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  水晶剣伝説 XI デュプロス島会議


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 人々がはっとしたように息をのんだ。
 そこに現れた人物を見て大きく目を見開いたのは、壁際に立っていたアドだった。いつもは冷静そのもので、まったく感情をあらわにしないその顔に、かすかに驚きの表情が浮かんだ。
「エルセイナ、さま……」
 そのつぶやきをそばで聞いたものがいたなら、そこに閉じ込められた、彼女の震えるような感情に気付いたかもしれない。
「セルムラード宰相、エルセイナ・クリスティン閣下!」
 触れ係の従者が、いくぶん緊張ぎみに声をうわずらせた。 
 ふわりと、薄紫色の長ローブがゆらめき、その人物が入ってきた。
 ちょうど扉の方に向いた席にいたウィルラースは、腰を浮かせかけたが、自らを落ち着かせるかのように座り直すと、テーブルの上で両手を組み合わせた。あるいは、そこに麗しき女王の姿でも、彼は想像したのかもしれなかった。
 セルムラードの謎めいた宰相、エルセイナ・クリスティン……じかに会ったことのないものにとっては、その存在というのは大変な興味の対象だったろう。レード公やトレヴィザン提督ですらも、直接に顔を合わせるのはこれが初めてであったし、ミレイやアナトリア騎士団などの人間にとっては、なおさらであった。
 まったく足音を立てぬ優雅な動きで、滑るようにこちらに歩いてくる。足首よりも長いローブの裾から、かすかに白い足が覗くのが、どうにも艶っぽかった。エルセイナがテーブルに近づくと、人々はかすかなため息をついた。まるで姫君の優美といってもよいその姿……漆黒の色の髪に、ほっそりとした鼻筋、男性にしては細すぎるあごのライン、それはまさに、ソキアのように冷然とした美しさをもった稀有な人物であった。
「お初に、お目にかかる方もおられることでしょう」
 静かな、だが十分に通りのよい、絹のようななめらかな声だった。
「私はセルムラードの宰相を務めるものです。どうぞよしなに」
 そう言うと、エルセイナは薄紅色の唇にかすかな微笑みを浮かべた。人々は、その声を聞いても、近くでその顔を見ても、それが男性なのか、女性なのか、まだ判断がつかなかった。
「宰相閣下は、我がセルムラードの女王、フィリアン陛下の代理というお立場。つまり閣下の言動は、すべてフィリアン陛下のご意志と同じと思っていただいてけっこうです」
 バルカス伯がそう言うと、漆黒の髪の宰相は、軽くうなずきかけ、さも当たり前のように、空いていた席……ウィルラースの隣に座った。
「そ、それでは、さきほどの続きです」
 セイトゥは、自分の正面の席に座ったエルセイナを見て、いくぶん緊張気味に続けた。
「ジャリア南部の共同統治に関する決定ですが、その前に……いまいちど、セルムラードの宰相閣下に、さきほど取り決めた事柄について、説明申し上げます」
「はい」
 うっすらと微笑んだエルセイナに、セイトゥは顔を赤らめた。
 昨日から話し合われた議題についてを、テーブルの地図を指しながら、セイトゥが説明するあいだ、エルセイナはその穏やかな表情を変えることなく、黙って聞いていた。テーブルを囲む人々も、誰も声を発することはせず、この美貌の宰相の思考を邪魔することはなるまいというふうだった。アナトリア騎士団の二人もそれは同じで……というか、彼らはこのような性別不詳の美しい存在というものが、にわかに信じられぬというように、少々ぶしつけなくらいじろじろと、エルセイナに向けて無粋な視線を注いでいた。
 だが、それも無理からぬことだった。謎めいた宰相の隣ににいるのは、これまた絶世の美貌をもつ貴公子、ウィルラースであるから、その二人が並ぶ様というのは、まるでこの世のものとは思われない、まさに物語の中から切り取ったような光景にしか思えなかった。
