ突入した」
 歳はレークよりもひとつふたつ上くらいだろうか。少しきつい顔の若者だが、案外親切に答えてくれた。
「その隊には、たしかアルトリウスさまや、ガウリンさまもいたがな、生き残って帰ってきたものは一人もいないそうだ」
「一人も……」
 クリミナは口元に手をやった。
「もしかして、あんたの知り合いの騎士が、レークどのの部下かなんかだったのかい?」
 こちらが宰相オライア公の娘、クリミナ・マルシィであるとは気付かぬようで、その兵は気の毒そうに首を振った。
「気の毒なこったな。だが、その決死隊のおかげもあって、敵陣は崩れて、我々の勝利となったんだ。もっとも、全軍の三分の二は犠牲になったみたいだが。こうしてなんとか生き延びられただけでも、俺は運がよかったわけだ」
「……」
 クリミナはもう、相手の話など聞いてはいなかった。反応のない彼女に首をかしげると、その兵はそのまま歩き去った。
(レークが、レークが、まさか……)
 死んだなどということは、考えられもしなかったし、信じられもしなかった。
(そんなはずはないわ。そんなはずは……)
 どんな危機にあっても、飄々として乗り越えてきたあの浪剣士が……レーク・ドップが、いくさで死ぬなど。彼女にとってはありえないことだった。
 それに、まだ彼の死体を見たものもいないのだ。
(そうだわ……)
 きっと、あとからレークは帰ってくる。ひょっこりと、なにごともなかったように、陽気な笑顔を浮かべて。クリミナはそう思った。
 それから彼女は、サルマの町で適当な宿を探すと、翌日も、翌々日も待ちつづけた。
 だが、三日がたっても、五日がたっても、彼はいっこうに戻って来なかった。
 ときおり、小隊の兵たちが草原の方から戻ってきたと聞くと、クリミナは狂喜したように飛び出して行って彼らを出迎えたが、それは単に斥候をかねた小部隊であったり、戦場の後始末や遺体の確認などの仕事を命じられた兵士や従者であったりした。
 ひどくガッカリしながらも、彼女はそれらの人々にレークのことを聞いて回ったが、やはり手がかりといえるものはひとつも得られなかった。
 そうしてひと月が過ぎた。
(わたしはまだ、ここにいる……)
 そして、レークは帰って来ない。そろそろその事実を、ずいぶんと冷静に考えられるようになってきていた。だがむろん、まだレークが死んだと思っているわけではなかった。
 彼は生きている。どこかで、きっと。そう思うこと、それだけが彼女の支えであった。
(きっと、生きているはずよ。きっと……)
 唯一の武器である短剣を磨いて鞘にしまうと、クリミナは粗末な寝台に横になった。夜は冷えるが、日が沈む前のこの時間なら毛布をかぶるほどでもない。
(でも、なんだか、)
(こうして一人で過ごすことにも、ずいぶんなれてきた気がするわ)
 フェスーンの宮廷にいるときは、周りには常に侍女がいて、身の回りの世話をしてくれ、出来立ての食事を運んでくれ、着替えまで手伝ってくれた。それが当たり前だと思っていた。
 かつては、レークのことを野蛮な浪剣士と蔑んでいたこともあったが、きっと彼からすれば、こちらの方こそ、女騎士といばっているくせに、実際にはなにもできぬ、お高いだけの宮廷人だと思っていたに違いない。
(ほんと、そうね……)
 こうして、ろくに洗わぬままの汚れた服を着て、体も洗わず髪もくしけずらない、まるで浮浪人のような状態で、よくもいられるものだと、少し前の自分であったら思ったことだろう。
(人は、変われば変われるものね)
 もう少し髪が伸びてきたら、思い切ってばっさりと切ってしまおうかとも思っている。
 もともと、女らしくありたいとか、姫君のようでいたいと思ったことはあまりない。馬に乗り、剣を振るう方が、よほど自分の性に合っている。そうだからこそ、女の身でありながら男に混じり騎士にもなったのだ。
