騎士見習いの恋  9/10 ページ

      

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「俺は……」
(俺は……なにをしている)
 はじめて見るような目で、寝台に横たわる少女を見つめる。
(俺は……なにをしているんだ?)
 頭の中では、マリーンの顔が微笑んだまま。
(俺は……)
 その悲しそうに微笑みは、服をはだけさせた少女の顔と重なり、
 そして、離れていった。
「俺は……」
「俺はなんて……」
 かすれた声がつぶやき、両手が自分の頭をつかんだ。
「どうしたの?リュシアン」
 コステルが目を開いた。
 怪訝そうに自分を見つめている……服をはだけさせたその姿に、もう甘い誘惑の色はなく、むしろそこに、痛ましいものを感じずにはいられなかった。
「う……、ああ」
 声にならない呻きとともに、リュシアンはやにわにベッドのシーツを掻きむしった。
「俺は……、俺は、くそっ!」
「なに……か?私、なにか悪いことしたかしら?」
 その様子に驚いて、コステルは目に涙を浮かべて言った。
「私、なにも知らないから、ごめんなさ……」
「違う」
 リュシアンはさえぎるように言った。
「リュシアン、どうし……」
「悪いのは、僕だ」
 苦悶の表情を浮かべる彼を、コステルは何が起こったのかまったく分からぬように、怯えたような目で見つめていた。
「僕だ……僕の、せいだ」
 少年はは何度も首を振り、苦しそうに頭を掻きむしった。
 呆然とするコステル。その前で、
 彼は、痛いほどに唇を噛みしめ、そして涙を流していた。
 まるで魔法が解けたように、しらけきった空気がこの部屋に沈黙を生み出し続けていた。
「……ごめんよ」
 しばらくして、少し気が落ち着いたのか、リュシアンはつぶやくように言った。
「ごめん」
 ひどくしわがれた声でそれだけ言うと、彼は身を起こした。乱雑に脱ぎ捨てられた服を手にとり、それをコステルに渡す。
「私じゃ、だめなの?」
 消え入りそうな声で彼女は囁いた。その頬には、いく筋も涙が伝わっている。
 リュシアンは首を振った。
「駄目なのは、俺だよ」
 唇を噛みしめ、何度も首を振る。
「俺……やっぱり、駄目なんだ」
 込み上げてくるものに追われるように、寝台にすすり泣く少女を残したまま、彼は部屋を飛び出した。
(くそっ、分かっていたのに)
 屋敷の門を出ると、彼はやみくもに走った。
(分かっていたはずなのに!)
 走りながら、声にならない叫びを、心の奥で叫び続ける。
(やっぱり、駄目なんだ)
(マリーンじゃなきゃ……駄目なんだよ)
 つき上げてきた想いが、いっそう胸を締めつける。それに耐えられず、彼はその場に突っ伏していた。
 自分のこと、コステルとのこと、そして、消せなかったマリーンへの思い……
 それらすべてがぐしゃぐしゃに混ざり、涙となって溢れ出た。
(マリーン……会いたい)
(会いたいよ)
 風は冷たく、空はいつのまにか灰色の雲に覆われていた。
 降りだすだろう雨の予感に急かされてか、速度を上げた馬車が少年の横を通り過ぎる。
 石畳の通りは冷たく、彼を振り返るものもない。
 いっそ雨が降り出せばいい。
 そう思いながら、
 彼はじっとそこにうずくまり、声を殺してむせび続けていた。

 それから、いったいどうやって来たのだろう。
 ふらふらと、まるで夢遊病者のように歩いて、彼はいつの間にか、自分がレスダー伯爵夫人の屋敷の前にいるのを知った。
 屋敷の扉の前に立ち、少しためらってから、彼は思い切って扉を叩いた。しばらくして、見覚えのある侍女が現れた。彼がここで働いていたときに世話になった侍女頭のミルダだった。
「まあ、リュシアンさん。どうしたんですか?」
 驚いた様子の侍女に、リュシアンはなにかもごもごと言った。適当な理由も今は思い浮かばない。
「ええと、今日は家庭教師の日ではないし、それともなにか別の御用で?」
「……」
「あの、ちょっと、お待ちくださいな。リュシアン様。奥様を呼んでまいりますので。それに今はマリーン様は……」
 侍女の声を無視して、リュシアンは屋敷に入ろうとした。
「お、お待ちください。今……」