 二人のどちらともが、性別という概念を超えるような完璧なまでの美人であったのだが、こうして並んでみると、ウィルラースの方は、まだ人間の男性としての存在感があった。そういう言い方は、本人には心外だったかもしれないが、生粋の武人であるトレヴィザン提督や、ブロテらと並ぶと、彼は肉体的にもまるで姫君のようになよやかに見えるのだが、しかし、それでもよくよく見れば、それは女性的というよりは、凛然とした貴公子の優雅さなのであった。
 だが、エルセイナの方はというと、こちらはもう、まるで人間の男性という感じはしないのである。まっすぐに背中にかかる艶やかな黒髪や、白すぎるほどに白くほっそりとした頬とあご、どこか妖しさを秘めた赤い唇など、どちらかというと女性的な印象が勝ってはいるが、ただ、それでも生身の女性としての色気や、華やいだやわらかさというものは感じない。いうなれば、女性的な見かけをしていながら、中身はむしろ異なるもの……それは、類まれな知性や冷然とした決断力といったものであったかもしれないが、そうした、なにものにも動じない、底知れぬ心の強さを内面にもっているような、そんな印象なのであった。
 エルセイナが、次に言葉を発したとき、誰もがそのようなことを感じたに違いない。
「なるほど。現時点での会議の進行は理解しました。ジャリア軍の残党への対応策と、ジャリアの国内統治に関して、おおむね予想していた通りの流れです」
 黒髪の宰相は、その穏やかな顔つきを変えることなく、はっきりと言った。
「そこで申し上げますが、我がセルムラードとしては、それらへのいっさいの参加を拒否させていただく」
「なに」
「なんと……」
 人々は驚いたようにどよめき、次に黙り込んだ。
「スタンディノーブル城に立てこもるジャリア軍の動きを監視するべく、マトラーセ川を挟んだあたりに、各国共同による監視砦を作るという案は非常にけっこう。ただし、そこにセルムラードはいっさい関知をしません。ウェルドスラーブとアルディ、それにトレミリアにお任せする。私の考えを言うなら、そこに関与すべきなのは、第一にウェルドスラーブ、そして草原を重要な通行路と考えるトレミリアが第二。我がセルムラードの関わるべきところではない。これは、当然ながら、ジャリア国内の統治に関しても同様。南部を共同統治にするという案は、それもけっこう。ただし、それはジャリア南部に大きく関わる国、すなわち、第一にアルディ、第二にウェルドスラーブであるべきかと。
 それは、王国の宰相としての冷徹なまでの意志の表面であった。静まり返った広間には、淡々としたエルセイナの言葉だけが響いた。
「他の国々がジャリアの統治に無用に関わりすぎることは、いずれは混乱と軋轢をまねくことになるでしょう。そして、最後に、我がセルムラードは、今後いっさいのいくさへの関与はしないこと、本国への侵攻に対しての防衛を除いては、いっさいの戦闘行為をしないことを、ここに明言させていただきます。これは、我が王国の女王、フィリアン・マルセア・セルムラード陛下の固いご意志にほかなりません」

「アド姉!」
 薄い金色の髪をきらきらと陽光になびかせて、こちらに走り寄ってきた相手を見て、思わずアドは微笑みを浮かべた。
「ガーシャ」
 勢いよく抱きついてきた相手を受け止める。ほっそりとはしているが、剣で鍛えたしなやかな筋肉は決して男性にも引けをとらない。
「なんて久しぶりなの。アド姉さん……ああ」
 デュプロス城の中庭の一角……ひと気の少ないハーブの庭園に一人でいたところを、さっそく見つけてくるとは。ガーシャの勘は昔からとても鋭かったことを、アドは内心で思い出した。
「本当、久しぶりね。もう二年くらいになる?」
「そうよ」
 元々はセルムラードの遊撃隊の剣士であったアドである。年齢的にも、彼女の方がいくつか上であった。本当の妹を可愛がるように、アドはガーシャの髪を撫でてやった。
