にゃーどドラゴン
〜魔法の鍵の物語〜


◆1◆ 牢獄塔

 北の森のはずれにある、古びた塔のてっぺんに、ひとりの少年が住んでいた。
 赤茶けた石壁に囲まれた階段をぐるぐると上った、高い塔の部屋……
 その部屋には、鉄の格子のはめられた小さな窓がひとつだけある。その四角く切り取られた空だけが、彼にとって唯一の世界へのつながりだった。
 だから、
 少年はいつも、ぼんやりと一人で空をながめていた。
 ここには、時間を告げる鐘の音も、聞こえては来ない。
 少しずつ色を変えてゆく四角い空と、
 朝晩の食事を運びに来るばあやだけが、なんとなく時間の流れを教えてくれるのだ。
(僕は、いつからここにいるのだろう)
 空をながめながら、ときどき彼はそう考える。
 でも、よくは思い出せない。
 ここに来てもう何月にもなるのか、それとも何年か。もっとずっと前からここにいるのか、それすらももう定かではない。
 ここには友達もいない。
 大好きな優しい母様も、ちょっと厳しかったけど好きだった父様も、どこにもいない。食事のばあやと、ときどきやってきて風呂に入れてくれる侍女は、ただ黙って自分の仕事をするだけで、ろくに話もしてくれない。
 「どうして僕はここにいるの?」
 「母様はどこにいるの?」
 「ここはどこなの?」
 ばあやに何度か訊いてみたことはあったが、いつも帰ってくる言葉は同じ。
「さあ、わかりません。おつらいでしょうが、ご辛抱くださいな」
 ばあやはそう言ってはひどく悲しそうな顔をして、すぐに出ていってしまう。侍女の方はといえば、何を尋ねてもただ黙って目を伏せるだけだ。
 せめて、誰かが自分と友達になってはくれないか。なにか新しいお話を聞かせてはくれないか……だが、他には誰も来やしない。友達も、母様も、父上も、誰も。
 格子窓の向こうの空が黄昏に染まる頃、暗くなってゆく空を見ながら、彼は泣きはらした顔で、いつも自分に言い聞かせるのだ。
「明日は、もしかしたら友達が来るかもしれない」
 日が沈むと部屋は暗くなる。
 この部屋には蝋燭のない燭台がぽつんと置いてあるだけで、誰も灯など持ってきてはくれない。だから、暗くなるとすぐに眠ってしまう。翌日の朝の光で目が覚めると、また彼にとっての長い一日が始まるのだ。
 誰も来ない、なにも起きない一日が。
 しかし、今ではもう、そんなにはさびしくなかった。
 そう、やっと、やっと友達ができたからだ。
 朝食を運んでくるばあやが出ていった頃、窓の外から一羽の小鳥がやってくる。小鳥はちちち、と可愛い声で鳴き、格子窓のところにちょこんと止まる。
「こんにちは、小鳥さん」
 少年が声をかけると、小鳥はまた、ちちちと鳴いて応えてくれる。
 朝食のパンを細かくちぎってやると、小鳥は下りてきて、嬉しそうにそれをついばみはじめる。それを眺めているのが、彼の唯一の楽しみになった。
「……君はいいなあ。空を飛んで、どこへでも行けて」
 まるで実際の友達に向かって話しかけるように、少年は小鳥を見つめた。それから小鳥は、少年の周りをちょこちょこと歩いたり止まったりしながら、しばらく部屋にいるのだが、ガチャンと部屋の鍵が開く音がすると、慌てたようにぱたぱたと羽をはばたかせ、格子窓から飛んで行ってしまう。
 それなので、食器を下げに入ってきたばあやは、そんな小鳥のことなどはつゆしらず、少年がひどくがっかりとした顔をしているのを見ては、また悲しい顔をしながら無言で出てゆくのである。
 少年はまた部屋に一人になる。
 見た目には豪華なビロードの絨毯が敷かれた室内には、テーブルに寝台、ひじ掛け椅子、それにちょっとした本棚もある。少年が一人で過ごすには十分な広さだ。本棚にあった本などは、もう、ずっと前に全部読んでしまっていたが、他にすることもない時には、また取り出して読み返したりもする。
 中でも好きなのは、物語や旅行記だった。それらを読んでいると、外に出られなくても、実際にいろいろな場所を旅しているような気分になれる。本を手に、空想の世界にひたったり、世界の様々な場所を頭に思い描いたりするのが、彼はとても好きだった。
 そうして、本を閉じてから思うのは、自分が最後に外に出たときの記憶だった。
 あれは、いったいいつのことだったろう。
 五才くらいのときか、それとも七才くらいだったか……
 自分はずいぶん小さかった頃のように思う。とはいっても、この部屋には鏡がないので、今の自分がどれくらい大きくなったのかよく分からないのであるが。
 ただ、その時の記憶は、ときどき鮮明に頭に浮かんでくる。
