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これまでのあらすじ

黒竜王子率いるジャリアの軍勢はロサリート草原へと進軍を開始。迎え撃つトレミリア軍との戦いは激しさを増してゆく。
北の湿原に追い込まれていた、トレミリアとセルムラードの増援部隊は、湿原を渡って本営に知らせたアランの活躍もあり、
レークを先頭にしてついにジャリア軍の包囲を突破、アルトリウスらの救援部隊と合流を果たした。
一方、トレミリアではウェルドスラーブ王が暗殺されるという事態が起きる。下手人はクリミナが連れてきた騎士、ロッドであった。
彼こそはジャリアの黒竜王子に仕える敵の騎士だったのだ。一部始終を目撃していたアレンはロッドを追って草原へと向かう。
さまざまな思いと人間が集まってゆき……ロサリート草原の戦い、その最後の一日が始まろうとしていた。




 水晶剣伝説 ] 大地のうた


T

 アヴァリスが昇り始めていた。
 その、朝がきた。
 だが、この日がつまり、リクライア大陸の命運を定める、歴史的な一日になろうなどという、そのような予兆はまだない。いつもと変わらぬ朝の訪れを、誰もが……そう、トレミリアのフェスーンでも、ジャリアのラハインでも、そこに住まう、市井のものたちにとっては、なにも変わらぬ一日の営みの始まり、その同じ朝に過ぎぬのだと……誰もがそう感じていたはずだった。
 輝けるアヴァリス……そのまぶしい円盤が、ゆるゆると東の空を上昇しはじめ、その無限の光が世界を等しく照らし、包み込んでゆく。たとえ、かの神なき漆黒の闇の中でどのような罪が行われようとも、どのような悲劇が起き、許されざる裏切りや、しめやかな愛の囁きや、嘘や絶望と嘆きが、その夜に幾度あったとしても。アヴァリスの輝きはまた平等にその上に訪れ、すべてを残酷に、そして優しく照らし出すのである。
 人々は、己の犯した過ちや、ゆきすぎた情熱、嘆きすぎた取り返しのつかぬ悲劇に対しての、かすかな希望や後悔や、あるいは節度のある冷静さや判断力を、アヴァリスの光によって授かり、また、ここで生きてゆくことしかできぬ己という肉体へのあきらめにも似た束縛とその歓びとともに、また一日の生命力を取り戻すのである。
 大いなる太陽神のもとで、繰り返されてきた小さき人間たちのドラマ……愛憎や裏切りや、野望、冒険、そして戦い、それらがまた繰り返され、ひとつは終わり、ひとつはまた始まってゆく。
 これはまた、そんなひとつの朝にすぎぬ。
 そして、その大きなひとつ、 
 その、ひとつの朝であった。

 開戦から、すでに十日あまりが過ぎていた。
 よもやこのような長期戦にまでなろうとは、おそらくはトレミリア軍、ジャリア軍の双方ともに予期していなかったに違いない。少なくとも、トレミリア側には、このような膠着した状況を予想しえたものはいなかった。
 悪名高い黒竜王子が率いる、その暴虐なる黒い軍勢は、怒濤の前進で徹底抗戦してくるに違いないと思われたが、実際にはそうではなかった。もちろん、いったん戦闘が始まれば、敵軍の激しい圧力には恐るべきものがあったが、しかし、引くときは引き、ときに策を弄するように、じっと待機もすれば、不気味なほどに動かなくなる。そのような、いわば戦略における静と動には、相手側を過度に緊張させ、そうと思えば、ほっとさせて、そののちに再び攻勢をかけるという、その極端な動きで翻弄する効果があった。そうして、次の展開がまったく読めぬうちに、トレミリア軍は少しずつ戦力をそがれ、しだいに、さしもの勇敢なトレミリアの騎士たちにも疲労が蓄積していったのであった。
 とりわけ、昨日の戦いでの痛手というのは、開戦以来、最大のものといってよかった。
 北の湿原に追い詰められた援軍を救うため、トレミリア軍は縦に長い陣形をとり、ジャリア軍の壁を突き抜けた。その途端、両側から壁が閉じるように、長槍を手にしたジャリア兵たちが襲いかかってきたのである。抜け出した前衛の小部隊を見守る暇もなく、激しい混戦が始まった。
 怒声と悲鳴、鎧と剣がぶつかる響きが重なり、突き出される槍に貫かれて血がしぶき、また絶叫が上がり、それをかき消すように、叫び声と鎧の響きがあたりを包み込んだ。そこは数千の兵たちがぶつかり合う、騒然とした戦場と化した。
