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   水晶剣伝説 ] 大地のうた


W

 レード公爵家を示す、金縁の楯の紋章が入った車体は、それだけで大きな威厳をもって宮廷の人々から敬われる。
 クリミナが二頭立てのその馬車に近づくと、御者席から若い御者が降り立ち、うやうやしく扉を開けてくれた。
 馬車に乗り込もうとしたクリミナだったが、車内を覗いて思わず、あっと声を上げそうになった。
「ナ、ナル……」
「しっ、早く乗って」
 急かされて座席に乗り込み、扉を閉めると、ゆるゆると馬車が動き出した。
「しばらくね、クリミナ」
 ベールのついたビロードの帽子の下から、くりくりとした黒い目がこちらを見ていた。
「ナルニア……」
 驚いたクリミナであったが、考えてみればそう不思議なことではない。ナルニアはレード公爵の次女であり、つまりはサーシャの妹であるのだから。
「久しぶりに姉様にお会いできると思ってお城に来てみたら、まさかあなたが現れるなんてね。そんなに驚いた顔をしているけど、私も驚いているのよ」
「ご、ごめんなさい」
 なんと言ってよいものか分からず、クリミナは口ごもった。
 同い年のナルニアとは、宮廷ではほとんど幼なじみのようなものであった。小さいころは一緒にお転婆な遊びや、いたずらをしたりして、侍女やばあやなどからよく怒られたものだ。
「私が隣にいれば怪しまれないわ。さ、この帽子を深くかぶって」
 ナルニアはかぶっていた帽子を脱ぐと、それをクリミナに差し出した。
「ありがとう」
 突然の再会に、戸惑っていたのはクリミナの方であったろう。ナルニアはなにも変わっていない。艶やかな黒髪が背中に流れ落ちるように伸びたくらいで、美人だが少し気が強くて我が儘な、かつての彼女のままである。
「あなたが帰って来たというのは聞いていたけれど、どうも、なにかあったようね。さっきもサーシャ姉様に訊いたのだけれど、なにも話してくれないのよ」
「そう……」
「雰囲気で分かるのよ。とても、大変なことが起きたのだというのがね」
 馬車は王城の門を抜け、丘をくだる道を降りてゆく。フェスーン宮廷の景観が一望できるこの丘からの眺めが、クリミナは大好きだった。
「クリミナ。あなた変わったわ」
「えっ」
「なんというのかしらね、そう……とにかく、変わったのよ」
 横からじっと見つめられ、クリミナはなんとなく帽子を深くかぶり直した。
「いまだって、なんだか、まるでこの景色を目に焼き付けようとしているみたいだわ」
「そんな……こと」
 鋭い観察力は、彼女の昔からの特性であった。幼なじみ特有の遠慮のなさで、ナルニアはじろじろとクリミナを見た。
「ねえ、どこへゆくの?もう戻らないつもりなの?」
「いいえ、そんなことはないけど……」
 こうしてナルニアと一緒に馬車に揺られながら、王城から丘を下ってゆくのは、ずっと小さな頃くらいにしかなかったことだった。いつしか、自分は女騎士として、もっと強く、強くなりたいと意地を張るようになり、あえて、宮廷の年頃の女性たちとは親しくしないようにしてきた。オードレイなどの一部の友人は別にして。
 いや、彼女は自分の崇拝者であったから、むしろ彼女の前ではより騎士らしく、まるで男性のように振る舞っていた。他の友人たちにも、親しくはしていても、どこか壁を作っていた。男勝りの騎士としての、宮廷騎士長クリミナとしての外せない仮面が、そうさせたのかもしれない。ナルニアも含めて、着飾った宮廷の姫君たちというのは、自分にとっては別の世界の人間であると、つとめてそう考えるようにしてきたのだ。
(なんだかおかしいわね)
 ナルニアと並んで馬車に揺られていることが、いまは何故だか楽しく思える。こうして、自分の思うままに、宮廷から出てゆこうとしていることが、どこかで痛快に思っている自分がいる。
 横に座る黒い髪の幼なじみ……その艶やかな黒鳥の濡れ羽色の髪が、とてもうらやましくもあった。認めたくはないが、自分の冴えない栗色の髪にコンプレックスがあった。そのせいで、あまり身分が高くなかったという、亡き母親を憎んだことすらあった。
(なんて、馬鹿だったのだろう)
 世界はただ始まり、そして終わるだけだというのに。
