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 水晶剣伝説 ] 大地のうた


U

 それより少し前、
 草原の南に広がるアラムラの森林は、まだ暗がりに包まれていた。
 夜明けを迎える直前の、ひんやりとした空気、水気を含んだ木々の葉から夜露がこぼれ落ちる。梢からは鳥の泣き声が響きはじめ、森に住まう動物たちが次々に起き出してくる、あたりには少しずつ、そうした気配が広がってゆく。
 リスかなにかの警戒するような鳴き声が聞こえ、それがまた遠ざかってゆく。普段ならば、鳥や動物たちの天国であるはずのこの森……ここは広大なアラムラ大森林のほんのとば口ではあったが、これより先に少し進めば、うっそうと生え茂る下草と、背の高い木々が視界を遮り、感覚の鈍い人間であれば、あっと言う間に迷ってしまうだろう。そんな深い森の入り口といってよいこのあたりであっても、普段ならば人間の姿など、決して見かけることはない。
 いつもとは違う闖入者……その存在に、森に住まう生き物たちが緊張しているのだろう。鳥の声はいつもよりも神経質そうに高く、小動物たちは、さっさと森の奥へと姿を消したのか、いつのまにかその気配を隠した。
 ポタリ、と夜露が落ちて、地面に染み込んでゆく。枯れ葉の積もった地面は、この季節であれば、小動物たちにとってのちょうどよいベッドであったのだが。
 いまそこには、不自然なものたちが横たわっていた。
 草原側からは発見されぬよう、森の出口からは百ドーンほど入ったあたりである。鎧姿の兵士たちが横たわり……かれらは、だいたい均等の間隔で、それぞれ木々の幹にもたれたり、枯れ葉の上に眠っていた。
 激しい戦いを切り抜けてきたのだろう、多くのものが傷つき、疲れ果てたように、そこに動かない。それは、百人やそこらではなかった。
 少しずつ、木々の隙間から光が差し込み、夜闇に包まれた森が朝を迎えるにしたがって、そうした兵士たちの姿が、あちらにも、こちらにも現れ、はるか向こうの方にまで、その鎧姿が続く。それは、一種、異様な光景であった。
「……隊長、……ク隊長」
 囁くような声が上がった。
「……隊長、起きてください」
 すると、木の幹にもたれかかっていた人影が、ぴくりと動いた。
「んん、寝ちまってたか……」
「レーク隊長」
「ああ……分かったよ。もう起きた」 
 ぼりぼりと頭を掻きながら、眠たそうにあくびをするのは、むろん、我らがレーク・ドップであった。
「うう、さみい。朝は冷えるな、やっぱ」 
「声を落としてください」
 自分を起こしたのが、見張りに立っていたニールだとやっと気付くと、レークは同じように囁き返した。
「おお、なにがあった?」
 周りを見ると、まだほとんどのものが地面の上に眠っている。森の中に一万もの兵が集まり、こうして休んでいるというのは、なかなかに危険なことではあった。いくら見張りを立てているとはいえ、この状態で夜襲を受けたりしてはひとたまりもない。だが、兵たちはもう、どうしようもないほど疲れ果てていたし、もっというなら、精も根も尽き果てていた。
 北の湿原地帯で、ジャリア軍に包囲されてから、絶えず緊張の中にいて、ろくろく睡眠もとれず、包囲する敵軍の動きに神経を使いながら過ごしてきた。ようやく昨晩、夜通しの作戦により、ついに敵陣を突破し、そしてアルトリウスの率いる救援部隊と合流して、ともかくジャリア軍の追跡から逃れるために、夜闇に隠れて馬を走らせ、このアラムラの森に辿り着いたのである。
 夜明けまでほんの一刻というところだった。それでも、兵士たちは絶え間ない緊張から解放された、ひとときの休息の歓びに、次々に木々の間に倒れこんだ。森のなかにおいては、アヴァリスの光が届くには、まだしばしの猶予が残されていた。
 やがて、木々の間から光が射し始めると、もうあと少しで、兵士たちはまた起き出して、今日を戦うことを始めなくてはならない。残された休息の時間は、わずかであった。
 木々の間に横たわる兵士たちを見回しながら、レークは静かに立ち上がった。
「敵か?」