 ジャリア兵の黒い鎧姿は、まるで殺戮兵器そのもののようであった。密集隊形をとった黒い兵士たちは一斉に長槍を突き出し、一定の間隔をとった兵と兵の間からは後列の兵がさらに槍を突き出すという、まるで針鼠のような状態で、恐ろしくも整然と前進をしながら、攻撃をしてくるのだ。
 その異様な姿に戦慄を覚えながらも、トレミリアの兵たちはなんとか槍をかいくぐり、勇気をもって接近し敵を斬り付ける。だが、かろうじて長槍をかいくぐったとしても、その後ろからはすかさず、また次の槍が突き出してきて、鎧ごと身体を貫かれる。ジャリア兵は無慈悲に犠牲者を踏みにじると、次の獲物を求めるように、またじりじりと前進してくるのだった。
 それは、素早い突撃ではないが、一歩ずつ足並みを揃えて黒い大群が動いてくるという、見るものに恐怖を覚えさせるような光景であった。巨大な黒い壁から、数千の槍が突き出して、それがじわりじわりと、迫ってくるのである。それも前後から。
 おそらく、訓練されていない烏合の集であったなら、その様子に圧倒され、てんでに恐慌に陥り、右往左往するか逃げまどうかであったろう。だが幸いにして、トレミリア軍には、大将にして戦士の中の戦士と敬愛されるレード公爵がおり、また、ローリングをはじめとする、名騎士たちの叱咤と冷静な指示があったぶん、簡単には崩れはしなかった。
 だが、時間とともに劣勢は明らかとなった。
 前後からの黒い壁は、一歩、また一歩と、トレミリア軍の隊列を挟み込むように、圧迫してくる。一点突破をもくろんでの縦長の陣形が、いまや横に薄い、もろい壁のような状態になってしまっていた。このままでは、いずれはどこかに穴があき、隊列は分散してしまう。そうなったら、もはや全軍の統制はとれなくなり、本当に混戦の末にトレミリア軍は形を失ってゆくに違いなかった。
 ついにローリングは決断した。
「撤退しましょう。このままでは全滅します」
 そうレード公に進言した。それは苦渋の選択であったが、冷静にして唯一の正しい道であった。
「全軍、撤退西へ向け、西へ退くのだ!」
「撤退!西だ」
「西へ退け!」
 騎士たちの叫ぶような指示とともに、かろうじて統制を保っていたトレミリア軍は、草原の西側へと一斉に動き始めた。
 それでも、撤退は容易ではなく、両側から押しつぶそうと迫ってくるジャリア兵の槍に、敗走するトレミリア軍は削られてゆく。陣形の外側にいた兵士たちは、決死の覚悟でジャリア兵の槍に耐え、あるいはその身を犠牲にして、敵の突破を阻み、少なくともそれを遅らせた。
 多数の犠牲をともなって、彼らがジャリアの壁から抜け出したのは、夕刻近くになってであった。
 多くのものが傷を負い、血にまみれていた。トレミリアの兵士たちは、足を引きずり、血のしたたる腕を押さえ、息も絶え絶えで、その場に倒れこんだ。
 敵は深追いしてはこなかった。まるで不気味な殺戮する黒い壁のように、ぴたりとその動きをとめ、逃げ落ちるトレミリア軍をじっと見つめるようにして、その場を動かなかった。それがまた、いっそう、トレミリアの兵士たちに恐怖を覚えさせた。
 その黒い壁がまったく見えなくなるまで、彼らは、負傷したものもそうでないものも、なんとか体を引きずるようにして歩き、走ったのだった。
 かろうじて、かつての陣地にまで戻ってきたトレミリア軍は、隊列を整えるどころではなく、負傷者の手当てや、被害の報告などでおおわらわになった。死者はざっと数えただけでも三千、負傷者はその倍ではきかぬだろう。
 夕闇に包まれ始めた陣地には、兵士たちのうめき声が響き、あたりには血の匂いがただよっていた。医師や救護役の小姓などは大忙しで、ひっきりなしにあちらこちらを走り回り、それでも手が足りずに、怪我をしていない兵士なども、負傷者の手当てを手伝った。
 おそらく、この夜のうちに、再びジャリア軍が攻めてくれば、夜明けを待たずして勝敗は決していたかもしれない。もちろんそれを警戒して、陣地の外側には絶えず見張りを立て、敵の動きに注意を払っていたが、ジャリア軍は夜の向こうに姿を見せることはなく、その静けさというのはいっそう不気味でもあった。
 ジャリア軍は、おそらくは本国からの援軍との合流を計り、さらなる大軍勢となってから、完全にこちらを殲滅するべく攻めてくるに違いない。それが、軍議に集った、トレミリア軍部のおおかたの見方であった。
