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  水晶剣伝説 ]大地のうた


V

 朝を迎えたトレミリアの首都、フェスーン……
 冬を迎えた宮廷内の庭園は、ひっそりと静まっていた。すっかり葉の落ちた木々が、名匠の手で造られたベルトラムやゲオルグの彫像を見下ろし、いくぶん手入れが雑になった芝の伸びた広場には、早朝の散歩をする老貴族の姿も見えぬ。
 寒さを嫌うかれら貴族たちは、暖炉の火にあたりながら、食事の知らせを告げる従者のノックの音を聞くまで、寝台の上で昨夜の夢を反芻しているのかもしれぬ。あるいはもう少し勤勉なものは、広場の掲示板に、いくさに関する新たな情報や発表がないかと、従者を見に行かせていたかもしれぬ。
 ただし、ここのところの毎日の発表は、たいていは、「草原の戦いにおいては、トレミリア軍優勢」というような、曖昧な情報ばかりで、具体的な事柄などは、ほとんど載せられたためしはなかったが。それでも、草原に近いサルマ方面からやってくる隊商などがもたらす情報には、人々は大いに関心をもって耳を傾け、草原で繰り広げられるこの未曽有の大きないくさについて、毎日のように語り合い、意見を述べあっていた。
 そうしたいくさの気配は、宮廷内においても、いくぶん張りつめた空気をもたらしていたが、一方では、貴族たちはこれが王国すべての存続に関わるような深刻な危機だとはまだ感じていなかった。なにせ、フェスーンという都市は、ロサリート草原からはガーマン山地に隔てられていて、直接的に国外からの侵入を許すはずことはなかったし、実際に、一般的な市民のほとんどが、ロサリート草原などへは行ったこともないので、そこで行われているはずの戦いというものを、現実的に想像することは難しかったのだ。
 もちろん、家族や知己が兵として駆り出されているような場合は、真剣にその安否を気遣い、一刻も早くこのいくさが終わり、彼らが無事に帰還することを願ったに違いないし、もっと現実的な都市の商人たちなどは、ロサリート街道が塞がれ、万一にも、次にサルマが落ちるようなことがあれば、南からの貿易ルートを絶たれることが、恐るべき痛手になることをよくわきまえていたので、戦況に関するひとつひとつの情報に対して、彼らは恐ろしく敏感であったに違いない。
 なので、より過敏になっていたのは、貴族ではなく、むしろ都市民たちであったろう。
 サルマからやってくる食料、物資などは、草原の兵達の補給用に回されているせいか、ここのところずいぶん量が減っていたし、つまりはその分、卸値が上がってもいたので、当然ながら店に並べる段において値上げをするしかなく、買い物にきた客たちは普段よりも五割も、はては十割も値上がりした、パンや肉やワインなどに眉をひそめ、ため息をつくのであった。売る側にも買う側にも、これは大変な死活問題であったので、これも当然ながら、このような時にギルドの掟を破って、裏のルートで物資を仕入れて安く……とはいっても通常の三割増し程度の代金で売るという、そのような闇市場なども現れはじめていた。
 市の参事会やギルドは、それらの行為をある程度は黙認しなければならなかった。そうでなければ、町には食料を求める人々であふれかえり、この冬の間に多くの人間が飢え死にすることになる。いま現在でさえ、買いつけにきた貴族の従者が襲われ、食べ物や金を奪われるような事件も起きており、貴族たちは護衛の騎士を雇わなくては町を歩けないような、ぴりぴりとした空気が生まれつつあった。
 いくさが始まってからは、宮廷においては派手派手しい晩餐や、パーティなどの催しはずいぶん自粛されていたが、宮廷に住まう貴族たちの姿は、市民たちにとって、いまだ贅沢や浪費の象徴であることに違いはなかった。都市では夜になると、貴族が襲われたり、馬車が壊されるなどの事件が起こり出したことから、ここ数日の間に、都市部に住む貴族は、その多くが逃げるようにして、屋敷を引き払って宮廷の壁の中へ戻っていった。宮廷へ続く城門には、常時よりも見張りの騎士の数が増え、昼の間でも門は固く閉ざされた。
 もちろん、もともとが文化レベルも高く、豊かな都市であるから、ただ少しばかりの飢えくらいで暴動が起きるなどということはなかったし、いずれにせよ、この戦いが終われば、またもとのように戻るのだということを、人々は冷静にわきまえてもいた。草原での戦いについて、トレミリアが敗北するようなことは誰も考えてもいなかったし、そういう点では、ひどく悲観的なものはさほどいなかった。