 アヴァリスの光に照らされ、ソキアの静かな横顔を見上げ、その繰り返しで、人は生き、そして死んでゆくのだ。ただそれだけのことだというのに。
「ありがとう、ナルニア」
「な、なによ」
 ナルニアは、驚いたようにこちらを見た。
「私と友達でいてくれて。それにサーシャねえさんも。とても感謝しています」
「なに……なによ。まるで別れの挨拶みたいに」
 彼女は声をうわずらせ、次に黙り込んだ。
 馬車はゆるゆると丘を下りてゆき、それとともに、馬車窓から見える王城の尖塔が、少しずつ小さくなってゆく。座席の二人は、それから顔を見合わせることなく、黙ったまま、ただ並んで座っていた。
 丘を下りきり、見張り騎士の立つ内城門をやりすごすと、馬車は右手に進路をとった。そろそろレード公爵邸が近づいてくるというあたりで、ナルニアは馬車を止めさせた。
「ここで降りるわ。うちの門まで入ってしまうと、誰かに見られてしまうかもしれないし」
 彼女なりに思うところがあったのだろう、ナルニアはためらいがちにクリミナの手をとった。
「じゃあ、クリミナ。ここでお別れね。この馬車は好きに使うといいわ」
「ええ。ありがとう。ナルニア」 
「ねえ、本当に、どこかへ行ってしまうの?私にはなんだか、想像がつかないわ。あなたがそんな……どこか遠くへ行ってしまうなんて」
「……」
「すぐに帰って来るのでしょう?」
「たぶん……いいえ、わからないわ」
 その言葉に驚いたように、ナルニアは目を見開いた。
「これっきりってことはないわね。私たちは、子供の頃からの友達でしょう。ねえ」
「ごめん……」
「なによ……なに、それ」
 ナルニアは口元に手を当てた。込み上げる思いに、クリミナも声を震わせた。  
「でも、きっと……帰ってくるから」
「約束よ」
「うん。また、サーシャねえさんも一緒に、お茶でも飲みましょう」
「そうしたら、そのときは、あのレークも一緒だといいわね」
 ナルニアの口からなにげなく言われた、その名を聞き、クリミナは不器用に微笑んだ。
「そう……そうね」
「きっと、そのときはいくさも終わり、みんながここに帰ってくるのだわ。お父様も、レークも、ローリングや、他の騎士たちも。いまは誰もいないからつまらない。そのうえ、あなたまで行ってしまうというのだから」
「そうね……みんな、帰って来て、また」
 泣きたくなるのを堪えながら、クリミナは何度もうなずいた。
「また平和になったら……みんなで」
 みんなとは、いったい誰と誰のことなのか。そして、そのみんなが、これから揃うことは果たしてあるのだろうか。あって欲しいと思う。だが、あるはずがないということが、なんとなくまた、クリミナには分かってしまっていた。
「じゃあ、行くわね」
 座席から立ち上がると、ナルニアは馬車を降りた。
「気をつけて、クリミナ。あなたの旅の無事を、いつも祈っているわ」
 まっすぐにこちらを見て、迷いなく手を振る彼女の姿は、どこかサーシャに似て見えた。
「ありがとう、ナルニア。サーシャねえさんや、お母様にもよろしくと」
 扉が閉められ、再び馬車が動き出す。
 クリミナは窓から顔を覗かせて、幼なじみの親友にいつまでも手を振った。少女の頃の自分が、もう一度過去へと通りすぎてゆく、そんな気がした。
「これから、どちらへ向かいますか?」
 レード公騎士団の見習い騎士らしい若い御者が、こちらに顔を向けて尋ねる。
「南門へ。アミラスカの丘の近くを通ってくれますか」
「かしこまりました」
 馬車は南に向かって走り出した。
 昇りゆくアヴァリスの光のまぶしさに、クリミナは窓布を閉めると、右側の座席に移動した。見慣れた宮廷内の景色……白い石畳の道に、美しい庭園の円柱や、貴族たちの屋敷の優美な屋根屋根、それらを眺めながら、ここで過ごした日々に思いを馳せる。
 やがて、右手にはアミラスカの丘が見えてきた。
 初夏にはアミラスカの花で鮮やかに染まる小さな丘は、いまはただ冬枯れの灌木があるだけの寂しい様子であったが、クリミナには、黄色い花に包まれた、その丘の光景が見えるかのようだった。
(ああ……)
 そして、その向こうにある広場は、宮廷騎士団の稽古場である。毎朝、若い騎士たち、見習いの少年たちとともに剣を振り、汗を流した、その思い出の場所は、数ヶ月前と同じようにそこにあった。