 周りは美しい緑の森。人々はみな着飾って森へ出掛けてゆく。道化も騎士たちも、城の女性たちも、子供たちも、みんな楽しそうな顔をして、新緑の繁る森の中で大地に感謝を捧げる。
 それはうきうきとする五月祭の風景だ。
 大人たちは木を切って薪を作ったり、犬を連れて森の奥へと狩りへ出掛けてゆく。女性たち、子供たちは、焚き火を囲んで踊ったり歌ったりとおおはしゃぎ。
 横には綺麗な服を着た母様もいたし、狩りから帰ってきた父様は、馬の上で背中に弓を背負って、手を振っていた。キジや猪の肉が焼かれ、道化が踊り、音楽が奏でられる。
 なごやかで楽しいお祭り……少年の記憶は、だがその後でぷっつり消えていた。それからのことを思い出そうとしても、ぜんぜん思い出せないのだ。
 お祭りを抜け出してから、森のなかでかくれんぼをしたのは覚えている。鬼役の道化から逃げて、森の中を走って、走って、
 そして木の幹にかくれ、どきどきしながらかくれ、
 それから……
 それから……
 どうしても、いつもそこまでしか思い出せないのだ。
 そのあとは、たぶん……この部屋にいる。たぶん、それからずっと、なのだろう。
(僕は、もうずっとこの部屋にいる)
 そのことを思うと、彼はまた悲しくなり、突然部屋の中を走り回りたいような気分になる。でもあまり暴れると、今度は槍を手にした兵隊みたいな男がやってきて彼を叱るのだ。あの兵隊はとても怖い。だから、なるべく我慢した。大声を上げたり、泣き叫んだり、走り回ったりはもうしないように。
 そうして、そうやって、何日も何日も過ごした。
 窓の外の空を見て、日が暮れるまで空を眺めて。風が冷たくなって、また緑の匂いがするようになって、
 何年も過ぎたのだろうか。
 少年には分からない。
 またばあやがご飯を運んでくる。
 今日も野菜と豆のスープと固いパンだけだろうか。
 友達に会いたい。
 母様に会いたい。
 少年はいつしか祈るようになった。
(神様、どうか母様に会わせてください)
(もう泣きませんから。ご飯がまずくても我慢しますから……)
 格子の向こうの小さな空を見上げながら、少年は祈った。
 それからまた、どのくらい時間がたったのか。まだ「今日」は終わらないまだろうか。
 本棚の前でうつらうつらとしかけていた少年は、ふと、なにかの騒々しい気配を感じて目を開けた。塔の下の方が騒がしい。
 この部屋が、どうやら高い塔の上の方にあるらしいことは、誰かが階段を上がってくるときの足音などで知っていた。それに窓から空を見ていれば、なんとなく分かる。ときどきすぐ手の届きそうなくらいに、雲が浮かんでいるときもあるのだ。
 下からは、ざわめきのようなものがずっと聞こえていた。兵士が急いで階段を下りてゆく足音がする。誰かがここに来たのだろう。
(もしかして、母様か父様が、僕を迎えに来てくれたのかしら)
 ぼんやりと少年は思った。しかし、頭がはっきりしてくると、すぐにそんな期待もしぼんでしまった。
 少年は立ち上がっていって、鍵のかかった鉄の扉の前にきた。耳を済ますと、部屋の外ではさっきから慌ただしい気配と、足音が聞こえる。
「ゲルフィー様だ」
「ゲルフィー様がおいでになった」
「お出迎えするんだ。急げ急げ」
 衛兵たちの声が聞こえてくる。そして急いで階段を駆け降りてゆく、がちゃがちゃという音。
(きっとまた、あいつが……あいつが来たんだ)
 少年はぶるっと体を震わせた。
 最近はめったに来なかったのに。この前来たのはいつだったろう。
 とにかく、少年は「あいつ」が嫌いだった。いや、怖かったと言う方がいいだろう。
(どうしよう……)
(またきっと、あいつはここに来て、僕を……)
 少年はその場にへたり込んだ。そうこうするうちに、出迎えのラッパの響きが聞こえた。そしてなにかぞくりとするような、いやな気配が辺りを包み込みはじめた。
(ああ、あいつが来る!)
 いつも感じるその嫌な気配。それはまるで、病気を運んでくる黒い風のような、不吉で不気味なものだった。
 少年は震え、息を殺した。声を出したら、たちどころに、遠くにいるあいつに聞かれてしまう。そんな気がするのだ。
 だが、しばらくはなにも聞こえなかった。さっきまでのざわめきも消えた。いったい下では何が行われているのだろう。恐ろしいと思いながらも、少年は床に耳をつけた。
 衛兵たちが下りていってしまったせいか、塔はとても静かになった。物音一つ聞こえてこない。もしかしたら、たまたまここに立ち寄っただけだったのだろうか。だとしたら、なにもせずにそのまま帰ってしまったのかもしれない。
 それなら、どれだけいいだろう!
