6/10ページ 
 

  水晶剣伝説 ] 大地のうた


Y

 ロサリート草原の東端からマトラーセ川を渡れば、そこはもうウェルドスラーブの国境である。
 いまやジャリア軍の手に落ち、支配下におかれたその首都、レイスラーブ……
 正規軍はほぼ壊滅し、生き残った士官や、王国の重鎮たちはあらかた処刑され、この都市は名実ともにジャリアの、いや黒竜王子の領土となりつつあった。
 かつては活気に溢れた港町であり、貿易船が行き交い、やってくる商隊でにぎわい、通りでは人々が語り合い、淹れたてのクオビーンがかぐわしい煙を上げる、そんな光景はもう見られない。港へと続く、町のメインストリートは、いまはひっそりとして人影はまばらであった。ときおりジャリア兵の見回りが通りかかると、市民たちは慌てて家の中へと駆け込んでゆく。
 この町がジャリア軍の手に落ちてから、すでにひと月あまり。その間に、数々の無法な仕打ちが行われ、店は焼かれ、商船は叩き壊され、女たちは無慈悲なジャリア兵の慰み物にされた。それに逆らうものは容赦なく殺され、実際、妻や娘を守ろうとして多くの男たちが殺されたのである。
 最初の数日こそ、なんとか兵を集めて町を取り戻そうという動きが、市民たちの中に起こったものの、やはりそれは結局は烏合の集にしかならず、訓練されたジャリア兵たちの前には敵すべくもなかった。いったん武器をとったものは、すべて殺され、見せしめとして八つ裂きにされ、その死体は広場に投げ捨てられたりした。
 町を支配するのが、黒竜王子の直属の部下であり、それが王子以上に残酷で、慈悲のない人間であることを、数日のうちに人々は知ることになった。いまでは、ジャリア軍の支配に逆らう気力も、戦力も、人員も、人々には残されてはいなかった。
 商売は許されたが、それは食品や生活必需品など、一部の商店だけであった。通りに連なる店の多くは戸が閉められたままで、酒場や広場などに人が集うことも禁じられていたので、町はひっそりと静まり、人間たちの消えてしまった廃墟と化したかにも思えた。
 大通りからは奥まった狭い路地を、いま、一人の男があたりを気にしながら早足で歩いていた。
 手にはパンを抱えているところを見ると、おそらく買い物を装ってでもいたのだろうか。何度も後ろを振り返りながら、あとをつけられていないことを念入りに確かめるように歩いてゆく。ときおり、家と家の間の死角となるくぼみに身をひそめ、あたりの気配を窺うようにしては、なにごともないと確かめてまた歩き出す。それは、おそろしく慎重な行動であった。
 男は、何度か狭い路地を曲がり、家に入ると見せかけてはまた歩きだし、別の路地へと曲がり、それをしばらく繰りかえしてから、ようやく一軒の家の裏口に来ると、さっと扉に身を寄せた。
 軽くノックをして、間をあけてからまた何度かノックをする。それが合図となっていたのだろう、静かに扉が開かれた。男は滑り込むようにして中へと消えた。
「どうでした?」
「まて、まずはこれを」
 室内は暗く、誰がいるのかも分からぬくらいだった。木窓は閉じられ、昼間といえども家の中にほとんど光は入らない。だが男は、そんなことにはとっくに慣れた様子で、暗い室内を歩いていって、手にしていたパンを渡すと、ほっとしたように息をついた。
「あの御方は?」
「地下室にいます」
 そう答えるのは女の声であった。
「よし、ではクオビーンを淹れて差し上げよう。外に匂いが洩れないようにな」
「はい。他には?」
「いまはない。というか、お前にはなにも話さないことにしている。もしやつらに捕まっても、なにも知らない方がいいだろう」
 それから男は、部屋の奥にある飾り棚に近づいた。すると、慣れた様子で棚を押し始めた。棚を横にずらすと、壁にはごく小さな扉が現れた。
 扉の中には、狭い階段が地下へと続いている。
「燭台を」
 火のついた燭台を受け取り、男は階段を下りた。
 階段を下りるとすぐにまた扉があった。扉をコツコツと叩くと、いらえがあった。
「失礼いたします、私です」
