にゃーどとドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆7◆ 湖の甲羅島

 一方、彼らのいる森から、はるか北……
 王城を超え、北の森の塔を通りさらに北へと進み、山間の深い渓谷を越えると、周囲にはもはや人が住むには向かないはずの、切り立った山々が広がる。
 黒々とした、尖った山々の影に囲まれた、うすら寒いような風景には、人間の気配はもちろん、鳥や動物の影も、緑の木々の一本すら見当たらない。周囲にあるのは灰色の岩と固い土ばかりである。
 そんな岩山に囲まれた、寒々しい北の外れの土地に、その城はあった。
 いや、それは城というには美しい様式にも、優雅な華やかさにも欠けており、鳥たちの踊る緑の庭園もなければ、王国の権威を示すはずの塔にたなびく流旗すらも見えない。無骨でごつごつとした黒い固まり……岩と黒曜石のみで造られたかのようなそれは、まさに黒い宮殿と呼ぶべきものだった。
「エンシフェル様」
 その黒い城の謁見の間と思われる、しかし誰一人として延臣の姿もない暗く静まり返った広間に、今、魔術師ゲルフィーがひっそりとひざまずいていた。
 黒曜石の大きな柱が高い天井まで伸びた、そのとても広々とした冷たい空間は、ただひっそりとしているばかりで、人の気配というものはまったくない。魔術師のひざまずく階段の先には、ねっとりとした濃密な闇だけが広がり、そこからはひそとも音はしない。
「エンシフェル様」
 黒いフード姿のゲルフィーが、もう一度声に出して呼びかける。それは、相手を起こしてしまって、その逆鱗に触れるのを恐れるような、そんな控えめな呼びかけだった。
 柱に挟まれた黒い闇の向こうには、依然として何の気配もしなかった。ちらりとそちらを見た魔術師が、さらに呼びかけようかと迷うように声を上げかけたとき、
 かたん、とかすかな物音がして、不意に闇の中にぽっと青白い炎がともった。
「エンシフェル様……」
 ほっとしたように、魔術師はまた頭をたれた。
「ガ……ガゴ」
 なにか人ならざるもの……まるで獣かなにかのような、唸りともつかぬ、ひどく低い声が聞こえた。
 青白い炎が揺らいだ。と、思うと、それは炎からやがて人の顔のような形になった。
「お目覚めであられますか」
「ガ……あ、ああ」
 唸り声が、やがて人の声に定まってゆくのを、魔術師は聞いた。そして、意外にも、それは若い男の声へと変わった。
「ああ……ゲルフィーか」
「はっ、安らかなお眠りを妨げましたこと、おわびいたします」
 魔術師が頭を下げる階段の上に、今まで闇に隠れていたのか、唐突に玉座が現れ、そこに……人の姿をしたものが座っていた。いや、はたしてそれは人といってよかったものか。
「よい。して、どうなっている?」
 玉座からの声は、ややいらいらとしているようでもあったが、それは怒りというよりは、むしろ長い退屈の時間に飽き飽きとしている、というふうであった。
「はい。ご報告申し上げます。ついさきほど、南の方から魔力の結合の際に起こる、空気のゆらぎを感じました。これは間違いなく、鍵の出会いによるものだと思われます」
「うむ」
 魔術師の報告に、玉座の声が答える。
「われも眠りの中で感じた。片方は貴様の持っていたはずの風の力だったが……」
「恐れ入りましてございます」
 魔術師が深々と頭を下げる。
「ちょっとした手違いにより、風の鍵は王子の手に渡ったものと思われます。つまり、今しがた、王子が二本目の鍵を手に入れたと思って間違いないかと」
 玉座に座る影がかすかにゆらめいた。それは、どうやらその者が作る笑いであるらしい。
「なるほど。貴様の愚かな失態も、思わぬ方へ転がったわけだな」
 青白い炎のような顔が、闇の中にまたたくように現れてはまた消える。炎の中でかすかに形が分かるその者は、先の尖った王冠をかぶり、髪は肩からこぼれるほどに長い。
「よいではないか」
 その静かな声に、ゲルフィーははっとなって顔を上げた。
「エンシフェル様……」
「ならば手間がはぶけるというもの。かつて奪われた鍵が、三本そろって向こうからやってくるとしたら?」
「確かに、それは好機でありますな」
 王に仕える家臣のように、魔術師はうやうやしく胸に手を置いた。
「それでは、あとのことは私にお任せを。王城の支配はまもなく我が手に入ります。これより魔の力を少しずつお借りし、王国全土に闇のパワーを広げてゆきます。そして王子については、いずれ向こうから近づいてきたその時に、鍵ともども闇に飲み込むことにいたしましょう」
「よかろう」
 玉座の背後で、青い炎のゆらめきが大きくなる。
「では、我はもうしばらく待つとしよう。炎の力とともに……」
 再び、闇の中に玉座が溶け込んでゆこうとしていた。
 濃密な闇が全てを包み込む直前、青い炎が玉座に座るものの姿を、一瞬だけ映し出した。
