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水晶剣伝説 ]大地のうた


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 ウェルドスラーブの首都、レイスラーブの港はにわかに沸き立っていた。
「トレヴィザン提督万歳!」
「ウィルラース閣下万歳!」
 海戦の勝利を伝えるガレー船団が、入港を果たしたのだ。
 マストの上には堂々とウェルドスラーブの、青と白の国旗をなびかせ、数十隻のガレー船が、競うようにして続々と港につけられてゆく。船を漕ぐための多数の櫂が水面から上げられ、ずらりと縦に綺麗に揃った様は、じつに壮観であった。
「提督万歳!」
「トレヴィザン提督万歳!」
 船団を迎える港の人々の声が、あちこちで上がり続ける。そんな中を、ひときわ見事なガレアッツァが到着すると、歓呼の声がいっそう大きくなった。
「トレヴィザン提督万歳!」
「我が海の大提督万歳!」
 そのガレー船の先端部の甲板に立つ、背の高い人物が、港に集まった人々に向けて手を上げた。
「おお、提督だ!」
「トレヴィザン提督が帰還なされたぞ」
 がっしりとした体格に、日に焼けた浅黒い肌、短く刈り込んだ髪と黒々とした髭をたくわえた、その姿を船上に見つけると、人々はこぞって声を上げ、手を叩いた。
「海での大勝利、万歳!」
「トレヴィザン提督万歳!」
 海軍の制服である紺色の胴着は、いまはずいぶんと汚れ、金ボタンはいくつもが外れかかっていたが、それはまぎれもない、ウェルドスラーブが誇る大提督、トレヴィザンその人であった。
 甲板から港の様子を見渡していた提督は、部下の名を呼んだ。
「アルーズ」
「はっ」
 漕ぎ手たちの指揮を取っていた一人の騎士が、船首甲板に来た。
「やはり、報告は本当のようだな」
「はい。市民たちがついに蜂起し、町を取り戻すべく動きだしたと。いまごろは、王宮へと集まっていることでしょう」
「よし。上陸したら、ただちに我らも向かうぞ。休む間もなく、陸でも戦うことなるが」
「みな望むところでしょう。なにしろ、」
 提督にとっては片腕ともいうべき騎士、アルーズは、思わず込み上げるものに言葉を詰まらせた。
「なにしろ、一度は失われた我々の国を、再び取り戻せるのですから」
「そうだな」
 トレヴィザン自身も、そう感慨深げにうなずいた。
 久しぶりに見る港の風景、そして町の人々の顔……愛すべき都市、レイスラーブへ帰還を果たしたことは、船団の騎士たち、すべての心を熱くしていた。
 十日以上に及んだ海戦は、激しく、そして過酷なものだった。多くの犠牲を払いながら、ヴォルス内海戦に勝利し、今日になってようやくティサードリア、オルンカンドという、アルディの二つの主要な港をを制圧したのである。
「提督、ウィルラース閣下の船が通ります」
 部下の報告を聞いて、トレヴィザンとアルーズが振り返る。ちょうど、赤を基調にした優美なガレー船が、目の前を横切ってゆくところだった。
 その船の甲板から手を振るのは、新アルディを提唱する、革命の貴公子、ウィルラース・パラティーンである。傍らには、銀色の髪をなびかせる女剣士がぴたりと付き従っている。
「ウィルラース卿は、いったん制圧したティサードリアの港にゆき、指揮をとられるそうです」
「そうか。それがよかろうな」
 トレヴィザンは、通りすぎるその船に手を振り返しながら、にやりと笑った。
「類まれな美貌でありながら、なんと勇敢なお人だろうな。海戦においては、卿の艦隊に何度となく助けられた」
「はい。それに、あの傍らの美女……アドどのでしたか、海上でぶつかる敵の船に乗り込んでの戦いぶり、あれには本当に勇気づけられました」
「ああ。卿もなかなか素晴らしい片腕をお持ちのようだ。私にとってのお前のようにな」