「分かりません。こちらに近づいてくる人影があります」
 レークはうなずいた。もう頭は冴えていた。少しでも眠ったことで、またしばらくは戦えそうだ。
「どっちだ。人数は?」
「一人です。森の入り口あたりを、西側からやってきます」
「馬でか?」
「いえ、それが……」
 ニールは、その小柄な体をひねるようにして首をかしげた。すばしこく、目もいいので見張りにはうってつけの部下である。
「歩きでした。ですが、姿からしてやはり騎士のようでしたし、馬もなしでこのあたりを一人で歩くというのは、どう考えてもおかしいです」
「鎧は分かるか?」
「まだ暗かったので、よくは分かりませんが、ジャリアの鎧ではないです」
「ううむ……そいつは、どういうこった?」
 レークは唇を突き出した。
「隊長、これは自分のカンですが……それからどうも、そいつは、こちらの軍の気配に気付いているようで、えらく慎重な足どりでこっちにくるんです」
「なるほど。森の入り口だな。よし、案内しろ」
「あの、報告せずによいのですか?」
「誰にだ?あのヒルギスの兄さんにか?はっ、冗談じゃない」
 囁き声でせせら笑うと、レークはニールの背中を小突いた。
「それに、ぞろぞろと人数かけて行ったら、気付かれちまうだろう。オレ一人で充分よ。そら行くぞ」
 他の者に気付かれぬように、二人はそろそろと動き出した。
「こっちです」
 足音をたてずに小走りができるのが、ニールの特技でもあるらしい。むろん、レークもそうである。森の入り口へと向かってゆくと、しだいに木々の間隔が広くなり、あたりはもうずいぶん明るくなりはじめていた。
「隊長、隠れて」
 先をゆくニールが見つけたらしい。二人はさっと木の影に身を寄せた。
「……」
 じっと耳を凝らすと、気配があった。さくり、さくりと、枯れ葉を踏みつける、かすかな足音が聞こえてくる。それは、ごくごく慎重に、一歩ずつ周囲の気配を窺いながら進むような、そんな足音だった。
 木の幹に体をへばせりつかせたまま、レークはじっと相手との距離を計った。そっと顔を出したかったが、それを我慢する。すぐ横の木に隠れるニールにも、手振りで動くなと合図を送った。
(間違いねえな。こちらに向かってくる)
 相手がなにものであろうとも、この森にいる一万の兵士たちの存在を知られてはならなかった。これがもし、味方のトレミリア兵ならば安心もできようが、そうでない可能性が高いとレークはふんでいた。
 足音がゆっくりと近づいてくる。もう十数ドーンというくらいの距離だろうか。
(まだだ……もっと引き寄せてから)
 この距離で飛び出しても逃すことはないと思うが、万が一にも逃したら、やっかいなことになる。剣に手をかけるのを我慢しながら、レークはなおもじっと待った。横にいるニールがこちらを見る。それに首を振って見せると、己の気配を消すことに全神経を集中させた。
 さらに、一歩、二歩と、相手が近づくのを待つ。すると、唐突に足音はとまり、気配は消えた。 
(ち……気付かれたか)
 ぺろりと唇を舐めると、レークはオルファンの剣に手を置き、
(そいじゃ、いくとすっか)
 ひとつ息を吸い込むと、ためらうことなく飛び出した。
 剣を抜きざま、相手に飛び掛かる。
「なにっ」
 剣が合わさる鋭い響きとともに、声を上げたのはレークだった。
 絶対の自信がある、恐るべき速さの打ち込みを受けとめられたのだ。
 レークは正面から相手を睨んだ。
「てめえ、ただもんじゃねえな」
 そこにいたのは、トレミリア風の鎧をまとった剣士であった。
 歳の頃は二十五、六というところか。黒髪に髭を生やした、精悍そうな顔つきである。その目の鋭さは、一目でこの男がただものでない、訓練された兵士……それも、上級の騎士であろうことを物語っていたし、そこには恐れも驚きもない、ただ現実を受け止める、厳しく訓練された者のみが得られる、冷徹なまなざしがあった。  
「ちっ」
 不意をついたはずの必殺の剣を受け止めた、その相手の武器が短剣であったことも癪に触った。その男の技量の高さは、レークの想像を超えていたのだ。
