5/10ページ 
 

  水晶剣伝説 ] 大地のうた


X

 レークが引き連れきたのは、アルトリウスの率いる千五百の部隊と、ヒルギス伯以下、三千のトレミリア軍、そして、バルカス伯、スレイン伯以下の、セルムラード軍七千であった。残った本営の兵と合わせれば、一万六千の軍勢となり、これでなんとかジャリア軍に立ち向かえるという形にはなった。
「ですが、敵は三万近い。まともにあたっては、やはり勝ち目は薄いでしょう」
 司令官であるレード公のもとに、ブロテ、クーマン、アルトリウス、ガウリン、バルカス伯、スレイン伯、それにヒルギス伯といった面々が集っていた。彼らが加わったことで、それまで殺伐としていた陣営は、にわかにまた活気を取り戻したように思えた。
「確かに、アルトリウスどのの言う通りでしょう」
 セルムラード側の司令官であるバルカス伯が同意する。
「火矢の効果がなくなれば、敵はまたすぐにファランクスで進軍してくる。これを正面から迎え撃つには、わが軍にはまだ数が足りない」
「では、部隊を割いて、左右から攻めるか」
「いや、それこそ敵の思うつぼ。かえって正面突破を許すことになる。そうなれば、我々の背後はすぐサルマへと続く街道……本国への侵攻をみすみす許すことになろう」
「では、どうする」
「おいおい、ちんたらしている時間はないんだぜ」
 乱暴に声を上げたのはレークであった。意見を述べ合う貴族騎士たちを見回し、口元を歪める。
「こんなところで、のんびり軍議もねえだろう。敵はすぐ目と鼻の先にいるんだぜ」
「それはむろん分かっている。だが、このまま戦っては……」
「数では負けるっていうんだろう、アルトリウスのおっさん」
「む……」
 アルトリウスは眉を寄せた。浪剣士の無礼さは、これまで共にいた中で充分に分かっていたので、それ以上腹を立てることはしなかった。
「だったらよ、もう奇襲しかねえ」
 レード公の方を向いて、レークはきっぱりと言った。
「奇襲……」
「前にも言ったかもしれないがな、オレに百名くれ。いや、五十名でもいいや。なんせ、小隊の人数はもう十人ちょっとになっちまったんでな。そんだけくれたら、オレが敵の本営……つまり、黒竜王子の懐に飛び込んでひっかき回してやるぜ。上手くすりゃ、そのフェルスだったか……王子の首級を上げてやる」
 人々は、あっけにとられたように静まり返った。半ばあきれた様子でもある。
「そんなに、簡単にゆくはずがなかろう」
 苦笑いを浮かべてそう言うのはクーマンであった。いくさが始まってから、ずっと後方部隊を指揮していたクーマンは、いまだにレークのことを、ただのお調子者の無謀な剣士としか思っていない。
「そのような小部隊で突入するなど、ただの自殺行為。敵のファランクスを破れるわけがない」
「ええと、あんた誰だっけ?」
 レークの言葉に、クーマンはかっとなったように顔を赤くした。もともとは温厚で知性派の騎士として知られている彼である。まだ実際に敵と剣を交えていないので、その端正な顔には傷ひとつ負っていない。
「そういや前線で戦ってるときも、こん中で、あんただけは見かけなかったな」
「この……無礼な、」
 クーマンは眉を吊り上げると、人々を見回して言った。
「方々はどう思うのか?この男の提案を、まさか真に受けるわけではあるまいに」
 おそらく、いくさが始まったばかりの頃であったら、アルトリウスやガウリンなどは、まっさきにレークの無謀な考えを一笑に付し、手ひどく罵り、退けていたに違いない。
 だが、彼らはレークの戦いぶりを知った。小隊のみを引き連れ、驚くべき行動力と勇敢さ、そして迅速さでもって、援軍を助け出し、敵の壁を突破し、こうして戻ってきたのだ。その事実を前にして、このレークの申し出を、ただの無謀漢と罵ることはできなかった。
 むしろ、この男ならあるいは、やるのではないか。もしかしたら、このレーク・ドップならば、また奇跡のようなことをやってのけるのではないか。そのような気持ちが、わけもなく湧いてくることが、彼らには不思議であったことだろう。飄々として、一見していい加減に見えもする、この黒髪の剣士の、いったいどこにそのように底知れぬ力……というか、希望の力のようなものを感じるのか、誰にもはっきりとは説明できなかっただろうが。
「方々……何故黙っている。アルトリウスどのも、ブロテどの、それにガウリンどの……そうだ、そなたは先に、この男の無茶な行為に激昂していたのではなかったか」
「クーマンどの」