「それは、もったいなきお褒めのお言葉、ありがとうございます」
 アルーズは、素直にその顔をほころばせた。
 はからずも、このアルーズも、ウィルラースの側近であるアドも、かつてはそれぞれにレークと道中を共にしていたことがあるのだが、それについては彼らはまだ知らない。
「いずれ、あの方とはまた、新アルディの代表としてなり、お目にかかることがありましょうな」
「だろうな。卿の方は、大公やら王などというものにはあまり興味はなさそうだが。あのセリアスさま……大公の血を引く少年を立てて、その宰相くらいにはなるやもしれぬが」
 しだいに離れてゆく、新アルディの船団を見送りながら、トレヴィザンは、すぐ近い未来に思いを巡らせた。
「提督、下船の準備が整いました!」
「よし」
 部下の報告にうなずくと、トレヴィザンは己自身につぶやくように言った。
「まずは目先の勝利を目指すとしよう」
「全員下船!」
 副官であるアルーズの指示が飛ぶ。
「下船したのち、指示に従い隊列を組み、負傷のないものはそのまま待機せよ。全船団からの人員が揃い次第、そのまま陸での行動に移る。我らの王都を取り戻すのだ!」
「おおっ」 
 船の漕ぎ手たちは、長い海戦の疲れも見せず、きびきびと船を降りてゆく。かれらは久しぶりの陸の感触を味わう間もなく、櫂を持つ手に今度は剣を握りしめるのだった。
 帰還したウェルドスラーブ軍のガレー船はおよそ三十隻。一隻には百五十から二百人の騎士と兵士たちが乗り込んでいるので、生き残ったおよそ五千の兵がレイスラーブの港に上陸したことになる。
 かれらは、海の男から陸上の戦士となって、トレヴィザン提督の指示もと、ただちに隊列を組むと、丘の上の王宮を目指して動きだした。

「おお、提督。提督!」
 人々の波をかきわけるようにして、進み出てきたのはフェーダー侯爵であった。
 王宮へ続く丘の前の広場には、すでに数万にも上る人々が集まってきていた。煙突の煙を狼煙として、町中の男たちが武器をとり、王都を奪い返すために決起したのである。
 そこへやってきた海軍勝利と船団帰還の知らせは、市民たちにさらなる勇気を与えた。帰還した提督を出迎えようと、港には多くの人々が集まり、それらの人々は、提督の率いる兵士たちの動きに合わせて、共に王宮を目指しだしたのである。
「これは、フェーダー候、ご無事で」
 トレヴィザン提督も、侯爵の姿を見つけると、部下たちに道をあけさせた。二人は、久しぶりに相まみえる互いの顔を見ながら、がっちりと握手をかわした。とたんに、周囲の人々から大きな拍手が起こる。
 ウェルドスラーブの大きな二つの柱、軍事面と海軍の司令官であるトレヴィザン提督と、外交官にして文官の代表たるフェーダー候……その二人がともに健在にして、こうやって王宮前の広場にてついに再会を果たしたのである。これは、レイスラーブの市民たちにとっては、まさに王国復権の象徴でなくして、なんであったろうか。
「トレヴィザン提督万歳!」
「フェーダー侯爵閣下、万歳!」
「ウェルドスラーブ万歳!」
 人々の歓呼の声がさらに大きくなり、町中へと広がってゆく。
「提督万歳!」
「ウェルドスラーブ万歳!」
 それは、このひと月あまりの間、ジャリア軍によって占領され、厳しく抑圧されてきた市民たちの、解き放たれた歓喜の叫びであり、王国の復活を告げる声であった。
「提督、ともかく、あなたがご健在なのが最大の喜び。私も地下に潜伏していた甲斐があったというものです」
 普段は冷静にして優雅なフェーダー侯が、興奮を隠せぬように言うと、提督も大きくうなずいた。
「侯もご無事でなにより。ところで状況はどうですかな。この様子だと、町のジャリア兵たちはそう多くないようだが」