 王冠をかぶり、すらりと長い手足をしたその姿……青白い肌をした男の顔には、つり上がった両の目と、額に刻まれたもうひとつの目があった。そして、頭の両側からは、人ならざる者のもつ、鋭く尖った角が天に向かって突き出していた。玉座を包む青白い炎は……まるでその角から吹き出しているようだった。
「ごゆるりとお休みを。闇皇帝、エンシフェル様……」
 再びひざまずいた魔術師が頭を垂れるその前で、青い炎は静かに闇の中に消えていった。あとにはただ、漆黒の暗闇だけが残された。
 再び静寂と影とに包まれた宮殿は、不気味なまでに静まり返り、人間的な世界とは程遠い、冷たく濃密な暗黒がすべてを支配するかのようだった。

 ペトルたち一行は、川べりでしばしの休憩をとっていた。
「なあ、ところでその鍵っての見つけて、どうしようってんだ?」
 川底の魚を狙って、石の上に素足で立ちながら、詩人のレファルドが尋ねた。
「そら、よっと」
 手にしたナイフを投げると、見事に目の前の水面を泳ぐ魚を仕留めた。詩人の横で、川面を覗き込んでいたペトルが、すかさず魚を拾い上げる。
「なにしろ四つの鍵を見つけたら、なんでも願いがかなうんだろ?もしかして、それで世界中全部を自分のモンにでもしようってのかい?」
 冗談めかして言った詩人に、ペトルはくすりと笑った。
「そうじゃないよ。ただ、僕はね……」
 本当のことを言うべきか、少年は少し迷った。
「あのね……ええと、」
「なんだよ?」
 首をかしげるレファルド。ためらいがちにペトルが口を開きかけたとき、
「おおい、火がついたぞう!」
 巨人のギルが、どすどすと大股でこちらにやってきた。
「なあ、おらが、おらが火をおこしただ。早く、早くきてけろ」
「ああ、分かったよ。そんな大声を出さなくたって聞こえてらあ」
 レファルドはふんと鼻を鳴らした。
 彼はどうも、この巨人ののろまでどんくさいのが気に食わないらしい。詩人はぶつぶつと言いながら、仕留めた魚を手に川原の方に歩いてゆく。
 焚き火を囲んだ四人は、焼いた魚と、村長夫人の包みにあったパンと塩漬け肉で食事を済ますと、これからどうするかというように、互いに顔を見合わせた。
「ともかく、みっつ目の鍵に関する情報を得ないことには、どちらへ向かうのがよいのかも分からないな」
 そう切り出したガシュウィンの言葉は正しく、ペトルもレファルドもうなずいた。
「私は何年かあの村に住んでいたのだが、これまで鍵の伝説に関する話はなにも耳にしなかった」
「そうだなあ……オレもいろいろと旅したもんだが、魔法の鍵の言い伝えは聞いたことがあっても、具体的にその鍵がどこどこにあるって情報は聞いたこともない」
 そう言って、レファルドも考え込むように腕を組んだ。その横では巨人のギルが、魚を骨ごと噛み砕き、飲み込むのに夢中であった。
 四人は焚き火を囲み、しばらくそれぞれの考えに浸った。これからどちらへ向かえばいいのか、結局のところ、誰にもはっきり決められそうもなかった。
「……」
 ペトルは、一人立ち上がると、川べりへ歩いていった。
 ゆるやかに流れる水面を見つめながら、彼は城のことや、両親のことなどをぼんやりと思い浮かべた。それから、叔父やルリカ、それにあの嫌なゲルフィーのこと、そして村の老夫婦とセシリーのこと、ガシュウィンとレファルド、ギルという仲間たちのことを。
 しばらく川べりに座り、それらのことに思いをはせる。
(これからどうすればいいんだろう……)
(僕は、なにをすればいいんだろう)
 鍵を見つけるといっても、その手掛かりはなにもなく、このままどこへともなくさすらい続け、ガシュウィンやレファルド、ギルたちに、いらぬ迷惑をかけていいものだろうか。
(なんとか、次の鍵を見つけられれば……そうしたら、またなにかが分かる気がする)
 ペトルはそう思った。なにげなく首にかけた二本の鍵に手をやり、祈るようにつぶやく。
(どうか、次の鍵の手掛かりが見つかりますように)
 すると
 一瞬、手にした緑色の鍵が、かすかに光ったように思えた。
 それは気のせいだっただろうか、鍵の輝きはすぐに消えてしまった。
 それから、しばらくはなにも起きなかった。
 なにか腑に落ちない気分のままペトルは立ち上がり、皆のいるところへ戻ろうと歩きだした。そのときふと、川をはさんだ対岸の林から、こちらをじっと見ているものがあった。
 それは一頭の雌鹿であった。
 くるりとした大きな目が、木々の間からじっとペトルのことを見つめている。
「鹿さん?」
 話しかけるようにペトルが声に出すと、鹿は首を傾けるようにしながらも、そこを動かずこちらを見つめている。
 不思議に思ったペトルがなおもそちらを見ていると、鹿はいきなりくるりと体の向きを変えた。その尻尾が、まるでおいでおいでをするように、ちょこちょこと動いた。
「あっ、もしかして……こっちに来いってこと?」
 ペトルが尋ねると、鹿はまたこちらを向いて首をかしげると、今度はさっと林の中へ消えてしまった。