 そこは、ひんやりとして、ややカビ臭い地下室であった。普段は食料貯蔵にでも使われていたとおぼしき小さな部屋で、いまは寝台と簡素なテーブルが置かれている。誰かが住んでいるような様子である。
 男が部屋に入ると、寝台に腰掛けていた人間がさっと緊張したが、男の顔を見てすぐに警戒を解いた。
「おお戻ったか。どうだった?」
「はい。町は相変わらずです。ジャリア兵の見回りの頻度も変わらず」
 燭台をテーブルに置くと、男は、寝台に腰掛ける人間を気づかうように言った。
「また、地図を見ておられたのですか。昼間のうちくらいは眠っておかれた方が……昨日もあまり眠っておられぬようでしたし」
「ふむ。大丈夫だ。最近はね、暗がりの中でも、うっすらとものが見えるようになったのだよ。それに……なにやら、事が近いような、そんな気がするんだね。そわそわするというのかね。そろそろ、待ちわびていたことが始まるのではないかとね」
「ええ、それなのですが、」
 男は、思い出したように、いくぶん興奮ぎみの口調になった。
「アストリッドが港のジャリア兵に金をつかませて聞いたところによると、昨日までの段階で海戦は我らに有利、いや、もっというとアルディ海軍は大きな痛手を被ったらしいのです」
「おお」
 それを聞きたかったというように、寝台の人物は立ち上がった。
「では、トレヴィザン提督も……」
「健在です。一時は船ごと沈められたという噂も流れましたが、提督はご無事です。新アルディ海軍のウィルラース卿とともに戦っておられます。アストリッドが言うには、今日、明日にも、ヴォルス内海を制して、上陸を果たされるのではないかと」
「そうか……提督は健在か」
 抑えきれぬ感傷に動かされるように、その人物は胸に手を当てた。
 燭台の火に照らされたその顔には、追われ、身を隠すもの特有の、長い間の疲労の色があり、おそらく、かつては端正に整えられていたはずの口髭は無精髭に覆われ、髪はぼさぼさに伸びてはいたが、どこかに貴族的な気品を感じさせるものがあった。
 少しして、また扉がノックされた。
「大丈夫、妻です」
 男が扉を開けると、そこに湯気のたつ器を手にした女が立っていた。
「俺もまたすぐ上に行くから、まだ閉めなくていい」 
「はい」
 妻から器を受け取り、テーブルの上に置くと、かぐわしい香りが部屋に広がった。
「さ、どうぞ。フェーダー侯閣下」
「ありがとう」
 その人物は根っからのクオビーン好きらしく、器を手に、ひと通り香りを楽しむようにしてから口をつけた。
「おお、奥方の淹れたクオビーンは美味いな。濃さといい、苦みといい、じつに私好みだよ」
「それはなによりです」
「ふむ。このクオビーンがあるのなら、まだひと月でも耐えられる気がするな」
 冗談めかして言う声にも、いくぶん元気が戻ってきたようであった。
「では、お食事の方も、どうかおとりになってください。それから睡眠も」
「分かった。そろそろ事が近いというならそうしよう。なにごとも、動き始めるときは必要なのはまずは体力だからな」
「では、パンをお持ちしましょう」
「焼きたてのか」
「だとよいですな」
 男は思わずにやりとした。
「私はまたちょっと出てきます。合図はパン屋の煙突の煙ですので、なにかあったらまたすぐにお知らせに上がります」
「上手く考えたものだな。合図にパンを焼かせるというのは。それならばジャリアどもにも気付かれまい」 
「はい。行動開始の合図もじつは決まっております。それはすべてのパン屋の……」
 そのとき、慌ただしく階段を駆け降りる音がして、二人は顔を見合わせた。
「なにが……」
 扉が何度もノックされると、これはただごとではないと、男はその顔を緊張させた。だが、どのみち、ジャリア兵にこの地下室を見つけられたのなら、もはや逃げようはない。見ると、フェーダー候の方は、すでにあきらめた様子で、せめてクオビーンの残りを飲み干そうとするところだった。
「あなた、私です……」
 妻の声が、いつもとは違う、なにか切迫したものを伝えていた。
「どうした?」
「大変です。あなた……」
