騎士見習いの恋  7/10 ページ

      

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「あら、どうしたの?リュシアン」
 何曲かが終わり、いったんダンスの輪が解けたころ、一人でいるリュシアンのもとに近づいてきたのはマリーンだった。彼女は少し踊り疲れた様子で、やや頬を上気させていた。
「さっきからずっとおとなしくしているようだけど。どうしたの?君らしくないわよ」
「別に……」
 マリーンの顔をちらりと見て、リュシアンはぷいと横を向いた。
「腕がまだ痛いの?それとも、こういうパーティが嫌い……なんてことはないわよね。君に限って」
「放っておいてよ。どうせ俺なんか……」
 マリーンはくすっと笑った。
「あらあらどうしたの?ご機嫌がななめのようね。リュシアン君」
「なんだよ。マリーンこそ、俺なんかにかまってないで、また他の奴と踊ってくればいいだろ」
 リュシアンはむっとして言うと、テーブルからワインのグラスを取り、飲み干した。
「ずつと楽しそうに、いろんな奴と踊ってたよね。フィッツにローリー、マーカスにハンジー、それにソランまで。俺のことなんか、全然気づかないふうにさ」
「あら、そんなことないわ。私、何度か君のほうを見たのよ。そうしたら、君はあの金髪の可愛い子……コステルっていったかしら?あの子と二人で楽しそうにしているから」
「だって、それはマリーンが……」
「あの子、君のことが好きなのね」
「……」
 マリーンもシャンパンのグラスをとり、それに口をつけた。
「ねえ……私達も踊る?」
「あ、ああ。うん……」
 差し出しされたマリーンの手をとると、にわかに胸が高鳴った。
(やっぱり……俺、マリーンが好きだ……)
「腕は……もう大丈夫?」
「うん。平気さ」
 音楽が始まった。二人は他の少年、少女たちに混じって踊りはじめた。
 まず互いを引き寄せ、つないだ手を上げくるりと回る。一度離れて体を回し、再び手を取って、今度は両手をつないでステップを踏む。軽快なポルカのリズムに、マリーンの顔にもリュシアンの顔にも、自然に笑顔が浮かぶ。二人は互いの目を見交わしながら、一体となって体を揺らした。
 くるくると回る度に、マリーンの長い黒髪がふわりとなびき、それがリュシアンの鼻をくすぐった。回って、離れて、回って……また手をとって引き寄せ合う。
 曲はにぎやかなポルカから、今度はワルツに変わっていた。リュシアンは、曲に合わせてそっとマリーンの肩を引き寄せた。
「ねえ……マリーン」
 体を寄せて、その耳元に囁く。
「あっちの林のほう」
「えっ?」
「覚えているよね。俺がこの屋敷にいたとき……朝の仕事の途中で、あの林の中ののプラタナスの木で、待ち合わせていたよね」
「え……ええ」
「この曲が終わったら、誰にも見つからないように行っているから。マリーン……後から来てよ」
「……」
 ワルツのリズムに合わせて踊りながら、二人は互いを見つめた。
「そんな……ダメよ。二人一緒にいなくなったら、みんなに変に思われるでしょ」
「大丈夫だよ。ちょっとの間なら。マリーンと二人で話がしたいんだ」
 マリーンの手をぐっと握りしめる。
「どうしても……二人になりたいんだ」

 パーティを抜け出したリュシアンは、誰にも気づかれないように庭園の円柱に身を隠し、隙を見て林の方に走りはじめた。
 屋敷にいた三ヵ月の間、毎日かかさず見回りをしていた庭園である。木立の奥に入っていっても迷うことはなかった。そうして一本のプラタナスの木の前にたどり着くと、少年は感慨深くその大木を見上げた。
(……ああ)
 マリーンと秘密の逢瀬を重ねたこの場所。ここに来ると、いろいろな思い出が頭の中に浮かんでくる。
 相手の姿が木々の間に見えると、たまらず駆け寄っていって抱き合った。激しく求め合った口づけも、指に絡んだ髪の感触も、彼女の吐息のひとつも、今でもまざまざと思い出せる。
(抱きたいよ……マリーン)
 高まってくる気持ちを抑えきれない。たぎるような思いに体を震わせて、リュシアンはその木を見上げていた。
 庭園の方からは、楽隊の奏でる音楽とともに、かすかに少年、少女たちのさんざめきが届いてくる。プラタナスの太い幹に寄り掛かり、リュシアンはそれを聞くでもなく聞いていた。