「なんだか、ついて来いって言っているみたいだ……」
 林に入ってしまった鹿は、まだ遠くには行っていないらしい。よく見ると、木々の間にちらちらと動くものが見え隠れしている。
「……そうだね、うん。きっとそうだ」
 ペトルは大急ぎで皆の所へ戻ると、今の鹿のことを皆に話した。
「なんだって?鹿についていく?」
「そうだよ」
「はっ」
 レファルドが馬鹿にしたように言った。
「どこへ行くあてもないんで、ついに鹿さんの力を借りようっていうワケか」
「うん」
 素直にうなずいた少年に、詩人は呆れたような目を向けた。
「おい、マジか?いくらなんでも、おとぎ話じゃないんだから。動物が案内してくれるとでも、本気で思っているのか?」
「でも、あの鹿さんは、本当に僕についてこいって言っているみたいだったよ」
「おいおい……なあ、お前さん、ついに頭がまいっちまったんじゃないのか?」
 口を歪めるレファルドだったが、ペトルは真剣な顔で言った。
「とにかく、行ってみようよ。手掛かりがないからって、ずっとここにいるわけにもいかないでしょう」
「それはその通りだな」
 ガシュウィンはうなずいた。
「おいおい、本気で鹿なんかの後についてゆこうってのかい?大の大人が二人もいて」
「おらもいるだ!」
 ギルがむっとしたように言ったので、詩人は言いなおした。
「大の大人二人と、さらに大の巨人までいて……」
「うん。行こうよ」
 少年は、きらきらと目を輝かせてうなずいた。その首にかけられた鍵も、まるで同じように輝いているように見えた。
 無言で立ち上がったガシュウィンを見て、詩人も「やれやれ」と言いながら支度を始めた。ギルは残りの食料の包みを軽々と背負う。
 四人は川を渡り、林の中へと入っていった。
 少年が鹿を見たというあたりにゆくと、驚いたことにその鹿はまだそこにいた。
 彼らが近づいてゆくと、鹿はまるでそれを待っていたように木々の間からひょっこり顔を覗かせ、それから林の奥へと走りだした。顔を見合わせた四人は、すぐさま鹿の後を追って歩きだした。
 彼らの前をゆく鹿は、速すぎず遅すぎずといった足取りで、少し進んで見えなくなったと思えば、しばらくゆくと四人を待ち構えるようにして立ち止まっていたりした。そしてまた、付いてこいというように尻尾を振って走り出すのだ。
「なんだかな、本当に奇妙な鹿だぜ。まるで本当にオレたちを案内しているみたいだ」
 はじめはぶつぶつと文句を言っていた詩人も、今では不思議そうに鹿の行く手を見つめながら歩いている。すでに、森の奥深くまで歩いてきて、自分たちではどの方向へ向かっているのかも分からない。こうなったら、もうあの鹿を頼りにするしかないのだった。
 延々と続いている森の中の道なき道を、一頭の鹿の案内で歩いてゆく四人……彼らは、王子の身分を隠した少年と元王国の騎士である戦士、旅の吟遊詩人と巨人族の生き残りという、なんとも奇妙な組み合わせの四人で、そんな彼らが木々をかき分けながら鹿の後を追う様子は、どこか物語の中のように幻想的な光景だった。
 そうしてどれくらい歩いた頃だろうか、歩く先にまた小川のせせらぎが聞こえてきた。森はここでいったんとぎれている。
 そこまで来ると、彼らの前をゆく鹿は突然立ち止まってしまった。
「どうしたんだ?もう着いたのかな」
 四人は小川の手前で立ち止まり、辺りを見回した。
 しかし、川の流れの他には周囲にはなにも変わったところはない。川を渡った先にはまた、相変わらずの深い森が広がっている。
 すると、鹿はまるで自分の役割は終わったというように、くるりと向こうを向いて、元来た方へと帰ってしまった。
「なんだってんだ、おい」
 それを見て、レファルドが不満そうに言った。
「なあ。てえことはやっぱり、あれはただの鹿で、結局のところオレたちは、鹿さんを追いかけ回してたくさん歩かされた挙げ句、ついに道に迷ったってワケなのかい?」
「わからんな」
 ガシュウィンは腕を組んだ。
 頭上にはうっそうと木々が生い茂り、太陽の位置から方角を確かめることもできそうもない。大きな体で木々をかき分け、皆の後を付いてきたギルも、かなり疲れた様子で顔中にびっしょりと汗をかいていた。
「ああっ、まったく。だから、たかが鹿なんぞを当てにするのは馬鹿らしいって言ったんだ!」
 詩人はぺっと唾をはいて、その場に座り込んだ。さっきまでは鹿の行き先を面白がっていたことなど、すっかり棚に上げている。
「……」
 ペトルは、じっと小川の向こうを見ていた。首にかけた鍵に手をやり、また願うように祈る。そうしてしばらく待っていると、期待していたことが起こった。
 森の中から、不意に一頭の狼が現れた。灰色の毛をしたその狼は、さっきの鹿と同じように、少し離れた所からこちらをじっと見ている。
「おい、見ろよ。今度は狼が出たぞ」
 レファルドが指さした。