 この手ひどい痛手を被った状態で追撃をされないのは、もちろん有り難かったが、どちらにしても、明日の朝までに、またなんとか陣形を整えて、敵を迎え撃たねばならない。軽傷のものを含めて、戦えるものは、早急に装備を整え、あるいは休息をして、できるかぎりの鋭気を養うことが必要だった。
 その夜の、ささやかな食事は、誰もがきっと、これが最後の晩餐になるかもしれぬと、思っていたかもしれない。剣を磨きながら固パンを頬張る兵士も、天幕の中で、最後のワインを飲み干す騎士も、馬の世話をしながらひと休みをして、親指ほどの干し肉をかみしめる小姓も、誰もがきっとそうであったろう。
 負傷者を手当てする人々と同じくらいに、忙しいのは鍛冶屋たちであった。
 壊れた楯や鎧の修復を請け負うのは、十名ほどの鍛冶屋職人とその手伝いたちである。次々と持ち運ばれてくる、鎧や兜は山のように積み上げられ、これを今晩のうちになんとかせねばならぬのだと、内心でうんざりする暇もなく、彼らは、臨時に作られた金床の上で黙々とハンマーを振り続けた。
 今夜は寝る間もない。夜が明けるまでに、ひとつでも多くの鎧を直し、まともな剣を仕上げねばならないのだ。
「こんなことなら、店の方は閉めさせて、徒弟どもを根こそぎ引っ張ってくるんだった」
 サルマからやってきた鍛冶屋のフレドは、先の曲がった剣先を見下ろしながらそう愚痴を言うと、勢いよくハンマーを振り下ろした。ガシーン、鉄の合わさる響きが上がる。
「おい、本当に必要なやつだけ選んで持ってきているんだろうな?」
 こうしてずっと、休むことなく、何十もの鎧を修復し、曲がったり刃のこぼれた剣を直してきた。すでに右手の感覚はなくなりそうだったが、それでもまだまだ仕事は終わりそうもない。
「は、はい。もちろん」
 手伝いの小姓が、重そうな楯を持ち上げながらうなずく。フレドのもとに持ってこられるのは、おもに上級騎士たちの武具であった。サルマ随一と言われる腕前を見込まれたからであるが、そんなフレドといえども、このような数の鎧や兜、楯や剣などを次から次へと修復するという仕事は初めてだった。
「いつになったら、町へ戻れることやら」
 額に汗をにじませながら、ハンマーを降り続ける。体格は細身であったが、長年の鍛冶仕事で、上半身の筋肉は見た目以上に鍛えられていた。
 十歳のときから、父親の跡を継ぎ、一人前の職人になることを目指して一心不乱に仕事をしてきた。同じ町の娘と恋をして結婚し、子供も授かったが、いつのまにか気付けばその二人の娘は嫁にゆき、昨年には孫も産まれた。まさか、四十も過ぎたこの歳になって、戦場に駆り出されることになるなどとは夢にも思わず、軍の要請を受け、別れの言葉もそこそこに、家族を置いてあわただしく出てきたのだ。
 妻のアンディは元気にしているか。徒弟のログはちゃんと店を守っているか。町を出てからまだ十日もたっていないのだが、すでにもうひと月も帰っていないように思える。
(はやいとこ町へ帰って、)
 また平和に、ただ平凡に暮らしたいものだ。願いはただそれだけであった。
 ガーン、ガシーン
 暗がりに鳴りわたるハンマーの響き、そのひとつひとつに、ここにいる鍛冶屋たちの想いや、願いが込められていたに違いない。
 やがら、アヴァリスが東の地平から、その燃え盛る顔を覗かせ、暁の光が草原に広がり始めると、フレドはようやく朝の訪れを知ったように、ぼんやりと顔を上げた。
 ついに一睡もせずに夜通しハンマーを打ち続けた。ハンマーを握る手はすっかり痺れきって、もうほとんど感覚というものがない。腕の疲労は大変なものであるはずだが、それすらももうあまり感じない。
 頭は朦朧としていた。見ると、ついさっきまで鎧を運んできていた小姓が、そこに倒れるようにして眠っている。
「朝、か……」
 気付けば、辺りからはもう、ハンマーの音は聞こえなかった。どうやら、最後まで仕事を続けていたのは自分だけであったらしい。
 ころから始まろうとしている今日が、さらに大変な一日になるだろうことなどは、まったく考えもしない。いや、あるいはハンマーを叩き続けながら、彼自身はなんとなく感じていたのかもしれないが。
 そう。次の戦いが、おそらく最後の戦いかもしれぬと。
(俺は、町へ帰れるのだろうか)
 ハンマーを置いたとたん、気力が萎えたように、身体がふらふらとした。