「止めて。しばらくの間だけ」
 馬車が止められると、クリミナは飛び出して行って、広場を走り回りたいような衝動にかられた。仲間たちと過ごした、さまざまな日々の情景が頭によぎる。
 自分にとって、宮廷騎士団こそが、唯一の居場所であり、女でありながら騎士であるという自分という存在が許され、受け入れられる、そのよりどころでもあったのだ。その愛する騎士団とも、自分はこうして、自ら別れを告げようとしている。
(私は……これからどこへ向かうのだろう)
 いったい、これ以上のどんな居場所が待っているというのだろう。未来への漠然とした不安が、胸を苦しくさせる。
 そのとき、広場の方に、わらわらと人影が現れた。ここからは遠目にしか見えないが、宮廷騎士団の仲間たちに違いない。そういえば、そろそろ朝稽古の時間であった。
 やがて、風に乗って、威勢のい掛け声がここまで聞こえてきた。聞き慣れた調子のリズミカルな掛け声は、今日がいつもと変わらぬ朝であること、日々のつながりの中の、ただの変わらぬ一日であることを告げているかのようだった。
(ああ……みんな)
 このまま走って行って、彼らに混じって剣を振ったらどんなに爽快だろうと、クリミナは考えた。だが、もうそれはできない。このままでは、別れ難くなるばかりである。
「馬車を、出してください」
 クリミナは、絞り出すような声で御者に告げた。
 ここに自分がいることなど、彼らは知らないだろう。宮廷騎士長の自分が、彼らを捨てようとしていると知ったら、いったいどう思うだろう。
(捨てるのではない……)
(でも、でも……)
 この胸の痛むような苦しさは、はたして消えることはあるのだろうか。自分は本当に正しいのだろうか。動き出した馬車の座席で、ひとり、クリミナは自問し、身悶えた。

 馬車は宮廷の南門に差しかかった。ここは青の砦のある軍用門でもあり、ここからマクスタート川の下流に沿って、南方へ続く街道が伸びている。
 クリミナは、ここで馬車を降りることに決めた。この馬車でサルマまでゆくことも考えたが、それではどうにも時間がかかりすぎる。若い御者に礼をいい、銀貨を一枚やると、クリミナは歩いて城門を出た。
 城門の見張りは騎士は、通りがかったクリミナを見て、それが誰かを知ると驚いた様子だったが、なにも言わずに通してくれた。
 現在はフェスーンのほとんどの騎士や正規兵は、草原の戦いへ赴いていて、砦に残るのはわずかな数の騎士だけであったので、見張りなどはほとんどがまだ少年めいた若者か、年老いた隠居兵ばかりであった。
 クリミナは思い切って、その見張り騎士に銀貨を差し出して、砦にいる駿馬を一頭貸してくれないかと頼んでみた。少年騎士は、いくぶん戸惑いながらも、クリミナの頼みにうなずき、砦の方へと消えていった。
 それを待つ間、あるいは自分の密かな出奔を、砦の誰かに報告されてしまうのではないかという不安もよぎったが、そうなったらそれはそのときのことだと腹を決めた。
 やがて、さっきの少年騎士が一頭の馬を引いて戻ってきた。
 それは栗色の毛並みの見事な牝馬であった。くりくりとした知的な目をしているその馬を、クリミナは一目で気に入った。
 少年に礼を言い、さらに銀貨を一枚やると、クリミナは馬にまたがった。
「ふふ、私と同じ髪の色ね」
 馬の背を撫でてやり、話しかけるように囁く。
「これから、サルマまでゆくのよ。あなたも、フェスーンとはお別れなのだわ。いいかしら」
 馬はまるで、それを理解したように軽くいなないた。
「じゃあ行きましょう」
 手綱をとり、馬腹に足をおくと、乗り手の意志を察したように馬は歩き出した。
 とても頭がいい牝馬のようだ。絶好のパートナーを得た気分で、クリミナは思わず微笑んだ。
「南へ。そう……まずは南へ」
 アヴァリスの輝きを左手に、きらめくマクスタート川の流れを右手に見ながら、女騎士を乗せた馬は、軽やかに街道を走りだす。
 冷たい冬の風も、むしろいまは心地よい。生まれて初めて感じる、解き放たれたような気分……少しの不安と、無限の自由の先にあるなにかにワクワクするような気持ち。それらが混ざり合い、胸が高鳴った。
(レーク……あなたはいま、草原にいるの?)