「いったいなんの騒ぎです?」
 そのとき廊下の奥から歩いてきたのは、屋敷の主であるレスダー伯夫人だった。
「ああ、奥様。あの、突然リュシアンさまがいらして……」
 リュシアンの姿に気づいて、夫人が声をかけてきた。
「おや。リュシアン。久しぶりですね」
「どうも……」
 目を合わせずにうつむいた彼の様子に、夫人は眉をひそめた。
「ミルダ、向こうへ行っていなさい」
「か、かしこまりました。奥様」
 侍女を下がらせると、夫人はリュシアンに向き直った。
「リュシアン、いったいどうしたというのです?そんな恰好で」
 夫人がそう言うのも当然だった。ろくろく服を直さぬまま飛び出してきたリュシアンの格好は、チュニックの紐はだらしなくはずれ、ズボンはくしゃくしゃという、ひどいものであった。
「……」
 夫人を前に、彼はまるで叱られた子供のように口を尖らせた。
「何か御用でも?今日は家庭教師の日ではないし、それにマリーンなら留守にしていますよ」
「留守……」
 それを聞いて、リュシアンは落胆の色を浮かべた。
「あの娘になにか大事な用でも?」
「ああ……ええ」
 リュシアンは曖昧に答えた。夫人になにか勘繰られるのも嫌なので、あわてて付け加える。
「あの、ちょっとマリーンさんに、相談したいことがあって。その、学問のこととか……」
「そう」
 夫人は一応は納得したようにうなずきつつも、じろりとリュシアンを睨むように見た。
「いつ……帰られますか?」
「さあ。多分、明後日あたりかしらね」
 明後日は家庭教師の日だった。そういえば、この前マリーンが家に来たとき、来週は休ませて欲しいと言っていたことが、にわかに思い出された。
「あの。マリーン……さんは、どこに行っているんですか?」
「モンフェール伯のお屋敷よ。あなた知らなかったの?」
「なにをですか?」
「あらまあ。てっきり教え子のあなたには、知らせているものとばかり……」
 夫人は呆れたように口元を歪め、言った。
「婚約したのよ」
「婚約……?」
「ええ。三日ほど前に。まあ、前からモンフェール伯爵様はあの娘に会いに来ておられたし、もしかしたら、いつかはそういうこともあるかしらとは思っていたのだけれど」
(婚約……三日前)
 三日前といえば、マリーンが家を訪ねてきたその前の日である。しかし、彼女はそのひと月も前に、婚約者としてモンフェール伯を自分に紹介していたのだ。
「なにしろ突然のことで、私も驚いたけれど、でもこれであの娘も落ち着くかしらと思うと、やれやれと安心もしましたよ。モンフェール伯爵様なら家柄も申し分ないし、これは願ってもないお話だとね。まあ、ちゃんとした婚礼は来年になるでしょうとも話していたようだけれど。ともかくも、これで長いことふらふらして落ち着かなかったあの娘にも、やっと貰い手ができたと本当に……」
 リュシアンは、夫人の話を半ば呆然として聞いていた。
「あら、リュシアン。どうしたの、あなた。顔が真っ青よ。どこか具合でも?」
「い、いえ……」
「ちょっと向こうで休んでいったらどう?」
 リュシアンは青ざめた顔で首を振った。最後に夫人からモンフェール伯爵邸の場所を聞くと、彼は礼を言って屋敷を出た。
(婚約した……?)
 リュシアンは、ぼんやりと通りを歩いていた。
(三日前だって?……)
(それじゃあ……、あのときは)
 あの、ひと月も前のことは……
(あのとき、マリーンは僕に嘘をついていた?)
(何故だ?)
 風が冷たい。
 見上げると、雲に覆われた空からポツポツと雨が落ちはじめた。
(私は、あなたとは結ばれない女なの……)
 今でもはっきりと思い出せるその言葉。
(こちらは、モンフェール伯爵)
(私の……婚約者)
 それらはすべて、自分を拒絶するための別れの言葉だった。
(マリーンは、いったいどういう気持ちでそれを言ったんだ?)
 雨粒が顔を濡らす。
 マリーンの言葉の一つ一つが、冷たい雨粒になって自分に降り注ぐようだ。
 少年は立ち止まった。
(確かめたい)
(マリーンの気持ちを。もう一度だけ)
 目を閉じると、彼女の悲しげな微笑みがまた浮かんでくる。
(マリーン……)
(あなたは、どういう気持ちでそれを言ったんだ?)