(こいつは、ちっと……マジでいかねえと、倒せんな)
 男は無言のまま短剣を構え直した。おそらくは、この一撃でレークの腕を計ったのだろう。その眉がぎゅっと寄せられ、男の顔つきが険しくなる。
「隊長!」
 剣を抜いたニールがそばにきた。
「手を出すな。お前のかなう相手じゃねえ」
 レークは、じりじりと間合いを詰めた。
 だが相手は動かない。
「そら、よ!」
 今度は飛び出しざまに、左手でカリッフィの剣を抜く。
 男が後ろに下がった。
 その瞬間、右手のオルファンの剣が男の短剣に打ち込まれた。同時に、カリッフィの剣は相手の体めがけて襲いかかった。
 今度は確かな手応えとともに、男が「ぐっ……」と、かすかに声をもらした。
「峰で打ったとはいえ、しばらくは動けねえだろう」
 痛みに耐えるように、男はがくりと膝をついた。
 二本の剣を鞘に納めると、レークは相手を見下ろした。あるいは、もしも相手の武器が短剣でなかったら、勝負は互角だったかもしれないが、レークは決してそれを認めたくはなかったろう。
「おい、てめえはジャリアの兵なのか?そうなんだろう」
 男の体をニールに縛らせると、レークはその喉元に男の短剣を突きつけた。
「おめえは、なにもんだ?なぜここにいる?」
「……」
 男は答えなかった。強烈に胴体を打たれて、痛みは相当あるはずだが、口を引き結んだまま、ただじろりとレークを睨んだ。
「なんか、気に入らねえなあ。その目付きがよ」
 誰かに似ているようなと思いながら、そのふてぶてしい感じが、どうやら自分に似ているとまでは気付かない。なんとなく腹立たしい気分で、レークは男を見下ろした。
「ともかく、名を言えよ。それと、ここを歩いていた目的だ」
「……」
 いっさい口を開く気はないというように、男はふいと目をそむけた。
 レークはカッとなって、男に殴り掛かろうかと思ったが、それをこらえた。相手がなにものであるか分からないままでは、態度を決めようがない。
「まあいい。ともかく連れていくぞ。お前を始末するかどうかはあとで決める」
 男を立ち上がらせると、背中に剣を突きつけて歩かせる。ときおり男は、体が痛むように顔をゆがめたが、ひと言も声は上げなかった。
「レーク」
 前方から人影が走り寄ってきた。銀色の髪をなびかせて走ってくる。それはリジェとビュレス騎士伯だった。
「剣が合わさる音が聞こえたから……その男は?」
 近くにきたリジェは、縛られた男を見るや目を見開いた。ビュレス騎士伯も、警戒するように剣に手をかける。
「敵兵ですか?」
「まだわからん。こいつ、なにも言いやがらねえんだ。だが、相当の剣の使い手だぞ。ただものじゃあねえのは間違いねえな」
「ふーん、」
 まじまじと男を見つめるリジェ。緑柱石をはめ込んだその銀色の鎧は、敵陣を突破してきた激しい戦いの経緯を物語るように、ずいぶん傷がつき、汚れていたが、むしろそのせいで、この銀色の髪に青い目の女剣士の姿は、いっそう凄絶な美しさをたたえて見えた。
「この顔、なんか、どこかで……」
 そう言って、彼女はふと首をかしげた。
「知っているのか?」
「ええと、そうね……なんとなく」
 縛られた男の方も、それに気がついたのか顔をそむけた。
「ええとね……」
「ああ。そうだわ!」
 リジェが声を上げた。
「トレミリアだ。フェスーンでだよ。我々の軍勢が出発するときに見たわ」
「なに。それじゃ、こいつはやっぱりトレミリアの騎士だってのか?」
 レークは唇を尖らせた。
「それにしちゃあ、なんてえか……雰囲気がよ」
「フェスーンでクリミナさんと一緒にいたよ」
「なんだあ?」
 思わずレークは頓狂な声を上げた。
「クリミナ……騎士長さんとか。こいつが?そりゃ、なんだって」
「そうそう。なんかね。なんか、仲が良さそうだったな」
「おいおい、てめえ」
 レークは男の胸ぐらをつかむと声を荒らげた。
「いったいどいういうこった?クリミナと一緒にフェスーンにいて、そいつがいま、この草原の外れの森に一人でいるってのは。お前は本当はなにものなんだ。ええ?」
 男は無言のままレークを見た。