 男が扉を開けると、そこには妻が一人だけで立っていた。想像していたようなジャリア兵の武骨な鎧姿はどこにもなかった。
「いったいどうしたんだ」
 いくぶんほっとしたように男が尋ねると、妻は見るからに頬を紅潮させ、こんなときであったが、なかなか美しいと思えた。騎士となった二人の息子が、ジャリア軍との戦いで亡くなってからは、二人きりで暮らしているときでも、妻に対してそのような気持ちを覚えたことはなかなかなかったのだが。
「あなた……外が」
「外がどうした?」
 男はまだ妻の顔を見つめていたが、妻はそれどころではないというように、階段の上を指さすのだった。
「ともかく、来てください」
「なにが、どうしたというんだ」
「煙突が……煙突から煙が」
「なんだと?」
 それを聞いて、クオビーンを飲み干したばかりのフェーダー侯もさっと顔を上げた。
「どの煙突だ……通り向かいのパンや屋か?そうなのか?」
「いえ、それがあの……たくさん、たくさんの煙突からいっせいに煙が」
 今度こそ、二人は仰天した。男はフェーダー候と顔を見合わせると、大急ぎで階段を上がった。もはやジャリア兵に見つけられる恐れなど吹き飛んだように、フェーダー候もそのあとに続く。
「おお。なんて、ことだ……」
 家の外の路地に出たとたん、男は叫んでいた。
「なんてことだ……まさか」
 男はそれ以上言えずに言葉を失った。
 フェーダー候の方は、久しぶりに外に出たということで、まぶしそうに手をかざし、空を見上げている。
 それは……たしかに、見たこともないような光景だった。
 いつもの馴染みの店である、通り向かいのパン屋から、もくもくと煙が上がっている。それは毎朝、よく見る当たり前の光景なのであったが。
 だが、その向こうからも、さらに見渡すと、別の方角からも、黒々とした煙が立ち上っている。町中のパン屋がいっせいにパンを焼き始めたとでもいうように。日が傾き出した、もうすぐ夕刻にも近いこの時刻であるから、なおさらそれは異様に見えた。
「おお、向こうからも……」
 そして、その煙は、まるで狼煙のように、次々に増えてゆくのだ。南も北も、東にも、西にも……空に向かって立ち上る煙は、まるで、このレイスラーブに生き残る市民たちが、ついに叛旗のときを迎えたという、その叫びのように、空に向けて力強く立ち上っていった。
「フェーダー候!」
「うむ」
 二人は顔を見合わせ、うなずき合った。 
「どうやら、そのときのようだ」
「ええ」
 二人は大急ぎで家に戻り、地下室に駆け込んだ。隠してあった武器を取り出し、それぞれに手にすると、再び路地に戻ってきた。
 さきほどの光景が夢でないことを願いながら、依然として煙が立ち上り続ける空を見上げる。すると、路地には、二人のように武器を手にした男たちが、ぱらぱらと現れ出していた。
「おお、同士たち……」
「ついに、このときがきたか」
 おそらく、彼らと同じく、このときがくるのを待ち続け、潜伏していた人々であろう。なかには、名のある騎士などもいたかもしれない、そんな男たちが、それぞれに剣や槍、あるいは木の棒などをそれぞれに手に持ち、路地を歩いてゆく。
 それは、この路地だけではなかった。広い通りに出てゆくと、あちこちの路地から武器や、あるいは、ウェルドスラーブの青と白のクォータリー(四分割)の国旗を手にした男たちが次々に現れ、それが合流しながら、しだいに大きな流れとなってゆく。
 そんな大通りの光景に、二人はにわかに紅潮した顔を見合せると、人々に合わせて声を上げた。
「王宮へ!」
 これまで、大きな声を上げることすらもできなかった、そんな鬱屈とした思いは、すべての市民たちに確かにあったのだ。
「王宮へ!」
「王宮へ!」
 その声は、通りのあちこちで上がりだし、どんどん広がり、大きくなっていった。
 
 広大なロサリート草原……横断するには馬を走らせ続けても、ゆうに丸二日はかかると言われ、リクライア大陸の西と東を分ける、まさに大海のような存在であるこのロサリート草原において、特定の人間や、あるいは物を探し出すというのは、まず不可能である。