 いったい、どれくらいの鎧を、剣を修復できたのかは分からない。ひとつずつ、出来上がり次第、小姓がそれを運んでいったからだが、途中からはいちいち数えてもいられなかった。これで少しでも、トレミリアのために役に立てたなら、一人でも多くの騎士や兵士が、まともな鎧を着れるなら、それでよいのだと。彼はいつものように、己の仕事を誇らしく考えた。
(少し、少しだけ休むか……)
 もう腕はしびれて、すぐにはハンマーを持てそうになかった。フレドは、水筒の水に口をつけると、その場に腰を下ろした。
 体は疲れ切り、すぐにでも眠れそうだった。昇り始めたアヴァリスの輝きがまぶしい。
(いくさが始まるまで、まだ時間があるな)
 ぐったりとなって、そこに横になろうとしたときだった。
 フレドはふと、近くに気配を感じ、顔を上げた。
 騎士を乗せた馬がこちらに歩いてきた。フレドは仕方なく立ち上がると、騎士にうなずきかけた。
「ちょっと訊きたいのだが」
 馬上の騎士が口を開いた。太陽を背にしたその姿は、まるで輝く光に包まれるようだった。
「ああ、鎧ですか?それとも剣ですか?」
 出来上がった武具を取りにきたのだろうと思い、そあフレドが尋ねると、騎士は首を傾げた。
「騎士さまのお名前と、武具の形を言っていただければ、」
「いや、そうではない」
 馬上から騎士はこちらをじっと見つめた。
「そうか、お前は鍛冶屋か」
「は、はい。あのう……」
 早く休ませてくれと言いたいところだが、相手がたいそう立派そうな騎士であったので、
フレドはなんと言っていいものかと戸惑った。
「仕事の邪魔をしてすまないが」
「い、いえ」
 アヴァリスを背にして、影になっていた騎士の顔が、ようやくはっきりと見えた。その顔を見るや、フレドは今度こそ仰天した。   
「あ、あなたは……」
 それは、これまで見たこともないような美しい騎士だった。
 朝日に輝く金色の髪と、名匠の手による精巧な彫刻でもあるような美貌……深い湖のような青い目などは、サルマでは見たこともない。着ているものは、むしろ地味な胴着にグレーのマントという、ごく普通の出で立ちであったが、むしろそれがかえって、その騎士の美しさを引き立てているといってもよかった。
 どう考えても、その騎士が只者ではなく、大変な貴族かなにかであろうことは明白であった。その顔つきや、話し方にも、凛然たる誇りと気品を漂わせている。
「あなたさまは……」
「私は、アレン。アレイエン・ディナース」
「アレイエンさま」
 フレドは思わずというように、うやうやしく膝をついた。
「そのようなことはしないでいい。私はフェスーンより来た。大変な事件が起こり、その使いとしてだ」
「は、はあ……」
「レード公はどちらにおられるかな」
「は……」
 フレドは、しどろもどろに答えた。
「レード公爵閣下、大将軍さま……でありますか」
「そうだ。いそぎ目通りをせねばならぬ」
「ええと、あの」
 疲れ切っている頭を働かせて、フレドはあたりを見回した。
「あ、あちらです。あちらの大きな天幕に、お偉い方々はいつもおりますです」
 そう答えるのが精一杯だった。
「ふむ。ありがとう。ところで、」
「は、はい。なんでございましょうか」
 あたりに並べられた武具を見回すと、アレンはうなずいた。
「お前はとても腕のいい鍛冶屋のようだ」
「は、恐縮でございます」
「では頼むとしよう。私にも、ひとつよい剣をくれぬかな」
「剣でございますか。どのような?」
「あまり重すぎず、かといって細すぎぬくらいのものだ。できたら鋼鉄のものがいいのだが」
「鋼鉄、でございますか」
「ないか?」
「いえ、あのう……」
 フレドは迷ったすえに言った。
「ございます。私はサルマの町で鍛冶屋を営んでおりました。トレミリアのためにお役に立てればと、自慢の剣をいくつか持ってきております。そのうちの一本はローリング閣下が気に入られてお持ちくださいました。他のものも何人かの騎士さまが」
「ほう、ローリングどのが」
「はい。そのうちの一本を昨夜のうちに直したところです。こちらも、たぶん名のある騎士さまがお使いになっていたと思いますが、それをお渡しいたします」
「いいのか」
「はい」
 フレドは、寝ていた小姓を叩き起こすと、その剣を持って来させた。
「こちらでございます」
「どれ……ほう」
 アレンはひらりと馬を降りると、渡された剣を手に持った。
「重すぎず軽すぎず、これはいいな」