 なので、少しばかり張りつめた空気が漂ってはいても、朝が来れば人々はまたパンを焼き、薪を割り、服を仕立て、野菜を売る、そうしたいつもの生活を始める。つまりはフェスーンの朝は、今日も同じ朝でしかなかった。ただし、コルヴィーノ王暗殺の事件を知る一部のものを除いては。
「いま発表しては、それこそジャリアの思うつぼではないかな」
 宮廷を見渡す丘の上に立つ、フェスーンの王城……いくつもの城壁に守られた、その中郭にある城の執務室には、いま、オライア公爵をはじめ、マルダーナ公、サーモンド公、スタルナー公、オーファンド伯、それとモスレイ侍従長といった、宮廷の重鎮たちが集まっていた。草原で指揮をとるレード公はおらぬものの、ここにいるのは、まさに王国の中枢をになう面々である。
「ですが、公……このまま隠し続けるわけには」
「いや、私もサーモンド公のご意見に賛成ですな。事が事だけに、これはやはり、草原の勝敗が決したのちに、あらためて公にするべきことかと」
 マルダーナ公の言葉に、オライア公とモスレイ侍従長がうなずく。
「いえ、私が申すのは、どんなに隠したところで、いずれ機密は漏れるものです。この事実を知る人間すべてを投獄でもしないかぎりは」
 そう言うのはスタルナー公爵だった。この中では一番年下のスタルナー公爵は、長い黒い髪を後ろにまとめた、洒落た宮廷紳士というような風貌で、人当たりの良い性格と、冷静な思考を併せ持つことから、重鎮たちにも一目置かれている。
「私もそう思います」 
「ふむ。オーファンド伯もか」
 オーファンド伯は、横にいるスタルナー公爵や、先にクリミナとともに遠征から戻ったセルディ伯爵の友人でもあ。現在は宮廷騎士団の後見役も務めており、地位としては一伯爵に過ぎないが、頭も良く、その落ち着いた物腰から、オライア公やレード公などからの信頼も厚い人物であった。
「いえ、ただなにも、いますぐに発表するべきだと申しているわけではありません。時期をみて、それも遅すぎないくらいに、事実を公表するのがよろしいかと」
「ふうむ」
 王国の長老というべき、サーモンド公とモスレイ侍従長が顔を見合わせる。
「いったん噂が漏れてしまえば、市民たちに余計な不安を与えましょうし、隠そうとすればするほど、広がった噂には時間とともに余計な尾ひれがついて、真実以上に悪い影響を与えることもありましょう」
「確かに、風の運ぶ噂は城壁を超える、ということわざもあるしな」
 そう言いながら、白い髭を撫でつけるサーモンド公爵は、前国王マルダーナ三世の義父、ハロスバン王の娘、ティーファを妻に、由緒あるトレミリア三大公爵のひとつを受け継いできた。その最愛の妻にも数年前に先立たれ、齢六十を超えた公爵の顔は、いっそう皺が深くなった。何歳か年下のモスレイ侍従長とは茶飲み友達でもあり、国政を語るよりはむしろ、たわいもない話をして、のんびりと過ごすようなことが多くなっていたが、このような事態においては、やはりただちに報告を受け、意見を求められる重要な存在なのであった。
「スタルナー公、オーファンド伯の言うように、いくら隠そうとしてもな、いずれはそれは勝手に広まり、万人の知るところとなるかもしれぬ」
 サーモンド公爵は、普段は柔和なその顔に、やや深刻そうな色を浮かべて言った。
「さらに言えば、その逃げ果せた間者とやらが、ジャリア軍に戻って情報を伝え、あるいは敵軍の方から、ウェルドスラーブ王の死の事実を、大陸全土に向けて公に宣言してくることもあるやもしれぬな」
「確かに」
「そうなれば、事はさらに深刻になってしまう」
 公爵の言に、人々は腕を組み黙り込んだ。それを見て、宰相であるオライア公が、慎重に口を開いた。
「では、ここは遅からず早からず、時期を見ながら、慎重に事を発表するべきということでよろしいかな。マルダーナ公もそれでよろしいか?」
「ご長老たちがそう申されるのであれば、異存はありませんな」
 いくぶん疲れた顔つきでマルダーナ公爵はうなずいた。現国王マルダーナ四世の妹、ファーリアを妻にもつ王国第二の地位を持つ大貴族で、暗殺されたコルヴィーノ王の妻である、ティーナ王妃の父親でもある。
「ところで、ティーナ王妃のご様子はいかがですかな?」
 マルダーナ公の心痛を慮るように、オライア公が尋ねた。