 傷だらけの鎧と、血の滲んだぼろぼろのマントを身につけたガウリンは、むしろ落ち着いた口調で言った。
「俺は、レークどのの部隊に志願したいと思う」
「なんですと……」
 クーマンは驚いたようにガウリンを見た。いかにも戦士らしい、ガウリンの顔には、真摯な決意の色が浮かんでいた。
「無謀だろうとなんだろうと、このままでは我らは勝てぬ」
「し、しかし……」
「俺は……トレミリアのためなら死ねる」
 その言葉に、クーマンは黙りこんだ。
「戦うだけ戦って、それで死ぬのはかまわん。ほんのわずかでも見込みがあるのなら、突撃でもなんでもしよう。それで、国を、家族を守れるのなら、俺は喜んで死ぬだろう」
「ならば、私も参加しようぞ」
「アルトリウス卿、そちもか」
 壮年の騎士は、レード公の前に進み出ると、雄々しく騎士の礼をした。
「私も、もはやこの命など惜しくはありませぬ。トレミリアのために戦い、死ねるのならば、それこそが王国の騎士としての本懐」
「おっさん、見直したぜ」
 レークは、アルトリウスの顔を見てにやりと笑った。
「なんの、まだまだ若いやつばらには負けぬわ」
「よかろう。ならば、ここにいる我らは、腹をくくらねばならぬな」
 レード公爵は腕を組んだまま、まっすぐに黒髪の浪剣士を見つめた。
「騎士レーク・ドップよ」
「へい」
「不思議なものだな。そなたの明るさ、その勇敢さが、いまの我らの最大の希望にも思えるということは。敵は三万……恐れはないのか?」
「そりゃ、まあ、正直なとこ、少しはありますがね。だが、やるしかないっしょ」
 相変わらず、不敵な自然体というような顔つきで、笑みを漏らす。
 そんなレークに、戦いをくぐり抜けてきた者だけの凄味を、見て取ったのかもしれない。公爵はひとつうなずくと、もはや迷いのない声で人々に告げた。
「よし。ではすぐに部隊の編成を始めよ。これが、わが軍の最後の作戦となるだろう。トレミリアのために、共に戦おう」
「おおっ、トレミリアのために」
「トレミリアのために!」
 その場の騎士たちが唱和すると、その声は次々に全軍へと広がり、また響いていった。
「トレミリアのために!」
「トレミリアのために!」
 その合言葉が、いまいちどだけの魔法となって、兵たちを奮い立たせる。馬上にいるものも、傷を負い立ち上がれぬものも、騎士を支える従者も、鍛冶屋も、同じように、その言葉を叫んだ。
「トレミリアのために!」
「トレミリアのために!」
 誰もが、愛する王国のために、命を捧げる決意とともに、最後の戦いに臨もうとしていた。
 それから、ただちにレークのもとに、志願した騎士たちが集まり、決死隊というべき部隊が編成された。
 レーク小隊の生き残りの十六名に、アルトリウス以下の五十名の騎士、さらにガウリン以下の五十名が加わった。セルムラードからはビュレス騎士伯が、四十名の騎士を厳選して連れてきた。そこにはリジェの姿もあった。レークは彼女に説得を試みたが、「どうしても付いてゆく、許さないのならここで自分を殺すがいい」と、銀色の髪の女戦士は、思い詰めた顔で言うのだった。すでに死を覚悟した彼女を、止めることはできなかった。
 また、ブロテの方も、自分こそがレークの傍らで戦うべきだと主張したが、ローリングが負傷したいま、本陣を支えるのは他におらぬと、こちらはレード公爵から強く押しとどめられて、無念そうに承知するほかなかった。
 こうして、百五十名の突撃部隊が出来上がった。作戦の詳細を打ち合わせると、レークを先頭に、アルトリウス、ケイン、ガウリン、ビュレス騎士伯、リジェといった、腕に覚えのある戦士たちが、それぞれ騎乗して居並んだ。
「じゃあ、いくぜ。みんな覚悟はいいな」
 いまさら、そんなことを訊く必要もないことは分かっていた。この部隊に志願したときから、誰もが命を捨てる覚悟であった。
 騎士たちはただ、無言のまま馬上でうなずき、あるいは静かにジュスティニアへの祈りを捧げた。それで、すべては整った。
 
「敵軍が二手に分かれました」
 その報告にも、黒竜王子は馬上でやや顔を上げただけだった。
 いくさの最中であるというのに、ときおり物思いのような、ぼんやりすることが割とよくある。それは、こうして馬上にいてもそうであった。本能的に手綱を操りながら、意識はどこか別のところへと飛んでいるような。そうしたことが、このところずいぶんある。なので、傍らには常に信頼できる部下を置いて、とっさの場合の報告や全軍への通常の指示は任せている。多くの場合、それは四十五人隊の副隊長であるノーマス・ハインが務めることが多かった。