「ええ。草原のいくさへの援軍が出たあとですから、いまの敵の総数は五千もないでしょう。それに、すでに多くのジャリア兵は町の外へ逃げ、あるいは市民たちによって捕らえられ、無力化されたものもけっこうおります。残ったものは王宮内へ隠れ、いまや我らはほとんどこの都市を取り戻したといえるでしょう」
「なるほど。では、あとは我らに任せてもらいたい。我が部下たちがこれから王宮へ突入する。それが成功ののちに、あらためて勝利の声を上げるとしよう」
「おお、」
 フェーダー候は感極まったように、その目から涙を流した。
「ついにそのときが……マルカス伯、フレアン伯は、すでに処刑され、我がウェルドスラーブの中核をになうものはもうおりませなんだが、ここにこうして、提督がおり、我がレイスラーブを奪還なさると……おお」
「なにを言われる、フェーダー候」
 トレヴィザン提督は、侯爵の手をとった。
「私だけではない、あなたもいる。それに、トレミリアへ落ち延びられた陛下がおられる。このウェルドスラーブは、まったく死に絶えてなどおらぬ」
「おお、そうですとも。そうですとも。我が美しき海の町、そしてこの王国は、決して、決して滅びたりはいたしません。そのために私も……微力ながら戦い、我が身を尽くす所存」
 長い間ひっそりと地下に隠れ、このような日がやってくることを希望しながら生きてきた侯爵は、その願いがここに叶ったのだとばかりに涙を流しながら、顔をくしゃくしゃにして笑みを作った。
 市民たちの歓呼の声は高まるばかりであった。「提督万歳」「ウェルドスラーブ万歳」の声は、いつまでも広場を包み、響き続けた。
 その声を背に受けた騎士たち……トレヴィザン提督を先頭にしたウェルドスラーブの騎士たちが王宮へ突入し、最後のジャリア兵を一掃したのは、アヴァリスの赤い円盤が西の地平に沈みゆく頃だった。
 


 同じころ、ジャリアの首都、ラハインは、アナトリア騎士団により、ほぼ完全に占拠されつつあった。
 ジャリア国内の兵力は、支配下に置いたウェルドスラーブの統治と、ロサリート草原の戦いへの増援に割かれ、首都ラハインを守るのは、たった一個大隊のみとなっていた。そこで、ジャリア王は、北方のアナトリア騎士団に首都の防衛任務を依頼した。かれらは海賊退治や護衛任務など、報酬を払えば必ずこなしてくれる、いわば北方の仕事屋として知られる集団であった。
 今回は、草原の戦いが終結するまでという契約がなされ、これで首都の防備は安泰と、誰もが思っていたのであった。だが、アナトリア騎士団はその契約を覆し、あろうことか、反対にラハインを占領したのだった。そこに、他国家などからの別の圧力がかかったり、二重契約などがなされていたのかまでは、現時点では不明であるが、ともかく、防衛のためと称して配備されていた騎士団は、突然に牙を剥いた。
 おそらく、ラハインにいる誰一人として、そのようなことは予想だにしていなかっただろう。王宮の守護についていたアナトリア騎士団の中隊は、サディーム王と王妃のエレノアを捕らえると、それを人質にして正規騎士隊の武装を解除をさせた。続いて、王宮周辺の主要な貴族たちの身柄を捕らえ、シリアン、メリアンの二人の王女を塔の中に幽閉し、さらにそれを楯にとって、ラハインに残るすべてのジャリア兵に、武装の解除と降伏を勧告したのであった。
 それは、あまりの短時間に行われたので、都市に住まう一般市民は、その事態に最後まで気付かぬものがほとんどであった。夕刻になっても、普段の鐘の音が鳴り響かないことから、人々はしだいに異変に気づき始めたが、それでも都市の全市民が事態のすべてを知ることになるのは翌日になってからであった。