 かさりと、草を踏む音に、リュシアンは顔を上げた。
「あ……」
 木々の間から現れた姿を見て、安堵の笑顔を浮かべる。
「マリーン……やっぱり来てくれたんだね」
「……」
 リュシアンが手を伸ばすと、彼女はすっと体をよじってよけた。
「マリーン……?」
「リュシアン……こういうことはいけないわ」
 困ったように視線をはずすマリーンの顔を、リュシアンは苦しそうに見つめた。
「なんでさ……俺、ずっとマリーンを待っていたんだよ。マリーンと二人になれるのをずっと。マリーンがフィッツや他の奴らと踊っているのを見て、すごく悔しくて、腹が立って……それで、やっぱり俺は、マリーンのことが本当に好きなんだって思い出したんだ。いいや、本当はずっと分かっていたんだ。マリーンと別れて、家に戻ってから、剣技会で怪我をしたとき、見舞いに来てくれたマリーンの顔を見たときから、ずっと。マリーンが家庭教師になってからも、俺はマリーンだけを見ていたんだ。マリーンが欲しくて。マリーンが抱きたくて」
「リュシアン……」
 こみ上げてくる感情のままに、マリーンを引き寄せる。彼女は逃げなかった。
「マリーン!」
 強くその体を抱きしめると、温かなぬくもりに、なにもかもがこれで正しいのだと、そんな風に思えてくる。
「ああ……マリーン」
「リュシアン、そんなに強くしたら、腕がまた……せっかく治ったんだから……」
「好きなんだ。マリーン……俺、やっぱりマリーンが好きなんだ」
 抱きしめる腕に自然と力が入る。
 だが唇を求めて顔を寄せると、マリーンはそれを拒んだ。
「だめよ。リュシアン……」
「どうして……さ」
 驚いたように、少年は腕の中の相手を見た。
「だって、俺たち……もう」
「だめ」
 静かな声だった。
「私は、君の家庭教師だわ。今でもそう。君は私の教え子で、私は君の先生なの」
「そんなこと、どうだって……」
「いいえ。大切なことよ。リュシアン」
 彼女はリュシアンを引き離すように、少年の両肩にそっと手を置いた。
「君の家庭教師になったときに言ったでしょう。私は君のために学問を教えて、君が立派な騎士になるためのお手伝いをするって」
「だから、何さ?」
 少年は納得できずにただ首を振った。
「マリーンは僕の先生だから、僕はあなたを好きになってはいけないっていうの?僕はあなたの教え子だから、あなたはもう僕のことなんか、何とも思わないっていうわけ?」
「違うわ。そうじゃない。私はただ、本当に君の将来を……」
「そんなもの……くそったれだ!」
 リュシアンは木の幹を蹴り付けた。
「それじゃ、カルードと同じじゃないか。僕の将来がどうとか、立派な騎士になれとか、そんなの僕の勝手だろう。僕が誰を好きになろうと、誰を抱きたいと思おうと、みんな僕の勝手じゃないか。それじゃダメなの?」
「……ダメよ。リュシアン。だって、私は……私は、君よりもずっと年上で、君の騎士団の隊長の姉なのよ。そして今は、君の家庭教師です」
 マリーンは唇を引き結び、それから言った。
「私は……」
 穏やかな口調だったが、
「……私は、君とは結ばれない女なの」
 それははっきりとした決別の言葉だった。
「マ……」
 リュシアンは言葉を失った。
「ごめんね。リュシアン」
 呆然となる少年から目をそむけ、彼女はつぶやくように言った。
「そんな……」
 ふらふらと倒れるように、彼はプラタナスの木の幹に手を付いた。
 涙は出なかった。ただ、無性に頬が熱い。
 今さっきのマリーンの声が、耳にこびりついて離れない。
(ごめんね……)
(ごめんね)
 風が吹き、さわさわと木々の梢が揺れた。
 さっきまで聞こえていたワルツの響きが小さくなり、やがてやんだ。
 リュシアンは駆けだした。
 その思い出の木から逃げるように。

 庭園に戻ると、もうダンスの時間はとうに終わっていて、少年たちはめいめいに、仲よくなった少女たちと談笑をしていた。
「長い用足しだったじゃんか、リュシアン」
 ふらふらと歩いて来たリュシアンを見て、フィッツウースは口元を歪ませた。
「なんだ、しけたツラして。まるで女にフラれた時みたいだぞ」