「アド姉ったら、全然帰ってこないんだもの」
 ガーシャは、その目に涙をためていた。感情表現の豊かさにおいては、彼女の方が圧倒的に素直なようである。反対に、アドの方はむしろ、あまり己の感情を見せることはない。そういう点では、彼女はむしろ、エルセイナの側に近い性質なのかもしれなかった。
「そういえば、遊撃隊の隊長になったそうね」
 そう言ったアドだったが、その話題がお互いの悲しい出来事に結びつくことをすぐに思い出した。
「そうよう。でも、」
 ガーシャの顔がくしゃっと歪んだ。
「リジェ姉が、リジェ姉……死んじゃったのよう」
「そのことは、聞いたわ」
 昨日の草原の戦いで、遊撃隊の隊長であったリジェは決死隊に参加し、黒竜王子その人と戦って命を落としたという。その知らせを受けたときは、すぐには信じられなかった。だが、決死隊に参加した多くのトレミリアの騎士、セルムラードの騎士が戦死し、あるいは行方知れずとなったという、その戦いの激しさを、あらためて思い知らされた気持ちであった。
「ガーシャ、あなたは、リジェ姉の遺体は見たの?」
「いいえ。私は見ていないわ」
 その答えにアドはいくぶんほっとした。優しいガーシャのことだから、リジェの死に姿を見てしまったら、しばらくはきっと頭から離れず、悲しみ続けることになるだろう。
「でも、いくさの翌日くらいにね、スレイン伯たちが、森でリジェ姉の遺体を見つけてくださったわ。リジェ姉は、他のセルムラード騎士たちの遺体と一緒に、森に埋葬されたって。でもね……私は、それを聞いてもまだ信じられなかった。だって、あの……強いリジェ姉が、私たちの中で一番強かったリジェ姉が、簡単に死ぬはずないって……」
 ガーシャの目からは、またぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「でも、それは本当だって分かった。スレイン伯がね、リジェ姉の兜を持って帰ってきてくれたのよ」
「そう」
「兜は間違いなく、リジェ姉のものだった。リジェ姉の匂いがしたわ。大きなへこみができていて、リジェ姉はきっと頭部にダメージを受けたんだろうって」
「……」
「リジェ姉はどんな顔をしていたかと、スレイン伯に訊いたんだけど、首を振るだけで、なにも言ってくはれなかったわ」
 アドが抜けてからは、ガーシャは遊撃隊の中では、リジェに続くナンバー2の存在であり、リジェの方も剣や乗馬を教えるなどして、とてもガーシャを可愛がっていた。女だけの遊撃隊においては、みなが姉妹であり、家族のように仲間意識が強く、互いに支えあっていたのだ。それをよく知るアドにとっては、ガーシャの悲しみというのは痛いほどに理解できた。そしてまた、アド自身も、リジェのことを姉のように愛していたのだから。
「ねえ、アド姉、帰って来て」
 顔を上げたガーシャが、すがりつくように言った。
「私じゃ、まだ無理よ。遊撃隊の隊長は」
「……」
「アド姉がいたころは、次の隊長はアド姉だって、みんな言っていたじゃない。剣の腕だって、私なんかよりよっぽど……アド姉なら、リジェ姉にだって負けなかったじゃない」
 溢れ出る気持ちを押さえられないように、ガーシャは言葉を吐き出した。
「エルセイナさまのお供で、ここに来ることに決まったときだって、私……私は、アド姉に会って、リジェ姉のことを話して、アド姉に帰ってきて欲しいって、そう伝えるんだって、ずっと思っていたのよ」
「ガーシャ」
 アドは、いくぶん途方にくれたように、金髪の美少女を見た。ガーシャの歳は、たしか、十八だったろうか。自分よりもいくつも年下で、実際の妹のように可愛い存在である。
「お願いよ、アド姉……セルムラードに帰って。そして、遊撃隊の隊長をやるって、そう言ってちょうだい」
「……」
 できうることなら、そうしてやりたいと、アドは心から思った。しかし、彼女はきっぱりと首を振った。