 指揮をとっていたのは、アナトリア騎士団の若き二人の副団長、ヨハン・クロフォードとレクソン・ライアルである。二人ともが剣の名手にして、優秀な船乗りでもあり、そして才知に富んだ騎士であった。おそらく、次の団長となるのは、この二人のうちのどちらかであるとも目されている。それだけに二人は、なかば競うようにして、この周到に計画された作戦を、完璧なまでに遂行したのだった。
 ほとんど無血に近い形で、ジャリアの首都ラハインは、国家でもない一騎士団の手によって陥落した。この事実は、数日のうちに、大陸中に広がり、驚きを持って語られることになる。
 これが、ヴォルス内海での、ウェルドスラーブ海軍の勝利と呼応していたとするなら、草原におけるシャネイ族の襲撃とともに、それがたとえ偶然のタイミングであったとしても、もっとも効果的な痛手をジャリアに与えたことになる。それはおそらく、この北の大国の存亡をも、大きく左右するほどの事態であった。
 


 ウェルドスラーブの首都、レイスラーブから西へと続く街道、
 その街道を、いまジャリア軍の一隊が西に向かって移動していた。隊といっても、その数はわずかに数十騎ばかり。多くのものは、レイスラーブの王宮にて討ち死にし、あるいは捕らえられ、捕虜となっていたが、かろうじて脱出したかれらが目指すのは、本国のある北ではなく、西の方角であった。
 この街道の先には、オールギア、そして国境の城スタンディノーブルがあり、そちらはまだジャリア軍の手中にある。おそらくは、草原でのいくさの趨勢については、まだ伝わってきていないのだろう。数万の兵力が健在ならば、そちらと合流することが生き延びる可能性が強まるという判断は、ある意味では正しかったといえる。
 アヴァリスが傾きゆく西の空へ向かって疾走する、その隊列の先頭をゆくのは、青いマントをはためかせる騎士であった。着ている鎧には、返り血の跡が生々しく、マントもずいぶんと血で汚れている。頭に兜はかぶっていない。その眼光は鋭く、ぎらぎらとして血走っている。ときおりその口元が歪められると、骨ばった頬と眉間には不機嫌そうな皺が現れる。
 それはむろん、今回の遠征大部隊において、フェルス王子の副官を務める、ジルト・ステイクであった。ジャリア軍がウェルドスラーブを支配下に置いてからは、首都のレイスラーブを含め、すべての統治権限を王子から与えられていたことから、ゆくゆくは己自身がウェルドスラーブ総督の地位につくものだと考えていたに違いない。
 だが、蜂起した市民たちに加え、海戦に勝利したトレヴィザン提督率いる騎士たちが押し寄せてくると、その夢はあっさりと消え失せた。いまや、レイスラーブはかれらによって奪取され、ジャリア軍の残兵は敗軍のように逃げ落ちるしかなかった。
(覚えておれ……いつか、)
 血管が浮きでるほどに手綱を握りしめ、ジルトはつぶやいた。
(思い知らせてやるぞ。この屈辱をいずれ……すべてのものたちにな)
 焦げつくような怒りに震えながら、そのぎらついた目で、アヴァリスの沈みゆく空を見つめる。
(いずれは、またいつか……思い知らせてやるぞ) 
 彼が憎むのは、レイスラーブの市民たちであり、その町を颯爽と取り戻したトレヴィザン提督、そして、己をこんな目に合わせた、黒竜王子その人でもあった。
(やつらも、やつらも、それに、やつも……思い知るがいい)
(この俺に与えた屈辱の大きさを……)
 どろどろとした憎悪が体中を駆けめぐり、いまにも沸騰した黒い血が吹き出すような気がした。
(手始めに、通りがかりのオールギアの町で、女を襲ってやるか)
 怒りの強さが、体を興奮させていた。
(そして、スタンディノーブル城でも、な)
(待っておれ……)
 確かエリスという名の女であったか。気の強そうな顔をした、美しい女の顔が思い出される。王子の女というだけで、どうしても奪わずにはおけない、そんな気がする。
(ふふふ……)
 どす黒い怒りと欲望が、興奮の快感へと変わってゆく。