 心臓をどきどきとさせながら、少年は床に耳を押し当てていたが、そこからなにも聞こえてこないことに安心しはじめた。
 だが、もう一度耳を澄ませてみると、
 こつり、と
 かすかな足音が聞こえた気がした。
 はじめは気のせいかと思ったが、それはしだいにはっきりと、石の階段を上ってくる足音となった。
 こつり、こつり、
(ああ……)
(あいつが、上がってくるんだ)
 少年は顔を青ざめさせ、床に耳を当てたまま動けなくなった。
 こつり、こつ……
 足音が近づいてくる!それは衛兵のものにしてはひどく優雅で、そしてまた妙にゆっくりとしていた。
 足音は、ときおり立ち止まるかのように消え、いったん少年をほっとさせたのも束の間、またこつりこつりと聞こえてくる。立ち止まってはまた上り、消えてはまた聞こえだす。まるでそれは、少年の心を少しずつ、少しずつ追い詰めるかのように。
(ああ……来る。上がってくる)
(あいつは、ここへ……きっとここへ来るんだ)
 やがて足音が、扉の向こうではっきりと聞こえるようになると、少年は絶望感に泣きだしそうになった。
(どうしよう……)
(嫌だ。嫌だ……)
 室内を見渡してみても、逃げられそうな場所はない。
 たった一つの窓には鉄の格子がはまり、小鳥でもなければ逃げ出すことはできないし、赤茶けた石作りの壁には身を隠す所もない。
 こつり、こつり、
 足音はいよいよ扉の外に近づいてきていた。高い塔の階段は、いったい何階ぶんあるのかは知らないが、その足音は永久にも思われるくらい長い間、ずっと聞こえている。
(神様……)
(僕を、僕をどうか鳥にしてください)
 少年にはもう、ただ祈るしかなかった。
 そしてついに、最後の一段を上りおえたのか、足音がぴたりとやんだ。
 すこしして、扉の外で声が聞こえた。
「衛兵。鍵を開けよ」
「は、ゲルフィー様」
(来る!)
 少年はたまらず、反射的にテーブルの下に隠れた。
 外からガチャガチャという音がしたかと思うと、ゆっくりと扉が開かれた。
 少年の最後の願いは、入ってくるのが食事のばあやであることだった。テーブルの下で震えながら、彼は祈った。
 ぎぎぎ、という嫌な音をたてて扉が開き、部屋の中に黒ずくめのものが入ってきた。
「……」
 少年はテーブルの下で思いきり身を小さくした。
 こつり、こつり、という足音とともに、
「王子」
 低い声が上がった。どことなくどろりとした、身の毛がよだつような響きの声が。
「……」
 テーブルの下でぶるぶると震えながら、少年は扉の方を見まいと必死にその目を閉じた。
「王子。出ていらっしゃい。そんなところに隠れていないで」
 それは、聞きようによってはむしろ優しい声だった。しかし、そこにはとても冷たい、非人間的なものもあった。
 いっこうに少年が出てこないのにいらいらしてか、黒い人影はろうそくの灯った燭台を床に置くと、今度は、命令するような強い口調で呼んだ。
「セトール王子」
 びくりとして、少年はテーブルの下からこわごわとそちらを見た。
「……」
 不気味な、ひどく不気味な黒い姿がそこにあった。
 頭からすっぽりと黒ずくめのフードをかぶった、魔術師かなにかのような姿……ろうそくの火に照らされた青白い顔が、じっとこちらを見ていた。薄暗い部屋の中に立つ、その黒い固まりのような人影は、まるで不気味な幽霊のようだ。
 その黒い男は、左手に持つ先端に水晶がはまった杖を、かつかつと床に打ち鳴らした。
「セトール王子」
 その男がもう一度その名を呼んだ。
 セトール。
 セトール……そうだ、それが自分の名前なのだ。
 その名を呼ぶのは、今ではこの男だけだった。セトール王子。そう……ずっと前は、そんなふうに呼ばれていたような気がする。
 少年はテーブルの下からはい出ると、目の前にいる黒ずくめの男をおずおずと見上げた。
 男といっても、フードの中の白い顔は皺深く、老人のようにかさかさに見える。鼻と顎が長く、ひどく痩せている。こちらを睨むように見るその細い目は、まるで蛇のように恐ろしい。
 真っ黒いマントの下には、それに不釣り合いなきらびやかな錦織りのローブを着ている。宝石の散りばめられたその豪勢なローブは権力者の証であり、かつては王国の宰相の地位の象徴でもあったのだが、少年にはそんなことは分からない。ただ、この男はとても不気味で、とても恐ろしい。それが少年の知る全てだった。
「王子。お元気でしたかな」
 形だけはうやうやしく、男は言った。
 前にこの男がやって来てから、どのくらいたっているのか、少年には分からない。もうずっと前だった気もするし、ついこの前だったような気もする。ただいつも、なるべくなら会いたくないし、ここに来ないで欲しいと少年は思っていた。
「それに、以前に来たときよりも、少しだけお背が伸びたような気がしますな。それは育ち盛りだからですな」
 男はまるで自らの皮肉を楽しむように、乾いた声で小さく笑った。
「……」