「せっかく、トレミリアに戻って来られたというのに。おかわいそうなことだ。カーステン姫、ミリア姫の妹ぎみたちも、さぞご心配をされていることでしょう」
「ええ。あれは、ずっと一人で部屋にこもっています。侍女が言うには、なにも食べず、寝台に臥せったまま、ときおり泣いたり、声を上げたりしては、また眠ってしまい、部屋から一歩も出ないらしい」
「よほどショックを受けたのでしょうな。無理もない」
「コルヴィーノ王暗殺の件を漏らすわけにはゆかぬので、妹たちを城に呼んで会わせることもできず、しばらくは一人にして、気を落ち着かせる他はないかと」
 深いため息をつくマルダーナ公に、同じ年頃の娘をもつ親として、オライア公は心から同情の目を向けた。
「お気の毒に。コルヴィーノ王を失われた王妃殿下の悲しみは、計り知れないものでしょう。しばらくはそっと、見守って差し上げるのがよろしいでしょう」
「クリミナどのの方はいかがですか?」
 オーファンド伯にそう訊かれると、今度はオライア公が微妙な顔つきでうなずいた。
「ふむ。あれもあれで、この件については責任を感じておるらしい。今朝の会議にも顔は見せなかった。だがその程度を乗り越えられなくては、宮廷騎士長などは務まらぬ」
「そうでありましょうが、騎士長どのも、つらいお立場でありましょう」
「しかし、たとえ直接的ではなくても、己が間者を引き込んでしまったという、その事実は責められるべき不手際であろうから。これが宰相の娘ではなく、一兵士の過失であったら、さらに厳しい処罰となったはずですからな」
 あえて厳しい口調でそういうオライア公であったが、サーモンド公とモスレイ侍従長などは、父親としての気持ちを押し殺すような宰相の顔つきを見て取り、分かっているというようにうなずいた。
「ともかく、起こってしまったことはもう仕方がない。すべてはこれからだな」
「ええ。草原の戦いについても、また新たに動きがあるでしょう」
「ふむ。そちらは今日のサルマからの報告を待って、最後の増援をすべきかどうか、計ることになるやもしれんな」
「ただでさえ、連戦で騎士の数は足りておらぬでしょうから、歩兵だけでもなんとか集めませんと」
「ふむ。いまのうちに、各都市から兵を集めておくべきか」
「ではそのようにいたします」
 王国の重鎮たちは、目を見交わしたりうなずき合って、会議の終わりを暗黙に感じ取った。あとはもう各自の裁量による仕事に戻るべく、それぞれに執務室を出てゆく。
「差し出たことですが、」
 オライア公を残し、部屋を出てゆこうとしたオーファンド伯が立ち止まって振り向いた。
「クリミナどののご様子を、私が見てまいりましょうか?あまり気落ちなさっていたら、少しでも元気づけられたらと」
「いや……不要だ」
 公爵は首を振り、あくまで淡々と言った。
「さきにも申したが、あれはあれの考えもあれば、立場も責任もある。己独りで考え、乗り越えられなくては、なにが騎士長よ。トレミリアの女騎士よ。感傷的な情けは不要」
「……わかりました。それでは失礼します」
 オーファンド伯が出てゆくと、部屋にはオライア公のみが残された。結局は、宰相たる自分が国策の決断を最後にしなくてはならない。その孤独な静けさというのは、心地よくもあり、また当然ながら重圧でもあった。
 遠く草原では、今日もまた、激しい戦いが始まっているのだろう。国と国の……もっといえば大陸の命運をかけた戦いが。
 オライア公爵は、つと壁際に歩み寄ると、そこにかけたられた亡き妻、エネルの肖像画を静かに見つめた。亡くなる数年前に描かせたものだが、その顔つきは若々しく、美しく輝いていた。それはいまのクリミナのようでもある。彼女のもつ栗色の髪と、宝石のような緑色の目は、いかにも母親譲りのものであった。
「そろそろ、」
 誰もいない執務室で、宰相はふと、父親の顔を取り戻していた。
「そろそろ、あの娘も、騎士ではなく、女としての生き方に戻るときなのやもしれぬな」
 亡き妻の肖像に、娘を重ね合わせるように見ながら、公爵はつぶやいた。
「そういえば、セルディ伯からも何度か結婚の申し込みもきておったし。相手としては申し分もなかろう。このいくさが終わったら、正式に話を受けてみるか」
 きっと、本人は断固として拒否するだろう。だが父親としては、二十歳を過ぎた娘には、できれば落ち着いて、人並みに幸せになって欲しい。そして、よい子供を産んで欲しい。そういう当たり前の願いが、親としてはやはりあるのだった。