「鹿の次は狼だ。だったら食える分だけ鹿の方がマシだったな」
「行こう、みんな」
「行こうって、おい……まさか」
 ペトルが歩きだすと、狼はそれを待っていたように、ぴんと頭を上げ森の奥へと歩きだした。その尻尾がふさふさと揺れている。
「なるほど……鹿が案内できるのはここまでで、ここから先は狼の縄張りというワケだ」
 感心したようにうなずき、ガシュウィンもそれに続いた。
「なんだって?それじゃあ、さっきの鹿も、あの狼も、同じようにオレたちを案内しようとしているってのか?」
 立ち上がったレファルドは、目を丸くしてつぶやいた。
「そんな馬鹿な……」
 だが、ここまで来たらもう、この動物たちに頼るより他に方法もなさそうだった。
 一行は、新しい森の案内人の後について、また木々の間を歩きだした。

 ドラゴンネコのにゃーどは水辺にいた。ぴちぴちとした新鮮な獲物が欲しかったからだ。
 城を出てきてからまだ何も食べていなかった。鼻をたよりに水の匂いを追って、たどり着いたのはまるで広い海のような場所だった。
 だが、ここは潮の香りもしなければ、白いかもめも飛んでいない。波の音もしなければ、砂浜もない。何故ならここは海ではなく、広い広い湖であった。
 ともかくお腹が減っていた。なんとかして、自分で獲物をとらなくてはならない。
「にゃー」
 可愛らしくひと声鳴くと、彼はさっそく水面を覗き込んだ。だが、水の中にときおり魚の影は見えるが、それはもっと深いあたりだ。ここからツメで仕留めるには遠すぎる。
「にゃー」
 今度は少し困ったように鳴いて、彼は仕方なくてくてくと水辺を歩きだした。
 湖の周囲は、白くもやで曇っていた。水辺から少し離れると、そこにはもう木々の生い茂る森が広がっている。この辺りの森には、彼が獲物に出来そうな小動物はほとんど見られない。
 長いこと飛んできたせいで、彼は疲れ果てていた。何か食べなくてはもう飛べそうもない。てくてくと、にゃーどがあてもなく水辺を歩いていると、不意になにかの気配を感じたのか、背中の毛がぴんと逆立った。
「ふーっ」
 ウロコのついた尻尾をぴんと立たせ、緊張したような唸り声を上げる。
 森の中にたくさんの光る目が見えた。ぞろぞろと、木々の間から現れたのは、たくさんの狼だった。十匹近くはいるだろう、灰色狼の群れである。
 狼たちは、前方に立ちはだかるように一列に並ぶと、ふっふっ、と息をはきながら赤い目を光らせた。
「にゃ……」
 にゃーどは後ずさった。
 すると背後の木々からも、数匹の狼が逃げ場をふさぐようにして現れた。
「ふーっ」
 挟み打ちにされたにゃーどは、相手を威嚇するように懸命に唸ってみせた。しかし、狼たちはまるで動じず、罠にかかった獲物を追い込むように、じりじりと近づいてくる。
 ただのネコではないとはいえ、自分よりもはるかに大きな牙を持つ狼の群れを相手にしては勝ち目はない。それに今は、空を飛んで逃げることもできそうになかった。
 にゃーどは、じりじりと後ずさった。後ろにいる狼たちも、その分距離を狭めてくる。
「……」
 もはや、声を出して威嚇する元気もなかった。ただし、このまま囲まれて襲われるのだけはご免である。
「ふにゃっ」
 にゃーどはいきなりぱっと横を向き、森の方へと走り出した。その意表をつく動きに、狼たちは一瞬遅れをとった。
 木々の間に飛び込むと、にゃーどは森の中を逃げた。それを追って、狼たちも次々に森の中へと駆けだした。
 だが、不利なのは明らかににゃーどの方だった。
 森に住む狼たちにとって、木々の間を駆け抜けて獲物を狙う狩りは、日頃から慣れたものだった。賢い彼らは、すぐに何匹かに分かれて、挟み打ちや迎え撃ちをする。にゃーどがどちらの方向へ逃げても、狼たちは確実に先回りをすることができた。
 そしてやはり狼たちの作戦通り、にゃーどはすぐに三方向から囲まれてしまった。木々の間から、狼たちが輪を描くようにして近づいてくる。
「にゃっ」
 にゃーどは手近な木に飛びつくように登りだした。もう他に逃げる場所はなかった。
 高い枝の上まで登ると、だがもうそこで動けなくなった。狼たちが一斉ににゃーどのいる木の周りを取り囲む。
 逃げるのにすっかり疲れはて、お腹もすいて、もう動けそうもない。にゃーどはそのまま木の上でぶるぶると震えながら、こちらを見上げているたくさんの狼たちを、恐ろしそうに見つめていた。
「にゃあぁ……」
 もうここで死ぬしかないのか。ドラゴンネコの瞳が悲しそうに宙をみすえた。
(せめて、一匹でいいから新鮮な獲物を食べたかったナ)
 そう思いながらふと下を見ると、なにやら狼たちの様子がおかしい。彼らは、まるで何かがやってきたというように、揃って一方を見つめるようにしている。
 がさがさと草を踏む音が聞こえ、やや離れた木々の間から、一頭の狼が現れた。それは群れの狼たちよりもひときわ大きく、そして美しい毛並みをした一頭であった。