(僕は、僕はただ……あなたの言葉に驚いて、自分勝手に苦しんでいただけだ)
(あなたの思いなど考えもせず)
(ただふてくされて、いいかげんにコステルと付き合って、あの子にも結局ひどいことを……)
「くそっ!」
 リュシアンは空を見上げた。
「僕は馬鹿だ……」
 自問するようにつぶやく。しだいに強くなりだした雨が、少年の顔を打ちつけた。

 家に戻ると、濡れそぼったリュシアンの姿に母が心配そうに声をかけてきたが、彼は夕食はいらないとだけ言い置くと、そのまま部屋に閉じこもった。
「……」
 落ち着かぬ気分で、ぐるぐると部屋を歩き回る。
 これからどうすればいいのか……こんな気持ちのまま、またコステルと会ったりなどできそうにない。
(マリーン……)
(会って、確かめたい)
 今はただ、それが素直な気持ちだった。
(もう一度だけ、俺のことを見てくれたら……)
 それから、彼はなにかを思いついたのか、机に向かうと、ほこりのかぶったインク壺と羽根ペンを取り出した。ほとんど使われたことのない、がらくたが積み重なった机の前で、彼はペンを握ると、一心に文字を書きはじめた。
(マリーン……)
(やっぱり、俺はあなたが……)
 文字に思いを込めるように、彼はペンを走らせた。
 何度も失敗し、紙を破ってはまた書いて、それを何度か繰り返し、ついに最後の文字を書き終えると、彼は手紙を握りしめ立ち上がった。しかし、上着を羽織って、部屋を出ようとするところで、ふと立ち止まった。
(俺は……どこへゆくつもりなんだ)
 窓の外の雨音を聞きながら、
(俺は……)
(なんて身勝手なやつなんだ……)
 自嘲の笑みを浮かべる。
(さっきまでコステルを抱こうとしていたくせに。今はこんな手紙を持って、マリーンに会いに行こうとしているのか)
(情けなくないのか?それで)
 リュシアンは上着を脱ぎ捨てると、どさりと寝台に横になった。
(そうさ……マリーンはもう婚約したんだ)
(それがたとえ先月だろうと、三日前だろうと、変わりはないんだ。いまさら……)
 彼は目を閉じた。
 明日からまた騎士団の稽古がある。
 自分ももうすぐ十六歳になるのだし、正騎士としての訓練を真剣に始めるべき時期だ。それに、明日ははじめて副隊長のバラックと模擬試合をさせてもらえる。トーナメントで一度は勝ったし、カルードの推薦で、実技審査は通過できるだろう。そうして正騎士になれば、きっと母も喜ぶ。父の爵位もいずれは襲名できる。それが、自分にとって、大人になるということだ。
(眠ろう)
 このまま雨音を聞きながら。
 眠ってしまおう。
 そして朝になれば、こんなもやもやした気持ちも消え、またいつもの日々が始まるのだから。
 リュシアンは燭台の蝋燭を吹き消した。
 遠く晩鐘の鐘が響いてきた。
 暗闇のなか、身じろぎもせずベッドに横たわって、どのくらいの時間がたったのだろう。
 朝はまだなのか。
 雨音はまだ続いている。
 寝台から起き上がったリュシアンは、床に落ちていた上着を拾い、部屋を出た。音を立てずに階段を降りる。
 外へ出ると、降りしきる雨と夜の冷気が彼を包んだ。
 濡れた土の上を走り出すと、雨音がすべてをかき消してくれた。

「なんだ、リュシアンか。こんな時間になんだよ?」
 何度も扉を叩くと、ようやくフィッツウースが扉から顔を出した。
 眠たそうに目をこする親友に、リュシアンは真面目な顔で告げた。
「フィッツ……頼む。一生の頼みだ」
「ああ?」
 そのただならぬ様子に、フィッツウースは目をしばたかせた。
「まあとにかく、上がれよ」
 一人で屋敷の離れに住んでいることもあり、フィッツウースの部屋には遊びに来ることが多かった。リュシアンの部屋よりはずっと広いが、散らかりようはさして変わらない、物がごったがえした部屋で、二人は向かい合った。
「ふーん。なるほどな。そういうワケか」
 話を聞きおえると、フィッツウースは何度もうなずいた。
「しっかし、コステルでも駄目なんて。贅沢な奴っちゃな」
 とっておきのワインを注いでやりながら、にやりと笑う。
「おっと。飲みすぎてもいけないんだったな、これから行くんなら。まあ、頑張れよ。もう、そうとしか言えんわな」
「ああ」
 リュシアンは受けとった杯をぐっと飲み干した。
「よし、うちの馬使えよ。明日までに戻しておけば、たぶんバレないよ。それから、もし誰かに訊かれたら、お前は今日うちに泊まったことにしておくからさ」