「はたして、どちらが幸せなのかは、わからぬがな……」
 公爵はふっと息をついた。いくぶん寂しげに肖像画を見つめる。少しだけ先のことすらも、予測もつかない。たしかに、いまはそんな時代なのである。
「わからぬな……」
 それから、にわかに宰相の顔となると、公爵は机に向かい、書類の山に目を通し始めるのだった。

「あいたた」
 ビリビリと音がして、胴着の端が木の枝に引っかかって破れてしまった。 
「もう……」
 それでもなんとか地面に降り立つと、クリミナはすぐに背後を振り返って見上げた。
(ありがとう。さようなら)
 王城での自室である東の塔、その三階の窓から、毛布やローブをしばってつなぎ、まるで脱走するかのように、それを伝って壁を降りてきたのだ。
 破れた背中のあたりが、少しすうすうとして、どうも変な感じであったが、おしとやかな姫君でもあるまいし、どうということもない。
「まあ、いいわ。あとで着替えれば」
 しばらくじっと気配を窺う。近くには誰もいないようだ。
 誰にも見られていないことを確かめると、彼女は、ひと気の少ない庭園の茂みぞいに歩き出した。

 そういえば、塔にいるときは、いつもより見張りの騎士が多くて、どうにも自分も見張られているような気がしてならなかった。おそらくは、コルヴィーノ王暗殺の情報を外部に漏らさないための措置なのだろうが。
(きっと今朝は、父上たちがそれについての会議をしているはずだわ)
 城を出るなら早い方がいいと、彼女はそう決めたのだった。昨夜の忌まわしい出来事のショックから、ここから逃げ出したいと思ったのは確かだったが、それだけではない。
(草原へ、草原へ行きたい)
 その漠然とした思い……
(レークに、会いたい)
 その強い気持ちが、彼女を突き動かしていた。
 昨夜は遅くまで眠れなかった。はっとして起きると、自分が寝台の上に突っ伏していて、窓からはアヴァリスの光が差し込んでいた。窓辺に立つと、そこから見晴らせる、フェスーンの宮廷……その向こうに続く空の彼方を眺め、知らずに気持ちが高まった。
 草原へゆきたい。草原へ……
「ゆこう」
 しだいに明るさを増してゆく空の色を見つめながら、クリミナは決意した。
 一度決めると行動は早かった。
 さっそく準備にかかった。部屋に用意されていたのは、どれも宮廷向けの豪華な服であったが、その中からもっとも簡素な胴着に着替え、持ってゆけそうな肌着などをまとめて革袋に詰め込んだ。長剣は目立つので、泣く泣く愛用の短剣だけを腰のベルトに差して。
 それから侍女を呼び、今日は気分がすぐれないので部屋で食事を取りたいと告げ、ついでに、信頼できる友人である、レード公騎士団付きの女官を呼びにやらせた。おそらく、外部の人間とはなるべく接触させないように言いつかっていたのか、侍女は少し困った様子だったが、宮廷騎士長クリミナの頼みを断れるような侍女や女官はいなかった。
 部屋に持って来られた食事を取り、身支度を終える頃になって、控えめなノックの音がした。
「クリミナさま」
 扉を開けると、そこにいたのは亜麻色の髪を束ね、品のいいローブに身を包んだ若い女だった。 
「やあ、オードレイ」
「クリミナさま……」
 オードレイは、涙ぐんだ目をして貴婦人の礼をした。
「お久しぶりです」
「ああ。さあ入って」
 彼女を招き入れると、さっと扉を閉める。
「戻っていらしたとは聞きましたが、本当に……ご無事でよかった」
 オードレイは、まじまじとクリミナを見つめると、その声を震わせた。彼女は、レード公騎士団の付きの女官であり、クリミナの熱烈な崇拝者でもある。
「クリミナさまが出兵されてからは、毎日がそれは心配で……いろいろな噂や情報などをあちこちで聞いたりして、トレミリア軍の動きをいつも気にしていましたけど、本当にご無事でおられるのか、ずっと、ずっと、心配しておりました」
「ああ、ありがとう。心配をかけたね、オードレイ」
 優しく肩に手をやると、オードレイはクリミナの胸に顔をうずめてきた。
「クリミナさま……」
「私はこうして帰って来た。いろいろなことがあったけどね、なんとかこのフェスーンに帰ってきたんだよ」
「はい……はい」
 涙で頬を濡らす彼女の耳元に囁き、頭を撫でてやりながら、クリミナはなんとなく奇妙な気分を感じていた。