 早く会いたかった。
 ざわざわと騒ぐ、この気持ちの正体を確かめたい。
 そして一緒に戦ってもいい。自分は命を賭けられるだろう。それは強い確信であった。
 街道はまだどこまでも続いてゆく。
 雲の流れを見上げて、それが草原へと続いていることを考えながら、
 自分の心を走らせるように、馬を駆った。
 南へ、南へと。
 始まったばかりのこの旅が、どれだけ長く、そして困難なものになるのかを、クリミナはまだなにも知らなかった。



「左翼中央、突破されます!」
「許すな!重装兵を密集させろ!」
「ダメです……敵のファランクスが、ああっ!」
 黒い壁のような固まりが、銀色の鎧を押しつぶし、飲み込んでゆく。
 開戦から一刻あまり、一時はジャリア軍の進撃を受け止め、押し返したように見えたトレミリア軍であったが、正面からのぶつかり合いでは、結局は兵力の差がものをいう。加えて、ファランクスという長槍を突き出した密集隊形で、強固な塊のように前進をしてくる敵への恐怖感というものは、さしもの勇敢なトレミリアの騎士たちをも包み込み、しだいに疲弊させていった。
 敵の懐に入り込み、接近して混戦に持ち込むという、いわば捨て身の作戦は、一時は有効であったものの、時間とともに最前線で戦う兵たちの体力を奪い、結果的に背後の味方と、密集隊形の敵との間で、動きのとれない板挟みになってしまうこととなった。一方、ジャリア軍の方は、最前列の兵が倒れると、すかさず次の列の兵士が前に出て、同じように楯をかざし、さらにその後の兵が槍を突き出して、まったく同じ隊形をとる。その動きはまるで機械仕掛けの人形でもあるかのように、冷徹に訓練されたものだった。
 トレミリアの兵士は、倒しても倒しても、まったく同じ隊形となって復活してくる敵の密集隊形に、しだいに驚怖にも似た畏れを覚えていった。だが、それでも、彼らがまだ持ちこたえていたのは、ローリングとブロテという偉大なる騎士の存在があるからであったし、なによりもトレミリアのためにという、その強い愛国の使命感からであった。
「穴をあけさせるな!踏みとどまるのだ」
 ローリングの指揮のもと、崩れかけた隊列を立ち直らせようと、騎士たちが動いてゆく。自ら前線に立ち、敵とぶつかりながら、指示を送り続ける、その大きな存在が、トレミリアの騎士たち、兵たちを鼓舞し続けていたのである。
 こちらの左翼が押されつつあると見て取ってか、ジャリア軍は、いっそう圧力を強くしてきた。弱り始めた箇所を狙って、前線に次々に兵を増やしてくる。それは、敵にもいくさ全体を見渡す有能な参謀がいることを示していた。
 新たにまた、数百人単位の重装甲の兵士の固まりが、槍を突き出しながら現れると、ようやく目の前の敵を死ぬ思いで押し返したトレミリア兵たちは、疲れ果てた腕に剣を持ち直すのがやっとだった。
「閣下、ローリング閣下、ここはいったんお下がりを!」
「なにを言うか。ここで退いては敵のおもうつぼ。なんとしても踏みとどまれ!」
 部下の進言を退けると、ローリングは自ら進み出て敵の前に飛び込んだ。
「おおおっ」
 突き出される槍を楯ではねのけ、一気に距離を縮めて剣を振り下ろす。敵の鎧ごと叩き打つと、次の一撃で横にいるジャリア兵の頭を叩き割った。
「続け、我に続け!トレミリアの騎士よ!」      
 返り血を浴びた凄まじいローリングの叫びに、兵たちは勇躍した。
「おおっ、ローリング閣下に続け!」
「なんとしても、ここを死守するのだ」
「トレミリアのために」
「トレミリアのために!」
 声を上げながら、騎士たちは黒い壁に向かって突入した。
「うおおおっ」
「ああっ!」
 目の前の仲間が敵の槍の餌食になっても、その犠牲を無駄にはせぬとばかりに、すかさず次の騎士が飛び込んでゆく。