「どうにも納得がいかねえ。フェスーンの騎士の中に、お前のようなやつは見たこともねえ。名もない輩が、こともあろうに宮廷騎士長どのの近くにいるなんざ、おかしいだろう。お前はどこの、なにものなんだ?言えよ。名は?」
 男の喉もとに短剣を突きつける。
「オレはな、もとは浪剣士なんだぜ。お上品な騎士さまと違ってな、ムカついた奴を殺すくらいはなんでもねえんだ」
「……」
 だが、男は血をにじませた喉元をかばうでもなく、まっすぐにレークを睨んだ。二人の目が正面から合わさる。おそらくは何度も死地をくぐり抜けてきた者だけが持つ、なにものも恐れぬ心の落ち着きを、互いの目の中に見て取ったように、二人はどちらからも目をそらさなかった。
「サウロ」
 男の口が開いた。
「なに?」
「サウロだ」
「それが、お前の名か」
 男は観念したふうでもなく、静かにうなずく。
「お前は、トレミリアの騎士じゃあないだろう。そうだな?」
「ジャリアの四十五人隊」
「なん、だと」
 レークは驚きに目を見開いた。
「ジャリアの……」
 あの名高き、王子の側近部隊、四十五人隊……この男が、その一員だというのか。
「そのジャリアの兵士が、なぜトレミリアに……クリミナのそばにいた」
「それは言えぬ。いずれは分かることだろう」
 コルヴィーノ王暗殺の知らせは、まだ草原までは届いてはこない。もし、それを知っていれば、目の前にいるこの男が、ロッドという名を使ってトレミリアへ潜入し、クリミナを欺き、恐るべき刺客として行った、その暗殺劇への戦慄と怒りとに、レークは身を震わせていたことだろう。
「きさま……ジャリアの間者として、トレミリアに。まさか、クリミナになにか……」
「クリミナどのには、なにもしていない」
 男は低く、だかはっきりと言った。
「自分は、目的以外の無駄な殺傷はしない」
「殺傷だと……」
 レークは、ぎゅっと眉を寄せた。  
「では、やはりきさまは、誰かの暗殺のために、トレミリアヘ……。誰だ?お前は誰をやった?」
「それは、言えぬ。が、いずれは公になるだろう」
「では、きさまは、その目的を果たしてトレミリアを脱出し、あの黒竜王子のもとへ報告へ戻るところだったというのだな」
「……」
 無言の肯定を示すように、男はレークを見つめた。
「そこまでべらべらしゃべっちまって、お前はもう、ただでは生きて帰れんぞ」
「もとより、こうなった身の上で、生きて逃れようとは思っていない」
 すでに覚悟を決めているというように、男はむしろ落ち着いた顔つきで、薄く笑みさえ浮かべていた。
「なるほど。するとお前は、ジャリア軍に合流する途中で、オレたちの軍勢の気配を感じて、それを発見しようと森に入ってきたのだな。うまくいけば、隠れた敵軍の居場所を見つけたことも手土産にできると」
「……」
「しかし、あいにくだったな」
 レークはにやりと不敵な笑みを見せた。
「この天才剣士……草原を走り抜け、大森林を庭とする、グレーテとルベを含む大自然の加護を受けた、ゲオルグの強さを誇る超剣士、レーク・ドップが、お前の前に立ちはだかり、その目論見を完全に打ち砕いたのだ」
「……」 
「そうとも、むろん、はじめから分かっていたさ。きさまがそう、ジャリアの間者だということはな。怪しすぎる匂いがぷんぷんしたからな。オレのハナはな、百ドーン先の馬のフンまで嗅ぎ分けるのさ」
 レークのはったりに笑うでもなく、サウロは縛られたまま肩をすくめた。横にいるリジェは笑いを漏らしながら、惚れ惚れと愛する剣士の横顔を見つめる。
「さてと、ではお前をどうしたものか。このまま厳重に縛ったまま森の奥へ捨ててゆくか。あるいは、この場で斬り捨ててゆこうか」
「好きにするがいい」
 男は、恐れるふうでもなく静かに言った。
「自分の任務は果たした。ここで死んだとて、もうどうということはない」
「ふうん。つまんないねえ。その態度は」
 レークは、再びオルファンの剣をすらりと抜いた。
「やるのかい?レーク」
「ああ、望み通りにしてやるさ」
 鋭い剣先を男の頭に向ける。
「ビュレスさんよ、あんたの剣をちょっと貸してもらえるかい?」
「なんだって。どうするつもりだ」