 レークの率いる決死隊が、森林に入ったジャリア軍に突入しようとする、その少し前、彼の相棒たるアレイエン・ディナースは、草原の北東部にいた。
「ふむ……このあたりのはずだが」
 そこは、ジャリア軍との激しい戦闘があったと思われる場所で、あちこちに両軍の兵たちの亡骸が横たわり、地面には武器や鎧などが散乱していた。
 なるべく早いうちに相棒と合流するつもりでいたアレンであったが、この広大な草原では、レークの足どりを見つけるだけでも大変なことだった。
 おそらく、同じく水晶の短剣を手にしているはずのレークであろうが、いかに魔力のある短剣同士であろうと、遠く離れた互いの居場所を知るという、そんな便利な力があるわけではない。もちろん、ある程度まで近づけば、互いが引き合うことになり、存在を感じられようが、なにせロサリート草原はとてつもなく広かったのだ。
 ともかく、レークたちの軍勢がいたという、北の湿原近くを目指してここまで来たのである。確かに、このあたりで水晶の短剣が、なんとなく反応しているような感じがする。この近くで、レークが戦ったことは、きっと間違いがないだろう。
「いや。他にもなにか、あるな……」
 それは、水晶の短剣から、かすかに伝わってくる魔力のいらえであったかもしれない。少なくとも、近くにその痕跡があるに違いないと、アレンは確信した。 
 アレの馬が通ると、あまり見たこともないような、不気味な黒い鳥たちがぱっと飛び立ってゆく。そうした猛禽類にとっては、戦場の跡というのは格好の餌場であるのだろう。やがて数日もすれば、打ち捨てられた死体は食いつくされ、骨だけになってゆくのだろう。
「おや、あれは……」
 ふと、アレンの目が鋭くそれをとらえた。
 辺りには死体ばかりで動くものとてないはずが、思いがけず人影を見つけたのだ。
 素早い手綱さばきで、そちらに向けて走り出す。その人影も、こちらに気付いたようだ。
「騎士か……」
 近づくと、それはトレミリアの鎧を着た騎士だった。兜はかぶっていない。まだ若い騎士である。
「あ、あなたは……」
 騎士は、近づいてきたアレンを見るなり、はっと驚いた。
「トレミリアの騎士のようだな」
「……」
 騎士はうなずくと、その顔を赤らめた。
「私を知っているのか」
「は、はい。アレイエン……さまですね」 
 黒髪を肩まで伸ばし、白い肌をした美少年めいた顔である。アレンに向かって胸に手を当て、騎士の礼をする、その姿もどことなく優美であった。
「どこで私を?」
「はい……フェスーンの剣技大会で、レイピアの試合を見ておりましたから」
「名は、なんという?」
「はい。カシールと申します」
 この若い騎士に、アレンは少し興味を覚えた。
「それで、君はこんなところで、なにをしているのかな?」
「は……そ、それは」
 死体から金目のものを盗むような種類の人間には見えない。着ている鎧に傷や汚れはあるものの、れっきとした貴族騎士の使うものである。それに、この少年のような騎士には、まだ若いながらも、れっきとした気品のようなものが感じられた。
「あの……」
 意を決したように、カシールは言った。
「私は、レーク隊長のもとで、小隊の一員として戦っておりました」
「なるほど、そういうことか」
 アレンは驚きもせずに、じっとその相手を見た。
「では、その手にしている指輪は、レークから受け取ったものなのだな」
「えっ?」
 カシールは驚いたように声を上げ、
「いえ、これは……私の友人であった、アランがしていたものです。ここに……」
 横たわる一人の騎士の亡骸の横に、彼はひざまずいた。
「ここで死んだ私の友人……アランの形見にと、この指輪をいま抜き取ったところです。あの……決して嘘ではありません。これを盗みたかったわけではありません。ただアランの形見に……」
「ふむ、そういうことか。では、そのアランという騎士も、きっとレークのもとにいたのだな?」