 数ヶ月ぶりの再会であったということもあろうが、久しぶりに自分が仮面を付けたというような、そんな気分がする。彼女の前だと、自分がたくましい男の騎士であるような気持ちになるのであるが、おそらくそれは、彼女の方が、クリミナをそのように見ているからなのだろう。自分はその役割に応えねばならないという、かつては意識もせずにしていたことが、いまはどうも窮屈な……というか、違和感があるような気がするのであった。
 久しぶりに会った彼女はなにも変わっていない。明るく可愛らしく、はかなげで、いかにも守ってやりたいという気持ちを起こさせる。だが、クリミナの方は、この長い旅と戦い、冒険の中で、しだいに自分が変化していることを知っていた。そのもっとも大きなことは、自分が一人の女性として、レークを愛しているということであった。だが、もちろんのこと、それをオードレイは知らぬ。
 それについては、どうもいくぶん、彼女に対して後ろめたい気持ちもするのだったが、ここであえてレークとのことを話す気分でもないし、そんな時間もなかった。
「オードレイ」
 クリミナの声の調子になにかを感じたのか、オードレイははっと顔を上げた。
「クリミナさま?」
「うん」
「なにかあったのですね。なにか……」
 不安げにこちらを見る彼女に、優しくうなずきかける。
 コルヴィーノ王の件については、やはりまだ話せるはずもない。だが頭のいい女官は、なにかを悟ったようにして気丈にうなずいた。
「大丈夫です。なにを申されましても。話していただけることだけでもかまいません」
「うん。じゃあ、まず気を確かに」
「はい」
「私は、ここを出る」
「……」
 オードレイは声を上げぬように口元に手をやった。
「この城を……いや、フェスーンを出るんだ」
「それで、どちらへ、行かれますの?」
「分からない。が、たぶん草原だと思う」
「草原……」
 ショックは隠せぬように、女官はいくぶん声を震わせた。
「いくさの行われている、ロサリート草原へですか?」
「たぶんね」
 たぶんどころではない。間違いなく、自分がロサリート草原を目指すだろうことは、クリミナ自身、はっきりと分かっていたのだが。
「そんな危険な……どうしてです?」
「それは言えない。というより、私自身もよく分からないんだ」
「それでも行くのですか?」
「そう。行かないと……いや、行くんだ」
 オードレイの目から目をそらし、クリミナはぽつりと言った。
「このままでは、私が、ダメになりそうだから」 
「……」
 それが本心であることを知ったのだろう。オードレイはなにも言わなかった。
「こうして、君にまた会えて嬉しかった。最後までまた、君に頼ってしまうことになるが、いくつか頼みごとをしたいんだ。聞いてくれるかい?」
「わかり……ました。あまり時間もないのですね」
「すまない」
 感情を押し殺すように、クリミナは淡々といくつかの事柄を話した。宮廷騎士団へのことづて、何人かの友人、知人へのことづて、宿舎での自分の部屋の荷物に関する頼み、そして……
「父上……オライア公には、ご心配されぬようにと」
「それだけで、よろしいのですか?」
「ああ。それから……ティーナ王妃のお心の傷が、少しずつでも癒えますよう、常にお祈りしておりますと」
「わかりました」
 他にも、できれは、オーファンド伯をはじめとして、これまでに世話になった人々それぞれに宛てて、手紙でも書きたい気持ちだったが、そんな時間もなかった。
 それらの人々に思いを巡らせながら、クリミナはひとつ息をついた。弱い感傷が決意を鈍らせることは、騎士としての訓練でよく分かっていた。
「私が行くまで、君にはこの部屋に居てもらいたい。誰かのノックがあったら、気分がすぐれぬからと答えて」
「はい」
「最後まで、迷惑をかけてしまうが」
「迷惑だなんて、とんでもありまん」
 オードレイの目から、こらえきれぬ涙がこぼれた。
「私は、ただ、クリミナさまのお役に立てるなら、それでいいのです。どんなときでも、それが嬉しいのです」
「あ……」
 ありがとうと、そう言おうとしたクリミナだったが、言葉をつまらせた。たまらず涙が込み上げそうになる。
 ここにいるのは、自分を愛し、崇拝してくれる親友であり、あるいは騎士としての自分がより強くあらんと思わせてくれた、恋人のような女官でもあった。クリミナが騎士の訓練を始めた十二歳の頃から知り合い、一方は騎士として、一方は女官見習いとして、互いに近しい年齢同士、互いの存在を強く感じながら時間を過ごしてきたのだ。