 その狼が現れたとたん、群れはさっと静まり返った。どうやらそれがボスであるらしい。他の狼たちの尻尾がだらりと垂れ、従順を示すように皆頭を低くした。
 すると突然、人間の声がした。
「にゃーど!」
「にゃー?」
 首をかしげて木の上から見ると、ボス狼が現れた茂みから、今度は人間の姿が現れた。その中に、見覚えのあるような顔があった。
 彼はいきなりぱっと木の枝からジャンプした。ぱたぱたと必死に翼をはためかせる。
「にゃーど!」
「にゃー!」
 その少年の腕の中に飛び込むと、彼は嬉しそうにひと声鳴いた。
「にゃーど、こんな所で会えるなんて」
 両腕にドラゴンネコを抱きかかえて、驚きの声を上げたのは、ペトルだった。
「おや、なんだペトル?その変なネコは」
 横からレファルドが覗き込む。
「にゃーどだよ。僕の友達なんだ。ねっ」
「にゃあ」
 まんざら嫌でもなさそうに、にゃーどはごろごろと喉を鳴らした。
「それより、どうやらこの狼たちは大丈夫なようだな」
 ガシュウィンの言うように、狼たちの群れは、ボスを迎えてすっかりおとなしくなっていた。こちらに襲いかかってくる様子もなく、ひとまとまりになって静かにしている。
「オレたちを案内してきた奴が、この群れのボスだったんだな」
 レファルドが感心したように言った。
 その狼ボスは、最後の仕事が残っているというように、群れの狼たちに道を開けさせ、こちらに向かって尻尾を振った。
「律義なことだ。この先がどうやら目的の場所らしいぞ」
 ガシュウィンを先頭に、にゃーどを抱いたペトル、レファルド、それにギルが続く。
 狼に案内されて森を抜けると、彼らの目の前に大きな湖が広がっていた。
「おお。こいつは、でっかい湖だぜ。まるで海みたいだ」
 周囲を森に囲まれた、このような湖があったとは、世界を旅する吟遊詩人のレファルドも知らなかったらしい。
「ここが、我々が来るべき目的地というわけなのか」
 ガシュウィンは辺りを見渡した。
 湖面には白いもやがかかっていて、湖の向こう端が見えないぶん、はるか彼方まで広がっているかのようで、とても幻想的な雰囲気だった。
「見ろ。島があるぞ」
 レファルドが指さした。
「本当だ」
「にゃー」
 ペトルとにゃーどが揃って声を上げる。
 もやに包まれた湖面の中ほどに、うっすらと岩肌のようなものが見えた。
「もしかしたら、あそこに鍵が……」
 静かにガシュウィンがつぶやく。振り返ってみると、彼らを案内してきた灰色狼は、もう自分の役目は終えたというように、森の中へ帰ってゆくところだった。
「あとは、自分たちの力であそこまで行けということか」
「あの島へか?どうやって。船でもなくちゃとても無理だぜ」
 眉を寄せる詩人に、ガシュウィンは言った。
「なら、造るさ。船をな」
「どうやって?」
「その前に、まずは腹ごしらえをしよう」
「それは賛成だな」
 湖を見ながら四人は腰を下ろした。巨人のギルは、歩きつづけてへとへとの様子で、ようやく休めるのがいかにも嬉しそうに、食べ物の入った包みを広げた。
「にゃー、にゃー、にゃー」
 ぶんぶんと尻尾を振りつつ、さかんに鳴き声を上げるにゃーどを見て、ペトルはくすりと笑った。
「君はとってもお腹がすいているみたいだね。はい、村のおばあさんにもらったチーズと塩漬け肉だよ」
 だが、少年がちぎった食べ物を差し出しても、ドラゴンネコは見向きもしない。
「食べないの?」
 ペトルが尋ねると、一瞬、頭のなかで声が聞こえた。
(ああ、もっと新鮮なやつがいい)
「えっ?」
 驚いたペトルがドラゴンネコをじっと見つめる。だが、にゃーどは、「にゃー」と、いつもの鳴き声を上げただけだった。
「気のせいかな。なんだか今、にゃーどがしゃべった気がしたんだけど」
「ああ?ネコがしゃべるわけないだろう」
 レファルドは馬鹿馬鹿しそうに笑うと、「よし、じゃあオレが魚をとってきてやるか」と立ち上がった。ナイフを手に湖に歩いてゆく詩人の後を、にゃーどがとことこと付いてゆく。
 レファルドがパンのカスを湖面に投げ込み、しばらく待っていると、少しずつ魚たちが寄ってきた。にゃーどは物欲しそうに、じっと水面を見つめている。
「まあ待ってろ。一番でかいのを狙うからな」
 狙いをつけてナイフを投げ込む。ぱしゃんと水音を立て、ナイフは見事に魚に命中した。にゃーどが興奮して声を上げる。
「おいペトル、枝かなんかを……」
 詩人がそう言う間に、にゃーどはぱっと飛んでいって、仕留めた魚を両足でつかんで戻ってきた。
「お……こ、こいつ空を飛んだぞ。こりゃ、たまげた」
「にゃー」
 目を丸くするレファルドの前で、彼はぴちぴちと跳ねる魚にかぶりついた。そして、あっという間に魚をたいらげ、残った骨をぺろぺろと舐め、それからまた詩人を見上げ「にゃあ」と鳴いた。
「まだ食いたいってのか?仕方ねえな」
 レファルドはそれからさらに何匹かの魚をとってやり、にゃーどはまたそれを美味しそうにたいらげた。