 リュシアンは黙って芝生に腰を下ろした。
「おい……そういやマリーンもいなかったし、お前、もしかして」
「……ああ、マリーンと会ってた」
 それでフィッツウースは何事かを察したようだった。
「そうか……」
 それ以上はもうなにも尋ねなかった。
 周りでは、芝の上に腰掛けた騎士見習いの仲間と少女たちが、楽しそうな笑い声を上げている。それをぼんやりと見渡しながら、リュシアンは訊いた。
「カルードは?」
「ああ、さっき、おっ母さんの伯爵夫人に挨拶に行ってくるとか。パーティもそろそろお開きだとよ」
「そうか」
「お前はいいのか?夫人に挨拶に行かなくても。ずっと世話になっていたんだろ」
「ああ。そうだね。じゃあ……あとで行こうかな」
 ぼんやりとそう言って、リュシアンは空を見上げた。
 西の空は、すでに黄昏のはじまりを告げるように赤く染まりだし、黒鳥のもの悲しい鳴き声が風に乗って聞こえてくる。
「まあ、いろいろ仕方ないこともあるわな。ほら、飲めよ」
 膝をかかえるリュシアンに、フィッツウースは残っていたシャンパンの瓶を差し出した。
「……」
 リュシアンはそれを受け取り、瓶のままがぶりと飲んだ。
 庭園に戻ってきたカルードがパーティの終わりを告げた。楽隊が去り、侍女たちがテーブルを片づける。これですべてがお開きだった。そこにはマリーンの姿もあったが、リュシアンは一度も目を合わせなかった。
 少女たちはやって来たときの馬車に、少年たちはカルードが手綱をとる屋敷の馬車に、それぞれ乗りこんだ。だが、コステルだけはまだ一人馬車に乗らず、リュシアンが来るのを待っていた。
「ねえ、リュシアン……私を送っていってよ」
 コステルはそう言って、薄く頬を染めた。
「ね、いいでしょ。私、リュシアンの馬車に乗ってみたいな」
「うーん、でもなあ……」
「いいじゃない。それに私の家、リュシアンのお家からもそんなに遠くないのよ」
「どうした、乗らないのか?二人とも」
 門の前で困ったようにしていると、馬車の上からカルードが声をかけてきた。リュシアンが訳を話すと、カルードは小型の馬車を借りられるよう、執事に言いつけてくれた。
「じゃあ気をつけてな、リュシアン」
 コステルを隣に乗せ、手綱を取ったリュシアンが馬車を出すと、横に並んだ馬車からカルードが声をかけてきた。そこに乗っていた少年たちが馬車窓から顔を出し、手を振りながら口々に言った。
「うらやましいぞ、このっ」
「彼女を襲うなよ、リュシアン」
 それに適当に手を振り返し、リュシアンは馬車の速度を上げた。
「わあ、さすがね。とってもうまいわ」
 隣の座席でコステルが感心したように声を上げる。それが、少しいい気分だった。
 夕焼けに向かって馬車を走らせると、右手には丘の上に王城の尖塔群の影が、暮れなずむ黄昏の空を背景にして美しく浮かび上がる。
「きれい……」
 コステルがうっとりとつぶやく。
 二人の馬車は、規則正しい車輪の音を響かせて、石畳の道を進んでゆく。
「ねえ、リュシアン」
 隣に座るコステルが、じっと自分を見ていた。
「リュシアンは……マリーンさんのことが好きなのね」
「えっ」
 思わずリュシアンは横を見た。コステルはくすくすと笑っていた。
「そんなの分かるわよ。だってリュシアン、いつもあの人の方を見ているじゃない」
「そ、そんなこと……」
「それにほら、あのトーナメントの試合のあとも、医務室で一緒にいたでしょ」
「いや、あれは僕をお見舞いに来てくれて……、屋敷ではいろいろとお世話になっていたし」
「そうね。そうよね」
 コステルは、座席で肩に触れるくらいにリュシアンに近づいた。
「だって何ヵ月か、ずっと一緒のお家で暮らしていたんですもんね。好きになって当然……だって、あんな素敵な人だもの」
「……」
 こうして手綱をとりながら、コトコトという車輪の音を聞いていると、マリーンと一緒に馬車に乗ったあの頃が思い出されてくる。
(そういえば、はじめてマリーンとキスをしたのも、この小型馬車の上だったっけ)
「リュシアンは、」
「まだ……好きなの?マリーンさんのこと」
 コステルの声に、今自分の横にいるのはマリーンではなく、蜂蜜色の髪をした少女であることを、リュシアンは思い知った。