「ああ。サンキュー」
「それにしても……」
 フィッツウースはもう一度しげしげとリュシアンを見て、感心したように言った。
「お前もいつの間にか男になったんだなあ。ちょっと前までは、ただのいたずらなガキみたいだったのにな。いや、驚いたねえ」
 まるで年長の兄でもあるかのような言い方だったが、さして嫌な気分でもない。
「惚れた女のために、か。いや良い良い。恋ってのは。俺もそういう恋がしたいよ」
 二人はにやりと笑い合い、目を見交わした。
「行くか?」
「うん」
 外に出ると雨足はさらに強まっていた。引いてきた馬が寒そうにブルルと鼻を鳴らす。
「ひゃあ、けっこう降ってんなあ。気をつけろよ。この雨じゃ相当道がぬかるんでるからな」
「ああ」
 フィッツウースから借りたマントのフードをかぶり、リュシアンは馬に乗った。
「いろいろ助かったよ。それじゃ、行くよ」
「おう。頑張れよ」
 親友に軽く手を振ると、リュシアンは手綱を握った。
 かすかな馬のいななきは雨音にかき消され、彼らの他に聞くものはいなかった。

 夜の暗がりを雨にうたれながら、リュシアンは馬を走らせた。
 市門を抜けて都市郊外に出ると、周りからは家々の明かりが消えた。道の両側には木々が生い茂り、降り続く雨とともに一気に視界が悪くなった。しばらくゆくと、石畳の道は土になり、ぬかるみの泥に馬蹄がはまって、ときおり馬が足をとめていなないた。
「走れ。走るんだ」」
 手綱を握る手が凍りつくように冷たかった。革手袋をしていてもしだいに手がしびれてくる。
 フードの隙間から吹きつける雨が顔を叩き続ける。手足が冷たくなってくると、意識がもうろうとなった。
 それでも、リュシアンは馬を走らせた。何度、馬上で眠りそうになったことだろう。彼にとっては、永遠にも感じられるような時間が過ぎていった。
 どのくらい馬を走らせ続けただろうか、
 気がつくと、いつの間にか雨はすっかりやんでいた。
 東の空がうっすらと白みはじめたころ、ようやく視界がひらけた。
「ああ……」
 リュシアンは馬上で目を凝らした。
 眼前に青々とした大きな湖が広がっていた。
 湖のほとりに白い壁の建物が見える。それが目的の城だとすぐに分かった。
 最後の力をふり絞るように、リュシアンは手綱を握りしめた。

 湖畔特有の肌寒い空気に、彼女は早めに目を覚ました。
 なにか夢を見た気がするが、どんな夢だったかは思い出せない。
 カーテンの隙間から差し込む光が、たわいない幻想を現実へ覚まさせてくれる。
 ベッドから起き上がった彼女は、窓辺に立つとカーテンを開けた。
 湖を見渡すここからの景色はいつ見ても素晴らしい。朝日にきらきらと輝く湖面を見つめるのが、彼女のお気に入りだった。
 今日はいつもより少しだけ早く起きた。だからこんなに朝日がまぶしいのだろう。 
 着替えを済ませたところに、控えめなノックの音が聞こえた。
「ああ、マリーン様。起きていらっしゃいましたか」
 ほっとした顔で侍女が告げた。
「あの、お客さまです」
「お客?誰かしら」
 彼女は首をかしげた。
「カルード様からのお使いの方と申されていますが」
「カルードの?いったいなにかしら。こんなに朝早くから……」
「どういたしましょう?外にお待たせしておりますが」
「いいわ。会いましょう。伯爵は?」
「まだお休みのようでございます」
「そう。それなら私一人でいいわ。部屋にはまだ上げないで。もし怪しい輩だったら大変ですからね」
 厚手のローブを羽織ると、彼女は部屋を出た。
「雨はすっかり上がったようね」
「はい。今朝はよいお天気でございます」
「そのカルードの使いというのは、どういう人だったの?」
 屋敷の玄関へ続く長い廊下を歩きながら、マリーンは尋ねた。
「それが、すっぽりとマントをかぶっていて、服はびしょ濡れで泥だらけ。用件を尋ねても、マリーン様の弟であるカルード様よりの使いだとしか。ちょっと変ですわよね」
「そうね……でも、もしカルードからの使いなら、緊急の用でもあるのかもしれないし」
「そうですわねえ」
 扉を開け外へ出ると、朝の冷たい空気が彼女を包んだ。
「寒……、こんな早くにここまで来るなんて、なんの使いかしら」
 扉の前の石段に、向こうを向いて腰掛けているマント姿があった。傍には馬が一頭つながれている。
「もし……あなた」