「こちらが鞘になります」
「ありがとう」
 剣をベルトに吊り下げたアレンの姿を、フレドは惚れ惚れと見つめた。名前すら知らぬ騎士に、大切な最上の剣を渡すことにも、不思議となんのためらいもなかった。
(この方は……ただものではない)
 それは職人の勘というものであったろうか、フレドには、この世にも美しい騎士が、神に選ばれし運命をもつ人間であると、そのような気がしていた。
「お前は名工だな。名はなんという?」
「フレドでございます」
「あらためて礼を言うぞ、フレド」
「めっそうもございません」
 すっかり眠気は消えていた。そればかりか、フレドは自分がいま、大変な相手に剣を渡し、わずかばかりでもその力になれたことに、言い知れぬ興奮を覚えていた。
「覚えておくぞフレド……いつか」
 アレンは再び馬に乗ると、己の言いかけた言葉を言いなおした。
「いつか、また会うことがあるかもしれぬ」
「光栄でございます」
 ひざまずいた職人は、まるで己の王にでも拝するように、頭を垂れた。
 アレンを乗せた馬が走り出し、その姿が天幕の影に見えなくなるまで、フレドは胸に手を当て礼をしたまま見送り続けた。
 さきほどまでの眠気と疲れとが、不思議とやわらいでいた。職人は、眠たそうな小姓をどやしつけると、再び金床の前に立った。
 朝まだきのなかを、力強いハンマーの響きが上がる。それに続いて、起き出してきた他の鍛冶屋たちも、次々にまたハンマーを手にし、競うようにしてその音を響かせ始めた。

「なんと、フェスーンからの火急の使者というのは、おぬしのことだったか」
 声を上げたのはローリングであった。
 天幕に通されたアレンを見るや、驚きの顔とともに歩み寄る。
「ローリングどの……いや、いまは副司令官どのですか、お久しぶりです。そして、レード公爵閣下、」
 ローリングとレード公に向かって、アレンはうやうやしく騎士の礼をした。
「いくさの最中、唐突にも参じましたことをお許しください」
「かまわぬ、火急の報告があるというのは、まことか」
「はい」
 うなずきながら、アレンは、さっと天幕内の様子を見て取った。
 そこにいたのは、レード公爵、ローリングをはじめ、ハイロン、クーマンらの十名ほどの隊長クラスの騎士たちであった。誰もが、激しい戦いをしてきたに違いなく、傷を負い、血の滲む包帯を腕や足にまいたものもいる。ローリング自身も、かすり傷程度であろうが、腕に包帯をまき、身につけた鎧には、数々の傷が生々しく残っていた。
 アレンはまず、ここにレークがおらぬこと、それに先日フェスーンを出発した、セルムラード軍の面々も、まったくいないことを素早く見て取ったが、あくまで、戦いの激しさを物語る騎士たちの様子に圧倒されたふうに、目を見開いて見せた。
「アレイエン、であったな。こちらへ」
 レード公が手招きする。アレンは一礼すると、天幕の中央に進み出た。
「ぬしはレークの相棒であり、また見事な剣士でもある。こうして、直接に言葉を交わすのは初めてながら、ローリングやオライア公などからよく話を聞いておる」
「恐縮に存じます」
「この通り、わが軍は大きないくさの只中にある。今朝も、日の出とともに軍議を始めたところでな、これからまたすぐに戦いが始まるだろう」
 天幕にいる騎士たちは、あまり眠ってもおらぬののか、誰もが疲労の色が濃くみえた。だがその目の光や、顔つきには、すくにでも剣をとって戦うだろうという鋭さがあった。レード公にしても、全軍の指揮をとる司令官の任務を連日果たし続けて、その疲れは見た目にも明らかであったが、それでも、大将軍と言われるほどの存在感と、その意志の力をその全身になおみなぎらせていた。
「我々は多くの犠牲を出し、また多くの血を流した。だが今日の戦いはもう始まっている。斥候の兵がジャリア軍の接近を報告してくれば、すぐに迎え撃たなくてはならん。フェスーンから、早馬を飛ばしてくるというのは、相当なことがあったのであろうな。ならば、手短に申してみよ」
「おそれながら……あるいはこれは、いくぶんの機密に触れる知らせでございますので」
「かまわん。ここにいるのは我が信頼の厚い、トレミリアの名だたる騎士たちである。隠すことなどはなにもない。申してみよ」
「はい。では」
 アレンは、深く息を吸い込んだ。そして、さも重大な事を告げるように、一字一句、言葉の意味を強調しながら告げた。