 この男とは、決して友達になれない。いや、なりたくなどない。それだけははっきりと分かる。少年は男と目を合わせないまま、じっとうつむいていた。
「おやおや、このゲルフィーがそんなにお嫌いですかな?これは心外。私めは王子の忠実なるしもべでございますよ。この部屋の中でだけはね。そう、なんなりとご命令くださいませ」
 口許に皺を寄せ、男がうやうやしく胸に手を当てて見せた。
「セトール王子には、このような部屋にお一人でお寂しいかと存じますが、なに、もうほんの少しの辛抱でございますよ。いずれまたお城に戻れる時が来ますから。そうですな、十三才の誕生日がきましたら。だからそれまでは、どうかこのゲルフィーの言うことを聞いて、なにも考えず、安心してここにおられるといい」
「……」
 男の話が聞こえているのか聞こえていないのか、王子はただうつむいていた。その様子を見て、フードの男は満足そうな笑みを見せ、小声で付け加えた。
(そして、いずれは我が傀儡として、名のみの王子としてまつり上げてさしあげますぞ)
 少年には、「かいらい」という言葉の意味も分からなかったが、たぶん良くないものなのだろうとなんとなく察しがついた。
「それに、今城にいるあなたの叔父王は、あなたの父君を裏切った、略奪王ですからな。いずれは天罰が下るでしょう。このゲルフィーが必ず、神の名のもとに雷を降らせてやりますとも。お約束しますよ。ただ……今のところは王国の宰相として、叔父王に仕えるのが私の務め。しかしそれもすべては、王子、あなたのためですよ。くくく」
 男はまた薄気味悪く笑った。
 男の言う難しい言葉は、少年にはなんの意味も感じられなかった。ただ、目の前にいるこの魔術師のような怪しげな人間が、どうしても自分の味方だとは思えなかった。
「お分かりですかな」
 ずっと少年が黙っているので、男はいらいらとしたように言った。
「なにも聞こえていないのならそれでもよろしい。ただ、これだけは覚えておおきになるのですな。あなたをここに閉じ込め……いやいや、かくまうのは、ひとえに王国の未来のため。この私の働きは、いずれ全ての人々から称賛を浴び、国の救世主として奉られることでしょう。そして、そのためにあなた様はここにいるのです。もうしばらくの間、よい子にして、なにも考えず、すっかりこの私に任せていてください。次の誕生日が来て、戴冠を許される歳になるまで、あなたはただ、ここにいればいいのです。あとは、この私が何もかもうまくやってさしあげますよ。よいですね」
 黒いローブの中で、その目がすっと細められた。少年を覗き込む男の目には、一片の情愛も忠誠もなかった。それはただ、己の道具を見下ろすような、冷たいまなざしであった。
「……」
 少年はただ、苦痛に耐えるように、男から目をそらし続けていた。
 父様や母様がどうなったのか。自分はいつ外へ出られるのか。それらをとても知りたかったが、この男が本当のことを教えてなどくれぬだろうことが、少年には本能的に分かっていた。
 うつむく少年の様子を、従順の表情と見てとったのか、男は満足したようにひとつうなずき、
「よろしい。ではまた来ますからね。ずっとおとなしくしているのですよ。そうすることが、あなた自身のためにもなるのですから」
 念を押すようにそう言い残すと、男はこつりと杖をついて扉の方をむいた。
 それを見て少年はほっとした。男が出てゆけば、また一人きりになる。それは寂しくもあったが、少なくともこんなに嫌な気持ちにはならないですむ。
 部屋を出ようと男が扉を開けた。そのとき
「にゃご」
 可愛らしい声とともに、なにか小さなものが、さっと扉のすきまから入ってきた。
(あっ……)
 少年は思わず目を輝かせた。
「なんだお前か」
 男が呆れたように言った。
「外で待っていればよいものを。またエサが待てないのか?」
「にゃあー、にゃあ」
 男の杖の先を爪でひっかきながら、それがまた鳴き声を上げる。
(にゃーど……)
 少年は心のなかでつぶやいた。すると、その小さな動物がくるりとこちらを向いた。
 小さなコハクのような目が少年を見つめていた。
 きらきらとしたクリーム色の毛並みで、大きさはちょうどネコくらい。頭の上にちょんと突き出た小さな耳も、ヒゲのある可愛らしい顔も、まったくネコのようだったが、鋭いツメの生えた後ろ足と、太く長いしっぽには、黄色から緑がかった色のウロコが覆っていた。背中の部分には、たたまれた翼のようなものがにょっきりと生えていて、後ろから見るとまるで小さなドラゴンのようだった。
「にゃ……」
 そして可愛らしい鳴き声。かさかさと前足で背中を掻く仕種は、やはりネコそのものである。しかし、ガリガリと床を削る鋭いツメや、口許に覗くキバは、これがただのネコなどではないことを物語っていた。
 少年は、この不思議な生き物をじっと見つめていた。
(にゃーど)
 それが、彼がひそかに付けたこの生き物の名前だった。決まってこれが現れるのは、ゲルフィーという男が来るときであったから、たぶんこの男に飼われているのだろう。