「正確には、少数の部隊が敵の左翼から離れてゆきます」
 ノーマスの声に、ようやく現在の状況下への理解が戻ってきたように、王子は黒い兜の奥から前方へ目を向けた。さきほど、突如現れたトレミリアの騎兵部隊が放った火矢が、草に燃え移り、まだところどころに火が見える。その向こうにいる敵軍のなかには、確かにせわしない動きがあるようだった。
「数は?」
「およそ一千、というところです」
「ふん、雑魚か。いや……あるいは」
 フェルスはつぶやきながら、腰の剣に手をやった。たいていのことは、この剣が教えてくれる。
「マクルーノ」 
「はい」
「どう思う」
 若き軍師は、王子の横に馬を寄せた。一見して素朴な一般市民にしか見えぬ彼は、いくぶん気に入らなさそうに口元を尖らせた。
「そうですね。作戦というには意味がない、というか、無謀ですな。なにより圧倒的に数で勝ったわが軍を前に、さらに兵力を分散させるなど、素人でも分かる拙策です」
「ふむ。では、ほうっておけということか」
「おそらくは奇襲です。それも無謀きわまりないものでしょう。その敵の別動隊の動きには注意を向けながらも、こちらから隊列を崩してまで手出しするのは得策ではないでしょう」
「よし。では、密集隊形から等間隔に隊列を戻し、側面からの敵にも対応できる布陣をとれ」
「はっ」
 ノーマス・ハインが全軍に指示を出すあいだ、王子はまたしても、沈み込むような奇妙な感覚にとらわれた。ここにいる自分が、自分であることを疑いたくなるような、そんなふわふわとした感覚……思考を含めた己の存在そのものが、暗い壺の中にでも吸い込まれてゆきそうな、それはそんな感覚であったかもしれない。
(この魔剣に、ときどき呼ばれているらしい……)
 兜のなかで、王子は薄く笑いを浮かべた。
(俺自身が、剣の魔力に同化してゆくということなのか)
 それならそれで、かまわない。魔力を我が身にまとうのも、魔力に身を浸しきり、同化するのでも。最近は不思議と、そのように思える。  
(感じる……なにかが起こるのが。水晶の力が、合わさりつつあるのが)
 いったいなにが起きるというのか。そして、そのとき、この身はいったいどうなるのか。それを知りたかった。いまとなっては、トレミリアへ侵攻することなどは、むしろ、そのついでであるとさえ言ってもよかった。
(このいくさに勝ったとして、それから俺はどうする)
 うっすらとしたイメージ……そこにすかさず、強い憎悪と欲求とがなだれ込んでくる。
(トレミリア王を殺すか、それから、ジャリア王も……)
 そして、己がすべてを支配する王座に着くのか。それが、自分の望みなのか。
(そうではない。そうでは……)
 父であるジャリア王を殺し、シャネイどもを滅ぼし、それからどうする。そのあとに、どのような望みが残るというのか。
(次は……セルムラード、ミレイ、それにすべての都市国家、トロスもだ)
 すべてへ侵攻し、戦い、殺戮し、支配する。ではそのあとは……
(アスカ……)
 謎めいた東の超大国、そこにあるいは、自分の求めるなにかがあるというのか。水晶剣の力の謎が、そこに隠されているのか……きっと、そのような気がする。
(ふふ、ふ……)
 破滅的な笑いが口元に映った。支配欲、殺戮欲、憎悪と、それを解放する快感、どす黒く、どろりとした沼に足元からはまってゆくような、身震いするほどの嫌悪にも似た心地……その言葉にし尽くせない、破滅欲求が、己の内側で増殖してゆくのが分かる。
 それがすべて、この水晶剣のせいであるというなら、
(俺は、何度口づけしても足らぬな。はは、は……)
「はは、はっ!」
 その口から実際に乾いた笑いがもれる。だが、背後に控えるザージーンはむろん、周りを固める四十五人隊の騎士たちも、ぴくりとも動かない。親衛隊である彼らは、ただ整然と、寸分の狂いもない距離を保ち、王子を取り囲むように強固な隊列を組む。次の命令が下りさえすれば、彼らはみな、死をも恐れず突撃してゆくに違いない。
「分裂したトレミリア軍が、我が軍の右翼に回り込んできます」
「かまうな。それにかまわず、前進せよ」
「はっ、前進!」
 ジャリア軍は、前後左右のどちらからにも対応できる、ひし形の隊形をとりながら、ゆっくりとまた前進を始めた。
「右翼の敵は、一定の距離を保ったまま、攻撃にくる気配はありません」
「ふん、腰抜けが」