「これで五匹めだぜ。よっぽど飢えていたんだなこいつ。もう、オレの方が疲れたぜ」
 呆れたように言い、詩人はペトルの横に座り込んだ。
(じゃあ、いいや。そっちの肉をちょうだい)
 ペトルが塩漬け肉を持ってゆくと、さっそくにゃーどは肉にかじりついた。
「……やっぱり、今声が聞こえたよ」
 ペトルは不思議そうに、肉をかじるドラゴンネコを眺めた。
「ねえ、君がしゃべったの?」
「おい、ペトル。ネコに話しかけたって無駄だよ」
(そんなことはないよ)
 詩人の言葉に反応したように、また声が聞こえた。
「やっぱり、君は話せるんだね?」
(ああそうだよ)
 今度こそはっきりと、ペトルの言葉に返事が返ってきた。
(そうさ。僕は話したい相手にだけ話しかけるんだよ)
 実際に聞こえるのは「にゃー」という鳴き声であるが、不思議とペトルにだけは、それが言葉として聞こえるようなのだ。肉をかじる合間に、ときおり顔を上げてペトルを見る様子は、とてもただのネコには思えない。
(君は、わりといい奴みたいだからナ、秘密を教えるんだ。あのケチのゲルフィーにはひと言だって声をかけてやりはしないさ)
 頭の中で聞こえるその声に、ペトルはすっかり驚きながら、ちょっぴり嬉しくもなった。
 そばにいるレファルドには、その声はまったく聞こえていないらしい。見るとガシュウィンもなにも気づかぬ顔で、ただ湖を見つめているだけだ。にゃーどの声は、どうやら自分にだけ聞こえるのだ。
「じゃあ、僕たちは本当に友達だね」
 ペトルがそう囁くと、ドラゴンネコは顔を上げ小さく鳴いた。
(まあ、そう言ってもいいかナと思うよ)
 それがにゃーどの答えだった。
「ちょっと待ってて」
 ペトルは立っていって、そのあたりのつる草で、母親から習った草編みの輪を作ると、それをドラゴンネコの首に結んでやった。
「じゃあこれ、友達の印ね」
 首をかしげながらも、その草の首輪がまんざらでもなさそうに、彼は「にゃあ」と鳴いた。それからすっかり満腹になったのか、気持ち良さそうに目を閉じた。
 食事を済ませると、ガシュウィンはさっそく仕事にかかろうと立ち上がった。
「しかし、船を造るったってさ。オレは力仕事は苦手なんだぜ」
「なあに、私とギルだけで充分さ。お前はその辺で竪琴でも弾いていていいぞ」
「ああそう。じゃあそうしよっと」
 ややプライドを傷つけられたように、詩人は一人水辺へ歩いていった。
「僕も手伝わなくていいの?」
「ああ、大丈夫だ。なにしろ私は村では大工だったのだからな」
 斧とロープを手にしたガシュウィンは、ギルを連れて森の方へと向かった。
 湖を見ながら詩人が優雅に竪琴を奏で、その横でペトルがにゃーどと遊んでいる間、森の方からは斧で木を切る音が上がりはじめた。ガシュウィンが斧で木を切り、それを巨人の力でばきばきと倒してゆく。そうしていくつかの丸太を整えて、丹念にロープで縛り、それをつなげてゆくと、詩人が何曲か弾きおえる間に、簡素な船が完成していた。
 それは船というよりは、丸太をつなげただけのイカダであったが、波のない湖をゆくのならこれで十分であった。
 ギルがイカダをかついできて、それを湖面に浮かべると、ペトルは大喜びで手を叩いた。
「すごいや。こんなに早く船ができるなんて」
「これなら、大人二人に子どもが一人くらいなら乗れるだろう」
「ちなみに、大人二人って……オレとあんたのことだよな」
 詩人は自分とガシュウィンを指さした。
「てことは」
「残念だが、ギルの体ではイカダに乗るのは無理だ」
 それを聞いて、巨人はひどく悲しそうな顔をした。
「おら船に乗れないだか?」
「じゃあ、ギルだけ置いてっちゃうの?」
「すまないが。ここで待っていろ。たぶん明日の朝までには戻れるだろうから」
 ガシュウィンが告げると、ギルは泣きそうな顔になった。
「そんな……おら、ひとり」
 すっかりしょげ返ったギルを残して、ガシュウィンとレファルドがさっそくイカダに乗り込んだ。丸太で作った簡素な船は、確かに安定性が悪く、とても巨人を乗せられるものではなかった。にゃーどを抱いたペトルが乗り込むと、小さなイカダはもう満員だった。
 ガシュウィンが木を削って作った櫂で水面を漕ぎはじめと、ゆっくりと船が動きだした。ペトルはイカダの上から、ひとり岸辺に取り残された巨人に手を振った。
「ごめんね、ギル。すぐに帰ってくるから」
 そろそろ日が傾きだし、少しずつ暗くなりだした湖面に、三人と一匹の乗る小舟が漕ぎだしてゆく。
 岸から離れるにしたがって、船は薄暗いもやの中に消えてゆくかのようだった。
 突然、岸の方から巨人の声が上がった。
「ああ、やっぱりおらも行くだ!」
 そう言うが早いか、ギルはいきなりざぶんと水に飛び込んだ。
「あっ、ギルが!」
 イカダの上でペトルが叫んだ。