「いいえ。だめだわ」
「アド姉……」
「分かっているはずよ、ガーシャ。私はもう、あのときに遊撃隊を抜けて、アルディへ、ウィルラースさまのもとへ来たのだわ。もう、戻ることはできないのよ」
「アド、姉……」
「ごめんなさい。ガーシャ」
 おそらく、他の人間の前では決して見せることのない表情で、アドは唇をかみしめた。できることならば、妹のために力になってやりたかった。
「でも、あなたは、もう隊長になったのよ。遊撃隊を率いる責任を、あなたは、リジェから受け継いだのだから」
 アドの口調は淡々として厳しかったが、その言葉の中には、本当の家族のような愛情があることが、ガーシャにも分かったろう。
「胸を張りなさい。あなたが隊長になったのは、みなが認めているからでしょう。リジェだってきっと……そう思っているはずよ」
 アドは一瞬、言葉をきった。普段は決して激さない彼女であったが、その内側では溢れそうになるものをこらえていた。
「あなたが遊撃隊の隊長なのよ。ガーシャ」
「はい」
 涙をぬぐうと、ガーシャはうっすらと微笑んだ。幼い頃から身も心も鍛え抜いてきた、男まさりの女戦士たちが集う遊撃隊……歴代の隊長から受け継がれてきた誇りは、しっかりと彼女の中にもあるようだった。
「ごめんなさい……アド姉の顔を見たら、つい、甘えたくなってしまって」
「いいのよ」
 アドはそっと優しくガーシャを抱き寄せた。
「私だって悲しいもの。本当に、リジェがもういないなんて……でも、だからこそ、私たちは、これからリジェの分まで戦ってゆかなくてはならない。私は、ウィルラースさまのもとで。あなたは、女王陛下のもとでね」
「うん、そうね……そうよね」
 ガーシャはにこりと笑った。たくさん涙を流してかえって落ち着いたようである。ふわふわとしているようで、しっかりと強い芯がある。この子は案外にいい隊長になるのではないかと、アドは思った。
「アド姉はさ、もしかして、ここにハーブを取りにきたの?」
「そうよ。ウィルラースさまがとってきて欲しいというから……」
 アドは、そこまで言って、ふと思い当たった。もしかしてウィルラースは、パセリやバジリコが欲しかったのではなく、自分をガーシャと会わせるために気を利かせてくれたのだろうか。
「……」
 ガーシャがにやにやとしてこちらを見ていた。
「ねえ、アド姉は、ウィルラースさんのことが好きなの?」
「なにを、急に……」
 率直な質問をされ、アドは答えに悩んだ。ここで顔を赤らめたり、照れたりするようなたちではない。そういう意味でも、自分はあまり女性らしくないのだろうと、アドは思わずくすりと笑いたくなった。
「あー、やっぱりそうなんだ?」
「ふふ、まあね」
 相手が素直なガーシャだからこそ、素直に言葉が出た。他の誰に訊かれても、返事もせずに睨みつけただろう。
「そっか。いいんだあ。好きな人とずっと一緒にいられるって」
「そう、ばかりでもないんだけどね」
 かすかに寂しげになったアドの表情には気付かず、ガーシャは別のことを言った。
「あのねえ。私、思うんだけど……リジェ姉ってさ、もしかしてレークのことが好きだったのかなって」
「レーク、レークというと……あの」
 その名を聞いて、アドは思い出した。彼が監獄から脱出する手伝いをして、ウィルラースのもとへ連れていったことを。
「そうか。あの男……あれからセルムラードへ行って、リジェたちとも会ったのか」
「うん。試合もしたよ。すごく強かったあ。リジェ姉はね。けっこうレークのことが気に入ったみたいだったよ」
「……」
「セルムラード軍が出兵するときも、リジェ姉は、どうしても自分も行くってきかなくて。スレイン伯に聞いたんだけど、リジェ姉は、レークと一緒に、決死隊の一員としてジャリア軍に突入していったんだって」
「そう」
「だからさ、もしかして、リジェ姉は、レークを守ろうとして死んだんじゃないかな。なんだか、そんな気がするの」