「はい。共に戦いました。アランは、ある大きな任務を果たし、そして死にました。私は、あの……訳あって戦列を離れ、どうしてもアランの亡骸に、もう一度祈りを捧げたかったのです。子供の頃からの仲間でしたから」
 カシールの言葉に嘘はないように思えた。どことなく、ひどく純粋なものを、少年のような顔から感じるのだ。
「しかし、どんな理由があろうとも、いくさの最中に部隊から離脱するというのは、許されることではあるまい」
「ええ、分かっています。ですが、僕は……」
 アレンの方を必死に見つめ、カシールは言った。
「じつは、レーク隊長の部隊から外され、望んでもいないのにヒルギス騎士伯のお付きという立場になり、それは名誉なことかもしれませんが、しかし、僕はあくまでレーク隊長と一緒に戦いたかったのです。それなのに……」
 彼の言い分を聞いても、とくに同情することもなかったが、アレンは不思議と、この美少年めいた騎士への興味を強くした。
「その指輪は、もともと私がレークに渡したものだ。おそらく、レークがそれをアランという彼に渡したのだろう」
「えっ、そうなのですか」
「そして、その指輪には、魔力の力が加わっている。つまり、そう……お守りのような役割を果たすのだ」
「魔力の……」
 おそらく、カシールにはなんのことかも分からなかっただろう。ただ、手にした銀の指輪を不思議そうに見つめている。
「その彼が死んだのは残念だが、おそらく、きっとなにか大きな使命をなしとげたのだろう」
「はい……はい、そう思います」
 カシールの目に涙が込み上げてきた。
「アランは、湿原地帯に追い込まれた我々のことを、トレミリア本営に伝えに単身で凍てついた夜の湿原を渡り、そして援軍を連れてきてくれたのです。我々が生き延びられたのはアランのおかげだと思っています」
「そうか。騎士としての立派に使命を果たしたということだな。彼にもきっと、悔いはないはずだ」
「はい、そう……その通りだと思います」
「……」
 なにを思ったか、アレンは馬を降りると、カシールのもとに近づいた。
 はっとしたように立ち尽くす彼の横に、ふわりと膝をつく。美しくなびく金髪に目を奪われるように、カシールは動けなかった。
「君の親友のアランくんか……私からも祈りを捧げよう」
 仰向けに寝かされたアランの遺体は、黒く固まった血のあとが痛ましく、鎧にはたくさんの傷跡がついていたが、その顔はまだ綺麗で、閉じられた目とかすかに微笑むような口元には苦しみや無念さはない。それは、目的を達したものの満足な顔つきのように見えた。
 アレンは、その身体にそっと手を触れると、目を閉じた。
(これは……)
 冷たくなったその体からは、かすかに魔力のあとが残っているようにも感じられる。
(誰かが、魔力を使ったな……それも、かなり大きな)
 かつてマーゴスの弟子であったという老人が、湿原で死にかけていたアランを甦らせたことなどは、むろんアレンは知らない。ただ、これがまぎれもない、水晶の魔力であることだけは確かに感じられた。
 その姿が、カシールには、長いこと祈りを捧げていたように思えたのだろう。アレンが立ち上がったときには、彼は感謝のまなざしとともに、胸に手を当て礼をした。
「これでアランも浮かばれます。ありがとうございました。アレイエンさま」
「いや」
 アレンは、にこりと笑った。
「それから、私のことはアレンでいいよ。カシール」
「は、はい。アレンさま」
 正面からアレンを見つめるその目は、すでに憧憬の輝きに溢れていた。
「その指輪を、ちょっと渡してもらえるかな?」
「は、はい」
 カシールは素直に指輪を外し、それをアレンに返した。
「どれ……」
 アレンは指輪をはめると、懐から短剣を取り出した。柄頭にはめ込まれた宝石に向かって、なにかを念じるように唱える。
 不思議そうに見つめるカシールの前で、目を閉じたアレンは、手にはめた指輪を短剣に近づけた。指輪が短剣の宝石に触れた瞬間だった。
 そこから青紫色をした光がこぼれるのをカシールは見た。
「これでよし」
 アレンは指輪を外すと、あっけにとられるカシールにそれを差し出した。