(それに……)
 フェスーンにいたときも、いつかすべてを捨てて旅に出てしまいたいと、なんとなく思っていた。だが、宮廷騎士長である自分の立場、宰相オライア公の娘としての立場、そしてもちろん、愛する王国……トレミリアへの思いが、それを押しとどめてきた。
 だが、はからずも、彼女の心を揺るがすさまざまなことが起きて、ついに耐えきれずフェスーンを飛び出すことになったのだが、実際にこうなってみたとき、思っていた以上にすっきりとした気分、解放感のようなものが、心地よく自分を包んでいることを知って、我ながら驚いたのであった。
(私も、案外、けっこういい加減な奴なのかもね)
 思わず、くすりと笑いたくなる思いがこみ上げる。
 宮廷騎士団をほうり出し、すべての重責をほうり出し、勝手に飛び出してきた。それに対しての後ろめたさはなくもなかったが、こうして日々を一人で過ごし、明日をどうやって過ごすか、いまをどうやって過ごすかを、ただ一人で考えているうちに、結局のところ大切なのは今なのであり、過ぎたことはもう仕方がないのだという、単純だが真理というべき境地に達したのであった。仕方がないことはもう考えるのをやめようと、彼女はそう思うことにした。
 その一方で、彼女は、自分が本当にトレミリアを捨てられるのかという疑問も抱いていた。レークを探しに草原へゆこうと何度も思いながら、結局はまだ自分はこのサルマにとどまっている。いつかレークがここに戻るのではないかと信じているから、だからかもしれなかったが、むしろ、それを口実にして自分はここを動かないのではないか、自分はもしかして、トレミリアから出てゆくことをとてもためらっているのではないか、という。
(そう、かもしれない……)
 これまでも、遠征や公務などで、ときおりトレミリアを離れることはあった。しかし、それはあくまでトレミリアの騎士としての立場であり、王国のための任務としてであった。すべてを投げうって、ただレークを探すという個人的なことのために、自分は本当に国を捨て去ることができるのだろうか。
(分からない……)
 分からないが、ただ、なんとなく怖いのだ。
 それは、たった一人でこの国を離れて、どうやって生活してゆけるのだろうという不安であったし、国を出てみて本当にレークが見つかるのかどうかという不安でもあったろう。
 レークが死んだなどということは、とても考えられないし、きっといまもどこかで生きていると信じている。ただ、はたして、なんの手がかりもなく、自分一人の力で彼を探せるのか。むしろ、ここサルマにとどまって、彼が戻るのを待つ方がはるかに可能性が高いのではないか。そう思うからこそ、ひと月以上も、自分はこの町で過ごしているのではないのか。
 寝台にねそべりながら、クリミナはため息をついた。
(やっぱり、私は勇気がないのだわ……)
 いまさらフェスーンに戻る気はなかったが、もうしばらくこのサルマにとどまるか、いっそのこと草原へ向かうべきか、自分まだ決めかねている。
 ふと思ったのは、
(そうか、コス島……)
 女職人の島……
 あの島へ行ってみるのもいいかもしれない。
 思えば、あそこでレークは気に入りの剣を手に入れたのだし、あるいは、剣の手入れかなにかで、そこへ戻ってくることもあるかもしれない。
 それに、あの島はレークと最後に別れた場所だった。短いが楽しい、二人の最後の時間を過ごした思い出の場所である。
(レークの方もそう思っていてくれたら……)
(そうね。行ってみようかな……)
 思い出されるのは、あのときの光景、
 そして、あのときの言葉……
(ここで、お別れだ)
(それは……どういうこと?)