(誰もかれも、奪ってやるとも)
(最後には、そう)
(あのすました王女殿下……シリアン・ヴァーレイもな)
 男は悪魔に誓った。
 口元に笑みを浮かべながら、ぎゅっと眉を吊り上げる。そうすると、その顔はひどく冷酷になり、まるで人殺しを楽しむ殺戮者のように、ひどく恐ろしく見えた。
 血に染まった青黒いマントをはためかせて、ジルト・ステイクは、国境の城を目指し、馬を走らせ続けた。



 黄昏を迎えようとする草原には、まだシャネイたちの声が響いていた。
 一度崩れたジャリア軍の壁は、二度と元に戻ることはなかった。数で二倍近くも圧倒していたはずの黒い兵士たちは、シャネイたちとトレミリア軍との奇妙な連携によって、いまやばらばらになり、戦意を失ったものは逃げ出し、かろうじて踏みとどまろうとするものは、意気上がるトレミリアの兵士たちによって、次々に倒されていった。
 そして、
「見ろ、ジャリア軍の本隊が逃げてゆくぞ!」
「おお……」
 一時は、圧倒的に追い詰められ、この草原で全滅することすらも覚悟のうちであったトレミリア軍であったが、突然現れたシャネイたちによって、事態は逆転した。
「勝ったぞ!」
「我らが勝利した。ジャリア軍を倒したんだ!」
 いまや、追い詰められて戦意を失い、退却してゆくのはジャリア軍であった。黒竜王子に率いられ、大陸の西側へと侵攻の手を伸ばしてきた、その黒い軍勢を、トレミリア、セルムラードの両軍と、そしてシャネイ族が手をたずさえ、草原から追い払ったのである。
「トレミリア万歳!」
「リクライア大陸に、栄光あれ!」
「我が女王陛下に栄光あれ!」
 トレミリア兵もセルムラード兵も、一緒に拳を突き上げ、叫んだ。そこに、「ああー、ああー」という高いシャネイの声が重なってゆく。
 人々と、シャネイたちの鬨の声、「オー、オー」という詠唱のような声の重なりが、草原に響きわたる。それは、まぎれもない、この草原を取り戻したものたち、自分たちの住まう場所、その生の権利を取り戻したものたちの歌う、大地のうたであった。
 その声は、どこまでも響きわたり、感動的な合唱となって、地上に生きるものたちの上に降り注いだ。
「なんと、信じられぬことよ」
 不思議な感動に包まれながら、レード公は馬上からこの戦場を見渡した。
 地面に横たわるのは、ジャリア兵たちの黒い鎧……それに、トレミリア兵、セルムラード兵の犠牲も数多かった。いまや、近くにはほんのわずかな数の近衛兵しかおらぬ。ほぼ全兵力を注ぎ込み、それでも勝利することは難しく思えたこのいくさが、よもやこのような形で決着しようとは。公爵はもとより、トレミリア、セルムラード軍の誰にも予想しえなかったろう。
 そこに現れたシャネイたち。数千、あるいは一万近くにもなるだろう、その神秘なる異人種が、いま一緒になって、勝利の歌を歌っているのだ。その不思議な光景は、ここにいるすべてのものの心をとらえ、そして同時にまた、自然への畏怖、大地への畏怖を感じさせるのだった。
 シャネイたちの声の響きは、喜びにも悲しみにも聞こえなかった。それはまるで、ただ「自分たちはここにいる」という叫びであり、その存在の証明、その力強い証拠であった。どこか哀愁を感じさせる、その声の重なり……かれらのたどってきた歴史や、これまでの人間との関係なども含めた、かれらの表現するその心の声に、人々は静かに心を打たれていた。
「見てください。シャネイたちが」
「おお……」
 トレミリアとセルムラードの兵たちの見る前で、しだいに、かれらはひとつ所に集まりだしていた。それまでは戦場を駆けめぐり、思い思いの場所で声を上げていたかれらが、まるで集合の号令を感じ取ったかのように、自然に集まってゆく。
「どういたしますか」
「かまわん。かれらには、おそらく我々と戦う意志などはない」