 マリーンが声をかけると、男が立ち上がった。侍女の言うとおり、その男は泥だらけの服に、頭からすっぽりとフードを被っている。
「……もし?カルードの使いというのは、あなた?」
「あ……」
 振り向いたフードの男が、はっとしたように振り向く。
「マリーン」
「え?……」
 奇妙な胸の高鳴に、彼女の声はかすれていた。
「あなたは……」
「僕だよ」
 静かに告げる声……
「僕だよ。マリーン」
 フードの下に現れた顔。
「あ……」
 マリーンは言葉を失った。
「あ……あ、」
 目の前に立つ、雨に濡れそぼった少年、
「リュ、シ……」
「来たよ。マリーン」
 泥だらけの服を身につけたリュシアンが、にこりと笑った。
「リュシ……リュシアン」
「マリーン……」
「あ、あなた……。どうして……」
 彼女の目は、その相手を見つめたまま、大きく見開かれていた。
「リュシアン……、ああ、なんてこと。ああ、私……」
 驚きに両手を口にあて、口の中でつぶやく。何度か目をまたたくと、これが夢ではなく現実のことなのだと、彼女はそうはっきりと知った。
 ゆっくりと石段を上ってきた少年が、彼女のすぐ前に立った。
「マリーン」
「ああ……」
 マリーンはたまらずその場にしゃがみこんだ。
「ああ……なんてこと」
 苦しそうにつぶやき、両手で顔を覆う。
「ああ……私は、どうすれば……」
 自分の夫になるはずの伯爵の屋敷……
 全てを忘れるためにここに来たはずが、今こうして目の前にいる少年への、再び沸き起こるこの感情はなんなのだろう。
「マリーン」
 少年がそっと彼女に近づいた。
「大好きだよ。マリーン」
 耳元で囁くと、彼は膝をつき、マリーンの額に唇を当てた。
 そのとたん、
 まるで魔法が解けたように、彼女の目から涙がこぼれ落ちた。
「リュシアン……」
 マリーンはおそるおそる顔を上げた。
「もう迷わないよ」
 少年は、マリーンの手をやさしく包むようにとった。
 二人は立ち上がり、互いを確かめるように見つめ合った。
「ああ、本当にあなたなのね。まさかここに来るなんて……」
「馬を走らせてきたよ。一晩中」
 彼女はまぶしそうに少年の顔を見つめた。
「なんだか……、君が前とは変わって見えるわ」
「そうさ。僕はもうすぐ十六だもの」
 リュシアンは誇らしげに言った。
「それに、髪もびしょ濡れだわ。その服もよ」
 マリーンはくすりと微笑んだ。
「うん。ちょっと冷たいけど、でも平気だよ」
「とにかく中にお入りなさい。そのままじゃ風邪をひいてしまうわ」
「うん、でもすぐに帰らないと。母上やカルードも心配するだろうからね」
「それはそうだけど……」
「いいんだ。マリーンに会えたから」
 リュシアンはにっこりと笑った。
「俺、待っているよ」
 そう言って、懐から取り出した手紙をマリーンに差し出す。
「帰ってきたら、あの木の下で……俺ずっと待っているから」
「リュシアン……私」
 なんといっていいか分からず、彼女は目をそらした。
「まだ遅くないって……俺、信じてる。だから……」
 彼は石段を駆け降り、馬に飛び乗ると、馬上で手を振った。
「じゃあ!」
 リュシアンの馬は屋敷の門を抜け、あっと言う間に走り去っていった。道の向こうにその姿が消えるまで、マリーンはそれをじっと見送っていた。
(リュシアン……)
 いつもの朝のはずなのに、心のざわめきはいっこうに消えることはなかった。
 マリーンは手紙を開いた。
 雨に濡れてにじみかけた文字を読みながら、彼女はなにかをこらえるように微笑み、そして涙をこぼした。
 読みおえた手紙を胸に当て、石段の円柱にもたれかかると、彼女はしばらくそこを動かなかった。

 昼近くになって、フィッツウースの屋敷へ戻ったリュシアンは、馬を返すと、そのまま騎士団の稽古へ出向いた。遅刻をした上に泥だらけのリュシアンを見て、カルードが何事かと尋ねてきたが、それは適当にごまかした。
 家に戻ると、心配と怒りにやや取り乱した母のクレアが彼を出迎えた。リュシアンは素直にあやまり、昨晩はフィッツウースの家に泊まったのだと言いつくろって、なんとか母親をなだめた。
 そしてその翌日、彼はさっそくレスダー伯夫人の屋敷に出かけた。
 誰にも見られないよう屋敷の庭園に忍び込み、木立の中に分け入って、奥へ奥へと歩いてゆく。思い出のプラタナスの木の前に来ると、彼はそこに腰を下ろした。湖畔の城にいるマリーンが、はたしてここに戻ってくるのかどうかは分からなかったが、どちらにしてもいつまででも待つつもりだった。