(どうもこうもねえ。つまり……トレミリアには行かねえってこった)
(行かないでレーク)
 あの別れ際の自分の気持ち……もどかしさ、高まる胸の鼓動、それがいまも甦るようだ。
(行かないで)
(私も……私も連れて行って)
(私も……一緒に)
 あのとき、自分ははじめて、彼を愛していることを知ったのだった。
(レーク……どこ)
「どこにいるの?」
 つぶやくと、うっすらと涙が浮かんでくる。
 いつかまた会えると信じていても、ときおり、もうこれきり会えないのではないかと、そんな思いがよぎり不安になる。
(私は、ずいぶん弱くなってしまった気がするわ)
(まさか、こんなふうになるなんて)
 男勝りの騎士として、強がって、つっぱっていた自分が。
 だが、もう昔には戻れない。こんな気持ちを知ってしまっては。
(女か……面倒だけど、私はやはり女ね)
 それを認めた上で、素直に生きようと、彼女は思った。
 明日になったら、
(明日になったら、ちゃんと決めよう)
 これからのことを。
(これからの……)  
 寝台の上でうとうととなり、彼女はいつしか眠っていた。

 どれくらい時間がたった頃だろう。おそらく、さほどはたっていないはずだ。
(なにかしら……)
 いくつもの馬蹄の音が聞こえてきた。はじめは夢の中かと思ったが、どうもそうではないようだ。
 クリミナは寝台から飛び起きた。
 馬蹄の音は徐々に大きくなり、やがて、この宿のすぐ近くで止まった。
「……」
 さすがに、騎士としての訓練を受けた身である。すかさず短剣を握りしめて、じっと外の気配をうかがう。
 宿の扉が激しく叩かれた。すかさず床に耳を当てると、問いただすような声が聞こえた。宿の主人が応対する声も。
 どうやら押し込み強盗のたぐいではないようだが、ただ事でもないようだ。
 短剣を懐にしまうと、クリミナは部屋の外へ出た。宿の他の客たちが、なにごとかというように扉から顔を覗かせている。
 そろそろと廊下を渡り、階段を降りながら、様子をうかがうと、
「ですから、存じませぬと、」
「ともかく、部屋を見せてもらうぞ」
 主の声と、もう一人の話す声とが聞こえてきた。
 その時点で気付くべきだった。寝起きの頭が、冷静な思考を鈍らせたのかもしれない。
「……」
 何事なのかという好奇心もあって、クリミナはさらに階段を下りていった。
 夜は酒場にもなる一階の食堂には、宿の主人のほかに二人の男が立っていた。かれらがただの客ではないことは、クリミナにはすぐに分かった。
(あれは、騎士かしら……)
 かしこまった宿の主人に対して、いかにも威圧的な様子で話をしている男と、もう一人は入口近くに立って宿内を見回している。どちらも長い外套の下に剣を隠していることが見て取れた。
 クリミナはようやく思い当った。かれらの目的が自分かもしれぬことに。
 だが、急いで階段を上がろうとしたとき、
「そこの、お待ちを!」
 鋭く男の声が上がった。
 そのまま無視して逃げてもよかったが、剣を手にした相手が追ってくることを考えると、それも得策ではないだろう。
「失礼ですが、そちらはクリミナ・マルシィさまでございませんかな」
「……」
「クリミナ。マルシィさまですね」
 内心で舌打ちしながら、クリミナは心を決めた。
「よろしければ、こちらにお越しください」
「……」
 クリミナは仕方なく階段を降りた。
「おお、やはりそうですな」
 その男はこちらにじっと視線を注いでいる。後ろに立つもう一人が動こうとするのを、男が軽く手で止めた。
「誰なの?」
「私は、セルディ伯騎士団の隊長、ケイテンでございます」
 そう言って、男はクリミナの前に膝をつくと、いたってうやうやうしく貴婦人への礼をした。
(やはりフェスーンの騎士か)
(しくじったわ。まさか、ここが見つかるなんて)
 自分が逃げたことを誰かが密告したのか、それとも……
 ぐるぐると思考をめぐらすが、いずれにせよもう遅い。
「ずいぶんとお探ししましたぞ。サルマの町中の宿という宿を」
「……」
 もはや言い逃れはできまい。セルディ伯騎士団の隊長であれば、自分の顔を知らぬはずもないし、直接この男と言葉を交わしたことはないが、そういえば以前に何度か近くで見たことがあった。