 ガーシャの言葉は、妙に本当らしい、腑に落ちるものがあった。
「リジェ姉が死んじゃったのは悲しいけど、そうやって、自分の信念を貫いて、愛する人と一緒に戦ったのなら、リジェ姉もさ、少しは幸せだったのかなってね」
「……」
「アド姉?」
「そう……そうかもしれない」
 愛する男の横に並んで剣を振り、命をかけて戦い抜く……それは、男勝りで腕の立つ女剣士、そして情熱的なリジェの生きざま、そのものであるように思えた。
「それなら、リジェは、きっと後悔はしていないね」
 不思議と晴れやかな気持ちが、心の奥から少しずつ湧いてくるのをアドは感じた。そして、大切な人間のためになら、自分もきっとリジェと同じように命をかけられるだろうと、たしかに彼女は思った。
「うん。そうだ、それからさ、アド姉」
 思い出したようにガーシャが言った。
「会議が終わってからでいいんだけど、ウィルラースさんと会わせてくれないかな。じつは、女王陛下から書状を預かっていて。必ず直接にウィルラースさんに渡すようにと言われているんだ」
「そう」
 フィリアン女王とウィルラースの関係をなんとなく察しているアドは、それを聞いていくぶん複雑そうに表情を曇らせた。
「だったら、いまは昼食で休憩中だから、広間に来ればいいわ」
「ううん。エルセイナさまから言われていてね。広間には入らなくていいって。遊撃隊は騎士ではないからね。身分の高い人たちの中に入っていったらまずいよね」
 それを言うなら、自分だって同じだろうとも思ったが、アドの方はウィルラースの護衛という役目をスムーズに遂行できるよう、正式にアルディの騎士として認知をされていた。
「分かったわ。じゃあ、あとでね」
「うん。アド姉。話せて嬉しかった。ありがとう」
 二人は手を取り、互いの頬に唇をあてた。
「もう行くね!」
 すっきりとした顔つきで手を振りながら、ガーシャは走り去っていった。
 なんとなく、疲れたような楽しかったような、どっちつかずの気分でアドは妹を見送った。それから、申し訳程度にハーブを摘み取ると、そのカゴを持って彼女は広間へ戻った。

 広間では人々が昼食を楽しんでいた。
 テーブルには、肉やチーズ、スープなど、晩餐ほどではないが充分に量のある料理が並び、人々はそれらを食しながら談笑していた。見ると、さっきまではいなかった、フサンド公王がちゃっかりと席に座り、ワインの杯を片手に肉を頬張っていた。
 そこにエルセイナの姿がないことを、アドはすぐに見て取った。アナトリア騎士団の二人もいない。場が和やかなのは、かれらがいないせいかもしれなかった。
「お待たせしました」
 アドがとってきたハーブのカゴを差し出すと、ウィルラースは、彼女に隣に座るようにうながした。
「ありがとう。君も一緒にどうかな。今日はほとんど食べていないようだし」
「いいえ。お気遣いありがとうございます」
 ウィルラースの横に座って食事をするなど、アドには到底できないことだった。さきほど聞いたリジェの話のせいで、自分の主でありすべてを捧げる存在である、この美貌の貴公子の顔が、彼女にはいっそうまぶしく思えた。
「どうかな。お友達とは会えたかい?」
 手にしたパセルやバジラの香りをかぎながら、ウィルラースが訊いた。
「はい。おかげさまで」
「それはよかった」
 彼はそうとだけ言うと、横にいるトレヴィザン提督の方を向いて杯を酌み交わし、そばにきたアルーズも一緒になって談笑を始めた。
 広間はがやがやとして、にぎやかだった。いくつかの議題が片づきつつあることもあったろう、人々は昨日よりも楽しげに語らい、チーズをつまみワインを飲み干した。
「……」
 一礼したアドが壁際に下がろうとすると、杯を手にしたウィルラースが振り返った。彼は何気なく言った。
「君は、この会議が終わったら、そのままセルムラードの仲間たちと一緒に国に帰ってもいいんだよ」