「トレミリアのために!」
 その黄金の言葉が、彼ら自身と、それを聞いた仲間たちをまた鼓舞し、恐怖を塗りつぶす勇気となって広がってゆく。
 だが、ジャリア軍のファランクスは、感情のない無慈悲な殺戮機械のごとく、ただ冷徹に槍を繰り出し続けてくる。たとえ攻撃が当たらずともかまわないというように、一歩前進しては同時に槍を繰り出すという、その決まった運動を彼らは不気味に繰り返し、少なくとも確実に何人かのトレミリア兵を貫いてゆくのだった。
 ファランクスの前列一人を崩すために、何人もの騎士が犠牲になり、たとえ前列を崩しても、その後ろの隊列がまた楯を揃えて、同じように前列となるのであった。黒い怪物……破壊しても破壊しても復活する、その生きた黒い壁は、まさに不死の怪物のように思われた。少しずつだが、トレミリア軍は物理的に後退を余儀なくされていった。
 そして、誰しもが聞きたくはなかったであろう、知らせが上がった。
「ローリング閣下が負傷!」
 レード公騎士団団長にして、トレミリア随一の騎士であり、最強の剣の使い手……そのローリングといえども、ジャリアのファランクスを相手にして前線に立ち続けることはかなわなかった。当然ながら、それを聞いた騎士たちには一斉に動揺が広がった。
 負傷したローリングは、部下に引きずられるようにして、後方へと下がっていった。指揮官を失ったことで、前線はいくぶん混乱したが、すぐにブロテが中央へ移動し、代わって指揮をとった。
 本営から全軍後退の命令が下されたのは、それから間もなくのことだった。

 後退を余儀なくされたトレミリア軍は、さらに西へ移動、すぐ背後にサルマへと続く街道の見える位置で再び陣形を整えた。ここを突破されれば、すなわちジャリア軍のトレミリア国内への侵攻を許すことになる。まさに最後の砦であった。
 当初は一万五千を超えていた軍勢は、いまやその数は三分の一の五千あまりとなり、それも兵士の半分近くは負傷していた。騎士たちは疲れ切り、苦痛の呻きや息づかいが、あちこちから上がる。陣営は疲弊しきっていた。
「敵のファランクスがまた接近してきます!」
 ジャリア軍は、決して歩みを早めることはなく、一定の足並みで隊列を整えたまま迫ってくる。それがいっそう不気味であり、徐々に広がってゆく黒い壁は、非人間的な物体にも思えるのだった。こちらを徹底的に痛めつけ、殺戮し、突破してのち、トレミリア国内へと侵攻するつもりなのだろう。
 いまや、前線で指揮をとっていたハイロンは死に、ローリングは負傷、隊長格で残るのはブロテとリンデス、ヨルン、クーマンのみとなった。その四人を中央と左翼、右翼、そして本営に配し、五千のトレミリア軍は、迫りくるジャリア軍一万五千の軍勢を前に、静かに最後のときを迎えようとしていた。
「勇敢なるトレミリアの騎士たちよ」
 全軍の司令官であるレード公が、馬上からその声を響かせた。
「敵の数はわが軍の数倍、もはや勝機は薄いかもしれぬ。しかし、ここで我らが壁となり、なんとしても、敵のトレミリアへの侵入を防がねばならぬ。たとえ最後の一兵になろうとも、その命をもって敵にぶつかろうぞ。トレミリアのために」
「おおっ、トレミリアのために!」
 最後まで残った数千の騎士たちは、傷を負ったものも、疲れ切ったものも、誰もが拳をかざし、一緒に声を上げた。
「トレミリアのために」
「トレミリアのために!」
 その叫びが、全軍に広がってゆく。
 これが最後の戦いになることを、誰もが分かっていた。そして、王国に残してきた家族や恋人たちのために、自分がここで死ぬであろうことを。
「トレミリアのために!」