「私を、どうする気ですか?」
「それはもちろん、フェスーンへお戻りになられるよう、お願いにまいりました」
 しごく丁寧な口調であったが、男の顔つきには、ついに捜し物を見つけたというような嬉々とした色が見えた。こちらが拒んだら、力付くでも連れ戻す気なのだろう。
「イヤですといったら?」
「それは困りますな。私がきつく叱られてしまう。セルディさまに」
「セルディ伯に?どうして」
「それは、あなたさまが、わが主、セルディ伯爵閣下の婚約者であられるからですよ」
「な……」
 それにはクリミナはたいそう仰天した。
「こ、婚約……ですって?」
「さようです」
「誰と、誰が……婚約を?」
 思わず聞き返した。
「ですから、いま申しましたように、あなたさま、クリミナ姫と、セルディ伯爵閣下がです」
「わ、私が、セルディ伯と婚約……」
 まったく、考えもしなかったことを言われたので、クリミナは怒ることも忘れ、ただただ驚くしかなかった。
「そ、それはまさか……父上、いえ、オライア公が決めたことなの?」
「はい、もちろん。父君であらせられる公爵閣下たってのご希望であられます」
「ご、ご希望ですって?」
 極力冷静をとりつくろうが、どうしても握りしめた手がぶるぶると震えてくる。腹の底からふつふつと、言い知れぬ怒りが込み上げてくる。
 宿の主人は呆気にとられたように、クリミナの顔を見つめている。まさか、彼女がトレミリアが誇る女騎士、宮廷騎士長クリミナ・マルシィであったなどとは、夢にも思わなかったのだろう。
「オライア公は、あなた様が出奔したことについては不問に伏すそうです。そればかりか、セルディ伯爵家はあなたを暖かく迎え入れ、こののちも後ろ楯として宮廷におけるあなたの正当な権利と立場をお約束すると」
 誇らしげに告げたケイテンの言葉に、クリミナはさして心を動かされたようでもなかった。
「そう……権利と、立場をね」
「なんともご寛容な申し出ではありませんか。まったくもって素晴らしい。セルディ伯さまのお心は、グレーテのようにお広く、お優しい」
(まったくもって、バカげているわ)
 だが、これはどうあっても、自分を連れ戻すつもりに違いないと、クリミナは思った。
「ようするに、あなたは私を連れ戻すように命じられたのですね」
「まあ、そういうことです。が、私とてトレミリアの騎士です。宮廷騎士長であり、宰相オライア公爵閣下の姫君である、あなたを敬愛しておりますれば、なるたけ強引なやり方は慎みたく思います。ですから、こうしてお願いをしている次第」
 男のつり上がった眉と、口元の笑みには、手荒なまねはせずとも、縄をかけてでも引っ張っていってやるぞという意志が感じられた。
「……」
 いま彼女の懐には短剣があったが、ここで二人の騎士を叩きのめして逃げるのは、やめておいた方がよいだろう。ともかく、同じトレミリアの騎士なのだから。
「分かりました」
 クリミナは観念したようにうなずいた。
「これから荷造りをいたしますので、しばらくお待ちくださいますか」
「その必要はありません。ご入り用のものは、なんなりとこちらで用意いたしますので、どうぞそのまま、馬車にお乗りください」
 周到にも宿の入り口の前に馬車を止めてあるようだった。そこには、別に数人の見張りの騎士が立っている。戸口から逃げるのは不可能だった。
 クリミナは考えながら、適当な言い訳を口にした。
「部屋には大切な……そう、大切な形見などがありますので、取りにまいりませんと」
「では部下をやらせましょう」
「いえ、私の……」
 この際だと、クリミナはいくぶん恥じらいながら言った。
「私の汚れた服や、つまり下着や……いろいろなものを見られたくありません。トレミリアの騎士たるあなたが、私に恥ずかしい思いをさせたいのか」
 その命令口調が効いたのか、ケイテンは仕方なさそうに口元をゆがめた。
「……分かりました。では、部屋までご一緒にゆきましょう」
 そう言って後ろにいる騎士にうなずきかけると、ケイテンは宿の主人に金をにぎらせた。
「この騒ぎのことは、誰にも言わないようにお願いする」