 そんな言葉にはもう驚きもしなかった。トレヴィザンやアルーズも、アドに興味をもったようにこちらを見ている。
 アドは、かすかに笑った。
「いいえ、帰りません。私は……ウィルラースさまのもとで、ともに戦います」
 その答えに満足したのか、
「そうか」
 貴公子は軽くうなずくと、また向こうを向いた。
 そっけなくとも、彼女にはそれだけで充分だった。
「はい」
 誰にも聞こえぬようなつぶやきで、アドは心の中で剣を捧げた。 

 午後になると会議が再開された。
 これまでに定められた事項の詳細を詰めながら、それを明文にしてゆく作業を粛々と書記がこなしてゆく。各国同士の貿易関税率や、ロサリート草原の通行税、ジャリア南部の共同統治に関する詳細も含めた、ジャリア国内の通行や、アルディ、ウェルドスラーブも含めた交易においての決め事、それらが少しずつ具体的に決められてゆく。
 セルムラードの宰相、エルセイナはあれきり姿を見せなかった。細々とした取り決めなどには興味もないということなのか、セルムラードは、草原以東に関する事柄にはいっさい関知しないという、強硬な姿勢を貫くためなのか。一応は、セルムラードの代表であるところのバルカス伯はテーブルに付いているが、やはり宰相の意向を受けてか、なにも発言をすることはなかった。
 アナトリア騎士団の二人も、いったん決められた事柄に関しては、それ以上文句を言うことはなく、トレヴィザンやウィルラース、レード公ら、各国の代表たちの思惑を確かめるようにしながら、議題における条件面での着地地点を用心深く見定めるようだった。
「それでは、スタンディノーブル城から、マトレーセ川を挟んで、北西に2エルドーンの位置に、監視砦を建設。人員は、ウェルドスラーブから騎士五百、トレミリアから騎士二百ということでよろしいですね」
 セイトゥの言葉を、書記が次々に書き取ってゆく。
「続いて、ジャリア南部の共同統治では、アルディから、千人の騎士と、文官十名、ウェルドスラーブから、五百人の騎士と文官五名、トロスから百名の騎士と文官一名、これらの人員が、交代で各都市に一年ごとに転属、配属されること。そして、アナトリア騎士団の要請があれば、首都ラハインに赴く可能性もあるということで、」
 そこまで言ったとき、広間の扉が開かれた。
 人々ははっとして注目するが、入ってきたのは、セルムラードの宰相、エルセイナだった。流れるような黒髪を背中に垂らし、神秘的な空気をまとった彼女……か、彼かの姿に、人々は決して慣れることはないように目を奪われた。
 席に着いたエルセイナは、相変わらず涼やかな表情をしていたが、その頬をごくわずかに紅潮させているようだった。それに気付いたのは、おそらくアドだけであったろう。
「来たようだ」
 すかさずエルセイナは言った。そこに、かすかな興奮の響きを含ませて。
 そして、触れ係の小姓が、駆け込んできた。
「アスカより……将軍、ディーク・ザース・エイザー閣下が、ご到着!」
 それを聞いて、広間の人々は、今度こそざわめきたった。
「おお、アスカの代表が……きたのか」
「それも噂に聞く、大将軍がここに」
 人々の口から驚きの声が上がるのも無理はなかった。西側の国々からすれば、アスカというのはいまだに謎めいた東の超大国であり、これまでほとんど接点をもつことはなかった、神秘的な存在なのであった。
 西側の人間のほとんどは、アスカがどういう国なのかも知らなかったし、あるいはそれは伝説の国の名前で、実際には存在などしていないのではないかとすら考えるものもいた。政治的にも軍事的にも、アスカについて多くを語れるものは誰もいなかったし、この広間にいる各国の代表者にしてもそれは同じであった。唯一、都市国家トロスだけは、アスカと直接に交易をしているというが、ここにいるフサンド公王が、アスカの将軍と面識があるなどとは、失礼ながら到底思えなかった。