 レード公はもう、はっきりとそう確信していた。
 シャネイたちには、退却してゆくジャリア軍を追う様子もない。ただ、かれらは集まり、そこから自然とひとつの意志が生まれるように、その声をひとつに合わせてゆく。
「かれらには危害を与えるな。そっと見送ってやろう」
 穏やかな声で、レード公はそう部下たちに告げた。
「たたかいは、もう終わったのだ」
 戦場から離れてゆくジャリア軍が、やがて黒い点のように小さくなってゆくと、トレミリアとセルムラードの兵たちは、負傷者の手助けや、部隊の兵の確認などを始めた。草原には見渡す限り、黒と銀の鎧姿があちこちに倒れ、仲間の誰が生きていて、誰が死んだのかも定かではない。ただ、たくさんの、たくさんの仲間がこの戦いで犠牲になったのは間違いがなかった。
 いつのまにか、シャネイたちが森の方へと動きだしていた。
 かれらはもう、人間との戦いには興味を失ったように見えた。現れたときとは違って、ゆっくりと、粛々と森へ向かって歩いてゆく。その後ろ姿には、帰るべき場所へ戻ろうという、静かな、そして強い意志を宿しているようであった。
 かれらが人間の前に現れることは、これ以来もうなかった。村を離れたシャネイたちは、かれらを生んだ天山、クレシルドの麓へと帰って行ったのだと、やがて人々は誰からともなく伝え聞き、文字通り、その存在は伝説となっていったのである。

 草原の戦いが終わった。
 うつろいゆく黄昏の空の色とともに、アヴァリスの残照がいくさの跡を照らしてゆく。人間たちの命を懸けた戦いすらも、時の流れの中においては、ひとつの些細な変化というくらいにしかすぎぬ。ごくごく小さな破壊と混乱、その結末のひとつであるにすぎぬというように、
 すべてを見下ろすアヴァリスにとっては。
 その人間たちによる、繰り返される営み……その小さきものたちの生々流転を、じっと見守るという義務に、いっとき疲れたように、輝ける太陽神は、またいったん空から降り、地平へと隠れてゆく。
 だが、地上の人々は信じて疑わぬ。再び、我らを見下ろす光の円盤が、反対側の地平から現れ出ることを。その輝きとともに、あらたな生を生き、そして死を迎えることを。
 アヴァリスに見守られて生まれ、あるいは、女神たるソキアの加護を受けながら眠り、また生まれ出で、愛し合い、憎しみ合い、許し、裏切り、悲嘆し、そして再び眠る。その生を生きる人間たちにとって、とき、そのものである、その光と闇の存在こそが、世界のすべてであるのだから。
 人々は信じて疑いもせぬ。
 自分たちの上に、いずれは訪れるだろう死も。そして、それまでの生きる生の喜びを。
 すべてはただ、ときのながれのなかにあると。
 このひとつの、大きな戦いすらも、ただの小さき営みのひとつ。大きな流れのなかの、ほんのひとつの波か、あるいは、わずかにさざめきにしかすぎぬと。
 沈みゆくアヴァリスの残照に照らされて、退却してゆく黒い鎧の軍勢……
 その姿は、このひとつの戦いの終焉を表すものでしかなかったが、リクライア大陸のこれからの趨勢にとってみれば、それはしかし、大きな均衡の揺らぎであり、変動の時代への序章とも言えたかもしれぬ。
 黒い軍勢は、長い影を作りながら、ゆっくりと東へ向かってゆく。その足どりは重く、誰もが疲れ切ったように、言葉を発することもなく、ただのろのろと進んでゆく。途中、兜を脱ぎ捨てたり、傷を負って歩けぬものは地面に座り込み、そのまま離脱するものも多かった。
 その敗残部隊の最後尾に、たとえば、同じ黒い鎧兜を身に付けた、実際には別の目的をもって入り込んだものがいたとしても、誰にも気付かれなかったに違いない。その二人の騎士……片方は、兜から金髪の髪をはみ出させ、もう片方は、兜をとり、少年めいた顔をあらわにしているが……かれらは、おそらく、これからのジャリアとトレミリアという二国の関係において、大変重要な存在となるはずであった。