「これは君にやろう」
「えっ、よろしいのですか?」
「ああ。友人の形見にもなるだろう」
「あ、ありがとうございます!」
 指輪を受け取ったカシールは、嬉しそうにそれを右手の指にはめた。
「君は、水晶の魔力ときっと相性がよいだろう。そんな気がする」
意味ありげなアレンの言葉にカシールは首をかしげた。
「さて、これからどうするかな」
 レークの足どりは分からぬままで、もうこのあたりに用はない。
「カシール、君はもうトレミリア軍には戻らないのか?」
「私は……無断で部隊から離脱した身ですから、たとえ戻っても許されることはないでしょう。もとより、その覚悟で出てきたのです」
「そうか。ではどうする。このまま放浪の旅にでも出るのかな」
 皮肉めいたアレンの言葉に、カシールは少し考えるようにしてから、おずおずと言った。
「あの、できましたら……もしも、足手まといでなければ、」
 その白い頬がうっすらと染まる。
「アレンさまの、お供をさせていただけないでしょうか」
「かまわないよ」
 アレンはあっさりと言った。
「それに見たところ、たぶん、君は剣の腕前もかなりのものだろう」
「いえ。あの剣技会で拝見した、アレンさまのレイピアさばきには到底及びませんが」
 それは謙遜を含んではいたが、事実ではあったろう。ただし、カシールの剣の腕前ならば、いい勝負にはなるに違いない。
「よし、ではいまから、君は私の道連れだな。じつは、私もトレミリアにはもう戻らないつもりなのだ」
「そうでしたか」
 カシールはなにを聞かされても、もう驚きもしない。アレンと共にゆけるということが、彼にとっての新たな希望であるようだった。その顔は、さっきまでよりも明らかに生き生きとして見えた。
「じつは訳あってね、私は探しているものがあるのだ。いずれ君にも話すことがあるかもしれないが」
「はい」
「ところで、さっき聞いたことだが、では君は、レークのいる部隊とはずっと行動を共にしていたのだな?」
「はい。ちょうどこの辺りでジャリア軍と戦い、敵の包囲網を突破してから、草原の南部へと向かいました。そしてアラムラ森林に入り、そこで一夜を過ごしました。その後は分かりません。私は、夜が明ける前に思い立って部隊を抜け出したのです」
「そうか。では、いまごろは、すでにトレミリアの本営に合流しているかもしれないな」
 それではつまり、レークとは行き違いになって合流し損ねたことになる。アレンは、彼にしては珍しく、眉を寄せるといくらか厳しい顔つきになった。
(だとすると、ジャリア軍との全面交戦はもう避けられない。いや、もういまごろは、すでに始まっているかもしれんな)
 こうなると、レークと共に黒竜王子に対するという算段は難しい。なにか別の手段を考えなくてはならなかった。
「カシール、君は私の供になると言ったな。それはつまり、私とともに戦う覚悟はあるのだな」
「はい。それはもちろん」
 決意ある顔つきで彼はうなずいた。
「では、いささか無茶なやり方になるかねしれんが、手伝ってもらえるかな」
「は、はい。それはどのようなことでしょう?」
「なに、私としても、トレミリアを出てはきたが、あのジャリアの黒竜王子と戦うつもりはある。それは、ひとつの王国のためではなく、リクライア大陸、そしてまた、いうなればこの世界すべてのためだ」
「はい」
 凛然としたアレンの顔つきを、カシールはうっとりと見つめた。
「やり方は違うが、そのためには命を懸けることもしよう。君とて、トレミリア軍から抜け出してきたとはいっても、一人の騎士として、この世界のために役立つのなら、戦うことを恐れはすまい」
「もちろんです。恐れることはありません」
 カシールはきっぱりと言った。
「私にできることは、なんなりと言ってください。ただいまから、私はアレンさまに仕える騎士となります」
 そして、うやうやしく騎士の礼をする。アレンは、その肩に手を置くと、
「では、これが約束の印だ」
 そう言ってカシールの耳に口づけをした。
「はい……」