「いいから、さあ」
「ああ……」
 ビュレス騎士伯は仕方なく、自分の剣を抜き、レークに手渡した。
「そらよ」
 なにを思ったか、レークはそれを地面に突き刺した。
「おい、なにを……」
 ビュレス騎士伯もリジェも、驚いたふうにレークを見た。
「おい、ニール。縄をほどいてやれ」
「なんですって?」
「そいつの縄をほどけ」
「ですが、隊長……」
 短剣を渡されたニールが、困惑したようにリジェとビュレス伯とを見やる。
「レーク、あんた、なにをする気なの?」
「なんでもねえ。ただ、さ」
 トレミリアの正騎士らしからぬ不敵な顔で、レークはにやりとして見せた。
「気に食わねえんでな。このままじゃ、なんつうか……はっきり、剣でケリをつけたいってのかね」
「おい、馬鹿なことはよせ」
 ビュレス騎士伯が、自分の剣を取り戻そうと近づくのを、レークはさっと剣を出して遮った。
「危ねえから下がってな。まあ見物していろよ、このオレが見事にやつを斬るところを」
「……」
 男は目の前の地面に刺さった剣を見つめ、それからレークを睨んだ。
「へへ、いい目をしてやがる。おい、ニール早くしろ。縄をほどけ」
「ええと……いいのかなあ」
 隊長の命令には逆らえず、ニールは短剣で男の縄を切ると、急いで男から離れた。自由になった男は、己の腕をぐるぐると回す。
「どういうつもりだ?」
「どうもこうもねえ。さあ、その剣をとれよ。短剣じゃあ勝負にならねえからな。まともな剣をもたせて相手をしてやろうってんだ。もし、オレと戦って生き延びられたら、ジャリア軍へ戻るなり、どこへでも行くがいい」
「レークどの、そんな馬鹿なことは……この男がジャリアの間者だというなら、こんな重大事を、勝手にくだらぬ決闘などで決められては」
「黙ってな、騎士伯さんよ。どのみち、この御仁はさ、どうあっても自分が決めたこと以外のことは口は割らねえ。そういう肝の座った剣士さんなんだよ。だから、どうせなならオレの剣で死なせてやるのが、一番の礼儀ってもんだ。なあ」
「……」
 男は黙って地面から剣を引き抜くと、ゆっくりと両手で構えた。
「おっ、やる気になったか」 
 レークはぺろりと舌をなめると、カリッフィの剣を鞘ごと地面に落とした。オルファンの剣があれば、それで充分だというように。
「リジェにビュレスのだんな、いいか、手を出すなよ」
「レーク」
 リジェが心配そうに声を上げる。
「そこで見ていろ。こいつは強い」
 剣を構えたサウロの体から殺気が立ち上るのを感じると、レークは嬉しそうに言った。
「だが、オレの方がもっと強いってな」
 その双の眼が、一瞬見開かれ、
 レークは飛び込んだ。 
 すさまじい速さで、
「おおっ」
 叫びともつかぬ声と、
 同時に、たった一度だけ剣が合わさる響きが上がった。
 しゅっと、血がしぶいた。
 なにが起こったのか、誰の目にも分からなかった。
 ぐらりと人影がよろめく。
「レーク!」
 左手で肩を押さえながら、レークがつぶやいた。
「へっ……オレが本当の本気を出したのは、いままでで、初めてかもしれねえな」
 振り返ると、サウロの身体がゆっくりと崩れ落ちるところだった。
「隊長!」
 ニールとリジェが駆け寄ってくる。
「大丈夫?レーク」
「心配するな、かすり傷だ」
 相手に剣をぶつけると同時に、すさまじい早業でそのまま斬り下ろした。だが、サウロの剣も一瞬遅れてレークの体をかすめていたのだ。
「やっこさんもさすがだな。かわしたつもりだったが」
 うずくまるサウロの体から、赤黒い血が溢れ出し、枯れ葉を濡らしてゆく。
「隊長、まだ生きています。とどめを」 
「やめておけ。どうせもう助からん」
 荒い息を漏らすサウロを見下ろし、レークは話しかけるように言った。
「それに……あんたとしても、その方がいいだろう。もうしばらく、てめえのやってきたことをさ、一人で考えたいだろうしな」
 それに答えたのだろうか。男はゴホッと咳き込み、血を吐いた。
「さて、行こうぜ」
 リジェに傷口を布で縛ってもらうと、レークは剣を拾い上げ、歩き出した。