 湖に飛び込んだギルは、ざぶざふと両手で水を掻きながら水中を歩いてくる。だが、こちらへ近づくにしたがって、しだいに底は深さを増してゆき、その巨体はやがて水に沈みこんでゆく。
「あっぷ……おら、おら泳げねえんだ」
 巨人の胸から首へと、徐々に水面が上がってゆき、ついに顔まで水につかると、ギルはがぼがぼと苦しそうにもがいた。それでもまだ水を掻いて、なんとかこちらへ来ようとしている。
「ギル。溺れちゃうよ!」
「これにつかまれ」
 ガシュウィンがイカダからロープを投げた。巨人は必死にもがきながら、それをなんとかつかんだ。そのとたん、がくんとイカダが揺れた。
「わっ、沈んじまうぞ」
 大きな揺れにレファルドが叫んだ。巨人の重みで、三人を乗せた丸太が後ろに傾いた。
「みな、体を低くしろ」
 ガシュウィンが指示する。ペトルとレファルドは両手でイカダにつかまり身を低くした。
 だがそのまま、三人の乗るイカダは、まるで重い錨を下ろした船のように、そこから動けなくなってしまった。
「どうするよ。これじゃあ、いくら漕いでも進みそうもないぜ」
 イカダにしがみつきながら、詩人がため息をついた。
 辺りはまたしだいに暗くなってきていた。なんとか日が沈む前には島にたどり着きたかったのだが。
(ったく、しょうがないな)
 ペトルは、頭の中でその声を聞いた。少年の腕の中から、にゃーどがぱっと飛び立った。
「にゃーど」
(まあ見てなって)
 イカダから身を乗り出したペトルの前で、翼をはためかせたにゃーどが湖水の上を飛んでゆく。ギルの近くまでゆくと、にゃーどは巨人の握るロープを後ろ足で器用につかんだ。
(よいしょ)
 ドラゴンネコが翼をはばたかせると、水の浮力も手伝って、巨人の体がぽかりと水面に浮き上がってきた。
「おお、浮くぞ」
(うう、なんて重いんだ……早く漕いでくれよ)
「漕いで、ガシュウィン!」
「よし」
 ガシュウィンが櫂を握り、力を入れて漕ぎ始める。
「おお、進むぞ」
 詩人が歓声を上げる。ぱたぱたと翼をはためかせて巨人を持ち上げるにゃーどのおかげて、イカダは再び水面を進み始めた。
「もう少しだよ、頑張れにゃーど」
 ペトルが声をかけると、翼をはためかせるドラゴンネコは、ときおり「にゃーっ」と、苦しそうな声で応えた。
(重いナ。このままじゃ僕も一緒に沈んでしまいそうだよう)
「頑張って、にゃーど!」
 にゃーどの心の声が聞こえるペトルは、励ますように声をかけ続けた。
 漕ぎつづけるガシュウィンの顔からは玉のような汗が吹き出し、血管の浮きでた腕はぱんぱんに張っている。
 もやに包まれた湖面の前方に、黒々とした島が近づいてくる。
 そしてついに、三人の乗るイカダは島の岩場にたどり着いた。
「ふいー、なんとか沈まずにすんだぞ」
 レファルドがぐったりとして言った。
「お疲れさま、にゃーど」
 ぱたぱたと飛んできたドラゴンネコに、ペトルが声をかけると、彼は一仕事を終えたように、自慢げに「にゃあ」と鳴いた。
 イカダから下りたガシュウィンは、岩場に立つと慎重に辺りを見回した。この島全体が深いもやに包まれているようで、視界が狭く、近くの岩場より遠くはなにも見えない。
「気をつけろ。もやのせいで島の全体の様子が分からない」
 ガシュウィンの注意を聞きながら、ペトルとレファルドも続いて島に降り立った。体から水をしたたらせながらギルも岩場に上がった。ひょいひょいと身軽に岩場を登ってゆくにゃーどと、剣を手にしたガシュウィンを先頭に、一行は島の探検を開始した。
「しっかし、なにもない島だな。こんな所に、本当にその魔法の鍵とやらがあるのかね」
 島の斜面を歩きながら辺りを見回し、詩人が疑わしそうにつぶやいた。
 周りにあるのはごつごつとした岩ばかりで、その岩と岩の間に生えたわずかな草と苔の他には、島にはまったく草木は生えていないようだった。
 岩場を登りきった一行は、この島の一番高い辺りまで来てみたが、そこから見渡せるのはやはりただ一面の岩ばかり。ここは岩でできた島だったのだ。
「まだなにも感じないか?ペトル」
 ガシュウィンが尋ねる。
 ペトルは首から下げた二本の鍵に手を触れてみた。
「うん。今のところはなにも」
「そうか」
 いくら周囲を見渡しても、近くに鍵のありかを示すようなそれという場所はなさそうである。こうなっては、ペトルの持つ鍵が反応するかどうかが、唯一の手掛かりであった。
「さてと、どうする?あまり大きくない島だし、手分けして探してみるかい?」
「それがいいかもしれんな」
 レファルドの提案に、ガシュウィンもうなずいた。
「では、私とペトルは島の向こう側へゆく。お前とギルはあっちを頼む」
「ちぇっ、オレはこのデカぶつのお守りかい」
「デカ?なんて言っただか?」
 背後に立っていたギルに気づくと、詩人は苦笑いを浮かべて首を振った。
「では、なにかあったら知らせ合おう」
「はいよ」
「じゃあね、レファルド、ギル」