 まるでドラゴンのような不思議なネコ……ニャードラゴンのにゃーど。少年の心に、さっきまではなかった和やかな気持ちが広がった。
(また会えたね)
「……にゃ?」
 そのにゃーどは、やや警戒するように少年をじっと見ていたが、やがてフンと顔をそむけてしまった。
「にゃー、にゃー、にゃー」
「なんだ、そんなに腹が減っているのか。しょうがないやつだ」
 甘えるような鳴くドラゴンネコを、男は杖で軽く追いやり、
「いくら食わせても、すぐにエサをよこせと言う。いずれは役に立つ竜になると思って、可愛がってやっているが、これではお前のエサ代だけで王国の財政が破綻してしまうわ。さあ、城に戻ったら食わせてやるから。そら、早く部屋から出ろ。このドラネコめが」
 フーッと、ドラゴンネコが唸った。男はそれにかまわず、扉を開けて部屋から出ようとした。
「フギャア〜!」
 猛烈な鳴き声とともに、飛び掛かったドラゴンネコが、男のローブに爪を立てた。
「うわっ」
 男はよろめいた。そのとき、男の懐からきらりと光るものがこぼれ落ち、そのまま扉の横にあった水差しにポチャンと入ってしまった。
 男はそれに気づかぬまま、青白い顔に皺を寄せて怒鳴った。
「この凶暴な竜ネコめ!わしをおどかすとは。ただで済まんぞ。こいつ」
 杖を振り上げて叩こうとするが、ドラゴンネコはひょいひょいとそれをよけると、さっさと扉から出ていってしまった。
「なんたる無礼な。飼い主であるこのワシにたてつくとは。ろくでもないネコ竜だ!」
 男はかんかんに腹を立てながら、燭台を手に部屋を出ていった。ガシーンと大きな音を立てて扉が閉まる。
 再び少年は一人になった。
 静まり返った暗い室内で、彼はしばらくぼんやりと立ち尽くしていた。
「……にゃーど」
 一人になって思うのは、やはりあのネコドラゴンのことだった。可愛らしい声でにゃあと鳴いたかと思えば、鋭い爪で床を引っ掻き、ウロコのついた尻尾で男の杖をはねつけた。なんとも楽しい動物だ。
「やっぱり、友達にはなれないのかな……」
 頭の中には、あのゲルフィーという男のことなどはもうなかった。それよりもただ、友達が欲しかった。ネコでもドラゴンでもかまわない。
「にゃーど。また来てくれるよね」
 少年はつぶやいた。にゃーどがまた来てくれるのなら、あの嫌な男が来ても我慢しよう。そう思いながら。

 気がつくと、室内はもうすっかり暗くなっていた。
 いつの間にか眠ってしまったようだ。格子窓の外に見える空は、すでに黄昏どきの赤と紫に包まれはじめている。
 少年は寝台から起き上がった。
 今日はなんだか疲れた。あのいやな男も来たし、怖かったのでのどもからからだ。
 水を飲もうと、少年は扉の横へ行って水差しを覗き込んだ。
「あれ?なにかしら。これ」
 そこに奇妙なものを見つけた。
 白い磁器でできた水差しの中が、きらきらと光り輝いていた。はじめ、まるで水そのものが光っているのかと思ったが、そうではなかった。
「……」
 少年はおそるおそる、水に手を入れてみた。そこに固い小さなものがあった。
 そっと握りしめ、取り出してみると、それは小さな鍵だった。少年の人指し指より少し大きいくらいで、ぴかぴかと銀色に輝いている。見たところはただの鍵のようだが、それにしてはまるで宝石のように綺麗な鍵だった。
「これって、もしかしたら扉の鍵かしら」
 少年は顔を輝かせた。これがあれば、部屋から出られるかもしれない。
「……」
 どきどきしながら、その鍵を扉の鍵穴に差し入れてみる。
 だが、鍵は合わず、鍵穴の中をむなしくすり抜けた。何度か試してみてもダメだった。
「ちがった……」
 少年はとてもがっかりした。沸き起こりかけた希望もすっかり消えてしまった。
 役に立たないその鍵を、また水差しの中に放り投げようとしたが、それがあまりにきらきらとして綺麗なので、そのまま手の中に握りしめた。
「あーあ……」
 しだいに、またいつもの無気力な気分が襲ってきた。それとともに、ひどく悲しい気持ちになった。
 もうすぐ、ばあやが夕食を運びに来るだろうが、ちっともお腹は減っていない。それよりもちょっとだけでも外に出て、いつもは小さな窓からしか見られない夕焼けの空を見てみたかった。
「誰か……出してよ」
 少年は扉に向かって声を上げた。
「ここを開けて、僕を出してよ」
 涙がひと粒、頬を伝った。
 誰かが自分を助けにきてくれたり、友達や母様が迎えに来てくれるかもしれないと、いつも考えているそんなかすかな希望すらも、今は信じられなかった。
「出してよう!」
 たまらず少年は叫んだ。
 誰もそれに応えるものはいない。
 静まり返った室内……息のつまるような絶望感に襲われ、少年は顔をくしゃくしゃにゆがめた。
 そのとき、
 かちり、という小さな音がした。
 少年ははっとして顔を上げた。扉の外に人の気配がする。
 もしかして、誰かが、願い通りに自分を助けに来てくれたのだろうか。
(母様?……それとも父様が?)