 ビュレス騎士伯は、敵に使われた剣をしかめ面で受け取り、リジェとニールは、歩きながらも、ときおり倒れたサウロを振り返る。
「ねえ、あのままでいいの?レーク」
「さあな。ただ……」
 枯れ葉を踏みしめながら、レークはつぶやいた。
「やつが生きるも死ぬも、もうこのいくさには関係がねえかなってさ」
 木々の間から差し込む陽光は、おだやかに暗がりを白く溶かしだし、この森にアヴァリスの光の征服を告げようとしている。
 なにも変わらぬ朝……変わらぬ一日の始まり。
 静けさを取り戻したこの森の、すぐ奥では、わずかな夢見の時間を過ごして起き出した兵たちが、これから始まるはずの戦いに備え始めていることだろう。
 はからずも、コルヴィーノ王暗殺の下手人を仕留めることになった、そんな事実など、レークは知らぬ。あるいは、知ったとしても同じことであったかもしれない。
 草原の戦いと、その向こうにあるもの……彼が、いや彼らが目指すもの。その前に立ちはだかるもの。
 それらを漠然と想像しながら、レークは森の中の仲間の軍勢へ帰っていった。

 昇りゆく陽光を背に、黒い壁が不気味に広がってゆく。
 それはさながら、数千の針を突き出した、黒い怪物でもあるようだった。
 長槍兵による密集隊形……古来より用いられるファランクスと呼ばれるその戦法は、突進するときの破壊力はむろんのこと、それを前にした相手を驚怖させるという、絶大な効果があった。
 黒々としたジャリア兵の鎧は、輝けるアヴァリスの光を受けると、いっそう禍々しくその輪郭を染み出して、陽炎のように広がってゆく。その様は、地獄から這い出た悪魔の化身かとすら思わせる。 
「敵軍、密集して接近。距離百ドーン!」
 陣形を整えたトレミリア軍は、じわじわと迫りくる黒い軍勢を、その視界に捕らえていた。
 全軍の数はすでに一万を割り込んでいる。それも、多くのものが負傷し、まったく無傷のものなどは、すでにいないかもしれない。隊長クラスの上級騎士も、これまでに多くが犠牲になり、あるいは行方が分からなくなっている。
 トレミリア最高の戦士であるローリング、それにブロテらが健在であることが頼みの綱であったが、それは逆に言えば、彼ら自身が前線の指揮をとらなくてはならないという、もはや後先を考えない明日なき戦いを挑まなくてはならぬということでもあった。
「敵軍、ファランクス隊形で前進!」
 槍を突き出して密集した黒い軍勢が、しだいに視界に大きくなる。
「弓隊前へ、矢を放て!」
「弓隊、前へ!」
 隊長たちの命令が慌ただしく上がり、すでにすいぶんとその数を減らした弓隊が、一斉に矢をつがえる。
「残った矢をすべて使い果たしてかまわん!放て!」
 昇りゆくアヴァリスに向けて、数千の矢が放たれた。
 一斉に空中高く舞い上がった矢の影が、空を覆い尽くす。
 そのとき、ジャリア兵はぴたりと動きをとめていた。と思うや、彼らは一糸乱れぬ規則正しい動きで、頭上に楯をかざした。
 そこへ、矢の雨が降り注ぐ。
 カツカツと、鉄に矢がぶつかる音が辺りに響きわたった。
 しばしの静寂ののち、まるで何事もなかったかのように、ジャリア軍は動き始めた。
 地面にはおびただしい数の矢が突き刺さり、ジャリア兵の持つ楯にも、多くの矢が突き立っていたが、彼らはそれを意に介するそぶりも見せず、再び足並みを合わせて前進を始めていた。
 もとより、トレミリア側も、弓でさしたる損害を与えられるとは思っていない。ただ、敵の密集隊形の不気味なまでの統一性を見せつけられ、その姿にいっそうの戦慄を覚えた兵たちもいたかもしれない。
「重装部隊前へ!こちらもなるたけ密集隊形をとれ!」
 トレミリアの重装部隊は、ジャリアの長槍部隊に劣っているわけでは決してない。なるべく体格のよいものを選び、装甲を重ねた鎧と頑丈な兜に身を包み、ハルバードや長剣で武装した、よく訓練された兵士たちである。そして指揮をとるのは、トレミリア最高の戦士であるローリングとブロテだ。
 迫りくるジャリア軍の黒い壁を前に隊形を整えると、ローリングが全軍に指示を送る。
「よく引きつけろ。いいか、簡単に前に動いては敵の槍の餌食になるぞ!」