 王子はせせら笑った。だが、油断をするわけではない。敵軍のどんな動きにも即座に対応できるよう、右翼に騎兵隊を集めさせ、後方には、援軍によって大きくなった一万もの予備兵を、随時投入できるように残している。
「さて、どんな奇策とやらなのか、見せてもらおう」
 数の上で圧倒しているこちらにとっては、無用な策を弄せずに正面から攻めることが、最大の勝機となることを王子はよく知っていた。にわかに敵に動きが出てきたことで、ぼんやりとしかけていた気分が、むしろすっきりとし、再びいくさの興奮が身体に疼き始めていた。
(ふ……)
 次に剣を握ったときは、すさまじい気迫もろとも、眼前の敵の鎧を打ち砕くことだろう。それを想像しながら、きゅっと手綱を握りしめる。
「敵軍にまた動きが!」
 前線の見張り兵から報告が上がる。
「今度は、敵の本隊が……右に」
「どうした?はっきり言え」
「右に、我が軍の右翼方向に敵の全軍が動き出しております!」
「なんだと、それは、どういうことだ」
 ノーマス・ハインは、馬上から身を乗り出すようにして前方を見やる。
 すでに、火矢によるくすぶりはあらかた消え、うっすらとした煙の向こうにいる軍勢の動きはよく分かった。報告の通り、トレミリア軍の全体が、たしかにしだいに右側へと動きつつあるのを見て取ると、ノーマスはすぐさま王子の側に馬を寄せた。
「殿下!」
「聞いている。こざかしいな。これも敵の奇策というやつだろう」
「はい。いかがいたしますか?」
「ふむ」
 王子は、少し考えるふうに視線を泳がせると、マクルーノを側に来させた。
「敵の動きからみて、これはなんらかの罠が考えられような」
「はい」
「このまま敵が右へ移動すれば、我々はこのまま進み、やすやすと正面から突破ができる。トレミリア本国へ侵攻してくれといわんばかりの、あの敵の動きは?」
「おそらく、正面から迎え撃つのでは、勝ち目はなしとの判断でしょう。それは正しい」
 いかなるときでも冷静にして、決して激することのないこの軍師の、そのどこか醒めたような目つきが、ノーマスはいくぶん苦手であった。それに、いかに軍略に秀でた才能があるとはいえ、身分なき一介の市民にしかすぎぬ男を、どうして王子がこのように重用するのか、いまひとつ理解できないのだ。
「敵のもくろみは定かではありませんが、我らに道を通すと見せかけて、側面から一か八かで急襲を仕掛けてくるという可能性が大きいかと思います」
「だとしたら……あえて、その誘いに乗ってやるべきだろうな」
「王子」
 ノーマスはいくぶん不安げに王子を見た。どうしても王子が戦い急いでいるという気がしてならなかった。もちろん、機を見て攻めるのは兵法の常識であったし、戦力に勝るこちらが前進をためらう理由などはない。
 だが、王子の場合は、それだけでなく、つまるところ、戦いを常に欲している……敵の存在、そのものを欲している、もっと言うなら、目の前でしぶく血や、肉を絶つ生々しいその感触を欲しているような、そんな感じすらするのだ。
 たしかに、以前からそのような雰囲気はあった。ウェルドスラーブに侵攻したときも、あの国境の城を落としたときも、王子は常に戦いに異常なほど飢えていたし、目の前の敵を倒し、征服し、前へ前へと進むことだけを命じ、性急なまでに実行してきた。
 そして、ついにロサリート草原にまできた。この草原の向こうには、大陸随一の豊かな王国トレミリアと、さらに進めば、聖なる女王が治める謎めいたセルムラードがある。それらの国に容赦なく侵攻し、圧倒的に征服すること、それこそが王子の望みであり、ジャリアという大国がリクライア大陸の盟主となることが、最終的な目的であると、ノーマスは思っていたし、おそらくは全軍の兵士たちも同じであろう。
 だが、
 はたして、王子はそれで満足するのだろうか。
 すべての国を征服し尽くして、もはやどこにも敵がいなくなったとしたら、そのとき王子はどうするのであろう。あるいは、王子の望むのは、征服や支配などという安定した永続的なものではなく、ただ一人でも多くの敵を打ち倒すことであり、目的はむしろ、戦うことそのものにあるのではないか。もし、そうだとしたら、この戦いには終わりはあるのだろうか。
 これまでも、うっすらと感じていた、そのような疑問が、この草原にきてからというもの、にわかに色を濃くして頭をよぎるのだ。
(いや……)
 己自身の考えに背筋を震わせると、心の中でそれを打ち消した。
(そのようなことは、自分が考えても仕方がない)