 そう考えていると、ぎぎぎと音をたて、少年の見る前で扉が開かれた。
 息をつめて、扉の方を見つめる。
 だが、そこに立っていた者を見たとたん、少年はまたもやがっかりとなった。
 扉を開けたのは塔の衛兵だった。
「あ……」
 いつも自分を怒鳴りつけたり、泣いていると外からがんがんと扉を叩いてくる、乱暴で怖い兵隊。彼にとっては、あのゲルフィーと同じくらいに嫌な相手だった。
(また僕をいじめに来たのかしら)
 少年は顔を曇らせて、何歩か後ずさりした。すると、衛兵の口から声が上がった。
「開けた」
「えっ?」
 思わず少年は聞き返した。
「開けた……って?」
「開けた。出たいと言ったから」
 鎧姿の衛兵は、まるで機械じかけの人形のような声でぎくしゃくと言った。
「出たいと言ったから」
「ええっ?」
 いったいこの衛兵は何を言っているのだろう。でもどうやら、自分をいじめに来たのではなさそうだ。
「ぼ、僕が……出たいと言ったから?」
 少年は思い切って訊いてみた。
「だから……開けてくれたの?」
「……」
 衛兵がまたぎくしゃくとうなずいたのを見て、少年はぽかんと口を開けた。
 これは、いったいどういうことなのだろう。これは夢ではないのかしら。
 少年は自分の頬をつねってみた。
「痛いや。夢じゃない。じゃあ……じゃあ、僕はここから出られるの?出ていいの?」
 兵士はそれに答える変わりに、扉を開けたままぎくしゃくと外へ出ていった。
「ほんとうに?」
 ごくりとつばを飲み込み、少年はおずおずと扉に向かって歩きだした。
(出られる……外へ、出られるんだ)
 開け放たれた鉄の扉から、少年は一歩、その足を踏み出した。
 さっきの兵士は、扉の前でまるで石のようにじっと立っている。その横をおそるおそる通り抜け、外へ出ると、
「ああ……」
 少年は初めて感じる自由への高ぶりに、思わず体を震わせた。
 長いこと、ずっと長いこと、部屋の外にすら出られなかった今までを思うと、とても信じられない気がした。
 見回すと、部屋の外は石壁に囲まれた階段状の回廊になっていた。部屋から出て右が上り、左が下り階段で、塔の外周にそって螺旋を描くようにぐるりと伸びている。
 外へ出るためには、この階段をぐるぐると下りてゆけばいい。
 少年はそろそろと歩きだした。
 何段か階段を下りたところで振り向くと、兵士は扉の前にじっと立ったままで、こちらを追いかけてくる気配はない。少しほっとして、少年はまた階段を降りだした。
 壁にある燭台のろうそくの火が、階段の暗がりをゆらゆらと照らしだす。自分の影が下の方に伸びてゆくのが、なんだかとても気味悪かった。
 このまま、誰にも見つけられず塔の外へ出られるのだろうか。もしそうなら、自分は本当に自由になれる。どこへだって行けるし、森に入って遊んだり、地面を駆け回ったり、川で水遊びをしたり、それに……そうだ!友達と一緒になって遊べる。
(ああ、でもその前にまずは、お城に帰って母様と父様にただいまを言うんだ)
 長い間帰らなくて、きっと二人とも心配しているだろう。
 それから、城の料理長のパイも食べたいし、誕生日にもらった小馬の世話をしなくては。
(みんな、おどろくぞ。僕が帰ってきたら)
 少年はそれらを想像して、わくわくと胸を踊らせた。
 階段を下りる足がしだいに早まる。少年ははだしの足で、どこまでも続くような長い長い螺旋階段をぺたぺたと下りていった。
「あらまあ!」
 突然、下から声がした。
 見ると、そこに立っていたのは塔のばあやだった。スープとパンの入った皿を両手に持ちながら、こちらを見上げて驚いたように口を開けている。
「あ、あの……」
 少年は口ごもった。なんと説明したらいいのだろう。
「まあ、大変だよ!」
 それより早く、ばあやが大声で叫んだ。
「子供が部屋から出ているよ!」
 少年は飛び上がった。
 すぐに声を聞きつけたのか、階段の下からがちゃがちゃとたくさんの鎧の音が聞こえてきた。衛兵たちだ!
「ああ……」
 それまでのわくわくとする気分は一瞬にして消えた。代わりに、見つかってしまったという恐ろしさがこみ上げてきた。
 けたたましい衛兵たちの足音が、しだいに近づいてくる。
(ここで捕まったら……どうなるんだろう)
 またもとの部屋に戻されるか、それとも、もっとひどいことをされるのか。少年には想像しようもなかった。上ってくる衛兵の影が、螺旋階段の石壁に映って見えると、彼は恐ろしさのあまり、もときた階段を駆け上りだした。
(逃げなきゃ。逃げなきゃ!)