 二人に手を振り、ペトルはにゃーどと一緒に、ガシュウィンの後について歩きだした。
 島の大きさは、端から端まででも百メートルあるかないかというほどで、少し歩けばすぐに反対側についた。
 どこもごつごつとした岩ばかりで、周りになにも変わったものは見当たらない。それでもガシュウィンは、なにかの手掛かりがないかと、念入りに岩の間を調べたり、ときおりペトルに何か感じないかと尋ねてきた。ペトルの方は、こうした小島に来たことなどはもちろん初めてだったので、たとえなにもない岩ばかりの場所であっても、そこを歩くだけでなんとなく楽しかった。
「あまり崖には近づくなよ」
 心配するガシュウィンにうなずき、ペトルは白いもやに包まれた神秘的な湖を眺めたり、奇妙に突き出た岩を見つけては子どもらしく面白そうに触ったりした。その彼の周りで、にゃーどは何か獲物がいないかと探すように、しきりにちょこちょこと歩き回っている。
「どうやら、本当になにもないようだな」
 岩を触ったり、なにかの入り口がないかと調べたりしていたガシュウィンだったが、結局、なにひとつ手掛かりは見つからなかった。
「あいつらの方はどうだろう。ちょっとまた戻ってみるか」
「うん」
 二人がもと来た方へと歩きだした、そのときだ。
「あれ、今……ちょっと揺れなかった?」
「うむ、そういえば」
 かすかな振動を感じて、二人は立ち止まった。
「地震かな」
 ペトルは足元の岩場を見た。
「しかし、それにしては揺れ方が……」
 ガシュウィンが言いおえる前に、また辺りが振動を始めた。
 今度のは、さっきりよりも大きな揺れだ。にゃーどが恐ろしそうに声を上げる。
「滑らないように身を低くするんだ」
「にゃーど、こっちへ」
「にゃー」
 ペトルに飛びついたにゃーどが、腕の中でぶるぶると震えた。
 岩の間に身を低くして、二人は揺れがおさまるのを待つことにした。だが、振動はおさまるどころか、むしろ徐々に激しくなるようだった。
「ねえ、だんだん大きくなるみたいだよ」
「ああ……」
 どこかで「ごごこご」という大きな音がしたかと思うと、強烈な縦揺れが来た。
「わっ」
「危ない!」
 ガシュウインは、よろめいたペトルの腕をつかんだ。
「これはいったん船まで戻った方がいい。歩けるか?」
「う、うん」
 揺れが少しだけ小さくなるのを見計らって、二人は急いで歩きだした。
「ねえ、変だよ……なんだか、揺れているのは、僕たちのいるここだけみたいだ」
 ペトルが指さした島の向こう側にギルの巨体が見えた。揺れが大きくなりだしたのに、巨人はのんきそうにこちらに手を振っている。見ると、彼らのいる辺りは、まるで揺れている様子がない。
「確かに……。これはおかしいぞ」
 ガシュウィンは眉を寄せた。
 その間にも、地震のような揺れはますます大きくなり、もはや歩くどころではなくなった。二人はよろめきながら、なんとか近くの岩にしがみつくのが精一杯だった。
 がががが、という、岩と岩がこすれるような音がした。
 そして、ものすごい振動がきた。
「ああっ、ガシュウィン……」
「しっかりつかまっていろ」
 今度のは、口を開けていられないほどの大きな揺れだった。がらがらと岩が崩れだす音が上がり、ペトルのいるすぐ前の地面が割れ始めた。
「わああっ」
 足元の地面が二つに裂けてゆく。
 裂けた地面の間には湖面が見え、たくさんの岩が転がり落ちてゆく。
「ペトルッ!」
 ガシュウィンが手を伸ばした。その手をつかもうと、ペトルも片手を伸ばす。
 だが、とたんにまた凄まじい縦揺れが起こり、ペトルは岩の裂け目にすべり落ちた。
「あああっ!」
「ペトルーッ!」
 ガシュウィンの叫びは、岩が砕ける大きな音にかき消された。
 激しく揺れつづける地面……だが今や、動いているのは間違いなく、島のこちら側だけであった。
 割れた岩の裂け目が大きくなり、島が二つに分かれてゆく。
 そして、ガシュウィンは見た。
 甲高い絶叫のような声。それとともに、巨大な首が目前に現れるのを。
「おおっ」
 必死に岩にしがみついたまま、ガシュウィンは驚愕の声をもらしていた。彼の目の前で、長い、長い首が、岩の間から生えるようにして突き出してゆく。
 ぬめるような青緑のウロコに覆われた、それは巨大な竜の首であった。凶暴に赤く光る目と、巨大な牙を口から覗かせて、うねるように天に伸びてゆく竜の首。
 ガシュウィンはそれを見上げながら悟った。
 今まで島だと思っていたのは、この竜の甲羅だったのだ!
 島が二つに分かれたのではなく、彼らのいた岩場は、はじめから、亀のような甲羅をもつこの竜の背中の上だったのだと。
 岩山のような甲羅から、水掻きのついた四本の足と長い尻尾が生えていた。ガシュウィンを乗せたまま、島のような巨大な亀竜はゆるゆると湖面を動きだした。



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