 リュシアンはプラタナス木の幹に寄り掛かって、ひらひらと舞い落ちる木の葉を見るともなしに見ていた。
 思い出される様々な出来事を、その心に浮かべながら。
 満開に咲いたプルヌスの花の下、馬車の上で眠るマリーンに初めてキスをした。あれは、屋敷に働きに来てちょうどひと月ほどのことだったか……
 その数日後の夜、どきどきしながら彼女の部屋を訪ねて行った。もし部屋の鍵が開いていたら、自分を受け入れてくれるという約束をして。結局、彼女は部屋にいなかったが、階段のところでその声を聞き……その夜、自分は初めて女性を抱いたのだ。恋い焦がれた憧れの女性を。
(ああ……)
 あのとき、暗がりから現れた彼女の姿が、今でもはっきりと思い浮かぶ。
(マリーン……)
 リュシアンは、思い出をたぐりよせるように目を閉じた。
 やがて、この木の下で秘密の逢瀬を重ねるようになったこと。
 別れの日がやってきて、屋敷を出てゆく日のこと。
 剣技会で怪我をしたこと。パーティの日にはこの場所で、マリーンからきつい一言を突きつけられたこと。
 それらはまだ、たった数カ月前のことなのに、今ではずいぶんと昔のことのように感じられる。
 しかし同時に、そのときどきに感じた胸の高鳴り、期待や不安、それに喜びに悲しみといった感覚は、こうしていると、今でもまったく同じように甦ってくる。どこかくすぐったく、また切ないような気分とともに。
 木の幹にもたれ、リュシアンはうとうととしはじめた。
 かすかに、馬車の車輪の音が聞こえてきた。
 それはしだいに近づいてきて、また遠くなった。
 辺りはまた静かになった。リュシアンは目を閉じたまま、鳥のさえずりや、風が木立を揺らすさわさわという音を、浅い眠りのなかで聞いていた。
 かさり、と草を踏む音に、リュシアンは目を開けた。
 少しずつ近づいてくる足音……
 ゆっくりと身を起こすと、声を上げるのを恐れるように、彼はじっと待った。
 かさっ、
 すぐ近くの草音を聞いたとき、
「ああ……」
 少年は、安堵とも感動ともつかぬ息を漏らした。
「マリーン……」
「リュシアン……」
 木立の間から現れた彼女は、その場に立ちすくむように、こちらを見た。
「マリーン……」
 少年はもう一度その名を呼んだ。
「来てくれたの?」
 マリーンはこくりとうなずいた。
 少年の心に、じわりと歓喜の思いが押し寄せてくる。
「本当に?」
「だって……しょうがないもの」
 マリーンは頬を染め、くすりと笑った。
 リュシアンは、震える手でマリーンを引き寄せた。
「ああ、マリーン!」
 相手の存在を確かめるように、その体を強く抱きしめる。
「ああ……よかった。マリーン」
「リュシアン!」
 二人はまるで、何年も遠く引き離されていた恋人たちのように、互いの名を呼び合い、きつく抱き合った。
「好きだよ。大好きだよ……マリーン」
「あ、待って……、リュシア……」
 彼女は少しだけ抵抗した。だが、それも無駄だった。
「ん、んん……」
 激しく重なり合う唇と唇……
「会いたかった。ずっと、こうしたかったよマリーン」
「ああ……ああ、私……も」
 繰り返される口づけ。そして抱擁。
「ああ……、リュシアン……ん」
 マリーンの吐息をその耳に聞きながら、少年は幾度も唇を合わせ、離してはまた重ねていった。
「あ……ああ」
 マリーンががくりと膝をついた。
 リュシアンはその肩を抱くようにして、彼女を優しく地面に押し倒した。二人の体が枯れ葉の上に横たわる。
「だめ……ここじゃ、リュシアン……」
「マリーン」
 少年はじっとマリーンを見つめた。
「マリーン……いい?」
 うなずくでもなく、彼女はただリュシアンを見つめ返した。
「……」
 胴着の上から胸に手をおくと、マリーンがぴくりと震えた。
「……僕は、あなたを奪いたい」
「リュシアン……、ああ……」
「僕に奪わせて。あなたのすべてを……」
 少年の囁きが、彼女の鎧を一枚ずつはぎ取っていった。
 首筋に唇をあて、胴着に手を差し込むと、乳房の暖かな感触が伝わってくる。それを優しく撫でるように揉むと、彼女は消え入りそうな声で囁いた。
「ああ……リュシアン」
「奪って……私を。なにもかもを……」
 その腕が、すべるようにリュシアンの背中に回された。