「本当に、本当に……行っておしまいなのですね」
「ああ」
「帰ってきて、くださいますね。きっと、ここに帰って……」
「ああ、たぶん……いや、きっとね」
「クリミナさま!」
 オードレイは、クリミナの胸に飛び込んだ。
「ああ、クリミナさま。行っておしまいなのですね。本当に行っておしまいに……」
「オードレイ」
 涙にむせぶ彼女の背中をそっと撫でてやる。
「ありがとう。君はいつも、私の理解者だったよ。そして一番好きな、私の女官……」
「クリミナさま……」
 しばしの抱擁ののち、先に体を離したのはオードレイだった。彼女は涙を拭くと、気丈に微笑んで見せた。
「申し訳ありません。もう大丈夫です」
「うん」
 互いの思い出に寄り添うように、最後に二人は見つめ合った。
「じゃあ……行くよ」
 用意しておいた革袋を背負うと、クリミナは、毛布やローブを寄り合わせて作ったロープを窓から垂らした。
「お気をつけて。どうか」
「窓から顔は出さないで。僕が降りたらすぐに閉めるんだよ」
「はい、分かっております」
 未練を残さぬよう、クリミナはもう振り返らず、窓に足をかけた。
 ロープを滑らせて上手いこと壁を伝い、なんとか地面に降り立つことができたが、胴着の端が少し破れてしまった。
 背後を見上げると、すぐにロープが引き上げられた。そして何事もなかったように窓が閉められた。オードレイがうまくやってくれたようだ。
(ありがとう。さようなら)
 心の中でつぶやくと、クリミナは庭園の茂みぞいを歩き出した。

 城壁上のあちこちに見張りの騎士が行き来していて、追われる身ではないのだが、なんとなく隠れてしまいたくなる。
 ひと気のなさそうな茂みや木々の間に身を隠しながら、早足で歩いてゆくと、まるで自分がコルヴィーノ王暗殺の犯人であるかのような、そんな気持ちにもなってくるのだった。
(いいえ。ある意味では、そうなのだわ)
 自分が浅はかにも、ロッドという得体の知れぬ騎士を、フェスーンに招き入れてしまったことについては、なにも言い訳はできない。いま思えば、コス島でレークと別れてから、己の中にある寂しさや弱さなどを我慢できずに、無意識のうちに頼れる存在というものを求めてしまっていたのだろうか。
(だからといって……)
 ロッドへの気持ちが恋であったとは思えない。だが、むしろそれは、恋愛に至らないまま、頼もしい男性の存在を近くに感じたかったという、まことに我が儘な心持ちであったのかもしれない。
(私は……バカだ)
 いまは冷静にそう思える。簡単にロッドの身の上話を信じてしまったり、彼を好もしく思ってしまったことも。そもそも、ヨーラ湖畔のあのような場所で偶然らしく出会ったことを、はじめから疑ってかかるべきだったのだが。
(ダメだな……女は)
 あるとき、はっきりと気付いてしまったレークへの気持ち。そのときから自分の中には、ただの女としての、もう一人の弱い自分が生まれてしまった。もしかしたら、それは最初からあったもので、なるべく隠していたものが、しだいしだいに、隠しきれぬほどに大きくなってしまったというべきなのか。
(こんなに……苦しいのなら、ただの騎士のままでいたかった)
 男勝りで、誰からも一目置かれ、若い騎士たちから崇拝されて、ただ剣の稽古に打ち込む日々……あれは、もう、遠い昔のことのようだ。
 この胸の痛みは、はたして癒されるときがくるのだろうか。このやるせないような気持ち、いつも泣きたいようなこのおかしな気持ちは、いつか晴れるときがくるのだろうか。
 枯れ葉を踏みしめながら、これから自分がどこへ逃げてゆくのかと考える。その答えはどこにあるのかと。
(私は……私は、ただ)
 思わず足がとまった。
 さまざまな感情が沸き起こり、なんだかわけがわからなくなりそうだった。
(ただ……)
 込み上げるものを抑えるように、胸に手を当てる。
(わたしは……)
 プラタナスの木々に囲まれた、庭園の一角で、クリミナは声を上げずに泣いた。

「ダメだな……こんなんじゃ」
 気持ちを落ち着かせると、木の幹に背をつけたまま大きく息をつく。冬枯れの木々の香りと、ひんやりとした朝の空気が、体の中に染み込んでくる。
 生まれ育ったフェスーン宮廷の空気、王城の空気、ここで過ごした二十年の年月……自分のすべてを培った、このトレミリア王国、