 居並んだ兵士たちは、その手に剣や槍斧を構えると、じっと待った。数千の槍を突き出した、巨大な黒い固まりが眼前に迫ってくるのを、じっと待つ。
 普通の人間であれば、その光景だけで、驚怖のあまり逃げ出さずにはおられないだろう。それは血肉を備えた人間の集団とは思えない。人を殺す為だけに集まった、感情のない武装兵器のようであった。
 いや、実際にそうであったのだ。
 朝日を背後に、黒光りする鎧の固まり……まるで悪神にでも操られた人形たちのように、規則正しい足並みで一歩ずつ前進してくるその集団には、人間的な恐れや迷いなどはいっさい見えない。その冷徹な前進力こそが、相手に戦意を失わせ、人間的な驚怖を起こさせるのだ。
 その、ジャリアの長槍部隊との、激突の瞬間はすぐそこだった。
 互いの軍勢が正面から相手を見据え、ほとんどゆっくりと接近してゆく。
 どちらの槍か剣が、最初にぶつかったのかは定かではない。
 息をのむほどのかすかな刹那が過ぎ……
 それは始まった。
「おおおっ!」
 数千の剣と楯が、槍と鎧がぶつかり、物々しい響きが上がった。怒声と絶叫が交差し、早くも空中に血がしぶいた。
「恐れるな。トレミリアのために!」
「トレミリアのために!」
 騎士たち、兵たちの叫びが唱和される。己自身をも鼓舞するように、彼らは叫びながら、黒い敵の壁にぶつかってゆく。
「わああっ」
「うおっ!」
 密集したジャリア軍のファランクス、その黒い壁の間から突き出された槍が、次々にトレミリア兵を貫いてゆく。
 だが、トレミリアの重装兵とて、鍛え抜かれた勇士たちばかりである。目の前で味方が串刺しにされても、ひるむことなく敵の懐に飛び込んで剣を振り下ろす。
「槍と槍の間に入れ!接近すれば、こちらの動きが早い!」
「おおっ」
 槍をかいくぐったトレミリア兵は、果敢に接近して、敵の頭上に斧槍を振り下ろす。いったん敵の密集が解かれれば、あとは、その隙間になだれ込んで、乱戦覚悟で斬り合うのだ。
「穴があいたぞ、飛び込め!」
「おおおっ」
 敵のファランクスが崩れかかったところへ、トレミリアの重装兵たちが一気に突入する。懐に入ってしまえば、長槍よりも剣の回転力がものをいう。斧槍と剣を振り上げたトレミリア兵たちは、黒い鎧めがけて次々に振り下ろした。
「いいぞ、こっちも穴があいたぞ!」
「突入!」
 壁となって前進してくるファランクスは、確かに強力ではあったが、トレミリア兵たちは、どこか一点に密集して突入するという戦法を、しだいに覚えていった。むろん、一カ所に穴をあけるには何人もの犠牲を出したが、彼らは目の前の仲間の死を決して無駄にはせぬとばかりに、次々に飛び込んでゆき、敵の壁に穴を開けるために死力を尽くした。
 とりわけ、ブロテとローリングの戦いぶりはすさまじかった。指揮を取りながら、自ら剣を持って前線に飛び込んでゆくローリングの姿は、トレミリア軍の士気を大いに高めたし、巨漢のブロテはその体躯を活かして、体ごと敵の壁にぶつかるようにして突進すると、彼にしか扱えぬ幅広の愛剣を振り回して、ジャリア兵をなぎ倒していった。
「ブロテどのに続け!」
「ローリング卿に遅れをとるな!」
 トレミリア兵たちは、声を上げ、己を奮い立たせた。
 ブロテやローリングはもちろん、近くにいる隊長騎士たちの、その勇ましい姿に続くようにして。次々に、銀色の鎧が敵の壁に飛び込んでゆく。
 一人一人の技量では、決して勇猛な長槍兵にも負けてはいない。いや、むしろ剣での戦いでは、トレミリア兵の方に分があったかもしれない。
「おおおっ!」
「うわああっ」
 叫びとともに、彼らの振り下ろす剣はジャリア兵の鎧を叩き、槍を持つその腕をなぎ払った。敵のファランクスはまだ完全に崩れたわけではなかったが、トレミリアの騎士たち、兵士たちは、互いに声を上げ、鼓舞しながら戦い続けた。
 その勇敢さは黒い壁を押しとどめ、ときには、それを押し返しさえし始めていた。


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