「マリーン!」
「あっ……リュシ……アン」
 かつて逢瀬を重ねながらも、一度は少年を拒んだこのプラタナスの木の下で、
 そして今は、枯れ葉の舞い散る、同じこの木の下で、
 彼女は、再び若い熱情を受け入れた。
 風が吹き、舞い上り、
 地面に敷かれた木の葉のベッドが、二人を静かに包み込んだ。

「あ……」
 室内には、熱い吐息とともに、シーツをすべらせる音が聞こえていた。揺れる蝋燭の火が、寝台の二人をぼうっと照らしだす。
「そこ、ん……」
「ここ?」
 甘やかな息づかいと喘ぎが、しだいに高まってゆき、
「あん……リュシアン、私もう……いく」
「マリーン……僕も……」
「きて……一緒に」
 体をのけぞらせ、絶頂を迎えた二人は、重なるように寝台に倒れこんだ。
「ずっと……欲しかったよ。マリーン」
「私も……」
 満ち足りた息をつきながら、少年は隣に横たわるマリーンを愛しそうに見つめた。その唇に口づけをし、なぞるように乳房に触れる。
「あん。……まだするの?リュシアン」
「うん。だって、欲しいんだもん。ずっと入っていたいよ。マリーンの中に」
「まあ、リュシアン。あなた、そんなに甘えん坊だったの」
 マリーンはくすりと笑った。
「最近の君は、騎士らしくちゃんとして見えたのに」
「それもこれも、みんなマリーンのせいだよ」
「私の?」
「そうさ」
 にやにやと笑ってリュシアンは言った。
「僕がこんなに、あなたのことを好きになったのも。剣の修行にあけくれたのも。それから、ずぶ濡れであなたに会いに行ったのも。みーんなね」
「ふふ……そうね。あのときは本当に驚いたわ。朝早くに起きて、外に出たら君がいて。私、はじめは夢かとおもっちゃった」
「僕の手紙、まだ持ってる?」
「ええ。大切にしまってあるわ。すごく……うれしかったから」
「マリーン……」
 少年は、寝台の上でマリーンを抱きしめた。
 何度目の口づけなのか、もうわからぬくらいに、彼はまたマリーンの唇に唇を重ね、その体を求めていった。
「ああ……リュシアン……」
 絡み合う二人の足……甘い吐息と、愛の囁き、
 互いを激しく求め合う、恋人たちの時間は、いつ果てることもなく続いてゆくようだった。
「ねえ、マリーン……」
 燃えさかる時が過ぎ、満たされたまなざしを互いに向けながら、二人は寝台に横たわっていた。
「僕のこと、好き?」
「どうしたの?いまさら」
「だって、俺はもう何度も言っているのに、マリーンは一度も言ってくれたことないじゃない」
「そんなこと……いまさら恥ずかしくて言えないわよ」
「えーっ、ずるいなあ」
 毛布にくるまり向き合った二人は、くすくすと笑い合った。
「じゃあさ、一つ、聞いてもいい?」
「なあに」
「あいつ。あのなんとか伯爵は、マリーンと……その、したの?」
「いいえ」
 やや複雑な表情を浮かべ、マリーンは言った。
「モンフェール伯は……紳士だし、それに思慮深い方なのよ。結婚するまではって、私の体にはあまり触れようとはしないわ」
「へえ、本当に?」
「ええ。でも、そう……キスまではしたけど。君は?リュシアン」
「えっ、俺?」
「あの子……コステルっていったかしら」
「ああ……」
 リュシアンは、正直にマリーンに話した。
「うん。実はね……そのう、しようとしたんだけどさ……結局、出来なかった」
「……そう」
「そのときに俺、はっきりと気づいたんだ。俺にはマリーンしかいないって。俺が抱きたいのはマリーンだけなんだって」
 彼は寝台の上で上体を起こし、真剣なまなざしでマリーンを見た。
「ねえ、結婚しようよ。マリーン」
「えっ?」
 彼女は驚いた顔で少年を見た。
「結婚しよう。俺たち」
「だって……私は、君より八つも年上よ」
「だから、なにさ」
 それがどうしたといわんばかりに、彼は笑った。
「だって……君が二十二才になったら、私は……三十才になってしまうのよ」
「そんなこと関係ないよ。だって、僕が欲しいのはマリーンだもの。仕方がないじゃないか」
「でも……」
「マリーンは違うの?」
「それは……」
 困ったようにマリーンは口ごもった。
「でも、だって……結婚には、そうだわ、決まりでは二十五才になるまでは親の承諾が必要でしょ?」
「平気さ」
 リュシアンは明るく言った。
「マリーンはあと二年すれば二十五だろ。そうすれば自由に結婚できる。俺の方は、知ってのとおり親父はもういないから、あとは母上だけ。きっと許してもらえると思うよ」