 それらを本当に捨てて、自分は旅立てるのか。迷いや恐れ、不安とが足をすくませる。
 なにも変わらず、このままここで、死ぬまで過ごしてゆくほうが、よほど幸せなのに違いない。そう思う。そう思うのだが、一方ではもう、ここにいては耐えきれぬなにかが、自分をつき動かそうとしているのだ。
 女騎士としての自分、宰相の娘としての自分、常に人から注目され、期待されたり、ときに妬まれたり、陰口を言われたり、反対に過度の崇拝をされたり、そんな自分をいつも、どこか冷めた目で見つめる、もう一人の自分がいた。
(私は……本当のわたしになりたかった。いつも……)
 王国を愛する気持ちに嘘偽りはない。父親を尊敬し、騎士たちの友愛を感じ、誇りをもって剣に打ち込んできた、自分の気持ちに偽りはない。ただ、
 少しだけ、ほんの少しだけ、それに疲れてしまった自分が、いまここにいるのだ。
(そうだわ……)
 クリミナは気付いた。
(私は、トレミリアを逃げ出すのでも、フェスーンを捨てるのでもない)
(そうなのだわ。ただ……)
(……いまは)
 この気持ちに、素直に身を任せたい。それだけなのだ。
 それは、彼女にとって、おそらく初めての現実に対する反抗であり、初めての、どうしても貫きたい我が儘であったかもしれない。
(行くわ)
 クリミナは顔を上げた。アヴァリスの光が差し込み始めた、その木々の間を見つめ、またひとり歩き出す。
 木立を抜けたこの先には、正面の城門からはやや離れた、見張りの少ない裏門があるはずであった。宮廷内に詳しい人間でなければ知らない場所である。まだ小さな頃、父であるオライア公に連れられて王城を訪れると、たいていいつも、そのあたりで遊んでいたことが思い出される。いまは王城をひっそりと抜け出すために、そこを通ろうとするのは、なんとも変な気分であった。
 木立をもうすぐ抜けようかというときに、近くで人の気配を感じた。
 枯れ葉を踏みしめる足音とともに、
「クリミナ、いるの?」
 声がして、彼女はさっと身構えた。
「誰?」
「クリミナ、私よ」
 かさりとまた足音がして、プラタナスの幹の向こうから人影が見えた。
「サーシャ、ねえさん」
 現れたすらりとした黒髪の女性の姿に、クリミナはほっとして緊張をといた。
 トレヴィザン提督夫人、サーシャは、まるで動物を驚かせないように、ゆっくりと歩み寄ってきた。 
「こんなところで、お散歩?」
「ええ、その……」
 口ごもるクリミナを、サーシャはじっと見つめた。まっすぐに揃えた黒髪を結い上げた、誇り高く凛然とした立ち姿は、さすがにレード公爵の長女であり、ウェルドスラーブ随一の提督の夫人にふさわしい。
「それに、その格好……これからどこかへゆくの?」
「……」
「そうなのね?」
 クリミナは黙ってうなずいた。この際、サーシャにはちゃんと話しておきたかった。
「でも、私は、あの……決して逃げ出すのでは」
「わかっています」
 サーシャはそう言って微笑んだ。二つ年上の彼女は、クリミナにとっては姉のような存在である。彼女がウェルドスラーブに嫁いでいってしまうまでは、ちょっとした相談事などがあるときには、いつもレード公邸を訪れては、優しくも果断な言葉を言ってくれる彼女を頼っていたものだ。
「全部を話さなくてもいいわ」
 サーシャは、すべてをお見通しだというように微笑んだ。
「なんとなく、あなたの気持ちはわかるつもりよ。じつはね、さっきあなた付きの侍女から、あなたの様子が少しおかしいような気がすると聞いたものだから。きっとこのあたりに来ると思って」
「……」
「いいの。言わなくても。私はだれにも話さないわ。いまここであなたに会ったことは」
「すみません」
 うつむくクリミナの肩をそっと抱き寄せる。
「いいのよ。あなたはきっと、そうやって、いままでずっと我慢してきたのでしょう。いろいろとね。だから、いつかは、こういうときが来るような気はしていたわ。私がまだこの宮廷にいて、そばであなたを見ているときからね」
 ふと遠い目をしてサーシャは言った。 
「ふふ。あなたがね。少しうらやましいわ。クリミナ。自由に飛び出してゆく、その勇気が……私にも、」
「私も、あの方のもとに行けるなら……」
 その言葉に、クリミナははっとして顔を上げた。サーシャの夫であるトレヴィザン提督は、遠い海にて、いまだ戦いのさなかにいるのだ。本当に飛び出してゆきたいのは、きっと彼女も同じなのだと。
「ごめんなさい……私、サーシャねえさんの気持ちも考えず」