「……」
 マリーンとの間にあった様々なことを、この少女が知るはずもない。また、いちいち説明することもしたくはなかった。
 黙り込んだリュシアンをちらりと見て、彼女はつぶやいた。
「でも、でもね、……それでも、いいの」
 うつむいた寂しげな横顔が、なんとなくいじらしい。
「私のことは、嫌い?」
「……」
 頭の中で、別の自分が「冷静になれ」と叫んでいる。
 だが、彼の若い体は、隣に少女のぬくもりを感じて、知らず高ぶりを覚えていた。
「ねえ……、リュシアンは、キスしたことって、ある?」
 肩を寄せて、コステルが囁くように言った。
 頭の中がぐるぐると回る。そんな気がした。
 さっき飲んだシャンパンのせいだろうか。なんだかひどくのどが渇き、手綱を握る手に汗がにじんでくる。
「私はね、まだないの……」
「……」
 暗くなってゆく周りの景色に目をやる。コステルの屋敷はまだだろうか。道の先には暗がりが広がり、辺には人影もない。
「ねえ……」
「コステル、僕は」
 言いかけたとき、ガタンと大きく馬車が揺れた。
「きゃっ」
 車輪が石畳の角に乗り上げたのだ。とっさに、よろめいたコステルの体を抱きとめる。 
「あ、ありがと」
「……」
 抱きしめたまま、リュシアンはじっと相手を見つめた。
「リュ、リュシアン。どうしたの?こわい顔してる。あっ……」
 ぐいと引き寄せると、少女は小さく悲鳴を上げた。
「リュシ……アン」
 驚きと恐れの混じった顔で、コステルが自分を見上げている。ピンク色の唇がかすかに震えていた。
「……」
 コステルがまぶたを閉じた。
 そのとき、リュシアンの中でなにかがはじけた。
「んっ……」
 覆いかぶさるように、彼はコステルの唇に唇を重ねていた。
「んん……」
 あごを持ち上げ、さらに深く唇を重ねると、その口から吐息が漏れはじめた。彼女の手が、おずおずとリュシアンの背に回される。
「……」
 唇を合わせたまま、きつく目を閉じているコステルの顔を見る。
(俺は、何をやっているんだ……)
 ぼうっとしている頭のどこかで、冷静な自分がいた。
「あ、リュシ、アン……」
 唇を離すと、耳元にコステルの吐息混じりの声が響く。
「好き……」
 まるで、その囁き声が恐ろしいかのように、
 リュシアンは何度もその唇を押し当てていった。

 翌朝、頭痛とともに目を覚ますと、彼は若干の自己嫌悪とともに昨日のことを思い返した。
 楽しいはずのパーティが、嫉妬や失意の苦しみに覆われてしまった。おまけに、コステルに対しても乱暴なことをした。これも飲みすぎたワインとシャンパンのせいだ。
(私は、君とは結ばれない女なの……)
 今思い出しても、その言葉はグサリと胸に突き刺さってくる。
(マリーン……本当に、もうだめなんだろうか?)
 彼女のことを思い出すと、今もやりきれないような切なさが突き上げてくる。
 しかし……
(あれ、どうしてだろう……)
 ふと、リュシアンは不思議に思った。
(なんだか、俺は、前より少し落ち着いているみたいだ)
 以前なら、マリーンのことを思うだけで胸が熱くなった。彼女の言葉一つに一喜一憂し、腹を立て、悲しんだりしていた。彼女を思うだけでとても胸が苦しく、食事もとれなかった。
 そんなあの頃の気分とは、今は少し違うようだった。
 それが時間の中で生きているということ。時間という回復薬の確かな作用なのだと、カルードかフィッツウースでもあれば、そう言ったかもしれない。
 起き上がって木窓を開けると、朝の陽光が部屋に射し込んでくる。大きく息を吸い込むと、眠っていた体のすみずみが起き出すような、そんな新鮮な心地がした。
(そうだ。落ち込んでいたって始まらないよな)
 窓の外から、午前の三点鐘を告げる鐘の音が聞こえてくる。
「いけねっ。今日から普段どおりに稽古に出るんだった」
 復帰して初日から遅刻したのでは、カルードにたっぷりと説教をくらってしまう。リュシアンはあわてて着替えを始めた。
 右腕はもうまったく痛くはない。稽古用の革の鎧を着込み、愛用の木剣をひっつかむと、彼は部屋を飛び出した。
「やあ、来たなリュシアン」
 夏の日差しもやわらぎはじめた庭園を走り抜け、稽古場に来ると、すでに騎士団の面々が整列して待っていた。