「ウェルドスラーブの、コルヴィーノ国王陛下が、暗殺されましてございます」
「なっ……」
 レード公は、言葉を失った。
 さすがに、そのようなこととは誰一人として予期していなかったに違いない。その場にいる人々も、一瞬、耳を疑うようにして静まり返った。
「まさか、そんなことが……」
「馬鹿な。なにかの間違いではないか」
 一様に眉を寄せて、ざわめきだした騎士たちを見ながら、アレンはあくまで冷静に言葉をついだ。
「ともかく、オライア公爵閣下からの文書をお渡しします」
「うむ」
レード公は受け取った羊皮紙を開き、そこに書かれた文字をざっと読みくだした。さすがに、将軍たる器の公爵である。もうその顔から驚きの色は消えていた。
「……なるほど、ここに書かれたことには相違ないようだ。下手人はジャリアの間者ということだ」
 オライア公爵の蝋印の入った文書を人々に向かって見せると、レード公はそれをローリングに手渡した。
 ローリングは、注意深く文書に目を落とすと、その口元を引き結んだ。
「コルヴィーノ王はさぞご無念であったろう」
 人々が沈痛な面持ちで顔を見合わせる。
「王が亡くなられたということは、ウェルドスラーブはいったいどうなるのか……」
「だが、ティーナ王妃はご無事なのだろう」
「王妃もまだお若いというのに、おかわいそうに」
「コルヴィーノ陛下を失われたティーナ王妃のお嘆きようは、見るにも痛ましいほどで、クリミナ姫におられては、間者を招き入れたのは己の責任と、深く傷つかれておられるご様子。サーシャさまは、そんなクリミナ姫をよく気づかわれておるようでした」
 アレンは憂愁の顔つきで、そう言いながら静かに目を伏せた。己自身がウェルドスラーブ王の殺害に関与……とはいわぬまでも、見殺しにしたという事実などはおくびにも出さぬ。
「ご無礼な言いようかもしれませぬが、さすがはトレヴィザン提督夫人、サーシャさまは大変気丈な方と、私は大変感嘆いたしました」
 さすがにアレンはどうやって人の心をつかみ、その信頼を得るかを心得ていた。
「ご自身も大変にショックであったはずでしょうし、また遠く離れて戦うトレヴィザン提督へのご心配もおありのはずながら、無用に騒ぐこともなく、いたって気丈にふるまわれ、泣き嘆くティーナ王妃をいたわられ、気落ちするクリミナ姫に寄り添い、お言葉をかけつづけておられました」
「そうか」
 それを聞いたレード公は、その目の中に、娘であるサーシャの姿を思い浮かべるように、目を閉じると、じっと腕を組んだ。
「ところでアレン、そのオライア公の文書によると、おぬしはその下手人を追ってきたということだが?」
 ローリングの言葉に、アレンはうなずいた。
「はい。その男がフェスーンを脱出、南下してサルマを通り、この草原に出たという足どりはつかみました。やつは間違いなく、ジャリア軍のもとへ向かったと思われます。私は実際に剣をまじえましたが、その剣の腕からして、ジャリアの名のある騎士、いえ、もっといえば、その者は黒竜王子直属の四十五人隊の騎士であろうと思われます」
「おぬしの剣の腕は知っておるからな、そう言うのなら、それは相当の剣士なのだろう。なにせ刺客に選ぶくらいであろうからな」
「私としましては、なんとかその下手人を捕らえ、あるいは殺し、ウェルドスラーブ王陛下とサーシャ王妃殿下のご無念を晴らしたいと考えております。その男を宮廷から取り逃した自分の責任も感じておりますれば。オライア公爵の許しも得て、ともかくここまでまいった次第」
 いくぶん熱を込めたまなざしで、アレンはレード公に向き直った。
「そして、私の相棒であるレーク・ドップがこの草原で戦っているという噂も知りまして、彼の健在を確かめたくもありました」
 それはまぎれもなく本心であった。むしろ、このままロッドを探索するよりも、トレミリア軍に合流して、己の立場を明確にした上で、上手くすればレークとも合流できるか、その居場所を知ることができるだろうと、アレンは考えたのだ。
「彼は供に旅をしてきた、兄弟といってよい人間ですから、彼の……レークのことが気がかりで。最後に会ってから、便りのないまま、このように大きな戦いが始まってしまうとは思わず、自分にはただ、レークの無事を祈ることしかできませんでした」
 うつむくアレンの様子に、ローリングは感じ入ったようだった。