「いいの。それに、これは私だけでない、今もいくさを戦っている、すべての騎士や兵士たちを待つ、その家族や恋人たち、誰もがみなが思うはずのことなのだから。誰かだけが特別だということはない。たとえ、将軍でも提督でも、ひとりの騎士でも、従者でも、その誰かを愛する気持ちには、なにも変わりはないのだから」
「はい……はい」
 誰かを愛する気持ち、そこには身分の差もなにもない。いまのクリミナには、それが心からよく分かった。
「女は……ただ待つしかないのね。だから、」
 サーシャは、優しくクリミナを見つめた。
「あなたは、私たちすべての女性の希望なのかもしれない」
「サーシャ、ねえさん……」
「思う通りに飛び出してゆきなさい。それは、剣を振るい、馬にも乗れる、あなたにしかできないことよ。窮屈なドレスに身を包んで、愛するものの帰りをただ待つだけの私たちの代わりに」
「はい……はい」
 クリミナの目から、こらえきれぬ涙があふれた。ひしとサーシャの体を抱きしめる。
「気をつけて行きなさい。そして、また戻ってきたら、旅の話をいろいろ聞かせてね」
「はい」
「それと、少ないけれど、これをもっていきなさい」
 サーシャは懐から革袋を取り出すと、それをクリミナに握らせた。
「レイスラーブを出るときに持ち出したお金だけれど、豊かなトレミリアにいる私には、もう必要はないから。持ってゆきなさい」
「ありがとう……ねえさん」
 クリミナは素直にそれを受け取った。
「行き先は、もうだいたい決めているんでしょう。あなたのことだから」
「はい。まずは……サルマへ」
「そう。気をつけて。あのあたりは、いくさの影響が大きいでしょうからね。でも、あなたなら大丈夫ね。剣をとらせたら、そこいらの男ではかなわないでしょうから」
 二人は顔を合わせてくすりと笑った。
「誰かに伝えることはある?お父上とかには」
「ええ、それは友人のオードレイに頼んであります。サーシャねえさんに、こうして会えたので、もうなにも。ただティーナ王妃にくれぐれも、お詫びと、そしてお祈りを……」
「いいのよ。あの方は、ああ見えてね、けっこうお強いのよ。しばらくしたら、きっと立ち直られ、自らのすべきことを知りなさるでしょう」
「はい」
「それに、もしかしたらね、もう未来は始まっているのかもしれない」
 聡明な提督夫人は、予言めいて言った。その顔には穏やかな微笑みが浮かび、王を失い危機的な状況にあるウェルドスラーブですらも、世界における黄金律の構成因子のひとつにしかすぎないという、大きな受容とともに、最後まで希望する者であるしかない、神ならぬ人々の心持ちを、勇敢に示すかのようであった。それは、命と運命の神ジュスティニアと、死の神アナデマのさばきを甘んじて受け止めながら、それでもなお、未来を信じ続ける、人としてのもっとも強いまなざしであったろう。
「さあ、そろそろ行くのでしょう」
 サーシャの声に、クリミナはうなずいた。
「よかったら馬車をお使いなさい。その方が宮廷を出るまでは怪しまれずにすむわ」
「はい、でも……」
「ちょうど、レード公爵邸から馬車を呼んでおいたのよ。私はさっき着替えを受け取ったのよ。すぐそこに停まっているわ」
 なにやら意味深な笑みを浮かべるサーシャをいぶかしく思ったが、こうなったらもう、最後まで好意に甘えようかと、クリミナはうなずいた。
「さあ、こっちよ」
 裏の城門というような、小さな見張り塔がある門の前に、黒塗りの馬車がとまっていた。そこにいた若い見張り騎士は、クリミナとサーシャの姿を見ると、貴婦人への礼をし、急いで城門塔の中へ入っていった。すでに話はつけてあったのだろう、ややあって鉄の扉が引き上げられた。
「さあ、お行きなさい。ここでお別れね」
「ありがとう、サーシャねえさん。このご恩は、けっして忘れません」
「なにを言っているの。私にとって、あなたは妹も同じだわ。昔はあなたと、それにナルニアも一緒に、よくこのあたりで遊んだわね」
「はい。ずっと忘れません」
 二人は手を取り合うと、最後の抱擁を交わした。
「行きなさい。その馬車は自由に使っていいからね」
「はい。それでは」
 別れの言葉は言わなかった。いつかきっと戻ってくると、クリミナはその思いを込めてサーシャを見つめた。


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