 すべての人間が注目するなかを、アスカの将軍として、公式には初めて西側の人間の前に現れる、その人物が広間に足を踏み入れた。人々から「おお」という、ため息とも驚嘆ともつかぬ声がもれる。
 アスカの将軍、ディーク・ザース・エイザー……
 それは、戦士、という以外に言葉が必要のない、そんな人間であった。
 身長も横幅も、おそらくブロテをも凌駕するだろう。そこに立っているだけで強烈な存在感を放っている。
 毛皮の縁取りのついた黒いローブをまとった、ごくシンプルな服装ではあるが、幅広の剣を腰に吊り下げた様子は、どこか異国的な野趣を感じさせた。短く刈り込まれた黒髪は、天に向けて逆立つように付き立って、太い鼻と真一文字に結ばれた大きな口元、突き出した岩のような顎と骨ばった頬が印象的だった。そして、猛禽類のように鋭く相手を射抜くような目つき……いかにも戦士らしい、というか、戦士以外ではありえない、精悍な顔つきの人間であった。
「アスカよりまいった」
 彼が口を開くと、ぴたりと人々のざわめきがやんだ。低いがよく通る声、そして、上に立つもの特有の、強い意志と自信とに溢れた響きがあった。
「ディーク・ザース・エイザー……方々には見知りおきを願いたい」
 ここに集まった人間であれば、その名を聞くのはもちろん初めてではなかっただろう。超大国アスカの、十万は優に超えるという、その全軍を指揮する大将軍である。
「ザース・エイザー閣下、ようこそおいでくださいました」
 すでに立ち上がっていたウィルラースが、にこやかな笑みとともに歩み寄った。
「アルディのウィルラースと申します。栄えあるアスカの将軍閣下に、はるばるデュプロス島までお越しいただき、こうして会議に参加いただくことは、まさに歴史に残る大きな出来事となるでしょう。もともとは、この島は古代アスカの領地であったのですから、我々、各国の代表を含めて、この地に集まったことには大きな意味があるに違いないと思っております」
「ウィルラースどのか。お名前はうかがっている」
「これは光栄ですな。むろんザース・エイザー閣下のお名前も、広くリクライア全土にとどろいておりますよ」
 ウィルラースは、頭ひとつほども大きなアスカの将軍を見上げるようにして、手を差し出した。二人が握手を交わす間に、トレヴィザン提督が歩み寄ってきた。
「ウェルドスラーブのトレヴィザンです。どうぞよろしく」
「こちらこそ」
 おそらく年齢的にも二人は近かったろう。提督を一目見て、大軍を率いる者同志の共通の何かを感じ取ったようだった。ディークは、その口元に笑みを浮かべた。
 さらには、トレミリアのレード公とブロテが歩み寄って、それぞれに握手を交わす。とくにブロテとは体格もそうだが、戦士としての雰囲気が非常に通じるところもあった。
 ミレイのセイトゥは、己は貴族でも騎士でもないという身分をわきまえてか、立ち上がって胸に手を当てて礼をしただけだった。続いて、アナトリア騎士団の二人が近づいてゆくと、ディークは目をそばめて、いくぶんその顔つきを険しくした。
「アナトリア騎士団、団長、グレッグ・ダグラス」
「副団長、レクソン・ライアルです」
 背丈だけならグレッグとはほぼ変わらないだろう。ただ、ディークの方が骨太の体格で、さらに横にがっしりとして見える。ここにブロテも一緒に並んだら、おそらく大陸最強の三戦士というべき光景になることだろう。
 グレッグはまるで挑むような顔をして、アスカの将軍を睨み付けると、
「東の大国の将軍閣下が、戦後の権利争いに加わるおつもりですかな」
 そう皮肉まじりに言った。
 二人は黙ったまま、しばし間近で睨み合い、広間は緊張に包まれた。
 かれらを囲む人々は、この二人が大剣を抜いて、戦い始めるような姿を想像したが、アスカの将軍は見かけよりはずっと冷静な性質のようだった。
「もとより、西側のいざこざには関与せぬことが、我がアスカのこれまでの方針であったのだが、」