 己を鼓舞するその魔法の言葉、それだけが唯一の拠り所であるように、彼らは迫り来る黒い壁に向かい、剣を手に叫び続けた。
「ジャリア軍接近!」
 斥候兵が報告した。
「敵の数が……増えています、その数……」
「どうした?」
「そ、その数……およそ、三万!」
「なんだと……」
 後方で手当てを受けていたローリングが思わず声を上げた。よろめきながら立ち上がると、レード公のもとへゆく。
「ローリングか、傷はいいのか」
「ええ、大丈夫です、これしきのこと……それより」
 公爵の馬の横に立って前方を見やり、その目をそばめる。接近する敵の黒い壁が大きくなっていた。
「なるほど、ずいぶんと増えているようだ」
「おそらく、援軍が到着したのだろうな」
「ええ。つまり、敵は我らの援軍を北に孤立させ、その間に時間を稼ぎながら、自分たちの援軍を待って合流したということでしょう」
「ふむ……まったく敵の思い通りということだな」
 さすがに豪胆な武人らしく、レード公は、この窮地にも落ち着いた様子だった。
「三万か……これでは、どうあっても勝てぬかもしれんな」
「ええ。ですが、まだ、分かりませんよ」
 しだいに眼前に広がる、その黒い壁を睨むように、ローリングは薄く微笑んだ。
「ジャリア軍、接近!距離、およそ百ドーン!」
 黒い壁から突き出された数千の槍、じわじわと大きくなる怪物を、トレミリアの騎士たちは恐れと覚悟とともに見守った。
 レード公がゆっくりと采配を掲げる。それが振り下ろされたとき、最後の戦いが始まるのだ。騎士たちはそれを知っていた。
「ジャリア軍、距離、五十ドーン!」
 最前列のトレミリア兵が一斉に剣を構える。腕を負傷したものも、足を引きずるものも、その最後のひと太刀を、敵にぶつけてから死ぬのだという、悲壮な決意で、剣を、槍斧を構えた。
 ジャリア軍のファランクス、その突き出された長槍が、目の前に迫った。死を賭して、黒い壁に飛び込むべく、トレミリアの騎士たちが一歩を踏み出そうとした、そのとき、
 突如、激しい馬蹄の音が鳴り響いた。
 そして、右手に……ジャリア軍の側面に騎馬隊が出現した。
「おお、あれは……」
 ローリングが声を上げた。
 トレミリアの兵たちは、一瞬動きをとめた。それはジャリア軍も同じであった。
 思いもかけない方角からいきなり現れた騎馬部隊に、あっけに取られたのか、黒い壁がぴたりと動きを止めていた。
「あれは……やはり、そうか。そうなのか」
 ローリングは、己の中で確信めいた高揚が、じわりと心地よく湧き出すのを感じた。
 その間にも、森の方角から現れた騎馬部隊は、続々とその数を増やしてゆく。
「おお。トレミリアの兵士だ、それに……セルムラードの鎧も見えます!」
 朝日を浴びて銀色に輝く鎧をまとった、その騎馬部隊は、まるで軍神ゲオルグが率いるかのような勇敢さで、ジャリア軍に突入してゆく。
「先頭にいるのは……レークどのです!」
「やはりそうか!」
 ローリングは、体の痛みも忘れたように馬に飛び乗った。
「それにアルトリウスどのもおられる!」
 悲壮なまでの覚悟に包まれていたトレミリア兵たちは、援軍の出現に飛び上がらんばかりに沸き上がった。
「援軍だ、援軍が来たのだ!」
「無事だったのだ!アルトリウどのも、それにガウリンどのも」
「味方だ、味方が来たぞ!」
「おお……ジュスティニアよ!」
それは、絶望の淵から一転して、アヴァリスの光が差し込むような感覚だったろう。現れた騎士たちは、まさしく希望の光に輝くばかりに、目の前を勇壮に横切ってゆく。ジャリア軍とトレミリア軍の間に割り込むようにして突き進むと、その先頭に立つレークがさっと手を振った。
 とたんに、騎馬部隊からジャリア軍に向かって矢が放たれた。それも、燃えさかる火矢が!