 捕まれば、きっととてつもない罰が待っているに違いない。逃げ出そうとしたのだから、もしかしたら、今度は殺されてしまうのではないか。そんな恐怖が頭によぎる。
(嫌だ。そんなの、いやだ!)
 背後から来る足音に追い立てられ、少年は一心不乱に階段を駆け上がっていった。
 もといた部屋の前に来ると、さっきの兵士が階段に座り込んでいた。少年が通りすぎてもまるで気づきもしない。
 このまま部屋に戻ってもダメだろう。もう上に逃げるしかない。そう思ってさらに駆け登ろうとしたとたん、階段に足がひっかかって転んでしまった。
「痛……」
 擦りむいた膝に手をやりながら振り返る。がちゃがちゃという足音とともに、いくつもの鎧姿が階段の下から見えた。
「いたぞ!」
「捕まえろ!」
 兵士たちの声が上がった。
 膝の痛みを我慢して立ち上がり、少年はまた階段を上りはじめた。
 こんなに走ったのはどれくらいぶりだろう。息が苦しく、膝ががくがくと震えた。
(もうちょっとだ。もうちょっと)
 階段の先に、光が見えた。
 その小さな出口に向かって、少年はよろめく足で階段を上っていった。
(足が痛いよ……母様)
 息が苦しい。足が痛い。しだいにもうろうとしてくる頭の中で、彼を力づけたのは、なつかしい母の顔と、そして自由への希望であった。
(僕は……)
 もうあの部屋に戻りたくはない。自分のいる場所は、きっとあそこではない。無意識の力が、最後に彼をふるいたたせた。
(あの空を見るんだ。……見るんだ!)
 ほとんど無我夢中で、階段の先に見える光に向かって、
 彼は突進した。
「あ……」
 駆け抜けると、そこは塔の頂上だった。
 びゅうっと、風がふいた。
 いきなり、自分の周りにすべての世界が現れたように思えた。
 少年の頭上に、赤と青と紫の黄昏色の空が広がっていた。空はどこまでも、まるで果てしない広がりで続いている。空の上を紫の雲が流れてゆき、赤く染まった地平には、いままさに沈みゆく太陽が最後の輝きを放っている。
「……」
 少年はその場に立っていた。追ってくる兵士たちの事も忘れ、ただ、その空の美しさと世界の広がりに見入られたように、そこに立っていた。
 吹きつける風には緑の匂いがする。赤と青の絵の具を溶かしたような夕焼けの空。
 それはとてもなつかしく、そしてまた、初めて見るかのように美しいものだった。
「僕は……」
 少年はぎゅっと両手を握りしめた。そこに持っている鍵のことも、今は忘れながら。
「僕はきっと……」
 その先の言葉が見つからなかった。
 ただ彼は、その目で空を見上げ、その頬で風を感じた。ただそれだけで、自分がここにいることの意味がある気がした。
「いたぞ!あそこだ」
 背後で兵士たちの声が上がった。
 振り返った少年の前に、ぞろぞろと鎧姿の兵たちが現れた。槍を持った兵たちがこちらを睨んでいる。
 狭い塔のてっぺんで、少年は追い詰められた。
 兵士たちがさっと道を開けると、黒フードの男……ゲルフィーが現れた。
「王子」
 したたるような毒のこもった声で、その男は言った。
「なんとも驚いたものですな。まさか鍵のかかった部屋からお出になるとは」
「……」
「いったいどうやって、外へ出たのです?」
 かつんと杖をつき、男が一歩踏み出した。少年は後ずさった。
「子供だと思って安心していれば、案外にも大胆な行動をなさる御方だ。まあ、それでこそ一国の王子であるということかもしれぬが。しかし、私にとってはね、あなたは人形のように従順でなくてはいけないんですよ。いずれは、ちゃんと城に戻してさしあげるつもりだった。国をもらっていい気になっているあの叔父王どのを、あなたという正統の王継承者の名の元においやってね」
 男が一歩、また一歩と、少年の方へ歩いてくる。後ろに控える兵たちも、じりじりと彼を追い詰めるように迫っていた。
「そうしたら……くくく、もうあとは完全にあの国は私のもの。私は宰相という地位のもとに、実権を握り、あなたに仕えながらも王国を自由に牛耳ることができる。そうして徐々に、徐々に国を黒魔道のパワーで変えてゆき、最後には……」
 男はフードの中で、口許をゆがめるように笑った。
「北の城からエンシフェル様を呼び寄せ、あなたと同化させることで、すべては終わる。いや、すべてが始まると言ったほうがいいのか。とにかく、そこに壮大な魔道帝国が始まり、こののち千年にわたって大陸を支配することになる」
「……」
 ぼそぼそとつぶやくような男の言葉は、その半分も意味が分からなかった。だが、少年にはただひとつはっきり分かることがあった。