「も、もちろんでございます」
 宿の主人は、かしこまったように何度もうなずいた。
 ケイテンと部下の騎士をともなって階段を上り、二階の部屋の扉の前まで来ると、クリミナは振り向いた。
「では、外でお待ちください」
「しかし、」
「高貴なる女人の部屋に……足を踏み入れることは、騎士としてあるまじきこと。セルディ伯さまもきっとそうおっしゃるのでは?」
「わかりました」
 ケイテンはいくぶん表情を険しくした。逃がしはせぬと、その顔が言っていた。
「さてと……」
 部屋に入ると、クリミナはふっと息をついた。
 それから急いで扉の前に椅子とテーブルを立て掛ける。こんなものは体当たりでもすれば、すぐ動いてしまうだろうが、時間稼ぎにはなるだろう。
(落ち着くのよ……)
 こんなときこそ、冷静に頭を働かせるという訓練は、騎士としてずっと積んでいた。急いでフードつきのマントをはおると、日頃からまとめてあった荷物の入った革袋を背負う。
(やはり、ここを使うしかないようね)
 クリミナは天井を見上げると、ひらりと壁を蹴って、身軽に明かり取り窓に足をかけた。
「よっ……と」
 天井に手が届いた。もともと天板の一部がゆるんでいるのを見つけ、こういうときのために、簡単に外せるように細工をしておいたのだった。
(ひと月の間、毎日少しずつ細工しておいてよかったわ)
 クリミナは天井板をずらすと、子供か痩せた女性の胴体がかろうじて通るくらいの隙間に、するりと身体を通した。
 天井裏へ上がると、そのとき、部屋の扉がドンドンとノックされるのが聞こえた。急がなくてはならない。
(あの子がまだ見つかっていないといいけど)
 馬は宿の裏手の納屋につないであった。その方向へ、天井裏の暗がりを歩いてゆく。
 手探りで木窓を見つけてそれを開けた。とたんに冷たい風が吹き込んできた。
 窓の外には、夕闇に包まれはじめたサルマの町はずれの景色が広がっている。このあたりは、人の住む家は点在するくらいで、すぐ近くにはヨーラ湖畔の森が見えている。
「……」
 窓から地面を見下ろすと、さすがに三階ぶんの高さであるから恐ろしさはあった。納屋の近くにはひと気はないようだ。
 階下でガンガンと強い音が上がった。続いてバキバキと木が折れる音が。彼らが扉を突き破ったに違いない。
「いないぞ!どこだ」
 さっきのケイテンという騎士の声が聞こえてくる。
(なんだか、あの騎士は好きになれないわ)
 クリミナはひそかに思った。あの男に比べれば、セルディ伯の方がいくぶんマシにも思えたが。
(だからといって、)
 伯と結婚するなど、とても考えられないことだった。
 クリミナはくすりと笑った。こんな際であったが、自分がとても落ち着いていることが、なにやら誇らしいような気がした。
(いろいろな、冒険をしてきたものね)
(あの人と一緒に……)
 大きく息を吸い込むと、
 クリミナは、納屋の屋根をめがけて思い切り飛んだ。
 藁葺き屋根を上手くクッションにして、ひらりと地面に降り立つ。
「ステキ!」
 我ながら見事な着地であった。
 すかさず納屋に飛び込むと、彼女を待っていたように、勢いよく愛馬がいなないた。
 クリミナが近づくと、ブルルと鼻を鳴らし嬉しそうに首を振る。すでに長年の相棒であるかのように。
「お願いね。また一緒の旅の始まりよ」
 自分と同じ栗色の髪をした牝馬にまたがると、もう怖いものはなかった。
「トレミリアを出るわ」
(たとえ、レークがどこにいるか分からなくても)
 どこかにいる彼を、自分が探すことに意味があるのだと、クリミナは思った。
迷いは消えていた。
「行こう!」
 馬腹を蹴るまでもない。まるで、クリミナの意志と言葉とを理解するように、かしこい相棒は風をきって走り出した。
 夕闇に染まり始めた、サルマの森へ向かって。
 彼女の人生にとって大きな意味を持つだろう、
 その長い長い旅が始まった。


                     水晶剣伝説 XI デュプロス島会議 






あとがき

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