 放たれた火矢を避けるようにして、敵陣に動揺が広がる。
「待たせたな!」
 馬上から高らかに声が響いた。
「任務はちと遅れたが、セルムラードの援軍を連れてきたぜ!」
 その間にも、火矢は次々と放たれ、ジャリア軍に向かって降り注ぐ。地面に突き刺さった矢から火が燃え移り、あちこちに火の手が上がった。
「ふははっ、なんという無茶をする!」
 前線に向かって馬を走らせながら、ローリングは面白そうに笑った。
 ジャリア軍の混乱ぶりは明らかだった。
 放たれる火矢が、火種となって草に燃え移り、あたりが次々に燃えてゆく。火を逃れるには密集隊形を解くしかなく、壁のようなファランクスはもはや存在ができなくなった。
「敵の密集が崩れたぞ!」
「援軍が敵の隊列を崩してくれた。いまだ!」
「おおっ」
 トレミリア兵たちは、とたんに力を得たように敵に向かってゆく。剣を振り上げた騎士たちは、恐れを忘れたように勇んで声を上げ、次々に敵の隊列に飛び込んだ。
「崩れたファランクスは怖くないぞ!」
「動きではこちらが速い。距離を詰めろ!」
 重い長槍と楯を持ったジャリアの重装兵は、素早くは動けない。一度隊列が崩れると、その混乱は横へ横へと広がり、それまで壁を作っていた黒い楯の連なりには、いびつな間隔が開き始めていた。
 レークの率いる騎馬部隊は、さらにジャリア軍を半包囲するように広がると、次々に火矢を放った。そこかしこで火が燃え上がり、混乱に陥ったジャリア兵の黒い鎧が、のろのろと重たそうに右往左往する。そこへ、トレミリア兵が飛び掛かり、孤立したジャリア兵を一人、また一人と倒していった。
「おお、敵が後退するぞ!」
 これまで威圧するように前進を続けていた敵の黒い壁が、ゆるゆると退いてゆく。それを見て、トレミリア兵たちはますます意気を高めた。
「勝てるぞ。ジャリアどもは逃げてゆく!」
「深追いはするな!こちらも態勢を立て直すのだ」
 前線で指揮をとるブロテが、勇み立つ騎士たちを制する。敵を追いやったとはいえ、数の上ではこちらが不利なのだ。やってきた援軍と合流して、部隊を構成し直すのが先決であった。 
「ローリング!」
 馬を降りたローリングは、走り寄ってきた友人の姿に顔をほころばせた。
「レークか、よく無事で」
「ああ、戻ってきたぜ。お待ちどうの援軍を引き連れてな!」
 威勢よく言った浪剣士は、いくぶん苦しげなローリングの様子に気付いた。
「おい、怪我をしたのか。どこをやられた?」
「なあに、たいしたことはない」
 そう言ってにこりと笑って見せるが、兜の面頬を上げると、ローリングの顔はひどく青ざめ、いかにもつらそうだった。 
「おい、簡単に死ぬんじゃねえぞ。約束したろう。このいくさが終わったら、また酒を飲もうって」
「ああ……もちろん。死なぬさ。約束だからな」
「そうともよ」
 二人は再会の握手を交わした。
「とにかく、よくぞ戻ったな。レーク」
「ああ。トレミリアとセルムラードの連合部隊、一万一千だ。アルトリウスのおっさんたちも一緒だぜ」
「うむ、これで簡単には負けぬ。いや……勝てる、かな」
「あたりめえよ。なんだ、弱気なことを。おめえらしくもない」
「そうだな」
 互いにうなずき、二人は笑い合った。