「遅刻ぎりぎりだな」
「はい。すみません」
 頭を下げるリュシアンに、カルードはにやりと笑った。
「お、素直な返答だな。お前もやっと礼儀を身につけたようだな」
「おかげさまで」
「腕は大丈夫か?」
「もうすっかり治ったよ。……いや治りました、隊長」
「よし。ではいつものように整列。まずは広場を三周だ。体操のあと剣の素振りから始める」
 隊長の号令で、騎士たちと見習いたちが隊列をなして走りだす。
「よう、リュシアン。二日酔いか?」
 横に来たフィッツウースがいつものように声をかけてきた。
「ああ、まあな。お前は平気なのか?」
「ばーか。あのくらいの酒で酔う俺様じゃねえぜ。お前が女なら、とっくに俺に落とされてたな」
「うへっ、それは勘弁……」
 リュシアンは眉をしかめた。二人は顔を見合わせて笑い合った。
「よし、今日はここまで」
 午前の稽古が終わった。久しぶりの稽古は意外にも楽しく、体を動かして剣を振ることが、今のリュシアンにはとても心地よかった。
「よう、リュシアン。俺たちこれからソランの家に遊びに行くけど、お前どうする?」
 片付けのあと、フィッツウースと一緒に、何人かの仲間が声をかけてきた。
「ああ、行きたいけどさ……」
 しかし、今日は家庭教師の日だった。リュシアンの腕が良くなってからは、自宅ではなく伯爵夫人の屋敷で部屋を借り、そこで勉強をしている。必要な書物などが揃っていることから、マリーンが提案したことだった。
「ああ、そうか。今日はおベンキョーの日なんだっけ、お前」
 そう言ったフィッツウースに、横にいたソランが目を輝かせる。
「リュシアンは、あのマリーンさんに教わっているんだよな。いいなあ。綺麗だよなあ、マリーンさん……」
 ソランたちが馬車に乗り込むのを見送りながら、リュシアンは憂鬱なため息をついた。昨日のこともあるし、どう考えても、マリーンの顔を見ながら学問などする気分ではなかった。
(今日はサボるか……)
 道を歩きながら、ぼんやりとリュシアンは考えていた。
 家の近く通りまで来たとき、そこに見慣れない一台の馬車が止まっているのに気づいた。二頭立ての小型馬車であるが、車体には紋章が刻まれ、鹿毛の馬の毛並みも見事な高級そうな馬車であった。
(なんだろう。うちの客じゃないだろうしな)
 見知らぬ馬車を横目に、前を通りすぎようとすると、扉が開いてそこから誰かが降りてきた。
「リュシアン」
 おずおずとした声に振り向くと、彼の前に立っていたのはコステルだった。
「あの……、待っていたの」
 うすく頬を染め、彼女はうつむきかげんに言った。
「俺を?」
「ええ」
 もじもじとうなずくコステルを、リュシアンはやや戸惑いながら見つめた。酔っていたとはいえ、半ば強引にしてしまったあの行為は、いくぶんの罪悪感を彼の心にもたらしていた。
「ええと、その、昨日は……ごめん」
「どうして、あやまるの?」
 コステルが首をかしげた。
「いや、その……」
「キス、したこと?」
 彼女の目が、じっとこちらを見ている。
「うん。……その、いきなりあんなことしちゃって」
「ちょっとびっくりしたけど……私、初めてだったし」
 コステルはぱっと頬を染めた。蜂蜜色の金髪を三つ編みにしてリボンで束ねた彼女は、いつにも増して可愛らしく見える。
「でも、いいの……」
 そう言って微笑むと、彼女は手を差し出した。
「ねえ、来て」
「え?どこへ」
「家に。ね、いいでしょ?」
 リュシアンは一瞬ためらったが、彼女に手を引かれるままに馬車に乗った。
(いいさ。どうせマリーンだって、俺に会いたくはないだろうし)
 座席に座ると、昨日のようにコステルが肩を寄せてきた。
 馬車が発車する。すると、少しだけ楽な気分になった。
 なにかから逃れるときの解放感のようなものが、少年の心にあいた穴を、少しずつ埋めていった。

 九月になった。
 安閑と暮らしていた都市の人々は、夏が終わり涼しくなるこの季節になると、ようやく時のうつろいを感じはじめるように、物事を実際的に進めるようになる。