(そう、我らはただ、王子の命に従い、敵を倒すまでなのだから)
 一瞬の物思いから抜けると、ノーマスは馬上の王子にうなずきかけた。
「……では、このまま前進でよろしいですか」
 ジャリア軍はそのまま前進を続けた。
 黒い軍勢が進むにつれて、トレミリアの銀色の軍勢はゆるやかに、北側へと動いてゆく。それはまるで、ジャリア軍の前進を、西への侵攻を阻むことを放棄したかのようであった。
「敵に動きは?」
「そのままです。そのまま、我が右翼の外側に広がり、攻撃してくる様子はなし」
「では前進を続けろ」
 王子に迷いはなかった。たとえ、敵がどのような動きを見せようとも、数と力に勝るジャリア軍が遅れをと.はずはない。むしろ、相手がどのような奇策を弄してくるのか、退屈を感じ始めていたこの戦いにおいて、新たな興奮の種ができたというような気持ちであったろう。
 しばらくはなにごと起こらず、ジャリア軍はそのままゆっくりと前進を続けていった。トレミリア軍はその北側に広がりながら、つかず離れずの距離をとる。ふたつの軍勢が移動をしながらの奇妙な睨み合いというような、静かなときが流れた。
 ひとくちに草原といえども、ロサリート草原は広大で、すべてが完全な平地ではない。ときおりゆるやかな勾配や、小さなくぼみ、あるいはなだらかな丘のような場所があちこちに点在し、それとともに、気付けば周囲の視界が変わってくる。敵がなにかを仕掛けてくるとしたら、間違いなくそのような場所だろうと、マクルーノは断言していた。そして、それはその通りとなった。
「トレミリア軍が離れてゆきます!」
 見ると、これまで右手に広がっていた軍勢が、いつのまにか見えなくなっていた。前方はゆるやかな勾配の下りになり、北側、つまり右手は丘のように高くなっている。そのせいで、距離をとった敵軍の姿が視界から消えたのだ。
「王子!」
「かまわん。前進だ」
 ノーマスの方を見るでもなく、王子は言った。その声はむしろ弾んでいるようだ。
「敵が仕掛けてくるにはもってこいの地形だろう。ならば迎え撃ち、叩きつぶせばよい」
「は、そのまま前進!」
 王子の命令のまま、ジャリア軍は下り勾配の低地へと進んだ。すぐに前後と右手の視界は悪くなり、全軍は自然と左手に見えるアラムラの森林に接近せざるをえなった。
「右手に敵軍の気配があります」
 報告の声とほとんど同じに、
「敵の矢です!」
 空中から黒々とした雨のように、矢が降り注いだ。トレミリア軍が残されたすべての矢を放ったのだろう。
「陣形を保ちつつ、各自楯で防げ!」
 この程度で慌てるジャリア軍ではない、頭上に楯をかざし、密集陣形を保ったまま、その場に身を低くする。
「続いて、敵が突入して来ます!」
「迎え撃て!」
 右手から突進してくるトレミリアの騎馬隊に合わせて、ジャリアの長槍兵たちが一斉に右方向に並んだ。低地の不利などはものともしないとばかりに、その動きは整然として見事なものだった。
「ふん。この程度で奇襲とは、つまらぬものだ」
 鼻で笑った王子だったが、
「お待ちください。ぜ、前方からも敵が!」
「なんだと?」
 新たな敵の報告に、思わず馬上でその顔を険しくした。
 全軍が右手に移動したとばかりに思えた敵軍が、正面からも現れたことで、ジャリア軍は少なからず混乱した。いったん右手を向いた長槍兵は、いったいどちらを迎え撃てばいいのかと慌て、そこへ、まず右側からトレミリアの騎馬兵が突入した。続いて、前方からの騎馬兵が突っ込む。
 あたりは、一気に混戦の只中となった。
「うわあああっ!」
「おおおっ」
「戦え、まずは目の前の敵を叩け!」
 トレミリアの騎馬隊は迷いなく、ジャリア軍の黒い壁めがけて突っ込んできた。勾配のある低い方へ突入することで、重さが物理的に威力を増し、ジャリア兵を吹き飛ばし、その隊列を混乱させた。長槍の餌食となり憤死する兵があっても、これが最後の戦いとばかりに、トレミリア兵たちは次々にためらいなく突っ込んできた。
 前と横からの激しい突撃に、さしものジャリア軍も態勢を乱し、もはや密集隊形をとるどころではなかった。加えて、騎馬隊のあとからは、トレミリアの重装兵が、押し寄せるようになだれ込んだ。
 ブロテとハイロンを中心としたトレミリアの歩兵部隊は、先発の騎馬隊の突入によって乱れたジャリア軍の壁の間に入り込んで、激しい戦闘を繰り広げていた。死を恐れぬ兵たちのもたらす気迫とともに、その勢いは、しだいに黒い壁を押し出し始めていた。
「ひるむな。敵は我らよりも少数。恐れるな!」