 頬まで赤くしたカシールは、己の主となった金髪碧眼の美剣士に、崇拝と服従を誓うように、そっと目を伏せた。
「よし。ではゆこう。だがその前にすることがある」
 アレンは、考えを決めたとばかりに指差した。戦いの跡地であるこのあたりには、トレミリア兵、そしてジャリア兵たちの亡骸が、いたるところに横たわっている。
「手頃な鎧を探さなくてはな」
「といいますと。まさか……」
「そうだ」
 うっすらと微笑む、その横顔は冷たく、ソキアのように美しく、さえざえとして見えた。

 窪地に入ったジャリア軍に突撃したトレミリア軍は、混戦の中でしだいに劣勢に立たされつつあった。敵軍を森へ押し込むための決死の作戦であったが、やはりどうしても戦力の差は大きく、いったんは意表を突かれた格好の敵軍も、しだいに統制のとれた動きを取り戻し始めていた。
 地形的にファランクス隊形をとるのが難しいとみてとったジャリア軍は、今度は反対に、一人ずつの間隔をあけ、充分に長槍を振るえる距離をとるように戦い始めていた。こうなると、一対一の局面が増える、それはつまり、数に有利なジャリア軍にとって正しい戦術であった。
 少しずつ、敵の攻勢が強まるなかで、敵をなんとか押しとどめようとするトレミリア軍の前線は、いよいよ正念場を迎えていた。
「ローリング閣下が、ああっ!」
「そこをどけ!自分がゆかず、誰がゆく」
「ですが、閣下……」
 部下の制止を振り切り、ローリングは前線へ飛び出した。
「ローリングどの!」
 そこへ馬を寄せてきたのは、左翼部隊の指揮をとるヨルンであった。
「そのお体で……無茶です!」
「そろそろ、レークの小隊が、森から突入している頃だろう。ならば、さらに敵の注意を引きつけねばならん」
 兜をかぶった顔からは、傷の痛みがどの程度かまでは分からなかった。ただ、くぐもったその声は、なにかに耐えるような響きを含んでいた。
「では、私もお供を……」
「いや、おぬしは、ブロテとともに、この部隊の指揮をとらねばならん身だ。あとを頼む。そして、レード公をお守りしてくれ」
「ローリングどの……」
 長槍をこちらに向けたジャリア兵の黒い壁が、じりじりと眼前に迫っていた。傷を負ったローリングが、敵陣へと突入してゆこうとするのを、止められるものはいなかった。
「トレミリアを……頼むぞ」
 そう言い残すと、彼は馬上で剣を構え、敵を睨み据えた。
 そして、
「はいやっ!」
 掛け声とともに、馬は走り出した。
「続け!ローリング閣下に続けっ!」
 最後まで供をする決意の部下たちが、あとに続いてゆく。
「トレミリアのために!」
「トレミリアのためにっ!」
 死を恐れぬ騎士たちの叫び声が響きわたる。
 長槍を構えるジャリア兵たちに向かって、次々に騎馬が突入していった。
「おお……」
 それを見ながら、ヨルンは、込み上げてくるものをこらえきれぬように呻いた。
「無駄死にさせてはならぬ。トレミリアの兵たちよ!」
 その馬上から、周りの騎士たち、兵たちに向かって叫ぶ。
「我らも、ローリングどのに続け!恐れるな。トレミリアのために。戦え!」
「おおっ!」
「トレミリアのために!」
 混戦の中で傷を負って、血を流すものも、まともな兜がないようなものも、あるいは馬を失った騎士も、みな、すでにいっときの恐れを忘れたように、それぞれに剣を掲げ、猛々しい声を上げて、敵軍へ向かって突撃した。
 たとえ……そう、
 たとえ、数の上で勝ち目がなかったとしても、
 たとえ、この草原で無残な屍となるとしても、
 それは無駄な死ではないと。
 トレミリアを守るため、家族や恋人を守るため、そのためならば、きっと、彼らは何べんでも同じように死を選ぶことだろう。
「おおおっ」
「ああっ!」
 剣と槍が、鎧と楯がぶつかり合い、絶叫と悲鳴とが交差する。
 血がしぶき、馬がどうと倒れ、舞い上がる土埃の中を、黒と銀の兵士たちが走り抜けてゆく。
 それは、戦いの最後へのはじまり、その光景であった。
 ひと月近くにも及んだロサリート草原の戦いは、ここにきてついに、最終的な局面を迎えようとしていた。


次ページへ