 そして、アヴァリスが沈んだのち、ひっそりとした闇に包まれた、アラムラの森……
 トレミリアとジャリアの兵士たちの亡骸が横たわり、いずれは、動物たちによってか、あるいは自然の腐敗によってか、土に帰るであろう、それらの骸のなかに、切り落とされた腕がつかんだままの宝剣が静かに存在することを。いまはまだ、誰も知らぬだろう。
 そう、新たな持ち主を求めて、剣自身が、次の運命へとなにものかを引きこむ、そのときまでは。
 ソキアの輝く夜闇は、草原の亡骸を静かに弔い、ひととき黙祷を捧げている。
 やがて、またアヴァリスの現れる朝を迎えれば、またあらたな歴史が始まってゆく。
 それまでの嘆きも、悲しみも、いずれは癒えるだろう。
 決して消えることのないと思われた、魂の奥底の痛みさえも、ときとともにやわらぎ、それを苦い思い出の中に封じ込めるときが、きっとくるだろう。
 明けない夜はない。たとえ、痛みと悲しみに浸る夜であっても。明けぬ夜はないのだ。

「おお、おめでとうございます。なんということだ」
 トレミリアの首都、フェスーンの王城にて、朝を迎えた早々に、声を弾ませるものがいた。
「ティーナ王妃殿下、おめでとうございます」
「まあ……では、まさか……」
 興奮した顔つきの医師は、すでに一刻も早く、このことを誰かに告げて回りたいというような顔で、何度もうなずいた。王妃の要望で、担当の医師は老齢のものではなく、まだ四十そこそこの年齢であったが、己の診断に間違いはないと、自信に満ちた宣言をした。
「はい。間違いはございません」
「まあ……では、それでは」
 昨夜までは、うちひしがれ、誰とも口を聞こうともしなかった王妃であったが、医師のその言葉を聞いたとたん、その頬にぱっと血の気がさした。
「本当なの?本当なのね……ああ」
 まだ十八歳という若さで、夫であるコルヴィーノ王を失った、そのショックは大変なものであったろうが、だが、彼女はやはり若かった。死んだようにしてうちひしがれたままでいても、その心と身体には、自然と生への力が満ちてくる。
「なんということでしょう……ああ、陛下の、陛下のお子が!」
 寝台から起き上がると、王妃はその両手を組み合わせた。彼女の顔は、昨日までの悲嘆と絶望の姿からは見間違うほどに、美しく輝いていた。
「おめでとうございます。お世継ぎの誕生でございます」
 医師はうやうやしくひざまずいて、そう告げると、さっそくまず、オライア公に報告しなくてはならぬと、慌ただしく部屋を出ていった。
「ああ、私の赤ちゃんが……」
 部屋に一人になると、王妃はそっと、自らの腹を撫でた。その顔は、すでに誇らしげな母のそれになっていた。 
「ああ……感謝いたします」
 死にゆく命があれば、あらたに生まれ出る命もある。その大いなることわり、世界の黄金律が、いま彼女を優しく包み込んだ。
 不思議な感動とともに、王妃は窓辺に立った。 
 塔の窓からは、昇りゆくアヴァリスの輝きと、どこまでも青い空が広がっている。
 今日というあらたな未来が、そこにあった。
 悲嘆の日々は過ぎゆき、なにかをひとつ、また信じられる気持ちがした。
 ときに、残酷でもありながら、それでいて、ときのながれは、決して裏切ることなく、次の一日を、生きるものすべてに与えてくれる。
 世界は続いてゆく。
 そして、
 あらたな物語が、
 きっとどこかで、また
 始まっているに違いない。
 水晶剣の伝説は、ひとまずの眠りにつくとしても。




                     水晶剣伝説 ]大地のうた 




  第一部 完


あとがき

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