「そうかしら」
「そうさ。だってこんな綺麗で、素敵なんだから。マリーンは」
 それを聞いて、マリーンはくすくすと笑った。
「それじゃ、結婚までは私達、フリーデルエーエ(同棲関係)になるのかしら?」
「それもいいね。どこかに家でも借りてさ。なんなら都市を離れて、遠い町で暮らすのもいいかもね。誰も知らない所で、二人だけで」
「二人だけで……」
 マリーン遠くを見るような目でつぶやいた。
「そう。俺は騎士の資格をとって、どこかの騎士団に入って稼ぐんだ。マリーンは……そうだな、町の学校で先生になればいいよ」
「楽しそうね」
「だろ?仕事が終わったら、家で二人で食事をして……ああ、でもやっぱり家政婦はいた方がいいかな?二人とも働いてたら家事も大変だものね。でも休日になったら、二人でどこかへ出掛けるんだ。眺めのよい湖とか川とか、草原に遠乗りに行ってもいいな。そうやってのんびり楽しく暮らして、そのうち子供もできて……」
「素敵ね……。そんなの、夢みたい」
「夢じゃないさ」
 リュシアンはマリーンの手を握りしめた。
「二人で暮らせるよ。結婚すれば。きっと」
「……ええ」
 彼女はうなずき、恋人の頬にそっと手を触れた。
 最後のキスの後、リュシアンは安心したようにあくびをした。
「ああ……なんだか、眠くなっちゃった。ここで寝てもいい?」
「いいけど……。お家は大丈夫?」
「うん。フィッツの家に泊まるって言ってあるから」
 リュシアンは毛布にくるまると、マリーンにぴったりと寄り添うように目を閉じた。少年が安らかな寝息をたてはじめるまで、マリーンはその顔をじっとながめていた。
「けっこん……」
 寝返りをうった彼の口から、ぽそりと寝言がもれた。
「結婚……しようよ。……マリーン」
 彼女は微笑み、その寝顔にやさしい眼差し向け、つぶやいた。
「そうね……」
「結婚……したいね。リュシアン」
 眠っている少年の髪をそっと撫でて、彼女は蝋燭を吹き消した。

 再び二人の蜜月が始まった。
 リュシアンは毎週の家庭教師の日を心待ちにした。学問の日は二人にとっての逢瀬の時間となった。
 しばしば彼らは、あのプラタナスの木で落ち合った。かつてのあの日と同じように、二人は木の下で激しく抱き合い、口づけを交わし、しばしの睦言を交わした後に、ようやく名残惜しそうに屋敷へ戻り、学問を始めるのだった。
 少なくともリュシアンの方は、そんな短い逢瀬で満足できるはずもなく、彼はしばしば、マリーンを庭園の灌木の迷路の奥まった所に連れ出した。そこでも二人は激しく唇を合わせ、互いの思いにかられるままに体を重ねた。
 彼の中で、マリーンへの熱情は日増しに強くなるばかりだった。
 四六時中マリーンのことを考えては、その唇や肌の感触を思い浮かべ、体を熱くする。騎士団の稽古で剣を振るときも、彼の心は、愛する女性のことでいっぱいだった。
 ただ、以前と違うのは、彼はそんなときでも、表面上は騎士らしくふるまうことを覚えていた。かつてのように、不真面目な態度で隊長のカルードに叱られることはもうなかった。
 マリーンのことで胸を焦がしながらも、リュシアンは騎士としての日常をこなしていった。そして、待ちわびた時間が来ると、その想いをぶつけるようにしてマリーンを抱いた。
 それは激しく、貪るような愛だった。
 彼女の方も、少年が自分を求めてくる、その熱い思いを、彼が望むままに受け止めた。彼女の顔には、もうかつてのような迷いや恐れは見えなかった。
 遠乗りに出掛けると、二人はたいてい日が暮れるまで帰らなかった。草原や、湖や、川のほとりで、彼らは沈みゆく夕日を見つめながらじっと寄り添い、時のうつろいゆくままに愛の言葉を交わした。
 結婚の話は、あれ以来どちらの口からも出なかった。
 マリーンの笑顔にかすかな翳りを見つけると、少年はひどく切ないような気持ちになり、そっと彼女を引き寄せた。
 何度キスをしても、何度その体をきつく抱きしめても、まだ足りなかった。
 この蜜月が、いつまでも続くことを願いながら、彼らは知っていたのかもしれない。
 時がたてば、やがて終わるはずの時間のことを……
 やがて、秋風は冷たさを増し、
 またたくまに、ひと月は過ぎようとしていた。


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