「なるほど、おぬしらは、二人で一人……互いにまことに大切な存在であろうからな」
 軍部の情報を話すには、司令官の許可がいる。ローリングは、レード公がうなずくのを見てから話し出した。
「そう。レークは、確かにこの草原で我らと共に戦っていた」
「やはり、そうでしたか」
「ときが移るので手短に言うが、セルムラード軍を含めた援軍をレークの小隊が迎えに行ったが、そのまま北の湿原にてジャリア軍に包囲されたのだ。援軍を助けるため、我々は敵の壁を突破しようとこころみた。それが昨日のことだ。だが、やはりそれは敵の罠であった。先鋭部隊はなんとか敵の壁を突破したようだが、我々は両側から敵に挟まれ撤退を余儀なくされた」
 ローリングの言葉に耳を傾けながら、アレンはその情報を頭にたたき込んだ。
「なので、援軍が……つまりレークが無事なのかどうか、いまだに分からない。アルトリウスが率いる先鋭部隊がうまく合流できていればいいのだが。報告はまったくないのだ」
「つまり、セルムラードの援軍ともども、草原のどこにいるか、その所在はまだつかめていないということですか」
「うむ。ただ、援軍は北の湿原地帯に追い込まれていたということだから、そこを脱出できたにせよ……そう信じたいが、まだ草原の北東部にあるのではと思っている」
「そうですが。ではやはり、私はレークの無事を祈り、セルムラードの援軍の健在を信じることにいたします。そして、私はこの身に代えまして、コルヴィーノ陛下のご無念を晴らすべく、下手人を追跡したいと、そう考えています」
「だが、おぬしの言うように、その男がジャリアの騎士で、すでに草原に入っているのなら、もうとっくに敵軍に合流しているのではないか?」
「かもしれません。ですが、それでも最後まで、せめて、その下手人の居所を確かめたいのです。もしも、そやつがジャリア軍に合流しているとすれば、それならば、私はなんとしてでもジャリア軍と戦い、もろとも下手人を倒したいと思います。これは刺客を逃した私の責任でもあり、また、詳しくお話しする時間はありませんが、その刺客をフェスーンに招き入れることとなった、宮廷騎士長クリミナどのの感じておられる責任、その痛切なる思いを、私も一緒に背負ってのことでごさいます」
「つまり、おぬしは、これからすぐに下手人を追って飛び出したい、それも単独で、ということか。それは無謀というか、あまりに危険だ」
「もとより、命を失うことは、フェスーンを発ってから覚悟の上でございます」
 アレンの顔つきは真剣そのもので、思い詰めた者の悲壮感に溢れていた。その秀麗な面持ちで見つめられると、ローリングはなにも言えなくなった。
 しばらく黙っていたレード公が口を開いた。
「オライア公の文書には、この件に関してのすべてを、アレイエン・ディナースに任せること、彼への協力を惜しまず、いっさいの制限を与えず行動させること、それをトレミリア宰相の名のもとに、正規の命令文とすることが記されてある」
 ひとつ間を置いてから、公爵は告げた。
「ならば、そうするがよかろう。その代わり、我々の戦いの妨げとなるような行動に関しては、それを許さず、また、そなたがいかなる窮地に立ったとしても、我々は関与しない。いや、たとえそうしたくとも、余分に動かせる兵力などは、我々にはもう残っておらぬのでな。それでもよいか」
「はい。感謝いたします」
「レークは勇敢な戦士だ。そうであるなら、また、おぬしもきっとそうなのだろう。男には、それぞれの目的があり、それぞれの道がある。それぞれの道義、誇りがあるだろう。おぬしともまた会うこともあるだろう。いや、あるいはもうないかもしれぬ。だが、これだけは言っておく」
「はい」
 金髪の美剣士の顔を、レード公爵は計るようにじっと見つめた。
「誰にも目指すべき道は、たったひとつではない。道を誤ったとしても、それは取り返しのつかぬことではない。人は生きる。ただ死ぬまで生きる。それだけなのだ」
「……」
 アレンは、いまはじめて、レード公爵という人物のまなざしを正面から受け止めた。その強い意志の光に、ちくりと心臓を刺されたような気持ちがしただろうか。
「……肝に命じます」
 ただアレンは、そうつぶやくように言った。
「武器や食料は好きなだけもっていくがいい。すぐにゆくのか?」
「は、下手人を追い、その居場所を突き止め、さらにできれば、レークの居場所を探したいと思います」