「おおおっ」
 だが、前と横からの交互の圧力は、いかに数に劣るとはいえ、ジャリア軍の陣形を不自然に歪ませ、戦う兵士たちの方向感覚を麻痺させた。さらに、突入してからのトレミリア兵の動き方も、その混乱にいっそう拍車をかけた。
 右から突撃してきた騎馬隊は、今度はいったん距離を取り、あとに続く歩兵を迎え入れると、その後ろについた。こうして、歩兵がジャリア軍を攻撃しつつ、その背後からは騎馬兵が援護するという、二段構えの態勢となった。
 一方、前方からの突撃兵は、ジャリア兵を混乱させることそのものが目的であるというように、突撃しては退いてゆくという動きを繰りかえした。これにより、ジャリア兵は右手からの圧力を受けながら、そちらに専念することもできず、間を置いて前方から突撃してくる敵にも対応せねばならなかった。
 こうして、少しずつ、ジャリア軍は全体が左へ……つまり、アラムラ森林の方向へと押されてゆくこととなった。それがトレミリア軍の狙いであろうと気付いたのは、軍師のマクルーノであった。
「敵の狙いは……我らを森林へ追いやることかもしれませんな」
 眼前で繰り広げられる、激しい混戦を見やりながら、若き軍師はつぶやいた。横にいる王子の方は、己こそが前線に立っていって敵を蹴散らしたいという衝動を必死で押さえるように、兜の中でいくぶん息を荒くしている。
「だとすると、やはり森林になにかが。ふむ……いかがいたしますか。殿下」
「森林になにがあろうと……かまうことではない」
 戦いの高揚に昂るように、その声はかすれ、うわずっていた。
「ただ、目の前の敵どもを叩き潰し、踏みにじり、進むだけよ」
「ですが、王子……」
 マクルーノは、なんとなく驚怖を感じたように王子を見た。
 このいくさが始まってから、王子はその顔を兜に隠したまま、誰にも見せていない。もちろん、兜の面頬を開くことはあったが、それとても頻繁にあることではない。王子がなにを考えており、なにを目的として行動しようとしているのかが、理論的によく分からないのである。
 それに、あのとき、
 天幕で見てしまった、妖しい光に包まれた王子の姿……。あれはいったいなんだったのか。剣を握りしめた王子が、まるで、その光に飲み込まれてゆくような光景……
 まったく理解しようもないものが、そこにあった。それ以来、マクルーノは、これまでにも増して王子が恐ろしくなった。
 単なる一般市民であった自分が、思い切って兵として志願した先の部隊で、たまたま意見を認められ、戦果を評価されて、王子の側近の軍師とまでなった。それは信じられぬほどに有り難いことで、なにより誇らしくもあったが、同時にまた、自分の軍略によっていくさが進んでゆくこと、それによって戦局に影響を与え、ひいては一国を滅ぼすことにもつながるという、その結果の重大さには驚いたし、その力の心地よさに、ときに笑いだしたくもなりつつ、またそれがときに恐ろしくもあったのだ。
 つまりそれは、自分が間接的に多くの人々を殺し、国を滅ぼすことに手を貸しているという事実であり……それを理論的には知りつつも、手を汚している実感のないまま、ここまできた。これからも王子のもとにいるとしたなら、自分はどれだけのいくさに関わり、また自分のせいでどれくらいの人々が死ぬこととなり、どれだけの国を滅ぼすことになるのかという……そうした、なんともいえぬ不気味で、巨大な固まりのような恐ろしい思い。荒れ狂う黒い竜が、世界を滅ぼすための知恵を、自分が請け負っているのかもしれぬという、そんな意識が、ここのところにわかに頭に浮かぶのである。
「マクルーノ」
 まるで、そんな彼の考えを見透かすように、王子の兜がこちらを向いた。
「俺が怖いか」
「は、い、いえ……」
 兜の中に王子の光る目が見えるような気がした。
「だがな、俺は人間が怖い」
「……」
 どんなつもりで王子がその言葉を言ったのか、彼にはついに分からなかった。
「……お前のような、人間がな」
 それきり王子は口を開かなかった。
 マクルーノはうなずくでもなく、ただ兜の中に光る王子の目を一瞬だけ見つめ、そして目をそらした。王子の背後に静かに控える、ザージーン……その巨体のシャネイの方が、むしろ、自分を人の世界に引き戻してくれる確かな存在であるような気がするのだった。
 兵士たちの叫び声と、剣と鎧がぶつかり合う響き、いくさの喧騒がしだいに大きくなる。それを恐ろしく思う感覚すらも、マクルーノは忘れていた。