 騎士たちは、この数カ月で一年の成果を発揮しようと稽古に精を出し、貴婦人たちは己の美貌に磨きをかけるために服や宝石をかき集め、少しでも上流の貴公子にもらわれようと、舞踏会や晩餐会に足しげく出掛けてゆく。そして雇われ炊婦や侍女たちは、冬の休みまでにより多くの給金をもらわなくては生きていかれないと、いっそうきびきびと働き始めるのであった。
 そんな周りの空気が影響していたわけではないだろうが、リュシアンも、彼の人生で初めてといってよいほどの勤勉さを見せていた。
 稽古に復帰した最初のうちこそ、ときどき腕の傷跡を辛そうにしていたが、暑さがやわらぐ頃には、すっかり他の見習いたちと同じくらいに動けるようになり、今では剣を振る回数も、乗馬の熱心さにおいても、隊の中で彼を上回る者はいなくなっていた。
 稽古が終わると、週に一日はレスダー伯夫人の屋敷で、マリーンから学問を習った。それまで週に三日だった家庭教師の日は、リュシアンの申し出で週に一日だけになった。彼は騎士団の稽古を優先させたいとカルードと母とに伝え、二人ともそれを了承した。
 はじめは、週に一日の家庭教師すらも苦痛だった。はっきりと拒絶の言葉を聞かされたあの日から、マリーンの顔を見ながら勉強をすることなどは到底できないと思っていたが、時というのは心の痛みを埋めてゆくのに、少しづつでも確実に作用した。もううんざりだと思っていた学問の時間にも、彼はしだいに耐えられるようになった。机をはさんでマリーンと向かい合い、ちらりと目が合うだけで胸が痛くなることはもうなくなった。
 カルードや母のクレアは、そんなリュシアンの真面目さには驚きつつも、やはり喜びを隠せなかった。彼女は母として、カルードに心からの感謝を表し、レスダー伯夫人やマリーンに宛てて、ありったけの謝辞を込めた手紙を送った。
 リュシアンは変わった。誰もがそう思っていた。
 カルードやクレアだけでなく、騎士隊の仲間……とくにフィッツウースやソランなど、もともと彼と仲の良い連中は、この数カ月で驚くほど剣も強くなり、それだけでなく、なにか顔つきまで変わったようなリュシアンを、ある種の感嘆を込めて見ることもあった。少し痩せて、背が伸びたことも影響していたかもしれない。いかにもやんちゃな少年めいていた以前よりは、彼の顔はずっと精悍さを増していた。
 そんな親友の変貌の要因について、たいていの事情を知っていたフィッツウースは、リュシアンに新たなガールフレンドができたことをとても喜んだ。彼はまた、恋の相談役としても有能だったので、コステルとのことを話してくるリュシアンに、いろいろとアドバイスを送ってやったりした。
 じつのところ、若いリュシアンの肉体は、マリーンによって一度知ってしまった肉体への欲求を、抑えるのにうずうずとしていた。コステルを抱くということがどういう意味なのか、彼には分かっていた。宮廷貴族の男子は、十六になれば結婚が許されている。
(結婚か。コステルと、結婚……) 
 フィッツウースにその話をすると、友人は少し驚いた顔になり、「まあ、それもいいかもな」と答えたのだった。
 リュシアンは、一刻も早く大人になりたいと願っていた。それはとても切実な願いだった。
 もっと剣が強くなりたい。もっと背が高くなりたい。もっと、人に認められたい。そう思いながら、リュシアンは毎日、懸命に剣を振った。まるで、何かに急かされてでもいるように。
 少年という名の殻を、彼はそうして、他の仲間たちよりもひと足先に、脱ぎ捨てようとしていたのかも知れない。
 学問の時間に、リュシアンはふと、机の向こうに座る女性を見つめるときがあった。
 もし、自分がコステルと一緒になると言ったら、彼女はどんな顔をするだろう。ただ笑って、「おめでとう」とでも、言うのだろうか。それとも……
 そんなことを考えるとき、不意に彼は切なさにとらわれる。机の前で「彼女」が顔を上げると、いそいで羽ペンを羊皮紙の上に走らせる「ふり」をしなくてはならない。
 マリーンは何も言わない。まるで、リュシアンの心がどこにあるのか、ただ知らぬふりをするように。
 二人の時間は過ぎていった。
 ただし、二人の止まった時間はもう、動きだすことはなしに。


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