 それは、このゲルフィーという男の言うことは、なにひとつ信用ができないということ。自分がこの、鼻と顎のとがった、細い目と青白い顔をした男が大嫌いだということだった。
「さあ、お言いなさい。どうやって、あの部屋を抜け出したのか。そういえば、部屋の前で見張りがのびていたが、ふむ、あれはどういう……」
 そこまで言って、男ははっとしたように顔を引きつらせた。
「まさか……」
 自分のローブの懐に手をやり、
「ない!」
 男は顔を青ざめさせた。
「ないぞ。鍵が。私の銀の鍵が……」
 それを聞いて、少年はごくりとつばを飲み込んだ。ではやはり、この鍵は男の落としたものだったのだ。彼は手の中でぎゅっとそれを握りしめた。そうすると、不思議なことに体の中に力が沸き起こるような気がした。
「王子」
 男の声が変わっていた。
「まさか、鍵を……私の鍵をお持ちですかな?」
「……」
「お持ちなんですね。その手の中に?」
 少年は無言であとずさった。
「なんと。そういうことか。それなら察しがつく。あの兵も鍵の魔力で……」
 魔力……魔力ってなんだろう。
 鍵の魔力。その言葉にはなにか魅惑的な響きがある。
「王子……お出しなさい」
 男がこちらに向けて手を突き出した。
「お出しなさい。私の鍵を。それは……それは私のものです」
「……」
「さあ。早く!」
 男の声には、ひどく切羽詰まったような響きがあった。
 自分が手にしているこれがただの鍵ではないこと、なにかとても大事なものなのだということは、もう少年にも分かった。
「……」
 この鍵を差し出したら……どうなるのだろう。
 またあの部屋に入れられてしまい、そうしたらまた、友達にも会えない、母様にも会えない、そんな何も起きない毎日が永遠に続くのだ。
(そんなのは……いやだ)
 少年は空を見上げた。
 しだいに紫の色を濃くし、暮れてゆく黄昏の空。とてつもなく大きな雲が、ゆっくりと風に流れてゆくのは、なんて素晴らしい眺めなんだろう。この空をもう見られないのは嫌だ。頬にあたる風の匂いを感じられないのは、嫌だ。
 そう、少年は思った。
 ようやく手に入れた世界とのつながりを、彼は今、心から愛しはじめているところだった。これを奪う権利は誰にもない。赤々と背中を照らす夕日もそう語っている。
「さあ、鍵を。王子」
 手を突きだし、男が一歩ずつ近づいてくる。
「……」
 少年はまた後ずさった。その背中が、塔の端の壁にぶつかった。もう逃げ場はなかった。
「もう、いいかげんお遊びは終わりにして、部屋へお戻りください。いい子だから。なにも怒ったりはしませんよ。ただ、」
 男の目が凶暴そうに赤く光った。
「その鍵さえ渡してくれれば」
 槍を突き出した兵たちも、輪を狭めるようにしてじりじりと迫ってくる。追い詰められた少年は、塔の外側の壁石によじ上った。
「王子、なにをなさる!」
「僕は……」
 ぐらぐらと体が震えた。ここは塔のてっぺんだ。
 足元に目をやると、はるか下の方に地面が見える。
「僕はもうあの部屋には戻らない」
 がくがくと震えながら、少年は壁石の上にかろうじて立っていた。
「おやめなさい、王子。さあこちらに……危ないですから」
 なだめるような男の声が、耳元でびゅうびゅうと鳴る風にかき消される。
「おい、兵士たち。早く王子をお助けしろ!」
 男が命じると、兵たちは壁石に上って、両側から少年を捕まえようと手を伸ばした。
「ぼ、僕は……」
 少年はぎゅっと目を閉じた。
「こわくなんかない!」
 ぐらりと、体が揺れた。
 男が「あっ」と叫ぶ間もなかった。
 少年はそのまま、まっさかさまに塔から落ちた。
 一瞬にして、景色が変わる。耳元でごうごうと風をきる音がする。
(僕は……死ぬのか)
(嫌だ)
(母様……)
(父様)
 目を開くと、緑の森が夕日に照らされて、まるで燃えるように輝いている。
(僕は……)
「まだ、いやだよ……死ぬのは」
 果てしない落下の中で、少年は叫んでいた。
「誰か……僕を助けて!」
 その瞬間、手の中のものがぱっと光り輝いた。
 そして
 ばさり、と、紫の雲の彼方から、何かが翼を広げて現れた。
 猛烈な速度で、その巨大な物体は塔に接近すると、急降下した。
「な、なんだあれは!」
 塔の上にいる兵たちが、一斉にそれを指さした。
「ド、ドラゴン!」
 エメラルド色のうろこを夕日に輝かせる、
 それは巨大なドラゴンだった。
 驚きと畏怖の叫びが上がる中、長い翼を広げた翼竜は、その背に少年を受けとめ、そのまま黄昏の空へ舞い上がった。



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