(自分が恐ろしいのは、いくさや死そのものではなく……あるいは)
 この黒い竜のような存在、その大きすぎる力とともに、無残に世界を踏みにじってゆくこと、それなのではないか。そんなことを思いながら、彼は眼前の戦いに目を向けた。
 ジャリア軍は、しだいにトレミリア軍の圧力に押され、さらに森林に近づきつつあった。
「我が軍の左翼が、アラムラ森林に接近します」
「森の中に敵軍の気配はあるか?」
「森の入り口付近に敵の姿は見えないとのことです」
「ふむ」
 王子は軽くうなずくと、面白そうに尋ねた。
「やはり、罠だと思うか?」
「は、おそらくは」
 そう答えながら、マクルーノは、すでに王子の次の言葉を知っていたのかもしれない。むしろそれを望むかのような、楽しげな口調から。
「ならば、行ってやろう。その罠ごと叩きつぶし、残酷な死を与えてやろうではないか」
 そして、兜の中の王子の顔が、黒い喜悦に歪んだこともまた。
 
「レークどの!」
「きたか」
 報告を聞く前に、レークは馬上でさっと背筋を伸ばした。
 森の中で、じっと息をひそめるようにして待ち続けていた小隊の騎士たちも、その顔をさっと緊張させる。
「ジャリア軍が森林に入りました」
「よし。うまいこと押し込んでくれたようだな」
 耳を澄ませば、木々の向こうから、たしかに軍勢の気配が伝わってくる。
 すぐには敵に発見されぬよう、ずいぶんと森の中へ入ってしまい、かえって離れすぎてはいないか、本当にこの作戦でよかったのかと、待機しながら不安を感じもした。レークの性格上、じっと待つことほど苦手なことはなかったので、いっそのこと森から飛び出して行って、敵に突撃したいという気分に何度もかられた。だが、ここで無駄死にをするわけにはゆかなかったし、この作戦にトレミリアの命運がかかっているのだと、必死に自分を抑えた。
(どうも水晶の短剣が熱い気がする……)
 懐にある短剣が、こうして熱を持つことは始めてではない。それが水晶の魔力の増幅と関係があることを、レークは知っていた。
(いよいよ、あの王子と戦うのか)
 はたして、自分が勝てるのだろうか。かつて、スタンディノーブルで偶然に相まみえたときは、その絶対的な圧力のような力を感じて、大急ぎで逃げ出したのである。
(あのときは、こう……全身に鳥肌がたつようだったぜ)
 それは、レークが生まれて初めて味わった、本能的な驚怖であった。どうあっても、この相手には勝てないと、剣士としての本能が警告した。それが、水晶の魔力……水晶剣の力であるというのなら、その剣を手にした王子を再び前にしたとき、自分はどう戦えばいいのだろう。
「……レークどの」
「ああ、すまねえ」
 アルトリウスとガウリンがすぐ横に来ていた。
「で、どうする。やはり、もっと引き寄せるのか」
「その方がいいだろうな。森のとば口ではなく、木々の多いあたりまで入り込んでくれた方がありがてえ」
「では、もうしばらく待機だな」
 ガウリンは、その面頬から見える顔に、いくぶん緊張の色を覗かせている。それは、ベテラン騎士であるアルトリウスも同じであった。
「へえ、あんたらでも緊張するのかい?」
「それはそうだ。次の戦いが、真に命懸けのものになることは分かっている。そう気楽にいられるはずはない」
 いくぶんむっとしたようにガウリンは言った。
「へえ。そりゃ、気弱なこったな」
「なんだと?」
「ハナから死ぬと思ってりゃ、そりゃ死ぬんだよ。オレは必ず生き残る。そう強く思っていりゃあな、ちゃんとそうなるんだよ」
 ガウリンは眉を寄せ、怒るかどうか迷うような顔をした。それから、ふっと息をついた。
「……なんだってそう、気楽でいられるんだ?死ぬことが怖くないのか、それとも、よほどおめでたいのか。前にも無茶な戦い方をして、前線にいる俺たちを唖然とさせたな」
「そうそう。あんときは、あとであんたに殴られたっけかな」
 思い出すようにレークはにやりとした。
「死ぬことが怖くねえってワケじゃねえさ。ただ、死ぬことなんぞは考えねえってこったよ。だって、考えているうちは、生きているってことじゃねえか。違うかい」
「なるほど。それは確かにレークどのの言う通りよ」
 アルトリウスが真面目にうなずく。
「考えるのは恐れている証拠。考えるのは生きている証。死んだのちのことなど、考えても仕方がない。それはまさに真理よな。もとより、いつでも命を捨てる覚悟などはできている。あとはただ、そのときまで、命続くまで、戦い続けるというだけのことよ」