 むしろ彼は、ごく静かな声で言った。
「今回の大きないくさと、それにともなうジャリアの統治権問題に関しては、ある程度、アスカの立場を明確にしておかねばならぬという、我が皇帝陛下のご意向もあり、参上したしだい。話し合いに参加させていただければありがたい」
 超大国の将軍からの、意外な低姿勢の言葉に、グレッグは少し気をよくしたようだった。
「そういうことなら、よろしかろう。ただし、おおむね、今後の方向性については決定をみていますので、閣下にはそれを確認していただくことくらいになるでしょうな」
「承知した」
 ディークはそう短く答えただけだった。
 続いて、セルムラードのバルカス伯が近づいてゆくと、宰相のエルセイナがふわりと先んじて前に立った。
「セルムラードのエルセイナです」
「存じております」
 エルセイナの妖しいほどの美貌を前にしても、ディークは表情ひとつ変えなかった。
「セルムラードの宰相閣下、お会いできて光栄に思います」
「こちらこそ、将軍閣下」
 エルセイナは妖しい美顔に笑みを浮かべ、
「マール・ジェイス殿下は、ご病気かなにかか?」
「と、申しますと?」
「このような大陸間の代表者が集う会議には、マール殿下のような方が直々にお越しになるのではないかと、そう思ったまで」
「……」
 ディークはやや答えに困った様子で、漆黒の髪の宰相を見つめた。
「エルセイナどのは、マール殿下をご存じなのかな?」
「ええ。少し」
 横にいるバルカス伯は、二人の会話に入れずに立ったまま手持無沙汰の様子だったが、エルセイナはいっさいおかまいなしに、ただアスカの将軍の方だけを見ていた。
「マール殿下は、皇子でありながら、私と同じく宰相の仕事もされていると聞きますな。もしもお会いできたら、いろいろと伺ってみたかったと思うのです」
「そうですか」
「こう申すのは失礼でしょうが、マール殿下とはもしかしたら、とても気が合うのではないかと、勝手に想像しているのです」
 ディークは、なんと言ってよいものか分からぬように、むっつりと口元を結んだ。エルセイナとの話はそこまでとなった。
 それから、ようやくバルカス伯と握手を交わすと、最後にフサンド公王に向かって形式的に騎士の礼をした。いかに小さな都市国家であろうとも、身分的には貴い公王に敬意を表するのは彼の礼儀正しさを示していたろう。
 ディークが席に着いてからは、会議の席はにわかに緊張感をともなった。ウィルラースは、上座にあるフサンド公王の隣の席に、このアスカの使者を座らせた。今回参加した各国の代表のうちでも、とくに同盟関係にもない国の人間を上座につけるということ自体が、最大級の敬意の表れであったろうし、また、そこにはアスカという大国への畏怖や、あるいは今後の国同士の関係性に対する意志の表れでもあったろう。
「それでは、ジャリア南部の共同統治の件についての確認をいたしましょう」
 セイトゥが議題の続きを話しだし、これまでに取り決められた事柄を、いま一度読み上げてゆく。ディークは座席で腕を組みながら、じっとその内容を聞いていた。
 アルディとウェルドスラーブの騎士と文官が、ジャリア南部の各都市に配属されることや、アナトリア騎士団が統治する、ジャリア北部へ入るための手形等の手続きに関すること、さらには首都のラハインへの武装した他国の騎士の出入りを禁止することなど、具体的な条項が書記によって次々に記されてゆく。
 エルセイナもそうだったように、あとから加わったディークは、それらにはまったく口をはさむことはなく、セイトゥの読み上げる事項をただ静かに確認する様子であった。他の国々の代表も、いまさら反対の声を上げることもなく、会議はこのままスムーズに進んで、ほどなくすべての事項が決まりそうな気配であった。


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