 思えばはじめ、剣技会に出場する浪剣士と、山賊に扮した奇妙な立場で出会ったのが、いまはこうして、互いに王国の騎士として、部下を率いて戦う立場となって共に草原にいる。その不思議で運命的な変遷を、互いに思い浮かべていたであろうか。あるいは、これが最後となるかもしれぬ、また、どちらかが死ぬかもしれぬという、予感めいた覚悟のようなものを、二人の戦士はどこかで感じてもいたのだろうか。
 どちらからも、次の言葉を発せられないまま、彼らは静かにその目を見交わした。
「レークどの!」
 向こうから近づいてきたのは、巨漢の騎士……兜をかぶっていても一目でそれと分かる、ブロテであった。
「ここにおられたか。それにローリングどのも」
 前線で戦い続けた疲れも見せず、ブロテは近くの兵たちにあれこれと指示を送りながら、二人のそばに来た。
「おお、よくぞご無事で」
「あたりめえよ。お前も、頑張っているようじゃねえか」
 見ると、ブロテの鎧はたっぷりと敵の返り血を浴び、泥や草にも汚れて傷だらけであったが、どこにも怪我は負っていないようだ。兜の面頬を上げたブロテは、誇らしげにうなずいた。
「おめえに預けていたカリッフィの剣、アランから確かに受け取ったぜ」
「では、アランは、役目を果たしたのですな」
「ああ……立派にな」
 レークはうなずき、己の命を賭けて使命を果たした部下のことを思い、腰の剣に手をおいた。ブロテはそれで察したようだった。
「そうですか。アランは……」
 ブロテは胸に手をやり、騎士への鎮魂を示すように、その指を天に向けた。
「ローリングどのの方は、お怪我は大丈夫なのですか?」
「こうして立っていられるのだから、大丈夫だろうさ」
 ローリングはそう言って両手を広げて見せた。
「そうとも。オレたちは不死身よ。いくさが終わったら、みんなで愉快に酒を飲もうぜ」
「いいですな」
 ブロテとローリングという、トレミリアが誇る二人の名騎士、そしてレーク・ドップ、この三人が言葉を交わすのは、これが最後となった。
「よっし、じゃあ、オレはもう行くぜ。敵がこのまま引き下がるワケはねえからな。ちっと考えがあるんだ」
「では、レード公にご報告を。今回は敵味方ともに意表をつかれて助かりましたが、また独断で動かれては混乱しますからな」
「ああ分かったよ、面倒だな」
 レークはやれやれと口元を歪めた。
「ローリング、あとでまた会おう」
「うむ。勝利の杯をな」
 二人は握手を交わすと、またそれぞれの戦いへと別れていった。ブロテの方も前線の統率をすべく離れてゆく。
 馬に飛び乗り、走り去るレークを見送ると、ローリングはふらりとよろめいた。地面に腰をつくと、そのまま動けなくなった。
「あっ、ローリング閣下」
 通り掛かった騎士がこちらを見つけ、小姓とともに駆け寄ってきた。
「いまお手当てをいたします」
「かまわん。他の負傷者を先にしろ」
「ですが、血が……」
 鎧の隙間からにじみ出てきた血が、地面の草を赤く染めていた。
「まだ戦える。もう少しはな」
「しかしそのお体では……どうか後方にお下がりを」
「あのレーク・ドップがな、やつが、これから命懸けの戦いをするんだ」
 ローリングはつぶやいた。
「この私が、共に戦わずにどうするか」
 血の滲む体に応急的にきつく包帯を巻かせると、ローリングは立ち上がった。
 体に力が入らない。剣を振れるかどうかも分からなかった。
 敵を前にした戦士としての本能、そして友への思い、ただそれだけが彼を支えていた。


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