「おっ、さすがアルトリウスのおっさん。その通りだぜ」
 思えば、このベテラン騎士とも、浅からぬえにしがあった。かつてのトレミリアの剣技会においては進行役として登場し、レークが騎士となり、月日をへて、互いになんとなく面倒くさい相手と思いながらも、いまはこうして、決死隊の一員として共に戦っているのである。
「私だって、こんなところで死にたくはないさ」
 馬を寄せてきたのはリジェだった。その隣には、彼女を守る守護神でもあるように、ビュレス騎士伯がつき従う。
「生きてまたセルムラードに戻って、遊撃隊の妹たちを抱きしめるんだ。ここで死ぬつもりはないよ」
「ああ、そうさ。誰も死なずにな、みんな無事で国に……帰るんだよ」
 レークは珍しく、その声をうわずらせた。みなが無事で帰れることなどは、おそらくないだろうことが、いかに楽観主義者の浪剣士にも分かっていた。
「そうしたらさ、」
 リジェが囁くように言う。
「また、あんたもドレーヴェに来てくれるだろう。一緒に遠乗りに行ったり、剣の試合をしたり、楽しく過ごしたい」
「ああ、そうだな。そうしよう」
「約束」
 うるんだようなリジェの目が、レークを見つめた。彼女はもっとなにかを言いたげな顔だったが、戦いの前に睦言はすまいと、こらえるようであった。横にいるビュレス騎士伯は、口を弾き結んだまま、ただ黙っている。
「ジャリア軍が森の中を接近してきます!」
 偵察に出ていたケインからの報告に、レークは部隊の隊列を整えさせた。
「いいか、いよいよだ。タイミングが肝心だ。これは時間との勝負になる。敵が態勢を立て直す前に、どれだけ突き進めるか、それがすべてだ」
 ラシムを先頭に来させ、レークとガウリン、アルトリウスが横に並ぶ。
「よう、おめえは怖くないか、ラシム」
「怖いことはなくもないですが、戦いなのでもう仕方ないでっす」
 巨漢の男の、素朴ななまりのある言葉は、こんなときには緊張をほぐしてくれる。
「なにより、自分は騎士として、立派な役割を果たせられれば、国のおっ母もきっと、喜んでくれまっす」
「お前は死ぬには惜しい腕前だ。あと数年もすりゃあ、きっとブロテにも匹敵する騎士になるだろうぜ」
「そ、そう言っていただけて、ありがたいっす!」
 レークの言葉に顔を紅潮させるラシム。この部隊の中にも、小隊の生き残りの部下たちが一緒にいる。彼らが一人でも多く生きて帰れることを、レークはジュスティニアに祈った。
「さて、もうちっと引きつけるぞ」
 隊列を組んだまま、彼らはしばし待った。息をひそめる緊張の時間が過ぎる。
 やがて、はっきりと分かる、軍勢の動く物々しい気配が伝わってきた。
 ぎりぎりまで引き寄せる。
 木々の間に、黒い鎧が見えたとき
 レークはさっと手を上げた。
 迷うことなく、部隊全体が動き出した。
「このまま敵の中へ突進するぞ。しっかりついて来いよ!」
 隊列を組んだまま、彼らは一丸となって、木々の間を縫うようにして敵陣へ突入した。
 森の中であれば、数の差は意味をなさない。むしろ視界が悪い分だけ、少人数の部隊の方が身軽に動ける。レークの狙いはまさにそれだった。
「敵です!」
 不意をつかれたジャリア軍は、突然の騎馬部隊の出現に混乱した。重装備のジャリア兵たちは、統制のとれないまま、木々の間に立ち往生をして、あたりを見回すしかなかった。
「騎馬部隊です。数は不明!」
「慌てるな!態勢を崩すな。どうせ敵は少数だ」
 だが、数は少ないとはいえど、選び抜かれた戦士たちによる部隊である。勇敢さと剣の腕では比類ない連中であった。
 レークを先頭に、敵の只中に入り込むと、彼らは次々に敵兵を倒していった。
「離れるなよ!必ず固まって戦え。オレが動いたら、すぐについて来い!」
 叫びながらも、レークは軽やかに馬を走らせ、馬上から剣を振り下ろして、眼前の敵兵を蹴散らしてゆく。
「あっちだ」
 ただ己の勘を頼りに移動する。その目的はひとつ。敵の中枢である。
 巨漢のラシムが巨大な楯で敵を吹き飛ばして道を開けさせ、レークに続いて、アルトリウスとガウリンが突進する。
「急げ!敵が混乱するうちに、進むぞ」
 女ながらに巧みな馬術でついてゆくリジェ、その彼女を守るように寄り添うビュレス騎士伯もまた、なかなか見事な戦いぶりであった。続く他の騎士たちも、辺りを埋めつくす黒い鎧たちにひるむことなく、勇敢に剣を振り、木々の間を駆け抜けてゆく。
 たった百五十人の決死隊は、敵軍の最深部を目指して突き進んだ。


次ページへ