「分かった。では行くがよい」
 レード公は、最後にアレンを見つめて、その手を差し出した。一国の将軍たる大公爵が、地位もなき一介の剣士と対等に握手をするなどというのは、まずないことであった。アレンは、驚くように……少なくとも表面的にはうやうやしく、その手を握った。
「もしも、我らが力及ばず、この草原で果てたときには、そのときに、もしそなたが生き残っていたなら……そう、いつか、娘のサーシャかナルニアに伝えてやってくれ。父はトレミリアのために最後まで戦ったと」 
「分かりました」
 アレンはうなずくと、その場の他の騎士たちにも、胸に手を当てて礼をした。
「それでは、失礼いたします」
 そのとき、斥候の騎士が慌ただしく駆け込んできた。
「敵軍接近!」
「きたか!」
 天幕にいる人々がさっと顔を緊張させる。
「敵は長槍部隊を先頭に、密集隊形で進軍してきます!その距離、およそ五百ドーン」
「よし、編成を終えた部隊から前に出せ。両側に長弓部隊を配置。二百ドーンの距離に入ったら攻撃しろ。ハイロン、前線を頼む。リンデスとヨルンも行け」
「はっ」
 レード公の命令を受け、騎士たちが慌ただしく駆け出してゆく。
「私も行きます」
 ローリングが進言した。
「敵が密集隊形で攻めてくるなら、こちらも重装兵が必要でしょう。ブロテに編成をさせていますので、私が隊の指揮をとります。本営の守りはクーマンどのにお任せしたい」
「分かった」
 公爵は、やむを得ぬとうなずいた。昨日の戦いで、ロッベン、ヤコン、それにフレインといった、隊長騎士クラスの戦死が相次いでいる。もっとも頼りになるローリング、ブロテの両方を前線に投入しなくてはならないというのは、いかにも苦しい布陣であったが、それももはや仕方がなかった。
「では、ブロテとローリングの重装兵隊を中央に置く。残った歩兵と騎馬隊は、両翼に回せ」
「はっ」
 守りを任されたクーマンを除く、すべての隊長騎士たちが、慌ただしく天幕を飛び出してゆく。それにまぎれるように、アレンも天幕を出た。
 せわしなく行き交う騎士や兵士たち、命令と怒声とが陣内に飛び交っている。いよいよこれから最大の戦いが始まるのだという、緊迫した空気がそこにあった。
「あのう、騎士さま……兜か鎧を持ってきましょうか?」
 アレンが自分の馬に近づくと、小姓らしき少年がおずおずと近づいてきた。まだ十五にもならぬくらいの少年であるが、この戦時においても怖がるふうではなく、その顔にはうっすらと笑顔すらあった。
 いくぶん胸をつかれた思いで、アレンはその黒い髪の少年を見た。
「いや、鎧はいらないが」
「そうでございますか。他になにかご入り用のものは?」
「いや……そうだな、では水と、ちょっとした食料をもらえるかな」
「かしこまりました」
 少年は嬉しそうにうなずくと、さっと走っていった。ほどなくして水筒とパンの入った包みを少年が抱えてきた。
「ありがとう」
 アレンはパンを一口かじり、水を一口飲んでから、それを少年に手渡した。
「もういい。あとは君が食べるといい」
「ええっ」
 少年は驚いたが、アレンがうなずくと、それを受け取った。
「いくさの間はなにも食べられぬかもしれないだろう。いまのうちに食べておくんだな」
「あ、あの……」
「では、私はもうゆく」
 なにかを振り払うように、顔をそむけるとアレンは馬にまたがった。
「き、騎士さま。あの……あの、お名前は?」
「……アレンだ。アレイエン・ディナース」
 少年の問いになど答える義理もなかったが、勝手に口が動いた。
「アレイエンさま……」
「ではな」
 なんとなく、いたたまれぬ気持ちで、アレンは手綱を握りしめると、少年を振り返りもせず馬の腹を蹴った。
 あの少年がこのいくさを生き延びられるのかどうか、そんなことは考えたくもなかった。トレミリアがどうなろうとも、どうせ自分にはもう関係はないのだ。
「……」
 だが、ふと、生きていて欲しいという、そんな思いを頭によぎらせると、アレンは己の感傷をあざ笑うように、口元をゆがめた。
(ふむ……では北東へ向かうか)
 アヴァリスの陽光に輝く金髪をなびかせて、軽やかに手綱をとる一騎は、慌ただしく動き出したトレミリアの陣内から離れるように走り出した。


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